『あと十分くらいだね』
「本当だ」
視線の高さにある照明が、勉強机のデジタル時計を淡く照らしている。部屋に取り付けられた時計は、午前零時まであと数分を表示していた。
普段ならば既に布団に入ってる時刻。だが、この日は少し違った。
翌日、十月二日は隆翔の十八歳の誕生日だった。
『今年は当日にお祝いできなかったね』
「仕方ないよ。でも電話掛けてくれてありがとう」
『オーディション、どうだった?』
「うん……今の全力は出せたよ。希美のようになれるかは分からないけどね」
スマートフォンのスピーカーから希美の声が響く。微睡みの中に、時折欠伸を噛み殺したような声が聞こえてくる。隆翔は「寝てもいいよ」と気を遣ったが、希美は頑なに譲らなかった。
「十八歳か……」
『なになに、何か不安?』
「ううん。実感がないだけ」
『えー、目の前に十八歳のお手本がいるというのに』
「あー、そうだった。色々参考にしてます」
『……なんかちょっと複雑』
「なんでよ」
拗ねた反応に、思わず笑みが溢れる。
『……ちなみに、どういうところを参考にしてるか聞いてもいい?』
「やっぱり気になるんじゃん」
『うるさいな。いいでしょ聞いても』
「はいはい。えっと、大学生になってから、希美はすっごく綺麗になった」
『なっ……! それはちょっと恥ずかしいかも……』
「色々試してるんだよね。髪型も変わったし、大人っぽいというか」
『あ、それはこの前、久美子ちゃんにも言われた。新山先生っぽいって』
「へえ……新山先生ね」
この前というのは、みぞれの大学で行われた演奏会でのことだろう。希美の他に優子と夏紀、黄前と高坂も観に来ていた。
確かに、黄前の言わんとしていることは当たらずも遠からずといったところ。本人は意識しているつもりは無くても、同じフルート奏者としてプロの新山は理想としている姿なのだろう。
『……隆翔は、やっぱりそういう大人がいいのかな』
「はい?」
『あのね。隆翔の好みの女性というか、理想像みたいなものに少しでも近づけたらいいなって思ってて。と言っても、全然道半ばなんだけどね』
たはは、と言って、希美は照れ笑いを浮かべる。
それはとんだ思い違いだと隆翔は思った。隆翔の理想像は希美その人であり、それ以上など存在しない。
ググっと喉の奥から這い上がる熱。否定したい気持ちもある。しかし、希美の言葉は、そういう大人になっていきたいという裏返しでもあった。そんな彼女の理想とする姿を否定するのは違う気がした。
これは保留に近い一言だ。
もっと気の利いた一言が言えたら、隆翔も一皮剥けるのかもしれない。大人というには、まだまだ未熟だった。
「でも、希美が大人っぽくないって思うなら俺だってまだ子供だよ。それに、今の希美が好きだから告白したんだし。俺は希美と一緒に大人になっていきたい」
電話越しの彼女は沈黙してしまった。遠くで布団が激しく擦れる音が聞こえる。音にならない悲鳴とは、このことを言うのだろうか。
『……それってプロポーズ?』
「そう聞こえたなら、それでも良いかな」
『バカ!』
「あはは、ごめんって。あと、参考しているところなら他にもあるよ」
『なになに?』
「えっとね。オシャレなとこだったり、なんか良い感じのお店知ってたり、頭が良かったり」
『ふむふむ』
「あ、でも希美って結構積極的だよね。その……スキンシップが」
『……え』
「ん?」
『私、そんなに……エッチかな?』
「自覚なかった? まあ、俺は嬉しいから良いんだけどさ」
『えぇー……自覚してないわけじゃないんだけど、言われる程とは思ってなかった』
「そうだったんだ。特にキスしてる時とか、食われるんじゃないかってくらい激しいし……」
『いやー! お願いやめて、言わないでっ!』
「ごめんごめん。流石に言い過ぎた」
『もう……絶対思い出しちゃうじゃん』
隆翔が笑って謝ると、電話越しから布団へ顔を埋めたような声が返ってくる。その言葉は、あえて聞こえないふりをした。
時計に目をやると、午前零時まであと一分もなかった。
『ねえ、十七歳でやり残したことある?』
不意に問われ、隆翔は今日のオーディションを思い返した。高校最後のコンクール。持てるものはすべて吹き切った。結果は分からずとも、演奏に悔いはなかった。
「……特にないかな」
『そっか』
そうして、自然と時計を見つめる。きっと希美も時計を見ているのだろう。同じ秒針を意識しながら、静かにその瞬間を待った。
三、二、一。
表示が十月二日に切り替わる。
『隆翔。十八歳のお誕生日、おめでとう』
「……ありがとう」
