合宿二日目の朝。男子部屋の皆が起床すると同時に、隆翔も目を覚ました。
昨日は真由との会話のあと、練習の疲れもあって早々に眠りに落ちたようだ。
「おーい靖也、起きろー」
「うーん……んにゃ……」
まだ夢の中の鈴木靖也を、同じく二年の北山タイルが起こしている。ちかおは寝癖を付けながら布団の上で大欠伸しているが、それとは対照的に秀一の布団は既に畳まれており、部屋にはいなかった。
朝食はごはんに目玉焼き、ウインナーソーセージ。サラダも付いてバランスのいい献立だった。各々時間内なら自由に食べられるシステムだが、時間と同時にほとんど全員が席に着いた。
「いただきます」
黙々と食事をする。
時刻は午前七時。あと一時間で午前の練習が始まる。つまり、昨晩のオーディションの結果が発表されるのだ。
「おはよ、樟葉くん」
「おはよう沙里」
トレイを持った沙里が隆翔の隣に座る。顔はスッキリしているが、いつもより髪のボリュームがある。隆翔の思考を読んだのか、恥ずかしそうに髪を手櫛で整える。
「ああこれ? いつもはアイロン掛けてるんだけど、ごはんに間に合わなそうだから後でやろうと思ってて……」
「大変だな」
「うーん、でも、もう慣れちゃった。隆翔くんは朝練やったの?」
「いや、ついさっき起きたから」
「昨日オーディションもあったし疲れたもんね。でも毎年合宿になると、みんな早起きして練習してるんだよ」
「そうなんだ」
「樟葉くんが良ければ、明日朝練しない?」
「……起きれたらね」
「それもそうだね」と沙里が笑う。
練習に誘われるのはいつものことだ。しかし、喉に引っ付くような違和感が拭えないのは、昨日のことがあるからだろうか。
張り付いた引っかかりを無理矢理飲み込むように、コップに残った水を流し込んだ。
◇◆◇
オーディションの結果発表は、大ホールで行われた。発表といえば音楽室という刷り込みがあるせいか、この状況にはなんとなく違和感がある。合奏隊形に並べられた椅子に九十一名の部員が座って整列する。その正面、指揮台には滝が立っていた。
「これから、オーディションの結果を発表します」
堂々とした口調で滝は言った。これまで、メンバー発表は副顧問である松本の仕事だった。そんな彼女は今日、新山、橋本とともに観客席で部員の様子を見守っている。そんな違和感を覚えつつも言葉は続く。
「京都府大会と関西大会でメンバーを変えるのは、北宇治にとって初めての試みです。去年と違う点も出てくると思いますし、苦労することもあるかもしれません。ですが、このシステムを採用すると決めた以上、これが最善だったと言えるように行動していきたいと考えています」
滝は一旦言葉を区切って全体を見回した。
「今回のメンバー発表に関する苦情は受けつけません。怪我などの大きなトラブルがない限り、メンバー変更も行いません。これから名前を呼ぶ五十五人が、現段階の北宇治のベストメンバーです」
滝によるこうした訓示は珍しいと、誰もが思った。逸る心臓を呼吸で司りながら、隆翔はじっと前だけを向いた。
「では、発表します。名前を呼ばれたら必ず返事をしてください。まず、トランペットから。三年、高坂麗奈さん」
「はい!」
「三年、吉沢秋子さん」
「はい」
「二年、小日向夢さん」
「はい」
「二年、
「はい!」
「二年、浅倉玉里さん」
「はい」
「二年、滝野さやかさん」
「はい」
「以上六名──」
トランペットは府大会の時と変わらない。皮肉なもので、誰かがサプライズ選出されることよりも、メンバー変更がないことに皆安堵している。そんな弛緩した空気の中で、滝は淡々とメンバー発表をしている。
「続いてトロンボーン。三年、塚本秀一くん」
「はい」
「三年、赤松麻紀さん」
「はい」
「二年、葉加瀬みちるさん」
「はい!」
「バストロンボーン。三年、福井さやかさん」
「はい」
「以上四名」
トロンボーンは全員実力のあるメンバーが選ばれた。秀一や赤松、福井は三年生として。そして葉加瀬みちるも、その実力に奢ることなく関西大会の切符を掴んだ。
それから発表はホルン、サックスと発表された。ここまでは府大会と大した変更もない。メンバーの入れ替わりは、それだけで大きな波紋を発生させる。起きないに越した事はないが、起きないということは無いという確信めいたモノがホールに渦巻いていた。
「──オーボエ。二年、剣崎梨々花さん」
「はい」
「一年、加千須みくさん」
「はい!」
「以上二名。続いてファゴット。二年、兜谷えるさん」
「はい」
「二年、籠手山駿河さん」
「はい」
「以上二名──」
二年生と一年生で形成されているダブルリード。そこからは経験豊富な上級生が順当に選ばれた。梨々花はみぞれ卒業後、急速に実力を伸ばした。アンサンブルコンテストの練習中にみぞれに会うことを「甘えてしまう」と言って拒んだ彼女は、一年生指導係の経験も相まって名実共に二年生の精神的支柱となっていた。
木管の発表が続く。即ち、次の楽器は。
「続いてフルート──」
