或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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元南中、何も起きないはずがなく……


EP.48 南中の血脈

 その夜、入浴を済ませた隆翔は、練習とレクリエーションによる疲労感を抱えながら床に就いていた。就寝時間はとっくに過ぎているが、まだ起きている部員もいる。花火のあとも、遠くでちらほらと練習する音が続いていた。遅い時間まで音を出せるのが、合宿の強みだった。

 希美に宛てた文章を書いては消し、書いては消しを繰り返す。

 今日のことを伝えるべきかどうか。その動機すらも定まらないまま、時間だけが過ぎていく。

 送る理由は、いくらでも思いつく。

 送らない理由も、同じだけ浮かんだ。

 

「戻りました~ってあれ? 樟葉先輩、タイルくんと靖也くんってどこ行ったのか知りませんか?」

 

 風呂から帰ってきた二年生の貴水卓(たかみすぐる)に話しかけられ、隆翔も布団から身を起こして部屋を見回す。

 

「……本当だ、いないね。風呂じゃないの?」

「いやぁ、お風呂にもいなかったんですよね」

 

 訝しむ彼の声を横目にスマートフォンが震えた。

 こんな時間に、と画面を開く。メッセージの差出人は、江藤香奈だった。

 内容を確認した瞬間、隆翔は布団から這い出ていた。

 

「先輩、どこ行くんですか?」

「ちょっと飲み物買ってくる」

 

 江藤からの呼び出しに応じる。恐らく、彼女個人のことではないだろうと予想した。

 

 ロビーは消灯されている。月明かりだけが床にぼんやりと落ちていた。

 扉を開けると、ひやりとした夜気が頬を撫でる。ガゼボに通じる遊歩道を歩くと、砂利を踏む音がやけに響いた。

 

「樟葉先輩、こっちです」

 

 道の先で江藤が手を振っている。急いできたのだろう、息が少し上がっていた。

 

「こんな時間にどうしたの?」

「すみません……でも、先輩にしか頼めないことだったんです!」

「お、おおう……」

 

 真夜中に先輩を呼び出した申し訳なさと同じくらい、その懇願は切羽詰まったものだった。江藤の勢いに押された隆翔は、夜道を迷わず進む小さな背中を追った。

 ガゼボに到着すると、スマートフォンの頼りない灯りの中に、この時間には不釣り合いな人数の影が浮かんでいる。

 暗闇に慣れた目でこの場にいる全員を視認する。

 男子部屋にいなかったクラリネットの北山タイルとサックスの鈴木靖也、ホルンの屋敷さなえ、チューバの鈴木美玲、その内側にはクラリネットの平沼詩織、そして合宿係で秀一の後輩の葉加瀬みちる。紛うことなき二年生の実力者が多く集結しており、その殆どが南中出身者だった。

 

「樟葉先輩、すみませんお呼び立てしてしまって」

 

 集団を代表して北山タイルが前に出る。

 鈴木靖也も一緒に並んでいるが、そこにいつもの戯けた顔つきは無い。

 

「何の用? 消灯時間過ぎてんだけど」

「すみません。そんなに時間は取りませんので……」

 

 熱帯夜の生温い風が通り抜ける。

 木々の騒めきが、不自然なまでに不気味さを演出していた。

 

「その二人は?」

 

 視線を向けると、葉加瀬と平沼が俯いたまま肩を震わせていた。目は赤く、ハンカチが濡れている。

 唇を噛みながら北山は二人を見つめる。北山に代わって、この状況を江藤が打ち明けた。

 

「花火の時、高坂先輩に突然呼びつけられたんです。十時に娯楽室に来いって。ホルンのスミちゃん……深町さんも一緒に。ついさっきまで、ずっと叱られたそうです」

 

 普段は優しい江藤が、すすり泣く親友を前にしていつもの落ち着きを失っていた。

 頭をガツンッと殴られたような衝撃を受けた。理由は様々だが、合宿という個々の力を高めていく機会に彼女たちは流すはずのない涙を流していたからだ。

 隆翔は二人に近づき、視線の高さまで腰を落とす。

 

「何があったの? ゆっくりでいいよ」

 