一番最初に届いた祝福は、最も愛おしい人からのものだった。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
『本当は会ってお祝いしたかったな』
「また今度でいいよ。次に会う日にね」
『うん』
希美が嬉しそうに笑った、その時だった。
ピコン、とスマートフォンが鳴動する。
画面には、沙里からのメッセージが一件と、その直後には梓からも祝福が届いた。それ以外にもフルートパートの後輩たちや、クラスの何人かからも通知が届いた。
去年は家族を除けば、メッセージをくれたのは希美だけだった。それがたった一年でここまで変わった。自分のことに鈍感なのは、隆翔にも言えることかもしれない。
『お祝い?』
「うん。吹部とかクラスメイトとかから」
『そっか』
希美は穏やかに笑う。
『隆翔って、本当に色んな人に慕われてるね』
「そうかな?」
『うん、そうだよ』
その声は優しかった。
羨ましさとも違う、どこか感慨を含んだ響きだったが、その言葉の本当の意味までは、隆翔には分からなかった。
◇◆◇
週が明けた十月四日、水曜日。
この日、放課後の音楽室には総勢九十一名の部員が一堂に介した。
幹部もパートリーダーも関係なく、副顧問の松本美智恵を中心に集まり、彼女の言葉を固唾を飲んで見守っていた。
いよいよ、全国大会オーディションの結果が発表される。皆、一様に手を握りしめている。人事は尽くした。あとは天命を願うのみであった。
「──では、まずトランペットから。三年、高坂麗奈」
「はい!」
「三年、吉沢秋子」
「はい」
「二年、小日向夢」
「はい!」
発表は府大会と変わらず、松本の有無を言わさない勢いで粛々と行われた。トランペットは順当に実力のある三年生、二年生が合格。
しかし、今回は早くも番狂せがあった。
「トロンボーン。三年、塚本秀一」
「はい」
「三年、赤松麻紀」
「はい」
「一年、浅野
「……は、はい⁉︎」
「……どうした。浅野勇高!」
「はぃぃい!」
「バストロンボーン。三年、福井さやか」
「はい!」
「──以上、四名」
トロンボーンの一年生である浅野勇高は、中学からの経験者である。技術は一年生の頃の秀一をも凌駕し、長身の体格から放たれる音は、芯の強さと伸びやかさがあった。しかし、高校吹奏楽に求められる繊細さが欠けている節があり、これまでコンクールには選ばれていなかったが、全国大会という大舞台にて大抜擢が為された。
対して、前回メンバーだった二年生の葉加瀬みちるは、彼に押し出される形でメンバーから落選した。憧れの秀一と立てる最後の機会を逃した彼女は、発表中ということもあり声をあげることはないが、悔しさから唇を噛み締め、目尻に溜まる涙を乱雑に拭っていた。
いきなりのサプライズ、というには残酷な裁定が下され、音楽室の緊張感は更に高まった。
「ユーフォニアム。三年、黄前久美子」
「はい!」
「三年、黒江真由」
「はい」
「──以上二名」
関西大会に引き続き、久石奏は落選した。しかし、合宿での発表のような動揺はもう起きなかった。このあと発表されたチューバ、コントラバスも、関西大会からのメンバー変更はなかった。
木管パートに入ると、何名か二年生の中でメンバーの入れ替わりが発生した。
学年では最多人数を誇る二年生。層が厚いと言えば聞こえはいいが、今回ばかりは事情が違う。吹奏楽部員なら誰もが憧れる舞台、全国大会に出場できるかどうかが懸かっているのだ。それに彼らは三年生と最も長く接してきた。慕う先輩と一緒に合奏できる最後の機会を失う結果にも繋がる。そのハレーションは、真っ先に一年生にその座を奪われた葉加瀬が物語っていた。
「続いてフルート」
サックス、ダブルリードを経て、いよいよフルートの順番が訪れた。
「三年、高橋沙里」
「はい!」
「三年、樟葉隆翔」
「はい」
自分の名前を反芻しながら、一旦は胸を撫で下ろした。同じく隣で発表を聞く沙里と目が合う。その顔からは、緊張から一時的に解放された余裕が感じられた。
続いて小田芽衣子、中野蕾実、吉田巧美と呼ばれ、フルートはピッコロの山根つみきを加えた六名体制のまま全国大会へと挑む。
五十五名のコンクールメンバーが判明し、場の空気は一段落した。結局、大きな入れ替えやメンバー変更は最小限に抑えられた。三年生は全員が合格し、最後の花道を飾ることとなる。
最も入れ替わり人数が多かった二年生も、その内情は拮抗した実力にあり、上達次第では、という部員が多く存在した。
