或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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この話の裏で、久美子は田中&中世古邸で同棲の距離感を見せつけられています。


EP.50 迷子のエースと雨のビート

 隆翔と高坂を乗せた自転車は威勢よく、風を切って進んでいる。

 サスペンションからキイキイと錆びた音が響く。定員オーバーのサインだろう。他人の自転車だが、迷わずペダルを踏み込んだ。

 

「ちゃんと捕まってないと危ないぞ」

「アタシっ……二人乗りなんかしたことないから」

 

 おずおずと遠慮がちに隆翔のシャツを掴みながら、そんな情けない声が背後から届く。隆翔の指摘を受けて、振り落とされないように肩を強く掴んだ。

 

「俺は慣れてる。よく、梓を後ろに乗せてたからな」

「佐々木さんを……幼馴染み、なのよね」

「……一応な」

「一応?」

「俺はそう思ってるだけ。ただ、あいつは多分そうじゃないだろうから」

「それってどういう……」

「喋ってると舌嚙むぞ」

 

 これ以上の詮索を避けるために隆翔はスピードを上げた。最初は二人乗りに恐怖心を抱いていた高坂も、慣れてきたのか段々と声が弾んでいた。漕ぐ方は大変だが、高坂の体格は梓と大して変わらない。むしろ懐かしい気分だった。

 自転車を飛ばして、宇治橋まで来ていた。目的地はもうすぐだ。

 

「アタシの家、もう通り過ぎちゃったんだけど」

「悪いな。もうちょいで着くから付き合ってくれ」

「……分かったわ」

 

 そうして辿り着いたのは、宇治市の住宅街にひっそりと佇む古民家。古びた建物はいつ建造されたのか正確な時期は不明だそうだが、築百年はゆうに経過しているだろう。そこをリノベーションして、今は和喫茶として営業している。

 

「………」

 

 あまつさえ帰宅中に自転車をひったくられ、半ば強引に連れてこられた場所が喫茶店では、高坂も言葉を失うだろう。

 

「……あんた、彼女持ちなのに堂々と浮気するどころか、その相手が私だなんて度胸あるわね」

「は? 何言ってんだお前」

「だって二人乗りした挙句、喫茶店で二人きりなんてそういうことじゃ……」

「やめろやめろ。他意も下心も無いから変な誤解を持つのは勘弁してくれ」

 

 普段の高坂からは見えてこない、意外な少女趣味の片鱗を見た隆翔だった。高坂との恋人ムーブという嫌な妄想を頭の中から掻き消して、喫茶店の扉を開ける。

 店内は思っていたよりも静かだった。

 古い梁と低い天井、磨かれた木の床。外の熱気が嘘のように、そこだけ時間がゆっくり流れている。

 四人用の座席に通され、向き合って座る。高坂は不満そうな顔をしたまま席に着いたが、出された冷たい麦茶には素直に手を伸ばした。

 

「注文決めなよ」

「……じゃあ、アイスコーヒー」

「オッケー。──すみません、アイスコーヒー二つお願いします。ガムシロップとミルクは一個ずつで」

 

 奥から還暦を迎えたであろう初老の男の声がする。

 この店は近寄り難い雰囲気があるが、こういう趣向の喫茶店は静かに好まれるというものだ。

 

「こんなお店があるなんて、ずっとこの辺で暮らしてたけど知らなかった」

「まあ、生活圏からは離れてるだろうしな」

「アンタだって違うでしょ。……もしかして希美先輩?」

「イエス」

「ふーん……」

 

 その相槌だけでは、興味を示したかどうかまでは分からなかった。

 目の前に置かれた二つのグラス。その中には氷が浮かんだコーヒーが注がれている。グラスの奥を一切見せない濁った液体は、まさに今の北宇治を象徴しているようだった。

 世間話もそこそこに、高坂は本題へ切り込んだ。

 

