或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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EP.43 ハローフィクサー

「なんでお前がここにいるんだ?」

 

 フランクフルトを頬張りながら、サックスパートの同級生、瀧川ちかおが隆翔の胸を軽く小突く。紺色の甚平にサンダルという普段とは違う出立ちなのは、今日が宇治川の花火大会だからだ。

 宇治川の畔には屋台が立ち並び、浴衣を着た人たちが隙間を縫うように闊歩する。隆翔とちかお、そして秀一の三人は宇治橋の西詰に佇んで喧騒を眺めていた。

 

「今日は希美が家の用事で来れなかったからな。そういうお前こそ、高久はどうしたんだよ」

「誘ったわ! でも、クラの連中と約束してるって……」

 

 彼が二年の春から付き合っている高久ちえりとは、今でも健全な付き合いを続けているらしい。奥手な性格同士、プラトニックではあるが愛を育みつつあるようだ。そんな恋人イベントの最たるモノである花火大会の誘いを袖にされたことで、ちかおの顔はしなしなとショボ暮れていた。

 

「そういうことだから、今日は吹部三年男子のよしみで花火見物ってこと」

 

 隣にいた秀一が、ちかおの頭にポンと手を置いてクシャクシャと乱暴に撫でている。ちかおは鬱陶しそうにその手を振りほどいた。

 

「黄前は?」

「は? 誘うわけないだろ」

「……ま、そうだよな」

「どうせ、高坂とでも行ってんだろ。去年も一昨年もそうだったし」

 

 当然だろ、と言わんばかりの勢いで否定する秀一。去年の合宿で秀一と黄前が恋愛関係を解消してから間も無く一年が経とうとしている。年末のボウリングのように、二人きりでなくとも友達として誘えば来そうではあるが、その距離感は三年生になってから更に顕著になっていた。

 三人は適当な河川敷に腰掛け、夕闇に染まりつつある空を見上げた。やがてアナウンスの後に緑やオレンジ、紫など色彩豊かな火花が炸裂する。光と遅れて轟く音が腹の奥に響く。瞳に映る閃光に非日常を味わいながら、怒涛の如く過ぎていく日常に思いを馳せた。関西大会まであと少し。次の大会に出る五十五名を決めるオーディションも迫っている。

 沙里の逆鱗を撫でかけた一件以降、彼女はオーディションに関する一切の気遣いや遠慮がなくなった。以前からソロパートの練習は毎日欠かさずこなしている。しかし、その練習量は日に日に大きくなっていることを隆翔は肌で感じていた。後ろから迫られる切迫感と恐怖。自分の立場を危うくする存在は、集団としての成長を促す。そうと分かっていても、やはり怖いものは怖い。最後の一年、悔いのない結果で終わりたいというのは三年生の共通認識だ。そして沙里と小田、中野の三人は隆翔と違って三年間の集大成となる。その座を奪おうと躍起になるのは、無理はない話だった。

 

「きれいだなー」

 

 ふと、ちかおが花火を見て他愛のない言葉を漏らした。

 

「だな」

「こうやって三人で集まるのも久しぶりだな」

「お前らは彼女いるからな。まあ、俺も副部長が忙しいから人のこと言えないけど」

 

 秀一はそう自嘲するとジュースで喉を潤した。

 

「秀一は進路、どこにしたんだ?」

「あー、一応偏差値に見合った私立にしようと思ってるけど。まだ学校までは絞り切れてないな。ちかおは?」

「俺もそんな感じ」

「高久と同じとこ目指さなくて良いのか?」

「向こうは頭が良すぎて一緒の大学は現実的じゃない。進路相談でも担任には良い顔をされなかったしな」

「いや、そこは頑張れよ」

「俺は現実思考なんだよ」

「現実逃避の間違いだろ」

「うっせ」

 

 甲斐性のカケラもない発言が気になったが、彼は彼なりに恋人へのアプローチはしているらしい。特に北宇治のクラリネットは激戦区だ。三年生だけでなく二年生、一年生にも有力な部員が多数在籍し、その勢力図の中には強豪、南中出身の後輩が目立っていた。

 ソリストとは追われる立場だ。そのことを隆翔はまざまざと実感していた。そして、クラリネットでソロを担う高久ちえりの最も近しい存在である彼も、きっとその切迫感を分け合っていることだろう。話題は自然と部活のことになった。

 

