合宿翌日からスタートします。
北宇治高校吹奏楽部は三日間の合宿を終えた。
この合宿を経て、合奏自体の練度は間違いなく向上した。それとは逆に部の空気は目に見えて軋み始めていた。主に幹部とオーディションに落ちた部員、その板挟みとなっているパートリーダーのストレスが原因で、北宇治は今、苦境に立たされている。
合宿翌日、この日は月曜日だった。
毎週月曜日は、個人練習の時間に定例のパートリーダー会議が行われる。
昨日の朝、隆翔が二年生から受けた訴えを機に各パートリーダーが集結し、滝に対してコンクールに向けた合奏の方針を問うことで一致した。
今回、フルートパートからはリーダーの沙里と共に、発案者でもある隆翔も参加することになった。当然、リーダーでもない隆翔が教室にいることを高坂は指摘した。
「高橋さん、これはどういうこと?」
「私が呼んだの。今日の会議には隆翔くんが必要だから」
「そんな話、聞いてない。そういうことなら事前に幹部に言って」
「……そうだね、言ってなかったことは謝るよ。ごめんね」
謝罪の意思など微塵も感じられない言葉で牽制した後、沙里は高坂と目も合わさずに席についた。鋭い視線を受け続けていた隆翔もそれに続く。教卓の前に立つ黄前は、この光景に目が点になっていた。
三月の騒動後も沙里と高坂、黄前の溝は埋まらなかった。その原因である隆翔は、当然沙里の肩を持っている。
その後も続々と各パートとリーダーが集まっては隆翔への挨拶を欠かさない光景に、流石の黄前と高坂も普段と違うことに勘付いた。
パートリーダー会議に隆翔が参加すること自体は初めてではない。マネージャーだった頃は、幹部からの要請がそこで下ることも多かった。それでも、参加自体は約半年ぶりだった。
「では、リーダー会議を始めます」
コの字形に並べられた机の中央に座る黄前が号令をかけ、プリントを読み上げる。顧問からの依頼、スケジュールの把握、注意事項などがつらつらと書かれている。
「最近、パート練習室の掃除が行き届いていないという意見が届いています。夏休み中、教室を使用しているのはほとんどが吹奏楽部員ですから、なあなあにしないように気をつけてください。来週の水曜日は全国模試で三年生がほとんど抜けます。この日はほぼ一日個人練習に割いているので、後輩ができていないところがあれば事前に伝えてあげてください」
『はい』
「それと、A編成以外の子は何件か校外で演奏会の予定が入ってます。引率は松本先生に任せているので大丈夫だとは思っていますが、別行動が続きます。何かトラブルが起こってないか目を配ってあげてください。幹部からは以上ですが、みんなから何か言いたいことはありますか」
その言葉に、沙里は真っ直ぐ手をあげた。
「はい、高橋さん」
「この前のオーディションで、下級生から滝先生の選考を疑問視する声が上がりました。結果自体に文句があるのではなくて選考の理由を知りたい、とのことでした。それと落ちてしまった後輩の中には、結構落ち込んでいる子もいます。またパートリーダーの総意として、どうして突然今年から三回制になったのか疑問に思う子も少なくないので、その辺りの説明も含めて考えてほしいです」
毅然とした態度を貫いて、沙里は簡潔に訴えた。他のパートリーダーも彼女の言葉に同意している。黄前は沙里の訴求内容を噛み砕きながら、自分の知らないところで徒党を組まれていたことに困惑している様子だ。
黄前が答えに迷っている中、パートリーダーの総意から除外された高坂は、真っ向から意見を否定した。
「そんなことで滝先生の手を煩わせるのは間違ってる」
「間違ってるって……だって、今年の曲を決めたのは滝先生でしょ。なら、先生から関西大会に向けての方針とかが共有されてもおかしくはないよね」
「結果発表の時、苦情は一切受け付けないって言っていたのを忘れたの?」
「結果に対する文句や苦情じゃないよ。今回のオーディションの方針が曖昧だから、みんな納得したいって思ってるの」
「同じよ。滝先生の決めたことだもの。それが方針であり、私たちが進むべき方向性なの」
