或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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文中に真由の回想、沙里のパートがあります。

あの脱衣所での口論のあと、誰にも相談できない真由って絶対精神的に地獄ですよね。察するに余りあります。


EP.46 発熱

 ◆回想 黒江真由◆

 

「あの子なら、昨日で退部したっちゃけど」

 

 

 

 

 えっ────。

 

 

 太陽が傾き出した音楽室。

 十月のはじめにある全国大会のコンクールメンバーが発表され、いよいよという空気が部内を覆い尽くしていたその時、私は耳を疑いたくなるような事態が起きていた。

 

「どういうことですか……?」

 

 音楽室のピアノにバインダーやノートを広げていた部長と副部長。二人は若干困ったように目を見合わせた。

 

「コンクールメンバーが発表されるちょっと前くらいやったかな。あの子から急に、部活辞めますって言われてさ……。まあ結果的にコンクールメンバーやなかったけん、メンバーには影響はなかったけんど……ごめん、うちも理由は知らんとよ……」

「そう、なんですね……」

 

 それ以上の言葉が出てこなかった。

 喉の奥に何かが詰まったみたいで、声がうまく出せない。

 

「もし理由とか聞けたらすぐ教えるけん。真由ちゃん、仲良かったとに気の毒やし……」

「いえ、大丈夫です……」

 

 部長の言葉は、もう耳には入っていなかった。

 何か言わなきゃいけないのに、声が出なかった。

 友達が部活を辞めた。一緒に吹奏楽部に入って、私と同じ楽器を吹いて、いつも一緒にいたあの子が。

 

 

 どうして、いつもこうなるの?

 どうして、私の前から、友達はいなくなっていくの?

 どうして、私はいつも追いかけないの?

 どうして、私は諦められるの?

 

 

 

 

 ────ああ、まただ。

 

 腕の中にある白銀のユーフォニアム。私の大切な楽器。

 そこにある質量の分だけ、私の心に重く、重く存在感を放つ。

 まるで手放してくれるなと、訴えるように私の歪んだ顔を映していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕食を終え、隆翔は真由を宿舎の外に呼び出した。あたりはすっかり真っ暗になっている。遊歩道にポツンと一つだけある街灯の青白い光が淡くベンチを照らしていた。

 

「お待たせ。ごめんね遅れちゃって」

「いや、全然大丈夫だよ」

 

 木製のベンチに腰を下ろしながら、隆翔はゆっくりと息を吐いた。夜の空気は思っていたよりも涼しく、昼間の暑さが嘘のようだった。虫の声が絶え間なく続いている。合宿所の建物から漏れる明かりもここまでは届かず、街灯の白い光だけが二人の輪郭をぼんやりと照らしていた。

 真由は少し離れた場所に立ったまま、建物の柱に軽く背を預けている。腕を組んでいるわけではないが、どこか距離を取っているような立ち方だった。

 

「何かな、話って?」

 

 真由が先に口を開いた。

 声はいつも通り柔らかいが、どこか慎重さが混じっている。隆翔はその微妙な声色を聞き逃さなかった。

 

「本題に入る前に、さっき飯の時間に黄前と何話してたの?」

「えっと……ただ単にオーディション頑張ろうねって」

「そっか。じゃあ単刀直入に聞くけどさ」

 

 街灯の光に照らされた真由の顔を見上げる。

 

「黒江って、黄前のこと怖がってる?」

 

 虫の声だけが残る。

 真由はすぐには答えなかった。小さく首を傾け、考えるように隆翔を見る。

 

「……どうしてそんなことを聞くの?」

 

 穏やかな声だったが、探るような響きがあった。

 

「なんていうか、はたから見て二人に壁を感じるし、それに……逃げてるように見えるから」

 

 真由の目が一瞬だけ細くなる。

 気のせいかもしれないが、その視線はほんのわずかに鋭かった。

 

「逃げてる?」

「ああ」

 

 隆翔は頷く。

 

「ずっと黄前の様子ばかり気にしてるだろ。普段もそうだし、今日の合奏でもそうだったよ。だからずっと辞退するって言ってるもんな。親友同士の黄前と高坂がソリを吹けるようにって」

 

 ベンチの背にもたれながら、少しだけ言い過ぎたかもしれないと思った。だが真由は怒る様子もなく、ただ黙ってこちらを見ている。

 