「で、何のつもり?」

「お前と話したかったんだ」

「学校でよかったじゃない」

「学校じゃまともな話にならないだろ。あんな喧嘩しておいて」

 

 高坂の指が、グラスの表面についた水滴をなぞる。

 

「……聞いてたの」

「途中からな」

「はぁ、最悪……」

「だろうな。でも聞いた以上、放っておく気はないから」

 

 運ばれてきたコーヒーには手をつけず、正面に座る高坂を見据えて皮肉たっぷりに言い放った。

 

「孤高ぶったエースは、いつしか孤立への道を歩んでいた、か」

 

 ガムシロップを注ぐ手が止まる。

 本当は自覚しているはずだ。ただ、このことを彼女に伝えられる人がいなかっただけで。

 

「色々とまずい動きもあったから、反感を持つ部員も多い。特に、二年生に直接説教したのは結構まずかった」

「あれは説教じゃなくて指導。関西大会まで時間もないのに、顧問の意向に楯突くなんてありえない」

「いや、それは別にいいんじゃねえの? ある意味でそれも、滝先生が掲げてる自主性みたいなものだし、あの三人も言い広める意思はないって言ってたし。今回、たまたま高坂の耳に入っただけだって」

 

 滝の意向や方針が絶対だとする考えは存在しない。あくまでそれは高坂自身の中にある不文律だ。でなければ、滝がわざわざ生徒に『自主性』を求める理由が説明できない。

 統治する側にとって都合がいいのは、異を唱えない人間だ。けれど、それを本気で望むのは、きっと独裁者くらいのものだろう。そういうやり方が行き着く先は、あまり良いものではない。

 

「で、樟葉はアタシに説教したくてここに連れてきたの?」

「まさか。沙里ならまだしも、俺にはそんな資格ない」

「高橋さん……どうしてあの子は、あんなにアンタの肩を持てるのかしらね」

 

 高坂の言葉には棘があったが、その奥にある温度までは隠しきれていなかった。

 隆翔には沙里という、言葉を交わさずとも意図を汲み取ってくれる相手がいる。背中を預けられる存在が、すぐ隣にいる。

 対して高坂はどうだろうか。正しさを貫くほどに距離が開き、気がつけば誰も並んで立てなくなっている。

 その違いを突きつけられているのは、むしろ自分の方かもしれないと、隆翔は苦笑した。

 

「お前にとってそうなれる奴が、黄前だったんだろ」

「……そうね」

「じゃあ、そうなればいいじゃん」

「…………」

 

 なぜ高坂が肯定しないのかは、幹部会議という名の口論の最中に出た一件が尾を引いているのだろう。隆翔は知っていて、敢えて口に出さなかった。

 

「高坂が何に意固地になってるのか知らねえよ。ただ、部を率いていく上で強権を使うなら、もうちょっと考えた方がいいと思う」

「アタシたちは出来ることはやってるし、演奏技術を向上させるならどんなことでも挑戦すべき。去年、関西大会で終わったこの部を立て直して、何かを変えていかなくちゃいけなかった。オーディション三回制は、必要なことよ」

「別に三回のオーディションを否定した訳じゃねえよ。でも、それが難しいことだってのも分かってた上で決定したんだろ。幹部がどんなプロセスで決めたのかは興味ないけど、決めた以上は責任と覚悟がいる。いま、お前ら三人が苦悩してるってことは、その覚悟が足りなかったってことじゃないのか?」

 

 淡々と語られる持論に、高坂は唇を噛んだ。

 コーヒーに浮かんでいる氷が溶け、水との層が出来ている。それはまるで、混ざり合わない今の部内を象徴しているようだった。

 

「……ムカつく」

「は?」

「本当にムカつく……中学で逃げたくせに何も考えないで部活に戻ってきて。それで説教しようなんてあまりに虫が良すぎる。自分勝手もほどほどにして!」

 

