いつだって君の声がこの暗闇を切り裂いてくれてる
いつかそんな言葉が僕のものになりますように
そうなりますように
──ELLEGARDEN ジターバグ
食卓の賑やかさが、まだどこかに残っている気がした。
笑い声も他愛のない会話も確かにそこにあったはずなのに、扉を一枚隔てただけで、すべてが遠い出来事のように感じられる。
自室のベッドに身体を投げ出す。天井を見上げたまま、息を吐いた。
どこか落ち着かない。食べたものの味は半分も思い出せなかった。
もう会うことは叶わないはずの幼馴染みが、何事もなかったかのように食卓に座って、いつもと変わらない調子で母の料理に舌鼓を打っていた。
府大会前夜。恋に敗れ、失意の梓から言い渡された決別の言葉。
なのに、今夜のあれはなんだったんだろうか。切れたはずの関係が、別の形で目の前に転がってきたみたいでどう扱えばいいのか分からない。
リビングから聞こえる母親たちの笑い声を聞きながら、心のどこかで両家の交友関係が崩れなかったことに安堵している自分がいた。もしかすれば、梓と隆翔の関係もいつかは元通りになるのかもしれない。
ただ、それでも釈然としない気持ちを拭うことは出来なかった。
「とりあえず着替えるか」
制服のボタンを外しながら、隆翔は小さく息を吐いた。タンスから適当にTシャツを引っ張り出して頭から被ろうとしたその時、ノックもなくガチャリと扉が開いた。
「──っ!」
反射的に振り向く。
入り口に立っていたのは、言うまでもなく梓だった。
一瞬だけ、視線が交差する。
「ご、ごめんっ!」
バタン、と勢いよく扉が閉まった。
何が起きたのか理解が追いつかないまま、隆翔は手に持ったままのTシャツを見下ろした。
「何なんだよ、本当に……」
そのままシャツを被って、ドアの外にある気配に一瞥する。
流石に放置するのも憚れた。
「もういいぞ」
そっと扉が開く。
さっきまでの勢いとは打って変わって、遠慮がちな動きだった。
梓は扉を閉めると、部屋の中に一歩だけ踏み込んだところで足を止めた。その煮え切らない態度に隆翔は
「……何の用?」
隆翔も余裕がないのか、声と態度が硬くなっている。半分拒絶と受け取ったのか、あずさの肩がビクッと震えた。
「……別に、大した用じゃないんだけど」
「じゃあいいだろ。俺はもう出るから」
そう言って、隆翔はベッドの横に置いてあったスマホを手に取る。
この空間に留まる理由が、どうしても見つからなかった。
「待って」
すれ違った瞬間、シャツの裾を捕まれた。振り返ると、その瞳は隆翔をしっかり捉えていた。
「用がないのはウソ……ちょっとだけ、話がしたい」
掴まれたシャツの裾を見下ろしてから隆翔は小さく息を吐いた。振り払うほど強くもなく、それでも離そうとしないその力加減に。
「……少しだけだぞ」
そう言うと、梓の指がゆっくりと緩んだ。
隆翔は扉の前から離れ、部屋の中央に視線を泳がせる。どこに座らせるべきか一瞬だけ迷う。けれど結局、何も言わないままベッドに腰を下ろした。
「久しぶりだな」
「……そうかな? 二週間ぶりくらいだと思うけど」
「もう会わないんだと思ってた」
「確かにあの時はそんなこと言ったけど……お母さんたちが会えなくなるのも嫌だし」
「まあ、それはそうだけどさ」
終始、梓は目を合わせない。
彼女も学校帰りなのだろう。立華高校の夏服は、白いカッターシャツにグレーのプリーツスカートとシンプルなデザインだ。それでも妙に目を引くのは、普段見慣れているのがセーラー服だからだろう。
「隆翔はどうなの?」
「どう、とは」
「私は、また会えて嬉しい」
自分勝手だな、と出そうになった言葉を喉元で抑えた。この場をどうしたいのか感情の答えが出ない。
