或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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EP.42 勝って兜の緒を締めよ

 ──吹奏楽コンクール京都府大会。

 すべてのプログラムを終えた舞台では、表彰式の準備が行われていた。

 壇上に並ぶトロフィーは奏者たちの功績を讃えようと、ライトに照らされて燦然と輝いている。

 

 立華高校の演奏の後、午後の部一番手だった洛秋高校の演奏は素晴らしかった。昨年は府大会金賞止まりだったが、今日の演奏を聴く限り、京都府代表の可能性は十分あるだろう。

 ざわざわと落ち着きがなくなってきた。表彰式の準備が整い、アナウンスと共に始められた。

 

 

『これより、吹奏楽コンクール京都府大会の表彰式、および関西大会へ出場する代表校を発表します』

 

 

 様々な情景が去来する。四年前、このホールで見た光景は、思えばすべての始まりだった。あの舞台の上で翼を広げた瞬間に沸き立った高揚感。諦観の先で、隆翔と吹けた喜びに浸った梓。そして、一生忘れることのない音色を奏でた希美のフルートとの出会いと、前年関西大会出場の期待を背に、無念の銀賞に終わった南中の崩落。

 あの日、前に進めなかった彼らは、その無念と悔しさを精算できたのだろうか。石に躓いても、前をのみ見て駆け上がった彼らの物語は、大団円を迎えることが出来るのだろうか。

 いや、人生という物語は、いつでも自分で切り開いていかねばならない。誰かがページを捲ってくれる訳でもない。誰かが書き綴った物語の軌道(レール)を走る訳でもない。ならば、隆翔自身もあの日を精算しよう。でなければ、最愛の人に並び立つ資格さえ、持てないだろうからだ。

 

 

「きた!」

 

 誰かが叫んだ。大きな紙がバサリと広げられる。各学校の横に結果が記されるのは、中学の頃と同じ方式だった。

 

「金だ!」

 

 いち早く校名を見つけた一年生が叫んだ。僅かに遅れて、隆翔も北宇治の名とその結果を認めることが出来た。

 誰もが安堵の息を漏らした。ただ、これは獲って当たり前。でなければ上に行く資格がない。

 妙に冷静な自分がいた。この空間には、自分たちが何色の賞を貰ったか気になる人ばかりだろうに、隆翔は龍聖、立華、洛秋がそれぞれ金賞を獲っていることに目が行った。

 

 歓声と悲鳴の峡谷を越え、壇上に立った女性がアナウンスする。

 隆翔の隣で、沙里は指先を絡めるように両手を組み、すべてを預けるように目を閉じていた。誰もが固唾を飲んで自分の学校の名前が呼ばれることを願っている。

 それは、この夏が続いていくことを意味していた。

 

 

『この中より、関西大会に出場する団体を発表します』

 

 鼓動が一層大きくなった。

 昨年も経験した道程。それなのに、心臓は早鐘を打ち、平静を保とうとしても言うことを聞いてくれない。

 そんな心境などお構いなしに、賽は投げられた。

 

『一校目。プログラム一番、北宇治高等学校』

 

 地鳴り。それに等しい音が隆翔の周囲を響き渡った。

 ガッツポーズする者、抱き合う者、泣き出す者。十人十色の喜びが北宇治を包んでいた。顧問たちに目を向ければ、滝は第一関門突破に安堵し微笑んでいる。松本は箱ティッシュ片手に号泣していた。

 

「隆翔くん、やったよ……!」

「あ、ああ……」

「どうしたの?」

「……あ、いや。あんま実感なくて」

「もぉー……私たち関西に行けるんだよ」

 

 沙里の一言が上の空だった隆翔を現実に引き戻す。漸く隆翔も結果を受け止めることができた。

 

「そっか……関西か」

 

 ──俺の手で、と心の中で呟いた。

 最終楽章、最後の小節、一人だけの舞台。

 その光景がフラッシュバックした。

 

「樟葉先輩‼︎」

「のわっ!」

 

 傍らから抱き締められる。誰かと思えば、目を真っ赤にした吉田巧美であった。

 

「先輩、関西ですよ、関西!」

「分かった! 分かったから!」

 

 それ以上されると周りの目が痛い。それに身体も痛い。

 沙里は目を丸くしている。小田と中野は呆れているようだった。

 

「わお。巧美ちゃんだいたーん」

「……あっ! す、すみません……‼︎」

 

 周囲の視線に気が付いた吉田は即座に隆翔から離れ、顔を真っ赤にしながら俯いた。その様子を水井がふくふくと楽しんで見ている。

 

