時は二週間ほど遡る。
九月上旬の京都は、夏が置いていった熱を惜しみなく放ち続けていた。秋とは名ばかりの残暑が街を包み、蝉の声だけが少しずつ遠ざかり始めている。
関西大会を終え、文化祭の演目も決まった吹奏楽部は、久しぶりにコンクール以外の楽曲へ取り組んでいた。そこにはコンクール練習のような一音一音へ神経を張り巡らせる緊張感はなく、音楽そのものを楽しむ穏やかな空気が流れている。全国大会という大きな目標を目前に控えながらも、部員たちは束の間の息抜きを噛み締めていた。
中書島駅近くを流れる宇治川。その河川敷に、夕日が映し出した二つの長い影が伸びている。
水色を基調としたセーラー服姿の沙里と、バンドTシャツの上から半袖のワイシャツを羽織った隆翔。この日、音楽教室を終えた隆翔は、「少し話がある」と沙里に誘われ、この場所まで足を運んでいた。
夕暮れが近づいても、昼間に熱せられた空気はじくじくと肌へまとわりつく。長い髪をポニーテールに結った沙里は、首筋から肩へかけて白い肌を覗かせていた。
その横顔に、ふとある日の希美が想起させられた。
「沙里と帰るのも久しぶりな気がする」
「そうだね。二年生の頃はしょっちゅう一緒に帰ってたのに、懐かしい気分」
「まあ、あの頃は日も短かったしな」
「へえ、そんな気遣いがあったとは。隅に置けないね」
「揶揄っても効かないぞ」
「えー、つまんない」
三年生になってから、沙里は受験を見据えて予備校へ通い始めた。その影響で音楽教室へ顔を出すのは週に一、二回ほど。同じ教室に通う一年生の吉田巧美も、そこで沙里と顔を合わせる機会はめっきり減っていた。そのせいか、巧美は会うたびに「今日は沙里先輩いないんですね」と訊いては寂しそうな顔をしていた。
この日は珍しく三人の予定が重なり、教室には以前のような賑やかさが戻っていた。
「巧美ちゃん、最近調子良いよね」
「だね。本当に心強いよ。水谷先生も手塩にかけた甲斐があるってもんだよ」
「隆翔先輩のマネジメントもあるんじゃない? あの子、隆翔くんのこと師匠みたいに思ってるよ」
「そんな大したこと教えてないんだけどな」
沙里の言葉に、隆翔は照れ隠しの笑みを浮かべた。
それでも、彼女の成長は誰の目にも明らかだった。関西大会を境に、彼女の音色には自信が宿り、本番でも臆することなく吹けるようになっている。三年生が受験へと意識を移し始め二年生がメンバーに食い込めず伸び悩む中、その存在感は日に日に大きくなっていた。
「あっという間に九月だねえ」
「そうだな」
「来月には引退だよ。逆に部活やってないことが考えられない」
沙里は川面へ目を向けたまま、小さく笑った。
「放課後も休みの日も、ずっとフルート吹いてた。そういう生活が当たり前だったから」
「急になくなると変な感じはするな」
「……うん」
短い返事のあとで会話が途切れ、なんとなく喉の奥でつっかえたような違和感がある。
隆翔は横目で沙里を見た。
「……今日、話があるって言ってたよね」
「……うん」
「本題は何かなって。心の準備が必要なら、また今度でもいいんだけど」
「ううん、大丈夫」
咳払いをしてから、沙里は少しだけ表情を引き締めた。
「隆翔くんはこの教室、いつまで続けるつもりなの?」
「うーん、まだちゃんとは決めてない。全国終わってから考えるつもり」
「そっか」
沙里は小さく頷いた。
「……私はね、全国大会が終わったら辞めようと思ってる。さっき水谷先生にも伝えてきた」
沙里の言葉に驚いたりはしなかった。元々、彼女は大阪の方にある大学へ音楽などの芸術専攻の進路音大に進路を切った訳ではない。ここで一区切りするという判断は、受験を目の前にすれば当然だった。
当の本人は神妙な話を持ちかけながらも、どこか吹っ切れたような笑顔を浮かべていた。
「フルートも辞めるのか?」
「ううん。趣味としてはずっと続けていくつもり。でも、もう部活みたいな熱量では吹くことはないかも」
あの教室から沙里がいなくなる光景を想像する。吹奏楽部でなければ、クラスが違う沙里とは知り合うことすら無かっただろう。この教室に入った頃は不安が大きかったが、そのほとんどを払拭してくれたのが沙里だった。寂しくない筈がない。
しばらく歩いたあと、沙里がぽつりと呟いた。
「これまで、隆翔くんに甘えすぎてたな」
「……そうかな?」