「……そんな風に見えたかな」

「少なくとも俺にはね。まあ、その方が美しい友情として映るし、ドラマチックこの上ないもんな」

 

 しばらく沈黙が落ちた。

 ガゼボの少し頼りない屋根を風が撫でる。遠くで誰かの笑い声が聞こえた気がしたが、すぐに虫の声に消えた。

 真由は少し視線を逸らし、街灯の外に広がる暗闇を見た。

 

「……そうだよ。もし私がソリを取っちゃったら、きっとみんながっかりするよ」

「それは前にも聞いた。そうなったらそうなったで、俺や沙里がサポートするとも約束した。一生懸命やって、実力のある人が選ばれる。部長が目標を決める時に挙手しただろって。それに府大会のオーディションはちゃんと演奏してたって久石から聞いたよ。それにはめちゃくちゃ感謝してる。お陰で北宇治は関西大会に駒を進めることができたわけだし」

「それも、別に私の力じゃないから……」

 

 彼女の声は段々と小さくなり、思考の海を彷徨っているように見えた。

 

「……樟葉くん」

「なに?」

「久美子ちゃんがね、北宇治は完全な実力順であるべきだし、高坂さんがそれを望んだって言ってたんだ。でも、それだと難しいことも多いなって思うんだ。先輩を差し置いて後輩がAになっちゃったり」

「あ、あー……うん。それも否定は出来ないけど」

 

 ドキッとした。真由が北中での出来事を知るはずがないのに、まるで見てきたかのように言い当てたからだ。

 

「そうやって、全部上手い人だけが解決するのは合理的だと思うし反対するとかじゃないんだけど……」

 

 一瞬、彼女は苦しそうな表情を浮かべた。

 

「本当にそれだけなのかなって。だって部活って、本来は楽しくやるべきでしょ?」

「……っ」

 

 部活が楽しい。それは隆翔とは縁のない考えだった。故に言葉に詰まった。

 

「私、久美子ちゃんって凄くかっこいいって思うの。一年生の頃から今の北宇治で頑張ってきて、みんなのことをちゃんと見て、だから部長が務まるんだと思う。それを支える塚本くんや高坂さんも。外から見てて思うんだ。ああいうのがチームなんだって」

「あー……ははは」

「……?」

「ごめん、なんでもない」

 

 真由の『チーム』という言葉には、正直のところ懐疑的だった。彼女には、というより大半の部員にはそう見えているのかもしれない。しかし、度重なる独断は確実に不和として成長している。後輩たちから度々相談を受けている秀一はともかく、黄前や高坂がどこまでその情報を重要視しているかが重要な問題だった。

 そして真由が言おうとしていることは何となく理解できた。黄前が言った完全な実力主義とは、それまでの貢献度や経験値を加味しない。もし黄前ではなく真由がソリストになった場合、明らかに悪化するであろう雰囲気にして何かメリットがあるのだろうか、ということだ。

 

「それに、私は別にソリじゃなくてもいいの。夕飯の時、高坂さんが久美子ちゃんのことを練習に誘ってたんだ。多分今頃、どこかで二人で練習しているんだよ。それって、高坂さんも久美子ちゃんと吹きたいって期待の現れでしょ? 奏ちゃんだってそう。久美子ちゃんと高坂さんのソリならきっと全国に行けるって……私は、きっとそこに居ちゃダメなんだよ」

 

 眉を顰めながら苦しそうに微笑を浮かべる彼女は、冗談めかしているようで本気で怯えているようだった。黄前の立つ瀬を気にしているのは分かる。転校生という自分の境遇もあるだろう。だが、それだけではない気がした。

 何か別の理由がある。けれど、それが何なのかまでは分からなかった。

 

「もし黒江がソロ取ったところで、だからなんだよって俺は思うけどな。その不安は勿論だけど、それで拗れるような友情なんて捨ててしまえばいい──って」

 

 何でもないことのように放った言葉に、俯いていた真由が頭を上げる。

 

「それは、君が受け入れられたから言えるんだよ」

「そうかもな。でも、希美……俺の彼女だけど、彼女がまず手を差し伸べてくれたっていうのは、やっぱり大きくて。それにうちのフルートはさ、既に沙里と小田と中野の三人がいたんだ。しかも滅茶苦茶仲良くて、俺はその輪に入るのが怖かった。でもみんな拒んだりはしなくて、時期的に丁度アンコンのメンバー決めの時だったからフルート三重奏を四重奏に変えてまで、俺を出迎えてくれたんだ。俺はその恩に報いたい。あの三人が笑顔で部活を引退できるなら、俺はどんな労力も惜しまない」

