高速道路を疾走する大型バスの車内は、まるで時間が止まったかのように静かだった。
早朝の集合だったせいか、ほとんどの部員がまぶたを落としている。そんな状況に気を遣ってか、運転手が車内灯を控えめに落としている。誰かの寝息と、エアコンの低い作動音と、タイヤが道路の継ぎ目を踏む音だけが一定の間隔で耳に届いていた。
今日に限って、A編成の五十五人には冬服が指定されていた。一方で、舞台に上がらない部員たちは特に指定がなく、B編成の面々は揃って夏服を着ている。茶色の長袖の制服と、軽やかな白い夏服。その不揃いな光景が、今日という日がいつもとは違うことを静かに物語っていた。
バスは宇治を離れ、関西吹奏楽コンクールの会場がある和歌山県へ向かっている。
景色は時速九十キロで後ろに流れ去っていく。澄み切った青空の下、今は大阪府のどのあたりだろうか。同じ空の下でも、ここが縁もゆかりも無い場所なのは確かだった。
隆翔はイヤホンを耳に押し込み、音楽アプリのプレイリストをランダムに再生した。ギターの歪む音が鼓膜のすぐ近くで掻き鳴らされている。ドラムが規則正しく胸の奥を叩き、ボーカルの声が微睡む車内とは違う速度で言葉を吐き出していく。吹奏楽の大会の日に聴くには少しだけ荒っぽい音かもしれない。それでも、綺麗に整った曲よりは今の自分に合っている気がした。
府大会からこれまで、今日のことを想像しない日はなかった。怖くないわけがないだろうと、何度もそう思った。だから昨日は寝覚めの悪い夢を見たのかもしれない。
今日、どんな演奏ができるのか。
今年に入ってから今日まで、ほとんどの部員が悩み、もがき苦しんだ。あれだけ傷ついても、最後に辿り着く最高の十二分間のために全員が身を削った。そこには怖さもあったが、同じくらい知りたいという欲望も確かにあった。
隣の座席では沙里が寝息を立てながら眠りについている。背もたれに体を預け、少しだけこちらへ傾いたまま気持ちよさそうに目を閉じていた。膝の上には薄手のブランケットが掛かっている。バスに乗ってすぐ、几帳面に広げていたそれは、揺れに合わせて少しずつずり落ちかけていた。起こさないようにブランケットの端をつまみ、膝の上へ掛け直した。
これから大一番だというのに緊張の欠片も感じない。本当にこのあと関西大会の舞台に立つ人間なのか疑いたくなる程だ。
沙里は決して本番で崩れない。
緊張しないわけではないが、それを演奏に響かせない強さと土台がある。今もきっと、眠れる時に眠っているだけだ。体力を温存して本番に備えるのは彼女なりの整え方なのだと思う。
曲がサビに入ると、爪弾くギターとシャウトするボーカルが耳から脳に直接訴えかけてくる。強い言葉で誰かを肯定し、弱い心を挫こうとする。そんな歌詞だった。
座席越しに、背筋を伸ばしたまま窓の外を見ている黄前の姿が目に入った。彼女もイヤホンをしている。この時間が手持ち無沙汰なのは、隆翔だけではないようだ。
次の曲へ移るまでの無音がやけに大きく感じられる。
隆翔は窓に映る自分の顔を見た。少し寝不足な目元が情けない。だが、見た目よりはマシな精神状態を保てている。
ふと、窓の外に視線をやれば和歌山県に入ったことを知らせるカントリーサインが立っていた。
隆翔は一度息を大きく吸って気合を入れた。
◇◆◇
和歌山県民文化会館。
バスの窓越しにその建物を見つけた時、隆翔は無意識に背筋を伸ばしていた。
建物そのものは特別に威圧的というわけではない。赤茶色の外壁に覆われ、市街地の中に建つ文化施設としては、むしろ整然としていてどこか端正な印象さえある。
建物の奥では、和歌山城の天守閣がこの会場を見下ろしている。
長い歴史を見守ってきた城郭は、夏の街の上に静かに佇んでいる。今日もまた、一つの戦いを見届けようとしているようだった。
隆翔は小さく息を吐いた。吹奏楽コンクールを戦に喩えるのはいささか大袈裟かもしれない。だが、この場所に集まった高校生たちは、少なくとも遊びに来たわけではなかった。
バスの扉が開くと、冷房で冷えた車内に八月の空気が流れ込んできた。外へ一歩踏み出すと、靴底からアスファルトの熱がじわりと伝わってくる。高速道路を走っていた間はどこか遠かった現実が、足元から容赦なく這い上がってきた。
会場の前には、すでに多くの生徒が行き交っていた。時間的に午前の部が終了し、休憩時間に入っているはずだ。
見慣れない制服。色違いのブレザー。白い夏服の襟元。大きな楽器ケースを抱える男子生徒。譜面ファイルを胸に抱いて早足で歩く女子生徒。ホールの入口付近では、大会スタッフらしき大人が何度も腕時計を確認している。
ここにいる全員が、今日のために鎬を削ってきたはずだ。
朝も、放課後も、休日も。
その過程はどこの学校も同じだった。
黄前が一歩前に出た。
全体を見渡すその姿から、緊張感で背筋が伸びているのが見受けられた。
「まずは自分の楽器と荷物を確認してください。その後はトラックが搬入口の前にいるので、楽器運搬係の人を中心に、大きい楽器から搬入口に回してください」
『はい!』
「会場では誰がどういう立場かなんて関係ありません。北宇治の制服を着ている以上、学校を背負ってると思って行動してください。何かあれば近くのパートリーダー、もしくは幹部にすぐ相談してください」
『はい!』
返事が、乾いた空へ跳ねた。
「ティンパニ、先に行ける?」
「行けます」
「一応、マリンバは台車確認してから動かして。フルートとクラは控え室の位置を確認してからまとまって行こう」
黄前の号令のあと、男子を中心とした楽器運搬係が搬入に動いた。
会場には二十校以上が集う。当然、会場にはすべての学校の荷物を置いておけるほどの広さはない。演奏順に搬入し、終わればすぐに撤収に取り掛かる必要がある。
午前の部で演奏した学校と入れ替わる形で、北宇治は会場に入っていった。
隆翔はフルートケースを一度沙里たちの荷物のそばに預け、搬入口に止まっているトラックに向かった。
「隆翔、こっち頼むわ」
「了解」
秀一は上着を脱いで腕を捲り、男子部員たちと大きい楽器の搬入に回っていた。副部長らしい細かい気配りも単純な力仕事も、彼はなんでもないようにこなす。そういうところは、昔からあまり変わらない。
ティンパニ、バスドラム、マリンバ。
音楽室で見慣れているはずの楽器たちが、会場の外でケースに収まっているだけで急に扱いの難しい生き物みたいに見えた。
「これ、段差気をつけて」
「もう少し右」
「チューバ持ってくよ」
「無理すんなよ加藤」
「だいじょーぶ!」
バスドラムを運ぶ横を、加藤葉月がチューバケースを背負って通り過ぎていく。声は軽いが、ケースの大きさは見ているだけで肩が凝りそうだった。
その少し先では、川島緑輝と月永求がコントラバスを担ぎ上げている。小柄な二人が大きな楽器を運ぶ姿は何度見ても不思議だ。楽器の方が二人を連れて歩いているようにも見える。
秀一が苦笑した。
「あいつら、どこにそんな力があるんだよ」
「コツがあるんだってさ。あの持ち方も意外と理に適ってるらしい」
「さすが川島だわ」
「今さらだろ」
台車の車輪が擦れる音。ケースの金具。スタッフの誘導。荷物を置く音。誰かが小走りになる足音。会場の裏側は、音楽ではない音で満ちていた。
搬入を終え、全員が控え室へ移動する。会場の中は外の熱気が嘘のように涼しかった。
その道中、大ホールに繋がる厚い扉の前を通る。その向こうから聞いたことのある演奏が漏れてきた。
「今どこ?」
「立華だって」
「マーチングの? さすが、座奏も上手いね」
近くを歩いていた他校の生徒がそんな言葉を交わしていた。