 平沼は隆翔の顔をちらりと見てから、震えた声で話し出した。

 

「……花火の時、三人で一緒にいたんですっ……。そしたら、オーディションの話になって、頑張っても出られる保証がないって思ったら、怖くなって……」

 

 葉加瀬も平沼に続いて口を開いた。

 

「話がエスカレートした時には、もう止められなくて……奏が落ちたことにも納得できなくて。それでその時に……」

「なるほど……」

 

 高坂は理由もなく人を罵倒したりはしない。しかし、彼女は感情の境界が分かり難い。恐らく三人も知らずに踏み越えてしまったのだろう。

 胸が痛くなった。合奏が好きで、自分を高めたくて北宇治の門を叩いた彼女たちが、大いなる勘違いから目尻を濡らしている。その発端となった高坂の説教──いや、事の発端はきっと不透明な滝の指導方針にあるだろう。

 

「この事、黄前は?」

「部長は、私たちが高坂先輩に呼ばれた時に近くにいたんですけど……特に何かするってこともなくて……あの人、高坂先輩には逆らわないので……」

 

 隆翔は思わず息を呑んだ。

 

「嘘でしょ……」

 

 何やってんだあいつら、と隆翔は小さな声で毒づいた。本来、部内の人間関係を扱うのは黄前と秀一の仕事で、ドラムメジャーである高坂は音楽面を引っ張る立場の筈だった。それが優子と夏紀が先代幹部として決めたことなのだ。今回の出来事は、本来の在り方から大きく逸脱していた。 

 江藤と屋敷に背中を摩られ、再び二人はポロポロと涙を流した。

 

「……先輩、正直私も今回のオーディションには納得がいってません。みちるが言ったように、経験者で去年もコンクールに出ていた久石さんが落ちたこと……それ以上に、滝先生の考えが分かりません」

 

 江藤は言葉を選ぶように視線を落とす。誰も否定しなかった。

 

「今までは、これがベストなんだって思えてました。でも今回は……なんというか、決め切れてない感じがして」

「迷いが見えるってこと?」

 

 江藤は小さく頷いた。周囲も同じ反応だ。

 それに関しては隆翔も同じ意見だった。編成を試行錯誤するが故に見え隠れする滝の隙。隆翔も彼らと同じく、滝を盲信するほど慕っているわけではない。

 

「で、なんで俺なの? パートリーダーに言えばいいだろ」

「樟葉先輩なら、ちゃんと見てくれるって思ったんです」

 

 北山は一度だけ目を伏せ、それから顔を上げた。

 

「……俺が?」

「はい。先輩なら今の幹部の三人とは一線を画していると思ったのと、江藤さんの推挙でそうしようと──それに先輩は、誰かに肩入れしてるわけじゃない。だから今の状況を一番フラットに見られると思って」

 

 北山タイルの言葉に、隣で靖也が強く頷いた。

 彼は南中吹奏楽部の元部長だった。言葉に重みがあるのは、その経歴のせいだけではない。

 

「僕もそう思います。今の三年って……なんか、滝先生や高坂先輩の言うことが、全部正しいみたいになってる気がして……」

 

 その名前が出た瞬間、空気が僅かに揺れた。抑えた声の奥に苛立ちと不安が混ざっている。

 

「あの人が凄いのは分かってます。でも、それとこれとは別の問題ですよね」

 

 葉加瀬の背中を摩る屋敷さなえは、不安と戸惑いの中間で彷徨っている。彼女は小さな声でままならない現状を訴えていた。

 

「みちるたちは、ただ不安だっただけなんです。頑張っても選ばれる保証はない。頭では分かっていても、その気持ちをどう受け止めればいいのか分からなくて……」

 

 屋敷の言葉が終わると、隣で聞いていた鈴木美玲がゆっくりと口を開いた。

 

「……以前、黄前先輩に聞いたことがあるんです」

 

 この場の全員の視線が彼女に向く。

 

「府大会の編成について。さつきが外れたことがどうしても理解できなくて。でも、その時先輩は、“先生の判断を信じる”って、それだけで……」

 

