EP.41 京都府大会
目が覚めたのは、二時を少し回った頃だった。
アラームが鳴るよりも早く、意識が浮上してしまったらしい。カーテンの隙間から差し込む光はなく、外はまだ夜の帷が降りている。時計の数字だけが、やけにくっきりと見えた。
正直、あまり眠れなかった。
理由を考えなくても分かる。昨日の夜のことが頭の中から離れなかった。
思い出そうとしなくても、ふとした拍子に彼女の慟哭と泣き顔が浮かんでくる。隆翔はそれ以上考えるのをやめ、布団から身体を起こした。
零時を回って、本日は八月四日。吹奏楽コンクール京都府大会当日となった。
昨日は何時に寝たか覚えていない。気が付いたら目を閉じていた。
熱帯夜特有のじっとりとした湿気に不快感を覚える。
窓を少し開けると、夜中だというのに蝉の声が飛び込んできた。夜明け前から鳴く蝉に、どうして四六時中わんわんと鳴けるのか、毎年のことながら感心してしまう。
夏休みに入っても、世界はいつも通りに回っている。その当たり前の光景が、今日は妙に遠く感じられた。
制服に着替える。六月に夏服へ衣替えしてから久しく来ていなかった長袖のシャツを纏う。舞台に立つコンクールメンバーは冬服が指定されている。会場に着いたら学ランも羽織る必要があった。
この時間、当然母はまだ寝ている。この後会場まで観に来ると言っていたので起こさない方が良いだろう。隆翔は物音を立てないよう慎重に玄関の扉を閉めた。
当日は午前三時集合を言い渡されていた。あまりにも早すぎる。それも楽器運搬用のトラックに楽器を積み込むためだが、朝というより夜といった方が正しいだろう。
学校に到着すると、すでに何人かが楽器を動かしていた。パーカッションの後輩たちは、男子を中心にティンパニやバスドラム、グロッケンなどの大物を、声を掛け合いながら運んでいる。九十名以上が集う吹奏楽部だが、家が遠い部員を除いて男子は早々に集結していた。悲しい哉、女子社会で唯一男子が活躍できる場であることも影響しているのだろう。運搬は体力を使う。汗が額を伝った。
隆翔は自分のフルートケースもトラックの荷台へ預けた。
肌身離さず持っている相棒を一度手放す感覚は、心の奥に小さな引っかかりを残すようで多分永遠に慣れないだろう。
楽器搬出が終わると、すぐに学校が用意した大型バスへと移動した。
指定された席に腰を下ろす。隣にはサンライズフェスティバルの時と同様、沙里が座っていた。
「おはよ」
「おはよう」
「やっぱ、眠いよね」
「そりゃ、まだ五時とかだもんな。ちゃんとバスで寝ておけよ」
短い挨拶を交わす。
周囲にはフルートパートの同期や後輩たちが自然と集まっていた。あまりに早い時間なので、みんな一言交わしたら早々に目を閉じてしまった。
隆翔も目を瞑ったが、呼吸が浅いような気がして眠れず、鞄から楽譜を取り出した。
最後のページ、最後の小節。
音はもう、頭にも身体にも入っている。それでも無意識に指だけが動きをなぞっていた。キーを押さえる感覚を確かめるように、膝の上でそっと。
バスがゆっくりと動き出す。
校舎が遠ざかっていく。
その時、ようやく本番の実感が湧いてきた。
じんわりと、逃げ場のない現実として。
一年生や二年生がすでに眠りに落ちていて、首をかしげたり、前の座席にもたれかかったりしている。規則正しい寝息がエンジン音に溶け込んでいた。
ほとんどの三年生は起きていた。眠れないのだろう。
目を閉じていても意識は覚醒したままで、誰もが自分と向き合っているように見えた。今日がどういう日なのか、全員が分かっているから。
隆翔もまた、背もたれに身体を預けながら、目を閉じていた。
それでも、やはり眠気は落ちてこない。
