これより、第12章、全国大会編がスタートします。
本小説もいよいよ佳境に迫っております。最後までどうぞお付き合いください。
EP.53 祝宴と遠雷
天高く馬肥ゆる秋、と形容するにはまだ暑い日が続く九月末。
先月行われた関西大会の余韻はとうに消え去り、夏休みが明けて学校が始まっても吹奏楽部は多忙を極めていた。全国大会出場決定という名声は瞬く間に広がり、府内に留まらず、近畿の有力校との合同練習や学外からの依頼演奏など、スケジュールは着々と埋まっていった。
そんな折、文化祭を盛況に終えた隆翔たちは、束の間の休日を過ごしていた。この日は、かねてより希美が粛々と計画していた祝賀会の日。二人は刺すような陽光から逃れるようにして、京都寺町三条のアーケード練り歩いていた。
「このお店?」
「そうだよ。いい雰囲気でしょ?」
希美は少し得意げに笑った。
通りに面した店先には、落ち着いた色の看板が掲げられ、ガラス越しに整然と並んだケーキが見える。観光地の喧騒から少しだけ外れているせいか、烏丸通に程近い場所でありながら、店の前にはゆっくりした時間が流れていた。
「大学の友達に教えてもらったの。チョコレートケーキが有名なんだって。喫茶スペースもあるし、せっかくお祝いするならこういうところがいいかなって」
「お祝いって、そんな大袈裟な」
「大袈裟じゃないよ。だって一周年と全国出場だよ? 今日は私が祝うんだって決めてるから」
そう言って、希美は扉の取っ手に手をかけた。中からは甘いチョコレートと焼き菓子の匂いがふわりと漂ってくる。どこか懐かしくもある甘い香りだった。
扉の前で立ち止まっていると、すぐにウェイターらしき店員が二人を出迎えた。
「いらっしゃいませ」
「予約してた傘木です」
「傘木様……ですね。お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
指定した席に座ると、手際良くおしぼりとグラスに注がれた水が置かれる。店員の無駄のない動きに、なぜか背筋が伸びた。
「ご注文はご予約の際に伺ったメニューでよろしいですか?」
「あ、はい。それでお願いします」
畏まりました、と一礼してウェイターは下がっていった。注文を眺めるでもなく、既に決まったコースがあるのか、隆翔は目の前でにこにこと表情を変えない恋人を見据えた。
「ふふ、そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
「……でも、こういうところ、あまり入ったことないからさ」
「あはは、そういうところは高校生だねえ」
「くっ……言い返せない」
店の中はシックな木目調に彩られ、うさぎやリスなどの小動物が模られたアンティークが、店内を可愛らしく落ち着いた空間にしている。そんな空間に、希美はよく馴染んでいた。
高校の頃は活発で笑顔の絶えない女の子だったが、今は大人っぽく落ち着きのある女性へと成長していた。環境が変われば、半年でこんなにも変わってしまう。そこには変貌を遂げ、魅力あふれる姿を見届ける楽しみもあれば、時間経過の中に取り残された残影への儚さがあった。
「なかなか予定を合わせられなくてごめんね。関西からもう一か月経ってるし、記念日だって……」
そう、二人の記念日とは、昨年の関西大会があった日だ。今年はというと、希美は大学のサマーコンサートに向けた練習が佳境に入っており、隆翔は高校模試の当日だった。この日二人がしたことと言えば、寝る前にひそひそと取り止めのない長電話をした程度。隆翔の中で、記念日を祝えなかったことへの罪悪感が募っていた。
「気にしないで。私もサマコンとかあって忙しかったから。お互い様だよ」
「女子って記念日とか大事にするイメージだから、後から何か要求されるのかと思った」
「そんなことしないよ。でも……見返りはあってもいいかなって」
テーブル越しに希美の顔がすっと近づく。この席はウェイターや他の客からは死角になりやすい位置。何をしているのかは、遠目からではまず分からない。
希美の挑発的な視線に射止められる。鼻腔をくすぐるパルファムは海に行った日と同じものだ。それだけで、海岸線に広がる白い浜辺が頭の中に広がった。
「…………っ!」
首筋に希美の細い指が触れる。こそばゆい感触が隆翔を襲う中、もっと別の感情が迸る。このまま柔らかな感触と共に籠絡されてしまおうか、と思った矢先、隆翔は海の情景と紐づいた出来事が気になった。
「そ、そう言えば優子先輩たちと旅行に行ったんだっけ?」
「……そうだけど、それが何?」
「何って……そんなことを電話で話してたなって」
「カノジョとのデート中に他の女の話をするの?」
「マナー違反は重々承知の上だけど、高校生としては公序良俗は守っておいた方がいいかな、と……」
「ふーん……公序良俗に反しなければいいんだ」
「そうは言ってな……くないです。はい……」
昂ぶる感情に冷や水を浴びせられた希美は、抗議の視線を送りながら隆翔へ圧をかけた。当然、隆翔としても意地はあるが、希美の前では吹けば飛ぶようなちり紙同然だった。
