或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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EP.05 マネージャー

 結局、部活動への再挑戦の結論が出せないまま一週間が経過した。希美と腹を割って話してから、吹奏楽部に対して曖昧な心境でいることに罪悪感を覚えていた。

 しかし、悩んでいる合間にも時間は過ぎていく。両親にも入部の件を相談してみたが、隆翔の想定通り好感を持って認められた。隆翔の相棒が再び日の目を見ることは、買い与えた両親の望むところであるだろう。それと同時に、中学時代の出来事を案じていた親心が確かに存在した。

 要するに自分の気持ち次第だった。隆翔は堂々巡りを繰り返す気持ちに整理をつけるべく、決心の上で放課後の職員室の扉を叩いた。

 

「失礼します。滝先生はいらっしゃいますか?」

 

 午後の授業が終わって慌ただしい職員室の喧騒に掻き消されないよう声を張り上げたが、目当ての人物からの反応はなかった。滝のデスクは音楽関連の教本や授業ノートが整然とまとめられており、いま現在在席している形跡はなかった。

 

「樟葉か。何の用だ?」

 

 隆翔の声に反応したのは滝ではなく、学年主任の松本美知恵だった。松本は齢四十を越えたベテランの教師である。目の下に皺があるが、引き締まった体躯に厳しい言動が合間って、生徒は口々に軍曹先生と呼んでいる。もちろん、畏敬の念を込めてのことだろう。

 隆翔は松本と相対して自然と背筋が伸びた。言葉遣い、上下関係は最大限注意しながら、簡潔に伝えた。

 

「はい。滝先生にお話がありまして」

「滝先生は会議のため、午前中で帰られた。授業の質問か?」

「いえ、部活のことです」

 

 隆翔の言葉に、松本の目がピクリと反応した。

 

「それなら、私でもいいだろう。こっちに来い」

 

 松本は手招きして、職員室の奥に設置された簡易的な応接室に隆翔を座らせた。彼女は吹奏楽部副顧問だった。尤も、本格的な指導は顧問である滝に任せており、本人はあくまで副顧問として事務的な職務に専念していた。

 

「さて、樟葉は現在部活には入っていないんだったな」

「え、なんでご存知なんですか?」

 

 隆翔が驚くのも当然で、松本は学年主任であるもののクラスの担任ではなかった。

 

「当然だろう。少なくとも、二年生の誰がなんの部活に入っているかは把握しているつもりだ」

「はあ……」

 

 隆翔は初めて松本と面と向かって話した。それ故に、生徒から集める畏敬の念の正体が掴めそうだった。一見すると確かに身が竦むが、この先生になら話しづらい事も話せるかもしれない。そんな信頼の一因を垣間見た。

 

「それはいいんだ。本題に入ろう」

「あ、はい。えっと、実は吹奏楽部に入ろうか悩んでいまして」

「この時期にか」

「はい」

「まあ、いつでも入部は希望中だが、中途に入部してくる生徒は珍しいからな。何か理由あってのことなのか?」

「はい、まあ……」

 

 それから、希美のことを伏せながら事の顛末を簡潔明瞭に語った。不思議な感覚だった。この松本と話していると、自然と言葉を引き出されているようで会話のテンポが上がっていった。松本が持つ話術の術中に、隆翔はまんまと嵌ったのである。

 

「中学の時、周りが怖くなって一度吹くことをやめたんです。もう戻ることはないと当時は思っていました。でも気持ちが変わったんです。いえ、正確には、変わってもいいのかなって思えるようになったんです」

「……なるほど。つまり、樟葉は気持ちの整理を付けるために滝先生に相談を持ち掛けた。そういう事だな?」

「はい」

「ふむ、奏者として復帰することへの葛藤か」

 

 松本は思考を巡らせた。教員を長くされていることは言葉の端から想像できた。彼女なりの教育観があるのだろう。

 

「辞めたと言っていたが、それはいつ頃の話だ?」

「中学二年生です」

「であれば三年。かなり長いな」

「それも不安要素の一つです」

 