頭の中で、自分が吹くメロディを何度もリピート再生していた。
バスは市街地を抜け、京都コンサートホールの敷地に入った。
建物に円柱がめり込んだ特徴的なデザインやエントランス前の噴水を目にした瞬間、いくつもの記憶が蘇った。
去年の夏。マネージャーとして、この場所に帰ってきた。
そしてさらに遡って、中学二年生の夏。退部届を胸ポケットに秘め、あの噴水の前で音楽から距離を取ろうと決断した。
すべての記憶が一本の線で今につながって、気が付けばいま、自分はここにいる。
そして今年、隆翔は高校で最初で最後のコンクールに挑む。ファースト奏者として、最後の音を次へ繋いでいくソリストとして。
胸の奥で、静かに火が灯った。
怖さよりも、奮い立つ感覚のほうが勝っていた。
ホールの駐車場には、何台もの大型バスが駐車されている。
午前七時。前半に演奏する各校の吹奏楽部員が忙しなく搬入準備に追われている。楽器ケースや打楽器が次々と運ばれていく。スタッフの指示、車輪の軋む音。まだ本番前だというのに、空気は張り詰めていた。
楽器を持って裏口から入ると、その雰囲気は顕著に現れていた。
微かに他校の視線を感じる。
去年と一昨年、このホールから二年連続で関西大会へと進出した古豪。立華や龍聖と向けられる視線を受けるのは当然だった。
そんな視線に晒されながら、いそいそと楽器を運んでいたその時だった。
「樟葉先輩、ですか……?」
はたと振り返ると、スラリと背中まで伸びたロングヘア。そして、気の強さをそのまま形にしたような釣り目。
特徴的な容姿に、隆翔の記憶が掘り起こされた。
「もしかして、村上……?」
「はい。お久し振りです」
リハーサル室に繋がる狭い通路。そこで邂逅した女子生徒は、北中の後輩、村上
彼女とは四年振り、それこそ隆翔が中学二年生で退部して以来のこととなる。あの頃の村上はまだ小学生のような幼さがあった。しかし、今隆翔の前に立つ彼女は黄前と同じくらいの身長で、高校生らしい垢抜けた姿がそこにはあった。
「先輩、ここにいるってことは演奏するんですか?」
「そうだよ。村上は……制服からして洛秋かな」
「はい、その通りです。北宇治に比べたらそんなに強くありませんけど」
中学一年生だった頃の彼女は、こんなに饒舌ではなかった。周りと迎合することもなく、ただひたすらに自分の技術を磨く。先輩たちが苦心していたのを思い出す。
「先輩、まだフルートを吹いてるんですか?」
「え? うん」
「北宇治で?」
「……そうだけど」
「そうですか……てっきりもう辞めたものだと思ってました」
「まあ、色々あってね」
「じゃあ、内藤先輩と一緒ですね」
村上の口から、かつての同期の名が語られる。彼女は去年、梓の仲介によって再会する事ができた。
「内藤にも会ったのか」
「はい。今でも仲良くさせてもらってます。樟葉先輩が北宇治に行ったのもそれで知りました」
「そっか……」
かさぶたが剥がれるようなピリッとした感覚。
四年前、内藤秀と隆翔の中学二年生組が全員辞めたことにより村上は孤独な時期を過ごした。彼女の後輩が入るまでの半年間、フルートパートは彼女一人だけになってしまった。
北中吹奏楽部が最も歪んだ時期であった。その発端となったのはあの先輩の愚行であるのだが、隆翔が辞めてしまうことは想定外だったようだ。高坂が引き止めてくるのも当然ではあるが、当事者たちの間にいた村上は抵抗があったのかもしれない。
ともかく、混沌とした期間の中心にいた彼女は、あの騒動の被害者であることに変わりはない。今、高校二年生となった村上秋樹と再会し、その渦中にいた彼女へ自責の念がないと言えば嘘になる。
「ごめんな。辞めちゃって」