 

 隆翔が入部した昨年の春。優子部長世代は既に新生北宇治としてスタートを切っていた。その中に飛び込むことができたのは憧れの存在だった希美や、マネージャーとして一緒に手を取ってくれた友恵、そして沙里、小田、中野という同級生の存在が大きかった。その恩は海よりも深く、山よりも大きい。

 今度は隆翔が真由に投げかける番だった。彼女が経験者だろうがそうでなかろうが、同じ外様の人間として手を差し伸べただろう。

 

「完成されたコミュニティに心が擦り減っているなら、それもここまでにしようぜ。黒江はもっと自由になってもいい筈だ」

 

 沈黙が落ちる。虫の声だけがやけに大きく聞こえた。

 真由は何も言わず、ただじっと隆翔を見ていた。その表情は街灯の影でよく見えない。だが、さっきまで感じていた妙な警戒心の気配が、少しだけ薄れたような気がした。

 

 やがて真由は小さく笑った。

 

「……樟葉くんってさ、時々変なこと言うよね」

「そう?」

 

 真由は少しだけ肩をすくめる。

 

「でも」

 

 そこで言葉を止めた。

 そして少しだけ考えるように視線を落とす。

 夜の虫の声が、静かに続いている。

 

「やっぱり私は、みんなで楽しく吹ければいいから……」

 

 遠慮ではない、明確な拒絶。

 真由は隆翔の視線から目を逸らした。

 

「……分かった。ごめん、オーディション前なのに」

「ううん……こっちこそ、ごめんね」

 

 再びの説得に失敗した隆翔は、ショックを顔に出さないよう取り繕った。そんな隆翔を見て居た堪れなくなった真由は、振り絞るように彼を労った。

 

「……オーディション、頑張ろうね。樟葉くんの気持ちは十分伝わったから」

「ああ……」

 

 不思議なまでに届かない真由の本心。鉄壁になるまでに頑丈になったのは周りの環境の所為だろう。隆翔はそれが憎くて仕方なかった。

 

 

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 ◆高橋沙里◆

 

 大浴場の引き戸を開けた瞬間、むわっとした湯気が顔に当たった。昼間の練習で火照った体には、少し重たい空気だったけれど、不思議と嫌ではなかった。

 この時間は三年生の入浴時間だ。合宿という張り詰めた緊張の糸が緩む数少ない時間ではあるが、この後のことを思うとそんな気分にはならなかった。みんなの面持ちも同じようで、脱衣所でも自然と口数が少ないように感じた。

 

 タオルとシャンプー、スキンケア用品を一式手にして、浴場へ入る。広い内風呂の湯面がぼんやりと光を反射している。天井は高く、壁は石造りで、どこか山の温泉宿みたいな雰囲気だった。大きな湯船の中では何人かの三年生が肩まで浸かっている。練習の疲れを溶かすように、ゆったりとした時間が流れていた。

 

「沙里」

 

 先に湯船に入っていた芽衣子がこちらを呼んでいる。

 私は頷いてから体を洗い、シャワーを止める。鏡の前に立つと、髪が長いせいで背中に張り付く感触が少し鬱陶しかった。ゴムで髪をまとめ、くるくると捻ってお団子にする。芽衣子も同じように髪をまとめていて、二人して似たような髪型になっていた。

 湯船に足を入れると、思ったより熱かった。

 

「……あつ」

 

 芽衣子の隣に来てゆっくり体を沈め、肩まで浸かった。お湯の温度がじわじわと身体に広がる。練習で固くなっていた肩や腕が、少しずつほどけていくようだった。

 ふう、と小さく息を吐く。

 隣の芽衣子を湯気越しに見る。濡れた髪を高い位置でまとめているせいか、いつもより首筋がよく見える。長いまつ毛に水滴が乗っていて、瞬きをするたびにそれが落ちた。もともと整った顔立ちだけれど、こうして見るとやっぱり綺麗だなと思う。

 湯気の中で、肌がやけに艶っぽく見えた。

 

「……芽衣子って、ほんっと綺麗だよね」

 