「うん。ひいて言えば、隆翔くんっていう存在感にかな。もちろん、芽衣子と蕾実に救われたこともあったよ。でも、やっぱり君じゃなきゃダメだったって、今なら思う」
「………」
「脱・隆翔くんをしなきゃって何度も思ってたんだけど、気付いたら甘えちゃってた。私、誰にでも弱みを見せられるタイプじゃないから。そういうところ、あるからさ……」
隆翔は首を横に振った。沙里に甘えていたのは隆翔も同じだった。パートリーダーを沙里に任せているからこそ、隆翔は関西大会前に大立ち回りができた。彼女を防波堤の代わりにして。
暗い話を払拭するように、沙里は話題を変えた。
「次のパートリーダーね、香奈ちゃんにお願いしようと思ってるの。去年、コンクールに出たこともあるし、責任感も人一倍強いでしょ。成美ちゃんとつみきちゃんの三人で盛り上げれば、今よりもっと良くなる」
「江藤か……良いと思う」
「でしょ!」
「沙里が決めたのなら大丈夫だよ」
学校という組織では、代替わりというイベントは切っても切り離せない。組織の継承もまた、三年生に与えられた仕事だった。
今年は二年ぶりに全国大会へ出ることができた。強豪校への歩みを始めた一昨年からの実力を考えれば、今年の北宇治は見違えるほどのクオリティに仕上がっている。それは紛れもなく、滝が三年間こつこつと演奏技術を向上させてきた賜物だ。しかも隆翔のひとつ下の代は、部員数が四十名を超える。フルートパートは例外だが、他のパートではコンクールで主戦力を担っている。
沙里が江藤を推挙したのは、彼女が南中からの経験者であり責任感が強いからだ。合宿で高坂糾弾の急先鋒に踊り出ようとしたのは、仲間に降りかかった不条理を許せないという正義感が働いた結果だ。紙一重とはいえ、縁や絆は大切にする。彼女はリーダーの器に相応しかった。
「水谷先生の教室でフルートの勉強ができてよかった。先生がいなかったらこんなに真剣になれなかったし、花音や美音とも出会えなかった。それに……」
言葉を飲み込みながらも、沙里は気丈に振る舞った。
「それに隆翔くんとも、ちゃんと仲良くなれたから」
「それだと俺がみんなとの関わりを避けてたみたいじゃない? 腑に落ちないんだが」
「でも、みんなとの仲を取り持ったのは事実でしょ?」
「そうだけど……納得いかないなぁ」
沙里は目尻を細めながら、感慨深そうに微笑む。
胸の奥では違う考えが浮かんでいるのかもしれないが、その考え自体が自惚れかもしれないと思い、胸に仕舞い込んだ。
「最後のオーディション、どうなるかな」
「沙里はどうなりたい?」
「勿論、ソロを吹きたい。吹けたらいいな、じゃなくて、私が絶対に吹くんだって。そう思ってる」
強気な言葉が、川の流れに溶けていく。
夕焼けを縁取る雲を見据えながら、その目は爛々と光を宿していた。
「じゃあ俺もソロを吹く。全国で、誰よりも上手いフルートソロを吹きたい」
沙里の瞳が、隆翔を熱くした。最高のライバルと最後の最後まで真剣勝負がしたかった。
全国大会出場が隆翔の目標だった。しかし、いつしかそれは、自分が納得できる演奏をするための闘いへと変わっていた。四月、高坂が口にした「北宇治は一番を目指す」という至上命題も、いまや手の届くところまで来ている。沙里へ向けた宣戦布告は、決して強がりではなかった。
夕日に照らされ、橙色に染まった世界。そこで隆翔は、沙里に向けて拳を掲げた。
「お互い、悔いなくやろう」
「うん」
コツン、と沙里の拳が優しく触れた。
ライバルという関係は、何物にも代え難い。それに気付かせてくれた沙里には感謝しかなかった。しかし、楽しい時間はいつしか終わる。残された時間はもう二ヶ月もない。
その限られた時間の尊さを、二人は誰よりもよく知っていた。
◇◆◇
ユーフォニアムの甘やかな音色が校舎に響き渡る。
豊かな抑揚に裏付けられた圧倒的な経験値。音というものは時に残酷だ。良いと思ったものは良い。音楽経験を積めば積むほど、その認識がより強固になる。この音の主ではない、もう一人のユーフォニアム奏者である真由にも、その音の良さは伝わっていた。
「……上手だね、久美子ちゃん」
「そうだね」
この曲は、以前にも何度か耳にしたことがある。卒業したかつての先輩から直々に受け取った曲とのこと。黄前はそれ以上のことは語らなかった。
「この曲を吹いてる時は、久美子ちゃんに話しかけられないんだ」