 射抜くような視線だった。だが隆翔は一瞬だけ目を見開いたきり、すぐに肩の力を抜いた。胸の奥に小さな棘が引っかかった感覚がある。それでも、真正面からぶつかる気にはならなかった。感情をぶつけられているというより、行き場を失った言葉を投げつけられている──そんな印象の方が強い。

 だから隆翔は、わずかに口元を緩めてその熱を受け流す。反論でも挑発でもなく、ただ旧友の愚痴を聞き流すような、軽い距離を保ったまま。今ここで必要なのは勝ち負けではないと、冷静に線を引いていた。

 

「そうだよ。俺が吹部に入ったのは全部自分のためだ。残念ながらね。中二のコンクールで聴いた希美の音が忘れられなくて、希美のサポートがしたいから吹部に入った。希美が俺に全国金の夢を俺に託したから、俺は本気でフルートを吹いてる。それ以外の理由はすべて後付け」

 

 だから、と言って一度呼吸を整えた。

 

「とりあえず、高坂も吐き出しちまえよ。どうしたらいいかなんて、その後に考えればいいじゃん」

 

 あまりにも飾り気のない言い方だった。開き直りとも違う、ただ事実を並べただけの声に高坂は言葉を失った。張り詰めていた刃のような気配が、わずかに鈍った。

 反発の色は残っている。それでも隆翔は、踏み込むか押し図る彼女の変化を急かさず、ただ静かに待った。

 無言のまま、高坂がアイスコーヒーのストローを咥える。氷がかすかに音を立てた。

 

「……分かったわ、今日は話し合いましょ。吹奏楽部のために」

 

 その言葉の端には、わずかに意地ではない温度が滲んでいた。態度を緩和させた高坂に、隆翔もニヤリと口を歪めた。

 

 

 

「……去年、アタシたち幹部が発足した時、この三人なら全国に行けると思った。久美子が部長になるのは当然とも思っていたし、久美子が適度に力を抜ける位置に塚本もいたしね。でも、優子先輩たちの計算違いが一個あったわ」

「それが俺だと」

「ええ、そうよ。正直、幹部が三人いれば臨時職のマネージャーは必要なかった。本当は優子先輩に言って、マネージャーを無くそうとも思った。でも、発足してすぐのアンコンがそうさせてくれなかった。結果、樟葉は久美子に変わってメンバーの集計と組めない子の相談なんかに乗ってもらった。あそこで樟葉の立場が確立してしまったのは、見込み違いだったわ」

「まあ確かに、マネージャー兼奏者ってなんだよって心のどこかで思いながら活動してた節は否めなかったし、宙ぶらりんな立場だったのは否定しないよ」

 

 吹奏楽部では異質な存在であるマネージャー。そもそも、私立校などでは顧問に近い教師などが務めるような役職なのだ。生徒の自主性という大義名分のもとで臨時職として就いた友恵は、網目を掻い潜る立ち回りを見せたものだと感心する。

 

「でも、優子先輩を責めるのは酷だろ」

「ええ、優子先輩は何も悪くないわ。責めるとしたら、それに甘んじたアタシたちよ。それに、結果的にマネージャーはいなくなったけど、そこに残ったのは人間関係を処理しきれない幹部だけだった。悔しいけど、アンタはよく人を見てる。それも久美子以上に」

「買い被りすぎだよ」

「そうかしら。二年生、特に南中出身には慕われてるらしいじゃない」

「それを面白く思わない人もいるらしいけどな。特に、お前んとこの後輩に」

「どうでもいいわね」

 

 周囲がどう思おうと関係ない、とでも言いたげな響きだった。踏み込みすぎず、かといって迎え入れもしない。その距離の取り方が、いかにも高坂らしい。

 

「高坂は、この部の掲げる実力主義をどう思う?」

「どうって、当然のことだと思うわ。みんなそれが当然だと思ってこの部にいる訳だし、今更顧問批判するのはあり得ない」

「滝先生が来てからこういう形になったって聞いたけど、それをどう思うかは人それぞれだろ。今の一、二年生は滝先生を神格化してないし、そもそも三年生ですらそう思ってる人は一部に限られるだろ」