隆翔はごくりと生唾を飲んだ。早くこの空気から解放されたいという願望と、少しでも知るのを引き延ばしたいという欲求が互いにせめぎ合っていた。
「三年、高橋沙里さん」
「はい」
「三年、小田芽衣子さん」
「はい」
「三年、樟葉隆翔くん」
「はい」
「三年、中野蕾実さん」
「……はいっ!」
「一年、吉田巧美さん」
「は、はいっ!」
「ピッコロ。二年、山根つみきさん」
「はい」
「以上六名──」
ホールの空気が揺れた。遂にメンバー変更が起きた。
府大会でメンバー選考から外れた中野が呼ばれ、府大会で五名体制だったフルートは六名体制で関西大会に臨むこととなる。
となれば、戦々恐々となるのはまだ呼ばれていない楽器だ。どこかのパートが一人分枠を削られる。その結果を受けるストレスとハレーションに、北宇治は直面することとなる。
「続いてクラリネット。三年、高久ちえりさん」
「はい」
「三年、高野久恵さん」
「はい」
「三年、植田日和子さん」
「はい!」
「二年、加藤樹さん」
「はい」
「二年、平沼詩織さん」
「はい」
「一年、義井沙里さん」
「はい」
「アルトクラリネット。二年、北山タイルくん」
「はい!」
「バスクラリネット。三年、松崎洋子さん」
「はい」
「一年、中田いちごさん」
「……はい!」
「Esクラリネット。二年、端田麻耶さん」
「はい」
「以上十名──」
そして、フルートが増員された影響はすぐに現れた。高久や高野などが使う通常の
受かった中田は自分の名前が呼ばれたことが俄かには信じられないのか、驚きと喜びで口元に手を当てている。対照的に名前を呼ばれなかった二人は、ガックリと頭を落としていた。なおもまだ、滝による発表は続いていく。九十一名のうち、コンクールに出られるのは五十五名。半分以上は名前が呼ばれるが、半分近くの部員は無慈悲にも落選となる。ここから先は低音、そしてパーカッションと北宇治の核とも言える楽器の順番が来る。
「続いてユーフォニアム」
隆翔は無意識に身構えた。
「三年、黄前久美子さん」
「はい」
「三年、黒江真由さん」
「はい」
「以上二名──」
えっ、と久石の口から小さな声が漏れた。黄前の懐刀とも言える久石奏は、経験者という肩書きでありながら選考から漏れた。
横目でユーフォニアムの隊列にいる三人を見る。久石はただじっと指揮台の滝を凝視し、黄前は何が起こっているのか分からないといった表情で彼女を見ていた。動揺が波紋となって室内に伝染する。久石は一年生からAメンバー入りを果たしてきた実力者だ。そんな彼女が落ちたことに疑問が噴出しても、誰も声を上げるような事はしない。
「次にチューバ。三年、加藤葉月さん」
「はい!」
「二年、鈴木美玲さん」
「はい」
「二年、鈴木さつきさん」
「はいっ」
「一年、釜屋すずめさん」
「はい!」
「以上四名──」
そのユーフォニアムで溢れた枠を、同じ低音のチューバで補った。低音が少々弱いという話はそこかしこで話題に上がっていたので、順当といえば順当な処置である。だが、理屈を理解できても感情まで納得できるとは限らないのが人間である。初めてコンクールメンバーに入った鈴木さつきは喜びを噛み殺すように口元に手を当てている。その横で佇む長身の鈴木美玲は親友の久石が落選したことと、同じ楽器で無二の友である鈴木さつきが選ばれたことへの板挟みに遭っていた。
発表は佳境に入っていた。コントラバスは川島緑輝と月永求が順当に選ばれ、パーカッションも府大会と同じメンバーで構成される。
五十五名のうち三年生は全員が選ばれ、二年生が数名落選し、一年生からの抜擢もあった。だが、発表はこれで終わりではない。隆翔も沙里も、自然と背筋が伸びる。
「──ではこれより、自由曲のソロメンバーを発表します」
自分なのか、それとも違うメンバーが選ばれるのか全員気が気でない。追われる立場に立ったのは初めてだ。贅沢な話だが、それでも手放すのは惜しいと思ってしまうのがソロであり、その責務は麻薬のような快楽をもたらす。
「クラリネット。三年、高久ちえりさん」
「はい」
「マリンバ。三年、釜屋つばめさん」
「はい」
「コントラバス。三年、川島緑輝さん」
「はい!」
矢継ぎ早に名前が呼ばれる。それを追うことに精一杯になりながら、自分ではない名前に安堵する時間となった。しかし、それも終わりを告げる。次はフルートだ。
「フルート。三年──」
ぐっとフルートを握り締める。楽観と悲観の間にいながら、前者の耀きに手を伸ばそうとした。
「高橋沙里さん」
「……はいっ!」
決意と責務の防波堤は、簡単に決壊した。
隆翔はソリストではない。関西大会で最後の音を吹くのは親友の沙里が務めることとなった。
「トランペット。三年、高坂麗奈さん」
「はい!」
「最後にユーフォニアム。三年──」
隆翔の思考は自分が落ちたことよりも、ユーフォニアムのソリストの行方にシフトしていた。昨晩の真由の決意は本物だ。となれば、彼女は空気という名のパンドラの箱を開けるだろう。隆翔はそれを望んだ。そして黄前久美子は、初めて本格的な挫折を覚える。
「黒江真由さん」