 背筋の伸びた彼女から放たれる言葉は、不思議な説得力があった。黄前と同じ低音パートで活動する鈴木美玲は、久石ほどではなくとも部長である黄前を尊敬している。相当言いづらかったはずだ。だが、それでもこの場で打ち明けたのは、最近の部活の歪みを憂いてのことだろう。

 ややあって、彼女は隆翔に問いかけた。

 

「……樟葉先輩は、滝先生を神格化していますか?」

「してないよ」

 

 勇気を持って伝えた美玲のために、隆翔ははっきりと言葉にした。その態度が伝わったのか、彼女の表情が緩んだ。

 

「ですよね、先輩なら私たちと近い気がしたので安心しました」

 

 その言葉が何を意味するのかだけは瞬時に理解できた。

 北宇治では一時期、南中出身という肩書きそのものが、どこか触れづらいものになっていた。今の二年生がそれを知らないということは無いだろう。これは一種の防衛本能なのだ。

 呼ばれたからには、隆翔は彼らの希望を聞く権利がある。ひとしきり聞いたところで、隆翔は話を進めた。

 

「……で、君たちはどうしたいの」

「このままじゃ、関西大会に向かう気持ちがまとまりません。僕たちは滝先生の本心が聞きたいんです。誰もが納得できる理由を知りたいだけなんです。みんな、せっかくここまで頑張ってきたので……」

 

 北山の懇願は、決して自分一辺倒ではなかった。みんな等しく真正面を向いてきたからこそ生まれてしまった軋轢に向き合おうとしている。

 

「それが話し合って至った結論?」

「はい」

 

 集団のリーダーたる存在として、隆翔から目を逸らさずに真っ直ぐ答えた北山タイル。その責任感と統率力は、誰の背中を見て育ったか一目瞭然であった。

 

「……そうか。そこの二人に聞きたいんだけど」

 

 ようやく落ち着いてきた葉加瀬と平沼の顔を見る。怖い思いをしながらも、覚悟を感じさせる目だった。

 

「久石が落ちた理由は理解してる?」

「いえ……ただ、思い当たることはあります」

「葉加瀬も?」

「……は、はい」

「受かった鈴木さつきさんはコンクールに相応しくないと思う?」

「思わないです……!」

「君たちはオーディションそのものに不満があるわけじゃないよね。滝先生の審査は公正だった。そこは大丈夫だよね?」

「「はい!」」

 

 やはり隆翔の見込み通りだった。二人の意志を確認できれば、次にすべきことは自ずと導き出せる。

 

「それなら大丈夫だ……みんなも聞いてほしい。この件は俺が責任を持って三年生の間で話をする。高坂に呼ばれた三人のパートリーダーにもね。色々と不満もあるだろうし、腑に落ちないこと、飲み込めないことも。それを教えてくれたのは本当にありがたいことなんだ。三年も完璧人間じゃないから、なかなか君たちの心の内を察するのは難しい。でも、君たちのSOSは絶対に無駄にしない。その上で俺からのお願いを聞いてほしい。明日の合宿最終日、その後の関西大会まではちゃんと練習に向き合ってほしい。多分、俺もそうするし、そうしてきた先輩(ひと)たちを知ってるから。いいね?」

『分かりました!』

 

 北山を筆頭に、威勢のいい返事を受け取る。隆翔の言葉がどこまで伝わったかはこの時点では分からない。ただ、彼らの深層心理に刻まれた存在の影響力は今も健在だった。

 優子たちが卒業した後、同じ中学という拠り所で繋がった彼らには縋る先がなかった。今の三年生には、毎年一定数が入部している南中吹奏楽部出身者が一人もいない。大量退部事件が尾を引いた結果、悲しいことに世代間の分断が起きてしまった。しかし、そんな状況にも関わらず彼らは北宇治を目指してくれた。

 優子や希美を見て分かるように、彼女たちは吹奏楽部の中では傑出して血の気の多い集団だ。しかも薄まることなく脈々と受け継がれている。まとまれば強いし、拗れれば厄介だ。望んだ形ではなかったが、気づけば彼らの視線は自分に集まっていた。そのことが少しだけ可笑しくて、隆翔は苦笑した。

 

 