 ついつい口に出してしまった。

 

「なに、急に」

 

 芽衣子は少しだけ眉を上げて笑う。

 

「いや、なんとなく」

「お風呂でそんなこと言われても困るよ」

「ふふ、ほんとだね」

 

 私はお湯に沈みながら、くつくつと笑った。

 周りでは他の三年生たちが普通に会話をしている。今日の練習のこととか、自由時間の話とか。声は聞こえるけれど、ここだけ少し切り取られたみたいに、私と芽衣子の間の空気は静かだった。

 湯気がゆっくり天井へ上がっていく。

 私はぼんやりと湯面を見つめていた。

 しばらく何も言わずにいると、芽衣子がこちらを見た。

 

「沙里」

「うん?」

「今日はちょっと口数が少ないね」

 

 言われて、少しだけ苦笑いする。

 

「……そう?」

「うん」

 

 芽衣子は昔からそうだ。余計なことを言わないけど人の変化にはよく気が付く。

 私はお湯の中で指を組んだ。どう言えばいいのか、少し迷った。でも芽衣子の前では、変に取り繕う気にもならなかった。

 

「この後のオーディションで……」

 

 そこまで言って言葉を止めた。

 湯面に映った顔が、ゆらめく湯面に歪んで映る。

 

「──私、隆翔くんに勝てるかな」

 

 口に出した瞬間、胸の奥に溜まっていたものが少し軽くなった気がした。

 芽衣子は何も言わず、ただ静かにこちらを見て次の言葉を待っている。

 私は視線を落としたまま続けた。

 

「……今年に入ってから塾も行き始めて練習量も減ったし、それを待っていたかのように隆翔くんはこの部で一番上手いフルート奏者になっちゃった。府大会でソロを取られた時、正直やられたなぁって思った」

 

 言葉が詰まって、自嘲の笑みが浮かんだ。

 

「……私より上手い。それは六月のオーディションで決定的になった」

 

 湯船の中で、芽衣子の膝が少し動いた。

 それでも彼女はすぐには言葉を返さなかった。沈黙は長くはなかったけれど、私には十分長く感じられた。

 しばらくして、芽衣子が小さく息を吐いた。

 

「ねえ沙里。一年のときの関西大会でのこと、覚えてる?」

 

 その言葉を聞いた瞬間、思わず顔をしかめた。

 

「……思い出したくないな」

 

 湯気の向こうで、長いまつ毛がゆっくり瞬く。

 

「沙里はあの時から、うんと上手くなったよ。回り道をしながらね」

「……やめて」

 

 私は思わず顔を背けた。

 すべて昨日のことのように覚えている。忘れるわけがない。

 

 二年前の関西大会。私は場の空気に飲まれて、本調子とは程遠い演奏をした。段々と楽譜が視界の端で歪んでいくような気持ち悪さ。出そうと思った音が、指先で留まるような息苦しさ。最低限、みんなに迷惑をかけないように擬態しながら演奏した。

 結果発表の直前、私は芽衣子の前で涙が止まらなかった。

 あんなのは私の音じゃない。私のフルートだけが、私を拒んだ。それがショックで悲しみに暮れた。

 全国大会出場校の名前が読み上げられたとき、周りは歓声に包まれた。先輩たちは飛び上がるほど喜んでいた。でも、私はその輪の中に入れなかった。

 

「沙里だけだったよ。全国決まったのに、あんな怖い顔してたの」

「……」

「でも、その時思った。ああ、この子はきっと、もっと上手くなるんだろうなって……」

 

 私は湯面を見つめた。小さく波紋が広がっている。

 その時のことは、芽衣子の中でもタブーとされてきたのだろう。今それを口にするのは、芽衣子なりの優しさなんだと思う。でも少しだけ残酷でもあった。

 

「あのあと、言ってたよね」

 

 芽衣子の声は、いつも通り落ち着いている。

 

「“あんな演奏で全国なんて行きたくない”って」

「……覚えてない」

「うそ」

 

 短く言われて、少しだけ笑ってしまった。

 やっぱり芽衣子には嘘はつけない。

 

「次の年、沙里が雑賀先輩の跡を継いでピッコロになったのは、逃げたわけじゃないんだよね」

「うーん、どうなんだろ。あの時は別に逃げたくてピッコロに転向したつもりはなかったんだけど、今思えばその気持ちも何割かはあったと思う」

 

 フルートで一番になることより、もっと自分を追い込める場所を探した。それがピッコロだった。逃げるとか逃げないとか、そんな精神状態でもなかった。今、あの頃を客観的に見れるようになると、逃げたっていう気持ちもないとは言えなかった。

 

「ねえ沙里」

 

 気付けば、芽衣子は私の方を向いていた。

 

「沙里はまだ、樟葉に勝ちたい?」

 

 私はそのまっすぐな瞳の前に言葉が出なかった。

 彼よりも上手い演奏を。その気持ちはもちろんある。ただ、どうやって?