「うん、行ってきたよ。夏紀と優子に運転してもらってね。みぞれがパンダを見たいって言うから、和歌山といっても白浜にだけど」
「いいね」
「あと温泉にも入った。海の見えるとこでね、夕日がすっごく綺麗だったんだ。ホラ見て」
差し出されたスマートフォンに映った思い出たち。優子と夏紀、みぞれもだが、早くも大学生の雰囲気を纏っているように感じる。圧倒的に増えた
「今年の夏はかなり充実してたよ。海に行って旅行も行って、あとはオケとバイト三昧だったけど」
「いいじゃん。楽しかったならさ」
「まあね」
大学生になっても、希美は充実したスケジュールを過ごしている。高校生とは違った忙しさの中に身を投じる彼女の姿は、そんな目まぐるしく移ろう日常の中にあっても眩しく見えた。
半年後、隆翔も大学生になる予定だ。まだそんな想像に至れるほど見通せた未来でもないが。
「そういえば模試の結果来てるでしょ。どうだった?」
「ちょっと待って。はい、一応B判定」
「おお」
スマートフォンに保存されていた判定表を見てから、希美の瞳がわかりやすく輝いた。
家庭教師のバイトを始めてから、彼女は以前よりも受験の話に対して現実的な反応を示すようになった。高校時代の希美なら模試の結果を聞いても「へえ、すごいじゃん」で済ませていたかもしれない。けれど今は、判定や偏差値、科目ごとの数値まで分析する。教える側の目をしていた。
「順調じゃない? 今の時期でこれなら良い傾向だよ」
「油断できるほどじゃないけどね」
「それはそうだけど。でも、ちゃんと勉強してる証拠だよ。評定は?」
「七月の時点で平均四・四」
「え、すごい。四月より上がってるじゃん」
「まあね。全国大会まで部活が続くと分かってるから当然力は入れてる」
「ほんとに偉いね。私なんか、変に迷って遠回りしたから、余計にそう見えるよ」
希美が満足そうに頷く。音大に行った希美の姿を想像しない訳ではないが、何より彼女自身が今の進路に充足感を得ている。隆翔はそれで十分だった。
「科目は?」
「現代文と日本史は安定してる。もともと文系は得意だし、そこはまあ」
「数学は?」
「めっちゃ良いって言えるほどじゃないけど、足を引っ張るほどでもない」
「英語は?」
「……希美先生のおかげで、前よりはマシです」
「ふむふむ、よろしい」
希美はわざとらしく胸を張った。
夏に何度か教えてもらった英語の長文読解や文法の癖を思い出す。最初は家庭教師の真似事みたいなものだと思っていたが、希美は教えるのが上手かった。どこで躓いているのかを探るのが早く、間違えた箇所を責めるより先に、どう読めば引っかからずに済むのかを教えてくれた。
「でも、全国大会が十月末でしょ」
「うん」
「それだと、普通の受験生より時間に余裕はないね」
「そうなんだよねえ……ぶっちゃけ正面突破しかないと思ってる」
「うーん、それだけだと不安だなぁ。個人的には無策で挑んでほしくはないんだけど」
希美は頬杖をつきながら、困ったように笑っている。
その表情に隆翔は肩の力が抜けた。部活でもクラスでも模試や定期考査の話が飛び交っている。どこにいても何かに追われているような気がしていたが、希美の前でなら、その焦りも少し違った形で口にできた。
「それで、志望校なんだけどさ」
「うん」
「向日美大学の商学部に一本化しようと思ってる」
「……ほんとに?」
希美の声が、少しだけ小さくなった。
驚いているようでもあり、嬉しさを隠そうとしているようでもあった。
「一応、前から考えてはいたんだ。オープンキャンパスにも行ったし、カリキュラムも悪くなかった。家から通える距離なのもあるし」
「うん」
「それに……希美もいるし」
言ってから、余計なことを言った気がして視線を逸らす。希美は少し黙ったあと、ふっと柔らかく笑った。
「最後のが一番の志望動機だったりする?」
「……そうだけど」
「へえ~、そうなんだ」
「ニヤつかないで」
「ニヤつくでしょ、うれしいもん。あ、でも面接ではそれ言うのやめてね」
「当たり前だろ。ちゃんと別の動機もあるんだから」
「ならいいや。私がいるからってだけで決めたなら、さすがに怒るところだった」
希美はそう言って、恋人の顔から先輩らしい態度を垣間見せた。
年齢は一つしか違わないが、こういう時の彼女はやけに遠く見える。高校を卒業し、自分の生活を少しずつ形作っている。隆翔はまだそのスタートラインにも立っていない。だが、今はその距離が寂しいだけではなかった。そこへ行けば再び彼女の隣を歩けるのだと思えるくらいには、未来が輪郭を持ちはじめていた。
「お待たせいたしました」
会話が途切れたところで、ウェイターが静かに戻ってきた。白い皿の上に置かれたチョコレートケーキを見て、隆翔は思わず目を瞬かせた。
「……おっきい」
「ふふ」
希美が得意げに笑う。
一人用とは思えない大きさだった。隆翔の手よりも大きな円形のチョコレートケーキは、艶のあるグラサージュで覆われ、天井の照明を淡く映している。皿の余白には細いチョコレートで文字が書かれていた。
──全国大会出場おめでとう。