 北宇治は強豪校だ。練習もかなりハードであり、求められる結果はかなり高い。フルートを引っ張り出してきてから当時の基礎練習を中心に個人練習をこなしていたが、まだ錆びついた演奏に油を差しただけに過ぎない。経験上この部活で求められる水準まで持っていくにはかなり時間と労力がかかる。現在は五月下旬であり、コンクールは八月の上旬だ。その間にあるオーディションに合格するのは、どう頑張っても不可能だった。

 

「それでも、何かしらで貢献できるのであれば、なんでもやります」

「バカモノ! その言葉を口にするのは十年早い。楽器を吹ける環境があるのに、自ら手放す奴がどこにいるか!」

 脳天に張り手をもらったような衝撃だった。至極当然である。生徒が伸び伸びと活動できるように授業後も居残って生徒のために尽くし、事務方の地味な作業に徹しながら部活動を運営している。隆翔の言葉は、その矜持を蔑ろにするものだった。

 

「分かってます。未熟故に失敗した当時を今でも思い出します。だからこそ、僕はもう一度自分が相応しくなれるようになりたいんです」

「しかしだな……」

 

 隆翔も負けてはいられなかった。松本に気圧されないように、膝の上で拳を握り締めて訴えた。隆翔の思いは松本に届いた。溜息を吐きながらも、松本は躊躇うような口調で隆翔へある提案をした。

 

「これはあまり薦めたくはないのだが、現在、吹奏楽部にはマネージャー候補がいる」

「え、吹部にマネージャー?」

「そうだ。正確には本人からその相談を受けたに過ぎないのだが……」

 

 そこまで言った松本は唇を噛んで悔しそうな表情を浮かべた。

 

「その生徒は、吹けなくなってしまったんだ」

 

 耳を疑った。隆翔は過程を知らない。そもそも吹部内で起きた出来事なのだから当然だ。しかし、隆翔がこれから一歩進もうとしている中で、吹けなくなってしまった生徒と同じ仕事をするのは、余計な軋轢を生みかねない。

 

「……その人は何年生ですか?」

「三年生だ」

「そんな……」

 

 その重みが分からない隆翔ではない。高校三年生、最後のコンクールを目前にして楽器が吹けなくなる。どんな理由かは分からないが、仮に病気が原因でドクターストップが掛かっていれば、時期が時期なだけに奏者にとって死刑宣告同然である。

 再び、隆翔の心は揺らいだ。奏者として復帰することの準備不足と、今年一年を見据えた上での時間対効果。正直、再び音楽に携わる機会はラストチャンスだと考えていた。となれば、隆翔としても覚悟を持って臨まねばならなかった。

 

「先生、お願いがあります」

 

 揺らぐ気持ちを握りしめて、希美の時と同様に立ち向かうしかなかった。

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 翌日の放課後、隆翔は無人となっていた三年生の教室でその人を待った。松本は隆翔の懇願を聞き入れ、この場がセッティングされた。昨晩、何を伝えようかずっと悩んでいた。そもそも吹けなくなったことに対して引け目を感じているかもしれない人に、どこの誰かも分からない下級生から一緒に部を支えていきましょうなんて、心境次第ではぶん殴られても仕方がない。

 そんな心境で、隆翔の不安を他所にガラッと教室の扉が開いた。

 

「あ、いたっ! 君かな、私に用があるっていう二年生は」

 

 教室へ入ってきた三年生の女子。溌剌とした第一印象を持った。彼女は隆翔の様子を伺うと、何も言わず隆翔の前の席に着いた。

 

「はじめまして、三年四組の加部友恵です」

「は、はじめまして。二年の樟葉隆翔と言います。すみません、時間を取らせてしまって」

 

 肩口でカットされたブロンドヘアに、ハートがあしらわれた髪飾り。隆翔に向いた明るい表情からは、楽器が吹けなくなったとは到底信じられなかった。

 

「松本先生から聞いたときは、下級生のしかも男子が私に用事があるってびっくりしたよ。遂に私もモテ期到来かぁ、なんつって」

 

 加部友恵と名乗る目の前の女子は隆翔を置き去りにして語り出した。その勢いに、隆翔は呆気に取られていた。

 

