或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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──新章開幕。

覚悟と矜持の合宿編です。


十一章 烈寒
EP.45 甘口のカレーライス


 トンネルが抜けた先には、見渡す限りの緑が広がっていた。

 宇治市の東側にある笠取は山深い地域だ。その地区にある野外活動センターはキャンプ、採取活動、ハイキングなどで使われる施設であり、北宇治高校吹奏楽部はここで二泊三日の合宿を行う。

 

 ──八月十七日。

 うざったい程の暑さと鬱陶しい蝉の大合唱に包まれながら、お盆休みを終えた北宇治高校吹奏楽部の面々は大型バスに分乗して合宿所に向かっていた。隆翔としては二年生以来二回目。昨年はマネージャーとして参加した。

 

「合宿所に着いたらまず自分達の荷物を部屋に入れて、その後すぐ楽器搬入。セッティング終わったら午後の練習が始まる。流れは去年と同じだけど、今年は練習量増やしてるから去年ほど自分の時間取れないよ」

「ひえー……というか、これって去年樟葉先輩が作ったメニューをアレンジしたやつですよね」

「そうだよ。と言っても、殆ど友恵先輩が作ってくれたモノと一昨年の流れを踏襲したやつだけど」

「へえ、そうなんですね」

 

 隆翔の隣で食い入るようにスケジュールを眺めるのは、トロンボーンの二年生葉加瀬(はかせ)みちる。普段はOB・OG担当係である彼女は、特別に編成された合宿係の二年生リーダーとなった。その他、一年生のリーダーはチューバ担当の釜屋(かまや)すずめ、三年生はマネージャーとして昨年の合宿を差配した隆翔である。

 

「いやー、樟葉先輩が三年生リーダーで安心しました。怖い先輩だったらどうしようかと」

「怖い先輩って誰だよ。いないだろウチの三年に」

「いやまあ、高坂先輩とか……」

「ああ……」

「でも樟葉先輩って高坂先輩のこと、怖くないんですか? 確か中学の時に大喧嘩したんですよね。だから優子先輩とかにも一目置かれてたとか」

「はあ? いや、まあ高坂は怖くないけど……というか声でかいよ。高坂に聞こえてもいいの?」

 

 隆翔の忠告に、彼女はむぐっと口を抑えた。

 彼女はチャーミングで面白い性格をしている。その上かなりの面食いだ。彼女と中学から一緒に活動していた江藤曰く、入部して一ヶ月で秀一に惚れてしまったとか。隆翔から見ても彼は長身長で温厚な性格をしている。女子から好かれてもおかしくはない。

 南中吹奏楽部出身の彼女は、希美や優子、みぞれの背中を見て北宇治に進学した。当然、市内で強豪の南中から来た彼女の腕前は府大会でコンクールメンバー入りする程のものであり、その技術を磨けば二年生でも指折りの奏者になれる素質がある、と隆翔は踏んでいた。

 

「そういえば聞きましたよ。先輩、希美部長と海に行ったんですよね。いいな〜、彼氏と海水浴なんて。憧れちゃうなあ」

「作ればいいじゃん」

「そんな簡単に言わないでください。私、同級生とかはムリなんで。子供っぽいし……」

「そうか? 北山とか鈴木くんとか中学から一緒の男子もたくさんいるでしょ」

「いやいやいや、それこそ無いですって」

「秀一は?」

「……わかってて言ってるなら、先輩性格悪いですよ」

 

 おちゃらけた顔から一転、葉加瀬はじっと隆翔を睨んだ。

 

「……部長の彼氏狙うとか、そんな命知らずなことしませんよ」

「案外そうでもないかもよ」

「はい?」

「だって今、あいつフリーだし」

 

 えっ、と驚いた表情を浮かべた。

 黄前と秀一は、別れた今も気味が悪いほどにいつも通りだ。恋人同士である事が周知されても別れたことを知る人は少ない。たまに距離が近い瞬間があるが、部長と副部長という間柄で納得できる程度だ。

 

「だ、だからって秀一先輩は敷居高すぎますって」

「そんなことないと思うけど。まあ、相談ならいつでも乗るよ。希美が世話になったからね。特別に無料(タダ)でいいよ」

「むしろお世話になったのは私の方なんですけど……」

 

 彼女は口を尖らせて、再びスマートフォンに向き合う。SNSをチェックする姿は、流行を追うイマドキの女子そのものだ。年上イケメン好きという彼女の端末には、最近のヒットチャートを統べる男性アイドルグループのキーホルダーが付いている。