「だとしても、部長が決めて、顧問が承諾したことを今更曲げようなんて……」

「その『今更』が、黄前たちが軽視したことなら?」

 

 今回の一件は、オーディションを三回制にしたことに端を発していた。様々な不満が噴出したが、主にパートリーダーから出たのはそこに関することだった。

 

「まあ、この三回制は諸刃の剣だよ。北宇治は強いから、誰もが満足いくような結果を得られるわけじゃない。でも、結局各パートをまとめあげるのはそのリーダーなんだから、決めるにしたって少なくともパーリー会議で提言するべきだったな。まあそれこそ『今更』なんだけどさ」

 

 肩をすくめるような言い方だったが、その奥には、手遅れになりつつある現状への乾いた諦めが滲んでいた。もっと早く拾えていれば、もっと早く噛み合わせていれば──そんな後悔を直接口にすることなく、遅れた分だけ歪みが広がってしまったことを、静かに突きつけている。

 高坂は何も言わなかった。視線を落としたまま、隆翔の言葉を一つずつ噛み砕くように受け止め、やがて小さく息を吐いた。

 

「それに、実力主義を肯定するなら守ってやるべき人がいるんじゃないのか?」

「それって、黒江さんのこと?」

「ああ」

「……そうね」

「黒江も不幸だよ。部内で一番近い距離にいて何かあれば頼れる相手が黄前なんだから」

「でも、それを期待するのは無茶よ。久美子は落ちた側。受かった黒江さんが久美子に縋るのは、彼女の性格的にできないでしょ?」

「だとしても、部長という肩書きである以上は、どんな事情があってもあんな拒絶するような態度を取ることは許されるものじゃない」

 

 淡々とした口調のまま、言葉の端だけがわずかに硬くなる。感情をぶつけるでもなく、ただ事実を積み重ねるように語るその姿に、かえって失望の深さが滲んでいた。部長としての振る舞いに期待していた分だけ、裏切られた感覚が拭えない。抑え込んでいるが、そこには確かに小さな怒りも混じっていた。

 対する高坂は何も返さなかった。真由の件を知らなかったわけではない。それでも、あの場で踏み込まなかった自分の判断が正しかったのかは、未だに答えが出ていない。わずかに視線を落としながら、隆翔の言葉を静かに受け止めていた。

 しばらくの沈黙が落ちた。

 店内には遠くで鳴る風鈴の音と、氷が溶ける音だけが残る。

 話はいよいよ、高坂自身のことにシフトしようとしていた。

 

「……何よ」

「いや、部長失格って言った割に黄前の肩を持つんだなって」

 

 その一言に、高坂の指先がわずかに止まった。グラスの縁をなぞっていた爪が、触れたまま動かなくなる。

 高坂にとって、黄前は初めての親友だった。

 その相手が、部長という立場に押し潰されそうになりながらも必死に踏みとどまっている。その姿を見ていながら自分は「部長失格」と言い放った。

 正しさを貫いたつもりでいたが、振り返ればあまりに短絡的で、浅はかだったとしか言いようがない。胸の奥に残る引っかかりは、時間が経つほどに重さを増していくばかりだった。

 隆翔は、その様子を黙って見ていた。

 労いの言葉も、慰めも口にしない。ただ、いつもより少しだけ声を落として言った。

 

「喧嘩するのは簡単なんだよ。でも、元に戻すのは結構面倒くさい」

 

 高坂の視線が、わずかに揺れた。

 誰よりも彼女の不器用さを知っているからこそ、踏み込みすぎない距離で置いた一言だった。隆翔としては、これから二人がどうなるべきかを暗に伝えたつもりだった。

 