その文字を見た瞬間、胸の奥がゆっくりと温かくなった。
大袈裟じゃないよ、と言った希美の声が蘇る。彼女は本当に、今日という日を祝うためにここまで用意してくれていた。店を選び、予約をして、プレートの文字まで頼んでくれた。その一つ一つを思うと、言葉にする前に何かが込み上げてくる。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
希美は満足そうに目を細めた。
「写真撮ろうよ」
「写真?」
「うん、記念にさ。こういう思い出は残したくなっちゃうんだよね」
そう言って、希美はスマートフォンを取り出した。
席を少し寄せ、肩が触れる距離まで近づいてくる。甘いチョコレートの香りと、彼女の髪からふわりと漂う香りが混ざった。画面の中には、少し照れた顔の自分と、嬉しそうに笑う希美と、皿の上の祝いの言葉が収まっている。
「笑って」
「これでいいだろ」
「だめ。もっとちゃんと」
「……難しいな」
仕方ないので、普段あまり使わない表情筋に頑張ってもらう。やがてシャッター音が鳴った。
希美は撮れた写真を確認して、小さく頷く。
「うん、いい感じ」
「変な顔してない?」
「ちょっと照れてる」
「消して」
「消しません。記念だから」
即答だった。彼女の中で、これはもう保存されるべき思い出になっているらしい。少し恥ずかしいが、それと同じくらい嬉しかった。
希美がSNS用に単体で撮ったあと、フォークを手に取り、さっそくケーキの端を慎重に切り分ける。艶やかなチョコレートの層がすっと沈み、中から濃い色のスポンジとクリームが現れた。
一口運ぶと、チョコレートの深いコクが鼻をくすぐった。濃厚なのに重すぎず、ビターな香りがゆっくり舌の上に広がっていく。後からベリーソースのほのかな酸味が追いかけてきて、飲み込んだあとも余韻が残った。
「……美味しい」
「ほんと?」
希美も自分の分を口に運ぶ。
次の瞬間、目を丸くしてから、両手で頬を押さえた。
「おいしい……」
「どう、レビュー以上?」
「うん。予想以上だ」
そのあまりに素直な反応に、隆翔も思わず笑みが溢れた。
希美は頬を押さえたまま、もう一口を惜しむようにフォークで小さく切る。普段は活発で、思ったことをすぐ言葉にする彼女が、今だけは味を逃がさないようにゆっくりと噛み締めていた。
「美味しいな」
「本当? 連れてきて正解だったな」
店内には低く抑えた話し声と、食器が触れ合う小さな音が流れている。外のアーケードを歩く人の気配はガラス越しに遠く、ここだけが少し時間から切り離されているようだった。
考えなければならないことは山ほどある。でも、今だけは目の前のケーキと、向かいで頬を緩める希美の姿を見ながら、この多幸感あふれる時間を堪能していたかった。
「隆翔」
「ん?」
「改めて、全国大会出場おめでとう」
「……あ、ありがとう」
「それと、一年間一緒にいてくれてありがとう」
「俺もそうだよ」
「じゃあ、隆翔もちゃんと言って?」
希美が悪戯っぽく笑う。
逃げ道はなかった。隆翔はグラスの水を含み、妙に整わない呼吸をごまかしてから希美をまっすぐ見据えた。
「一年間ありがとう。それと……こ、これからもそばにいてほしい」
「……うん!」
希美は満足そうに頷いた。
「こちらこそ、これからもそばにいてね」
フォークの先でチョコレートの欠片を拾いながら、隆翔は小さく頷いた。
確かな幸福がそこにはあった。熱に浮かされるようなものではなく、掌に乗せても壊れないような、ささやかで掛け替えのない時間。見失わないように、ちゃんと言葉にしないといけない。そう思いながらも気の利いた言葉が見つからない自分が、今は少し情けなくなった。
喫茶店を出た二人は、三条大橋を経て鴨川のほとりに出た。川辺に吹く風は、街中にいる時よりも幾分か涼しい。シースルーのカーディガンを纏った希美は、どこか夏の忘れ形見のようにも見える。
二人がしたことといえば、他愛もない世間話。だが、それが逆に心地よかった。
「そしたらその子、コマの計算間違って単位危なかったんだよ。レポート提出もギリギリだって言うから手伝ったんだけど、なんとか間に合わせたし」
「うへえ……話を聞くだけでも大変そう」
「慣れちゃえばどうってことないよ。履修登録も分からない時は先輩とか友達に聞けばなんとかなるし」
「高校と全然違うな」
「全然違うね。自分で決めることが一気に増える感じ。授業もそうだし、空きコマの使い方とかもね」
「そういう時間って、実際何してるの?」
「友達とご飯食べたり、課題やったり、サークルの練習室に顔出したり。あと、何もしないでぼーっとしてる人もいるよ」
「そんなもんなんだ」
「そうだよ。私もたまにそうしたくなるよ」
希美はそう言って、少し得意げに笑った。
進学先を希美の大学にすると言ってから、会話もどこか弾んで聞こえる。内容も大学のことが多い。希美なりに、キャンパスライフへの想像を膨らませようとしているのだろう。その思惑通り、段々と隆翔の中で大学生の自分の姿が思い浮かぶようになっていた。
「サークルとか考えてるの?」