「まあ、あの時は正直驚きました。当時の三年生も、府大会で撃沈して引退が決まっていましたし、真面目な樟葉先輩となら立て直せると、どこかで期待してましたから」
「内藤とはどこで?」
「先輩が卒業する前、最後の定演を観にきてくれて、その時声を掛けてくれたんです。そこで連絡先も交換して……」
「そうだったんだ」
「先輩はあの定演、来てくれませんでしたね」
「あはは、まあ、吹部とはほとんど喧嘩別れみたいなもんだったし」
むしろ、退部したあとで顔を見せた内藤は心臓に毛でも生えているんじゃないか。隆翔は内心で独りごちた。
通路の先で、洛秋の生徒に集合がかかったようだ。
「では先輩。私はこれで」
「ああ、どこかでまた。お互い良い演奏をしよう」
「……違いますよ」
「ん?」
「今度は関西で。先輩の演奏、楽しみにしてます」
村上はそう言って微笑むと、踵を返して洛秋の集団に混ざっていった。
彼女も正装であった。ということは二年生にしてコンクールメンバーに入っているということだ。今もフルート一筋ならば、相当な実力者になっていることだろう。
彼女の実力を正当に図ることができる洛秋高校、当然ではあるが、侮ることはできないだろう。
時計の短針が八時を指す。
本番まで、一時間を切っていた。
◇◆◇
舞台上でリハーサルを終えた北宇治の一行は、再びリハーサル室へと戻ってきていた。
ここで最後の音出しをして、扉が開けばあとは本番が待っている。
一番手が前年の関西大会出場校という触れ回りは相当のものなようで、このあとに演奏を控える学校や生徒の保護者、多数の吹奏楽ファンで客席は既に満たされている。
それだけ期待されている。悪い気はしなかった。
今日演奏する数多ある学校の中から、関西大会へ進むことができるのはたったの三校だけだ。
不思議なものだ。四年前、初めてあの舞台に立った時は上の大会に行けるなんて夢のまた夢だと思っていた。先輩たちはみな「全国大会出場」を謳っていたけれど、それは通過儀礼みたいなものだ。実際に行けると思っていた人はよっぽど世間知らずな一握りだったろうし、当然隆翔はダメ金が積の山だと思い込んでいた。
しかし時を経て、一年の内かなりの時間を音楽に費やしてきた。
楽しいことなんて殆どなかった。ただ、フルートを吹く理由がすぐそこにあっただけだ。
希美がいたから、今の自分はここにいる。
希美がいたから、上へ上へと昇っていける。
リハーサル室は分厚い扉で外と隔絶されている。
しかし、外に待機する次の学校から、形のない重圧が確かに伝わってきている。
「では、出だしの部分、何度かやります」
いくら防音性の良い扉とはいえ、完全に音を防ぎ切ることはできないだろう。だったら、彼らを萎縮させるほどに良い音を聴かせてやろう。
滝が手を上げる。それに反応して、隆翔もリッププレートに顔を寄せる。
春から、何度も何度もこの音を繰り返してきた。
もう考えなくとも、体が勝手に滝の求める音を出すことができる。
気になる箇所をピックアップして最終調整を行う。まるで左官職人が漆喰を綺麗に慣らすように、音の一粒一粒を調節していった。
腕時計をチラリと見て、全員と目が合うように室内を見渡した。
「いよいよ本番ですね。今日という日のために、皆さんはたくさんの努力をしてきました。全国大会金賞という目標を掲げてここまでやってきましたが、このステージは第一歩目です。油断はいけませんが、皆さんならやり遂げられるということを私は知っています。記念すべき、コンクールの一番目。審査員や観客に、今年の北宇治はひと味違うというところを見せつけてやりましょう」
『はい!』
滝の激励に総員奮起する。血が沸るとは、きっとこの事を言うのだろう。