「……俺は、まだよく分かってない」
「そうだよね。私、また無責任なことしてる」
できるだけ感情を表に出さないよう、濁さずはっきりと言葉にした。
隆翔は失恋を経験したことがない。だが、一度明確に断ってから二週間程度しか経っていない状況で二人きりになるのは明らかに不味い。それだけは分かる。
梓だって、多分どうしたらいいか分かっていないはずだ。ただ、勢いのままこの部屋へ来たに違いない。
言葉を探していたはずの梓が、ふいに両手で顔を覆った。
「あー、もう……!」
梓は、塞ぎ込んだ気持ちをすべて吐き出すように大きな声で言った。
「やっぱり無理……まだ全然、吹っ切れてない……!」
両手の隙間から零れる声は、抑えようとしているのに抑えきれていない。
「なんで今日来たのかも、自分で分かってなかったけど……まだ、隆翔のことが好きなんだ」
隆翔は一瞬目を見開いた。
突然大きな声を出されたこともそうだが、それ以上に、その内容が理解に追いつかなかった。
まだ好きだと。吹っ切れていないと。そう言い切る声には迷いがなく、だからこそ余計に受け止める側の逃げ道を奪っていた。
「……は?」
と、そんな間の抜けた声を返すので精一杯だった。
「なんで、今それを言うんだよ……」
「分かんない、分かんないけど……言わないともっと変になりそうだったから……」
どう反応すればいいのかも、何を返せば正解なのかも分からない。頭の中で言葉を探そうとしても、まともな形になる前に霧散していく。
気付けば頬がじんわりと熱を持っていた。帯び始めた熱さを振り払うように、隆翔は梓から視線を逸らした。
「あのな梓。俺の答えなんて分かってるだろ」
「……うん」
「気持ちは嬉しいよ。でも……ごめん。梓の気持ちを知るのが遅すぎた。俺は梓とは付き合えない」
梓は言葉を受け取ったまま一度強く目を閉じた。逃げるでも取り繕うでもなく、そのまま真正面から受け止めるように。
喉の奥で何かを押し殺す気配がする。
呼吸を整えようとしているのか、それとも崩れそうになる何かを必死に繋ぎ止めているのか、隆翔には判断がつかなかった。何も言えなかった。言葉を掛ければ、今ようやく保たれている均衡を壊してしまいそうで、下手に手を差し伸べることすら躊躇われた。
その様子を見ていることしかできない自分に胸の奥が鈍く痛んだ。
「そっか。まあ、仕方ないよね。私も略奪愛とかそういうのには嫌悪感あるし。うん、もう諦めるよ。ごめんね隆翔」
「い、いや、いいんだ。俺も突き放すようなことして悪かった……」
梓は潔く引いた。
不気味なまでに、あっさりと。
「ま、こんな時期に恋煩いなんて鬱陶しいもん。部長職だって暇じゃないんだよ。つっても、久美子見てりゃ分かるか」
梓は笑っていた。口元を緩め、さっきまで顔を覆っていたのが嘘みたいにいつもの調子で。
そして笑顔のまま、躊躇いのない動きで間合いを詰めた。ほんの少しだけ首を傾けて隆翔に問いかけた。
「ねえ隆翔、逃げずに答えて。私たちの演奏どうだった?」
隆翔の視界いっぱいに広がる梓の表情。張り付いた笑顔の奥にあるのが本音かはわからない。ただ確実に言えるのは、梓の狂気だけ。
府大会での立華の演奏は素晴らしかった。遠目から見た梓は自信たっぷりの表情で、とても前日に傷心したとは思えなかった。
「凄かった。確かに立華は全国を狙える演奏をしていたと思う」
勢いに呑まれるようにして、隆翔は嘘偽りなく答えた。
真正面から射抜くように見つめられたままでは、誤魔化すことも適当にはぐらかすこともできなかった。
呼吸をするたび、ふわりとシトラス系の制汗剤の香りが鼻腔をくすぐった。夏の熱気と混ざったその匂いは、日夜座奏やマーチングで精を出す梓そのものみたいで、妙に現実味があった。