「迷うのは構わない。北宇治が全国に行ける確率なんてそんなに高いもんじゃないし、いかに無駄をなくして部を推進させるかはお前らの仕事だから。でも、迷ってるなら迷ってるって言ってほしい。お前ら三人だけの部活じゃないんだから」

「でも、そんなの関西直前に言えるわけがない」

「じゃあ滝先生にも聞くか? あの人は生徒の自主性がモットーだから、幹部じゃない人が訴えても耳を貸すぞ」

「……っ! そんなこと……!」

「できないと思ってたのか。それこそ、お前ら幹部がパートリーダー以下を蔑ろにして、自分達に酔っていた部分だよ」

 

 高坂の表情が、はっきりと強張る。

 滝という存在は、高坂にとって単なる顧問ではない。判断の拠り所であり、揺らぐことのない基準だった。その言葉を疑うことは、自分自身の正しさを疑うことに等しい。

 隆翔は、その境界をあえて越えてみた。滝の判断すらも絶対ではないと示すように、平然と選択肢の一つとして差し出した。高坂にとって、それは許容し難いものだった。

 胸の奥にあった違和感や迷いを、無理やり言葉にされかけているようで、思わず息が詰まる。

 否定しなければならないと、そう思うのに、すぐには言葉が出てこない。握りしめた手に、わずかに力がこもっていた。

 

「高坂は、なんで全国金を獲りたいんだ?」

「そんなの、部の目標だからに決まってるじゃない」

「そうじゃなくて、あんだけ金賞にこだわるなら、何か個人的な理由があるんじゃないかって」

「……教えたくない」

「あっそ」

 

 プイッと顔を逸らした高坂の表情が、どこか遠くを見ていたような気がした。

 彼女も、きっと誰かのために全国金賞がほしいのだ、と隆翔は解釈した。

 長い会話の中で、コーヒーに浮かんだ氷はいくつか茶色く濁った水に消え、残りも小さくなっていた。

 コーヒーの味が分かるほど大人ではない。かといって、中途半端な甘さがほしいほど幼くもない。それが高校生なのだとしたら、まさに今、この空間は新芽のような柔らかい矛盾で成立している。

 犬猿の仲だった高坂麗奈と樟葉隆翔。

 二つのグラスを境に、互いに譲りあったりあわなかったりした時間も、いよいよ終わりを迎えようとしていた。

 

「そろそろ帰るか」

「そうね」

 

 飲み干したグラスを残して二人は店を出た。

 会計は隆翔が全額負担した。高坂も財布を出していたが、レッスンを休んでまで付き合ってくれた後ろめたさがあり、丁重に断った。

 カナカナカナ、とひぐらしの鳴く声が川面に響き渡っている。

 宇治川にかかる宇治橋を、自転車を手で押す高坂に並んで歩いた。

 太陽はとっくに沈んでおり、濃紺の夕闇が空を覆っていた。

 

「明日も練習か」

「当然でしょ」

「お前、これからどうするんだ?」

「さあ? でも、このままなのは違うってことは分かる。どうするかは、もっと迷う必要があるのかも」

「……そうだな」

 

 高坂の口からその言葉が出ただけでも、二人の時間が無駄ではなかったと言える。

 高坂と黄前の間柄なら、関係修復は難しくはないだろう。部を分断させるようなこともないはずだ。

 

「問題は山積みね」

「だな。でも、高坂は高坂の仕事をすればいいさ。北宇治が全国に行くには、お前の力が絶対必要なんだから」

「分かってるわよ。明日から、いつも通りに戻るだけだし」

「ははは、そりゃ心強いわ」

 

 人間性では相容れない二人も、音楽を通してなら繋がることができる。

 そういう意味では、心が通じていないだけで似通った二人なのだ。

 

「アタシは、これまでもこれからも音楽に正直でいたい」

 

 ぽつりと呟いた高坂の一言。どういう意味だろうと、隆翔は首を傾げた。

 