滝は、樟葉隆翔という奏者を拾ってくれた。そしてマネージャーを辞めた時も見捨てなかった。彼のモットーである生徒の自主性に鑑みれば、来る者拒まず去る者追わずを体現するだろう。それでも隆翔がここにいるのは、休部した隆翔を必要としていたからだ。
彼には恩義がある。
だから、全国に行く。そこで金賞を獲る。それが最大の恩返しにしようと、隆翔はじんわり決意した。
「では、声掛けがあればお願いします」
滝の言葉に、高坂が一歩前に出る。何か発破をかけるのは、いつも彼女の役目だった。
「私にとっては、これが三度目の府大会です。春からキツイことも言ってきたし、しんどい思いもさせてきたと思います。それでも、きつい練習も辛い思いも、全て今日のためです。絶対後悔しないよう、頑張っていきましょう」
『はい!』
威風堂々、高坂らしい言葉運びだった。滝の時よりも返事の威勢が良かったのは気のせいではないだろう。
「部長」
「うん」
秀一に促され、黄前が部長として、あの儀式を行う。
「それでは行きます。北宇治ファイトー!」
『おー!』
全員の拳が突きあがる。確たる意志と高揚感の籠った咆哮に空気が振動した。ただの演奏ではない。最後の夏が、最後のコンクールが、今幕を開けようとしている。
合奏において、その責務の重大さと仲間への信頼は頂点に達している。隆翔の常に隣を歩んできた沙里。赦しと挽回の機会を与えてくれた小田と中野。南中プライドを持って一年生を精力的に指導してくれた江藤と平石。精神安定性で言えばパートピカイチの山根。そして、新たなエース候補として名乗りを上げ、スランプを乗り越えた吉田。その吉田を陰ながら支えた水井。
どれか一つ欠けていても、このパートは成り立ってはいなかった。隆翔はこの仲間を誇りに思う。きっと、これから先どんな出会いがあろうとも、このフルートパートに敵う絆は生まれないだろう。
「北宇治高校のみなさん、どうぞ」
満を持して、舞台につながる扉が開かれた。この暗幕の先に、眩しく、熱いあの空間があった。気を抜いてしまえば浅くなりそうな呼吸に気を配る。鼻から新鮮な空気を肺に取り込むと、視界がクリアになった。
「今回もあれ、やる?」
「いいですね、やりましょう!」
暗幕の奥では、皆思い思いに言葉を交わしている。フルートパートは、いつからか本番前に全員で円陣を組むようになっていた。今回は沙里が自ら後輩たちに呼応していた。
加わった隆翔に遅れて、小田と中野も輪に入る。
「今回誰がやるの?」
「やっぱリーダーでしょ」
「え、私!?」
「いいじゃん。沙里、やりなよ」
えー、と戸惑いつつも、一度咳払いをして手を中心に伸ばした。それに合わせ、隆翔たちも手を重ねる。
「絶対、金獲って帰ろう! 私たちの夏はまだ始まったばかりなんだから!」
『はい!』
「フルートパート、ファイッ‼」
『オー!』
掛け声と同時に手が頂点へと掲げられる。
ここにはA編成もB編成も関係ない。すべからく、この場所に集った愛おしい仲間だ。
特に、沙里が背負ってきたものを、ここで終わらせるわけにはいかない。
まずはこの一戦、一層奮励努力すべしと、胸に刻んだ。
「緊張してる?」
「そんな風に見えた?」
「ううん。笑ってるし、大丈夫かなって」
「ご明察。多分、今までの音楽人生で一番高揚してる」
「そっか」
沙里は納得すると、不意に隆翔の手を取った。
突然の動作に固まっていると、沙里が慈しむように微笑んだ。
「冷たい。それに震えてる」
責任感による重圧。自ら甘える選択肢を排除して練習に挑む姿は、みんなが見ていた。特に、常に周囲を気遣うことに長けた沙里は、隆翔が潰れてしまわないか目を配っていた。