 互角である以上、滝先生が望む演奏をした人がソリストになる。それに、そのアドバンテージは府大会で吹いていた人にある。私が逆転する目は、ほとんど無いに等しい。

 

「……また隆翔くんになったら、きっと全国でも吹くよね」

「そんなの分からないでしょ」

「ううん、分かる。私よりも隆翔くんの方が本番で望まれてるってことだから」

 

 はぁ、と揺れる湯船に溜息を吐く。まだ、私は彼と並んでいる。ただし、今日のオーディションでソリストになれなければきっと二番手のまま終わるだろう。芽衣子は否定してくれたけど、その予感はじわじわと確信に迫っていた。

 芽衣子は肩までお湯に浸かりながら、淡々とした口調で言った。

 

「メンバーになるとかソロを掴むとか、もちろん大事なことだよ。特に沙里はパーリーだし、みんなの期待や視線もある。でも、それだけじゃないよね?」

 

 芽衣子はふっと笑った。

 

「だって沙里が一番良い音出す時って、いつも本番だったでしょ」

 

 その言葉に、私は思わず顔を上げた。

 

「私も蕾実も、多分樟葉もそれを知ってると思う」

 

 湯気の向こうに見える芽衣子の表情はいつもと変わらない。でも、どこか確信めいたものがあった。

 

「……そうかも」

 

 と、私は小さく笑った。さっきまで胸の中にあった重たいものが少しだけ軽くなっている。

 勝つとか負けるとかそれだけじゃない。私は音楽が好きで、フルートを吹くのが好きで、この吹奏楽部が好きだ。そこで後悔したくない。

 

 全力で最後までやり切りたい。北宇治の最後の音を、私は吹きたい。

 芽衣子が湯船から立ち上がる。

 

「のぼせるよ」

「うん」

 

 芽衣子のあとに私も続いた。お湯から出ると、肌にひんやりした空気が触れる。自然に頭も冷えたのか、思考がクリアになった。

 タオルで体を拭きながら、私は少しだけ笑った。

 

「芽衣子」

「なに?」

「ありがとう」

 

 芽衣子は振り向かずに言った。

 

「オーディション、きっと大丈夫だから」

「うん」

「練習するでしょ?」

「うん!」

 

 短い激励。芽衣子らしい言葉で、私は前を向けた。

 後悔したくないから私はまたフルートを持った。誰にも言ってない秘密だけど、芽衣子にはお見通しだろうなと思った。

 

 

 

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 永遠に思えた待ち時間も、来てしまえば呆気ないものだ。

 午後八時を回った頃、大ホールでは関西大会に出場するオーディションが行われている。先程ひとつ前に行われていたクラリネットパートのオーディションが終わり、いよいよフルートパートの順番となった。

 オーディションは二人の顧問の前でひとりずつ演奏する。パートリーダーの沙里から、小田、中野、次いで隆翔、そのあと二年生、一年生と続いていく。それ以外の部員は、ホールにつながる扉の前に並べられた椅子に座って待つことになっている。

 

 不思議と緊張も高揚感もなく、心が凪いでいた。

 他のメンバーは最後の確認作業に勤しんでいる。もう、ここで音を出すことは許されない。それぞれ楽譜を見ながら指を動かしていく。

 滝からどの箇所を指定されても吹きこなせる自信はある。この中の誰より上手く吹く自信がある。今まで通りでいいと自分に暗示をかけた。

 

「これよりフルートパートのオーディションを始める。まずは高橋からだ。入れ」

「はい」

 

 ホールの中から松本が現れ、トップバッターの沙里が一緒に入っていく。その後ろ姿に、小田が声をかけた。

 

「沙里、がんばれ」

 