扉越しのくぐもった音だが、その技巧は十分伝わってくる。府大会で聴いた時よりも、さらに音が締まっている。
梓はハッタリを言ったわけではないようだ。隆翔の部屋で浮かべた笑みの裏側にあったものが、今は扉の向こうで音になっているのかもしれない。
「隆翔、急げよ」
「……おう」
ホールに轟くトロンボーンに後ろ髪を引かれながら、早歩きで秀一の背中を追った。
◇◆◇
「では、チューニング室に移動します」
滝の声かけで、北宇治の部員たちは楽器を手に立ち上がった。
本番まで残された時間はもう多くない。残っていた緩さは薄れ、どの顔にも本番前の硬さが浮かんでいる。
移動の直前、真由が黄前に声をかけていた。
「久美子ちゃん」
黄前が振り返る。その表情は、どこか気まずさを孕んでいた。
「私、ソリ頑張るね。ここで終わっちゃったら、久美子ちゃんがソリ吹くチャンス、なくなっちゃうもんね」
そう言って、列に倣って部屋を出ていく。黄前はその真意を測りかね、黙って背中を見送っている。
真由としても、北宇治で演奏するのは二回目だ。どうすればこの学校の演奏に貢献できるかは、既に把握しているはずだった。
隆翔は真由の演奏に賭けた。だから、そうでなければ困る。清良女子という強豪中の強豪で育ったのだ。まだ強豪校と名乗るには中途半端な北宇治で、彼女の音が埋もれるはずがなかった。
チューニング室は、ホールへ続く部屋の中でもひときわ密閉された空間だった。扉が閉まると、廊下のざわめきが急に遠のく。広い部屋には椅子が扇形に並べられている。滝はその中心に立ち、全体を見渡していた。
隆翔はフルートに息を吹き込む。冷房で冷たくなった銀色の管体を、ゆっくり、確実に温めていく。
「隆翔くん、お願い」
「おう」
沙里の管から、低音から中音域のロングトーンが響く。いつも通り、洗練された綺麗な音だった。続いて隆翔も同じ音を出す。沙里の耳で聞いた音をトレースするように、弱い音から強い音を濁りなく吹いていく。
「ちょっと、ピッチずれてるかも」
「だね。修正する」
頭部管をほんの少しだけ抜いて再び同じ音を出す。わずかにズレていた二つの音が、少しずつ輪郭を失い、ひとつの響きになっていく。今度は満足いく音が響き渡り、沙里は満足そうに頷いた。
「蕾実は大丈夫?」
「うん、心配しないで。今日、すっごく楽しみにしてたんだから」
関西大会からメンバー入りした中野も、安定した調律でチューニングを行っている。その表情からは、今日の合奏を心の底から楽しみにしていたという自信が垣間見えた。
一年生にして関西大会の舞台に立つ吉田も、気丈に振る舞う中野同様、良い具合に力が抜けている。一度本番を経験したからか、精神的な余裕が生まれたようだ。
「すみません、もう一度冒頭部分をお願いします」
振り上げた指揮棒を合図に、フルートを構える。
こんなギリギリまで時間を使うのは珍しい。最終調整に時間を費やせるのもこの部屋を出るまでだ。いつもなら柔和な表情で奏者を見守っているのに、今日はその顔も固い。
指揮に合わせて、完璧な音色が奏でられる。徹底的な基礎練習。コンマ数秒まで突き詰めたアーティキュレーション。特に冒頭部分は、滝のこだわりで何度も何度も修正を繰り返した。本番前とかは関係ない。いつでも完璧な音が出せるような練習を、血の滲むような努力をしてきたのだ。
「良いですね。素晴らしいです」
指揮棒を下し、滝は言葉を続けた。
「私は北宇治の音楽が、皆さんの演奏が素晴らしいモノであると信じています。もちろん、結果は気になるでしょうが、それよりもまず、自分達の納得のいく演奏にすることを考えましょう。コンクールはあくまでも本番の一つに過ぎません。背伸びをせず、いつも通りの演奏をしましょう」
『はい!』
隆翔はフルートを膝に置いて息を吐いた。
本番まであと十分。手のひらに滲んだ汗を制服に押し付けた。
滝の賞賛の言葉は、きっと本物だ。本番前に余計な心配事を背負わないように、普段あまり褒めない彼がそういう言葉を使った。
皆、騙し騙し自分の心を強く保とうとしていた。この瞬間まで、オーディションを発端とした騒動は収束しなかった。火種は一気に燃え広がり、吹奏楽部を一瞬で飲み込んだ。
横に座る沙里の目を見る。誰も見ていないと思っているのか、どこか悲しそうな表情をしている。胸の奥にじくっと棘が刺さる。そんな顔をしないで。目を伏せないで。そんな言葉が浮かんでは消えていった。
沙里の名前を呼ぼうとした、その時だった。
「あの」
背後から声が上がった。
振り向くと、黄前が天井に真っ直ぐ手を上げていた。
「少しだけいいですか? 伝えたいことがあります」
「ええ、勿論です」
その瞬間、滝は小さく笑みを浮かべた。
「部長の黄前です。えっと…………」
滝に変わって指揮台に上った黄前。顔は緊張で強張り、紡ぎ出すはずの言葉は詰まって、無言の時間が流れていた。焦点のあっていない目の奥で、彼女の口から小さく言葉が出てくる。いや、漏れ出したと言った方が正しい。
「思っていることを、ちゃんと……」
「久美子!」
加藤の声にはっとして、口を閉じた。誰かが小さく笑う。つられるように、部屋の空気が少しだけ緩んだ。黄前は口元を押さえ、耳まで赤くしている。
「私っ、昔から思ったことを言っちゃうクセがあって……だから、思っていることを話します。正直に、そのまま」
黄前は一息入れて、鬼気迫る表情で語り始めた。
「私は、一年生も三年生も同じ土俵で競い合って一つの目標に向かって進める、そんな北宇治が大好きです。その北宇治で全国金賞を獲りたい。二年間ずっと思ってきたけど、でも、どうしてもそこに届かなかった。ここにいる二年と三年、そしてきっと滝先生も思ってる。なんでだよって」
滝は何も言わずに微笑んでいた。
「だから何かを変えなきゃいけないって、幹部でそう考えて今年はこのオーディション形式を提案しました。それが間違っていたとは思いません。より北宇治らしい方法だとも思いました。ただ、そのことで戸惑いを感じた人がいたことも事実です。部長として、この場で謝らせてください。すみませんでした!」
黄前が深く頭を下げた。少し遅れて、秀一と高坂も頭を下げる。
その光景に、隆翔は息を呑んだ。
「今更謝られても納得できない人だっていると思います。でもっ……それでも北宇治で全国金を獲りたい! わがままかもしれない。でも、ここにいるメンバーと、不満も戸惑いも全部吹き飛ばす、最高の演奏をして全国に行きたいんです!」
声が震えている。それでも彼女の弁は止まらない。言いたいこと、伝えたいことが堰を切って流れ出していた。
「一年間、みんなを見てて思いました。こんなに練習してるのに上手くならないはずがない。こんなに真剣に向き合ってるのに響かないはずがない。北宇治なら獲れる! 私たちならできるはず。だから、自信を持って……今までやってきたことを信じて……」
堰を切って出たのは言葉だけではない。涙が流れていた。顔を真っ赤にして、声が掠れるほど感情を表に出して。
制服の袖で涙を拭く。それでも、彼女の瞳からは玉のような涙が溢れていた。
気付けば、周りからも啜り泣く声が聞こえる。彼女の言葉に感化されたのか、それとももらい泣きしたのかは分からない。吉田は目元を真っ赤にして黄前を見つめている。沙里も涙を浮かべながら、柔らかな表情を浮かべた。
やがて、誰かの拍手が黄前の背中を押した。それは波紋のように伝播し、誰もが中心に立つ彼女へ拍手していた。それは、矢面に立つという怖さと責任に向き合った黄前久美子に贈られる賞賛だった。
「私も全国に行きたいぞ!」
「獲ろう、全国金!」