本番が近づけば近づくほど、隆翔は自らを縛り付けた。
今、自分がここにいるのは人に恵まれたから。切り捨てる事もできたはずなのに、その選択をしなかった人がいたから。
人を思いやることができるのは隆翔の美点だ。しかし、血の気が引いてしまうほど抱えてしまうのも彼の美点ではあり、欠点だった。
「この一年、君の事を見てきたから分かるよ。一人にした途端、やたらと背負い込むこともね」
「……ははは、降参。やっぱ沙里には敵わないわ」
「じゃあ、ここで本番の極意を教えて進ぜよう。これは一年生の頃から数々のコンクールを経験してきた私の事だから、心して聞くように」
「なにそれ」
「いいから聞いて。私は隆翔くんに、一回きりの本番を楽しんで吹いてほしい。つらいことはこの瞬間のためにあったって思いながら、のびのびと演奏してほしい」
「……沙里」
「大丈夫、ちゃんと支えるから。最後の小節にちゃんと送り出してあげるから」
「ああ……」
「希美先輩は来てるの?」
「いや、今日は来てない。多分、関西は来てくれると思う」
「じゃあ、ここで終わっていられないね」
「もちろん、そのつもりだ」
狭まっていた視界がさっと広がった。
「北宇治、行くよ」
暗幕の先から漏れる煌々とした灯りの前で、黄前が手を挙げる。いよいよ、ステージに立つ瞬間が訪れる。
沙里の手が離れる。いつしか震えは止まっていた。
去年の関西大会でもそうだった。隆翔が重圧に苦しむ希美に手を差し伸べたからこそ、彼女は会心の演奏をした。
人から人へ、想いは伝播していく。
怖さを知って、人は優しくなれる。
弱さを知って、人は強くなる。
その生き様は、生涯を終えるまで変わらないであろう。
──プログラム一番、京都府立北宇治高等学校の皆さんです。課題曲Ⅰ、自由曲は戸川ヒデアキ作曲『一年の詩 ~吹奏楽のための』、指揮は滝昇です。
◇◆◇
観客席へ続くホワイエには、夥しい数の人が跋扈している。その喧騒を縫って、陽光も入ってこない端のソファに腰を落ち着けた。
制服の上着はスクールバッグの中に詰め込んだ。校章も今は見えないところに仕舞っている。
本番は終わった。今はとにかく、一人になりたかった。
顔を覆って項垂れる。いつも通りに呼吸ができない。浅く、酸素を求めるように踠こうとする。深海に沈んでいくようだった。マリンスノウとなるプランクトンの死骸は、こんな気分なのだろうか。
北宇治高校の出番は終わった。
万全の態勢で挑めていたはずだ。その後のことは神のみぞ知る。
あっという間の十二分間。それが隆翔の抱いた印象だった。
この苦しさは後悔ではない。演奏は完璧だった筈だ。よく覚えていないが、人生で受けた拍手の中で最も大きなものだった。練習では殆ど笑わない滝が、指揮台で微笑んでいた。
暗幕の先で待っていたB編成、チームもなかの中野、江藤、平石はみんなの演奏を絶賛した。水井に至っては涙を流していた。曰く、人の演奏で涙したのは初めてのことだと言う。
沙里や小田の下支えがなければ、第四楽章まで体がもたなかった。みんなの期待に応えるという責務は、恐らく果たせただろう。
しかし、その全てが幻想なのではないかと疑うほど、隆翔には喜んでいる余裕がなかった。
ホールではプログラムが着々と進行している。まもなく龍聖学園の演奏が始まるということで、通路は一層慌ただしくなった。北宇治の面々は疲労もさることながら、眠気を噛み殺して各校の演奏に耳を傾けている。黄前の指示を無視して、隆翔だけはこうして外の空気を吸っていた。
「あ、こんなところにいた。何やってんの、高橋さん探してたよ」
「黄前……」
「何、体調悪いの? 医務室連れて行こうか」