 沙里は振り返り、小さく頷いた。

 隆翔はその背中に声をかけることが出来なかった。声を掛けることが正解なのか分からなかった。

 学校の音楽室と違って、ホールの扉はしっかりと防音されている。中で演奏してる音はほとんど聴こえない。後ろに控える身としては、前の奏者の音がどうしても気になってしまう。それがないことは有難かったが、沙里がどのように演奏しているのか分からず、焦燥感が小さく、ただ確実に積もっていた。

 隆翔は膝の上に置いたフルートケースを指先でなぞる。金具の冷たい感触が指先に残る。開けることはない。もう音を出す時間は終わっている。

 やがて扉が静かに開き、沙里がホールから出てきた。普段と変わらない表情。息も乱れていない。演奏を終えた直後の奏者特有の張り詰めた空気もほとんど感じなかった。

 小田がすぐに顔を上げる。

 

「どうだった?」

 

 沙里は少しだけ首を傾げてから答えた。

 

「まあ、普通かな」

 

 隆翔はその横顔をちらりと見た。

 普段と同じ表情だが、何かが違う気がした。どこが、とは言えない。ただ、午後の練習で見た顔とは明らかに違っていた。結果に対して達観したような雰囲気を纏っている。隆翔は気になったが、声をかける余裕はなかった。

 

「じゃあ、次私だから」

「頑張って芽衣子。私、先に部屋戻ってるから」

「分かった」

 

 小田は一度頷いて、ホールへと吸い込まれていった。

 再び静寂に包まれる。時計が秒針を刻む音だけが待機する七人を包み込む。

 メンバーは誰も口を開かない。譜面を見つめる者、目を閉じて呼吸を整える者、それぞれが自分の時間に沈んでいた。

 五分ほどで小田が退室してきた。彼女も沙里同様、自信に満ち溢れた顔をしている。

 小田の次に中野が呼ばれた。二人は一言二言交わし、中野はホールへと入室していった。コンクールメンバー入りを果たすべく、その表情には覚悟と信念が浮かんでいた。

 中野蕾実には闘争心がある。普段はおっとりとした性格から後輩たちに慕われているが、やはり三年間やってきたという自負と意地があるのだろう、府大会メンバー落ちを経験してからの約二か月間の努力は凄まじかった。そして「チームもなか」のリーダーとして金賞を獲得してからはその演奏に磨きがかかっていた。数か月前まで存在していたフルートパート内の序列は、少なくとも三年生の間では殆ど存在していなかった。

 

「じゃあみんな、行ってくるから」

「頑張ってください、つぼ先輩!」

 

 小田のオーディションが終わり、中野の順番が回ってきた。江藤や平石といった「もなか」で研鑽を積んだ後輩から激励の言葉が贈られる。慕っている先輩の復権を願うのは当然だ。そこに自分を天秤に掛けたとしても、感情に嘘はつけない。

 

 次はいよいよ隆翔の順番だ。

 上手い下手でメンバーが決まるほど単純なものでもない。五十五人という人数の中で、演奏曲に最も適したメンバーが選ばれる。今年に限って言えば、低音はかなり気を遣っているはずだ。昨年は体格のある後藤先輩と肺活量が自慢の長瀬先輩がいたチューバは、卒業した彼らの穴をどう埋めるか思案を巡らした。その結果、三年の加藤、二年の鈴木美玲、そして初心者だがスポーツ経験者の釜屋すずめが選ばれた。他にも一、二年生のサプライズ選出はあったが、より顕著だったパートはやはり低音だった。

 

「ター、タカタカ、ッタッター……」

 

 楽譜の上で指を動かす。午後の練習で新山からしつこく指導された部分も詰まることはない。自分でイメージする音とフルートが出す音が同じになるよう意識する。

 ふと、思い出すことがあった。

 中学二年生のコンクールオーディション。隣にいたのは共に研鑽を積んだ同級生、内藤秀。隆翔は緊張で冷たくなった彼女の手を握って温めた。いつも通りを取り戻した彼女のふにゃりとした笑顔は、なぜか隆翔の目に焼き付いて離れなかった。

 それから、内藤との記憶は三年もの間、空白となった。

 最後に会った真夏の演奏会。舞台で堂々と演奏する彼女を見て誇らしい気持ちになった。同時に、まだ舞台へ上がる覚悟を持てていなかった自分に再び問いただす機会にもなった。