「うーん。フルートは続けたいと思ってるから、希美と同じオーケストラサークルに入る予定」
「やっぱり? 私もそれがいいんじゃないかって思ってたんだ」
希美は少し前を歩きながら、川面へ視線を向けた。午後の日差しを受けた水面が細かく揺れている。川風が運んだ土の匂いを感じながら、遊歩道の上でゆっくり歩を進めた。
「あ、でも……」
「でも?」
「……うちのオケ、九割以上が女子なんだよね」
「そ、そんなものじゃないかな、吹奏楽なんて」
「まあ、私もそう思ってたんだけど」
希美はそこで足を緩め、横目でこちらを見る。表情は柔らかいが、その目は笑っていなかった。
「……隆翔、モテるからちょっと複雑」
「ええ……」
「何、その反応?」
「いや、自覚ないっていうか……」
「本人には分からないんだよ。鈍感なふりしてころっと他の女の子を振り向かせるんだから」
「もしかして、信用ない感じ?」
「信用はしてるよ」
希美は間髪入れずにそう言った。そして僅かに唇を尖らせ、冗談めかした声で続けた。
「でも、信用するのと心配しないのは別だよ」
「心配って……」
「だって隆翔、絶対大学でも女子に囲まれるタイプだもん。話しかけやすいし、頼られたら放っておけないから」
「そんなことないって」
「あるよ。沙里ちゃんのことを見ててもやっぱりそう思う。本人は普通にしてるつもりでも、隆翔とは一番距離が近いから」
「……それは」
名前を出されて、思わず言葉に詰まった。
本気で責めているわけではないことは分かる。それでも彼女の口から名指しを受けると、背筋のあたりが凍る感覚があった。
「別に怒ってるわけじゃないよ」
「本当に?」
「本当だよ。隆翔が浮気するとは思ってない」
「ならよかった」
「でも、だからって油断していいとも思ってない。強いて言えば牽制、みたいな」
「はぁ……」
希美は何でもないことのように言った。
あまりに自然に言うものだから、隆翔はしばらく返事ができなかった。
「誰を牽制するの?」
「半分は隆翔に。もう半分は、隆翔の周りで
「蠢くって」
「でも本当だもん。油断も隙もないんだから」
高校の頃よりも大人びて見えても、そういうところはあまり変わっていない。みぞれの才能にじくじくとした嫉妬を抱いていた、あの夏のように。
「急にどうしたの?」
「……ずっと前から思ってたよ。隆翔は人の懐に入るのが上手いじゃん? しかも弁えながらできるから、それはとても良いことだと思うの」
「そんな器用な人間じゃないと思うけど……」
「器用じゃないから厄介なんだよねぇ」
希美の言葉を理解するには、少し時間を要した。その姿を見た彼女は苦笑しながら、その鈍さを含めた隆翔の本質を捉えていた。
「隆翔、基本的に困ってる人とか放っておけないタイプでしょ」
「うん、まあ……」
「相手が女の子でも男の子でも、例外なく踏み込むところは踏み込むし」
返す言葉がなかった。
人助けは大事なことだ。両親からもそう教育されていた。だが、それは時として厄介な結果を招くこともある。
「私も、隆翔のそういうところを好きになったから。でも、好きだからこそ心配にもなる」
「……ごめん」
「ううん、謝らないで。ただ、覚えててほしいだけ」
「何を?」
「私も結構嫉妬するよってこと」
希美はそう言って、こちらを見上げた。
冗談めかした口調だったが、言葉の節々にはそれだけでは済まないことも見えていた。これから先に待っている新しい生活の中で、自分の隣に誰がいるのかを忘れるなと釘を刺されているようだった。
「……覚えておきます」
「よろしい」
希美は満足そうに頷くと、前を向いて歩き出した。
川沿いの道には、散歩をする老夫婦や、自転車を押して歩く学生の姿があった。語らうカップルは川縁に腰を下ろし、等間隔で並んでいる。橋の上から見たそれは、いつしか雑誌に掲載されるほどの名物となっている。
「そうだ。みぞれなんだけどね、来週大学でコンサートやるんだって」
「へえ、そうなんだ」
「うん。優子と夏紀も行くんだけど、あと久美子ちゃんと高坂さんも誘ったって言ってたかな」
「あっ……そう、なんだ」
あからさまに反応が変わったのを見て、希美は苦笑いを浮かべた。
「でも、どうして黄前と高坂が?」
「優子が言うには、音大志望の高坂さんが、演奏等々を参考にしたいからって。久美子ちゃんは高坂さんが誘ったんだって」
「なるほどね」
「……その様子なら、誘わなくて正解だったかな」
「まあ、どうしてもって言うなら行くけど」
「演奏会も今回だけじゃないから、また今度行こうね」
「そうする」
関西大会前に起きたすったもんだの騒動は、結果的に三人の関係を進展させた。双方向に苦手意識はあるものの、隆翔に集約された意見や訴えが二人にとって無視できない存在であることが示唆されてからは、二人の隆翔に対する見方は少しだけ変わったと言える。
劇的な変化はないが、隆翔が動いたことによって本来埋もれるはずだった言葉が幹部に届いた。それは事実としてそこに存在した。
「本当、ここまで色々あったよ」
「部活のこと?」
「うん」