「でも、次があるか現状は分からない状況で、選考内容をはっきりするしないは大事ですよね」
「うん。どうやってモチベーションを保ってあげられるか、だよね」
川島と井上も沙里に追随するが、高坂はそれでも自分を曲げなかった。
「自業自得よ。やらない子は放置でいいでしょ」
高坂の言葉に場が凍りついた。真夏の太陽に熱せられた空間は完全に冷え切り、隆翔は自分の耳を疑った。
高坂の強気な言葉に秀一が反論し、沙里も言葉を繋ぐ。
「……いや、それじゃダメだろ。来年以降のこともあるんだから」
「そうだよ。このままじゃ本当に心が折れちゃう子だっているかもしれないんだから。B編成だって、松本先生が指導できない時間はほとんど個人練習なのはあまりに気の毒だよ。誰か指導できる人がB編成に合奏指導するとかじゃないと。全員が全員、モチベーションが高いまま維持できる訳じゃないんだから」
「それでも! 私たちはやるべきことをやってる。Bの子たちには個人でもできるメニューも配っているし、実際、合奏自体は合宿でちゃんと底上げされた。この夏で実力を伸ばしたBの子がAに受かった事例だってある。滝先生の決めた新しい編成で、府大会のクオリティを超えてるわ……高橋さんは、それを否定するの?」
「そうじゃないよ! そういう後輩の声もあるって伝えているんであって──」
「なら、後輩の小さな不満を解消するのも先輩でありリーダーの仕事でしょ。あなたはその声を聞いて何かした? 演奏のアドバイスも、後輩のケアも、自分の手の届く範囲でやるべきことをやったの?」
「ちがっ、私はっ……」
冷たく言い放たれた言葉に、沙里は完全に閉口する。悔しそうに唇を噛む仕草に隆翔の心が痛んだ。
先生以外の指導に関しては、本来ドラムメジャーの仕事である。彼女としては完全に放置しているつもりはないが、そういう不満が頻発しているということは、実際に練習指導の機会は少ないのだろう。
とにかく、これ以上沙里を矢面に立たせるのは可哀想だった。
「ありがとう沙里。後は俺に任せてくれ」
「隆翔くん、ごめん……」
優しさと厳しさの比率で言えば前者が勝る沙里は、厳しさ一辺倒の高坂と相容れなくて当然だ。そんな彼女が現状を打破するために勇敢にも立ち向かった。隆翔は敬意を払って、彼女の追求を受け継いだ。しかし訴求の矛先は高坂ではない。
「部長、一つ確認させてくれないか」
隆翔は中央に座る部長の黄前を指名した。唐突に向けられた質問にぎょっとしつつも、黄前はそれを受けた。
「……はい、どうぞ」
「まず、俺は今回のオーディション結果には納得してる。それを前提として、今年のオーディションを三回に変更した過程を教えてほしい」
「えっと……そのことは今の会議では関係無いんじゃ……」
「ある。というか、今日の議題はそれなんだよ。それとも黄前は、部内の空気を乱す原因に対して、見て見ぬふりをするのか?」
「み、見て見ぬふりをしてるつもりは無いんだけど」
隆翔の言葉には迷いがなかった。それに対して、黄前は口を開いたまま言葉を探している。本来、部長を補佐する立場にある副部長は、この状況を黙って見守っていた。
「今は大会直前だし、合宿明けで疲れもあると思う。せっかく合奏もどんどん上達してるんだし、今ここで大きく方針を変えたら逆に混乱するんじゃないかな」
「それって、今まで通りで何も変えないってこと?」
牧が黄前の言葉に反応する。
「そういう訳じゃないよ。今までもパートリーダーには後輩たちの面倒をよく見てもらってるし、ここは混乱を大きくしないためにも今まで通りで……」
「はあ?」
現状から目を逸らし続ける姿に隆翔の射抜くような眼光が向いた。
「それがダメだからこうして話し合ってんだよ。どうしてそこまで頑ななんだよ。変えようって考えの中で、お前の判断は波風立てたくないから現状維持で、お前は問題を先送りにしてるだけだ。パーリーはずっと前からお前ら幹部と後輩たちの間で板挟みになりながら不満も漏らさずに精一杯やってる。その努力から目を逸らすような考えなら、今すぐ訂正しろ」