「いいや、大丈夫。そのうち戻る」
ホワイエの中央からブラウンのスカートを揺らして黄前久美子が現れた。今日に限って、彼女は髪を後ろに結んでいる。
集団の輪からはみ出た存在に手を差し伸べる。黄前ならではの嗅覚だが、隆翔はそれが少し不気味に感じた。
スカートを抑えながら隆翔の横に座る。無言の時間が続くかと思ったが、会話の口火は彼女が切った。
「フルートソロ、よかったよ」
「………」
「何?」
「いや、黄前から褒められるとは思わなかったから」
「はあ? 褒めて損した」
「あはは、ごめんごめん。お褒めに預かり光栄です。俺なりの仕事は果たせたと思う。黄前も高坂とのソリ、なかなか良かったぞ」
「……ありがと」
「関西、行けると思うか?」
「分からない。けど、行けるって信じてる」
「だな。同意見」
京都の高校吹奏楽では、ここ数年で北宇治と龍聖の躍進が目立っている。
関西地区に目を向ければ、大阪三強と言われた大阪東照、明静工科、秀塔大学付属が全国三枠を独占していたが、その牙城を崩したのは京都の二校だった。
京都府大会であれば、実力ある学校には良い奏者が集まる。立華なんかはその名声から越境進学してくる子も少なくないと聞く。
「お前とコンクールで吹くのも四年振りだな」
「そう、だね」
「
「な……っ!」
「その癖、いい加減治せよ」
「最近は減ってきてるし……っていうか、梓ちゃん?」
「ご想像にお任せします」
かの全国云々という発言は、中学三年の府大会で北中がダメ金を獲った時、号泣する高坂に黄前が放った一言だ。あの高坂を周囲が引くほど泣かせたことは、退部していた隆翔の耳に入るほど有名な話になっていた。
隆翔と黄前には、違うようで共通の記憶がある。
黄前は部活を辞めこそしなかったが、中学一年生の頃から先輩から僻まれ、陰湿な目に遭っている。中学と高校の差はあれど、培った努力の成果を問われるオーディションの成行きを素直に飲み込めるだけ、北宇治はマトモだった。
「もうすぐ龍聖だし、そろそろ行かなきゃ。演奏中は入れなくなっちゃうから」
「……そうだな。行くか」
「そのあとすぐ立華だね。両方近くて良かった」
「洛秋は何番?」
「えーっとね……あ、午後の部一番手だ。上手いし、気になるよね」
「それもあるけど、後輩がいるんだ」
「北中の?」
「そう、フルートのね」
「それって、秋樹ちゃんのこと?」
「……っ! 覚えてたんだな」
「まあね。中三の時、二年生でパーリーにさせちゃったから、梓ちゃんとサポートしようってなってね。そっか……あの子、洛秋に行ってたんだ」
かつての後輩の名を懐かしそうに思い出す黄前の顔は、どこか感慨深そうだった。
これまで、梓は村上の件を一言も語らなかった。どんな経緯があったか今となっては判らず仕舞いだが、彼女なりの矜持と想いがあったことは想像に容易い。でなければ、木管と金管という畑違いなパートが手を取り合うこともなかっただろう。
案内係に促されてホールに入ると、ちょうどどこかの学校の演奏が終わったところだった。
北宇治が着座する一角の空席を探す。が、フルートパートの周囲は埋まっているので、仕方なく幹部陣に並んで座ることとなった。黄前に連れてこられた構図なので、当然高坂はご立腹の様子だ。
「樟葉、アンタどこで油売ってたの?」
「外の空気を吸ってた。あまり目くじら立てんなよ」
「集団の輪を乱すなって言ってるのよ。そのくらい理解して」
「まあまあ……」
高坂の口撃をひょいひょいと躱す。その応酬を、黄前がヒヤヒヤしながら諫めた。
次は龍聖、そして何校かあとに立華がくる。
梓率いる立華は、今日に向けてきっと仕上げて来ているだろう。それも完璧な程に。