「絶対に行こう、全国!」
自然と発生した掛け声。黄前は驚いたように目を見開き、泣きそうな顔で笑っている。
部長の演説としては、かなり不格好だった。けれど、不格好だからこそ黄前久美子の言葉はささくれた心に引っ掛かる。そこには論理性も理屈もない。ただ彼女は、全国に行きたいとだけみんなに伝えた。回り道のない言葉で、真っ直ぐに。
気が付けば、隆翔もその手を叩いていた。
長かった。本当に長かった。けれど黄前はようやく自分の言葉でみんなの前に立った。これが正解だったのかどうかは分からない。
黄前と目が合う。
隆翔は口角を上げ、一度だけ大きく頷いた。
黄前は少しだけ安心したように表情を緩めると、涙を堪えるように唇を結んだ。それから、拳を胸の前で握る。
「それではご唱和ください。北宇治ファイトー!」
『オーー!!!!!』
チューニング室の壁が震えるほどの声が上がった。
フルートを手に取ると、さっきまで冷たかった銀色の管体は、いつの間にか掌に馴染むほど温まっていた。
◇◆◇
舞台に近づくにつれて、空気の温度が上がっていく。
暗幕の向こうでは一つ前の学校が演奏している。輪郭は曖昧だが、金管の厚い響きと打楽器の鋭いアタックだけははっきりと届く。よく仕上がっていると思った。関西大会に出てくる学校なのだから当然だ。下手な学校は一つもない。
かつて梓は、舞台の上が怖いと言った。眩しくて、熱くて、孤独で苦しい。確かに彼女の言う通りだった。オーディションに合格することの難しさ。その場所に立つために、来る日も来る日も音楽を奏で続ける時間。正直言って億劫だ。
でもコンクールの舞台で吹くことは、得難い経験の一つだ。当時の梓に会えたら、隆翔はこう言うだろう。「それでも立ち続けろよ」と。
隆翔は壁際に寄り、フルートを握り直した。汗で滑らないように、右手の親指を軽く制服のズボンに押し当てる。大丈夫。息は浅くない。指も震えていない。
隣に立つ沙里は呆れるくらい飄々と出番を待っていた。
「緊張しないのか?」
小声で聞くと、沙里は少しだけ目を丸くしたあと、困ったように笑った。
「してるよ」
「そうは見えないな」
「じゃあ、良い緊張なのかも。それにね、隆翔くんも落ち着いてるから大丈夫かなって」
隆翔は返す言葉を失った。
「鬼メンタルめ」
「あはは、否定はしないよ」
この親友でありライバルでもある少女は、呆れるくらい負けん気が強い。心臓が鉄で出来ているんじゃないだろうか。
隆翔は顔を近付けて、一言付け加えた。
「希美、客席にいるって」
「……うん」
沙里は短く頷いた。
「じゃあ、最高のソロを聴かせなきゃね」
フルートを掲げながら、沙里は目を細めた。
隆翔にとっては言わずもがな、沙里にとってもかけがえの無い、敬愛すべき先輩なのだ。その大きすぎる背中に挑む彼女は、あまりに気高く見えた。
視界の端で、銀色のユーフォニアムを抱える真由が見える。
みんな誰かしらとエールを送り合ったりしている中、彼女は一人ポツンと立っていた。
「行ってきたら」
「いいのか?」
「うん。私も共犯者だし」
「……分かった。ありがとう」
舞台から漏れる光が、ポニーテールの柔らかな輪郭を薄く縁取っている。
それがどこか儚げに見えて仕方なかった。
「黒江」
声をかけると、ゆっくり振り向いた。
「樟葉くん」
「緊張してる?」
「うん。ソリストは清良でもやったことなかったから」
真由はユーフォニアムのベルに視線を落とした。照明を受けた表面に、舞台袖の黒い幕が歪んで映っている。
「頑張って演奏するね。全国に行ければ、久美子ちゃんもソリ吹けるだろうから」
「えっ……」
真由はきょとんとした顔でこちらを見る。何かおかしなことを言ったかな、という表情だった。その無自覚さが、かえって胸の奥に小さな棘を残した。
「黒江って、たまにすごいこと言うよな」
「え、そうかな」
「そうだよ」
真由は困ったように笑った。
「でも、本当にそう思ってるから。私がちゃんと吹かないと、ここで終わっちゃうでしょ。そしたら、久美子ちゃんが吹く機会もなくなっちゃう」
「……まあ、それはそうだけど」
「それにね、今日はすごく調子がいいの。みんなのために、きっと良い演奏ができると思う」
暗幕の向こうから、前の学校へ送られる拍手が押し寄せてくる。その音が引き波のように収まるのを待ちながら、隆翔はフルートを握り直した。
「俺は楽しみにしてるよ。黒江のユーフォを」
「え……?」
「本番頑張ろう。最高の演奏にしようぜ」
それだけ言い残して、隆翔は真由に背を向けた。それ以上、真由の顔を直視できなかった。
知ってしまった。彼女が本当に欲しい言葉を。
見てしまった。彼女の内側にある傷を。
「北宇治、行くよ」
舞台の光が漏れる。
黄前は右手を上げ、すっと人差し指を天井へ向けた。それに倣って、無数の人差し指が天井へ向いた。
◇◆◇
舞台の上は、やはり熱くて苦しかった。
照明で照らされた物の輪郭は白く浮き上がっていて、この世のものではないような儚さがあった。
フルートが座る位置はほぼ中央、指揮者の目の前だ。
府大会は目の前に滝がいた。しかし、今日はその場所に沙里が座っている。
課題曲はあっという間に終わってしまった。
滝の動きを見ながら、隆翔は演奏とは関係ないことを考えていた。
暗く、人影しか見えない客席。そこにいる一人一人の顔は当然ながら認識することはできない。
あの中のどこかに、希美がいる。それが不思議でたまらなかった。
ファイルを一枚めくると、自由曲のページになった。
無数の滝の指示と、同期、後輩のメッセージ。色とりどりのマジックペンで、隆翔への想いが連ねてある。
高久ちえりのクラリネットソロから始まる自由曲『一年の詩 〜吹奏楽のための』。
澄んだ音色が、静寂を柔らかく掻き回す。そして重なる、沙里のフルート。孤独なクラリネットに寄り添って、春の訪れを喜ぶように主題となる旋律を奏でていく。やがて隆翔たちが加わり、細い音を下支えしていく。
梨々花のオーボエが主旋律を奏でると、ハープとフルートがリレーする。木管の穏やかな旋律をトランペットのユニゾンがけたたましく切り裂いた。メインテーマの本流を複雑なパッセージで木管と金管が交互にぶつかり合う。
第一楽章『春、新たなる息吹』の名に相応しい、生命の産声とそれを祝福するラッパのファンファーレ。
音は太く、激しく、ギラギラした旋律となって次の季節に引き継いだ。
気を抜けば置いていかれそうな素早いパッセージの連続。自由で捉えどころのない音を、すべての楽器が縦横無尽に駆け巡る。
ここ、第二楽章『夏、栄光の謳歌』では、木管、特にフルートとクラリネットに休む暇がない。滝の指揮は更に動きを増していく。その速さに付いていくのが精一杯だった春頃を思えば、今、彼の下で最も求められた音を出せるのは自分達だ、と胸を張って言えるだろう。
なぜ、関西からフルートの人数が増えたのか。答えはここにあった。
高音域をカバーすることの多いフルートは、より高音で美しい音を出す金管楽器に埋もれやすい。木管と金管のバランスを考えたとき、滝はアンサンブルコンテストで全国に行ったクラリネット陣を主軸に据えながら、足りない高音の色彩をフルートに求めた。そうやって滝は絶妙なバランスを保てるように試行錯誤を繰り返していた。
マリンバの釜屋つばめが、二本のマレットで正確無比な打音を刻む。続けて飛び出したトロンボーンの主旋律。そして低音の早いパッセージに耳を傾けながら、置いていかれないように運指を紡いでいく。まるで精密機械だ。フルートだけではない。この舞台には、狙った音を確実に出せる優秀な奏者しかいない。他の学校にはない、滝が決めた最強のメンバーなのだ。