「関西、あっという間だよな」

「その前に合宿だけどな」

「それなー。まあ、流石に三年連続だと慣れてくるというか……」

「しかも、今年はオーディションもやるしな」

「………」

 

 秀一の言葉に隆翔は閉口した。

 

「ソリストも新しく決めるんだろ?」

「そりゃ勿論」

「だよなぁ。あー高久落ちちまったらどーしよ」

「縁起でもない」

「だってよ。あんなに毎日頑張ってる姿見てるとさ、やっぱ肩入れしたくなるわけですよ。お前だって、黄前さんが落ちるとは思ってないだろ」

「そう、だけど……」

「樟葉はどうなんだよ。やっぱ不安とかねーの?」

 

 不意に話題を振られた隆翔は言い淀む。今、正に直面している悩みがそこにあった。

 

「不安というか、初めての追われる感覚にビビり散らしているよ」

「正直かよ」

「ちかおが訊いてきたんだろ」

「そうだけどよ。パーリーの高橋だって上手いだろ? ウチのフルートは二枚看板なんてよく言われてるけど、お前らカレカノかよってくらいには距離近いからライバル意識とか薄そうだしな」

 

 ちかおの言っていることは半分正解だった。沙里との距離が近いことは、他パートの部員から見ても周知の事実だ。希美との関係が露見しなければそういう関係に見られていたかもしれない。しかし、距離が近いからこそ信頼関係の上に成り立つライバル意識がある。忖度なしのガチンコ勝負。確実に沙里はその牙を剥き始めていた。

 

「関西のことは俺にも分からん。それこそ滝先生にも。ソロが沙里になっても何らおかしなことはないし、そうじゃないかもしれない。ペットは高坂一強だけど、ユーフォは分からない。なんせ、あまりにも黒江が上手すぎる」

「……っ」

 

 真由に言及した隆翔の言葉に、秀一は言葉を詰まらせる。隆翔はそれを視界の端で捉えた。言葉では彼女への想いを封印しつつも、彼はまだ黄前を諦めていなかった。

 府大会でユーフォニアムのソリストが黄前に決まった理由は不明だ。だが、ふとした時に聴いた真由の音は黄前のそれよりも良い気がした。「気がした」程度の話なので、滝の耳には違って聞こえたかもしれない。ただ確実に言えることは、黄前が選ばれた理由の中に「部長だから」という立場によるバフは無いだろう。これまでも、あの人がそうした選考を下した実績はなかった。だからこそ「上手い人が吹く」という北宇治の不文律が定着した。

 

「B編成の中には諦めモードの奴もいるってよ。特にクラとかトランペットに」

「ああ、それなぁ……幹部会議でも話題に上がったわ。府大会の突破も当然っていう空気があったっぽいし。ただ、『そういう人は上には行けない』って高坂が一刀両断してたわ」

 

 府大会を突破した北宇治には、強豪校ならではの勝って当然という空気が存在する。幸い、フルートの一、二年生はそうした雰囲気を醸し出すことなく日々努力を続けてくれている。特に府大会ではB編成だった中野、江藤、平石の三人は自分が関西のステージに立つことを疑っていない。しかし、メンバーが流動的でないクラリネットやトランペットなどは、北宇治の層の厚さによって諦めムードに陥る部員がいるのも事実だ。

 ただ、そう思いながらも他人の練習に水を差すことはない。北宇治の民度の高さが伺える。

 

「部活が高校生活のすべてじゃないだろうしな」

「それはそうなんだけど、足並みが揃わなくなる懸念はあるだろ」

「それこそウチらが強制できることじゃない。受験に専念したいから二年で部活辞める

奴だっているし、なんら不思議な感覚じゃないだろ」

「それを言われると……」

「ああ、言い訳できないな」

 

 隆翔の発言に秀一とちかおは微妙な顔をした。

 

「なんだよ。歯切れ悪いな」

「いや、俺たちが一年の頃に、受験を理由に途中で退部した三年生がいてさ。まあ俺の直属の先輩だったし、なんなら秀一や黄前の知り合いだったから結構ハレーションあってさ」

「あー……デリケートな話題だったか。すまん」

「いや、謝ることじゃないさ。隆翔は知るはずないもんな」

 

 隆翔は片手を顔の前に上げて二人に謝った。

 