 葉加瀬もそうだが、やはり南中出身の二年生は昨年の卒業生である優子や夏紀、みぞれや希美を尊敬、または信奉する傾向にある。その中でも希美は群を抜いて慕われていた。確かにあのカリスマ性を中学生という多感な時期に浴びれば心酔しても仕方がない。

 三月に隆翔が希美の恋人だと発覚した時、南中出身である北山タイル、鈴木靖也(すずきせいや)、江藤香奈、そして葉加瀬みちるは早々に隆翔との関係を構築し始めた。最初は偶然に思っていたが、振り返れば彼らは確実に隆翔との距離を縮めてきていた。

 ふと、隣に座る葉加瀬を見た。隆翔の隣にはいつだって沙里がいた。しかし今日に限っては、彼女の隣には別の人が座っていた。胸の奥にピリッとくる感覚があったが、その違和感から目を逸らした。

 

 バスに数十分揺られ、合宿所に到着した。搬入とセッティングの指示を出していく。昨年もやったことなので慣れた仕事だった。二、三年生はこれまでの記憶を頼りにテキパキと動けているが、一年生は合宿所の複雑な間取りに、地図の前で困惑していた。

 ホールの中心で黄前の指示が飛んだ。

 

「この大ホールは三日間借り切っていますので、椅子は出したままで大丈夫です。椅子は合奏隊形に並べてください。オーディションの結果発表後、AメンバーとBメンバーに分かれて練習を行います。一人でも遅れると全員に影響が出ます。時間厳守でお願いします」

『はい!』

 

 部員の速やかな返事が響く。指揮台を中心に扇形に広がる演奏体系も、景色が違えば意識も新しくなる。昨年、隆翔は部屋の外から演奏を眺めていた。フルートのファースト奏者、特にソリストは指揮者のほぼ正面に座る。それは今日も変わらないし、明日も変わらない。

 制服から動きやすい練習用のシャツに着替える。体操着やクラスTシャツ、こういう時は各々の個性が出てくる。

 

 昼休憩後、部員たちはまず大ホールに集まった。

 まずは全体ミーティングからスタートする。指揮台に上る滝の隣には、二人の大人が並び立っている。今日から関西大会に向けて、臨時コーチとしてタクトを振るう橋本真博(まさひろ)新山聡美(にいやまさとみ)だ。

 

「皆さん、今回ご指導してくださる先生方を紹介させていただきます」

「はい、じゃあまずはボクからかな。二、三年生の子たちは久しぶり。一年生の子は初めましてだね。橋本真博といいます。パーカッションの担当をさせてもらいますんで、ビシバシやらせてもらいます。気軽にはしもっちゃんって呼んでもらっていいからね。よろしく」

 

 昨年と変わらずアロハシャツにサンダル姿というなかなかにファンキーな姿の橋本は、部員を前にしてフランクに自己紹介した。その奥には理路整然とした音楽観があり、人柄も相まって心を寄せる奏者は多い。他県の強豪校からも声がかかり、時間が合えば指導に出向いているそうだ。北宇治OBであり、大学同期の滝が赴任してからこの部の指導に骨を折ってくれている。これほどありがたい話もない。

 

「では、私からも。今年もこうして皆さんと一緒に合宿に参加することができて嬉しいです。木管の指導を担当します、新山聡美です。昨年度は全国に出場できなかったけれど、私は北宇治の演奏がほかの学校にまけていたとは感じませんでした。今年の『一年の詩』も素晴らしい演奏になるよう、協力させてもらいますね」

 

 頭を下げた新山に、部員たちが拍手を送る。ボリュームのあるブラウンの髪が優しく揺れた。

 彼女は滝の大学の後輩であり、プロのフルーティストだ。自然と背筋が伸びる感覚がした。

 大人の女性を目の前にした一年生部員から嬉々とした声が上がるが、彼女の練習はかなり厳しい。そもそも、滝が生やさしい指導をするためにわざわざ二人を招聘(しょうへい)するはずがなかった。

 その後、練習は金管とパーカッション、木管と分かれての練習になった。隆翔も譜面とフルートを持って第二ホールへと移動した。

 

 移動中、談笑する沙里の姿が目に入った。特段いつもと違う様子はない。初めての合宿に臨む吉田と水井の一年生二人へのフォロー、今夜のオーディションに並々ならぬ思いを抱く中野や江藤といったB編成組にも満遍なく声を掛けている。