強まるクレッシェンドが徐々に力を失い始め、やがて舞台から消えていく。夏から秋へ、少しずつ気温が下がっていくように。
残ったのは哀愁を響かせる川島緑輝のコントラバスソロ。寂しさ、寒々しさすら感じさせる低音パートの団結力。難しいピッチを何なくこなすのはお手のものだ。
滝の視線が、最も後方にいる高坂を捉える。
第三楽章『秋、宿命の時』が、高坂の鋭いトランペットソロから始まる。
秋の夜長に、一閃のトランペットが響く。そんな情景が浮かんだ。そしてトランペットの一人旅に追随する真由のユーフォニアム。完璧に寄り添うソリストたちの宴。隆翔は一瞬、息をするのを忘れた。
高坂の音が空気を切り裂くなら、真由の音はその切り口をそっと撫でていく。柔らかく芯があり、高坂の旋律に決して埋もれていない。
高坂麗奈と黒江真由。
この二人が揃った時、北宇治の音はこんなにも変わるのかと思った。誰かが息を呑む気配が音の合間に沈む。呼吸をするのも憚れる。ホール全体が、その旋律を受け止めるためだけに静まり返っていた。
隆翔はフルートに口をつける。二人の世界に割り込むようにしながら、木管とパーカッションが華やかに迎え入れる。そして、秋を彩る木々は徐々に色合いを落としていった。
ハープの音から始まる第四楽章『冬、終焉……そして再び始まる』。
続くようにして、フルートが音を紡ぐ。短いが、ここは見せ場だ。
クラリネット、サックスが最後の輝きの土壌を奏で、オクターヴの高いフルートへバトンを渡す。ここが北宇治の奏でる
シンバルが盛り上げ、最高潮ですべての音が解放される。トランペットの音が、飛び立つその背に喝采のファンファーレを送る。メインテーマの奥で、フルートは七連符のパッセージを高速で吹き切る。本当に難しい。何度も何度も失敗して、成功するまで何度も吹いた箇所だ。だが、今は沙里を先頭にして、堂々とトランペットを支える。観客の一人一人が、このクライマックスを聴き入っている。絶対にミスするもんか。反対側に座る吉田も、鬼気迫る表情で連符の波を越えていった。
季節は冬を経て、次の春へ向かう。栄光はすぐそこにある。その、最後のピースを手繰り寄せる沙里のソロがホールに響き渡った。美しい音色だった。沙里は今、託された音を届けている。希美が立てなかった場所へと向かうために。かつて自分が託した音が、こうして届いていることに気づいているだろうか。
一瞬の静寂の後、凄まじい拍手が降り注いだ。
割れんばかり、という言葉がある。今まで何度も聞いたし、何度も使ってきた。けれど本当に割れるほどの拍手というものを、隆翔はこの時初めて知ったような気がした。
乱れた呼吸、上下する肩。その奥で、滝の口元がわずかに緩んだ。勝った、とそう思うのは時期尚早だが、今だけは自惚れることを、神様は許してくれるかもしれない。そう思った。
『ただいまの演奏は、京都府代表、北宇治高等学校吹奏楽部の皆さんでした』
拍手は鳴り止まない。その中を、次の学校のために手早く撤収する。
暗幕の中に入ると、目が慣れていないのか視界が闇に閉ざされた。障害物に当たらないよう爪先に神経を集中していると、背中に軽い衝撃が加わった。
「───っ! 沙里?」
ぎゅっと制服の上着を掴まれる。背中に沙里の額が触れた。
それから湿度のこもった声でただ一言「ありがとう」と呟いた。
幕の中、誰も見ていない。この一瞬だけは二人の秘密になるだろう。隆翔は何も言わなかった。沙里が離れるまで一切動かなかった。
やがて背後から気配が消えると、彼女は既に視界から消えていた。
◇◆◇
撤収作業を終えると、結果発表までは自由時間となった。
ホワイエには夕日が差し込んでいた。ホールの中にいると太陽の位置が分からない。窓の外が少しずつ柔らかい色に変わっているのを見て、ようやく時間の経過を知る。朝、バスから降りた時に肌を刺していた熱はもう薄れていて、会場の空気はどこか落ち着かない温かさを帯びていた。
この大会も終盤に差しかかっている。演奏を終えた学校の生徒たちが、結果発表を待つためにホワイエや客席の周辺へと散っていた。笑っている者もいれば、無言で壁にもたれている者もいる。楽譜を抱えたまま床に座り込んでいる生徒の横を、保護者らしき大人がパンフレットを片手に通り過ぎていく。
演奏は終わった。もう、舞台の上でできることは何もない。あとは結果を待つだけとなっていた。
隆翔はホワイエの端にあるソファに腰を下ろした。
演奏直後の熱は、まだ身体のどこかに残っている。唇にはわずかな痺れがあり、右手の指先にも連符の感触がこびりついていた。
フルートケースはトラックへ預けた。何も持たず、手ぶらで会場を眺めるこの時間が、隆翔は気に入っていた。
通路脇に設置されたグッズ売り場は、かなり賑わっている。目を向けると、川島が買い物かごを片手に、演奏収録CDやらパンフレットやらを次々と入れていた。隣にいる加藤は、止めるべきか見守るべきか分からない顔でその様子を見ている。
「買いすぎじゃない?」
「いいですか葉月ちゃん。ここでしか巡り会えないグッズがあるかもしれないんです!」
「そういうもんかな?」
川島の目は真剣だった。加藤は小首を傾げながら、買い物かごの中身を覗き込んでいる。片方は文化財を前にした研究者のような顔をしていて、もう片方は友達が急に知らない宗教に目覚めたところを見てしまったような複雑な顔をしている。そのコントラストが可笑しくて、隆翔は小さく笑った。
とはいえ、周囲の視線は無視できなかった。
ついさっき演奏した学校だからだろう。通り過ぎる他校の生徒やパンフレットを持った観客からの視線を感じた。
「北宇治の自由曲、難易度高そうなのにめちゃくちゃ良かったね」
「ユーフォとトランペットのソリ、私鳥肌立っちゃった」
「代表どこになるんだろうね。東照も立華も良かったけど、北宇治も可能性は十分あるよ」
良い演奏をしたのだから、反応も上々だった。
話題を攫ったのは、やはり高坂と真由のソリだった。確かにあれは凄かった。練習では何度も彼女たちのコンビネーションを聴いていたが、本番はやはり違った。トランペットは言わずもがな、真由のユーフォニアムには舌を巻いた。秋の夜長の情景が視界に広がった。
演奏中、仲間の音に感嘆の溜息を漏らすとは思わなかった。観客も同じく、その演奏には衝撃を受けたようだ。
悪い気はしないが落ち着かない。北宇治はもう、関西ではその名を知らぬ者はいない強豪校となっている。
その箔の重さを、演奏後のソファで感じていた。
「たーかと」
聞き慣れた声に顔を上げると、水色の制服が視界に入った。
梓と、その後ろに西条花音と美音がいる。双子の二人とは音楽教室で顔を合わせているが、梓を交えての交流は記憶になかった。
「お疲れ。北宇治、すごかったじゃん」
「梓もお疲れ。立華も相当良かったらしいな。ちゃんとは聴けなかったけど」
「聴けなかったの? もったいないなぁ」
「ちょうど楽器を搬入してたんだよ」
梓はいつも通りだった。この間のことなどなかったみたいに、普通に話しかけてくる。
花音と美音が一瞬だけ目を見開いたのが分かった。すぐに取り繕っていたが、無理もない。梓が隆翔に何を告げたか、二人は知っているのだろう。
顔に出さないようにしているのが、かえって顔に出ていた。
「樟葉くん、北宇治の演奏、すごく綺麗だったよ」
「うんうん。サリサリのソロ、めちゃくちゃ良かったし」
控えめな美音の賛辞に、花音も続ける。
「ここに沙里はいないぞ」
「あとで本人にも言うから大丈夫」
相変わらず、花音は勢いで会話を押し切る。