「はい」
最後に冷たくも熱い返事がホールに響いた。
眉端を垂らし、彼女は唇を静かに動かした。
黄前は条件反射で返事をしようとしたのか、口を半開きにしたまま固まっている。彼女が自身に驕っていた何よりの証拠だった。挫折を知らず、音楽巧者である高坂と並々ならぬ関係であることに固執した。今回で言えば自分に匹敵する演奏技術を持つ真由に対しても、無意識に見下していたのかもしれない。
オーディションでは完全実力主義を目指すと決意したのは黄前自身だ。当然、彼女が不満の声を上げることは許されない。そして、自身の感情と立場の板挟みを経験するだろう。
滝が手元でファイルをパタリと閉じる。それが発表終了の合図だった。
「これで、すべての発表が終わりました。京都府大会から変更を加えた点もところどころあり、不満を持つ人もいるかもしれません。ですが、北宇治の音楽をベストにするにはこれがいちばん適した形だと私は考えています。関西大会まで、残された日数はわずかです。今年こそ、全国への切符をつかみましょう」
『はい!』
それからホールでは三十分間の音出しが行われ、メンバーではない部員は小ホールに移動となる。楽器を持ってその場を後にする元メンバーの背中が一層小さく見えた。
隣では後輩たちが新たにソリストとなった沙里を労っていた。
「沙里先輩、ソロおめでとうございます」
「ありがとう。絶対全国獲ってくるからね!」
ソロを奪われたことは確かに悔しいが、不思議と嫌な気分ではなかった。隆翔自身も、この音を継ぐのが沙里なら文句の付けようがないからだ。同じ想いを共有し、目指す場所が同じだからこそ今は一旦預けよう、という気分だった。
隆翔は腰を上げ、沙里の前に立つ。府大会から守ってきた隊列の中心。そこはソリストの座る定位置だった。希美から受け継いだこの場所を明け渡す虚しさはあるが、そのレガシーを彼女が汚すとは思えない。
「隆翔くん?」
「沙里、場所変わろう」
「えっ、いいよいいよ! 私は今のままで」
「ばか。ソリストが指揮者に一番近くなくてどーすんだよ」
「そうよ沙里」
隆翔の反論に小田が追撃し、遠慮がちに最も指揮者に近い席に座った。初めてソリストになった実感を、じんわりとその胸に感じながら。
「一つだけいい?」
「何?」
「今は預けておく。ただ、全国でもそこを沙里に任せるつもりはないからな」
隆翔の宣戦布告とも取れる言葉に、沙里の瞳は大きく開いた。そして力強く頷いた。
他のパートがメンバー変更に動揺している中、比較的大きく揺れ動いたフルートパートは、持ち前のチームワークと互いの信頼関係によって支えられている。沙里のソリスト就任は好意的に受け入れられた。
◇◆◇
「では、十五分間の休憩とします」
『はい!』
新しい編成での合奏は、通し練習から始まった。滝はフルスコアをめくりながら、丹念に奏者間の差異を潰していく。練習が進む中で、滝、新山、橋本による容赦のない指摘が繰り広げられた。細かいところまで拾い出すと、当然ながら進度は遅くなる。午前練習が始まってから二時間。隆翔や他の奏者も焦りを隠せなくなっていた。なぜなら、まだ第一楽章すら終わっていないからだ。
考えながら演奏をすれば、当然脳は糖分を欲する。午後は眠気との闘いだと覚悟したほうが良さそうだった。
「隆翔くん、ラムネいる?」
「サンキュー」
沙里から粒状のラムネが差し出される。疲れた体に糖分と彼女の優しさが染みわたる。
「去年、先輩に教わったんだ。頭使うし、疲れた体にはブドウ糖だよ」
「なるほど、流石だね」
後輩たちにも分け与えながら、各パートメンバーの調子を伺う。今のところ体調の芳しくない部員はいないようだった。
「部長は大丈夫ですかね」
「ソリねぇ。部長、高坂さんと仲が良いからショックだろうね」
「久石先輩といい、今回結構入れ替わりましたから」
今回新たにメンバーに加わった中野と一年生の吉田の会話が耳に入る。休憩時間の話題はもっぱら先ほどのオーディションの結果だ。
同じソリストの入れ替わりなら隆翔と沙里にも言えることだが、早々に隆翔が沙里を受け入れたことで心配の種にはなっていない。むしろ、他のパートと比較しても雰囲気は良好だ。心配や同情に晒されない現状に隆翔は安心していた。
フルートパートの人数が増えたことによって、クラリネットの人数が減った。ユーフォニアムとチューバが人数を入れ替えたようなことが木管でも起きてしまっていた。
「クラはただでさえ激戦区なのに人数減らされたのはキツイだろうね。自分のパート内で競争していたつもりなのに、他パートとも枠争いしなきゃいけないってなるとフラストレーションも溜まりそうだ」
「アンコンで全国に行った四人を除けば割って入れる枠なんて一握りですもんね」
「あ、それで疑問なんですけど、今回ってなんでウチのパートの人数が増えたんですか?」
ピッコロの山根が疑問を口にする。吉田も同じことを考えていたのか、体を隆翔の方向に向けた。しかしその質問に答えたのは、隆翔ではなく沙里だった。