これは怒りだ。隆翔は今、黄前に対して明確な怒りを抱いている。鋭い語気が何よりの証拠だった。他の面々は、唐突に態度を豹変させた隆翔に目を丸くしている。
会議が始まるまでは、隆翔にも彼女を責め立てる予定は無かった。今回の会議はあくまで滝の指導方針を明確化させることと、今後の練習に関する改善だ。しかし、当の黄前は問題の矛先が幹部と顧問の運営方針に向くと態度を硬化させ、現状維持路線に走った。それがどうしても許せなかったのだ。
叱責を受けた黄前は目を丸くし、ただぽかんと口を開けている。
「……でも、樟葉くんの言う通りだよ。これ以上は私たちも抑えられる自信がない」
「黄前さん、どうにか私たちの意見を聞いてくれない? 部長が一言、滝先生に言ってくれたら何とかなると思うんだ」
直属の後輩を高坂に叱責された森本と高野が諭すように懇願する。
アプローチが違えど、彼女たちも隆翔と訴えることは同じだった。
しかし、その想いを一刀両断する言葉が、教室に響いた。
「何言ってるの。これくらい緊張感にも耐えられないで、全国金賞なんか獲れる筈がない」
「全員が全員、その練習に耐えられる訳じゃないからこういう話になってるんだろ」
「少なくともトランペットはそんな空気に微塵もなってない。自分たちのことを棚にあげて幹部の責任って言うのは勝手だけど、いい加減な練習して困るのは自分たちよ」
「ちょっと、麗奈……」
あまりに硬派な主張に、流石の黄前も苦言を呈さずにはいられなかった。
親友として距離の近い二人。だが、この時、高坂が黄前に向けた視線は、決断しきれないことへの不満や苛立ちが感じ取れるものだった。
パートリーダー会議は再び沈黙に包まれた。
進展しなかったことに沙里は肩を落とし、隆翔は大きな溜息をついた。そんな閉塞した空気を受け取るように、黄前は愛想笑いを浮かべながら会議を締め切った。
「ある程度時間が解決してくれることもあると思う。気落ちした子には気にしつつタイミングを見て、声をかけてみて」
「……うん」
「それでは今週のパートリーダー会議を終了します。戻り次第パート練習に入ってもらい、十時から合奏練習に入るので遅れないように音楽室に集まってください。副部長とドラムメジャーはこの場に残ってください。話があります」
結局、会議は煮え切らない現状だけが残った。各リーダーは湧き上がる不満に蓋をして、自分たちのタイミングで教室を後にした。その背中に、落胆した様子を見せながら。
「あまり気にするなよ。沙里の勇気はみんな分かってるから」
「……ありがと。でも自分でも分かってるの。らしくないことしたなって」
会議のあと、教室では会議の行く末を気にしていたパートメンバーに迎えられた。二年生の一部が隆翔に相談を持ち掛けたこと。そして今日のパートリーダー会議で幹部に直談判するという話は、噂となって部内に広まっていた。
「結局、何も変わらなかったってことだよね」
落ち込む沙里に寄り添っていた中野が眉間にしわを寄せた。
「いや、そうでもないと思う。少なくとも、黄前と高坂には他の部員から噴出する不満を明らかにできた。それに、パーリーが束になって意見した事実は、あいつらの心に残り続けると思う」
「でも高坂さんは拒絶したんでしょ」
「黄前さんも、最初は私たちの言葉に耳を傾けてたんだけどね。高坂さんが頑なな態度を取り始めてからは現状維持でいこうって」
今まで黄前が部長として強権を発動してきた過程には、高坂との考えの擦り合わせが存在していた。逆に言えば、彼女と意見が一致しなければ強く前に出られないということだ。一見すれば高坂の傀儡として黄前が存在しているようにも見える。しかし、実態はおそらくそうではない。
「これから、どうなるんでしょうか」
「分からないけど、私たちは真面目に練習するしかないよ」
「……ですよね」
「巧美ちゃん、ごめんね。私がもっとしっかりしないといけないのに、集中を切らすようなことをして」
「いえ……私は先輩方が全国金獲れる為に自分のできることをするだけですから。でも、先輩たちには目標を達成してほしいです。私自身、この部活のことは正直まだよく分かっていません。だから、後悔してほしくないです」