府大会からの騒動の経緯も含めて、隆翔は希美に打ち明けた。部の運営が一筋縄ではいかないことは、希美が一番よく知っている。あらゆる人を巻き込んで、巻き込まれて、北宇治はなんとか薄氷の希望を繋いで全国大会の扉を開いた。その中には当然、黒江真由の話も含まれた。
「……そんなことが」
事の顛末を訊き終えた希美は、嘆息しながら呟いた。希美という存在の大きさ、その影響力が衰えていないことも含めて、彼女も戸惑いながら聞いていたに違いない。
「後輩がご迷惑をおかけしました」
「なんで希美が謝るのさ」
「うーん、ケジメってやつかな。私もびっくりしてるけどさ」
「カリスマ部長の影響力は健在だね」
「その彼氏にも皺寄せがいく程度にはね」
自分のこと、他人のこと。放っておけない性格同士、誰かの力になりたいと思うのは当然で、隆翔はまだ解決されていない問題についても思うところがあった。
「次のオーディションはいつになったの?」
「再来週の日曜日」
「あまり時間がないね」
「いつものことだよ。一筋縄ではいかないのはいつものことだし」
「例の転校生のこと?」
「うん、まあ……」
「……どうして言い淀むの?」
「いや、さっき牽制されたから話題にしにくいじゃん」
「もう、それはさっきの話でしょ。今は別の話題じゃん」
女心と秋の空というべきか、その心変わりに隆翔は足を掬われかけた。
「オーディションを辞退したがってる話だっけ?」
「ああ、うん。どうして頑なに言い続けるのか、その本心がまったく見えない。前の学校でもそうだったのか、単純に事情があるからなのか。でも、マイ楽器を持ってたら普通は上手くなりたいっていう向上心と探究心が芽生えるはずなんだよ。でもあいつには一切そういうものが見えてこない……」
コンクールで真由の実力を発揮させるというミッションは、今回の結果をもってほぼ完遂された。
しかし、それは同時に真由の内面に触れることにも繋がった。誰とでもフラットな関係を貫く姿は、自分が転校してきた立場であることを自覚しているかのようであり、逆に言えば誰にも核心へ踏み込ませないという意志を感じていた。
悩める隆翔を横目で見ながら、希美がポツリと呟いた。
「上手だからこそ、じゃないかな」
「どういうこと?」
「きっと、その子は自分の実力を十分理解してると思う。それが北宇治にどう響いてしまうかも。あのソリを聴いててね、あのユーフォは調整する力があるなって思った。あの高坂さんを相手にして揺るがない演奏ができるのは凄いよ。きっと、久美子ちゃんはああいう演奏はしない。それが決して悪い訳じゃないけど、府大会で久美子ちゃんが受かって関西がその子だったっていうことは、隆翔が表面化させたかったその子の実力に、滝先生も賭けたんじゃないかなって」
「滝先生は、黄前の技術力より黒江の調整力を選んだと」
「言い方を選ばなければね。しかも、実際あの子は注目されるほどの演奏をした。会場でもたびたび話題に上がる程度にはね。隆翔はミッション達成して、北宇治は金賞獲って悲願の全国大会出場。その影に、部員と幹部の間を取り持った隆翔というキーマンの存在」
「あまり持ち上げないでほしいな」
「でも本当のことでしょ。言わなくても、きっと吹部のみんなが思ってるよ。隆翔がいなければ全国行きは無かったってね」
何とも言えないむず痒さが隆翔を襲った。北宇治を立て直す。隆翔はそのきっかけを作ったに過ぎないと本気で思っていた。いま、ここで希美に言われるまでは。
「そんなこと、ないだろ」
「そう思いたいんだよね」
「……希美」
「責めてるわけじゃないよ。ただ、隆翔が思ってるより、隆翔のしたことは大きかったんだよって話」
希美は川面へ視線を移した。 浅く流れる水が傾き始めた光を細かく砕いている。対岸を歩く人影はどこか遠く、川の音も街の喧騒も今だけは少し薄まって聞こえた。
「でもね、その子にとっては、それが怖いんじゃないかな」
「怖い?」
「自分が吹いたことで久美子ちゃんが傷ついて、部の空気が変わってみんながその子のことを見るようになった。きっと本人も分かってるんだよ。自分の音が周りを動かしちゃうこと」
「……そんなに自覚してるようには見えないけどな」
「逆じゃない?」
「逆?」
「自覚してるから、何でもないみたいに振る舞ってるのかも」
その言葉に、隆翔は返す言葉が見つからなかった。
真由の顔が浮かぶ。柔らかな笑顔を浮かべながら、誰に対しても一定の距離で接している。輪に入ろうとする素振りはあっても、その一歩が遠いのか、いつも写真を撮る側に回っている。 それを隆翔はどこか不気味だと思っていた。 けれど希美は、その輪郭の向こう側に別のものを見ていた。
「それは……あいつが何かに怯えているってこと?」
「多分ね」
「何に?」
「選ばれることじゃない?」
「……?」
「普通は上手いって認められたら嬉しいじゃん。ソリに選ばれたら、すごく誇らしい気持ちにもなる。もちろんプレッシャーもあるけど、それでも吹きたいって、私なら思うな。でも、その子は違った。きっと、選ばれ続けてきたからこそ、その子は怖くなっちゃったんだと思う」