「これはただの想像なんだけど、自由曲の第二楽章を補強するためなんだと思う。ほら、あそこって第一楽章と比べて金管の比重が重いでしょ? 元から章ごとにバランスが難しい曲だから、府大会の演奏を聴いて、滝先生なりに対策を立てたんじゃないかな。で、
沙里の言葉に、小田や中野も思い当たる節がある反応を示す。確かにお盆休み直前から、やたらとフルートの音を聴くような指摘が相次いだ。木管とのハーモニー、金管とのアルペジオなど、滝のタクトは思い描く形へと試行錯誤していた。
「でも、随分急な気もします。坂崎先輩、かなり落ち込んでましたから」
「それはどこも同じだよ。府大会から関西は近いし、どうしてもこうなっちゃう。ただ、確かに今までのような説得力は薄いかもね」
その言葉を裏返せば、滝への信頼に僅かなヒビが入ったとも言える。特に、今は関西大会を目前に控えている。昨年の結果を乗り越えるために、滝は迷い悩んでいる。彼の心境が透けて見えるオーディションだった。
休憩が明けると、再び通し練習から始まった。新しい編成でのソロは、それだけで新鮮さがある。沙里が吹く第四楽章、最後の音は隆翔とは違う柔らかさがあった。その音を聴いた新山が頷く姿が視界に映った。
「フルート、ここから五小節間はほかの楽器と連動していますので丁寧に。クラリネット、Esクラ、オーボエも同じ形ですから、音の形がひとつだけ目立たないように注意しましょう」
「今のクラリネット、連符をもっと丁寧に!」
「トランペット。今まで何の練習をしていたのですか。ここの高音を外すのは罰金ものです。精度を上げるにはどうするべきか、わかっていますね」
「グロッケン、ここの入り方注意して。聴かせどころだよ」
先ほどから吹いては止め、吹いては止めを繰り返している。進みは遅いわりに、求められる内容はどんどん増えていた。
そんな中で、橋本が懸念を口にした。
「滝クン、この調子だと第二楽章は地獄じゃない?」
「そうですね……」
滝は軽く顎を摩りながらフルスコアをめくる。レンズの奥の瞳は何かを探すように左右に動いていた。
「滝クン、少し話してもいい?」
「どうぞ」
「なんというか今年はみんな凄く、ピリピリしてるんだよ。ガッチガチに固まっているというか……硬い! まぁ完全にカチカチ山の狸さんだな。一度おっぱい飲んでねんねでもする?」
ピシッと冷たい空気がホールに流れた。もちろん、彼の冗談なのは分かっているが、今の精神状態で笑える部員は一人として居なかった。
「あれ、もしかしてボク、ド滑りした? すみません!」
その下げた頭に、ようやく笑いが起こる。僅かな空気の弛緩。これが橋本の狙いだったのだろう。やり方は置いておくとして。
「そうそう、その気持ち。明らかにテクニックは去年より上がってるし、実力の底上げもできてる。ただ気持ちが焦りすぎ。上級生には耳に胼胝かもしれないけど音を──」
「楽しむ、と書いて音楽ですね」
「本当に分かってる?」
橋本は翻って滝を見上げて言う。そこには、顧問とコーチではない関係が透けて見えた。
「分かっていますよ。もちろん」
「いや、滝クンにだけ言ってるわけじゃなくてね。ボクはこの場にいる全員にも言ってる。顔しかめて眉間に皺寄せて、それで良い音楽が出来るんだったらいいけど、ボクはそうは思わない。勿論、悲しい曲とか苦しみを描いた曲もあるし、そういう時は感情を乗せて行かないといけない。でも、悲しい気持ちや想いを込めて演奏するのと、悲しみながら演奏するのは違う。ま、良い音楽が何かって考え出すとなかなか難しいけどね。コンクールで結果を出す事が全てなのかって、たまに言いたくなるよ」
橋本の言葉が隆翔には痛いほど理解できた。
優子と夏紀のバンド演奏は、隆翔の心に深く深く響いた。クラシックとかポップスとかロックとか、音楽ジャンルという括りを一度排除して考えれば、あれは二人の「音楽」だった。難しいことを考えずに、心が「良い」と評価した。そういうことを橋本は言っていた。
音楽は手段ではないし道具でもない。みぞれは希美に縋る道具としてオーボエを続けていたが、音大進学を期に違う考えもあると気付いた。希美は音楽をステータスとして考えていた。だから嫉妬も敗北感も抱いてしまった。でもそれではダメなのだ。音楽は楽しくなければならない。楽しくなければ、あの頃のように距離を置くしかなくなるのだから。
「お、フルートのキミ。そんなに感動してくれたのかい?」
橋本の言葉に感激していると、不意に隆翔に声を掛けた。
「……はい!」
「嬉しいねえ。そういう素直な態度がボクは好きだなぁ! 音楽は感情次第でどんな音も出せる。ただし、出したい音は自分を知るところから始めなきゃいけない。そのスタートラインに一番の近道なのは、自分の感情に素直になるところだと思うよ」
あまりに直球な誉め言葉に隆翔は顔が熱くなる感覚がした。橋本は普段から明るく振る舞うことが多いが、今日は一段とその傾向が強い。おそらく、部の暗い雰囲気を盛り上げようとしてくれているのだろう。