「みんなで聴いた音なら、きっと不満なんて出ないと思うわ」

「……まあ、そうだな」

「アタシはいつだって音で説得力を出し続けるつもり。樟葉はどう?」

「どうって……」

「みんなを音で説得できる?」

 

 高坂の視線が質を変えた。先ほどまでの反発や逡巡とは違う、何かを見定めるような静かな圧がそこに宿っている。

 音で説得できるか。

 その問いは単なる技量の確認ではない。もっと奥にある、覚悟の在り方を問うものだろう。

 高坂の紫色の瞳がまっすぐ隆翔に向けられる。ほんのわずかに、信頼の温度が上がっているのが分かる。だがそれは同時に、踏み込んできた人間にだけ許される領域だった。

 以前、彼女に。いや、彼女たちに何があったのだろう。

 問おうにも脈絡のない言葉だけが頭に浮かんでは消えていった。

 

「全員を同じ方向に向けるとか意識を変えるとか、そんな革命的なことはできない。でも──」

 

 脳裏に、最愛の人の肖像が浮かんだ。

 音で支配しようなんて、隆翔にとっては烏滸がましい。でも、たった一人、そうしてくれた人がいることを、隆翔は誰よりも知っていた。

 

「一人でもいいから、俺の音で良かったと言わせてみたい、かな」

 

 その答えを聞いた瞬間、高坂の口元がゆっくりと歪んで、ニッと不敵な笑みが浮かぶ。

 まるで、ようやく合格点を見つけたと言わんばかりだった。

 強張っていた空気が、ほんの少しだけ緩む。

 

 ──ああ、そういうことか。

 

 全員を導くだの、部の空気を変えるだの、そんな大義ではない。

 たった一人に届く音を、本気で鳴らせるかどうか。

 高坂が見たかったのは、きっとそこだった。

 満足したように小さく息を吐いた高坂は、くるりと踵を返すと、自転車に跨る。

 

「いいじゃない。そういうの、嫌いじゃないわ」

 

 ハンドルを握りながら、ちらりとだけ振り返る。

 

「……期待してる」

 

 それだけ言い残して、ペダルを踏み込んだ。

 夜の風を切り裂くように、細い背中がすぐに遠ざかっていく。残された隆翔は、その後ろ姿をしばらく見送っていた。

 胸の奥に、言葉にならない何かが静かに残っている。

 それが重圧なのか、それとも──少しだけ嬉しかったのか。

 

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

 

 高坂との対話から数日。部内の空気は以前と変わらず閉塞感を保ったままだ。それでも絶えず歯車が回り続けているのは、幹部三人の中で何かしらの変化があったのだろうか。

 

 あれから、高坂とは言葉を交わしていない。黄前と秀一には高坂との話は上手くいったとだけ伝えたが、内容までは伝えなかった。幹部三人がどう解決したかは、黄前たちが起死回生の一手を打つかにかかっている。そこまでは隆翔の責任範囲外だ。

 

 関西大会まであと三日と迫った夜のこと。

 

「ただいま〜。あれ?」

 

 練習を終えた隆翔がマンションに帰ってくると、玄関に母親以外にもう二人分の靴が並べられてあった。片方は女性物のパンプス。そしてもう片方は、磨きがかかったローファー。

 綺麗に並んだそれを乱さないように運動靴を端っこに寄せてリビングに出向く。そこには、目を疑うような光景が広がっていた。

 

「あら、帰ってきたわ」

「隆翔、お帰り!」

 

 くりりと輝く青い瞳が隆翔を捉えると、高く結んだポニーテールがぴょんと跳ねた。

 あろうことか隆翔の帰りを出迎えたのは、数週間前に決別を言い渡されたはずの佐々木梓だった。

 

 

 

 

【つづく】




もし、高坂麗奈を見捨てない同級生がいたのなら。
もし、高坂麗奈に物怖じしない同級生がいたのなら。
もし、高坂麗奈を使役しようとする同級生がいたのなら。
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