「先輩、巧美ちゃんは初めて関西に進めて嬉しいんですよ。だから許してあげてください」

「分かってるよ。な、沙里?」

「うん。巧美ちゃん、毎晩遅くまで居残って練習頑張ってたもんね」

「俺も初めての関西だからその気持ちは十分分かるよ。力になってくれてありがとな。関西でも頼んだよ」

「……はい!」

 

 隆翔は彼女の手を強く握って、その頑張りを労った。

 大舞台を経験した吉田は、もっともっと上手くなる。隆翔は直属の後輩であり戦友の彼女が頼もしかった。

 特に彼女は木管の次期エース候補だ。それは隆翔ら三年生の共通認識である。

 隆翔は「エースの育て方」が分からない。経験がないからだ。それに、江藤や平石といった二年生、初心者だが一年生の水井にだって、コンクールメンバーに入る可能性がある。そのメンタルやコンクールメンバーとして部を背負う責任を自覚させるのは、一朝一夕で出来ることではない。

 とにかく、隆翔たちが精力的に吉田をエース候補の一角に押し上げるには、限られた時間しかない。彼女自身が日々の練習メニューをこなしていくことは大前提として、上級者がどれだけ寄り添えるかが課題となるだろう、と隆翔は考えていた。

 吉田は今、水井の手を取りながら初の栄冠に感動の涙を浮かべている。かつて隆翔が助言した「二パーセント」の進歩を、まさに今実感してくれていることが、隆翔は何より嬉しかった。

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

 第一関門の京都府大会は突破した。

 それに一喜一憂するのは自由だが、隆翔が決して忘れてはならない希美との約束がある。

 本当の戦いはこれからだった。

 

 

 各校の演奏を聴いて、そのレベルの高さに驚いていた。

 完璧に近い演奏をしていた学校は数える程度だが、龍聖と立華は下馬表通り、北宇治と共に関西大会へと駒を進めた。次への切符を逃した洛秋高校も、あと一歩のところで逃していたと言っても過言ではない。

 関西大会のこれまでの戦績では、大阪府の学校が全国への切符を手にすることが多かった。しかし、ここ数年は京都府内の学校がその牙城を突き崩すケースも少なくはない。そうなると、滝のような優秀な指導者を府内の各校が招聘する可能性がある。

 関西大会への切符は確約されている訳ではない。いずれは洛秋のように、目の前で逃す可能性は十分にある。

 府大会での北宇治の演奏は良かった。しかし、良かっただけでは済まされないのが、八月二十七日に迫った関西大会なのだ。

 

 ──関西吹奏楽コンクール。

 かつて、三年生がまだ一年生だった年に一度だけ突破できた舞台。

 二年前は滝の指導によっていみじくも薄氷の勝利を得た。ただ、北宇治だけでなく他の強豪校も二年前、そして昨年よりも演奏技術は上がっている。今年は完成度を更に突き詰め、前年以上の演奏をしなければ、まず突破は不可能だ。

 かつて三強と呼ばれた大阪の強豪に加えて、新進気鋭でありながら昨年全国大会金賞の龍聖学園、そして自由曲の完成度に度肝を抜かれてしまった立華高校。まさに魔窟。どの学校が全国大会に駒を進めてもおかしくなかった。それ程までに、関西大会を勝ち抜くことは紙一重の戦いなのである。

 

 三年連続の関西大会進出。その喜びが爆発した先程と打って変わり、帰りのバスの車内は疲労と睡魔のコンボに力尽きた部員の寝息で占められている。午前三時に集合したのだから、当然多くの生徒は電池切れであった。

 隆翔の隣には行きと同じく沙里が座っている。結果に安心したのだろう。その寝顔は安らかなものだった。

 隆翔は眠気こそあれど、目を開けているだけの余裕があった。

 手元のスマートフォンには何通かメッセージが入っており、どれも祝福の言葉がしたためてあった。

 

 最初で最後だからと、隆翔は母を会場に誘っていた。早朝だったこともあり、母は午前の部で帰ってしまったので結果を知らない。吉報を報告すると、早速祝福のコメントが返ってきた。母から結果を聞いた父もすぐさま連絡を寄越してくれた。ドイツはお昼前か。昨晩はあまり寝付けなかったそうだ。

 中学一年の頃に両親からもらったこのフルートも、思えば遠くまで来たものだ。これからも長い旅路を経て、名古屋まで連れて行けるだろうか。

 全国に行きたい。関西では終わりたくない。その気持ちが揺らぐことはなかった。

 