「滝先生、第二楽章は飛ばして先に第三楽章を確認しませんか? 木管のメインの部分を確かめておきたいです」
「確かに、ボクも第三楽章のユーフォとトランペットのソリは聴いておきたい」
「では、第三楽章の頭から全員で。準備はよろしいですか?」
『はい!』
いい加減、第一、第二楽章の練習にも飽きていた部員もいたため、この判断は正しかった。パーカッション部員が別の楽器に移っている間、楽譜をめくった。
──第三楽章、秋、宿命の時。
色めきだった夏が終わり、冷たさを帯びた空気が木々を赤や黄に染める。闇にのまれ、空には白い月がぽっかりと浮かぶ。穏やかで寂しい雰囲気が、隆翔の思い描く第三楽章だった。
この第三楽章はトランペットとユーフォニアムのソリから始まる。
フルートはほとんど演奏しないが、クラリネットと共にソリストの二人を支えながら脇役に徹する。だからこそ、この場面では周りの音をよく聴くことができた。
しっとりとした旋律、真由が奏でるそれは、きらびやかで美しい。投げかけられた音色に、トランペットが応じる。しびれるような高音が、柔らかな中低音と絡み合った。
衝撃。その言葉が相応しい。何百回と練習してきたからこそ分かる違いがそこにはあった。そして綺麗だった。ほとんど初めて合わせたはずの真由と高坂のコンビネーションは完璧で、真由の実力の高さが伺えた。
「いいですね。では、木管部分から確認していきましょうか」
第三楽章すべて吹き終わると、滝は演奏を止めた。そして再び、第一楽章から演奏が指示される。
練習はキツかった。しかし、ソロパートの確認に時間が割かれると途端に退屈になる。ソリの部分に多くを費やした。真由と高坂のソリが繰り返されるたび、ビリビリと微電流のような感覚が迸った。他人の演奏にここまで痺れたのは、希美と梓の演奏を聴いて以来だった。
「すごいね……」
席が代わって隆翔の右隣から、沙里が感嘆の息を漏らす。
だが、彼女はただ感動している訳ではない。その表情からは畏怖、そして重圧があった。滝が求めた音を寸分違わずに表現できる実力。比肩する実力を持つのは、恐らく高坂だけだろう。
「俺の目に狂いはなかった。いや、この場合は耳か」
「残酷だね、こんなの。特に黄前さんには」
「だねえ……」
彼女は今、真由の音を前にしてどんな心境なのだろう。怒り、悲しみ。いや、そんなモノを抱える資格は、黄前久美子にはない。
そう、許されてはいけないのだ。
隆翔の心の中にある感情の正体。そこには、黄前に対して確かな怒りがあった。部長として、右往左往しながら邁進する彼女に対してこんな感情を持つ部員は、恐らく隆翔だけだ。どう振る舞おうと、今の黄前久美子を支持する理由は隆翔には無い。
「それでは今日の練習はここで終わります。ありがとうございました」
『ありがとうございました!』
大ホールでの練習が終わったのは十八時すぎ。ここから大ホールは夜まで開放され、個人練習のために使用可能となる。
「隆翔くんどうする?」
「うーん。夕飯まで練習しようかな」
実際、そうする部員も多い。新山と橋本もフリーとなるため、個人練習でアドバイスを得られる貴重な機会となるからだ。
「……みこちゃん、久美子ちゃん!」
そんな中、視界の端でスタスタとホールを後にする黄前と、それを追う真由を捉えた。彼女たちの間に生まれてしまった亀裂から、こうなることは予想できた。
「悪い、先に始めててくれ」
「えっ⁉︎ ちょっとどこ行くの?」
「トイレ」
隆翔は真由の背中を追った。しかし時既に遅し、二人の姿はロビーの階段にあった。隆翔は柱の陰に隠れて話し合いの行く末を見守った。真由と黄前、二人の現在地を把握するために。
「久美子ちゃん……大丈夫?」
「大丈夫って、何が?」
吹き抜けの階段に響く、恐ろしく低い声。話したくない、関わりたくないとそう言っているようにしか聞こえなかった。
「私ね、やっぱり代わった方がいいと思うの。私はソリじゃなくても──」
「お願いだから、二度とそういうこと言わないで!」
それは黄前から真由に向けられた明確な拒絶反応だった。
確かに真由も良くはない。ソリストの立場を切望し、受かると疑わなかった黄前に追討ちをかけている構図だ。今の黄前にはあまりに効いてしまうだろう。
黄前の態度に萎縮し、華奢な肩が小さくなっているのがありありと想像できる。
「……ごめん」
「謝らなくていいよ。私、本当に気にしてないから」
虚勢。そうしなければ自我を保てないのだろう。
「私、先戻るね」
「私も一緒に行ってもいい?」
「休みたいから、一人にさせてもらってもいいかな」
作り笑いで真由を制すると、ペタペタとスリッパの音を鳴らしながら黄前は階段を降りて行った。真由は追うことをせず、諦めてホールに帰ろうとした。
「拒絶されたな」
「……っ! 今の聞いてた?」
「ああ、途中からだけど」
誰かに聞かれていると思わなかったのか、真由は隆翔の姿を見てギョッとした。
「……やっぱり、久美子ちゃんは高坂さんと吹きたかったんだね。そんなつもり無かったのに、私が奪うみたいになっちゃった」
「それがオーディションだし、当然だろ」