「でも、部活との距離感は実際大事だと思うけどな。確かにみんなが同じ方向を向いているに越した事は無い。でも無理だろ。九十人もいるんだから。だから、俺は別に悪いことではないと思う」

「隆翔はそう思うのか」

「うん。音楽を嫌いになるよりよっぽど良い」

 

 隆翔が二人に告げた言葉には二面性がある。学生の本分は勉強だ。もちろん、吹奏楽部で成果を上げたいから北宇治に来たという生徒も一定数いる。だからといって、そう思わない人たちの思いを踏みにじっていい理由にはならない。

 そして、隆翔としてはライバルが減ってありがたいというもう一つの本音があった。誰も口にはしないが、心の中に持ち合わせている感情なはずだ。

 

「高坂には言えないな」

「確かに」

 

 隆翔は笑いながら答えた。

 川下から薫る火薬の匂いが鼻を刺激する。それもまた、夏の風物詩のひとつだ。

 一瞬の眩い光を伴って消えていく花火は、音楽に似ている。輝く時間は一瞬でも、瞳の奥には残光が焼き付いていた。

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

 その日の合奏練習はいつも通り、課題曲からの通し練習で始まった。

 課題曲IV『スケルツァンド』。自由曲とは違い、全体がまとまったアップテンポな一曲となっている。この曲は全体のアンサンブルと、個人の音楽に対する理解度のバランスが試される。曲の意味は軽快に、若しくはふざけ気味に。これをどこまで解釈するかによって、審査員の求めている強度が理解できる。言ってしまえば、大袈裟に「跳ぶ」くらいが丁度いいのだ。けれど、跳びすぎれば軽薄になる。滝の求める「軽快」とは、いつだって薄氷の上にある。

 冒頭部分は同じフレーズを時間差で様々な楽器がリレーしていくスタイルだ。難易度で言えば『一年の詩』ほどではないにしても、音の粒がはっきりとしているので失敗すれば悪目立ちする可能性がある。中盤のフルート、クラリネット、サックスの順番で奏でられる旋律の掛け合いは、北宇治の最大戦力たる木管パートの腕の見せ所だ。

 

 課題曲は大きな指摘や調整もなく過ぎて行った。本番さながらのテンポで、自由曲へと入っていった。

 滝の様子が変化したのはこの時だった。

 指揮の腕が止まる。ちょうど第二楽章の中盤、フルートが旋律を奏でる箇所だった。

 パート内に緊張が走る。滝からの指摘や注意は誰もが通ってきた道だが、到底慣れるものではない。実力があろうがなかろうが、彼のお眼鏡にかなわなければ冷酷非情な言葉を浴びせられることもあった。

 しかし、滝は顎に手を当てて思案するばかりで、言葉に悩んでいる様子だった。

 音楽室がざわつく。いつも迅速で的確な判断をする彼にとっては珍しい光景だった。隣に座る沙里の表情も、段々と不安げになっていく。

 滝は一度フルスコアに目を落とし、該当箇所を確かめるように指でなぞった。

 

「フルートだけ、二十一小節目からお願いします」

 

 名指しされた瞬間、隆翔は無意識に背筋を正した。そして滝の指示通りの音を出す。ここはクラリネットとのユニゾンで吹く場面だ。その土台を、トロンボーンとユーフォニアムが後押しする。フルートの演奏を聴いた滝は一度だけ頷き、今度は同じ部分を全員で演奏した。

 ここはまさに、主題の音と音の接着点とも言える。強過ぎれば緩急は失われるし、かといって音が薄過ぎてもダメという、難しい調整が求められた。

 

「音程もリズムも、大きな問題はありません。フレーズの処理も譜面通りですが、ここでのあなた方は屋台骨です。全体を支えるつもりで、音の厚みを増してください。よろしいですか?」

『はい!』

 

 と、条件反射で返事はしたものの、その意味を推し量るには些か時間が足りなかった。この時点で「何かがある」と察知できた部員はいなかっただろう。

 それから第四楽章まで何度か指摘を受けたため、第二楽章で感じた違和感は記憶の彼方に霞んでしまった。

 

 午前中の練習が終了した。

 この日はお盆休み前最後の練習だった。そのため、合奏後は使用している教室の大掃除となった。音楽室から始まり、楽器室、廊下、パート練習で使う教室をくまなく掃除する。制服では汚れてしまうので、ジャージにTシャツ、もしくは体操服に着替える生徒がほとんどだった。