「あーごめんごめん。本題に入ろっか。えっと、確かマネージャー志望なんだっけ?」

「はい。それと、先輩のことも少し聞いてます」

「じゃあ話が早くていいね。そう。私はこの前、ドクターストップが掛かってトランペットが吹けなくなりました」

 

 あくまでも明るく打ち明けた。しかし、改めて言葉にすると拭いきれない暗さがある。

 

「そんなに暗くならないでよ。それ以上でもそれ以下でも無いんだから」

「いや、でも……もうすぐ最後のコンクールですよね」

「そうだよ」

「いいんですか?」

「お医者さんがダメって言ったからねえ。ホラ、よく聞くでしょ。顎関節症って。まだ軽症だけど、今年に入ってから痛みでアンブシュワが保てなくなった。それでこの前診断してもらったら、そういう結果だった」

 

 きっと、先生に説明した時も同じように悔しさや悲しみを噛み殺して告げたのだろう。トランペットが吹けない。特に、三年生がだ。運動部でもよくある話だが、大抵の場合三年生は引退するまで続けるか受験に向けて方針転換をする。しかし加部は、それでも吹奏楽部を支えようと身を捧げた。

 

「でさ、君はどうしてマネージャーに? 珍しいよね、吹部にマネージャー志望で入ろうとしているなんて」

 

 隆翔は慎重に言葉を選んだ。曇りなき眼で吹奏楽部の将来を案じた加部以上の理由は見つからなかった。とは言え、彼女に偽りの想いを告げるのも違った。

 

「結論から言うと、もう一度吹けるようになりたいから、それを確かめるため、です」

「つまり、どういうこと?」

「俺、中学の時は吹部でフルート吹いてました。でも人間関係に失敗して、立場を失った俺は退部したんです。それ以来、集団で音楽をするのが怖くなって……」

「なるほど、君は精神面でやられちゃったんだね」

「まあ、そんなところです。すみません、何か甘えみたいに聞こえますよね」

「そんなことないよ。やっぱメンタルって演奏に出るもん。でも、君はそれを克服したいって思えるようになったんだよね。だからもう一度吹こうと思ったんだよね。それを馬鹿にしたりなんか絶対にしないよ」

 

 それまで張り詰めていた糸が加部の一言で弛緩した。鼻の奥がツンとして、涙腺が緩んだ。加部は隆翔を受け入れた。認められなかったらどうしようか。隆翔の覚悟が曖昧に見えたら立ち直れない気がしていた。隆翔の杞憂に終わり、その意志を肯定してもらえたことは、隆翔にとって途方もなく大きな出来事だった。

 加部は隆翔の過去を自分に降りかかった出来事に重ねた。

 

「それに、うちらも取り返しのつかないことを昔しちゃったから」

「…………」

「だから、次は絶対に手を差し伸べようってみんなで決めたの。昔の友達のためにもね」

 

 希美の言葉ではないが、背負う十字架の重さはどうであれ加部も同じ気持ちだった。南中出身者の悲劇、同調圧力の魔の手、上級生から下級生への無視、いじめ。よくある話と片付けるのは余りにも無神経だ。

 

「先輩にそう言ってもらえて、救われました」

「良かった。君はもう入部届は出したの?」

「いえ、まだです」

「じゃあ、提出したら教えてよ。これ、私の連絡先ね」

 

 メッセージアプリのアカウントを交換して、隆翔の気持ちも固まった。明日には入部届を出そう。そして希美たちが全国金賞を獲れるように支える為に。

 

「よろしくお願いします。加部先輩」

「あー、ダメダメ。その加部先輩ってのが堅いんだよなあ」

「えー、じゃあ。友恵先輩?」

「おお、いきなり名前呼び……」

「あ、すいません」

「ううん。それでいいよ。よろしく、樟葉くん」

 

 握手を交わした右手は、少しだけひんやりしていた。

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

『あいつ、先輩を差し置いてAに選ばれたからって調子に乗り過ぎ』

 

『樟葉って身の程知らずだよね』

 

『誰もアンタの演奏、認めてないから』

 