「どうして?」
休憩と称して油を売りにきた釜屋つばめの問いに、真由は小さく笑った。
「だって、本当に楽しそうだから。邪魔しちゃ悪いなって」
途切れず聞こえてくる柔らかなそのフレーズには迷いがない。課題曲と自由曲のフレーズでは考えられないほど落ち着いた音色に、競うためでも、勝つためでもない。ただただユーフォニアムが好きだから吹いている。そういう感情がそこにはあった。
真由の横顔は、不思議なくらい穏やかだった。だからこそ、隆翔は引っ掛かった。
「……黒江はさ」
問い掛けようとしたところで、つばめが先に口を開いた。
「私は、関西で全国に行けたのは、真由ちゃんのソリだったからだと思ってるよ」
「そんなことないよ」
「ううん、そんなことあるよ」
つばめはきっぱりと言い切った。
「少なくとも、真由ちゃんが選ばれて良かったって思ってるよ」
「………」
黄前の音は、とうに止んでいた。
真由は視線を床へ落とし、小さく息を吐いた。
「……ありがとう、つばめちゃん」
その声には、嬉しさよりも申し訳なさの方が強く滲んでいた。
隆翔にはどうしても理解できなかった。
選ばれたなら、堂々としていれば良い。上手いと言われたら素直に受け止めればいい。
どうして、そんな申し訳なさそうな顔をするのだろう。どうして、自分の実力を素直に受け止められないのだろう。
そこにあるのは謙遜ではない。
もっと別の──もっと深く脆い何かだった。
「……でも、やっぱりここは久美子ちゃんの部だよ」
真由は微笑んだまま小さく呟いた。
「だから、ソリは久美子ちゃんに譲らなきゃ」
ふっ、と一瞬だけ口角が落ちた。
無感情と表現するしかない、そんな虚ろな目に背筋が凍った。転校してきてからこの方、合宿でも見せたことのない表情だった。
「黒江、あのさっ……」
「あ、ごめん。私、進路相談で先生に呼ばれてたんだ。少しだけ部活抜けるね」
「……あ、うん」
「じゃあ、またあとで。久美子ちゃんには言ってあるから」
呆然とする隆翔とつばめを残して、真由は楽器と楽譜を抱えて足早に職員室へと去っていった。
やがて、つばめも自分の練習場所へ戻ると、教室には隆翔だけがぽつんと取り残された。途端に、裏山からはツクツクボウシの大合唱が大きく聞こえて仕方がなかった。
窓枠に腰を預けると、換気のために開けた窓から背中を押すような山おろしが当たった。
真由に掛けようとした言葉は、とうとう口にできないまま胸の奥へ沈んでいった。
「ままならないな……」
希美に受けたアドバイスはまだ実行できていなかった。真由を救おうなんて烏滸がましいことは考えていない。合宿の時とは事情が違うのだ。
以前は真由を改心させようと躍起になっていた。必要に迫られていたとも言える。ただ、そこに彼女の心があったと言われたら否だろう。
──黒江真由の本心。
悲しいかな、隆翔は未だそれを知るに至ってはいなかった。
音楽室に戻る道中、廊下から階段へ差しかかったその時だった。
非常扉の向こうから、突然人影が現れた。
「──っ」
「わっ!」
互いに死角になっていたらしい。同時に一歩引き、思わず足を止めた。
誰かと思った瞬間、隆翔は僅かに息を呑んだ。
「お、お疲れ……」
「うん、お疲れ様……」
隆翔が現在進行形で気不味い感情を抱く相手。金色のユーフォニアムと椅子を抱えた黄前、そして三歩後ろに佇むおかっぱ姿が特徴的な後輩、久石奏が控えていた。
合宿初日の夜、笑顔を貼り付けたまま、一切笑っていない感情で久石は隆翔を牽制した。あの日と変わらぬ表情で、今日も黄前の後ろで警戒を高めていた。
「これはこれは樟葉先輩。ご機嫌麗しゅう」
「……別に麗しくはないけど」
「あら、そうでしたか。黒江先輩と仲睦まじくされていたので、てっきりご機嫌なのかと」
「……んだよ、見てたのか」
こけしみたいな風体をしていて隆翔には刺々しい言葉を浴びせてくる。そういう距離感で接し合うこと自体が黄前には新鮮だったのだろう。目を丸くして二人のやり取りを見ていた。
「奏ちゃん、樟葉と知り合いなの?」
「ええまあ。以前、相引きに誘われたご縁ですかね」
「はぁ⁉︎」
信じられない、とでも言いたげな軽蔑を込めた視線が隆翔に注がれる。その後ろで、久石は口に手を当てて面白がっていた。
「ああ、それね。そこのカワイイ後輩が快諾してくれたお陰で助かったよ」