 宿舎棟に帰ってきても、隆翔は部屋に戻らなかった。

 夜中だが一刻を争う事態だ。体裁を守っている場合ではない。月夜の下で端末の光と睨めっこしながら、パートリーダーと一部の同級生に事の顛末を報告した。

 本格的な会話は明日、合宿最終日以降となるだろう。だが、二年生の決起にも似た会合は、隆翔が傍観者のままでいることを良しとしなかった。

 全員に連絡を済ませた頃には、時計の針はとっくに頂点を過ぎ、間もなく一時に差し掛かろうとしている。沙里に誘われた朝練には、多分参加できないだろう。

 連絡先の一番上にブックマークされている名前を触れる。きっと、相談すればすぐにでも返信があるだろう。でも、今はその優しさには甘えていられない。これは自分達で解決しなければならない問題なのだから。

 止まない雨はない。日はまた昇る。関西大会で、北宇治の最高到達点を見せるために、隆翔は止まっている暇など無かった。

 

 

 

 

 

 

 

「先輩、先輩起きてください……」

 

 朝、隆翔は目覚まし時計よりも早く起こされた。

 

「…………何、どうしたの求」

「起こしてすみません。あの、みどり先輩が呼んでまして」

 

 スマートフォンの時刻は六時二十分を指している。隆翔を起こした求は、既に身だしなみが整っている。きっと朝練中だったのだろう。

 

「川島だけ?」

「いえ、他にも……」

「分かった。顔洗ったらすぐ行くって伝えてほしい」

「はい」

 

 ──来たか。

 昨夜送ったメッセージの内容を思い出す。

 反応が早すぎるあたり、全員同じタイミングで読んだのだろう。

 

「お待たせ」

 

 指定された場所に向かうと、既に全員揃っていた

 

「樟葉くん……」

 

 空気が重い。誰もが言葉を選びかねているのが分かる。

 集まっているのは塚本秀一、森本美千代、川島緑輝、牧誓、高野久恵、高橋沙里、井上順菜の七人。

 

 

「集まってる理由は、メッセージの件でいいよな」

 

 全員が神妙な顔で頷く。その様子を眺めながら、少なくとも高坂に説教された二年生がいるパートリーダーは状況を理解しているようだった。

 ──論点は二つ。

 一つは高坂の説教の件。もう一つは、滝の方針に対する不信。

 

「部長不在か」

「向こうの広場で楽器吹いてたよ」

「なら、都合がいいや。森本、深町さんは大丈夫?」

「うん、大丈夫だって。私もびっくりしてたけど、さなえちゃんに聞いたら本当だって言ってた」

 

 隆翔の気遣いに、ホルンのパートリーダー森本美千代は僅かに態度を軟化した。

 対照的に、秀一は俯いたままだった。

 

「なあ、隆翔……このこと部長は知ってんのか?」

「……言ってないよ。当然、高坂にも」

 

 えっ、と何人かが声を発した。視界の端で事の行く末を見守る沙里は、隆翔の行動に得心している様子だ。

 

「教えた方がいいんじゃ──」

「黄前は知ってるよ、葉加瀬たちが詰められたこと。その場にいたのに、キレた高坂に何も言えなかったってさ」

「そう、なんですね……」

 

 それはつまり、幹部として拾うべきものを拾えていない、ということでもあった。

 黄前と親友の川島は、こうなってしまった現状に、聡明な彼女は心を痛めている。

 

「この事、やっぱりみんなに言った方がよくない?」

「でも余計に混乱を生むだけじゃ……」

「だけど、オーディションに不満があるのは南中の人たちだけじゃないよ。黒江さんが受かって部長が落ちたことにも納得できていない派閥がいるくらいだし」

 

 事態を重く見た他のパートリーダーは、二通りの意見に分かれた。部長に相談すべきか、見送るべきか。

 

「塚本くん」

「なんだ高橋」

「普段、幹部ってこういう問題が起きたら結構早めに対処してたよね。サンフェス前も低音で何人かが休んだ時に、わざわざ自宅訪問までしたって聞いたんだけど」

「あれは……俺が知った時には、もう久美子が解決してたから」

「じゃあ部長の独断だったってこと? 一年生指導係の加藤さんと剣崎さんがいたにも関わらず」

「沙里ちゃんその言い方は……」

「独断ってことは無いと思う。一応役職の顔は立ててたと思うし、部長として任せるところは任せてるんじゃないか?」

 