「良かった。そう思ってくれて。でも──」
ニコリと破顔した途端、彼女らしからぬ言葉が耳を貫いた。
「でも、関西はそんなに甘くないよ。大阪の三強は相変わらず凄い演奏するし、龍聖だって去年の勢いのままだと思う」
梓は指折り数えながら、関西大会の展望を予想した。
「何が言いたいかってね。多分、全国に行けるのは
「……何が言いたいんだよ」
「あはは、そんな怖い顔しないでよ。そっちだって府大会では割と良い演奏してたじゃん」
「割と……? 北宇治もれっきとした代表なんだけど」
「だね。凄いよ、うん。合奏に一位も二位もない。あるのは色と、代表かどうかだけ。だから、これはあくまで主観ね」
梓はどこまでも飄々とした口調で言い切ったが、その瞳だけは冗談抜きで勝つつもりだと語っていた。対する隆翔は、真意を探るように眉を寄せ、訝しげに梓を見返した。
「全国行けるのは立華だよ。悪いけど、私の主観ではそう」
梓はあっさりと言った。
自惚れでも慢心でもない。少なくとも、自分たちの音を信じ切っている人の言葉だった。
「隆翔はいま、北宇治が全国に行けるって自信持って言える?」
真正面から突き刺さる問いだった。
言い返したい。北宇治を舐めるな、と。
こっちだって全国を目指しているんだ、と。
けれど、その言葉は喉まで出かかって止まった。今の北宇治を思い浮かべれば浮かべるほど、勢いだけで断言できなくなっていた。
演奏だけを切り取れば北宇治は確かに上手い。
だが、部として見た時、その土台が揺れていることを隆翔自身が誰より理解していた。
だから隆翔は、口を閉ざした。
梓は小さく目を細めた。図星を引き当てた時みたいに、少しだけ寂しそうにしながら。
「やっぱり、隆翔はそうだよね」
「……何が?」
「嘘でも強がろうとしない。そういうところ、私は好きだよ」
自分でも情けないと思っている部分を、梓はまるで長所みたいに扱う。
昔からそうだった。誤魔化せないところも変に真面目なところも、全部見透かした上で隣にいた。
「ちょっと、なんで隆翔の方が落ち込んでるの? 失恋したの私なんだけど」
「別に落ち込んでない」
「嘘がへただなぁ」
すっかり調子を取り戻した梓がカラカラと笑った。
「まあでも、そうやって悩めるの、隆翔の良いとこだと思うよ」
次の瞬間、ふわりと頭に感触が落ちてきた。
梓の手だった。
「……ちょ、おま──」
「慰めてあげようかなって」
「そういうのいいから!」
反射的にその手を退けようとして梓の手首を掴むと、あまりの細さに驚愕した。毎日座奏やマーチングで使う手なのに、指先まで華奢で力を込めれば折れてしまいそうなほど軽かった。
「……っ、隆翔……ちょっと痛い」
「──ぁ、ごめん。つい……」
慌てて手を離すと、白い手首にうっすらと指の跡が付いていた。
しまった、と思ったがもう遅い。梓もまた、少しだけ驚いたように目を瞬かせていた
「…………」
「…………」
互いに言葉は出ない。先程までの挑発めいた空気も全部どこかへ飛んでいってしまったみたいに。
梓は気まずさを誤魔化すように、小さく笑った。
「なんか今日、隆翔に触られまくってる気がする」
「“まくってる”は盛りすぎだろ」
「えー、そうかな。過度なボディタッチはセクハラだよ?」
「変な言い方するな。もう出てってくれ」
「あはは、ごめんごめん」
梓はベッドから立ち上がると、乱れたスカートを軽く整えた。
「……そろそろ帰るね」
「ああ」
「もし、ウチが負けてもさ。もう隆翔には慰めてもらえないんだよね……」
「……ああ」
「分かった。うん……もう大丈夫」