何を当たり前のことを、と隆翔は溜息をつく。この期に及んでまだ黄前に情を抱くのか。そんなものは誰の為にもならないと分かっているのだろうか。
春、全国金賞を目標と定めた多数決で隆翔は黄前に対してこう思った。「自分で決めたことで、お前自身が奈落に落ちるという覚悟はできているな」と。まさに今、高坂麗奈の背中だけを見つめていた黄前は、ライバルとも思っていなかった真由に痛烈な一撃を与えられた。そして彼女は内側から噴き出す怒りや遣る瀬なさを、外に出すことは許されない。
高坂の言うところの「滝の判断が絶対」という不文律で運営する限り、黄前は自身の精神力で自制するしかない。しかも久石奏という一番の懐刀は関西大会には出られない。外堀が埋まったどころか、黄前にとって現状は四面楚歌である。そして、真由のリミッター解除を手伝ったのは他でもない隆翔であるが、その事実を知る由もないだろう。この四か月間、彼女は真由と向き合わなかった自分を呪うしかないのだった。
困ったように眉を下げたまま、真由は階段の手すりにそっと指先を置いた。吹き抜けの向こうでは、まだホールから楽器を片付ける音がかすかに聞こえてくる。けれどここだけが切り離されたように静かで、その沈黙がかえって二人の間にあるものを際立たせていた。
「……でも、久美子ちゃんがああなるのも仕方ないよ」
隆翔はすぐには返事をしなかった。壁にもたれたまま真由の横顔を見る。ほんの少し俯いただけなのに、彼女の表情はひどく小さく見えた。
「仕方ない?」
「だって、久美子ちゃんはずっと高坂さんと一緒に吹いてきたんだよ。部長としてここまで頑張ってきて、最後の年で……それなのに急に私が入ってきて、こんなことになったら」
真由はそこで言葉を切る。唇が、迷うように小さく動いた。
「……傷つくよ」
その声には、自分のことよりも相手を案じる色が濃かった。
隆翔はゆっくり息を吐く。
「黒江、そこなんだよ」
「え?」
「お前が今いちばん気にするべきなのは黄前のことじゃない」
真由が目を上げる。驚いたというより、少しだけ傷ついたような顔だった。
「でも……」
「でもじゃない。さっき見ただろ。あいつは今、お前に何言われても受け止められない」
そう言いながら、階段を下りていったあの背中を思い出す。虚勢と分かるほどに固い声、貼り付けた笑顔、逃げるみたいな足音。あの状態で真由がどれだけ情をかけても、救いにはならない。
「代わった方がいいとか、ソリじゃなくてもいいとか、そういうのは今の黄前には一番きついよ」
「………分かってるんだけど、何も言わない方がもっと酷いかなって思って」
「それはお前の気持ちの話だろ」
少しだけ強く言うと、真由の肩が微かに揺れた。責めたいわけではない。けれど、曖昧な優しさでこの状況がどうにかなるとは思えなかった。
「黄前が傷ついてるのは事実だよ。でも、それは黒江が悪いからじゃない。あいつが自分で決めたルールの中で負けたからだ」
「……うん」
「なのに、黒江がそこまで背負う必要あるのかよ」
真由は答えなかった。
手すりを掴んだ指先に少しだけ力が入っている。その細い指を見ながら、隆翔は昨晩の自動販売機の前での会話を思い出していた。あの時も真由は関係性の瓦解に怯えていた。
「それに俺だって、ソロ落ちたんだけど」
不意に口をついて出た言葉に、真由が顔を上げる。
自分で言ってから妙な感じがした。事実なのに、それを口にする必要を感じていなかったからだ。
「沙里に取られちまった。悔しくないわけないだろ」
廊下の向こうから誰かの笑い声が聞こえ、すぐに消える。隆翔は視線を逸らした。
「でも結果には納得してる。あいつ上手いし、実際今日の演奏も良かった。悔しいけど、あいつの努力は誰もが認めてるから」
真由はじっと隆翔の顔を見ていた。何かを考えるように、瞬きもせずに。
「……フルートは仲良いんだね。いいな」
ぽつりと零れた言葉は、羨望とも諦めともつかない響きを帯びていた。
「そうやって言えるのが羨ましい。悔しさもあるけど、ちゃんと認め合ってるのが」
真由は少しだけ笑った。力のない、小さな笑みだった。
「私と久美子ちゃんは、まだそうじゃないから」
その言葉に隆翔はすぐ返せなかった。
確かにフルートとユーフォニアムでは、同じ「奪い合い」でも意味がまるで違っていた。沙里とは、三年生になってからずっと肩を並べてきた。勝っても負けても、その先にもう一度競う前提がある。けれど真由と黄前の間には、最初から対等に立つ土台そのものが無かった。転校生と部長。外から来た者とずっと北宇治で実績を積み上げてきた者。しかもその上に、高坂麗奈の存在まで重なっている。
「良いとか悪いとかじゃなくて、ユーフォが拗れてるだけだろ」
ようやく出た声は、自分でも思っていたより低かった。真由は目を丸くしている。
「黄前が部長として頑張ってるのは認めるよ。でも、自分で掲げた完全実力主義のオーディションで落ちたからって黒江を拒絶するのは道理が通らない。ただでさえ今の黄前の言葉は響かないのに、そこから道理まで取ったら何が残るって言うんだ」