「巧美ちゃん……」
吉田巧美は言った。後悔しない選択を、と。
先輩として、未来のエースの素質がある彼女の言葉に何も感じないはずがない。
どんなことがあっても最後には笑って終わりたい。ここにいる三年生は全員同じ思いだった。
◇◆◇
次の日も、部内の空気は閉塞感を保ったまま行われた。
指揮台に立つ高坂の指揮のもと、チューニングなど合奏準備が行われている。滝は職員会議のため、合奏練習が始まるタイミングで来ることになっていた。
「はい。では、コンクールメンバーはこのまま残って合奏練習です」
「……あの」
不意に、隊形の真ん中から手が挙がる。その主はトロンボーンの三年生、赤松だった。
「これからも練習、ずっとこの形で続くんですか?」
「オーディションのたびに合奏のメンバーが変わるって、本当に演奏が良くなるのかなって……」
続いてパーカスの堺万紗子も声を上げる。
練習前、しかもコンクールメンバー以外の部員も含め全員がいる前で意見が投げかけられた。
指揮台に立つ高坂は隠そうともせず、ムッと表情を曇らせる。
「いま練習中だから、とりあえず後にしよう? 話は聞くから」
黄前は立ち上がって、二人と高坂の間に割って入る。張り詰めた空気をなだめるように、声の調子は柔らかい。しかし、その視線はわずかに揺れていた。
赤松と堺は言葉を飲み込み、楽器を持つ手をわずかに下ろした。納得したわけではない。ただ、これ以上踏み込めば場が壊れることを理解しただけだった。
「自分の不満をオーディションのせいにしないでください。分かったうえで進めている事でしょう」
高坂の抑揚のない声音が、かえってその強さを際立たせる。真正面から投げつけられた言葉に、場の温度が一段と低くなった。
赤松の表情がわずかに歪む。反論を押し留めるように唇を噛み、視線だけが鋭く高坂へと向けられていた。
「……別に、私は不満なんか」
「そうだよ。滝先生が大会ごとにオーディションするって決めたわけだし」
「決めたのは滝先生じゃありません」
その一言が落ちた瞬間、音楽室の空気がざわりと揺れた。小さなざわめきが波紋のように広がり、互いの顔を見合わせる部員たちの間に、動揺が伝播していく。
その空気を押し切るように、秀一が前に出た。
「提案したのは幹部だ。最終判断は滝先生だけど」
「じゃあ、私たちが前の形に戻したいっていえば──」
「今更できるわけないでしょ」
言葉を被せるように高坂は一蹴した。迷いのない断定に、これ以上の議論を許さない線が引かれる。
黄前は視線を泳がせながら、また一歩踏み出す。板挟みになったまま、それでも場を収めようとする責任感だけが彼女を支えていた。
「部内のそういう意見は幹部も理解しています。ただ、今年はこの形で進めると決めたので、来年以降に……」
「それって、今年はあきらめるってこと?」
赤松の言葉は静かだったが、その一言は逃げ場を塞ぐには十分だった。
黄前の口がわずかに開いたまま止まる。返す言葉が見つからないまま、時間だけが重く流れた。
「誰もそんなこと言ってない。この方法がベストだと滝先生が判断して、私たちはそれを信じて演奏してきたでしょ」
「だけどさ……部の空気、なんとかしてよ。合宿からずっと悪いままだよ。部長だってそうでしょ。ソリ、急に変更になって。そういうのとか、なんていうか……」
黄前と真由を槍玉に上げた発言に、音楽室はしんと静かになった。
黄前久美子は今、部長としての器量を試されている。
沙里は小さく溜息を吐いた。遅かれ早かれ、パートリーダー以外からこうした声が上がることを予想していたのかもしれない。自分が出るべきか目線で隆翔に判断を仰いだ。隆翔は首を横に振ると、沙里は一度頷いた。まるで自分に言い聞かせるように。
もう傍観者ではいられない。この部を取り巻く空気に楔を打ち込まねばならない。隆翔を突き動かしたのは、そんな思いだった。
「俺もこの二人とは同じ考えだ」
「樟葉は黙ってて」
立ち上がった隆翔を真っ先に高坂が牽制したが、隆翔は黙らなかった。