「ありがとう。美音と花音もお疲れ。ちゃんと聴けなかったのは残念だけど、音だけは漏れてきたよ」
「漏れ聴きで褒められてもね」
美音が少しだけ笑う。
「でも、ありがと。立華も、今日はかなり良かったと思う」
「自信満々だな」
「梓ほどじゃないよ」
「え、私?」
梓が自分を指差す。花音と美音が同時に頷いた。
その時、ホワイエに放送が入った。
『関西吹奏楽コンクール高校Aの部は、すべてのプログラムが終了いたしました。結果発表は予定通り、大ホールにて行います。見学される出場校の皆さまは、係員の指示に従ってご移動ください』
緩んでいた周囲の空気が、緊張で塗り替えられていく。ホワイエに行き交う人々の足が再びホールに向かっていた。
梓は放送を聞き終えると、隆翔の方を見た。
「いよいよだね」
「ああ」
「どっちが行っても恨みっこなし。そういうことでいいよね」
「もちろん」
そう答えるしかなかった。北宇治も立華も、全国へ行くためにこの場にいる。友情やら幼馴染みやらで片が付くような甘い場所ではない。ここまで積み重ねたものに答えを出すためにも、隆翔はなんとしても全国へ行かなければならないのだ。
「美音ちゃんと花音ちゃん!」
振り向くと、沙里、小田、中野がこちらへ歩いてくる。沙里は疲れを少し残した顔をしていたが、花音と美音を見つけるとすぐに表情を緩めた。
「沙里ちゃん、お疲れ。ソロ、ほんと良かったよ」
「ほんと、サリサリずるいよ」
「ずるいってなに?」
「綺麗すぎてむかつくって意味。同じフルート奏者としては嫉妬しちゃうわけですよ」
「えぇー、もっとちゃんと褒めてよ」
沙里が笑うと、花音も笑った。美音も二人のやり取りに微笑んでいる。
音楽教室で顔を合わせているだけあって三人の距離感は近い。大会会場で顔を合わせていることが、少しだけ不思議に見えた。
梓が黄前の居場所を尋ねてきたので、隆翔は幹部たちが集まっている方を指差した。
「今頃ロビーのどこかに、秀一と高坂と一緒にいると思う」
「ありがと。じゃ、ちょっと顔合わせてくる」
梓はそう言って手を振った。
花音と美音も軽く会釈し、沙里に「またあとで」と言い残して三人は人混みの中へ消えていった。
入れ替わるように、沙里が隆翔の隣へ腰を下ろした。小田と中野はソファの前に立つ。小田は腕を組み、中野は少し身を屈めて隆翔の顔を覗き込んだ。
「樟葉くん、今日は大丈夫?」
「かろうじて」
「府大会の時、顔死んでたもんね」
「今日はソロじゃなかったから」
「でも、沙里は全然平気そうだよ」
「いやいや、沙里は場数が違うじゃん」
三人にダシにされた沙里は不満げな顔を浮かべた。
「これ、私バカにされてる?」
『してないしてない』
「本当かなぁ」
沙里は納得していない顔のまま、ほんの少しだけ首を傾げた。唇を尖らせる仕草まで含めて、完全に三人のからかいに乗せられていた。
「でも本当に良かった。最後の連符、みんな頑張ったよぉ……」
「ねー、樟葉も府大会みたいに突っ込んでいかなかったし」
「あれは突っ込んだわけじゃない」
「いや、グイグイ行ってたでしょ。巧美ちゃん言ってたよ。心臓止まるかと思ったって」
「大袈裟だな」
「うわ、厳しいなぁ。巧美ちゃんにだけスパルタすぎだよ」
「あんな逸材、そうそう現れないから」
「確かに。来年はファーストかもね」
「十分あり得るよ」
思えば、三年生だけでこうして語らうのはいつ以来だろうかと、この時間がひどく貴重なものに思えた。
結果の出ていない、演奏後の自由な時間。永遠には続かないと分かっているこの貴重な時間を、瓶に詰めてとっておきたい。隆翔はそう、しみじみ思っていた。
不意に、通路の先に真由の姿が見えた。
首からフィルムカメラを下げ、ホワイエをあてもなく歩いている。時々立ち止まっては、会場の掲示や、後輩たちが集まっている様子にカメラを向けていた。彼女がカメラを向けた先と立っている場所。遠目から見ると、その対比が寂しく思えた。
やがて隆翔の視線に気が付いたようで、歩みをこちらに向けてきた。
「黒江さん、お疲れ様」
「うん、お疲れ様。みんな、すごく仲が良いんだね」
「まあ、な……黒江は何してたんだ?」
柔らかく笑って、少し使い込まれたフィルムカメラを見せてきた。
「写真を撮ってたの。関西大会って初めてだから記念に残しておきたくて。そしたら後輩の子たちにも囲まれちゃって」
真由は愉快そうに笑っていた。その顔からは、ついさっき遠目に見えた寂しげな輪郭など少しも窺えなかった。
「黒江さん。ソリ、すごかったよ」
真由は目を丸くした。
沙里の言葉に、小田と中野も頷いた。
「……ほんと?」
「うん、鳥肌立っちゃった。高坂さんと黒江さんのソリを聴いて思ったの。私、こんなすごい合奏の中にいるんだって感動して……。ごめん、ちょっと語りすぎた」
「ううん、そんなことない。ありがとう」
「だからね……黒江さんがソリでよかったと思うよ」
その瞬間、真由の表情が止まった。
笑顔が消えたわけではない。ただ、いつもの柔らかい顔の奥から、初めて見る揺らぎが一瞬だけ覗いた。それは驚きとも、戸惑いとも違っていた。
沙里は気づいていないのだろう。彼女はただ、真由の音を良いと思ったから言っただけだ。
「……そっか」
真由は小さく頷いた。
横髪を指で鋤く。茶色い髪が頬の横を流れ、顔を上げた時にはもういつもの表情に戻っていた。
「ありがとう。そんなふうに言ってもらえるの、嬉しいな」
やがて真由がカメラを持ち上げる。
「ねえ、四人の写真、撮ってもいい?」
「え、私たち?」
「うん。今日、みんなすごく格好よかったから」
「……じゃあ、お願いしようかな」
「うん! じゃあ、みんなソファに座って」
真由の掛け声で立っていた小田と中野が沙里の横に座る。三人掛けのソファがぎちぎちになっていた。
「せまっ」
「樟葉、我慢して」
「絶対そっちから押してるだろ……!」
「押してないよ」
「く、くるしい……」
沙里を挟んで反対側から小田が体を入れている。
隆翔と小田に挟まれた沙里は、抵抗むなしく肩をすぼめながらも、どこか諦めたように笑っていた。
「みんな寄って寄って」
三人はレンズに向かって満面の笑みを浮かべる。隆翔も、せめて浮かないように笑顔を作った。
真由はカメラを構え、片目を閉じてファインダーを覗いた。文句を言いつつも認め合う距離の近さが、レンズの中で一枚の景色になっていた。ずっと、同じ場所で季節を越えてきた人たちの顔を見て、シャッターを押す指が僅かに躊躇いを見せた。
羨ましい、とは違うのかもしれない。けれど、彼女の目がほんのわずかに揺れたように見えた。
「じゃあ、撮ります。笑顔で!」
真由はそう言って、いつもの笑顔に戻った。
乾いたシャッター音が、ホワイエのざわめきに紛れた。
◇◆◇
係員に促され、各校の生徒たちが大ホールへと戻っていく。北宇治もその流れに乗り、まとまって客席へ入った。
期待と不安がまぜこぜになった空間を、まるでマリンスノウのようにゆらゆらと海底に堕ちていく。結果を待つ瞬間というのは、いつもそんな気分にさせられる。
隆翔の隣には沙里が座る。彼女は何も言わず、膝の上で両手を組んでいた。いつもなら結果発表前であろうと何かしら軽口を挟んできそうなものだが、今日ばかりは口数が少ない。膝の上で組んだ手は力が入り白くなっている。舞台袖ではあれだけ飄々としていた彼女も、結果発表の前ではちゃんと緊張するらしい
隆翔はハッとして、周囲を見回した。
座席から見える風景。沙里の一挙手。壇上に並んだトロフィー。当然この会場に来たのは今日が初めてだ。それなのに隆翔の脳内は明らかに視界に映る情景をトレースしている。