 しばらくすると、父がある言葉の一節を送信してきた。その文章を、隆翔は黙読した。

 

 

 

『神明は、ただ平素の鍛錬につとめ、戦わずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安んずる者より直ちにこれを奪う。古人曰く、勝って兜の緒を締めよ、と』

 

 

 

 日露戦争で激戦の末、薄氷の勝利をつかんだ旧日本海軍のとある軍人が起草した文章であった。

 常日頃の鍛錬。吹奏楽でいえば基礎、反復、あるいは合奏練習。その鍛錬を怠らず、満足せず、研鑽を積む者こそ勝利の栄冠を手にする。一度の勝ちに満足することなく「勝って兜の緒を締めよ」の諺を遂行することが、全国大会金賞への近道なのだ。

 

「勝って兜の緒を締めよ、か……」

 

 功を労うという意味ではかなり堅いモノだが、今の北宇治に合った強いメッセージだった。ただ一度の勝利に甘んじない。その考え方は、隆翔の心を奮い立たせた。

 

 隆翔は再びトークアプリを開いた。

 毎回、コンクールのあとは何通ものメッセージを寄越していた梓は、今日に限って音沙汰がない。いよいよ以って梓から絶縁されたのだ。

 彼女のアイコンに触れ、削除ボタンを押そうとした。しかし、実行に移すことは出来なかった。隆翔の方から梓を拒絶することは、到底無理な話だった。

 

 希美はオーケストラサークルの練習だろう。結果だけ伝えたが、まだ返信はない。

 きっと彼女は喜んでくれるはずだと考えた途端、ぐらりと瞼が落ちてきた。

 張り詰めていた糸が緩むように、隆翔は眠りの底へ落ちていった。

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

 翌日、府大会が終わったからといって休みになるわけではない。当然、関西大会へ向けた練習がスタートする。

 昨日の余韻もほどほどに、早朝から全員そろってのスタートとなった。

 午前八時。A編成は音楽室で昨日の振り返りを行った。

 北宇治の良さは本番で百パーセントの実力を出せるところだ。学校によっては、本番を想定して課題曲から自由曲まで敢えて通しで練習することもあるのだが、滝の指導は違った。あくまで気になった箇所は合奏を止めてまで徹底的に修正する。微に入り細を穿つ。滝の指導はその体現であった。

 マレットが、木製の鍵盤へと叩きつけられた。マリンバ特有の、妖精の足音みたいな柔らかな音色。四本のマレットは、楽譜が指示する動きを完璧に再現する。緻密な音の階段を駆け上がる、圧巻のマリンバソロ。ただ速いだけではない。一つひとつの音の粒が明確に立ち上がってくる。

 自由曲『一年の詩 ~吹奏楽のための』は四つの楽章からなる吹奏楽曲だ。第二楽章の「夏、栄光の謳歌」では壮大なメインテーマのあと、各楽器の見せ場が次々と現れる。とくに激しい箇所は、クラリネットパートのトゥッティとマリンバのソロだ。ちなみにトゥッティとは全員で演奏することを意味する言葉で、セクション内で全員が吹く場合にも使用する。

 

「マリンバのあとの入り、処理が雑ですね。ここ、アルトクラと同じ動きの楽器……バスクラ、テナーサックス、バリサクだけでもう一度」

「はい」

 

 滝がガサガサとフルスコアをめくる。府大会翌日ではあったが、滝の指導には一段と熱が入っていた。『一年の詩』のなかでも第二楽章と第四楽章は複雑な構造をしている。とくに木管楽器の連符の多さといったら尋常ではない。一度指使いを間違えるとあとに続くフレーズすべてが崩れてしまうため、異様な緊張感が漂う。

 

「三、四、」

 

 滝のカウントを合図に、指定された楽器が音を奏でる。

 

「十六分音符の噛かみ合わせ、もっと丁寧に。吹きやすい形にフレーズを曲げては楽譜どおりに吹いていることにはなりません。すべての音が均等になるよう意識してください。テンポを落として楽器ごとに吹きましょうか。アルトクラから」

「はい」

 

 雑然とした音の塊が、人数が少なくなるごとにシャープに削ぎ落とされていく。複数人で吹くことによってごまかされていた微妙なズレを、滝は明確に突き止める。

「もう一度」と滝が言う。部員たちは返事をし、再び同じことが繰り返される。じっと耳を凝らさずとも、指摘された箇所が改善されたことがわかった。耳に残るわずかな棘とげがなくなった。