 

「先輩、そっちの棚の上をお願いできますか?」

「あいよ」

 

 江藤からはたきを受け取り、教室の棚の上の埃を落とす。数少ない男子部員の隆翔は高所関係の作業にて重宝された。

 それから小一時間ほど掃除を続けると、他パートの同級生が教室に飛び込んできた。

 

「部長から伝言。今音楽室に吉川先輩と中川先輩が来てて、差し入れを持ってきてくれたので一旦休憩だって!」

「やったー!」

 

 唐突な先輩の来訪に喜びの声が上がる。二人は元部長と元副部長ということから、特に二年生からかなり人気が高い。特に南中吹奏楽部で一緒だった江藤は声を弾ませながら音楽室へと向かっていった。

 隆翔も二人と会うのは七月のライブハウス以来だった。二人とも私服姿だが、服の趣味は正反対だ。大きめの黒のTシャツにショート丈のダメージジーンズを穿いた夏紀に、白のブラウスとピンクのプリーツスカートを着た優子。夏紀はいつも通り高めに結んだポニーテールだが、優子はセミロングの毛先をアイロンで巻いていた。

 

「やっぱ目立つわね。アンタがここの体操服を着てるとこ見たことないんだけど」

「久しぶりに会った後輩への第一声がそれですか……」

「いやいや先月会ってるでしょ。なんなら二ヶ月前も」

 

 音楽室では先輩来訪を知った部員で溢れかえっていた。二人のそばには大きめのクーラーボックスが二つ。その中には様々な種類の氷菓子が詰め込まれていた。

 隆翔は基本、バンドTシャツやスポーツウェアを愛用している。逆に学校指定の体操服は着たがらない。本人曰く、イケてないからであった。梓や真由が着ている私立校の体操服はセンスが良くて羨ましいというと思うことがしばしばあった。

 だから二人からの覚えがいいのは自覚していた。彼女たちは隆翔を部活の後輩だけでなく、親友の恋人というポジションでも見ている。重圧を感じない訳ではないが、部内で自立した立場として隆翔を見ているのは明白であった。

 

「わざわざすみません。こんな大量のアイスを」

「先輩からの差し入れよ。ありがたく受け取りなさい」

「ご馳走様です。アイスも、そのお揃いのヘアピンも」

「なっ、バッカじゃないの!」

 

 隆翔は優子と夏紀の髪を飾るアクセサリーに目をつけた。優子は顔を真っ赤にして抗議し、夏紀は「生意気言ってると取り上げるよー」と隆翔のアイスを取り上げようとした。

 その後も二人は後輩に囲まれ続けた。特に南中出身の二年生は彼女たちを神格化している。「アンタたちも頑張りなさい」と激励を受けた後輩たちは、午前中の練習で張り詰めた心が幾分か弛緩していた。

 隆翔は賑わう音楽室から離れ、風を浴びようと校舎端の倉庫の扉を開いた。

 

「げっ」

「何?」

「なんでもない。邪魔したな」

 

 そこにいたのはアイスを片手に佇む黄前と高坂だった。あまりこの二人と同じ空間に居たくない隆翔は、踵を返そうとした。しかし、その背後には優子と夏紀が立っていた。

 

「あら、三人ともいたのね。ちょうど良かった、アンタたちに聞きたいことがあったのよ」

 

 その場にいた三人は、優子が振ろうとしている話題を瞬時に理解した。内心で冷や汗をかきつつ、隆翔は二人を招き入れた。

 

「塚本は?」

「さっき一階にゴミ捨てに行きました」

「なら仕方ないわね」

 

 ピシャリと扉を閉めると、校舎内の喧騒が嘘のように静まり返った。

 

「ふう、やっぱ暑いわね、ここ」

「……優子先輩、聞きたいことってなんですか?」

 

 黄前の言葉はどこか身構えた響きを孕んでいる。高坂はその隣で優子を見つめていた。

 

「そんなに構えなくていいわよ」

 

 優子は肩をすくめ、持っていたアイスの袋を破いた。

 

「別に説教しに来たわけじゃないし」

「……余計怖いんですけど」

 

 夏紀が苦笑しながらフォローに入る。

 

「優子が言うとそう聞こえるだけだから、気にしないで」

「はあ……」

 