その二年生中心の布陣に割って入った一年生は決して多くないが、滝が顧問になってからの三年間で、今年はその枠に入ることの難易度が跳ね上がっていた。
隆翔や沙里と音楽教室を共にする吉田巧美は、結局一度もコンクールメンバーを譲ることなく選ばれ続けた。本人は緊張しいと言っているが、大舞台を経るごとに実力も胆力も向上した彼女の成長に、隆翔も鼻が高かった。
いつだったか、フルートの技術に伸び悩む吉田に対して、成長の浮き沈みに一喜一憂するなと教えた。それ以降、彼女は精神的に成長した。成長速度は違えど、初心者の水井陽向にも同様の精神論を説いたが、彼女は彼女なりの成長曲線を描いている。いずれは吉田と共に二枚看板として引っ張ってくれるだろう。
今回落選した次期パートリーダー候補の江藤香奈、平石成美も、舞台経験という意味では吉田に劣るが、沙里と小田が施した水井への練習指導という育成経験は、きっと彼女たちの糧となってくれる。
種を蒔き、水を遣り、芽吹く時を待つ。
その時に隆翔たちは居なくとも、彼女たちならきっと全うしてくれるだろう。
「続いてソロメンバーを発表する」
後輩たちの行く末に浸っているのも束の間。最後の発表だ。松本は一度バインダーに目を落としてから、口を開いた。
「クラリネット。三年、高久ちえり」
「はい!」
「マリンバ。三年、釜屋つばめ」
「はい」
「コントラバス。三年、川島緑輝」
「はい!」
「トランペット。三年、高坂麗奈」
「はい!」
ここまでは順当と言える。問題はここから先だった。
ぐっと体が強張る。
ベストは尽くしたはずだ。これで落ちても、納得できるくらいに。
沙里の表情は、黒い髪に隠れて見えない。
もし沙里が選ばれたら、有終の美というやつなのでは── などと呑気な考えが浮かんだ。
いや、魔が刺したと言うべきか。
「フルート。三年、高橋沙里」
ゆっくりと顔を上げる。
沙里は頬を紅潮させながら「はい」と返事をした。
隆翔の名前は呼ばれなかった。その事実だけが転がっている。でも、不思議と嫌な気分ではなかった。万感の思いが溢れそうな沙里を見たら、自分の感情は二の次になった。いま、ここにあるのは祝福という感情だけ。
そのはずだった。
「ユーフォニアム。三年、黄前久美子」
喜びも束の間、黄前の返事は矢継ぎ早に紡がれたもう一人の名前によって遮られた。
「──と、黒江真由」
「────え」
前代未聞とは、このことを言うのだろう。
その動揺は合宿の比ではなく、松本の「静かにしろ」という鋭い静止も効かない。
「両名は後日、全部員の投票による公開再オーディションとする」
まったく想定していなかった方向から、決定的な痛打が加わったような衝撃と言えば、上手く伝わるだろうか。ともかく、その一言は吹奏楽部員に驚愕と動揺をもたらした。
普段なら私語を慎めと諫める場面だが、普段の威厳は影を隠している。松本も葛藤している。その態度を隠しきれずにいるようだった。であれば、この公開再オーディションは滝の判断である可能性が高い。
この宣告は、ある者には福音を与え、ある者には失望をもって受け入れられた。
◇◆◇
波乱をもたらした結果発表を終えた吹奏楽部では、波立つ心を誤魔化しつつ、刷新されたメンバーでの練習が始動した。
この日はパート練習と個人練習に費やされた。発表の内容が内容なだけに、すぐに合奏練習に入っても身が入らない、というのが実情であった。特に渦中の低音パート、その中でもユーフォニアムに関しては、触らぬ神に祟りなしといった様相を呈している。
「はあ〜、空気わるぅ」
パート練習の教室で、江藤が机に突っ伏しながらそう吐き出した。それを見た平石と山根は、彼女の豪胆さに苦笑いを浮かべている。
「はっきり言わないの」
「だって、音楽室の雰囲気が悪すぎて窒息しそうだったんだもん」
「確かに。ぶっちゃけ公開オーディションって何って感じではあるよね」
「でしょ〜?」
恐らく、どこのパートでもこんな雰囲気なのだろう。一、二年生は突然降って湧いた話についていけないのか、落とし所に苦慮している様子だ。
「そういえば芽衣子先輩たちは?」
「本当だ。つぼ先輩と沙里先輩も来ないね」
「トイレかな」
「香奈じゃあるまいし」
平石のツッコミに「それどういう意味?」と抗議の声が上がる。
しかし、彼女たちの言う通り、その三人だけが未だに姿を見せていなかった。小田や中野ならともかく、時間に厳格な沙里ですら音沙汰がないのは不自然であった。
探しに行こうか悩んだその時、一人、廊下から現れた。
「……樟葉くん」
「中野」
中野は神妙な面持ちのまま、他のパートメンバーには目もくれず隆翔を真っ直ぐに見据えた。