 北中の音楽室。隆翔を囲むようにして、何人もの生徒が蔑む言葉を向ける。ある者は罵倒し、ある者は否定し、そしてある者は事実ですらない噂を囁いた。直視できなくなって足元へ目を向けると、見るも無惨な姿となった『ウィリアム・テル』のスコアが散らばっていた。

 

「やめろ……もう、やめてくれ!」

 

 ガバッと布団を捲り上げる。息も荒く、汗をたっぷりかいていた。

 

「……夢か」

 

 大きく溜息を吐いた。夢で良かったと安心する反面、三年の月日が経った今でも囚われてしまうことにショックを受けた。壁掛け時計の針は午前四時を差している。カーテン越しに見える空は、夏至を控えた季節らしく既に青みがかっていた。

 部屋の隅に北宇治の制服がハンガーに掛けられている。今日から六月だ。制服も夏服に衣替えとなる。眠れないのでスマートフォンを起動する。メッセージアプリには、本音を語り合った日に交換した希美と、昨日交換した友恵の名前が連なっていた。まだアカウントがあるだけで、会話の形跡はない。

 それから再び眠りについたが、寝不足の気怠さを抱えたまま登校することとなった。

 

 昼休み、隆翔は再び職員室の扉を叩いた。皮肉なものだ。退部届を出した中学二年の夏。全部を捨ててしまった方がいいと本気で考えていて、二年間頑張った成果も、苦楽を共にした幼馴染みや同級生も、尊い相棒も失った。隆翔に残ったものはその身一つであった。

 今度は間違えない。そして、もう一度自分の足で進んでいけるように。

 

「確かに受理しました。今日のミーティングで紹介しますので、遅れないように来て下さい」

「分かりました。それと、この前は言葉が足らず、すみませんでした」

「何がですか?」

 

 隆翔の突然の謝罪に滝は首を傾げた。

 

「実は、中学の時吹部に入ってたんです。でも途中で辞めてしまって。後ろめたさがあったんです。もう一度音楽に本気で向き合うことが」

 

 言いたいことははっきりしているのに、言葉は支離滅裂だった。気持ちの整理が上手くできなかった。

 

「本気で、やりたいともう一度思えたなら、それがスタートラインですよ」

 

 その言葉はシンプルだったが、確かな説得力があった。

 

「それと、加部さんと話したそうですね」

「はい。話しました」

 

 そうですか、と呟くと滝は眼鏡のレンズを拭いた。

 

「お話の通り、彼女は奏者からマネージャーとして活動します。公表のタイミングは加部さんに一任しています。それまでは、彼女がマネージャーとして活動することは内密にお願いします」

 

 奏者として活動する加部は、マネージャーに転向する事実を伏せている。そしてこの事は部内において小さくない影響を生じさせるだろう。あくまでも友恵の件と隆翔の入部は切り離すという、滝なりの計らいだった。

 

「失礼します」

 隆翔の背後から、通りの良い声が響いた。そこに立っていた女子生徒の頭には、存在感のある大きなリボンが付いている。彼女は鋭い眼力で隆翔を一瞥すると、再度滝に視線を向けた。美人であるが、なかなかに警戒心の強そうな印象を持った。

 

「ああ、ちょうど良かった。樟葉くん、こちら吹奏楽部部長の吉川優子さんです」

「どうも。二年の樟葉です」

「ああ、マネージャー志望の。よろしく」

 

 部長の吉川はにこりともせずに視線を向ける。そしていくつかの業務連絡を滝と交わして足早に職員室を後にした。部長とのファーストコンタクトを済ませたが、相手に印象を残せたかは微妙だった。

 放課後、音楽室から奏でられる演奏が校内に響き渡る中で、隆翔は滝から指定のあった時間に音楽室の前で待機した。人前で喋ることに抵抗はない。ピアノの発表会で何度もその機会があった。今回はそうでない。それなのに指先が冷たく感覚が不快指数を高めた。

 突如、音楽室の演奏が止まった。約束の時間が訪れ、滝が入室を促した。

 