 どこか所在なさげな黄前の返答が倉庫に響いた。

 優子の視線が隆翔を捉える。彼女は話題を誤魔化したりしない。言葉を選ぶのも、夏紀ほど得意ではない。逆に、歯に衣着せぬ性格だからカリスマ性を伴って多くの部員に支持されたのだ。一瞬遅れて、その視線が自分に向いていたことに隆翔は気づいた。

 

「関西大会出場決まって良かったわね。おめでとう」

「ありがとう、ございます」

 

 黄前が頭を下げる。

 高坂もそれに倣って、小さく会釈した。

 

「結果を出した以上、この体制が正しかったってことよ」

「……」

 

 二人は何も言えなかった。

 否定されていないのに、肯定された気もしなかった。

 

「で、正直なところ今年はどうなのよ?」

「どう、とは?」

 

 黄前が問い返すと、優子は肩を竦める。

 

「全国ですか?」

 

 優子の言いたいことを高坂が続ける。優子は小さく頷いた。

 

「目標は去年と同じく全国金賞なので、そのつもりで動いてます」

 

 高坂の返答は簡素だった。しかし、視線は真っ直ぐ目の前の先輩に注がれていた。ふ、と優子の肩から力が抜ける。

 

「……相変わらず、素直じゃないのは変わってないわね」

「そうですか? 先輩のリスペクトですよ」

「そういう生意気なところもね」

 

 トランペットの先輩後輩によるノーガードの掛け合いの末に、二人はふふっと吹き出す。

 

「ま、そういうことなら先輩としてちゃんと応援しないとね。チケットの抽選当たるかわかんないけど」

「優子先輩が来るって知ったら、みんな喜びますよ」

「高坂がお世辞? めっずらしー」

「本心なので」

 

 高坂の返答に、優子の指先がピクリと跳ねた。眉根を寄せ、腕を組み、優子は「あー」とその場で唸り声を上げた。十中八九、照れ隠しだ。

 

「あの二人があんな風に喋る日が来るなんて、二年前は考えられなかったよなぁ」

 

 アイスキャンディーを口に咥えた夏紀が、久美子の肩に腕を乗せた。二人の間にある身長差が、今は良いように機能している。

 

「二人とも変わったなって思いますよ。もちろん、良い方向に」

「それを言うなら黄前ちゃんもだよ」

「私ですか?」

「そう。入学してすぐの頃は黄前ちゃんに部長やってみろって言う気になれなかったし」

 

 黄前は虚空を見上げながら入学当時のことを思い出す。微妙な顔をしながらも夏紀の言葉を肯定した。

 

「まあ、頑張んなさい。悩みがあればいつでも聞くから」

「はい。ありがとうございます」

「樟葉もね」

「はい。またお願いします」

「なんの『また』なんだか……」

「チケットノルマに困ったらいつでも言ってください」

「その前に受験頑張りなさいよ」

「ういっす」

 

 という、激励にしては軽いやりとりを経て、優子と夏紀は帰っていった。彼女たちが持ってきた大きなクーラーボックスは楽器室に置き去りになったままだ。おそらく、回収を口実にまた来る算段なのだろう。

 掃除を終えた部員は制服に着替えて音楽室に集結した。最後のミーティングでは、お盆休み後の合宿に関することが詳細に説明された。そして合宿初日の夜、関西大会のオーディションが組まれている。そのことで高坂から一言あるようだった。

 

「府大会に出たからといってアドバンテージがあるとは考えないで下さい。滝先生は部員全員を音で判断し、最良のメンバーを選出します。下級生も、来年あると思わず、目の前のオーディションに集中して挑んでください。以上です」

 

 と、昨今の部内に蔓延する空気に釘を刺す。心当たりのある部員は若干気不味そうに目を逸らしていた。

 

「では、これでミーティングを終わります。お盆休みに羽目を外しすぎて合宿に参加できないなんてことは無いようにしてください。では、解散です」

 

 お疲れ様でした、と元気の良い返事がこだまする。明日から短い夏休みということで、心が弾んでいるのが現れていた。

 帰り際、下駄箱の前でスニーカーに足を突っ込んだところで、後ろから軽い足音がした。

 

「樟葉くん、今帰り?」

「ああ、黒江もまだいたんだな」

「うん。吹いてたら、こんな時間になっちゃって」

 