梓は一度だけ隆翔を見たあと、逃げるみたいに部屋を出ていく。パタン、と扉が閉まる音が妙に静かに響いた。
しばらくして、リビングから母親たちの笑い声と、帰り支度をする気配が聞こえてくる。隆翔も部屋を出て玄関へと向かった。
「今日は来てくれてありがとねー」
「こちらこそ。久しぶりに話せて楽しかったわ」
母親同士は、話足りないような名残惜しさを感じさせる。子どもとはまるで正反対だった。梓も靴を履きながら「ごちそうさまでした」と自然に頭を下げている。
靴べらをフックにかけたあと、梓が思い出したように話し掛けてきた。
「関西大会、北宇治は何番?」
「うちは十八番。そっちは?」
「十三番。そっか、立華が先だね」
梓はふっと笑みを浮かべた。
「観られるといいな」
「……そうだな」
しみじみと言われ、隆翔は困惑するしかなかった。
逆に立華の演奏を聴きながら北宇治は自分の準備をする必要がある。そんな状況はまったく落ち着く気がしない。
「お互い、頑張ろうね」
梓が小さくこぶしを突き出す。隆翔も苦笑混じりにこぶしを作った。
「……いいのか。ライバルだぞ?」
「いいじゃん、別に」
コツン、と軽い音が鳴る。
満足そうに梓は笑った。
「あはは。じゃあ、またね」
「ああ、おやすみ」
「おやすみ〜」
梓は母親と並んでマンションの廊下を歩いていく。
その後ろ姿が見えなくなるまで、隆翔は玄関前で見送っていた。
リビングでは、母がどこか満足そうに「久しぶりに梓ちゃんといっぱい話せたわねぇ」なんて呑気に笑っていた。
けれど隆翔にとっては、失恋と宣戦布告と、どうしようもなく厄介な感情が一気に押し寄せた嵐のような夜だった。
◇◆◇
結果発表を待つ客席は、演奏直後まで漂っていた熱気が嘘みたいに冷えていた。
舞台中央にはポツンとマイクスタンドが置かれ、その横には金色に輝くトロフィーが整然と並べられている。
前の席では一年生が小さく身を寄せ合い、後方では顧問同士が低い声で何かを話している。隆翔は膝の上で組んだ指先に力を込めたまま、ただ正面を見ていた。
「もうすぐ結果発表だよ」
「やばい……死ぬほど緊張する」
「無理、私トイレ行ってくる」
そんな声を耳に入れるたびに、隆翔の体温も下がっているようだった。
演奏の瞬間はまったく覚えていない。ただ、流れるままに過ぎ去った十二分間がそこにあった。
「只今より、関西吹奏楽コンクール高校Aの部の結果を発表します。呼ばれた学校の代表者は──」
大会の運営責任者だろうか。野太い声がマイク越しに会場へ響き渡った。
その後、強豪と呼ばれる立華や龍聖、大阪東照や明静工科などの学校は着実に金賞を獲った。一校一校、名前と結果が呼ばれるたびに割れんばかりの歓喜の声が耳を
発表は、北宇治の一つ前に演奏した学校まで来ていた。
「いよいよだね……」
隣で拳を握る沙里。北宇治の最後の音を奏でた指は、血の気が引いているのかいつもより白かった。
「十八番。京都府代表北宇治高等学校、銀賞」
まず、隆翔の耳に届いたのは誰かの「えっ」という声だった。
──銀賞。
その二文字が、ひどく遠く聞こえた。
次の瞬間、グイッと強い力が隆翔の左手に加わった。
「いや……っ」
見ると、沙里は震えた声で顔を歪めたまま涙を零していた。普段は気丈に振る舞う彼女が、子どもみたいに声を震わせている。
「嫌だよ……っ、なんで、どうして……!」
学ランの袖が破れそうなほど強く掴まれる。
慟哭とともに蹲る沙里に、隆翔は何もしてやれなかった。ただ呆然と隣人を見つめることしかできなかった。
壇上にいる黄前と秀一に視線を向ける。
瞳の光は失われ、生気を奪い去られた表情でその場に立ち尽くしている。
黄前が何かを呟いた。
その肩に、秀一の手が添えられる。