「なっ! アンタ彼女いるのにナンパするなんて何考えてんの。不潔! サイッテー!」
黄前は顔を真っ赤にしながら隆翔を糾弾した。その癖っ毛も相まって、まるで茹で蛸だ。絶対言わないけど。
久石も隆翔の悪ノリを理解したのか、揶揄いの矛先をシフトチェンジした。
「ま、可愛いなんて。流石は大人気傘木先輩を堕としただけあって口説き上手ですね。私とて、あの熱い夜に何も思わない訳じゃありませんでしたし」
「か、奏ちゃん……?」
膝丈のスカートがふわりと揺れる。片目を瞑って微笑む姿は、まさしく小悪魔のそれだった。
何も知らない黄前は、赤くなった顔で二人を交互に見ながら口をパクパクとしていた。
「その節はありがとうございました。夏紀先輩と吉川部長のライブのチケットを譲っていただいて」
「ああ。夏紀先輩がまた演る時は誘うよって言ってた」
「あら、私にはそんなこと一言も言ってくださらなかったのに。あの人も薄情ですね」
なんでもなかったかのように相引きの種明かしをされた黄前は、ユーフォニアムを抱えたまま驚きと肩透かしを同時に喰らった表情をしていた。
「それって奏ちゃんと梨々花ちゃんが言ってたライブだよね……?」
「ええ、そうですよ。なんだと思ったんですか?」
「なんだぁ〜……樟葉の浮気相手にされたのかと思った」
「……お前、二重に失礼なこと言った自覚はあるのかよ」
気が抜けた黄前から放たれる言葉は、失礼極まりないものだった。揶揄ったとはいえ沽券に関わるような誤解と人間性の断定は赦されるモノではない。
「引き留めて悪かったな、それじゃ」
「あ、樟葉先輩」
階段を下りようとしたところで、今度は久石が隆翔を引き留めた。
「少しだけ、お時間いただけますか?」
「奏ちゃん……」
「樟葉先輩には、知ってもらった方がいいと思ったので」
先ほどのような揶揄いを秘めた感情は消え、真紅の瞳は、その真剣さを雄弁に語っていた。
黄前も含めた三人は無人の教室で膝を突き合わせた。
他の教室から漏れ出る練習の音も、いまこの場ではくぐもって聞こえる。その音響が、この場の緊張を否応なしに高めていた。
真剣な表情の久石に対して、黄前は消極的だった。後輩の行動にまだ得心がいっていないことが、態度に現れていた。
「やっぱりよそうよ。真由ちゃん、何もおかしなこと言ってないよ」
「何言ってるんですか久美子先輩。このまま黙っていても前と同じですよ」
何やら二人で話している中で、隆翔は一度咳払いをした。
「盛り上がってるとこ悪いけど、そろそろ理由を教えてくれないか」
隆翔の言葉に、二人はビクッと肩を揺らした。
苛ついてはいないが、こんな状況を招いてまで肩透かしなのは隆翔もごめんだった。
深呼吸ののち、久石はゆっくりと話し始めた。
「……さっき、黒江先輩と久美子先輩が言い合ってるところを偶然目にしまして」
「偶然?」
「久美子先輩は黙っててください」
黄前は「はいはい」と言って、それ以降は黙り込んだ。
「話の途中からだったのできっかけは分からないんですけど、黒江先輩がソリを進言して、久美子先輩が否定した形になります」
隆翔の肩が僅かに揺れた。
隆翔の説得もつばめの後押しも無下にして、真由は彼女が最も気を使う黄前に再びソリスト辞退を進言した。動揺しないはずがない。
「久美子先輩は黒江先輩を優しく諭していました。黒江先輩が関西で選ばれたのは、今までの努力の証だよ、と。でも、黒江先輩はそれすらも捨てていいから、誰も傷つかないようにしたい。だから辞退するって……」
口惜しそうに唇を噛む久石。少々子供っぽいところもあるが、清廉なイメージがある彼女からは想像できない表情をしていた。
「黒江先輩の考え方は、これから北宇治が目指していく姿にそぐわないと思います」
「奏ちゃん、それはちが……」
「久美子先輩だってそう言ったじゃないですか! メンバーはオーディションで公平に競うものだと。それすらも否定して、あの人は正しさとか、北宇治が積み上げてきたものとか、そういうことすらも否定する。少なくとも、私にはそう聞こえました」
久石の訴えは隆翔の胸を強く打った。あくまで真由を庇おうとする黄前の制止を振り切ってまで言いたかったのは、黄前と真由の狭間で繰り広げられてきた駆け引きへの苛立ちと、積もり積もった鬱屈が感じられた。