 沙里と秀一の問答は続く。それは単なる意見の違いではなく、“幹部の在り方”そのものの認識差だった。

 この部では、幹部陣の動きが不透明すぎるきらいがある。共有すべきことがパートリーダー会議で議論されず、事後報告で済まされる事も少なくはないそうだ。だが、強気の高坂に立ち向かえる女子はほとんど居ない。

 

「今回のオーディションだって、三回やることに納得してる人ってどれくらいいるんだろう」

「みんなは違うの?」

「私は三回でも別に良いと思うよ。ただ、二年生と一年生にはそう思っていない人もいるっていうか──」

「強豪校のやり方を採用するのはいいけど、せめてパーリー会議で先に言ってほしかったな。そうすれば、パート内で話し合うこともできたから。それに、ここにいるみんなは一年生の時を知ってるから、出来るだけトラブルを無くしたいって気持ちは一致してる筈だよ」

「それにさ、正直落ちた子のフォローするのも大変なんだよね。三年生の役目なのは理解してるんだけど……」

「その負担が増えてる原因が、今のやり方にあるなら見過ごせない」

 

 パートを預かる立場である彼女たちは、当然その問題に行き着く。後輩の面倒を見ながら、自分達の練習も疎かには出来ない。ここまでは上手くやれた。でもこれからがそうとは限らない。そんなジレンマに板挟みになりながら、ギリギリで自分を保ち続けている。

 

「でも、高坂さんに何か言える人って……」

 

 全員の視線が隆翔に向いた。

 

「いや、勘弁してくれって。そりゃ、高坂には何度か楯突いてきたけど、今回は違うだろ」

「じゃあどうするの?」

 

 渋る隆翔に、高野と牧は弱っていた。

 

「みんなで言おうよ」

「沙里……」

「みんなでパーリー会議で言うんだよ、高坂さんと部長に。いつまでも怖がってらんないよ。関西までもう時間がないし、みんなの気持ちがバラバラになるくらいなら、私は高坂さんに真正面から言うよ」

 

 沙里は一度だけ息を吸い、誰の顔も見ずに続けた。

 

「怖いよ、正直。でも、黙ってる方がずっと怖い。今ここで言えなかったら、きっとこのまま誰も何も言えなくなる。……だったら最初に嫌われる役は私がやる。パートリーダーなんだから、それくらいは引き受けるよ」

 

 ここにいる全員が沙里を見上げた。覚悟の決まった目をしている。その勇敢さは、確実に全員の心に伝播し、その第一声を秀一があげた。

 

「俺もそうするべきだと思う」

「……私も、後輩のために言うよ」

「みんなで変えていこうよ!」

 

 彼女の勇気に呼応して、続々と賛同の声が上がった。その反応に、沙里は満面の笑みで応えた。

 

「でも、今日までは練習をちゃんとやろう。不満も多いだろうけど、せめて合宿中は表に出さないようにしようって、二年生とも約束してるから」

「うん、勿論そうだよ」

 

 隆翔の提言に、皆が賛同する。

 

「昨日、高坂に説教された三人に関しては各パートのリーダーに任せるよ。もう既にケアしてくれてる人もいて安心した。二年生は人数も多いから、それだけ色んな感情があると思うよ。全員に寄り添えなくても、俺たちは出来ることをしよう」

 

 その一言を持って、“裏パートリーダー会議”は散開となった。

 

「隆翔くん、色々ありがとうね」

 

 会議の後、隆翔は沙里と歩いていた。

 

「いや、正直助かった。あそこで沙里が自分から言ってなかったら、また高坂と一騎打ちの喧嘩になるところだった」

「それは勘弁だね」

「笑い事じゃないんだよ……」

 

 クツクツと笑いながら、隆翔の歩幅に併せて歩く。早朝の静かな廊下に、パタパタとスリッパの擦れる音が響いた。

 