 下駄箱から焦茶色のローファーを手に取る。よく磨かれていて光沢が出ている。彼女のユーフォニアムもそうだが、身の回りの物を丁寧に使わんとする育ちの良さが伺えた。

 二人は並んで昇降口を出た。一緒に帰ろうと言うでもなく、かといって距離を取るでもない。たまたまタイミングが合ったから並んで歩いている、という関係がそのまま形になったようだった。

 外に出ると、夕方の風が思ったよりも涼しい。八月も中旬に入ってから日中の気温はさらに暴力的になった。教室のクーラーは使用が制限されるため、防音の観点から蒸し風呂状態で練習するのもザラだが、今日は風があるだけ幾分マシだった。

 

「一緒に帰るの初めてだね」

「いつも沙里と帰ってるからな」

「二人って本当に仲が良いんだね。なんか通じ合ってるって感じがして、そういう友達いなかったから羨ましいな」

 

 真由の羨む視線が眩しくて、目を逸らした。

 

「男女間に友情が生まれる筈が無いって思ってそうだな」

「え⁉︎ ううん、違うよ。本当に羨ましいなって思ってるから」

「ごめんごめん。揶揄っただけ」

「まったくもう……」

 

 真由は柔らかそうな頬を少しだけ膨らませて抗議した。こういうなんてことない会話を、真由が他の男子連中としているところは見たことがない。異性を惑わせる魔性の抱擁感といったところか。今まで何人も勘違いさせてきたのだろう、と隆翔は解釈した。

 それから話題はお盆休みについてのことに移り変わった。

 

「樟葉くんは何かするの?」

「色々。海行ったりフルート教室行ったり」

「海! 良いなぁ。最後に海水浴行ったのいつだろう」

 

 照りつける太陽の下のビーチを想像したのか、真由の表情はときめいている。

 

「黒江は?」

「久美子ちゃんやみどりちゃんたちとプールに行くよ」

「へえ……」

 

 以前、後輩たちが言ってたのを思い出す。夏休みの間に大手を振って遊べる時間は少ない。一時の清涼剤を求めているのは真由であっても例外ではなかった。

 

「海って、例の彼女さんと?」

「そうだよ」

「へえ、なんか素敵だね。この学校の先輩だってことは聞いてたけど、どんな人なの?」

「そうだな……明るいし優しいし、誰とでも友達になれる。ちょっと子供っぽいところもあるけど、最近色々試してるっぽくて、やっぱ大学生って自由があるなって思う」

「あー、なんか分かるなぁ。今日来た去年の部長さんも凄くオシャレだった。羨ましいなぁって」

 

 確かに優子と夏紀は大学生になってから徐々に洒落込んできた。希美のように見た目がコロコロと変わったりはしないが、毛先を巻いたりアクセサリーを身に付けたりネイルを施したりといった小さな変化は、ニュートラルさを求められる高校生からしたら眩しく見えた。

 

「私たちもいつか、あんなふうになれるのかなぁ」

「黒江はもう既に大人っぽいところがあるじゃん」

「そう? 私なんて全然まだ子供だよ。私ってどっちかと言えばズボラだし、樟葉くんの方が十分大人っぽいよ」

 

 そう言われて嬉しくない高校生はいない。特に客観視されたとなれば、その言葉を信じてしまいたくなるような魔力があった。隆翔は謙遜するように、その言葉をやんわり否定した。

 大学生への憧れを語る真由は遠くを見ていた。高校卒業まであと半年と少し。遠いようで、その未来はすぐそこまで来ている。

 

「黒江は進路、もう決めたの?」

「うん、一応ね。東京の大学に行こうと思ってて……」

「え、すご……ってことは一人暮らし?」

「うん、そのつもりだよ」

 

 真由が語った志望先は、東京でも有数の国公立大学だった。確かに、成績ではクラスでも一桁順位にいる彼女の成績なら目指しても不思議ではない。ただ、そういう大学なら関西圏にもいくつか存在した。

 

「東京にしたのはね、向こうの友達にも会えるし色んなところから集まってくる場所だから、色んな人に出会ってみたいって思ったからなんだ」

 

 それにね、と彼女は続ける。

 

「私、長く続いた友達がいないんだ」

 

 ポツリ、と漏らした言葉の奥には、悲鳴にも似た訴えがあった。

 真由の境遇からすれば、致し方ない。今にしてみればスマートフォン一台で世界中の人間と繋がれる。彼女がこれまで出会った友達とも繋がれる筈だし、会おうと思えば約束を取り付けることも容易なのだ。しかし、それが簡単にいかないのが、学生の難しい距離感なのかもしれない。真由が自分の身の振り方を『東京』に定めたところには、恐らくそんな感情があったのではないか。