久石奏は、黄前久美子の懐刀でいることを良しとせず、人徳でも技術でも、今の自分では到底及ばない二人の先輩へ憧憬を抱きながら、ただ相応しくあろうとした。その姿に何も思わない隆翔ではない。彼女をただ皮肉屋な後輩だと思っていた認識は、少しだけ改める必要があるのかもしれない。
誰も口を開かなかった。
どこからか聞こえてくる自由曲のフレーズだけが、妙に耳に残る。
「……樟葉先輩はどう思いますか?」
隆翔は腕を組んで、久石の言葉を噛み砕いた。
黄前と真由のディスコミュニケーション、と断言するのは簡単だ。しかし、真由が未だ明かしていない何かがあるのも事実だ。
「……どうして、黒江は頑なにソリストを辞退しようとしてるんだろうな」
「それは、久美子先輩と高坂先輩が一緒に吹いてほしいからなんじゃないですか?」
「本人がそう言ったのか?」
「ええ、はっきりと。まるで久美子先輩の本心だと断定するように」
隆翔は「へえ」と相槌を打った。
「黄前はなんて?」
「私は……みんなで公平に競い合っていける環境を作りたい。それが理想だって思うし、三年間そうしてきたから。でも真由ちゃんは『それは本心じゃない』って……」
そう言い切ってから、黄前は自らの言葉を噛み砕くように下を向いた。ユーフォニアムを抱える腕とは逆の手で、スカートをぎゅっと握っていた。
大きな瞳がゆらゆらと揺れている。彼女はいま、心の中で自分と向き合っていた。
「本心じゃない、っていうのは?」
「……分からない」
「分からない?」
「誰かが嫌な思いをするから、今まで頑張ってきたことすらも放棄するって……私にはとても正しいことだとは思えない。正しいと思えないことを肯定することは、部長としてやってはいけないことだと思う」
でも、と黄前は小さな声で呟いた。
「麗奈と吹きたいのは本当。関西ではできなかったけど、最後はやっぱり、麗奈と一緒に……」
吹奏楽部として貫いてきた信念を歪めることはできない。しかし真由が望むことは、彼女の信念の外にあるものだった。
久石はその真紅の眼で黄前を見つめていた。その瞳の中にある感情は、隆翔が察するに余りあった。自分の近しい人と同じ舞台に立つ。黄前は共に奏でたい存在として高坂を挙げたが、久石にとってその人こそ、目の前で俯く彼女その人なのだろう。隆翔は口の中に苦いものが広がっていく感覚がした。
「黒江先輩は、久美子先輩から辞退を促されるのをずっと待ってるんです。それが誰も傷つかない方法だと決めつけてるから。でも、それはただ久美子先輩を蔑ろにしてるだけに過ぎません。ああいう意見は無視するべきなんです」
「……本当にそうなのかな」
隆翔は久石の言葉が解せなかった。
「久石の意見も間違ってはいないと思う。でも、黒江は黄前が守ろうとしている北宇治の方針を否定したことは一度もないよ」
「どういうことですか?」
「憶測に過ぎないけど、悟ったんじゃないかな。自分は最後まで北宇治の一員になれないことを」
二人はハッとして顔を見合わせた。
黄前と久石にはなくて、隆翔と真由にある共通項に二人も行き着いた。隆翔も経験したことのある客人のような疎外感の期間を、真由はまだ脱出できていない。しかも不幸なことに、そんなタイミングでコンクールのソリストを懸けた争いに身を投じなければならなくなった。
「俺もこうなるまで気付けなかった。あいつの気も知らないで、オーディションでは本気で吹けなんて言ってさ」
「樟葉先輩、そんなことを言ったんですか?」
「そうだよ」
「それは……黒江先輩の方が久美子先輩よりも優れていたから、ですか?」
久石は言葉にする直前、一瞬だけ黄前を見た。それでもこの場ではっきりさせようとした。
隆翔は首を縦に振った。
くしゃり、と黄前がスカートを握り締める。この様子だと、隆翔が真由を焚き付けようとしていることは知らなかったのだろう。
「なら、どうして樟葉先輩は罪悪感を抱えているんですか。先輩の思惑は成功して、北宇治は全国に行けたんです。もっと堂々とすれば良いでしょう」
「……知ってて言ってるなら、なかなか肝が据わってるじゃん。そうだよ、俺の思惑は全国が決まった瞬間に達成されてるんだよ。黒江真由というワイルドカードを使ってな」
「なっ……どうしてそこまで……」
「ひとえに、俺のわがままかな」
「わがまま……」
これまで黙って聞いていた黄前が、そう小さく呟いた。