「どうした? もうパート練の時間だぞ。他の二人も呼んできてよ」
「そのことなんだけど……沙里が呼んでるから、行ってきてあげて」
迷いや葛藤を抱えながらも、中野は親友の名を告げた。沙里に何があったのか、どうして中野だけなのか、聞きたいことは山ほどあった。しかし、きっと中野は隆翔を呼ぶように頼まれただけ。そう判断した隆翔は何も聞かずに頷いた。
「分かった」
「……ありがとう。中庭の通路のところだよ」
この場を中野に預け、隆翔は廊下へ飛び出した。
そんな変なところで、一体何をしているのか。沙里は大丈夫なのだろうか。思うところは多々あった。けれど、今は彼女への心配が勝った。
中庭に出ると、威勢の良い掛け声を出す運動部や談笑する生徒の笑い声が耳に入る。なんとなく、こんなに陽が当たるところにいないと思い、通路を外れて人気のない校舎の裏手に回った。こんなところにいるはずがない。いてほしくないと思いながら。
しかし、あまり当たってほしくない予想は的中した。
そこには沙里と小田の二人がいた。
うずくまる沙里の背中をゆっくり摩りながら慰める小田。涙声で何かを言いながら、時折鼻を啜っている。そして何より目を引いたのが、だらりと垂れた左手の甲、フルートを支える指の付け根が赤く腫れていた。
隆翔は絶句した。
フルートパートの精神的支柱である沙里が、目を疑うような姿になっていた。何が彼女をそこまで追い詰めてしまったのか、隆翔は推し量ることはできなかった。
「……樟葉」
沙里を慰めていた小田が、隆翔の姿に気付く。その言葉に、丸くなった背中がビクッと震えた。
ゆっくりと持ち上がった顔は、目元も鼻先も赤く染まっていた。隆翔の姿を認めた途端、沙里は息を詰まらせる。驚きはすぐに羞恥へ変わり、咄嗟に顔を背けた。
「……どうして」
掠れた声が落ちる。
「どうして隆翔くんがいるの」
「中野に呼ばれた。沙里が呼んでるって」
「私、呼んでないんだけど……」
返事は鋭かった。泣き腫らした目でこちらを睨みながら、沙里は腫れた左手を身体の陰へ隠そうとする。
小田は沙里の身を庇うように、背中に手を添えた。
「どうして呼んだの?」
「ごめん。でも、こんな状態の沙里を、私たちだけでどうにかできるとは思えなくて……」
「芽衣子……」
隆翔は二人のやり取りを聞きながら、沙里の左手から目を離せなかった。指の付け根が赤く腫れ、薄く皮が剝けている。何かに強く打ちつけた痕にしか見えない。
「その手、どうした」
「……なんでもない」
「なんでもないようには見えない」
「なんでもないって言ってるでしょ!」
沙里の怒声が、校舎の壁へぶつかって返ってきた。
これまでも何度か、彼女と衝突することはあった。その度に苛立ちや不満をぶつけられたりもした。だが、今の沙里の声はどれでもなかった。
明確な怒りを抱いている。
それも隆翔に向けてではない。
怒りを向ける矛先が正しいのか、その答えさえも見つからずに彷徨っているようにさえ見えた。
「沙里」
小田が背中を撫でながら名前を呼ぶ。
「ちゃんと言った方がいいよ。樟葉に怒ってるんじゃないでしょ」
「……分かってる」
沙里は唇を噛んだ。
絞り出すように答えたあと、再び涙が頬を伝った。
「ごめんね。隆翔くんは何も悪くない、悪くないの……」
真っ赤に充血した目で、申し訳なさそうに隆翔を見据える。
隆翔は「分かっている」と一度頷いた。
「──どうして、ユーフォだけなの……」
震える声が校舎裏に落ちた。
ハッとして顔を上げると、小田も同じことを言いたいのか、その目で一度頷いた。
沙里も返事を求めていたわけではないのだろう。俯いたまま、腫れた左手を右手で強く握りしめる。
「黄前さんと黒江さんの実力が同じくらいだったから? 先生でも決められなかったから、もう一度やるの?」
鼻を啜り、沙里は途切れ途切れに言葉を重ねた。
「だったら、私たちは違ったって言い切れるの……?」
「沙里……」
「私と隆翔くんだって、ずっと競ってきた。今年一年、お互いに絶対負けないって思って吹いた」
声が次第に鋭さを増していく。
しかし、それは隆翔を責めるものではなかった。自分の中で膨れ上がった疑問を、どうにか言葉へ変えようとしているようだった。
「私が選ばれたのは、私の方が上手かったからなんでしょ。先生がそう判断したから、それで決まったんでしょ」
「……うん」
「だったら、どうしてユーフォだけ、みんなに決めさせるの」
沙里は再び顔を上げた。
赤く腫れた目の奥に、これまで見たことのないほど激しい失望が滲んでいた。