そして、強烈な目覚めの前に見ていたモノと一致した瞬間、乾いた笑みがこぼれた。
「ああ、そういうことか」
沙里がこちらを見る。
「何が?」
「いや、昨日変な夢見たんだよ」
「夢?」
「そう、夢。デジャヴってやつ」
一度深呼吸して、夢で見た光景を思い出す。
「まったく同じ景色の中で、
沙里は一瞬だけ目を丸くしてから、露骨に顔を顰めた。
「……縁起でもないこと言わないでよ」
「だから夢なんだって」
「それでも嫌。本当サイテー。結果発表の前に聞きたくなかった」
そう言って、沙里は両耳を塞いだ。冗談でやっているのは分かっていたが、こちらの期待通りに反応してくれるものだから、隆翔は思わず笑いを堪えきれなかった。
「夢の中に、私いた?」
「隣にいたよ」
「どんな感じだった?」
「大号泣。もう、どうしたらいいか分からないくらい」
沙里は「えー」と不満そうに声を漏らし、期待していた答えと違ったとでも言いたげに眉を下げた。
「どうせなら、もう少し綺麗に泣いてたことにしてよ」
「泣き方に綺麗も何もないだろ」
「あるの。大事なことだよ」
そう言って意趣返しのように笑った沙里は、そこでふっと顔つきを変えた。さっきまでの拗ねたような表情は消え、確かな自信が瞳に宿る。
「でも、きっとその夢は正夢にならないよ」
壇上に、審査員と大会役員が並び始める。ざわついていた客席が少しずつ静まり返り、その時を迎えた。
「だって私たち、さいっこうの演奏をしたもん!」
『大変お待たせいたしました。ただいまより、関西吹奏楽コンクール高等学校A部門の審査結果を発表いたします。発表はプログラム順に、学校名、賞の順で読み上げます。なお、全国大会へ推薦される団体につきましては、全団体の賞発表後、改めて発表いたします』
壇上の発表者は、淡々とした声で学校名と賞を読み上げていく。全国大会に進めるのは金賞を獲得した学校のみ。しかも、選ばれるのはその中の三校だけだ。
参加した二十二校の代表者が舞台に整列する。北宇治からも、黄前と秀一がそこに立っていた。
最初に演奏した奈良県の学校は銀、二番目の滋賀県代表は銅。各県で奮闘した学校も、関西大会ともなれば審査はより厳しいものとなる。だから多くの学校は、現実的な落とし所として支部大会である関西を目標にするところが多い。
──本気で全国を目指す。
一見、馬鹿正直にも思えるこの目標に本気で挑んでいるのは、その中でも一握りなのだ。
『五番。大阪府代表明静工科高等学校、ゴールド金賞』
大きな拍手が起きた。
大阪東照、秀塔大学附属に並ぶ大阪三強の一角である明静工科は、下馬評通り金賞を獲った。それでも大きく喜びを露わにしないのは、ここが最終地点じゃないからだ。
緊張は途切れない。むしろ、名前が一つ進むごとに、次の一音へ向かう前のように空気が詰まっていく。
『八番。大阪府代表大阪東照高等学校、ゴールド金賞』
当然だろう、という空気が客席に広がった。昨年から連続で全国を勝ち取っている学校には、今年も同じ結果が求められる。王者と呼ぶに相応しい学校は、鬼門と呼ばれる関西大会をどう見ているのだろうか、と隆翔は訊いてみたくなった。
『九番。京都府代表龍聖学園高等部、ゴールド金賞』
客席の一角から、野太い声が上がった。龍聖の生徒たちが、隣同士で小さく拳を合わせている。京都から来たもう一つの強豪。その演奏は、今日も確かに代表候補としての力を見せていた。
彼らが喜ぶ様をじっと見ていたのが、ついさっき金賞を獲った明静工科のメンバーだ。龍聖は昨年躍進し、彗星のような勢いで全国大会に出場して金賞を獲得する快挙を成し遂げた。その立役者となったのが月永源一郎という人物だった。言わずもがなコントラバス二年、月永求の祖父である。
龍聖が躍進する前年まで、彼は明静工科の顧問を務めていた。面白くない想いを抱いても当然だった。
前任校の意地か。新参の勢いか。
立華と北宇治同様、ここでも因縁に決着を付けるための鍔迫り合いが起きていた。
『十一番。大阪府代表秀塔大学附属高等学校、ゴールド金賞』
金賞校が積み上がっていく。明静、大阪東照、龍聖、秀塔。名前を聞くだけで胃の底が重くなるような学校ばかりだ。けれど、北宇治が全国へ行くには、その中から更に代表の座を奪わなければならない。
『十三番。京都府代表立華高等学校、ゴールド金賞』
その瞬間、客席の一部から大きな歓声が上がった。
水色の制服が揺れる。立華の生徒たちが互いに顔を見合わせ、金賞の喜びに浸っている。ここ数年、関西大会では銀賞に終わっていた立華が、今年はその評価を一段階積み上げた。その意味は、誰よりも彼女たちが分かっているのだろう。
壇上の梓は表情ひとつ変えず、本当に求めている結果だけを待っていた。
ひとつ前の和歌山県代表校が銀賞に終わった。
立華からここまで呆気ないほど時間が早く感じた。まず、北宇治が欲しい色を獲ることが至上命題だ。
夢では、ここで未来が閉ざされた。
振り払おうとするほど、脳裏に浮かぶ情景の中に沙里の慟哭が頭をよぎった。
『十八番。京都府代表北宇治高等学校』
マイクがスッと呼吸音を拾った。
『──ゴールド金賞』
意味を理解するより先に、周囲から安堵の息が漏れた。
まずは第一関門突破。そして昨年の結果に肩を並べた。
隆翔は大きく息を吐いた。ようやく肺が動いた気がした。仲間たちも、喜びきれないまま互いに顔を見合わせている。金賞は嬉しい。その通りだ。
一年生の誰かが「やった!」と叫ぶ。喜びに満ちた姿を川島が一度諌めた。
悪夢は外れた。けれど、これで終わりではない。ここから先は、この一年で積み重なったすべての因縁に決着がつく。
結局、金賞に届いたのは北宇治を含めた六校だった。
『続きまして、来たる十月に名古屋で開催される全日本吹奏楽コンクールに出場する三団体を発表します』
しん、と静まり返ったホール。恐ろしいまでの静寂。少しでも動こうものなら、何かに射抜かれてしまいそうだ。
隆翔の隣で沙里の手が動いた。さっきまで膝の上に置かれていた指が、少し迷ってから隆翔の手の甲に触れる。その手は冷たかったが、掌だけは熱かった。
立華もまた、同じ沈黙の中にいる。壇上にいる梓の姿を見るのが怖かった。きっと彼女は前を向いているだろう。
どちらが呼ばれても恨みっこなし。その言葉が、胸の奥で静かに響いた。
『一校目。五番、大阪府代表明静工科高等学校』
きゃあっ、と叫びにも似た歓声が湧き起こる。
一枚目の切符を手にしたのは、三強の一角である明静工科だ。
拍手と共に、会場が堰を切ったようにさまざまな会話で覆われる。厳しい戦いになることは予想できた。北宇治や龍聖が躍進してきた中でも、さすがは大阪三強と言うべきか、いずれは本格的に復権を目論んで来るのだろう。
発表の瞬間、沙里の手がビクッと跳ねた。うずくまるようにして、彼女は目を強く閉じている。
『二校目。九番、京都府代表龍聖学園高等部』
今度はホールが大きく揺れた。
新進気鋭の男子校である龍聖が二枚目の切符を手にした。生徒たちの雄叫びが天井にぶつかるように響いた。二年連続、今年も全国への切符を掴んだ。昨年、北宇治を押し退けて全国へと駒を進めた実力は伊達じゃないことを証明した。
その歓喜とほぼ同時に、彼らの隣から悲鳴に近い声が漏れた。この会場で、王者の貫禄を見せつけていた大阪東照高校は、龍聖のひとつ前で演奏をした。彼らの咆哮は、東照を蹴落としたことと同義であった。
夏が終わったことを悟り、泣き崩れ、現実を直視できない姿は夢の中の自分たちと重なる。歓喜と悲哀のコントラストを隆翔は長く見ていられなかった。