いま北宇治が一番のライバルとして意識するのは龍聖学園だ。しかし、梓の実力は誰よりも知っているし、誰よりも彼女のカリスマ性を信じている。
昨晩、彼女から決別を言い渡されておいて、なんとも皮肉な話だと腹の底で自嘲した。
『──ただいまの演奏は、龍聖学園高等部でした』
盛大な拍手と共に、龍聖の指揮者が深々と頭を下げている。
その人物こそ、月永源一郎──コントラバスの二年、月永求の祖父にあたる人物だ。
「……やっぱ、上手いわ」
隣で秀一が悔しそうに唇を噛む。一年生は彼らの迫力に圧倒されたのか口をぽかんと開けており、二、三年生は昨年以上に仕上げてきた演奏に驚嘆していた。
レベルが違うということはない。ただ、龍聖が関西三枠の一角に食い込むことは、この時点では既定路線に思えた。
その中でも、やはり高坂だけはブレていなかった。
「確かに龍聖は上手い。ホールの端に居ても違和感のない音を響かせる力がある。それに何より演奏に説得力があった。でも北宇治だって、そこは絶対に負けてない」
「そりゃそうだけどよ」
「まだウチが関西に行けないって決まったわけじゃないよ。気持ちは分かるけど、副部長が悲観的でいるとみんな不安がっちゃうから、あまり顔に出さないようにして」
「……分かったよ」
そして、午前の部も終盤に差し掛かり、いよいよ立華高校の順番が訪れた。
水色のブレザーを纏った選りすぐりの五十五人が配置についた。その中には同じ髪型の美音と花音、そして低音の後ろに配列された幼馴染みの姿が目に入った。
見るからに異変は感じられない。昨日のことなんて無かったのではないかと思えるほどに、彼女は平常心だった。
『プログラム十二番、立華高等学校の皆さんです。課題曲Ⅳ、自由曲はレインゴリト・グリエール作曲『青銅の騎士』、指揮は熊田祥江です』
拍手ののち、客席に身を沈めた隆翔の前で軽快な金管の音色が響き渡った。
課題曲Ⅳは西山知宏作曲、マーチ「春風の通り道」。春の穏やかな風を連想させる軽やかさと、マーチ本来の力強さを併せ持つ。王道のマーチ楽曲であり、それ故に完成度の差が露骨に現れる。簡単に聴こえる音楽というのは、音の粒が分かりやすいのだ。
ただ、座奏においてもやはり立華は別格だった。例年関西大会まで駒を進めているだけあって、的確な指揮のもとで目の前の音楽は形成されていった。
まるで、高校吹奏楽の品格が試されているような圧迫感を覚えた。それだけ立華の演奏から感じ取れる凄みを感じていた。
梓のトロンボーンは前に出すぎることなく、しかし確かな重みで全体の軸を形作っている。その音には、部長として積み重ねてきた時間と責任が滲んでいた。
美音のオーボエは、その隙間を縫うように息を送り込み、硬くなりがちな響きを内側から和らげていく。感情を押し出さないのに、音楽の体温だけは確かに伝わってくる。
花音のフルートが旋律を受け取ると、舞台に春風が通った。軽やかで、どこまでも素直な音色。
それは勝利を誇示する演奏ではない。ただ、ここに至るまでの時間を静かに肯定する音楽だった。
やがて、三分弱の課題曲が終わり、一瞬の静寂がホールを包む。そして、腹の底に響く低音の地鳴りが会場を支配した。
──バレエ音楽『青銅の騎士』。
ロシア文学が原作であり、その後バレエ組曲として作曲された。
個人の幸福と、国家や運命という巨大な存在との衝突。その圧倒的な構図が、音楽として立ち上がる。
冒頭は、都市そのものだった。
堂々とした主題を担うのは金管。梓のトロンボーンが、その中心で音楽を支えている。前に出過ぎないのに、揺るがない。部長として立つ彼女の姿勢が、そのまま音になったようだった。
国家、理想、秩序。人の力では動かせない世界。