真由は黙って聞いていた。
隆翔は黄前に怒っている。その感情が声になって解き放たれた形だ。
「黒江は悪くないよ」
真由の瞳が揺れる。
「誰もが納得するかは分からない。でも、ずっと真正面から対話を試みてきたことを、俺は知ってる。滝先生もちゃんとそれは分かってくれてる」
「……そうなのかな」
「そうだよ」
少し強引なくらいに言い切ると真由は目を伏せた。納得したというより、もうそれ以上言い返せないといった方が近い表情だった。
「それでも黒江が黄前に情をかけるのは自由だよ。でも絶賛傷心中の奴に気遣いの言葉をかけたら、あいつは余計にプライドがズタズタになる。だから、しばらく放っとけ」
「……久美子ちゃんに嫌われちゃったかな」
「かもな」
即答すると、真由は少しだけムッとした顔をした。
「……そこは否定してくれてもいいのに」
「無責任なことは言わない主義なんだ」
昨晩の意趣返しだ。隆翔の返答に彼女は小さく息を吐いた。泣きそうでも怒っているわけでもなく、ただどうしようもなく困っているような顔だった。
「だけど約束しただろ。お前がソリストになって面倒なことが起きたら、俺と沙里がサポートするって」
真由はその言葉を思い出したのか、黙って頷いた。
階段の上から、吹き抜けの白い光が二人の間に落ちている。ホールから聞こえる音は少しずつ減っていて、もう個人練習に散っていったのだろうと分かった。
「変に一人で背負うなよ。ちゃんと演奏したことまで後悔し始めたら、それこそ誰のためにもならない」
真由はすぐには答えなかったが、言葉を咀嚼しながらゆっくり頷いた。
「……うん」
その返事は頼りなくて、完全に立ち直った訳ではないのだろう。それでも、さっき久美子に向けていた顔よりは少しだけ息がしやすそうに見えた。
「樟葉くん」
「ん?」
「ありがとう」
真由は静かに言った。
「でも、守るとか、そういうのは……樟葉くんまで大変になるよ」
「今さらだろ」
思わずそう返すと、真由は一瞬ぽかんとして、それから小さく笑った。いつもの彼女に近い笑みに、隆翔は内心で安堵していた。
「……やっぱり変だよ、樟葉くん」
「それはお互い様だろ」
ここから先に起きることを思えば、今の会話だけで全部が片付くとは到底思えなかった。むしろ、ここからなのだろう。関西大会の編成が決まっても感情だけが取り残されたまま、時間は進んでいくのだ。
◇◆◇
夕食を済ませた後、隆翔ら合宿係が主導のもとで花火の時間となった。
九十人が漏れなく楽しめる量を予算内で花火セットを購入したが、やはりかなりの量になった。雨が降ったら無駄になるところだった。
水の入ったバケツを両手に持つ。こうした仕事も係の仕事だ。
「これだけ置いておけば大丈夫だろ」
「先輩、バケツ用意してもらっちゃってすみません!」
「いいよいいよ」
隆翔の姿を見た葉加瀬みちるが慌てて駆け寄って、片方のバケツをひったくった。
広場には夕食を済ませた部員が思い思いに待っている。花火の参加は自由だ。部屋でゆっくりする者もいれば、納得するまで楽器を吹く人もいる。それでも過密な練習スケジュールにそろそろ飽きてきた人ばかりなのか、ほとんどの部員が参加していた。
「手持ちの花火って、なんか懐かしいね」
「ウチ、お盆に親戚とやったよ」
「それ、二刀流〜!」
「ちょっと、こっち向けないで!」
みんな思い思いにこの時間を楽しんでいる。合宿恒例となった花火も、骨を折った甲斐があったというものだ。
広場の中心で置き型の吹上花火や打ち上げ式の花火を眺めながら、改めて今日のことを思い返していた。オーディションの結果は少なからず部内に混乱をもたらした。落選した部員のメンタルケアには、各パートの三年生が奔走している。経験者の江藤は府大会から二回連続で落ちたことで、かなり落ち込んでいた。だが、それだけで済んでいるフルートパートはまだマシな部類で、夏休みの殆どを練習に費やしてもその枠に届かなかったという事実はやる気やプライドに大きな爪痕を残していた。
「──花火もらえる?」
「はいよ」
「ありがと」
少し疲れた顔をしながら、隆翔から花火を受け取ったのは小田だった。ここまで姿が見えなかったのは、件の江藤のフォローをしていたから。
「お疲れさま。江藤のフォローありがとな」
「どういたしまして。こうなることは予想できたから」
表情を崩さずに言ってのけるところが彼女らしい。
蝋燭の火にかざすと、ピンク色に弾ける閃光が表情を照らした。
「綺麗……」
後輩は小田の容姿から、クールビューティーなどと持ち上げているようだが、本人にはその自覚はないのか、いちいち否定も肯定もしていない。
思えば、小田と二人きりになることは記憶にない。とはいえ学校に帰れば同じクラスなので、結構会話は生まれている。
「残念だったな、お互い」
「……そうね。でも、沙里がソロを取ったのは素直に嬉しい」
「はははっ。そうだな」
「樟葉は悔しくないの?」