 隆翔はどう反応していいか解らなかった。修学旅行以降の彼女の振る舞いから、友達付き合い、恋愛関係への憧憬。人との関係に関することで真由は常に一線を引いてきた。なぜなら、一番近しい位置にいる黄前久美子は、部活という社会構造の中で最も壊してはいけない人間だったからだ。彼女の立場を切り崩すことで生じる軋轢を考えれば、触れず傷つけず一歩引く行動が是とされる。

 隆翔は、真由への利用価値を見定めていた。ふとした瞬間に聞いた、彼女のユーフォニアムは場数の違いを確実に表現していた。難しいパッセージも難なくクリアし、滝の求める音を瞬時に判断する。その技術は、間違いなく黄前を凌駕する筈なのだ。

 そこまで考えて、隆翔は一度思考を閉ざした。それ以上続ければ自分がどこへ行き着くのか理解してしまいそうだった。

 

「……黒江」

 

 呼びかけると、真由は歩調を緩めて顔を向けた。

 

「なに?」

「オーディション、もうすぐだな」

「……うん、そうだね」

 

 オーディションという単語に、真由は明らかに体を強ばらせた。やはり、彼女の方針はまだ変わっていない。

 

「緊張してる?」

「ちょっとだけね」

 

 そう言って、真由は肩をすくめた。

 

「でも、仕方ないよ。ああいうのって」

「清良じゃ、もっとバチバチだったんだろ」

「……まあ、ね」

 

 一瞬、真由の視線が揺れた。

 

「向こうは、上手い人が吹くのが当然だったから」

「それは北宇治も同じだよ」

「………」

 

 隆翔の返答に真由は沈黙した。

 ここまで来れば、正攻法で説得しても埒が明かないことは明白だった。

 

「俺さ、全国に行きたいんだ」

 

 唐突な隆翔の言葉に、真由は面食らった。

 

「去年の『リズと青い鳥』の演奏は完璧だったよ。難しい曲だったけど、ギリギリまで高めた結果、関西大会はそれまで以上のクオリティだったと思う。でも、ウチは全国には行けなかった」

「……北宇治の去年の演奏、友達が貸してくれたCDで聴いたよ。本当に凄かった」

「あの第三楽章でフルートソロを吹いたのが、俺の彼女なんだよ」

 

 真由はえっ、と驚いた表情を見せた。彼女の中で『リズと青い鳥』と言えば、第三楽章の掛け合いだった。その音を奏でていたのが目の前の男子の恋人だとすれば、その繋がりに驚愕するのは致し方ないことだ。

 

「そう、だったんだ……」

「だから、俺は何としても全国に行かなきゃいけないんだ」

 

 真由は再度沈黙した。ただ、この沈黙はさっきのような悩み事の海に沈んでいるようなモノではなかった。

 隆翔は再び彼女に賭けた。府大会オーディション前とは違う、いよいよ全国を見据えた今だからこそ効く言葉で真由の心を刺激したのだ。

 そして、隆翔は間接的にトドメの一言を告げた。

 

「黒江、期待してるよ」

 

 言葉の真意が分からない真由ではない。隆翔のような考え方で全国を目指す人もいるのだと、彼女の認識が改まったのなら、隆翔はこの賭けに勝った。だから隆翔は敢えて真由が困る言い方をした。困って、自分の立ち位置を見直してほしかった。

 車通りの交差点が見えてきた。信号は赤色に灯っている。

 

「じゃ、俺こっちだから」

 

 隆翔は通りの左を指差しながら真由に語りかける。真由はそのまま道路を真っ直ぐ進む。

 

「……うん。じゃあまた」

「ああ、合宿で」

 

 そして二人は手を振って別々の道を歩んだ。

 

 ──黒江真由を本気にさせたい。

 友情などと、ふんわり甘い言葉では表現できない。そこには善意もない。全国大会に行く。そのためにはなんでも利用する。その事実をようやく自分の中で言葉にできた。

 

 ふと、信号を待つ真由に目を向ける。既に横断歩道は青に変わっており、一歩一歩進む彼女の足取りは悠然な印象を受けた。

 

 

【つづく】

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