この曲が描く「大きなもの」が、客席にまで押し寄せてくる。
やがて音楽は、少しずつ輪郭を変えていく。
金管の威圧が後景に下がり、木管が前に出る。
美音のオーボエが、息を通すように旋律を紡いだ。強く主張するわけでも、泣き叫ぶわけでもない。ただ、そこに「人の感情」があることを、淡々と示していく音だった。
ここが、この曲の核心だ。
洪水に翻弄され、恋人を失う青年エヴゲニー。そのささやかな幸福と、あまりにも小さな願い。
国家の象徴である青銅の騎士像に比べれば、取るに足らない個人の感情。
それでも、確かにそこに在った想い。
花音のフルートが旋律を引き取った瞬間、音楽の色が変わった。
軽く、柔らかく、それでいて逃げ場のない透明さ。
隆翔は、無意識に背筋を伸ばしていた。
──この曲は、喪失の曲だ。
その事実が、胸に落ちてくる。失ったからこそ鳴る音。失われたものを、決して取り戻せないと知った上で、それでも前に進む音楽。
ソロの解釈で悩んでいた理由が、ここにあったのかもしれない。希望でも勝利でもなく、ただ「失ったあとに残るもの」をどう音にするか。『一年の詩』に込められていないはずがない喪失という感情の正体。梓という存在の喪失感と重なってしまうのはどうしようもないのだろうか。
終盤、音楽は再び荒れ狂う。
打楽器が洪水のように迫り、金管が主題を断片的に叫ぶ。
青銅の騎士が動き出す。国家という名の怪物が、個人を追い詰めていく。
だが、その最後は勝利ではなかった。
立華の音楽は、英雄的な終結を選ばない。
ただ、押し流されるように、音が収束していった。
終演から拍手が起こるまでに、一瞬の静寂があった。
沈黙こそがこの演奏の答えだと思った。
あっという間の十二分と言えばそれまでだが、彼らの演奏は確実に北宇治やその他府内強豪校に大きく確かな爪痕を残した。
課題曲と自由曲のコントラストは、審査員にも大きな印象を残すだろう。
それに、立華はただ演奏したのではない。あの壮大な自由曲を決めた時から覚悟を持っていた。背負うものが、しっかりと目に焼き付いてしまった。
北宇治と立華は、近年交流がある。周りの部員たちの反応は十人十色であった。隣に座る秀一と黄前は演奏に圧倒され、高坂に至っては立華の実力を軌道修正しているのか、眉間に皺を寄せている。かつての同級生が、こんな演奏をされたのでは意識せざるを得ないだろう。フルートパートの集団の中にいる沙里は吉田と共に彼らの演奏に興奮を隠せない様子だ。
梓が宣言した、コンクールとマーチングの二冠。この演奏をもって、青写真でないことが証明された。その梓はというと、満足しているような顔つきではなかった。
万雷の拍手にニヤリとしながらも、もっと上へ、もっといい色をと、その獰猛な闘争心を隠そうともしていなかった。
北宇治、立華、龍聖と、昨年の関西大会出場校の演奏が終わった。
つつがなくと言えば聞こえはいいが、三校とも見据えるのは関西のそのまた上、全国大会だ。現状、各学校ともそれぞれの演奏に圧倒されている。
結果は神のみぞ知る。
黄前の言うように、これ以上は自分達を信じるしかなかった。
【つづく】
本年最後の投稿になります。
今年一年、お読みいただきありがとうございました。
皆さまの感想など、執筆の励みになりここまで書き綴ることができ、恐悦至極に存じます。
来年こそはこの物語にピリオドを打つことが出来るかなぁ…といった未来展望ですが、温かく見守ってくださると幸いです。
改めまして、本年もありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
それでは、良いお年を。