 

「いいですね。では、今度は全員で第二楽章の頭から」

「はい!」

 

 再び楽器を構える。リッププレートに口を付け、滝の指揮棒が上がったのに合わせ、管を通る呼吸音が音楽室に反響した。

 

 昼休み。パート練習の緊張感が緩んだ教室は、窓から入る熱気と人の気配でむっとしている。エアコンは入っているものの、夏の湿度までは追い払えない。

 夏休みに限らず吹奏楽部は休日も練習がある。その場合、基本的にお昼ごはんはパートごとに食べるという暗黙の了解がある。フルートパートでは、机を並べて各々の弁当を広げていた。

 

「沙里先輩、今日も美味しそうなお弁当ですね」

「……そう? それならよかった、かな」

「嫌いなんですか? 唐揚げ」

「いや、そうじゃないんだけどね」

 

 沙里は弁当箱を開ける。中身は、唐揚げ、きんぴら、卵焼き、ウインナー。全体的に茶色の食材で埋められている。

 

「……今日も茶色いね」

「うるさいな」

「でも美味しそう」

「味は保証するよ」

 

 そう言って、唐揚げを一つ摘んで口へ運んだ。

 夏休みは早朝からの練習が毎日続く。毎日弁当を用意する家庭もあれば、隆翔のようにコンビニやスーパーで調達するメンバーもいる。

 隆翔はコンビニ袋から、ブリックパックの野菜ジュースとサンドイッチを二つ取り出す。たまごサンドとBLT。どちらも無難で手軽で好きな具材だった。

 

「相変わらず、ちゃんと食べてるね」

「まあ、これくらいはな」

 

 その隣で、小田が黙々とおにぎりを並べていた。

 

「それだけだとお腹減らない?」

「いいの。おにぎり三個で十分膨れるから」

 

 焼き鮭、明太子、昆布のおにぎりが几帳面に並べられ、小田は焼き鮭のフィルムを剥がして口に運んだ。

 隆翔の心配をよそに、小田の答えを聞いた中野が小さく笑う。

 

「芽衣子、帰りにコンビニに寄るのが毎日の楽しみなんだよね」

「部活終わりのコンビニって、なんか特別じゃない?」

「分かるな」

 

 沙里が即座に頷く。

 

「今日も一日頑張ったってご褒美感出るよね」

「そうそう。甘いの一個だけ買うとか、アイス一個だけとか」

「結局三人であれこれ迷うんだけどね」

 

 中野がくすっと笑う。

 

「新作スイーツの前で立ち止まって、全然決まらないやつ」

「それは沙里が優柔不断なだけ」

「ひどい!」

「でも楽しいでしょ?」

「楽しいよ」

 

 そう言って、小田は少しだけ照れたように笑った。

 中野の弁当はその中でも特に彩り豊かだった。小ぶりな箱の中に、ミニトマト、ブロッコリー、ハート型の卵焼き、ウインナーに小さな切れ込み。彩りがよく、どこか可愛らしいラインナップだった。

 

「蕾実のお弁当も美味しそう」

「料理好きだから。それに、お母さんにも手伝ってもらったんだ」

「へえ~」

 

 平石が感心したように中野の弁当箱を眺める。中野はくすぐったそうに微笑んだ。

 二年生たちも腰を下ろす。それぞれ、特徴のある昼ごはんを並べていた。江藤の弁当は簡素で、煮物と白ごはん。卵ふりかけがかかっている。平石は紙袋からベーカリーのパンを取り出す。ベーコンエピだ。

 

「あ、そのパン屋知ってる。駅前のとこのだ」

「美味しいですよね。うちの母が好きでよく買ってくれるんです」

 

 山根の弁当は小さく、冷凍食品が多めだ。それを気にする様子もなく、淡々と食べている。

 一年生の二人はさらに軽い。吉田は菓子パン。甘いパンとチーズ入りのパンを二つ。水井は小さな弁当箱に、野菜多めのラインナップだ。

 府大会翌日。昨日までの興奮が幻かの如く、穏やかな時間が流れていた。

 しかし、それでも話題は大会のことに繋がった。

 

「改めて、私たち関西いけるんですよね」

「そうだよ」

「なんか、まだ実感湧きませんね」

「私たちは明日が本番ですから」

 