「今日から吹奏楽部に入部し、マネージャーとして活動する樟葉隆翔くんです。元々、中学ではフルートを経験していたとのことですので、皆さんのサポートに入ることもあるでしょう。では、樟葉くん。こちらへ」

「はい」

 

 滝が指揮台を隆翔に譲る。壇上へ上がったのは初めてだ。隆翔を中心に扇形に広がる座席。そこからは奏者の表情が一目瞭然であった。好奇の視線に晒されるのは、余り良い感覚ではなかった。

 

「樟葉くん、一言お願いできますか」

「はい」

 

 最初が肝心だと理解している。すっと小さく息を吸って、音楽室の隅々まで行き渡る明瞭な第一声を意識した。

 

「初めまして、二年の樟葉隆翔と申します。去年、北宇治は全国へ出場したと伺いました。今年の目標も全国大会出場と聞いています。奏者ではありませんが、皆さんのサポートをしっかりしていく事が役割だと心得ています。これから、どうぞよろしくお願いします」

 

 ぱらぱらと上がった拍手に隆翔は安堵した。希美は指揮台に立つ隆翔に微笑み掛けた。この期間に言葉を交わした友恵や、クラスメイトの中野蕾実も好意的に迎えている。そして、かつて北中で苦楽を共にした黄前久美子、塚本秀一、高坂麗奈は唖然とした表情で隆翔を見つめている。あの時に辞めたのにどうして、と言いたげな表情を浮かべていた。隆翔は三者三様の感情に苛まれた元同期に視線を送った。開いた口が塞がらない三人は、思い出すには苦すぎる三年前を想起したようだった。

 隆翔の紹介が終われば、コンクールに向けた練習が再開する。オーディション翌週に控えた音楽室は緊張感があり、引き締まった雰囲気に懐かしさを覚えた。

 

 目の前で演奏されている曲はコンクールの課題曲だ。まだ隆翔には曲名すら聞かされていない。しかし、コンクールまでまだ二ヶ月もあるというのに曲の骨格は完成し、より洗練されたクオリティに近づけるための表現への追及が矢継ぎ早に飛んでいた。

 今日はあくまで演奏の見学に留めた。この大事な時期に、突然入部してきた余所者のために時間を割かせるのは申し訳なかった。奏者各位には来週のオーディションに集中してもらいたかった。

 

「では、今日の練習を終わります。明日はリズの方を中心に演奏しますので、必ず準備をしてきて下さい」

「はい!」

 

 部員から威勢の良い返事が飛んだ。吹奏楽部は文化部として括られるが、実態は運動部もびっくりの上下関係の厳しさと独特な女子社会が混在する組織だ。ここを生き抜くには、我慢強さと知識と、色々と飲み込める優しさが必須条件なのだ。

 部長からオーディションに向けた諸連絡が終わると解散となる。家の用事があったり習い事などで帰宅を余儀なくされる生徒はここで下校するが、大半は居残って練習する。先ほど配布された部活スケジュールを確認すると、オーディションやコンクールなどの予定のみ書かれているだけであとは空白だった。これが意味するのは休日ではなく、わざわざ書かないだけでしっかり毎日練習がある。強豪校の凄まじさは、土日などの休日であっても、学校が空いていれば部活に来ることだ。それが常識の範疇で運用されている。

 音楽室が喧騒に包まれていく中で、隆翔は物珍しい存在として扱われた。まず最初に声を掛けたのは秀一だった。

 

「お前なあ、入部するなら一言くれよ。水臭いだろ」

「悪い悪い。急に決めたことだったんだ」

「まあいいや。男子部員のグループがあるから、あとで入れとくよ」

「サンキュ」

 

 秀一は塾があると言って帰宅した。続け様に隆翔へ声を掛けたのは、復帰に背中を押した希美だった。

 

「遂に来たね」

「はい。よろしくお願いします」

「北宇治高校吹奏楽部へようこそ! 絶対に全国行こうね」

 

 勝ち気に誇って隆翔を歓迎した希美は、柔らかい微笑みを向けた。隆翔は生まれて初めて人の為に尽くしたいと思った。どんなサポートも惜しまないという意志を持った。

 