「樟葉のわがまま。真由ちゃんのわがまま。私のわがまま……」
まるで、自分に言い聞かせているようだった。
隆翔の自白を飲み込むには、あまりに酷な心境だろう。決して短くはない時間を共にする同級生は、自分ではなく転校生である真由を必要とした。しかも自分は嵌められた訳ではなく、単に実力で蹴落とされた。盤面はすべて隆翔の思惑通りに進行し、関西大会直前の騒動や高坂への説得も成功した。
事実がナイフのように容赦無く突き立てられ、しかも現状は受け入れるしかなかった。
「ああでも、安心してほしい。部長に黙ってまたパーリーを結託させたりはしないよ。今後はこれまで自分がしでかしたツケを払うだけだから」
隆翔自身、黄前への情を理由に判断を変えるつもりはなかった。なぜなら、彼女は所詮「不器用な責任者」でしかないからだ。
関西大会までの隆翔は、勝つために盤面を動かし続けた。その結果が全国大会への切符だったのなら、それを後悔するつもりはない。
だが、その過程で黒江真由という一人の人間を利用した事実まで、勝利の代償として片付けるつもりもなかった。
もう誰かを利用することはしない。
これから先は、自分で切り拓くしかなかった。
◇◆◇
腕時計に目を落とすと、時刻は既に完全下校時刻の一時間前を切っていた。話し込んでいた時間は、隆翔が思っていたよりも長かったらしい。
教室の外から聞こえていた練習の音はいつの間にか止んでいた。代わりに聞こえてくるのは、音楽室に戻す机と椅子を引き摺る金属音と、練習を終えた部員たちの弾んだ声だった。
「……そろそろ戻ろうか」
隆翔がそう告げても、黄前はすぐには顔を上げなかった。
金色のユーフォニアムを抱えたまま俯いている。楽器に反射した夕日が、歪んだ光を天井へ投げかけていた。
きっと、頭の中は考えが散らかっているに違いない。謝った方がいいだろうかと、隆翔は逡巡した。しかし謝罪すれば、自分が全国大会へ進むためにした行動を否定することになる。全国出場を後悔していない以上、口先だけの謝罪はかえって黄前を侮辱するだけだった。
「樟葉先輩」
代わりに口を開いたのは久石だった。
黄前へ向けられていた真紅の瞳が、今度は隆翔を真っ直ぐに捉えている。そこにあった警戒心は、教室へ入る前のものとは少し違っていた。
「黒江先輩に対して、これから何かするつもりなんですか?」
「まだ決めてない」
「それでも、ツケを払うと言った以上、何かをするつもりなんですよね。またコソコソと裏で」
「そうだね。でも、もう黒江を焚き付けたりはしないよ。それはあいつに失礼だし、何より贖罪にはならないからね」
隆翔があっさり認めると、久石は眉尻を僅かに動かした。
「あいつが何を選ぶかは、あいつ自身が決めることだから。俺だってあいつに辞退してもらいたくないけど、それで自分に納得するなら、止めるつもりはないかな」
「それは何もしないのと同じでは。あまりに無責任です」
「違うよ」
隆翔は静かに首を横へ振った。
「俺は今まで、黒江に自分の望む答えを選ばせようとしてた。全国へ行くために必要だったからな。でも、これからは、あいつが何を選んでも、その結果から目を逸らさないでいようと思ってる」
情けない答えだった。散々振り回しておいて、最後は贖罪のためだと言いながら彼女の判断に一任する。久石の言う通り、責任を全うしたとは言い切れない。
ただ、今の隆翔に自分の力量を超えた約束はできなかった。真由を救うなどと大層なことが言えるほど、隆翔は彼女を理解していなかった。
久石は隆翔をしばらく見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「分かりました」
「信じるのか?」
「いいえ、まったく」
「即答かよ」
「樟葉先輩が黒江先輩を本気にさせた張本人だと分かったんです。むしろ、以前よりも警戒する理由が増えました」
「それもそうだな」
「ですが……」
久石は一度言葉を切った。
「少なくとも、黒江先輩を駒扱いしないことだけは理解できました」
その言葉を発した久石の顔には、笑みも皮肉もなかった。値踏みするような態度を隠そうともせず、隆翔と視線を交えた。評価されたというより、保留にされたのだろう。
「樟葉先輩のご意見を聞けたので、私も自分の言葉で言おうと思います」
彼女は一度、呼吸を整えて宣言した。