 江藤は昨年、コンクールメンバーに選ばれていた。

 南中から磨いてきた彼女の実力なら、選ばれて然るべきだったが、今年は隆翔と吉田巧美という二人が台頭してきた。中野も含め、A編成から押し出された二人は、明日、同じ会場でB編成の部で舞台に立つ。

 

「蕾実、緊張してる?」

「うん。でも去年程じゃないかな。関西がかかったAと、府大会で終わりのBじゃ迫られるものが違うから」

 

 中野は自嘲気味にそう呟いた。

 長い間、一番近くで見てきた二人が彼女を憂う。三年生である中野は、B編成のリーダーとなった。北宇治ではコンクールメンバーから外れた部員を「チームもなか」と呼ぶ。一つ上の代である夏紀や友恵、そして森田先輩の頭文字からとったネーミングであるが、三年目となった今年、その旗印を彼女が担う。重圧もあるだろう。

 オーディションの結果が公表され、落選した中野に対して隆翔は「逃げるなよ」という厳しい言葉を告げた。しかし、それは彼女に大きな期待を込めての言葉だった。北宇治の屋台骨はコンクールメンバーかもしれない。しかし、その屋台骨を支えるには縁の下で持ち上げる人が必要だ。

 仕事は地味で目立たない。しかし、北宇治の躍進の陰には間違いなくチームもなかの存在があった。

 

 ストローを吸う。野菜ジュースの酸味が脳を刺激した。

 中野は頑張ってきた。オーディションに落ちてから一ヶ月、隆翔たちとは違う道を彼女なりに道を歩んできた。おそらく初めて人の上に立った彼女の成果が、明日結実するのであろう。その想いは沙里も共通していた。いや、誰よりもその想いが強かった。もう一度一緒に吹きたい。府大会などで終われない。隆翔は昨日、発表を祈るようにして聞く彼女の様子を思い出した。

 

「私たちは練習で行けないけど、みんな頑張ってきてね」

『はい!』

「蕾実もね」

「……うん!」

 

 沙里はパートリーダーとして江藤、平石、水井の三人に激励の言葉を告げた。中野に対しては一言だけだが、それで十分だった。二人が強い信頼関係で結ばれている証左だった。

 

「そういえば、お盆休みってみんな何するの?」

 

 沙里がふと思い出したかのように尋ねた。

 

「私はクラスの友達と出かける予定です」

「どこ行くの?」

「ひらパー行こうって。プールもあるし」

「えー、いいなあ」

 

 山根の予定を平石が羨ましがっている。

 

「吉田さんはみっちりレッスンなんだっけ」

「嫌! 思い出させないでください……!」

「水谷先生に集中レッスンの日程を相談されたから、下級生向けにやるんだろうなって。俺と沙里も一日だけ出る予定だから、頑張ってね」

「はい……」

 

 学習塾の集中講座のように、隆翔たちが通う音楽教室にも夏休みの集中レッスンが存在する。隆翔は昨年の冬休みに沙里と共に参加した。三年生は受験勉強があるので希望者のみとなっているが、隆翔と沙里はコンクールもあるので一日だけ参加することとなっていた。

 

「香奈ちゃんは彼氏とデート?」

「ちょっ、なんで言っちゃうの⁉︎」

「え、何それ初耳なんですけど」

「香奈先輩、彼氏いるんですか?」

 

 山根がポロッと漏らしたスキャンダルにパート全員が群がった。

 同期の平石も知らなかったらしく、「尋問尋問!」と騒ぎ立てた。

 

「同じクラスの子?」

「……言わなきゃダメですか?」

『うん』

「はぁー……」

 

 江藤は諦めたように溜息を吐く。漏らしてしまった山根は手を合わせて江藤に謝っていた。

 

「あの、去年デートに誘われたって言ったじゃないですか?」

「あ、生物研究会の?」

「はい。その、今年も同じクラスになって、気づいたら成り行きで……」

「へー、いつの間に」

「芽衣子先輩、全然感心してないですよね……」

「去年、あんなにフグちゃんっていじられたのに、まさかゴールインするとは思わなかった」

 

 江藤と男子の噂は今回が初めてではない。去年の夏、彼女は件の男子と水族館に出掛けていた。水槽の中で泳いでいたフグが江藤に似ていると言ったことで、パート内では彼女を「フグちゃん」と呼ぶのが流行ったそうだ。

 以前、恋愛絡みで一悶着あったこのパートだが、江藤を取り巻く話題に好意的な反応がほとんどで隆翔は内心安堵した。などと安心していると、恋愛トークに火がついた女子たちの矛先は当然隆翔に向く。