結果を受け止めきれないまま、二人だけ時間から置き去りにされているみたいだった。
北宇治の部員が座る最前列では、泣き崩れる高坂を加藤と川島が両脇から支えていた。
「麗奈ちゃん、気を確かに……」
「お願いだから……っ」
高坂は顔を覆ったまま、声にならない嗚咽を漏らしている。絶対に折れないと思っていた存在が、子どもみたいに泣いている。
嗚咽と溜息が混じる空間に爪を立てるが如く、無情にも全国大会へ進む学校が告げられた。
「十三番。京都府代表、立華高等学校」
──歓喜、喝采。
淡い照明に照らされた客席の一部分が、水色に染まる。
昨年まで、コンクールでは二年連続関西大会銀賞だった立華高校は、全国大会出場の悲願を果たした。
その立役者となった梓は、壇上で堂々と前だけを向いていた。スポットライトを浴びながら賞状とトロフィーを受け取る姿は、まるで最初からそこに立つべき人間だったみたいに美しかった。
その地位も名誉も、
三校の代表を讃える拍手が、ゆっくりと意識を遠ざける。
会場の外、記念写真に写る部員の表情は暗い。
「ごめんなさい。私がソリなんか吹いたから」
柔らかな亜麻色の髪が乱れることも厭わず、真由は黄前に首を垂れた。
黄前はただ虚ろな目をしてその姿を見つめていた。その沈黙が答えだった。
会場に来ていたOBの優子、夏紀、そして希美は、どう接したらいいか分からないような表情で北宇治の輪を遠くから見つめていた。二人は自分たちよりも低い結果に甘んじた後輩を見ていられないのか目を伏せている。
ただ、希美だけは違った。
何も言わず、ただ静かに隆翔を見つめている。
その瞳に映るのは、期待を裏切られた諦観と失望。
──結局、この程度か。
そう言われているようにしか見えなかった。
南中の悲劇を、こんなところで再現するとは誰が予想しただろう。希美の達観した表情は、当時を知る彼女にしか許されないものだ。
全国金を託された。希美の夢を背負ったつもりでいた。
でも結果は、この有り様だ。
「────っ!」
息が詰まり、視界が歪む。
拍手と泣き声と歓声が全部混ざり合って、耳の奥でぐちゃぐちゃと濁った音が響き渡った。
───────────っ、は……!
喉の奥が焼けるような痛みを訴えた。
勢いよく身体を起こした瞬間、肺が空気を求めて悲鳴を上げる。乱れた呼吸と異様な速さで脈打つ心臓を抑えようと、体を抱え込む。
閉め切ったカーテンの隙間からわずかに青白い朝の光が滲んでいる。もう朝だった。
「……夢?」
掠れた声で呟く。
束の間の安堵。だが、夢の内容はやけに現実的だった。
目を閉じれば、隆翔の足元に広がる地獄がありありと再現される。
何より、希美の失望したような目だけが、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
「っ……」
胃がひっくり返るような感覚に襲われる。
反射的にベッドを降り、隆翔は部屋を飛び出した。
廊下を抜け、そのままトイレへ駆け込む。便器に手をつき、何度も咳き込む。けれど出てくるのは胃液ばかりで、まともに何かを吐けるわけでもない。
「げほっ……は、ぁ……っ」
嫌な汗が首筋を伝っていく。
夢だ、ただの夢だと何度言い聞かせても、脳が現実と切り離そうとしない。
もし本当にああなったら。
その考えが浮かんだ瞬間、再び吐き気が込み上げた。
どれくらいそうしていただろう。ようやく呼吸が落ち着き始めた頃、隆翔は重たい身体を引きずるように洗面台へ移動した。
何度か乱暴に顔を洗ってから、ゆっくりと鏡を見る。
「……うっわ」
鏡の中の自分は驚くほど顔色が悪かった。
目の下には薄く隈が浮かび、肌は青白い。まるで何日も寝ていない人間みたいだ。