「いつまでも、隆翔くんに頼りきりじゃダメだと思って……」

「何言ってんだ。俺の方こそ沙里におんぶに抱っこだっての。沙里の影に隠れてなきゃ動けない臆病者だよ」

「でも、二年生の大勢から頼りにされてるって凄いよね。やっぱり希美先輩効果なのかな?」

「だろうね、昨日会った連中の殆どが南中で部長時代の希美とやってるから。結局、俺の影響力も希美を笠に着てるだけなんだよ」

「でも高坂さんに叱られた三人を見ても、打算的に動こうとは思わなかったでしょ。きっと隆翔くんを本気で慕ってるから、香奈ちゃんは真っ先に隆翔くんを呼んだんだと思うよ」

 

 太陽が昇る。峰の間から差し込む朝日が、沙里の横顔を照らした。

 その顔はどこまでも綺麗で、何もかもを利用する隆翔には眩しく見えた。

 

「あ、てか朝練サボったな。約束したのに」

「いや、昨日夜遅かったから許してよ……」

「もう、仕方ないな」

 

 眉を顰めながらも、結局は隆翔を許す沙里は優しかった。

 彼女には、もうソリストとしての重圧で歪むような弱さは存在していない。隆翔にはそう見えた。

 

 

 

 

 

 合宿最終日は何もかもが早く進行した。

 この二日間で後回しにされていた第二楽章と第四楽章を、とにかくしらみ潰しに修正していく。普段から口やかましい滝に加えて橋本と新山も気になったところを洗いざらい指摘していくものだから、部員たちの精神的な負担はかなりのものになった。練習が終わるころには多くの部員が息も絶え絶えとなっていた。

「いやー、やれるもんだね。ボク、今回の合宿で第四楽章扱うのは無理かなってちょっと思ってたよ。時間的に」

「最後にねじ込みましたからね、かなり」

 

 胸ポケットからハンカチを取り出し、滝が額の汗を拭った。

 

「んで、フルート、最後の音はいつもどういう感情で吹いてる?」

 

 第四楽章の最後にあるフルートソロ。当然、沙里は初めて合奏で担当する箇所だが、漏れなく橋本はそこを突いてきた。

 

「はいっ。えっと……また次の一年に繋がるような、希望を持つ……みたいな? そんな感じです」

「うん。まあ、言ってることは殆ど合ってるんだけど、まだ君の音はその場凌ぎ的な感情が残ってるよ。第四楽章は冬のパートだけど、最後のクライマックスなんかは次の春を想起させる。みんなが最後にバシッと決めた後には、後腐れない『次を』表現してもらわないと」

「はい……」

 

 沙里は自信なさげに返答する。

 同じ曲を何度も何度も突き詰める。沙里ほどの優秀な奏者がそれだけの指摘を受けるのだ。この三人の指導で中途半端は許されない。とことん自分を追い詰めるし、それが出来なければ追い詰められる。

 

「新山先生は何かありますか」

「そうですね……私も橋本先生と同じくフルートソロの部分なんですけど……とても丁寧に吹けていますし、音も綺麗です。ただ、どこか遠慮して吹いてるような気がするのだけど、どう?」

 

 沙里の肩が僅かに強張る。

 

「どう、と言われましても……」

「ふふ、ごめんなさい。でも、第四楽章の最後は、もっと希望を持っていいと思うの。橋本先生も言ってたけど、終わるんじゃなくて、次に渡す感覚が大事。自分の中で完結させてしまうと、どうしても音が閉じてしまうから……もう少し先に、先に、と意識を伸ばしてあげるといいと思います」

「はい……」

 

 頷きながらも、沙里は視線を楽譜に落としたままだった。

 新山はそれに気づかないまま、言葉を重ねる。

 

「去年のソロの人は、その表現力が凄かったわ。あなたもきっと、同じような演奏ができるはずよ」

「……はい」

 

 沙里は短く、掠れた返事を返す。

 新山の無自覚な言葉が、沙里の心に冷たく刺さる。彼女のギリギリな心に、圧倒的な才能の持ち主である希美との比較は酷だ。

 ただ、それでへこたれる彼女ではない。一度だけ俯いたあとで、再びフルートを持つ手に力を込める。その瞳は、間違いなく燃えていた。

 

 

 

 

【つづく】

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