希美の解釈は的を得ているように思えた。隆翔には思いもよらぬ発想だった。
選ばれ続けてきたからこそ壊れてしまった。 選ばれたことも、選ばれなかったことも経験した希美だからこそ行き着いた結論だった。
「何があったんだろうな……」
「それは本人に聞いてみないと分からないよ。私はどっちかと言えば選ばれたい側の人間だしね」
そこまで明確な言葉にはできていなかった。
上手いなら吹けばいい。選ばれたなら責任を持て。そう言い放つのは簡単だった。
「俺は、どうすればいい……?」
ひどく弱々しい声だった。
隆翔は真由との約束通り、彼女を焚き付けた責任を取らねばならない。
すべてを完遂したと思っていた。けれど、真由の立場に立ってみれば、何一つ終わっていないことは明々白々。そこに気が付かなかった自分が、何より恥ずかしかった。
「もし、隆翔がそうしたいなら、最後まで見届けるべきだと思うよ」
「………」
「うーん、難しい顔をしてる。そしたら、全部隆翔が背負うことないよ。みんなにも責任を取らせたらいいんじゃない?」
「責任……どうやって?」
「そこから先は自分で考えないとダメだよ。今年の北宇治のことは全然知らないし、私たちとは違うやり方で廻ってるでしょ」
希美の解釈の全容を
「大丈夫、どんな結果になっても私はずっと待ってるから。がんばって」
希美はくしゃりと笑った。
川面を撫でる秋の匂いを帯びた空気が、胸の奥に残っていた迷いを少しずつ晴らしていく。
「ありがとう。ちょっとだけ胸が晴れた」
「そう? それなら良かった」
「うん」
まだ何も解決していない。
真由のこともそうだが、全国大会までになんとかしないといけないことは他にもある。それでも、希美の隣でこうして歩いていれば不思議と自信が湧いてくる。根拠のない自信を抱くのは好きではないが、それでも前を向いてと言われているような気がした。
隆翔は川面から視線を戻し、ふと思い出したように口を開いた。
「そうだ。大会の少し前なんだけど、また会えないかな?」
「うん、全然いいけど。デートしたいの?」
軽く首を傾げた拍子に、髪が肩から滑り落ちる。秋の風に揺れる髪を直す姿が妙に色っぽかった。
「いや、デートというか……父親が帰国する」
「お父さん? ドイツに行ってるんだっけ?」
「うん。毎年この時期に帰ってくるんだよね」
「そうなんだ……良かったね」
いつも父親が家にいない。希美には想像もつかないことだった。
「それに合わせて、うちに来ない? 両親に希美を紹介したい」
その言葉を聞いた瞬間、希美の歩みがぴたりと止まった。
数歩先へ進みかけた隆翔は、慌てて振り返る。希美はなぜか固まっていた。目を見開き、頬がみるみる赤く染まっていく。
「……希美?」
「ま、まさか、そういう報告をするため……?」
震えた声で言われて、隆翔は僅かに遅れて意味を理解した。
両親がいる家に恋人を呼ぶ。しかも父親は海外赴任先から帰国したばかり。状況だけ並べれば、たしかに妙な重さを帯びている。
「……えっ、いや違うってば!」
「違うの?」
「あ、いや、あまり違わないのかな、この場合……」
「違わないの⁉︎」
希美の声が一段と高くなる。
通りすがりの学生らしき二人組がちらりとこちらを見た。隆翔は思わず声を落とす。
「いやっ、そういう意味じゃなくて。希美とずっと一緒にいたいって思ってるよ。それは本当だけど」
「う、うん」
「でも、今すぐどうこうって話じゃない。前に俺の家に来たいって言ってただろ。だから、どうせなら父さんがいる時がいいのかなって思っただけで」
「それってもう……そういう報告みたいなものじゃ……」
「流石にまだ高校生だから、早とちりもいいところでしょ」
「そ、そっか……流石にね」
希美は胸元に手を当て、ふう、と小さく息を吐いた。その妙に大袈裟な仕草を見て隆翔は小さく笑った。
「そんなに焦る?」
「焦るよ。だって、急に真面目な顔で両親に会ってほしいとか言うから」
「そんな真面目な顔してたかな」
「してたよ!」
「それは……ごめん」
希美は少しだけ恨めしそうに見上げてきた。
その顔もまだ赤い。先ほどまで静かに語っていたとは思えないほど、今は年相応にうろたえている。その落差に、隆翔は少しだけ救われた気がした。
「でも、嫌なら無理しなくていい」
「ううん、嫌じゃないよ」
食い入るような即答に、今度は隆翔が言葉に詰まる。
「いいのか」
「うん。緊張はするけどちゃんと会ってみたい。お父さんって、どんな人?」
「うーん、フツーの人だな。背は俺よりちょっと高い」
「え、隆翔より高いの⁉︎」
「大学までスポーツやってたから。あと、俺よりは社交的だと思う」
「あはは、じゃあ安心かな」
希美は小さく笑った。
緊張をほどくような笑い方だった。先ほどまでの赤みはまだ頬に残っているが、表情は少しずついつもの柔らかさを取り戻していく。
「ドイツってなにが有名なのかな」
「どうして?」
「だって急に会うってなったら話題とか困るじゃん。だから少しくらい知っておいた方がいいかなって」
「別に、適当に話し合わせればいいと思うけど」