──残り一枠。
その切符を受け取る権利のある学校は三つ。秀塔大学附属、立華、そして北宇治。
実力を考えれば、大阪三強のどこかと龍聖が代表に入る可能性は高かった。だから最後の一枠を争うのは、北宇治か立華になる。結局、梓が言い当てた通りとなった。
梓は本気で全国へ行くつもりだ。立華の部長として、マーチングと座奏の二冠を掲げて、あの集団をここまで連れてきた。ホワイエで見た自信満々な彼女の顔が思い浮かぶ。あの表情で導かれたら、きっと誰だって付いて行きたくなる。
唇を噛む。北宇治だって完璧な演奏をした。それだけは自信を持って言える。
沙里の手が、今度ははっきりと隆翔の手を握った。さっきまで重ねられていただけだった指が、逃げ場を塞ぐように絡まる。痛いほどではないが、彼女の緊張がそのまま伝わってきた。
──来年、君が全国に行くんだよ。
あれはアンサンブルコンテストの校内予選前夜の出来事だった。
逢魔時を背に、希美が隆翔に託した想い。期待と無念と惜別の積み重なった呪い。
すべてはそこから始まっていた。
『──三校目、最後の学校です』
希美の夢を背負った日から、隆翔の夏は自分だけのものではなくなった。
優子が繋いだ伝統も、夏紀が残した不器用な優しさも、フルートパートで積み上げた時間も、すべて今という瞬間に流れ込んでいる。
梓と交わした言葉も、真由の孤独も、黄前の涙も、高坂の正しさも、沙里の信念も、置き去りにはできない。
この一年で抱えたすべての因縁が、今、最後の一音みたいに胸の奥で鳴っていた。
『十八番、京都府代表北宇治高等学校』
◇◆◇
会場前の広場に並んだ北宇治の部員たちは、みな笑っていた。
黄前は誇らしげに賞状を持ち、隣に立つ秀一はトロフィーを胸の前で抱え、高坂はわずかに顎を引いてカメラのレンズを見つめている。その口元は、わずかに緩んでいた。あんなふうに柔らかく笑うのを、隆翔は初めて見た気がした。
冬服と夏服が不規則に並ぶ集合写真は、決して整然とはしていなかった。互いの違いを抱えたまま同じ場所へ辿り着いた彼らの関係性が、その雑多なコントラストに滲んでいた。
「はい、撮りますよー!」
カメラマンの声が飛ぶ。
沙里は隆翔の斜め前で小田に身を寄せている。目元は泣き腫らして真っ赤になっていた。吉田に至っては、まだ鼻を啜っている。北宇治に進学してくるまで、全国なんてものは縁遠い場所だったに違いない。その現実を受け入れるには、まだ少し時間がかかりそうだった。江藤と中野が、そんな吉田を両側から受け止めていた。
歓喜の声の狭間で、シャッター音が夕方の空に儚く響いた。熱を含んでいたアスファルトは少しずつ冷め始め、空の端には橙色が滲んでいる。
長い一日だった。
北宇治の名前が呼ばれたあと、隆翔は泣けなかった。
とはいえ、嬉しくないということはない。あの瞬間、沙里は皆と喜びを分かち合ったあと蹲るようにして泣いていた。隆翔はその背中をさすって、夢のようにはならずに済んで安堵した。
胸の奥にはじんわりとした熱が広がっていた。達成感に近いだろうか。こんなこと、全国大会金賞を目標にしてる部内で豪語すれば叱られてしまうだろう。だが、それ以外の言葉は見つからなかった。
集合写真が終わると、部員たちはまたそれぞれの輪に散っていった。そこへ、見慣れた三人が現れる。
「黄前!」
大きなリボンを揺らしながら、優子が真っ先に黄前のもとへ駆け寄った。勢いのまま抱きつかれた黄前が、わっと情けない声を上げる。
「先輩、苦しいですって」
「我慢しなさいよ! 全国よ、全国!」
「いや、分かってますけど……」
その後ろで夏紀が肩をすくめる。けれど黄前のそばまで来ると、結局その頭を軽く撫でていた。
それから副部長とドラムメジャーを揶揄い混じりに讃えた。
「高坂も、やったわね」
「……ありがとうございます。でも、目標は全国金なので」
「分かってる。でも、去年を超えてくれたことが何よりも嬉しいの。ありがとう、高坂」
真っ直ぐな賞賛を受けた高坂は、それこそ見たことがないほど顔を真っ赤にして「ありがとうございます」と小さく答えていた。
少し離れたところでは、この光景を滝が微笑ましく見守っており、松本が箱ティッシュを片手に目元を押さえている。
優子たちと一緒に来ていた希美は、いつの間にかフルートパートの輪に囲まれていた。彼女が何かを言うたびに、小さな笑い声が起こった。少し離れたこの場所からでは会話の中身までは分からない。それでも、沙里の表情を見れば、どんな言葉が交わされているのかは大体想像がついた。
最高のソロを聴かせると舞台袖で言っていた彼女は、どこか憑き物が落ちたような顔をしていた。目元はまだ赤い。それでも、希美の前で笑う沙里の表情は晴れやかで、長いあいだ胸の奥に抱えていたものを、ようやく音にして返せた人の顔だった。
ふと、立華のことを想った。
北宇治の席が歓喜の渦に包まれた瞬間、立華の部員たちの中には泣き崩れる者もいたし、ただ前を向いたまま固まっている者もいた。
その中で、梓だけは前を向いていた。
沈んだような顔もせず、誇らしげに壇上で賞状とトロフィーを受け取る姿は立派だった。悔しくないはずがない。ここで名前を呼ばれなかったことで、彼女が掲げたコンクールとマーチングコンテストの二冠という夢は打ち砕かれた。
立華にはこのあと本命のマーチングコンテストが控えている。
梓が入学してから、立華は二年連続で全国金賞を獲っていた。ここで三連覇を狙わないはずがない。明日になれば、きっと彼女はフォーメーションやギミックの練習をしていることだろう。今日の悔しさも、すべて糧にして。
歓喜の輪から少し離れたくなった。
隆翔は誰に声をかけるでもなく、会場前の人混みから離れて歩き出した。建物の影に入ると、広場の喧騒が嘘みたいに収まった。さっきまで自分の周りにあった熱が、背中の向こうへ置き去りにされていくようだった。
胸の中に、澱みのようなものが残っていた。
全国大会を決め、希美の願いを叶えた。沙里も黄前も高坂も報われた。次があることに安堵したに違いない。真由もきっとあのソリに意味を見出せる。今日という日は、間違いなく祝福されるべき一日だった。
それでも、隆翔はその中心に立つ気になれなかった。
真由がソリを吹くように仕向けた。彼女が逃げないように言葉を選び、誘導した。
沙里を自分と同じ側に立たせた。フルートパートの親友でありライバルである彼女を、いつの間にか共犯者にしていた。
決起する二年生たちを見ていながら、その熱を黄前へ向ける材料にした。部長として立たなければならない彼女を、必要だと分かっていて追い詰めた。
梓にも、最後まで正面から向き合えたわけではない。
ただ、隆翔には既に希美がいる。だから仕方がなかったと言えば、きっと言い訳にはできる。誰か一人を選ぶということは、選ばなかった誰かに背を向けることでもある。梓もそれを分かっていたからこそ、恋ではなく勝負として隆翔の前に立ったのだろう。
けれど、分かっていることと、何も感じないことは違う。
今日まで、隆翔は裏側で随分と手を汚してきた。正しいことだけをしてここに立っているわけではない。綺麗な言葉だけで誰かを動かしたわけでもない。希美に全国を見せたい。その一心で、自分から選んだ。選んで、踏み込んで、誰かの痛みに気づきながらも止まらなかった。
だから、その責任を負うのは当然だった。
歓喜に混ざれば、きっと全部が許されたような気になってしまう。全国大会出場という結果の前では、そこへ至るまでにこぼれ落ちたものまで光に塗り潰されてしまう。みんなが笑っている。そのことは嬉しい。嬉しいはずなのに、胸の奥に溜まったものが、祝福という熱に触れて静かに胸焼けを起こしていた。