「今まで先生の判断をずっと信じてきたのに。選ばれた時は、選んでもらえたことを誇りに思った。落とされた時だって、悔しかったけど、自分より上手い人がいたんだって納得しようとした」
「…………」
「先生がちゃんと聴いて、全国で一番いい演奏をするために決めてくれたんだって、ずっと思ってた……」
沙里の右手に力が籠もる。
腫れた左手を握り込んだことで痛みが走ったのか、一瞬だけ顔が歪んだ。
「なのに、こんな大事なオーディションだけ、部員のみんなに決めてもらうなんて……そんなの、おかしいよ」
「沙里、手を離して」
小田が宥めるように右手を包み、傷ついた左手から引き剝がした。
沙里は抵抗しなかった。ただ、自分の両手を見つめながら、力なく首を振る。
「先生が決められないなら、私たちが今まで信じてきたものは何だったの」
「滝先生が決められなかったのかは、まだ分からない」
「じゃあ、どうして!」
再び上がった声が、辺りの空気を震わせた。
「どうしてあの二人だけ再オーディションなんてさせるの! どうして隆翔くんには、その機会がないの!」
隆翔は息を呑んだ。
ようやく、沙里がここまで取り乱している理由の一端が見えた。
彼女は、自分が選ばれたことに怒っているのではない。勝負に勝った事実を喜びたいのに、その直後に示された異例の処置によって、自分たちの勝負の価値まで疑わずにはいられなくなっている。
「名前を呼ばれた時は、単純に嬉しかった」
沙里の声が、急速に萎んでいく。
「本当に、嬉しかったの。全国でソロを吹ける。音楽教室を辞める前に、ちゃんと自分の力で取れたって……そう思った」
「…………」
「最初は再オーディションの意味が分からなかった。滝先生と松本先生が厳格に審査してるものだとずっと思ってたから、選べないっていう決断があること自体、有り得ないって思っちゃった」
頬に伝った涙が、制服のスカートへ落ちた。
「こんなに選ばれても嬉しくないの、初めてだから……どうしたらいいか分からない……」
小田は何も言わず、沙里の肩を抱き寄せた。
その胸元へ顔を伏せた沙里の嗚咽が、途切れ途切れに漏れる。
とても見ていられなかった。だが、隆翔には見届ける義務があった。彼女と最後まで競い合った者として、目を逸らすことだけは許されなかった。
行き場をなくした怒りを自分の手にぶつけてしまうほどの破壊衝動。それほどまでに、沙里はこのオーディションに懸けていた。隆翔を、三年間で最高の好敵手だと見出していたから。
オーディションの結果、再オーディションという形で例外が与えられるユーフォニアムが許せないという気持ちは、痛いほど理解できた。
「……小田、悪いけど、沙里を保健室に連れて行ってくれ」
「うん」
沙里は痛む左手を庇いながら、小田に付き添われてこの場を離れた。
沙里の問いに、何も答えが浮かばなかった。
ただ、悲しませたまま彼女を全国の舞台に立たせるわけにはいかない。それだけは確かなこととして、隆翔の胸に刻まれた。
◇◆◇
遅れて始まったフルートパートの練習に沙里が戻ってきた。
沙里の左手には大きな絆創膏が貼られ、赤く腫れた指の付け根には薄い湿布が当てられていた。
「沙里先輩、その手、どうしたんですか?」
真っ先に気付いた吉田が、心配そうに身を乗り出す。江藤や山根も練習を止め、沙里の左手へ視線を集めた。
「ああ、これ?」
沙里は左手を軽く持ち上げると、何でもないことのように笑った。
「ちょっとバランス崩して、壁に手をぶつけただけ。保健室でも大したことないって言われたから、心配しないで」
「でも、すごく腫れてません?」
「平気、平気。ちゃんと指も動くから」
そう言って、沙里は一本ずつ指を動かしてみせた。
多少の痛みはあるはずだった。それでも表情を崩さず、後輩たちを安心させるように微笑んでいる。
「それより、練習遅らせちゃってごめんね。全国まで時間ないんだから、すぐ始めよう」
いつもの調子で楽譜を開き、沙里はフルートを組み立て始めた。ほどなくして、パート練習に沙里の音が加わった。
後輩たちには普段と同じように聴こえているらしかった。しかし、事の顛末を知る隆翔は気が気ではなかった。
少し前まで泣き崩れていたことなど、欠片も悟らせまいとしている。
それが沙里なりの責任感なのだろう。同時に、誰にも弱さを見せまいとする意地でもあった。
練習後、隆翔は秀一を訪ねた。
彼の所属するトロンボーンパートもまた、編成に手が加えられた。混乱したパートと言っても過言ではなかった。
「あ、樟葉先輩!」
「おー、浅野くんじゃん」