「いいや黙らない。多くの部員が不安や不信感を心の中で押し留めながら、このクソ暑い中練習してるんだ。それを見過ごすのが今年の幹部なのか?」
「見過ごしてなんかいない。そもそも、そういう考えを持つ方がおかしい」
「おかしいのはお前だろ高坂。気に入らない意見を封殺したいからって下級生が泣くような説教をするのは、お前の思うドラムメジャーとしての理想の姿なのか? 優子先輩がそうしろと言ったのか?」
卑怯かもしれないが、ここで優子の名前を出すのは有効だった。事実、高坂はその名を聞いた途端、ぐっと言葉を飲み込んだ。
これまでドラムメジャーとして、吹奏楽における正しさの刃を研いできた立場として、隆翔の言葉は再考する余地があったのだろう。
何も言えない高坂に対して、隆翔は更に睨む力を強めた。腕を背中に回してバツが悪そうに目を逸らす高坂が、ひどく弱々しく見えた。
「黄前もだ。お前の仕事は部をまとめることだろ。こんだけ人数もいればそりゃトラブルも起きるよ。でも、時には自分の感情を殺してでも部員を守る。それが部長なんじゃないのか?」
「それは……」
隆翔の言葉に黄前は唇を噛んだ。
高坂が葉加瀬たちを娯楽室に呼んだ時、黄前はその場にいたそうだ。あの時高坂を止めることができるのは黄前だけだったのに、彼女はそうしなかった。
本来、ドラムメジャーは演奏指導に本腰を入れる立場であり、人間関係などは部長、副部長の仕事だ。当然、黄前たちも当初はその方針だったはずだが、彼女は高坂の暴走を止められなかった。その責任の所在は部長にあった。
ガラッと音楽室の扉が開く。職員会議から滝が戻った。合奏の形になっていない現状を見て顔を顰め、強めの言葉をかけた。
「どうしましたか。手を止めている時間はありませんよ」
「あっ、はい! この後、コンクールメンバーは音楽室に残ってください。それ以外は多目的室で練習です。では移動してください」
パン、と黄前が手を叩くと、仕方なしと半ば諦めた態度で部員が動き始めた。その姿から、吞み込めない思いを抱えているのは十分見て取れる。
結局、中途半端になってしまったが黄前と高坂へ訴え掛けることはできた。兎にも角にも、本人たちには何もしない事が問題なのだと、理解してもらうしかないだろう。
◇◆◇
吹奏楽部に棲み付いてしまった不和の種は休むことなく膨張している。関西大会までの期間を考えれば、今すぐにでも対処しなければならない事案である。しかし、この部において最高意思決定権を持つ黄前は、ここまで何の指示も下していない。
今朝の合奏練習前に起きた訴えを見て、昼休みに北山ら南中出身者数名が練習教室に訪れた。彼らは隆翔が約束通りに実行してくれたことにいたく感激していた様子で、隆翔に感謝してきた。それとは対照的に高坂の直属の後輩であるトランペットパートの浅倉玉里ら数名は、高坂に反抗的な部員に対して冷たい態度を取っているとの情報も得た。敵を作りやすいのは、立ち上がった者の宿命なのだ。
午後の合奏練習も終わり、自主練習で居残ろうと移動していた時、その事件は起きた。
隆翔の耳は、二人が言い争うような声を捕捉した。
「元はと言えば、アンタが後輩をちゃんと教育できてないせいでしょ!」
「……俺のせいかよ?」
廊下の先の教室から、高坂と秀一の大きな声が聞こえた。幹部会議なのだろうか、二人が言い合う声からしても紛糾しているように見える。
「顧問に対して失礼な物言いをした後輩を注意して何が悪いの。オーディションの結果に不満だからといって、滝先生の悪口を言うなんて許されない」
二人の口論は徐々にヒートアップしている。だが、そこにいるはずの黄前が仲介する気配はない。隆翔は扉の前で聞き耳を立て、論争の行く末をじっと待つことにした。
「だからって当人たちを呼びつけて直接指導するのか? 恐怖政治も大概にせえよ。実際、他の部員からも高坂は締めすぎなんじゃないかって相談きてるし。だからパーリー会議でも隆翔や高橋に言われるんだよ」
「で? アンタは優しい言葉をかけて、慰めて、それでおしまいってわけ?」
「そんな言い方ないだろ!」