 内藤が今の隆翔を見たら、なんて言葉を掛けるだろう。

 上達と成長に破顔するだろうか。それとも、友達を利用してまで目的を成就させようと目論む姿勢を軽蔑するだろうか。

 いずれにしても、もう引き返すことは出来ない。本当の戦いはもう始まっている。

 

「樟葉くん、次どうぞ」

 

 フルートを握る。冷たい管が熱を帯びる。まるで、生きる力を分け与えるように。

 

「失礼します」

「どうぞ」

 

 中から滝の声が聞こえる。扉を開けて広いホールの中を眺める。席はポツンと三つだけ。滝と松本が並んで座っていた。

 

「では、楽器と名前を」

「はい。フルート三年、樟葉隆翔です」

 

 眼鏡の奥で、彼の双眸が隆翔を品定めするように動く。

 隆翔はゴクリと生唾を飲んだ。

 

「準備はよろしいですか?」

「はい、大丈夫です」

「これはオーディションですが、あくまでいつも通り演奏してください」

「はい」

 

 さっきまで高鳴っていた心臓は通常の心拍数に落ち着いている。冷静沈着と言っても良い。

 ただ、不思議なまでに心が熱を持っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 照明が落とされた廊下に月の光が差し込み、床が青く光っている。

 二十二時半を過ぎた頃。消灯時間の過ぎた建物は、昼間掻き鳴らされる楽器の音が嘘のように静かだ。煌々と光る自動販売機の人工的な灯りを背に、隆翔は炭酸飲料のプルタブを開けた。

 

「はぁ……」

 

 オーディションは終わった。府大会の時とは違って確実なことは言えない。大会中に実力を伸ばす人がいる、というのはあながち間違った見立てではない。だからこそ、じりじりと崖っぷちに詰め寄られるような感覚に襲われていた。

 何もかも上手くいかない。真由の説得も、オーディションも。

 

 

 

 

「誰かいるの……?」

 

 思いに耽っていると宿舎棟から一人の女子が出てきた。照明が消されているので、はっきりと顔が見えなかったが、心当たりのある声がして隆翔は顔を向けた。

 

「……黒江」

「樟葉くんか。びっくりしちゃった」

「こんな夜更けにどうしたんだ?」

「うん、ちょっと眠れなくて……」

 

 真由はどこか歯切れが悪い。というより、なぜこうも悲しそうなのだろう。

 夕食後に話した時はここまで表情は暗くなかった。小さな違和感が、心の中で大きくなっていった。

 真由は自動販売機の光の中へ歩み寄ってきた。月明かりだけだった廊下に、白い蛍光灯の光が混ざる。昼間の喧騒を思えば信じられないほど静かな夜だったが、その人工的な灯りだけは妙に鮮明で、二人の影を足元にくっきり落としていた。

 隆翔は缶を軽く揺らしながら答える。自動販売機の前で、飲みたいものを探しているというより、ただそこに立っているだけだった。

 夜の空気は冷たく、言葉を発するのを躊躇わせるような静けさがあった。

 

「……樟葉くん、ごめんなさい」

 

 唐突な謝罪に隆翔は缶を口から離す。

 

「何が?」

 

 真由はすぐには答えなかった。視線を自動販売機の下の方に落としたまま黙っている。言葉を探して、そのまま迷子になってしまったようだ。

 夕食後に交わした会話のことを思い出す。真由はあのとき、困ったように笑って隆翔の説得を躱した。

 

「夕食のあと……話してくれたでしょ。私が逃げてるように見えるって」

「ああ……」

 

 相槌を打ったが、謝られるようなことを彼女はしなかった。むしろ、軽く無礼なことを言った気がしていた。

 あのとき自分が何を言ったのか、必死だったのもあって全部覚えているわけではない。ただ、真由がソリを辞退するつもりだったので、思ったことをそのまま口にした。

 真由は言葉を選ぶように続ける。

 

「でも、滝先生なら気が付くと思う」

「っ! 本気で吹いたのか?」

 

 真由は黙って頷いた。しかしその顔に、笑顔は無い。

 隆翔は驚きで崩れた姿勢を直した。

 

「最初は断ったのになんでって思ってる?」

「……いや、思わないよ。黒江がそうしたいって思ったのならそれが正解だと思う。むしろ俺の方こそ謝らなきゃいけない。今まで期待を押し付けて、本当にごめん」

 