トロンボーンパートの教室で隆翔を出迎えたのは、今回のオーディションで初のコンクールメンバー入りを果たした浅野勇高だった。
「メンバー入りおめでとう。流石、秀一が認めただけはあるね」
「あ、ありがとうございます」
「一緒に頑張ろうな」
「はい! ただ……」
彼は一度口を閉ざした。
その瞳に見えるのは、葛藤と僅かな恐怖だった。
「葉加瀬先輩の顔見たら、素直には喜べなかったっス」
浅野の言うことは尤もだ。彼も実力ある奏者だが、今回落ちた葉加瀬みちるだって南中からトロンボーン一筋で吹いてきた。そこには滝による何らかの思惑があり、編成に最も必要とされる人材が浅野だった。
隆翔は彼の肩にポンっと手を置いて労った。
「そうか。でも、余計に気負う必要はないよ。みんなそれに納得して、ここまでやってきたんだから」
「はい!」
今度こそいい返事をもらったことで、隆翔も胸を撫で下ろした。
「そうだ。秀一ってどこにいる?」
「秀一先輩でしたら、多分調理室じゃないですかね」
「そうか、幹部会議。なるほど、探してみるよ」
それから浅野は意気揚々と個人練習に戻っていった。
校舎一階の調理室は、校内でも不思議と隔離された場所にある。
ここは、隆翔が入部してから様々な思い出が残っている。卒業した加部友恵と出会ったのも、この教室だった。そこで隆翔の吹奏楽部員としての生活が始まった。今となっては懐かしさすら覚える。
思えば遠くまで来たものだ。この生活も、あと一ヶ月もしない内に終焉を迎える。
ガラッと音を立てて、調理室に引き戸を開ける。視線の先に、隆翔の目的となる人物がいた。
「やっぱ、ここにいたか」
「……おう、隆翔。何か用か?」
四つの机を向かい合わせにした状態で、秀一は椅子に座って、オレンジ色のノートを眺めていた。
「幹部ノート?」
「……ああ、これな。何か書こうと思ったんだけどさ、あの結果を聞いちまうとペンも進まないわ」
「適当に「オーディション落ちなくて良かった」とでも書いとけよ」
「いやいや、まだ久美子のオーディションが終わってないだろ」
隆翔は、秀一が口にした名前を頭の中でもう一度なぞった。
この二人が別れてからというもの、秀一が公衆の面前で黄前を今までのように「久美子」と呼んだ姿を一度も見ていない。誰に言われたわけでもない。自分から彼女との間に線を引くように、頑なに役職名で呼び続けていた。
「……秀一が黄前のことを名前で呼んだの、久しぶりに聞いたような」
「あぁ……確かにな。今思えば、最初はつまらない意地だったような気もする。フラれても尚、アイツの近くで支えられるっていう浮かれた思いも多少はあった。だけど、俺なりのケジメだったのかもなぁ」
背もたれに寄りかかると、顔を上げて天井を見上げた。
自分なりのケジメ。秀一が二年生の合宿から抱き続けた想い。全国大会では、そういう事にも決着がつく。
「逆に、告白されなかったら?」
「……そういうこと聞けるのって、俺ん中じゃお前だけだよ」
秀一は苦笑すると、指先でペンを転がした。
隆翔だからこそ答えられる問いだった。同時に、隆翔に対してさえ、すぐには言葉にできない問いでもあった。
しばらく黙り込んだ末、秀一は小さく息を吐いた。
「そうだな……まあ、その時は潔く諦めるさ。長い片想いだったって事にして」
「諦めるのは、まだ早いんじゃない?」
「かもな。でも、元々去年に終わってたって事を考えれば、この一年は副部長に専念できたから無意味ではないだろ」
「……それもそうか」
「ああ」
そう言って、秀一は笑った。
彼の中で、黄前と再び交際できる可能性は低いと見ているようだった。
秀一は決して、黄前への想いを失ったわけではない。むしろ、今も変わらず好きだからこそ、彼女が自分を選ばなかった時には、その結果を受け入れようとしている。
潔いと言えば、潔い。
だが、それを聞いた隆翔の脳裏には、先ほどの沙里の姿が浮かんだ
受け入れざるを得ない結果と、受け入れるべきではない結果の境界線は、結局その人の主観でしかない。
「……秀一」
隆翔が声の調子を変えると、秀一の表情からも笑みが消えた。
「なんだよ改まって」
「ちょっと、聞きたいことがある」
「……再オーディションのことか?」
「そうだ」
隆翔は頷き、向かい側の椅子を引いた。
腰を下ろそうとしたところで、調理室の入口から小さく物音がした。
「話なら、アタシも聞く」
廊下の陰から高坂麗奈が姿を現した。手には数枚のプリントが抱えられている。
「……なんだ、いたのかよ」
「途中からいたわよ。二人が勝手に話し始めたのよ」