「仏の副部長って言われてみんなからチヤホヤされて。そうやってみんなに良い顔してるだけ。嫌な役回りは全部アタシに押し付けて!」
「高坂が自分の事を棚に上げて勝手に周りに当たり散らしてるだけだろ」
高坂の煽りをモロに受けた秀一が、バンっと机を叩いて激昂する。刺々しい言葉の応酬はいよいよ臨界点に達しつつあった。
「ちょっと、二人とも言いすぎだよ。落ち着いて」
漸く黄前の仲裁が入った。表情まで伺えないが、相当に困惑していることだろう。
「アタシは、今まで思ってたことを正直に言ってるだけ」
「大体、最近の高坂はいろいろと過剰に反応しすぎなんだよ。別にどの部員も滝先生を嫌ってるわけじゃない。ただのガス抜きくらい、許してもいいだろ」
「アタシぐらい実力がある人間が文句言うなら納得できる。でも、あの子たちはそうじゃないでしょ」
「出たよそれ。お前、その態度本当にやめろよ。パーリー会議でも言ってたけどさ、幹部が部員見捨てるなんて冗談でも言うもんじゃないからな」
「だったら心を入れ替えて練習すればいいのよ。塚本は全国金、獲りたくないの?」
「そりゃ獲りたいよ! でも、そのために誰かを傷つけていい訳がないだろ!」
「傷つける? 誰が誰を傷つけてるって言うの?」
「お前が当たり散らした結果、傷ついてる人がいるって言ってんだよ」
「そんなの注意されて傷ついてるのが悪い。アタシはミスを指摘してるのであって、人格まで否定してる訳じゃない」
ほんまかいな、というのが隆翔の思いだった。関西大会のオーディションで部内の空気が一変してから、メンバー変更の影響を受けた部員はしばし話題の中心にいる。それは沙里であり、隆翔であり、真由であり、黄前である。その当事者である黄前が、うんざりしたような口調で再び口を開いた。
「もうやめて。二人とも頭を冷やしてよ」
熱くなった二人を嗜めるにはあまりに無遠慮で、言葉の節々から面倒臭そうな態度が見受けられた。これでは火に油を注ぐようなものだ。
案の定、火の粉は黄前にもかかった。
「久美子はそうやっていつもなあなあにしようとするけど、それで本当に解決すると思ってるの?」
「そんなことないよ。言い争ったって解決しないし、今回のことで部員から不満の声が出ているのは本当でしょ。だったら周りの声も聞いていかないとって……」
「そうやって空気読んで嫌なことでも納得しろってこと?」
「そうじゃないよ。部員全員が滝先生を信頼してないと、これ以上の演奏は無理だと思ってる」
「だったら滝先生を信じればいいだけじゃない」
「そうだけど、そんな簡単なことじゃないのは麗奈も分かってるでしょ。今回のことだって発端は滝先生の選考からだし、滝先生の口から説明しない限りには……」
紛糾していた教室は一旦落ち着きを取り戻した。
しかし黄前の声は低く、問題の解決には遠く及ばない。
「副部長はどう思うの?」
「俺はおおむね賛成だ」
「……っ!」
「ねえ麗奈。私、全国金を獲りたいの。でもこのままじゃ、関西大会を突破できるとはとても思えない」
部長は折れかけていた。パートリーダーや副部長は、滝先生に説明を求めることで意見が一致している。本来ならば、ここで部長が決定すれば、すべて話が丸く収まる。それが本来、健全な部活運営の形だ。そうなるはずだった。
「アタシは賛成できない。今、滝先生がオーディションについて何か言ったら、逆に部はバラバラになる」
「麗奈……」
「不満のある人は、オーディションの結果が変わらない限り納得しない」
「そう、かもしれないけど……そういう意見は最初っから樟葉が止めてくれてたじゃん。ここで私たちが何もしないのは──」
「何もしないの!」
「────えっ」
黄前の絶句した声が教室に響いた。
「部長としてやることが、滝先生に説明してほしいってお願いすることなの? 誰かに頼ることなの?」
「じゃあどうすればいいの? 麗奈は上手いからそう言えるんだろうけど、上から正論言ってるだけなら苦労しないよ!」
小さな苛立ちが募っていた黄前は、ついに声を荒げて爆発した。そんな彼女を前にしても、高坂は冷たい声で言い放った。