 座りながらではあるが、隆翔は真由に首を垂れた。彼女は戸惑いながらもその言葉を受け取った。

 

「でも、どうしていきなりそうしようって思ったんだ?」

「うん……あのね──」

「ああいやっ、ごめん、言いたくないなら無理に言わなくてもいいよ」

 

 踏み込みすぎる悪癖が出てしまったので、慌てて真由の言葉を遮る。そういうところが、彼女の心を追い詰めていたに違いない。

 しかし、今度は逆に真由が隆翔の言葉を制した。

 

「ううん。樟葉くんに聞いてほしいの……」

 

 今までにない展開に、隆翔は瞳をパチクリと動かした。真由から能動的に口を開くことなど、今までに無かったから。

 真由は小さく息を吸って、息を吐いた。

 

「さっきね、お風呂場で久美子ちゃんと話したんだ」

 

 隆翔は少し眉を上げた。

 真由はペットボトルのラベルを指でなぞりながら続ける。

 

「その時も私、辞退しようかって言ったんだ。そしたら久美子ちゃん、こう言ったの」

 

 真由は少しだけ視線を遠くに向ける。

 

「北宇治はね、一番上手い人が吹くんだよって。昔は違ったけど、みんなで変えてきたんだって」

 

 真由は少し困ったように笑った。

 

「だから、辞退したらこれからの北宇治のためにならないって」

 

 少し間が空く。

 

「……かっこいいよね。久美子ちゃんって」

 

 その言葉には、尊敬と、ほんの少しの戸惑いが混ざっていた。

 真由の声にわずかな震えが混じる。

 

「奏ちゃんも、高坂さんも……みんな、久美子ちゃんが吹くのが一番いいって思ってる。みんな久美子ちゃんに期待してる。それなのに、私が本当に選ばれて……もし、本番で吹いちゃったら──」

 

 言葉は最後まで続かなかった代わりに、静かな吐息が夜に溶ける。

 

「私、どうしたらいいのか分からない」

 

 隆翔はしばらく黙っていた。ただ正直なところ、気の利いた答えは思い浮かばなかった。オーディションの結果がどうなるのか、それは滝にしか分からない。黄前が選ばれる可能性だって十分あるし、真由が選ばれる可能性だってある。

 結局、思ったままを口にするしかなかった。

 

「久美子ちゃんに怒られちゃった。私が本気で吹いたら、久美子ちゃんが落ちるのは当然なのかって。酷いよね。私そこで否定できなかった」

「黒江は酷くないよ」

「酷いよ」

「酷くない。もし、俺と沙里が同じ口論をしたらそこで自分を肯定する。自分の方が上手い、だから本番で吹いて当然だって」

「それは……やっぱり二人だから言えるんだよ」

「でも黒江だって否定しなかったんだろ。心のどこかで黄前の主張も正しいって思ってる。そして合奏が好きだから、良いものにしたいっていう気持ちには抗えなくて、高坂とのソリに相応しい演奏をした。そうだろ?」

「……うん」

「それにさ──」

 

 隆翔は真由の顔を覗き込むようにして、にやりと笑った。

 

「これは悪口じゃないんだけど、あいつも手抜かれて負けるより、ちゃんと吹いたお前に負ける方がまだマシだと思うんじゃないか?」

 

 真由は少し驚いたような顔をしたあと、小さく笑った。

 

「やっぱり樟葉くん、ときどき変なこと言うよね」

「褒めてないだろ」

「……うん」

「言うようになったな、コノ」

 

 真由はしばらく黙っていたが、やがて自動販売機のボタンをひとつ押した。

 

「……でも、ちょっとだけ安心した」

 

 真由の声はもう落ち着いていた。

 

「何が?」

「ちゃんと吹いて良かったって、少し思えたから」

 

 真由は窓を覗き込んで、南の夜空を見上げた。

 

「そういえば先週、ペルセウス流星群の極大だったって知ってる?」

「へえ、知らなかった。ここから見えたら良かったのにな」

「そうだね」

 

 星は宇治で見るよりも輝いている。天体望遠鏡なんてなくても、頭の上に広がった夏の星たちに感嘆の息を漏らした。

 今なら、ほうき星が見えるまで何時間でも待てる気がした。

 

 

 

 

【つづく】

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