「そこ、イチャつくな」

「イチャついてないもん」

 

 希美を小突いたのは、茶髪を後ろで束ねたポニーテールが特徴の副部長、中川夏紀だ。

 鋭い吊り目に取っ付きにくさを覚えるが、物腰が柔らかく人当たりが良い。

 

「さて、樟葉くん。早速君に仕事を与えたいんだけど、いいかな?」

「勿論です。何をしましょうか」

「よし、じゃあ音楽準備室まで来て」

 

 夏紀に連れられて、音楽室の隣に位置する楽器室へやってきた。そこでは帰宅する多くの部員が楽器の後片付けをしている最中だった。

 

「ここには吹部で貸し出してる楽器や備品があって、部活が終わったらこんな感じで仕舞いに来るよ。持ち帰って練習する子もいるから、そういう場合は楽器管理係に行って貸出許可を出してる。あんな感じで」

 

 夏紀の視線の先には、後輩の女子が帳簿に書き記している。オーディション直前なのもあって、ほとんどの部員が持ち帰りを希望している。

 

「楽器係の手が離せない日はお願いするかも。ここの楽器は基本顧問の責任で管理されてるけど実態は私たちに任されてる。楽器は高いしね。ここまでは大丈夫?」

「はい。大丈夫です」

「オッケー。マネージャーって初めての役職だから、係との調整とかに結構悩んでるんだけど、基本幹部の補佐とか、部員の相談役にも徹してもらうつもりだから。で、幹部っていうのが部長の優子、副部長の私、会計の希美ね。一年生の指導を担当する係もあって、今は友恵と黄前ちゃんが担ってるよ」

「黄前がですか?」

 

 黄前は決して人付き合いが悪い訳ではない。中学の頃は本人の意図しないところで何かと面倒事に巻き込まれる傾向があった。高校でも右往左往する様子が想像でき、苦笑いを浮かべるしかなかった。

 

「そっか。君、北中だったよね。じゃあ黄前ちゃんに高坂さん、塚本くんと一緒か。分からないことがあれば色々聞いてみるといいよ」

 

 その言葉に含みはなく副部長なりの優しさだとも理解しているが、秀一はともかく黄前と高坂がまともに会話をしてくれる機会を想像できなかった。特に二人とまともに会話したのは、中学二年の夏まで遡る。

 

「今日は何時まで居残るつもり?」

「最後までいますよ。色々見学したいので」

「分かった。じゃあ、さっきの貸出名簿を係から受け取ったら、最後の戸締りをお願いしていい? 名簿は最後私たちに返してくれたらそれでいいから」

「分かりました」

「じゃ、練習行ってくるね」

 

 副部長はひらひらと手を振って準備室を後にした。無人となった準備室で、隆翔は楽器係から受け取った名簿をチェックした。三年生は十五名、二年生は二十三名、一年生は四十三名、合計で八十一名を擁する大組織である。音楽室に鼠の入り込む隙間がないほど詰め込まれていたのも納得である。ここからオーディションでコンクール規定の五十五名まで絞られる。あと二十六名はサポートメンバーとして半年間過ごすのであった。

 

「樟葉」

 

 ドアの方向へ振り向くと、隆翔を見据える高坂と黄前が立ち塞がっていた。久方振りの再会に挨拶もなく、開口一番隆翔の入部へに対する疑問を投げかけた。

 

「アンタ、どういうつもり?」

「何が?」

「マネージャーってどういうことなの。アンタの気紛れに付き合ってる暇無いんだけど」

「ちょっと、麗奈」

 

 怒り心頭の高坂を黄前が嗜める。その態度からして、とても歓迎された雰囲気ではなかった。

 

「気紛れでもないし、それなりの理由があって入部したつもりだよ」

「理由? 楽器も吹かないのに」

 

 高坂の疑問にも頷ける。運動部でもないのに、わざわざ自分からマネージャー志望で入部するなんて異端も良いところだ。しかも、北中で一緒に演奏していた経験のある二人からすれば、吹奏楽から縁を切った奴が出戻ってきたようにしか見えない。本気で全国を目指すからこそ、隆翔のような異端者を排除したくて仕方がないのだ。しかし、いつまでも高坂といがみ合っていては埒が明かない。立場の弱い吹奏楽部男子として、ここは正々堂々とあるべきなのだ。