 今日の練習は、確かに大会に向けたものだ。しかしほとんどの部員の頭の中には、今夜行われる関西大会を懸けたオーディションのことが存在する。春から、ほとんどの時間を学校や部活に割いてきた部員たちの結晶が、間も無く行われるオーディションに結実されようとしていた。

 

 

 

 滝曰く、新山聡美は「木管のスペシャリスト」だ。それは自身の経験と実力に裏打ちされたものであり、プロ奏者としての腕と優秀な指導員としての腕が両立している証拠だ。

 昨年、彼女の指導を受けた希美は、その手腕に憧れと尊敬を抱いていた。「新山先生の指導がなかったらあそこまで上手くなることはなかった」と曇りなき眼で言っていたのを思い出した。あの希美にそこまで言わしめた彼女の指導を受けられるのは、一介の高校生奏者として幸運なことだった。

 そして当然、指導は苛烈なものとなった。

 

 

「クラリネット、少し走り過ぎです。ほんの少しで良いのでテンポを下げてもらえるかしら。そう、それでいいわ。ただ音量が下がってしまったわね。今のテンポのまま、もう一度」

「楽譜ごとに吹く作業はもう終わらせましょう。滝先生にご指導いただいた表現をしっかり守ってください」

「オーボエの加千須さん。まだ音が平面的です。ユニゾンは互いの音を聴いて、互いを活かしてあげて」

「全体的に音が単調ね……もう一度第一楽章の頭から──」

 

 

 練習開始から二時間経ったが、まだ『一年の詩』の第一楽章から先へ進めていない。まるで解体作業のようだ。府大会で作り上げた音楽を一から分解している。息が上がったまま、働かない頭に次の指示を叩き込む。指と脳が連携しているのかすら怪しかった。

 延々とソロパートを吹き続けるクラリネットの高久と、そこにユニゾンする隆翔は疲労が蓄積していた。

 

「では、十分間の休憩にします」

 

 多くの木管部員がその言葉に溜息をつく。体力よりも、精神的不安の方が勝っていた。

 

「くっそしんどい……」

「毎年こんなだよ」

 

 隆翔の弱音に、沙里が反応する。その後ろに「確かにきついけどね」と付け加えた。

 

「水谷先生とは違った厳しさですよね」

「そうだね巧美ちゃん。でも上手くなってる気がするでしょ」

「はい」

 

 吉田の手応えは隆翔も感じることだった。ひたすら同じ場所を反復、実践、そしてまた反復。一回目よりも二回目、三回目と上達している実感があった。

 

「やっぱ、滝先生の知り合いなだけあって優秀なんだな。まあ、あの先生が半端な人連れてくるとも思えないけどさ」

 

 そう言って、ペットボトルの水で喉を潤した。熱を持った身体がスーッと冷えていく。

 

「B編成の子もコンクール曲やってるんだよね?」

「そうだよ。松本先生が付いてる」

「そっか。オーディション、どうなるのかな……」

 

 その表情から言葉の真意を図ることはできなかった。沙里の中で渦巻く感情をすべて察することは出来ない。ソロのこと、唯一三年生でA編成落ちを経験した中野のこと、自分のこと。責任感と正義感の強い沙里はすべからく自分の事のように考えているだろう。せめて、感情の板挟みになるようなことにはなってほしくなかった。

 

「なるようにしかならない、としか言えない……薄情でごめん」

「ううん、そんなことないよ。隆翔くんのことだから、きっと気遣ってくれたんだろうけどね」

「そんな百パーセント綺麗な感情ばかりじゃないよ」

 

 沙里はいつだって隆翔の心を押し図ってくる。時に見透かされているような言動にヒヤリとすることもあれば、あまりに純度の高い感情に驚くこともある。兎にも角にも、隆翔の思考に最も近い答えを持っているのは彼女だった。

 だから怖かった。今頃大ホールでは、金管とパーカッションが練習している。黄前の隣で百パーセントの音を出すことに躊躇している真由に執着している心を読み取られるのが。

 

「では、練習を再開します」

 

 新山の号令に、再びホールが緊張に包まれた。

 

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

 

 夕食の時間になった。普段はそうでもないのに、楽器ばかり触っていると何か別のことをする時間というものにありがたみを覚えていた。

 