「私は、久美子先輩にソリを吹いてほしいです」
「分かった」
「心に留めておいてください。黒江先輩派の、樟葉隆翔先輩」
これは久石からの宣告だった。
わがままの代償を払うのは隆翔だけではない。自分もそうなのだと。
「……帰ろう、奏ちゃん」
黄前がようやく口を開いた。
声は小さく、普段よりも僅かに掠れている。顔を上げた彼女は笑おうとしていたが、口元はうまく形を作れていなかった。無理をしているのは誰の目にも明らかだった。
「久美子先輩……」
「大丈夫。ちょっと、頭の中を整理したいだけだから」
そう告げる黄前の視線は、最後まで隆翔へ向かなかった。いまは何を言っても届かない。そのことを雄弁と伝えていた。
「椅子、私が持ちます」
「平気だよ、これくらい」
「いいから貸してください」
「奏ちゃん、さっきから強引だね」
「久美子先輩が頼りないからです」
「ひどいなぁ」
黄前は困ったように笑い、抱えていた椅子を久石へ渡した。椅子を抱え、黄前の半歩前に立つ。その位置は先ほどまでと逆だった。
「それでは、樟葉先輩」
「ああ」
「先ほど申し上げたこと、忘れないでくださいね」
「分かってるよ」
久石は念を押すように一度だけ隆翔を見つめ、それから黄前と共に教室を出ていった。
廊下へ消えていく二人の足音が、少しずつ遠ざかっていく。その音が完全に聞こえなくなってから、隆翔は大きく息を吐いた。
「……最悪だな、俺」
独り言は、誰もいない教室へ虚しく落ちた。
胸の中に澱んでいたものを吐き出したはずなのに、少しも軽くならなかった。自白したことで、むしろ輪郭がはっきりしたように思える。
真由の実力を選んだ時点で、黄前の想いを切り捨てることも覚悟していた。そのどちらも、全国へ進むために必要なことだったと思っている。
後悔と納得が、胸の中で同居している。
しかも、どちらも隆翔の本心だった。
今日の合奏はもうない。机の上に置いたフルートを手に取る。音楽室へ戻って、少しだけフルートを吹こうと思った。
いま帰宅しても、頭の中で先ほどの会話を何度も繰り返すに決まっている。それなら、息が続かなくなるまで吹いた方がまだましだ。
そう考えて教室の扉を開ける。
「──あ、いた」
「うわっ!」
扉のすぐ横に立っていた人影に驚き、隆翔は危うく後ろへ転びそうになった。
「何よ、その反応」
「お前、まだいたのかよ」
「隆翔くんがなかなか戻ってこないから、探しに来たんだけど」
高橋沙里は、その黒髪を揺らしながら呆れたように肩を竦めた。
片手にはフルートケース。もう片方には学校の鞄を持っている。どうやら既に帰り支度を終えているらしい。
「先に帰ればよかったのに」
「一緒にパート練から戻ってきた相手が行方不明になったら、普通は探すでしょ。そんな薄情者じゃないもん」
「行方不明って、ありえないだろ」
「神隠しかもよ。学校七不思議、なんつって」
「あほらし」
「ふふ……やっと帰ってきた」
「何が?」
「いつもの隆翔くん」
そう言って、沙里はニカッと笑った。
隆翔は返す言葉を失い、彼女の顔を見た。長いまつ毛が、双眸にくっきりと浮かんでいる。
いつものように穏やかな笑みだった。けれど、その瞳は隆翔の表情を注意深く観察している。きっと、教室から出てきた時点で何かあったと気付いていたのだろう。
それでも沙里は訊かなかった。彼女本来の優しさがそうした。
「待っててくれたところ申し訳ないけど、俺はもう少し練習していくよ」
「だーめ。なんか今日の隆翔くんなら、日付が変わっても練習してそうだから。オーバーワーク禁止」
「人のことをなんだと思ってんだよ」
「んふふ、七面倒くさいフルート吹き」
「はぁ?」
そう言って、沙里は含みのある笑みを浮かべた。それを聞いた隆翔は呆れて可笑しな声を出した。
「沙里には一番言われたくないな」
「私は面倒臭くないよ。可愛くて、気が利いて、後輩思いの模範的なフルート奏者なので」
むふーっと鼻を鳴らして自画自賛する姿に、思わず顔が綻んだ。
「それは認めるわ。否定できる要素がないからな」
隆翔につられて、沙里もくすくすと笑う。
静まりかけていた廊下に、二人の笑い声が小さく響く。
何気ない光景。いつも通りの放課後。
それももう、数えるくらいしか無い。そう思ったら、途端に尊く思えて仕方がなかった。
「今日さ、やっぱり水谷先生のところ行かない?」