「だったら声くらい掛けろよ」
「邪魔をする必要はないと思ったから」
高坂は淡々と答えると、秀一の隣にある椅子を引いた。
「それで、樟葉は何を聞きたいの?」
射抜かれるような、真っ直ぐな視線だった。
高坂は、この公開再オーディションの当事者にあたる。自分の音の相棒を決めるのだ。しかも、賽は顧問ではなく部員一人ひとりに委ねられた。
高坂を見ても、感情の揺らぎは感じられない。ただ、再オーディションの決定を心から歓迎しているようには見えなかった。今回の一件は既に決まったこととして受け止め、その上で自分の役割を果たそうとしている。
秀一もまた同様に、強い反発を抱いている様子はなかった。
おそらく、二人だけではない。発表を聞いた三年生の多くが、驚きこそ見せても、滝の決定に正面から異を唱えることはなかった。
それが、隆翔には引っ掛かっていた。
「二人はさ」
一度言葉を切り、向かいに座る二人を交互に見る。
「今回の再オーディション、本当に必要だと思うか?」
隆翔の問いに、高坂は一考した。
問いの意味を確かめるように、隆翔の目を見つめている。
「……必要かどうかは、アタシが決めることじゃない」
返ってきた言葉は、肯定でも否定でもなかった。
「滝先生が久美子と黒江さんの再オーディションが必要だと判断した。だったら先生の判断を支持するだけよ」
「高坂自身は?」
「同じよ」
「それは答えになってないだろ」
高坂の眉間に皺が寄った。
「じゃあ、樟葉は何を聞きたいの?」
「一度出た結果を、ユーフォニアムだけもう一度決め直す。それは本当に正しいことなのかな」
この、ずんと沈んだ気持ちはなんだろう。
滝の判断が揺らいだことへの苛立ちでもなく、泣き崩れた沙里の代弁をしたい訳でもない。
隆翔自身は、今回の結果を既に受け入れていた。
最後のオーディションで沙里に敗れた。悔しくないわけではない。それでも、彼女の演奏が自分を上回ったことには納得している。もう一度やらせてほしいとも思わなかった。
だから分からなかった。
自分たちが受け入れた結果と、ユーフォニアムだけがもう一度問われる結果。その二つを隔てているものは、いったい何なのか。
胸の底に沈んだ違和感へ、隆翔はまだ「正しさ」という曖昧な名前しか与えられずにいた。
「沙里が言ってたんだ」
隆翔は、机の上へ視線を落とした。
「これまで三年間、滝先生を信じてオーディションを受けてきた。なのに、今回に限ってユーフォだけ再オーディションなことに怒ってたよ。滝先生と松本先生の審査を信じてきたのに、俺と沙里の差はそんなに歴然としてたのかって」
高坂は口を挟まなかった。
黙って聞いている横で、秀一が僅かに目を伏せた。
「別に、沙里はフルートもやり直せって言ってるんじゃない。俺だって、もう一度吹かせてほしいとは思っちゃいないんだ。だけど、最後の最後でそんな想いを抱えたまま、あいつを全国の舞台に立たせたくない……」
心で思っている以上に、隆翔の喉からは悲痛な声が響いた。自分を痛めつける程の悔しさに苛まれた沙里を放っておくことは、隆翔のポリシーが許さなかった。
高坂は一度息を吐いてから、なるほど、と低い声で呟いた。
「高橋さんの言いたいことは分かるわ。全員を審査した結果を信じて、みんな全国へ行こうとした。そこでユーフォだけやり直すって言ったら、そういう疑念が生まれるのは当然よ」
「──だったら」
「だから、全員で決めるんじゃないかしら」
高坂の返答に、隆翔は言葉を失った。
「……どういう意味だよ」
「全員で聴いて、白か黒か決めるの。二人の奏者を決めたという責任を伴って」
高坂は、もう既に覚悟が決まっている目をしていた。
「それで部員全員が納得するのか……?」
「正直、アタシにも分からないわ。でも、ドラムメジャーとして、ソリストとして必要なことだから吹くだけよ」
「必要なこと……」
「ええ、そうよ」
その意志は本物だった。高坂の、奏者としてどこまでも気高くあろうとする姿勢は、とても眩しく見えた。
それと同時に、彼女の立場に同情した。悲しいまでに、音楽に正しくいようとする生き様は、演奏におけるすべての責任と結果を負おうとする覚悟があった。
「……なんか、二年前に似てるな」
それまで黙っていた秀一が、ぽつりと呟いた。
高坂が横目で彼を見る。
「そうかしら」
「二年前……?」
隆翔が聞き返すと、秀一は一瞬だけ不思議そうな顔をした。だが、すぐに思い出したように頷いた。
「そうか。隆翔は知らないんだっけ」
「何をだよ」