「隆翔、大丈夫?」
廊下から母の心配する声が飛んでくる。トイレに駆け込んだ物音で起こしてしまったのだろう。申し訳ないことをした。
「さっき、すごい音したけど」
「あー……大丈夫。ちょっと気持ち悪くなっただけ」
「熱あるんじゃないの。無理せず休んだら──」
「休めるわけないでしょ」
母に返した言葉が、想像よりも強い言葉になった。
心配する母を蔑ろにするつもりはない。むしろありがたいとも思っている。
だけど、今日だけは這ってでも行かねばならない。
カレンダーの今日の日付に、赤いマーカーで『関西大会』と書かれていた。
時刻は午前五時半。
宇治川沿いの空は、夜と朝の境界線みたいな色をしていた。
街灯はまだ消えていない。けれど東の空はわずかに白み始めていて、川面には薄青い光が揺れている。
楽器ケースを肩に掛けながら、隆翔は隠元橋の交差点へと歩いていた。
夢のせいか、まだ身体の奥が重たい。胃の底に沈殿した不安だけが、寝不足みたいに頭へ張り付いていた。
「あ、いた」
橋の欄干のそばで、小さく手を振る人影が見える。
肩まで伸びた柔らかな髪。白いワンピースの上に薄手のカーディガンを羽織り、朝の冷気を避けるようにしていた。
二週間ぶりに会う恋人の姿に、隆翔は一瞬だけ息を止めた。
「……希美」
名前を呼ぶと、希美はふにゃりと顔を綻ばせた。
「おはよ、隆翔」
その笑い方を見ただけで、胸の奥に張り詰めていたものが少しだけ緩んだ気がした。
海へ行った日以来、二人はまともに顔を合わせていなかった。
メッセージのやり取りはしていた。大会前だから仕方ないと、お互い分かってのことだった。それでも、こうして直接会うのはやっぱり違う。
「ごめん、待った?」
「ううん。今来たところだよ」
希美はそう言って、欄干から体を離した。
「……顔色、あんまり良くない?」
「そ、そうかな?」
「うん。それに寝不足にも見える」
誤魔化そうとして隆翔は苦笑する。
だが希美は、それ以上深く聞こうとはしなかった。
「会いたいって言ったの、迷惑だった?」
「いや。そんなことない」
むしろ助かった、と思った。
今朝見た悪夢が、まだ頭の奥にへばりついている。
もし希美に会っていなければ、きっとそのまま引きずっていた。
「そっか。よかった」
希美は安心したみたいに小さく笑う。
二人の間に、川を渡る風が吹いた。
「ちょっと寒い?」
「うん。だから、少しだけこうさせて」
「わっ──」
周囲を見渡した後、希美に勢いよく抱きつかれて隆翔は思わず一歩よろめいた。
腕の中の希美は少しだけ震えていた。冷えているのか、それとも別の理由かは分からない。けれど、そこに確かな体温があった。
隆翔はゆっくりと彼女の背中へ腕を回した。抱き寄せると、希美が小さく息を飲んだ。
「隆翔……」
縋るように恋人の温もりを求めるような声色。
互いの顔が一気に近づく。鼻腔をくすぐる、少し甘い香り。
実態のある希美をこれでもかと享受する。
「……夢を見た」
「夢?」
「今日、関西で北宇治が負ける夢。銀賞だったよ」
その言葉を聞いた希美の表情が、きゅっと強張る。
かつて府大会銀賞という呪縛を背負った経験のある張本人には、耳が痛い話だからだ。
「……私のせい?」
「───っ! 絶対そんなことはない。むしろ、俺のメンタル的なものだから……」
「そっか」
抱きしめる腕の力が強くなる。
互いに縋りたいのは、同じ想いだった。
「でも、すっごい怖かった……。目の前でみんなが泣き崩れてて、全国行けなくなって希美にも見限られて……」
言った瞬間、自分でも驚くほど声が掠れた。
希美はしばらく何も言わなかった。ただ、震える隆翔の体を温め続けた。