「帰るんじゃなかったのか」
「やっぱり、私ももう少し吹きたくなった」
「なんだよ。じゃあ、鞄取ってくるから昇降口で待っててくれ」
「うん! 先に行ったりしないからゆっくりでいいからね」
満面の笑みを浮かべながら、手を振って教室を出ていく。結局、最後まで振り回されっぱなしだった。
校舎を優しく照らす夕日を見ながら、二人は通学路の階段を下りた。
幾度となく、学校から音楽教室のある中書島まで道中を共にした。住宅街に沈む夕日も、街灯の灯りに負けないほど輝くシリウスも、今となっては、宝箱の奥へそっと仕舞っておきたいと思えてしまう。
この時間が終わってしまうことが、無性に寂しかった。その思いを知ってか知らずか、沙里の口から同じような言葉が出てきた。
「こうやって一緒に帰ることもなくなるのか」
「その割には、あまり名残惜しくなさそうだな」
「そんなことないよ。今までフルート吹いてた時間を何に費やそうとか、そんなことばっか考えてる」
「勉強しろ受験生」
「正論でパンチしないでよ」
隆翔の受け答えにファイティングポーズを取る。そうやって哀しさを見せない姿に、どこかで救われていたのも事実だった。
「いつが最後?」
「教室?」
「うん」
「十月末。全国が終わった週の金曜日」
「そっか……」
「寂しい?」
表情を覗き込むように確認する沙里と目を合わせないようにして、隆翔は「まあ」とぶっきらぼうに答えた。
「私も寂しいよ。でも、もう決めたことだから」
「……止めないよ、俺は」
「分かってる。そうやって背中を押そうとしてるってこともね」
隆翔の心の内なんて見透かしたように、沙里はにんまりと笑みを浮かべた。
『脱・隆翔』宣言をしてからというものの、明確な線引きがあったとは思えない。肩を並べる機会は減ったものの、距離感は今まで通りだった。
教室を辞めるという決断を、沙里がどれほど悩んで下したのか、隆翔は完全には知らない。沙里は自分の足で次の世界へ進むために、自分の意思で区切りをつけた。そこに隆翔の意思は介在してはいけない。
交差点に差し掛かる。信号は赤だった。
ヘッドライトとテールランプが、目の前で混じり合う。その光を追ううちに、今日の出来事が映像のように脳裏へ蘇った。
記憶を辿り、笑顔を消した真由と憔悴し切った黄前がフラッシュバックする。ユーフォニアムのソリストを巡る渦中は、触れたら火傷しそうなほど冷え切っていた。
「オーディション、もう今週末だね」
まさにいま、考えていたことを看破されたようで肩が揺れた。しかし、それは隆翔の杞憂だった。
「そうだな」
「最後だし、みんな受かるといいな」
ソロのことは敢えて言わない。優しさではなく、沙里として触れたくない話題だった。
「関西の勢いがあれば問題ないだろ」
「えへへ、そうだね」
実際、隆翔も落ちるとは思っていない。これまでの実績と経験は揺るがない。それに裏打ちされた自信があるからだ。
「最後、本当に最後だ」
「分かってるよ。そんなしみじみ言うな」
ピクッと沙里の体が揺れた。
言葉になって飛び出してから声色が強いことに気付いた。考え事をしながら会話をするのは良くない。隆翔は即座に「ごめん」と謝罪した。
「後悔したくない。させたくない」
「……うん」
「それだけだよ」
歩行者信号が赤から青に変わる。
どんな色よりも綺麗な輝きを目指して、沙里は迷わず一歩を踏み出した。
共依存に袂を分つように。そして、
──自分の足で、次の世界へ進むために。
◇◆◇
「ではこれより、全国大会のオーディションを行います」
それから月が変わり、運命の十月に入った。
茶色の制服に身を包んだ女子が大半を占める音楽室に、滝の一声が響き渡った。
真由は亜麻色の髪をたなびかせ、真剣な表情で前を見つめている。
選ばれることへの恐怖心。転校生故の仲間意識への憧れ。そして、彼女が本当に望んでいること。辞退を仄めかしながらも、真由は最後まで吹くことをやめなかった。その痛みと、どうしようもない渇望を誰も知らないでいるのは、あまりに酷だ。
そして、最後なのだと心に刻みながらここに立つ沙里も真剣な眼差しで前のみを見つめている。
隆翔ができることは一つだけ。
全力で競い、沙里に勝つこと。
きっと、決着をつける機会が訪れる。
そんな確信を抱きながら、高校最後の大会をかけたオーディションが始まった。
【つづく】