「わあい。みどり、カレー大好き!」

「僕もです、みどり先輩!」

 

 疲労でゲンナリとする者が多い中、コントラバスの川島緑輝は目の前の食事に目を輝かせている。彼女の愛弟子である求も同じ反応を見せていた。

 山間の施設からなのか、窓の外はすでに薄暗く蝉の声はいつの間にかヒグラシのものへと変わっていた。合宿一日目の夕暮れは、どこか現実感が希薄だった。

 

「樟葉くん、お疲れ様」

 

 配膳列に並ぶと、真由が涼しい顔で話しかけてきた。

 

「黒江もお疲れ……って、あんまり疲れてなさそうだな。清良の方が練習キツそうだし」

「そんなことないよ。ユーフォって重いし、ずっと吹いてると体が痛くなっちゃって……」

 

 真由はそう言うと、小さく声をあげて両腕を伸ばした。彼女のその成熟した身体では凝るところも多かろうと、悟られない程度の考えが漏れた。目に毒な光景から目を逸らしながら、話題を変えた。

 

「これで終わりなら良いんだけど、今日はこの後に重要なイベントがあるからなぁ」

「……そうだね。それにしてもお腹減った〜。私、カレー大好き!」

「川島の真似?」

「あは、正解」

「あまり似てないな」

「あ、ひどーい!」

 

  揶揄い甲斐のある真由の反応に隆翔は笑みが溢れた。良い感じに緊張もほぐれたようだった。オーディションでのユーフォニアムの順番は最後の方だ。最後の説得に費やせる時間はまだたっぷりある。

 

「なあ、あとで時間もらっても良いか?」

「え、うん……良いけど」

「サンキュ。じゃ、俺こっちの席だから」

「……うん。また後で」

 

 躊躇い気味であったが、恐らく彼女は来る。彼女が懇意にする三年生は少ない。その中で隆翔はかなり信頼されている。情に訴えてもいいが、何よりも縋れる居場所を欲している彼女を籠絡するのは簡単だ。

 この時はすべてが計算通りに進んでいる気がした。そんな心を、誰かが見透かしているとも知らずに。

 

「あ、水忘れた」

「──樟葉先輩」

 

 給水器で水を汲もうとしたところで隆翔を呼ぶ猫撫で声。

 聞き覚えのあるその正体は久石奏だった。仮面のように貼り付けた笑顔の下にある感情は、全てを読み取れないにしても、良いモノではないという確信があった。

 

「よお、お疲れ」

「お疲れ様です。といっても、あれしきじゃ音を上げませんけど」

「お前も水か?」

「はい。黒江先輩に持ってこさせるわけには行きませんので」

 

 コップを手にして、久石は給水機のペダルを押した。

 

「ところで、さっき先輩と何話していたんですか」

「さあ、なんだろうな」

「おや、教えてくれても良いじゃないですか。それとも、何かやましいことですか? 彼女さんがいらっしゃるのに、美人の同級生と深夜の密会、とか?」

「はは、そうだったら良いんだけどな」

 

 なおも久石の挑発は続く。まるで隆翔の沸点を理解しているような口振りで、ギリギリのラインで感情の琴線に触れようとしている。

 彼女がここまで敵意を見せるのは珍しいことだ。その上、「お利口な後輩」という彼女のアイデンティティは雲散霧消している。

 

「……先輩も、黒江先輩と同じなんですね」

「俺と黒江が?」

「はい。何でも分かったように振る舞う、そういうところが」

 

 彼女は笑顔でまあまあ失礼な言葉を発した。きっと、真由の気質が彼女の鼻につくのだろう。そこが隆翔と真由の共通点なのだとしたら、彼女とシンパシーが合うことも合点がいく。

 

「それはあやかりたいな。ただ、オーディション頑張ろうぜって言っただけだよ」

「……そうですか。お引き止めしてすみませんでした。では、また」

 

 隆翔の答えを聞いた彼女は貼り付けた笑顔の仮面を外して、心底面白くないとでも言いたげな顔になった。黄前久美子を崇拝する直属の後輩。その見た目は、健気な後輩に映るよう作り上げたものだ。彼女が黄前に向ける感情はホンモノだった。だから隆翔のように、黄前を退けようとする異分子に対して本気になれるのだ。

 

「甘いな……」

 

 配膳されたカレーライスを口に含む。カレー独特の香辛料を感じつつも、隆翔の舌にはかなり甘かった。

 

 

 

【つづく】

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