「もう、分かってないな。隆翔はそれでいいかもしれないけど私はそうじゃないんだよ?」
希美はわざとらしく頬を膨らませた。
「名前は忘れたけど、ちょっと変わった焼き菓子とかチョコレートとかかな。あと母さんによく本場のビールとかワインとか贈ってた気がする」
「へえ〜、仲良いんだね」
「普通だと思うけど」
「でも、なんかいいね。そういうの」
はにかむ希美に、隆翔は一度だけ頷いた。
隆翔の父がドイツに転勤したのは小学四年生の頃だ。本人はかなり悩んだそうだが、「必要とされているなら、その想いに応えないと」という母の鶴の一声でドイツへの単身赴任が決まった。隆翔自身、最初の一年は父のいない生活に寂しさを覚えて仕方がなかった。しかし、母は強かった。父がいないことへの弱音は聞いたことがない。そして小・中・高と一人息子を育て上げた。高校三年生になった今、隆翔はようやくそのありがたみを知った。
地球の反対側にある由縁のない国で暮らす父も凄いが、母もまた凄かった。
「隆翔は行ったことあるの?」
「一回だけね。フランクフルトって街でサッカーを観て、お城を観に行ったよ」
ドイツに行ったのも小学生の話だ。時が経つにつれて、記憶の輪郭はどうしても薄れてしまう。
「隆翔の家に行くって、ちょっと特別だね」
「父さんも母さんも喜ぶと思う」
「そうだといいな」
「たぶん希美の方が俺より気に入られる気がする」
「それは過言でしょ」
「あながち過言じゃなさそうなんだよねぇ……」
両親と希美を会わせたら、きっと意気投合するのは間違いない。隆翔は希美と同じくらい家族が好きだ。好きな人たちが仲睦まじくする食卓を思い浮かべる。緩みそうになる口元が緩みそうになるのを必死に抑えた。
「日程分かったら連絡するよ」
「分かった。ちゃんと空けておくね」
二人はまた歩き出した。
希美が自分の家の玄関をくぐる日がくる。そう思うと、まだ形にならない未来がほんの少しだけ温もりを持った気がした。
◇◆◇
希美との逢瀬から数日が経った。
全国大会に出る五十五人を決めるオーディションは、十月に入ってすぐの日曜日に行われる。そして結果はその週に発表されることになっていた。
メンバーが決まってからは予定が目白押しだ。同じ週には本番さながらの雰囲気を想定して市内のホールを借り切って練習が行われる。府大会の前にも同じ理由で使用していた。
吹奏楽部員としては、他のことに目を逸らしている暇はない。しかし、大学入試という現実はひたひたと足音を立てて近づいてきていた。夏休みが明けてから、クラスの雰囲気はいよいよ受験モードに突入した。休み時間も惜しみながら赤本や資料集を開いている人が増えた。このクラスになった頃に漂っていた空気は消え去り、張り詰めた雰囲気が支配していた。
「おいおい嘘だろぉ……」
隆翔の机に突っ伏しながら沈んだ声を漏らした滝井倫也は、手にした紙片を見ながらどんよりとした空気を漂わせていた。
その様子に、北浜由佳里と隆翔は目を合わせて哀れみの溜息をついた。
「これは……あまりに悲惨ね」
「普通、この時期に成績下げるか?」
青い顔をした滝井が持っているのは、九月の頭に行われた模試の結果だ。判定欄に太字で「C」と書かれた文字が、やたらと目を引く。
「やばいってマジで……親にも塾の先生にも絶対にキレられる」
「御愁傷様。でも終わったことは仕方がないだろ」
「そうよ。これが受験本番じゃなくて良かったじゃない」
「クソ、成績優秀者はこれだから……」
「スポーツ推薦で行こうとしてる癖に何言ってんだ」
「インハイ終わって時間ができたと思ったら今度は勉強、塾、模試……せめて休みがほしい」
「贅沢な悩みだな。念願の全国まで行ったんだから十分報われただろ」
「いや、それとこれとは別問題だって。部活終わった瞬間受験生扱いだからな。先生も親も容赦ねえし」
「当たり前でしょ。もう九月なんだから」
「そういう樟葉はどうなんだよ。まだ大会残ってるくせに余裕そうじゃん」
「余裕なんてないよ。勉強は勉強でちゃんとやってる」
「その台詞が腹立つんだよなぁ。部活も勉強も両方こなしてる奴の言うことは違うわ」
「日頃の行いの差でしょ」
「北浜は冷たいぜ。他人事だと思って」
『いや、他人事だから』
滝井の恨み節に隆翔と北浜は同じ言葉を並べた。
「ハッピーアイスクリーム! って、言わないんですか?」
「……へ?」
二人の様子を見ていた川島緑輝が、突然謎の呪文を唱えた。
「川島さん、それってなに?」
「はい。お二人は今、同じ言葉を言いましたよね。そこですかさず『ハッピーアイスクリーム!』と唱えるのです。先に言った方がアイスを奢ってもらえる、という仕組みです」
うんちくの説明を終えると得意顔で三人を見た。北浜は一度頷いたあとで「さすがはくしきね」と彼女を褒めた。
「じゃ、樟葉くん。ハッピーアイスクリーム」
「は?」
「由佳里ちゃんの勝利!」
「今度アイス奢ってね」
「ふははっ、油断したな樟葉」
「どう考えても後出し、ノーカンだろ」
隆翔は頭に手を当てて、呆れ顔で抗議した。
「くふふっ……」