自分には、あの輪の真ん中で笑う資格があるのだろうか。
そう思った瞬間、足が止まった。
その時、背中に軽い衝撃が走る。
「……っ」
振り返るより先に、細い腕が胸元へ回された。背中に額が押し当てられ、柔らかな髪が制服の襟に触れた。夕方の風に混じって、今朝も嗅いだ香りが鼻腔を通り抜けた。
「捕まえた」
背中越しに、そんな声が聞こえた。
「どこに行こうとしてたの?」
「別に、特にあてもなく」
希美は腕を解かなかった。
少しだけ力を込めて、まるで逃がさないとでも言うように隆翔を抱きしめている。
「みんなはもういいの?」
「……隆翔に声掛けないで帰れないよ」
広場の方からはみんなの笑い声が聞こえている。
不思議なことに、この空間には二人の息遣いしか聞こえていなかった。
「……俺、あそこにいていいのかな」
「どういう意味?」
「全国に行けて嬉しいよ。嬉しいに決まってるんだけど……」
言葉が喉の奥で引っかかる感覚がした。
希美は急かさなかった。背中に額を当てたまま、黙って続きを待っている。
「自分が自分を、許せないんだ」
「…………」
希美は何も言わなかった。絶句したのか、失望したのか。背中越しの希美が受け取った感情が、分からなくなっていた。
「希美との約束を叶えるばっかりで……俺、色んな人を利用した。だから、あまり喜ぶ気になれない」
罪の告白。
歓喜の輪が起こる場所では不適切な言葉に、希美の指先がきゅっと締まった。
それからゆっくりと腕を解いて、彼女は隆翔の前へ回り込む。
夕焼けの光が、希美の横顔を淡く縁取っている。白に近い柔らかな色のブラウス。落ち着いた栗色のスカート。ポニーテールが風に揺れている。
メイクも施しているのか、年齢も一つしか違わないはずなのに、会うたびに大人の女性へ近づいていくのを感じた。
「隆翔」
希美は手をとって、優しく語りかけた。
「ひとりで背負うつもりだったの?」
隆翔は答えられなかった。
「私が言った願いだよ?」
希美の指が、隆翔の手を包む。
「全国に行ってほしいって言ったのは私。隆翔に夢を託したのも私。だから隆翔だけのせいみたいな顔しないで」
「で、でも実際に動いたのは俺であって……」
「うん」
希美は頷いた。
「隆翔が考えて考えて考えて。迷って嫌な役も引き受けてここまで来た。それは事実だと思う。でもね」
希美は続ける。
「それを全部、隆翔ひとりの罪にしないで。私も一緒に背負うから」
「でもっ……」
「それと、私隆翔に怒らなきゃいけないことがあるんだった」
その瞬間、希美の瞳から甘さが少しだけ消えて、隆翔の逃げ道を塞ぐような強い光が宿った。
「もし全国に行けなかったら、私が別れるって言い出すかと思ってたの?」
「それは……」
答えるまで逃すことは絶対になさそうな、隆翔を縛る強い視線を受けた。
「夢の中の私は、こんな目をしてた?」
「……してなかった。なんて言ったらいいのかな。もっと空虚で、興味ないものを見るような感じで」
脳裏に浮かんだ情景を思い出して悪寒がした。
その目を直視するのが怖くなり、隆翔は目線を下げた。
希美の考えていることが分からなかった。怒っているのか悲しんでいるのか。いずれにせよ、彼女は機嫌を損ねている。隆翔はそう判断した。
希美は小さく息を吐いた。
「そんな顔、私が隆翔に向けると思ったんだ」
希美の声が、やけに無感情に聞こえた。
ただ、その声は怒りを無理に押し殺したものではなかった。
「ずっと怖かった。希美との約束を守れなかったらどうしようとか、希美の夢が俺の夢なのに叶わなかったらどうしよう、とか……」
喉の奥で言葉が詰まる。
なんて見窄らしい姿だろう。おおよそ恋人に曝すべきではない、縮こまった背中が恨めしい。
口からついて出てくる言葉は、どんどん情けなくなっていった。
「前みたいに毎日会えるわけでもない。希美が大学でどんな顔してるのかも知ってるわけじゃないから……」
言ってから後悔に襲われた。
責めるようなことを言いたかったわけではなかった。環境が違うのは当たり前で、ずっと受け入れてきたはずなのに、今になって孤独感が押し寄せてくることに理解が追いつかなかった。
希美が託した夢は叶った。喜ばしいことだ。もう、それで良いのではないか。
その諦めを見透かしたように希美は唇を震わせ、自分も隆翔をひとりにしていたのだと悔いるような声で言った。
「逃げないで。私を、置いていかないで……」
掠れた声が鼓膜を揺らした。
「綺麗なところだけじゃなくていい。隆翔が誰かを傷つけたかもしれないって思うなら、それも一緒に背負うよ。私の願いから始まったことなら、なおさら……」
「希美……」
「だから、もっと私を頼ってよ」
プツン、と何かが切れた。
隆翔は希美を抱きしめていた。
力の加減なんて考えられなかった。腕の中にいる彼女が痛がるかもしれないと思う余裕すらなく、ただ逃がしたくなかった。胸の奥に溜まっていたものが、言葉になる前に溶け落ちるようだった。
「ごめん……ごめん、希美……」
その声は掠れてほとんど音にならなかった。
今まで護ってきた価値観、自尊心。そういうモノが、音もなく崩れていった。
「誰かに嫌われるのも失望されるのも、もう嫌だったから……」
「……そんなことで嫌いになんかならないよ」
二人の瞳が初めて交わった。
「私のために頑張ってくれたんだよね。それはすごくすごーく嬉しい。でも、それだけで隆翔のことが好きになったわけじゃない。迷って、抱え込んで、時々びっくりするくらい不器用で、それでも誰かのために音を鳴らそうとする隆翔を、私は好きになったんだよ」
頬が濡れていた。
全国が決まった時には流れなかった。それが今になって堰を切ったように溢れてくる。頬を伝い、顎から落ちていった。
「しんどかった……」
そしてその言葉を、ようやく口にすることができた。
「ほんとに、しんどかった……。何回も無理だと思った。俺が吹いていいのかも、ここにいていいのかも分からなくなるくらい……」
心に塗り固めていた虚勢が、はらりはらりと剥がれていく。
泣き顔を見られるのが恥ずかしくて目を伏せようとしたが、希美の手が頬に添えられ、それを許してくれなかった。
「全国、おめでとう」
希美の瞳も、少し潤んでいた。
「私の願いを叶えてくれて、ありがとう」
胸の奥で、何かが弾んだ。
「今日まで色々背負わせて、ごめんね。隆翔が背負ってくれたもの、私は絶対になかったことにしないよ」
希美が微笑んだ瞬間、視界の奥であの日の夕焼けが重なった。涙を流していたのは希美で、隆翔はその涙をどう受け止めればいいのか分からず、ただ必死に手を伸ばしていた。あの時、抱きしめた体温も、夕焼けに伸びた二人の影も、今になって鮮やかに蘇る。
同じ夕焼けの下、今日は隆翔が泣いていた。
希美の腕が、もう一度背中に回る。胸元へ引き寄せられた瞬間、張り詰めていたものがふっと緩んだ。今日まで背負ってきたものの重みが消えたわけではない。けれど、それを一人で支えなくてもいいのだと、身体が先に理解してしまった。
最愛の人の匂いがした。
隆翔は震える腕を伸ばし、希美の背中を抱きしめ返す。夕焼けの光が滲む中で、希美は隆翔の肩口に頬を寄せ、耳元でそっと言った。
「愛してる」
真っ赤な空の下で、希美は笑っていた。
その微笑みひとつで、今日まで胸の奥に溜まっていたものが、少しずつ別の色に変わっていく。
やったことが消えるわけではない。
傷がなかったことになるわけでもない。
それでも、隆翔はようやく思えた。
またフルートをやって良かった、と。
【つづく】