 

「樟葉先輩は、のぞ先輩とどっか行くんですか?」

「どっか行く前提なの?」

「行かないんですか、休みなのに」

「行くけど……」

 

「ほらね」と色めき立つ後輩たち。なおも質問責めは続く。

 

「どこ行くんですか?」

「夏だし、やっぱりプールでしょ」

「そういえば、低音の子たちは太陽公園の方に行くそうですよ」

「あ、やっぱり今年も行くんだ。去年、先輩たちも行ってたもんね」

「で、どうなんですか?」

 

 期待を込めた視線に囲まれ、隆翔は逃げ場を失う。隠してもしょうがないので隆翔は明かした。

 

「一応、出かける予定だよ。海に……」

「え、海ですか?」

「そう」

 

 聞いてきた割に反応が薄い。それもその筈、内陸にある宇治市はどの海水浴場からも距離が離れている。近くても兵庫県の須磨や和歌山まで行く必要がある。特に、自動車という手段がない学生は行くだけで時間がかかる海水浴を選択肢には入れない。隆翔も希美から提案されなければ、きっと行かなかっただろう。

 一拍遅れて、理解が追いついた後輩たちが一斉に声を上げた。

 

「え、先輩、海ってことは……」

「日帰りですよね? 泊まりじゃないですよね!?」

「どこの海ですか!?」

 

 堰を切ったように質問が飛んでくる。さっきまで話題は弁当のおかずだったのに、いつの間にか完全に恋愛談義の場と化していた。

 

「落ち着いて……日帰りだよ。泊まりとかじゃない」

「でも海ですよね!?」

「大学生の彼女と!?」

「のぞ先輩、水着とか……っ!」

 

 そこまで言われて隆翔は咳払いをした。

 

「……そういう話じゃないでしょ」

 

 言葉を選びながら、無意識に視線をずらす。

 その先で、沙里が静かに話を聞いていた。

 驚いた様子も気まずそうな素振りも見せず、ただ「へえ」と小さく相槌を打ってから、いつも通りの柔らかな笑みを浮かべていた。

 その表情を見て、隆翔はようやく言葉を続けられた。

 

「……まあ、希美が行こうって言ってくれて」

「え、のぞ先輩から?」

「なんか、凄いですね……」

 

 後輩たちは勝手に納得し、勝手に想像を膨らませていく。

 

「サングラスとかかけてそう」

「絶対おしゃれ」

「先輩、ちゃんとエスコートできるんですか?」

「先輩は荷物持ち役じゃないですか?」

「うっさい。悪かったな」

 

 軽く返すと、きゃっと笑い声が上がった。

 話題の中心にいることに、隆翔は少し居心地の悪さを覚えながらも、どこかくすぐったい気持ちも否定できなかった。

 そんな中で、沙里が静かに口を開いた。

 

「でも、いいね。夏休みらしくて」

 

 その一言で、場の空気がすっと整った気がした。

 

「海なんて、そうそう行けないし」

「だよね!」

「一日くらい、部活のこと忘れてもバチ当たらないですよ!」

 

 沙里は後輩たちの方を見て、くすっと笑った。

 

「ただし、日焼けには気をつけなね」

「分かってるよ」

「お風呂痛そう……」

「芽衣子先輩、どんな想像してんですか……」

 

 皆の盛り上がりを他所に、ジュースを最後まで飲み干した。

 後輩たちはまだ希美の水着だの写真は撮るのかだのと騒いでいる。

 その賑やかさを横目に見ながら、隆翔はふと、自分が青春のど真ん中に立っていることを自覚した。

 照れくさくて、少しだけ落ち着かない。

 それも悪くないと思える程度には、今の隆翔は満たされていた。

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

「蕾実たち、本当に良かった……」

 

 個人練習中、沙里は感慨深そうに溜息を漏らす。

 

「まだ言ってる。金賞以外疑ってなかったじゃん」

「そうだけど、やっぱり嬉しいものは嬉しいから」

「……まあ、そうだな。帰ってきたら褒めてやろうぜ」

「うん」

 

 翌日、高校B部門のコンクールが行われた。結果は見事に金賞。現地に引率した滝から連絡を受けた教頭が、わざわざ音楽室に報告してきた。

 行く末を案じていた沙里は感動と安堵から目尻を拭い、小田も胸を撫で下ろしている。A編成に残ったフルートパートは隆翔と一年生の吉田、ピッコロの山根を含めて五人。皆それぞれに思うところがあったのか、張り詰めた表情から一転し柔和な表情を浮かべている。