 

「今の北宇治は実力主義でオーディションによってメンバーが選ばれると聞いた。俺はそれを信じてる。もう一度音楽と向き合って、またフルートを吹けるようになりたい。その一歩を踏み出すために戻ってきたんだ」

 

 希美の時のように、自分が心を開けば相手もそれに答えてくれる。隆翔の心境を明かす事に、今は抵抗が無かった。

 

「それに三年前、お前のことを泣かせて悪かった」

 

 突然の謝罪に、高坂は虚を突かれたような表情を浮かべた。

 

「なっ、何言ってんのよ!」

「え⁉︎ 麗奈、樟葉に泣かされたの?」

「……泣いてない」

 

 高坂は顔を真っ赤にして取り繕った。図らずも、彼女の沽券に関わる出来事を指摘してしまった。

 

「泣いたにしろそうでないにしろ、お前を友達いない呼ばわりしたのは流石に言い過ぎだったわ。ごめんな」

「ぷふっ……」

 

 堪えきれず吹き出した黄前を高坂は鋭い眼光で睨んだ。

 

「ほんっとありえない」

「ごめんごめん。まさかあの麗奈が樟葉に言いくるめられるとは思わなくて」

「まさかアンタが覚えているとは思わなかった……」

 

 頭を抱えた高坂の姿はあまりにレアだった。すっかり毒気の抜かれた高坂は、一つ咳払いをして隆翔に忠告した。

 

「さっきも言ってたけど、アタシたちは本気で全国を狙ってる。去年は銅賞だった。死ぬほど悔しかった。それで、さっきアンタが言った目標を訂正するなら、アタシ達は全国大会へ行くことが目標じゃない。全国で金を獲ることが目標なの。だから中学の時以上に本気でやって」

 

 それだけ、と言って高坂と黄前は練習に戻った。避けては通れなかった高坂への謝罪が終わり、肩に余計な力が入っていたのか筋肉が悲鳴を上げていた。

 その後は自主練習を邪魔しないように吹部の運営を調べた。夏紀からの依頼である準備室の戸締りをしていると、希美が声を掛けた。

 

「どうだった? うちの吹部は」

「まだまだ知らないことばかりです。フルートパートも、今度見学させてください」

「良いよ。君の実力も知りたいし」

「聴かせられるほどマシになったらでお願いします」

 

 ブランク明けの演奏は、とてもじゃないが全国金賞を目指している奏者に聴かせるようなクオリティではなかった。

 

「良いんだよ別に下手でも。楽しく吹いてくれさえすれば」

 

 なぜだろう。希美の言葉は隆翔の心に優しい温もりを与える。入部したのも、結局は希美が隆翔を受け入れたからなのである。それに応えないほど薄情ではない。

 

「じゃあ、今度フルート持ってきます」

「ふふ、楽しみにしてる」

 

 昇降口の前に、どこか見覚えのある三年生が佇んでいた。

 

「みぞれ、お待たせ」

 

 希美の声に反応した女子生徒は、ひよこのようにとてとてと歩いて、隆翔の存在を確認するとその場でフリーズしてしまった。

 

「紹介するね。この子は鎧塚みぞれ。オーボエ担当だよ」

 

 希美に紹介された彼女は、一拍置いてコクリと頷いた。海の底を覗いているような青黒い瞳が隆翔を捉えている。どこまでも吸い込まれそうな瞳の先にある彼女の感情までは読み取ることはできなかった。

 

「以後、よろしくお願いします」

「……よろしく」 

 

 少し臆病なのか、希美に半身を隠しながら頷く。二人の邂逅が済んで、希美とみぞれは学校を後にした。控えめな佇まいに少し猫背の体躯。その時、隆翔の記憶に引っかかっていた正体が判明した。

 

 

「思い出した。南中のオーボエだ……」

 

 

【つづく】




−追記−
2025.6.13 内容を大幅加筆修正しました。
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