「アタシは奏者として正しいと思うことは今後も曲げるつもりはないし、ドラムメジャーの仕事をこなすだけ。久美子と違って」
「私だって部長の仕事をこなしてるだけだよ! それとも、麗奈はまだ私が部長失格だって思ってるの?」
口論でヒートアップした場の空気が、一気に氷点下まで下がったようだった。勢い余って口に出た言葉なのだろう。地獄のような空気を切り裂いたのは、静かな怒りを溜め込んだ秀一の一言だった。
「……お前、そんなこと言ったのか?」
「それ、は……」
高坂が黄前に向けて放った「部長失格」の烙印は一線を越えていた。
この幹部が発足して以来、三人は対等に接しているから忘れていたのだろう。吹奏楽部に限らず、どの部活においても意思判断のトップは部長であり、副部長やドラムメジャーはその補佐でしかない。故に、高坂の一言は明らかな越権行為だった。もし、これが他の部員に露呈すれば組織運営に大きな影を落とすだろう。
秀一の怒りはもっともだ。恋人関係を解消してもなお、誰よりも近くで支えてきた黄前を侮辱することは、人のために怒れる彼の逆鱗に触れる行為だった。
「アタシはいつも……いつもこの部のために行動してるだけ」
「おい待てよ!」
引き止めた秀一の言葉の先でパシン、と乾いた音が響いた。
ガラッと教室の扉が開かれ、思いつめた表情の高坂と出くわした。盗み聞きしていた隆翔を見て、一瞬驚いたような表情を浮かべたが、彼女はすぐにこの場を離れようと歩みを進めた。二人に、悩みと後悔に歪んだ表情を見せないようにしながら。
「た、隆翔……」
教室の中にいた二人も、隆翔がそこにいたことに驚いている。
「幹部会議は終わったか?」
「……お前、分かってて言ってるだろ」
「まあな」
皮肉めいた態度に、秀一は苦笑した。
「とりあえず、高坂は俺に任せてくれよ」
「いや、隆翔の手を借りる訳には……」
「良いんだよ秀一。いい加減、あの時の借りを返させてくれ」
隆翔は秀一の肩にポンと手を置いた。
「でも、いいのか? お前、高坂とは……」
「良いよ。別に、あいつは敵じゃないし話せば分かる奴だから?」
「まあ、確かに……。すまん」
すぐにでも彼女の後を追わねばならない。しかし、その前にやることがあった。
「黄前」
「な、なに?」
「いつまでそうやってるつもりだよ。お前は部長であって、もう相談係じゃない。いい加減、部長としての自覚を持て。今回の件でギスギスしている原因は、お前にもあるんだからな」
忖度などどこにも存在しない。
ただ許せないのは、真由に対することだけだった。
「……幹部が機能しなかったのはその通りだよ。でも……それでも私は北宇治の部長だから」
一度俯くも、黄前は再度目を見開いて言い切った。
「なら、お前は結果で応えるしかないな」
「言われなくても分かってる。行って、麗奈をなんとかして」
「部長の仰せのままに」
漸く、その双眸に北宇治のリーダーたる光が宿った。
部長ならば部下を使ってこそ。適材適所で采配を下してこそ、リーダーはその真価を発揮する。
二人を置いて、隆翔は走った。しかし高坂の姿はどこにもない。
電車通学だと思っていたが駅までの道には見当たらない。
アテが外れたと思ったその時、階段の下を一台の自転車が通過した。黒い髪を靡かせながら、風を切って走る高坂の姿だった。
「おーい、高坂! 止まれー‼︎」
隆翔は階段の上からありったけの声で叫んだ。
突然の叫び声に高坂も驚いたのか、キッとブレーキ音を立てて自転車を停めた。
「樟葉……?」
「なんだ、お前チャリ通だったのかよ」
「……たまたま今日だけよ。というか、何の用?」
隆翔に対して壁のある対応は変わらない。どちらかが歩み寄らねば、二人の関係性は一生このままなのだろう。
だから、隆翔は一歩踏み出して彼女のパーソナルスペースに踏み込んだ。
「なあ、この後時間あるか?」
「無いけど」
「そうか。なら、ちょっと付き合え。そんで後ろ乗れ」
「はあ? ちょっと、突然なにすんの?」
「良いから! ほら行くぞ」
有無も言わさずに高坂の自転車のハンドルをひったくって、二人を乗せた自転車は風を切って坂を下っていった。
【つづく】