 あと二時間もすればその雄姿を拝めることだろう。吉報を受けたメンバーのやる気は最高潮に達している。この雰囲気が関西大会まで続けばいいが、そうは問屋が卸さない。

 

「……じゃ、音出ししよっか。第二楽章からでいい?」

「いいよ」

 

 沙里がフルートを構える。隆翔は譜面台の角度を微調整してから、管に息を通す。コンクールから二日が経ったが、調子は落ちていなかった。

 午前中は顧問と部長がコンクールに帯同しているのでパート練習と個人練習に充てられている。関西大会のオーディションを見据えた、実質的な「選別」が始まっている。

 

「……調子いいじゃん」

 

 沙里がさりげなく呟く。

 

「そっちこそ。最近、吹き方変えた?」

「ばれた?」

「なんとなく」

 

 軽口を叩き合いながらも互いの音には神経を尖らせていた。

 関西大会の舞台に立てるのは五十五人。ソロはその中でも一握り。選ばれた者だけの特権である。その椅子は確約されたものではない。

 二人の練習は続く。第二楽章、第三楽章まで通しで吹いたところで楽器を下ろした。

 

「じゃあ次、第四楽章ね」

 

 沙里が譜面を指で叩く。

 第四楽章、隆翔が任されているあの場所がある。

 

「……先に吹いていい?」

 

 そう言って、沙里は隆翔の返事を待たずに構えた。

 次の瞬間、音が空間を満たす。

 迷いがない。息の流れは太く、音程は安定し、フレーズの端まで神経が行き届いている。

 

 ──俺より上手い気がする。

 そう思った瞬間、胸の奥がひやりとした。

 沙里の音は隆翔のそれよりも、今この瞬間においては説得力があった。

 技巧だけではない。音楽として自然に前へ進んでいく力がある。

 吹き終えた沙里は、何事もなかったようにフルートを下ろし、

 

「……えへへ」

 

 と、いつもの調子で笑った。

 

「どう?」

 

 その問いに、隆翔はすぐに言葉を返せなかった。

 口角を上げようとして、引き攣った感覚が残る。

 

「……やるじゃん」

 

 それが精一杯だった。

 沙里は気にした様子もなく、譜面を見下ろしている。だが、隆翔の内心は穏やかではなかった。

 

 ──奪われるかもしれない。

 その考えが初めて現実味を帯びて胸をよぎった。

 ソロを任され、関西大会出場を決め、次も当然そこに立つのだとどこかで思い込んでいた。

 

 順番が回ってきた隆翔は、何も告げずに息を吸い込んだ。

 一度自覚してしまった親友への対抗心。それを隠そうともせずにそのまま音に乗せた。  一音一音を、丁寧に、自己中心的に。

 

 吹き終えたあと、しばらく沈黙が落ちた。

 

「……うん」

 

 沙里が小さく頷く。

 

「やっぱり、隆翔くんの音はいいよね。強くて、心に反響するよ」

「……お世辞はいいよ」

「お世辞じゃないよ」

 

 そう言って、沙里はにこりと笑った。当然のことだが、彼女もまだソロを諦めていない。この舞台を本気で取りに来ている。

 隆翔は悟られないように胸の内で息を整えた。追われる立場に立ったのだという実感が、遅れて込み上げてくる。

 関西大会への道は、もう始まっている。

 そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥に残ったざらつきは消えなかった。

 隆翔は譜面台の前でフルートを下ろし、何度か指を開いたり閉じたりしてから、沙里の方を見た。

 

「……なあ、沙里」

「ん?」

 

 沙里は譜面を整えながら、気のない返事をする。

 

「沙里、関西で吹きたいよな」

「え? う、うん」

 

 自分でも、言い出した瞬間に嫌な予感がした。それでも、口は勝手に動いてしまう。

 

「俺の代わりに吹いてくれって言ったら、どうする?」

 

 言い終えた瞬間、窓の外で燦々と輝く太陽が雲の影に入った。二人が立つ階段に、不自然な闇が落ちる。

 沙里は動きを止めたまま、ゆっくりと隆翔を見上げる。

 その目に浮かんだ感情を見て、隆翔は一瞬で悟った。やってしまった、と。

 

「……それ、本気で言ってる?」

 

 怒りを堪えようとしている、低い声だった。

 沙里はフルートを譜面台に置き、真っ直ぐ隆翔の方へ向き直った。

 