「普通に悔しいよ。府大会では吹いてたから尚更ね。でも納得はしてる。学校でも教室でも、あいつなりに頑張ってるのは見てきたから。落ちたことも自分なりに分析はできたし」
腕を伸ばして凝り固まった筋肉をほぐす。肩の関節がパキッと鳴った。
小田は二本目の花火に着火した。今度は緑色の閃光が視界を照らした。
「どうしてだと思う?」
「何が?」
「選ばれなかったこと」
俯く小田は、絞り出すように核心を突いた。その言葉の奥底にあったのは、知りたいというより、自分と同じ思いであってくれと懇願する痛々しさがあった。
「……演奏するのが息苦しかった。府大会が終わってからずっと」
「どうして?」
「今回、初めて追われる立場を経験した。沙里も、小田も、中野も、二年や一年でさえも、俺よりもずっと良い音を出してるように聞こえて、正直怖かった」
「……そんな風には見えなかったけど」
「まあ、自分のことを表現するのは苦手なんでね。でもさ、実は合宿の前に沙里にガチギレされた事があって」
「え?」
「『俺の代わりに吹いてくれ』って言ったら、こっぴどく叱られた。そんなことしたら私も下りるからって。そんなこと言わせたのは申し訳なかったな」
「それは……」
小田はもし自分が言われたらと想像しているのだろう。しかし、彼女の中で納得できる答えには辿り着かなかった。それ以上に、沙里がそこまで大きなプライドを持っていることに驚いたのだろう。
「あ、今回のオーディションは一切手を抜いたりはしてないよ。でも演奏に迷いが出たのは本当だったから、言ってしまえば当然の結果だった」
パチパチと爆ぜる音を背景に、隆翔は自分の弱さを吐露した。その声に暗さは微塵もない。沙里に負けた悔しさもあるし、希美に勇姿を見せられないという負い目もあった。
「……私には分からない。沙里とは一年の頃からずっと仲良かったのに、樟葉が現れてからの沙里は、ずっと貴方の方しか見てなかったから」
ジュッ……っと音を立てて、小田の持っていた二本目の花火が消える。二人の前を再び暗闇が覆った。
「私は沙里に幸せになって欲しいのかもしれない。沙里に報われてほしい、沙里が笑っていればそれでいい。ただ、泣いてほしくないだけ」
「……小田」
「ふふふ、重たいよね?」
「どうだろ。でも、友達がそう思っちゃいけないってことは無いんじゃないの?」
きっと、彼女なりに悩みながら二人の関係を言語化したのだろう。近くにいたのに、もっと近い距離に現れた異性の友達。その人は沙里の心の隙間にするっと入り込んだ。だが、小田は理性的に行動した。小田自身の立場を理解した上で、小田なりの距離感で沙里との交友を続けた。「正常」な友達として。
沙里の感情に蓋をした隆翔は罪悪感を覚えていた。
「俺は、沙里にそんな言葉を掛ける資格がないから」
「……告白されたの?」
「されてないよ。ただ、その機会を握り潰したのは間違いなく俺だから」
「されても答えは決まってる、か……」
「うん」
たまに、負けると分かってて突撃する者もいる。信念のため、後悔しないため、自分に正直にいたいから等々。
ただ、沙里はそれをしなかった。自分の感情は二の次で、隆翔を取り戻すために奔走した。それは信念とか後悔でできることではなかった。
「これからも沙里と友達で居続けられる?」
「男女の間に友情ってものが成り立つ限りはな」
「……良かった。これで無いって言われたらどうしようかと思った」
「沙里には言うなよ」
「言わない、かも?」
「かも、じゃないんだよ」
小田は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく肩を揺らした。
「……ふふ」
火の消えた花火の先を見つめたまま、控えめに笑う。その横顔は、さっきまでの硬さが少しだけほどけていた。
「ちゃんと線引きしてるんだ」
「当たり前だろ」
「良かった、ちょっと安心」
小田はパッケージから線香花火を二本取り出した。無言で片方を隆翔に差し出してくるので、ありがたく受け取った。先端を蝋燭の火に近づける。じり、と火薬が音を立てて、次の瞬間、淡い橙色の光が弾ける。やがて、先端にぷっくりとした火の玉が出来上がった。
「勝負しよう」
「……いいぜ」
それから二人の間に沈黙が流れた。火の玉を落とさないように手首を固定した。
「ねえ、樟葉」
「話しかけるのは反則だぞ」
「いいじゃん少しくらい」
「……なんだよ」
「…………」
小田はじっと花火を見たまま、黙り込んだ。
「小田?」
「……ありがとう。沙里と友達になってくれて」
「──────えっ」
ぽとり、と隆翔の線香花火が地面に落下した。思わず顔を上げると、小田が見たこともない優しい顔で隆翔を見つめていた。そして無邪気に笑った。
「はい、私の勝ち」
彼女の笑顔に、ほんの少しだけ心が揺れた。
少し遠かった距離が、僅かに近づいた気がした。
◇◆◇
あなた:メッセージを受け取りました。
『夜分遅くにすみません。お話したいことがありますので、合宿所の外にある遊歩道まで来ていただけませんか? お待ちしています』 8月18日 22時55分
【つづく】