額が触れそうな距離で、隆翔はそっと唇を重ねた。
柔らかな、確かめるようなキス。
希美はもっと欲しそうに指先へ力を込める。
どれだけそうしていたか、時間の感覚が曖昧になる。
「んっ──!?」
不意に、希美は舌を挿れてきた。びっくりして、思わず隆翔は先に唇を離す。
「……この辺にしておくよ」
「えぇー」
露骨に不満そうな声を出す希美に、隆翔は苦笑する。
「続けたら止まらなくなるでしょ」
「う……否定できない」
希美は耳を赤くしながら視線を逸らした。
「でもまあ、元気そうでよかった」
「どこがよ」
「なんやかんやあっても、きっと隆翔はいつも通りでいるんだろうなって思ってたから」
そう言って笑う希美の瞳は夢の中のそれとは全然違った。
澄みきった柔らかな双眸には、失望なんて欠片も宿っていなかった。
「希美はこの後、どうするの?」
「んー、一回帰って二度寝かな。十一時に京都駅で優子と夏紀と待ち合わせだから」
「本番前に会えるかな」
「多分、本番後になるかも。優子も気を利かせてるんだよ。それはそれとして、OBとして後輩たちの晴れ舞台は見届けたいんだって」
「みぞれ先輩は?」
「誘ったんだけど、オケの練習で来れないって。本番近いから」
「それだったら希美もじゃない?」
「ん? まあ、私はそんなに格式張ってないから多少はね。それとも、見に行ってほしくない?」
不満を訴えるように、希美は隆翔の顔を覗き込んだ。
当然そんなことはないので、顔を横に振る。
体を隆翔から話して、希美は欄干へ軽く寄りかかった。
「去年のこと、覚えてる?」
「忘れるわけないでしょ」
「あはは、そうだよね。だから私も、あの時のお返しがしたくて」
十二分間の本番に向かう直前、冷え切った希美の手を取った記憶がフラッシュバックする。大舞台で緊張するなと言う方が無理な話だ。それを隆翔は、今年の府大会でまざまざと経験した。
「それとさ」
希美が、少しだけ照れたみたいに視線を逸らす。
「大会終わったら、どこか行こうよ」
「デート?」
「……うん。だって、付き合って一周年だから。ささやかでもいいからお祝いしたい」
そうか、と時の経過の速さに目を瞬かせた。
忙しさで恋人との節目の日を忘れるなんてあるまじき行為だと猛省しなければならない。とはいえ世の恋人たちが記念日をどのように過ごしているのか、隆翔には皆目見当がつかない。
「まあ、その件はまた連絡するよ」
「うん」
「じゃ、そろそろ行かないとだね。ちゃんと客席から聴いてるからね」
「……うん」
「隆翔の音を」
その言葉だけを残して、希美は小さく手を振った。
橋の対岸に歩いていく後ろ姿を見守ってから、隆翔は反対側に歩みを進めた。
夢の中の希美は、冷たい目をしていた。
けれど現実の彼女は、一度だってそんな顔をしなかった。
希美はちゃんと聴くと言っていた。北宇治も含まれるかもしれないが、はっきり、隆翔の音を、と。
ただ、それでも。
──期待されていることだけは、嫌になるほど分かってしまう。
一年前も同じ光景を見た。
あの時もほとんど同じ時間に登校していたと思う。
ただ、一つ違うことといえば、肩にかかる楽器の存在だ。
鞄を担ぎ直し、深く息を吐く。
八月二十七日。
関西吹奏楽コンクール当日。
隆翔を一員に加えた北宇治高校吹奏楽部の、長い一日が始まろうとしていた。
【つづく】
次回、関西大会開幕。
お気に入り件数が300件を超えました。
これもひとえに、拙作をお読みいただいた皆様のお陰でございます。
この場を借りて、御礼申し上げます。
当小説は物語の後半に差し掛かっております。
間も無くクライマックスを迎えますが、どうぞ最後までお付き合いいただけると幸いです。