「今の言葉、冗談とか思いつきじゃないよね」

「……うん」

「じゃあ、ちゃんと聞かせて」

 

 その声色には、有無を言わせない強さがあった。

 隆翔は一瞬、どう答えればいいか分からなくなった。

 言葉にする前は、もう少しまとまっていたはずなのに、いざ視線を向けられると、輪郭が曖昧になる。

 

「……変な言い方になるかもしれないけどさ」

「いいよ、急がなくて。待ってるから」

「府大会、ぶっちゃけ死にそうなくらいギリギリで……。昔から本番に怖気付くことなんてなかったのに、今回はまったくダメだった。ソロの直前も目の前が真っ白になった。ここで音を外したら、最後の音を外して明日へ、関西へ音をつなげることができなかったらと思うと……」

 

 悪寒で毛が逆立った。口を滑らせたこともそうだが、沙里が怒った理由に今頃辿り着いた自分を軽蔑したくなった。

 

「まあ、分からなくもないかな」

 

 沙里は腕を組みながらではあるが、険しかった表情を若干緩めた。

 

「本番前、沙里が隣にいなかったら俺もっとヤバかったと思う」

「あれは……その場の勢いとかもあったから気にしないで」

「でも、めっちゃ有り難かった。だから口から出たんだと思う。沙里にも吹いてほしいって」

 

 沙里はすぐに返事をしなかった。少しだけ視線を落とし、考える間を置いた。

 

「でも……」

 

 やがて、沙里は感情を抑えながら淡々と言った。

 

「でもね隆翔くん。やっぱり言って良いことと悪いことがあるよ。去年、希美先輩はパーリーだった調先輩に対して、そんなことは絶対に言わなかった」

「……うん」

「隆翔くんがソロになったのはまぐれでも偶然でもない。私が君といた時間のほとんどは、君とフルートを吹いている時間だよ。そして、それ以上の時間、隆翔くんはフルートを練習してきたんだよ。だから譲るなんて言わないで。そんな真似をされて関西でソロを吹いても私は嬉しくない。もし、そんな理由で辞退したら、私は君を許さない」

 

 一歩、距離を詰められる。視界が沙里の顔で埋まるほどに。

 沙里はその声を一段と低く、鋭くした。

 

「隆翔くんのそれはね……優しさじゃないよ。ただの自己満足」

「……っ」

「私ね、勝ちたいの。関西でソロ吹きたい。ちゃんと正面から君と挑んでオーディションを勝ち取りたい。だから、お願いだから逃げないで」

 

 沙里の言葉は感情の芯を射抜いていた。パートリーダーの時は絶対に見せない、我儘で年相応の表情だった。

 何も言えなかった。というより、反論の余地がなかった。

 隆翔は唇を噛みしめ、深く頭を下げた。

 

「……ごめん」

 

 沙里はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。

 

「分かればいいよ」

 

 そう言って、少し照れたように視線を逸らす。

 

「まったく……ほんと、放っておくとすぐ背負い込むんだから」

「……ごもっともです」

「じゃあ、改めて言うね」

 

 沙里はフルートを持ち直し、にっと笑った。

 

「次のオーディションも全力でやろう。私も、全力で勝ちに行くから」

 

 その顔にもう怒りはなく、屈託のない笑顔が花開いていた。

 樟葉隆翔と高橋沙里。この二人の間柄は一言で言い表すことは不可能だ。沙里から見れば隆翔は彗星の如く現れた実力者で、無意識のうちに絆され、失恋した元想い人だ。

 三月の騒動で、沙里は隆翔を助けた。隆翔は今まで、その恩義に報いようとしてきた。しかしそれは、隆翔の大いなる勘違いであった。騒動を経て、二人は最大のライバルとなり、無二の親友となった。今年の自由曲にもフルートソロがある。これは宿命だと、沙里は覚悟を決めた。かつて自分が助けた親友(ライバル)と、北宇治が放つ最後の一音を賭けて夏を駆け抜けていく覚悟を。

 

 

 ──勝って兜の緒を締めよ。

 

 北宇治高校吹奏楽部は未だ挑戦者だ。かつての名参謀がこの言葉を引用したように、彼らが勝利の美酒に酔いしれている時間は、一秒たりとも存在しなかった。

 

 

 

【つづく】




先日、第9回北宇治高校吹奏楽部定期演奏会を観に行きました。想いの募った素晴らしい舞台を見せてもらいました。

〈引用〉
聯合艦隊解散之辞 ─東郷平八郎─ 1905年12月21日
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