飄々と隆翔を説得する北浜の横で、川島が肩を震わせながら笑っている。
「なんだよ、川島まで」
「いえ。皆さん、仲が良いなぁと思いまして」
くふくふ、と上品に笑う川島を見ていると、不思議とこちらまで毒気を抜かれる。北浜への奢りが決まり、僅かに緩んだ雰囲気に包まれた。
「樟葉くんは進路決まったの?」
「前から行ってた大学の商学部にした。親父が貿易会社に働いてるし、商業関係は興味あったからね」
「そう。前回B判定だったのよね、順調なら良かったわ」
「そう言う北浜もほぼ決まりそうなんだろ?」
「そうだよ。学期末首席だったんだろ」
「首席といっても期末試験じゃない。推薦枠はあるみたいだけど、確実に入れる訳じゃないのよ」
「とか言って、本当は手応えしかないやつだろ」
「……それは、否定しないけど」
北浜は頬を緩めると、照れ隠しをするように前髪へ指先を添えた。
「でも、最後まで気は抜けないわ。推薦って、決まるまでは何があるか分からないもの」
「でたでた。優等生のコメント」
滝井が肩を竦めながら笑う。
「でも、本番でもないのに浮かれて失敗したら、それこそ笑えないじゃない。だから今は、やれることをちゃんとやるだけよ」
北浜は小さく苦笑すると、視線を模試の結果へと落とした。
彼女の志望する府立の大学は、推薦、一般共に高倍率の狭き門だ。当然、相応の成績が必須となる。しかし、夏休み直前に行われた期末考査で、彼女は進学クラスを差し置いて堂々の学年首席を獲った。北浜もまた、来るべき受験に向けてギアを上げてきていた。
「そういえば川島さん、第一志望受かったのね。おめでとう」
「わぁ! ありがとうございます、由佳里ちゃん」
川島はパアッと明るい表情を浮かべて頭を下げる。その度に、彼女の癖毛がぴょこぴょこと跳ねた。
「え、マジ? もう決まったの。どこ?」
「服飾の専門学校なんですけど、無事推薦を貰うことができました」
食い入るような滝井の質問に、彼女は悪びれない表情でピースサインを送る。滝井と川島はクラスメイトになってから、席が隣同士の間柄だった。また、お互いに楽天家な一面が作用して、気楽な人間関係として繋がりを持っていた。
隆翔は、彼女の進路を意外だと思った。
「音楽は続けないの?」
「はい。元々そっち方面の仕事に興味がありましたし、それに音楽は趣味でもあるので、これからはゆっくり続けていけたらなって思ってます!」
「そっか。コンバス上手いから続けるのかと思ってた」
「樟葉くんはどうなんですか?」
「俺?」
「はい。フルート、大学行っても続けますか?」
くりりとした大きな瞳が隆翔を捉える。
隆翔が北宇治で音楽を奏でる目的は、とうに達成されていた。あとは十月の全国大会を迎えるだけだ。
そのあとは、今ほど音楽にのめり込むことも無くなるだろう。ただ、希美の隣でフルートを吹くだけの日々が続く。それが隆翔の理想像だった。
「続けるつもりだよ。吹く理由があるから」
その返答を聞くと、川島は心底嬉しそうに頬を緩めた。
「久美子ちゃんから聞きました。中学では大変だったって。だから、やりたいことを存分に出来るというのは、とても良いことだと
音楽が好きだから続ける。好きだからこそ別の道を選ぶ。そのどちらも否定しないのが、川島緑輝という人だった。
高校生としては抜きん出た技術を持つ彼女なら、大学でも演奏を続ければさらに高みを目指せたはずだ。それでも服飾の道を選んだのは、音楽を義務ではなく、自分の大切な趣味として残したかったからなのだろう。
だからこそ、「楽しい」という言葉を忘れないでほしいという彼女の願いには、何より重みがあった。
「確かにな。俺も練習でラリー打ってる時が一番楽しいわ」
「そうです! 滝井くんの言う通り、何事も今を楽しんでこそなのです」
「おお、もの凄い説得力!」
「えっへん!」
「その前に模試の復習よ。ノート出しなさい」
調子づいた滝井に冷や水を浴びせると、講師役の北浜による補習が幕を開けた。冷たいなどと言われながらも、なんだかんだ面倒見がいいのは彼女の良いところだ。
北浜が出した難問に、滝井は唸り声を上げながら頭を悩ませている。この光景を眺められるのも、あと半年ほどしかない。嫌でも卒業を意識してしまうのが、この時期ならではの感覚だった。
そんな賑やかな輪の向こう側では、別の時間が流れていた。窓の外へ視線を向け、どこか上の空の黄前と、参考書を開いて黙々とペンを走らせる真由。
吹奏楽部では、合宿でのオーディション以降、ソリスト争いに関してはかなり敏感になっている。「争い」と言い表せるパートは、沙里と隆翔のフルートか、彼女たちのユーフォニアムに絞られる。だが、どこか張り詰めた空気が漂っているのは、明らかに後者だった。
部長としての体裁があるからか、黄前は感情を表に出すまいと気を張っている。しかし、触らぬ神に祟りなしと言うべきか、部員たちも二人の間へ踏み込もうとはしなかった。それぞれに思うところはあっても、あえて話題にはしない。
来週に差し迫ったオーディションが近づくにつれ、二人の不和は禍いを予感させる遠雷に見えて仕方がなかった。
【つづく】