「俺たちが一年生の時も、コンクールメンバーが決まったあとに再オーディションがあったんだよ。しかも全員参加型の。あの時は、トランペットだったけどな」
秀一はそう言って、高坂へ視線を向けた。
「……ええ。そう言われれば、そうね」
高坂は短く答えた。
その声は不自然に固く、どこか過去を遠ざけようとする感情があった。
「何があったんだ?」
隆翔が問うと、秀一は机の上で両手を組んだ。
「最初のオーディションで、高坂がトランペットのソロに選ばれた。当時一年だった高坂と、三年だった中世古先輩が最後まで残ってな」
「一年が三年を抑えたのか」
「ああ。その先輩は、前年の退部騒動の時に間に入って辞めていく一年生を庇っていたんだ。だから二年生以上にはかなり支持されててな。でも、その年に赴任した滝先生は一年生の高坂を選んだ。高坂の方が上手かったから」
なんとなく、発表の光景が想像できる。昔のように、刺々しさ全開で堂々としている姿が。
「でも、そのあとで問題が起きた。滝先生と高坂が、入部前から知り合いだったことが部員に知られたんだ」
「知り合い?」
「父と滝先生が昔からの知り合いだったのよ」
高坂が淡々と補足した。
「それで、滝先生が高坂を贔屓したんじゃないかって声が出てな」
「……なるほど」
当事者でない隆翔でも、その動揺具合は容易に想像できた。
一年生が三年生から花形のソロを奪う。当然、部内には感情的なしこりが生まれる。そこへ顧問との個人的な繋がりまで明らかになれば、本当に実力だけで選ばれたのかと疑う者が現れても不思議ではなかった。
「滝先生は、最初こそ変えるつもりはなかった。勿論、贔屓した事実も証拠もない。いわば、言い掛かりだな」
「でも再オーディションに踏み切ったんだろ」
「ああ」
話が見えてこなかった。
なぜ、言い掛かりに対して毅然と振る舞っていたのに、三年生の望む方向へ舵を切ったのか。そこにどんな葛藤があったのか。
その答えとも言えるものを、高坂が持っていた。
「……あれは、先輩を救うための公開オーディションだった」
隆翔と秀一は同時に高坂を見た。
「先輩たちは、人望ある香織先輩を全面的に支持してた。アタシが吹くたびに贔屓だなんだって声も上がって。でも、アタシは何とも思ってなかった。再オーディションになっても、捩じ伏せてやるとすら思ってた。でも、実際は全然違っていた……」
言葉を止め、今一度頭の中で整理した。
「香織先輩は、先生の審査を疑ってなかったと思う。でも、周りの声を全面的に否定して回れるほど強く言える人でもなかった。次第に膨れ上がるアタシへの疑念に、一番つらい想いをしていたのは、きっと
あまりに切ない話だった。
今の北宇治は、その先輩の屍の上に成り立っていると言っているに等しかった。
「じゃあ、オーディションは高坂が本気で吹いて、全会一致で決まったと?」
隆翔の問いに、高坂は首を振った。
「本気で吹いたのは本当よ。でも結果的に、みんなどちらかっていうのは選択できなかった。拍手したのも、久美子とか優子先輩とか、ほんの一握りだった」
「高坂の音は本物だったよ。それは、ちょっとでも音楽を経験している人なら理解できる程にな。でも、情けない話なんだが……あの時、俺はどちらかを決める勇気がなかった。でも、結局投票では決まらなくて──」
「そう……あの時は、先輩が自らソロを手離したのよ」
隆翔は思わず眉を寄せた。
音楽の優劣を、大勢の意思で決める。それ自体は今まさに行われようとしていることだ。ただ、その先輩は最初からソロを取り返そうなんて思ってはいなかった。すべてを収拾つかせるために、身を投げ打ったのだ。
凄まじい自己犠牲精神だった。
「……その先輩は、浮かばれたのかな」
「分からない。でも、自分に納得したかったって、後で言ってたわ」
「あの時、俺たちは先輩の本心に気付けなかった。でも、久美子と黒江には同じ結末を辿って欲しくない。今回の再オーディションが偶然とは思えないからこそ、同じ間違いは犯せないと思う」
秀一の言うことは尤もだった。二人は、二年前の結末にまだ決着を着けていない。そして、恐らく隆翔以外の三年生全員が同じ思いなのだ。
血の気が引いて、手指の感覚が鈍くなるようだった。
北宇治は、かつての過ちをまだ引き摺っている。しかも、そこにある現実は、二年前の再現だった。
「本当なら、こんなことはあっちゃダメなんだ。誰かが傷付けば丸く収まるなんて間違ってる」
「そうだな……」
遠い目をしていた。彼が見据えたのは、隆翔が絡んだ過去の出来事。傷付き続ける自分を守ることもせず、羽根をもがれた姿を目の当たりにした、隆翔と秀一が共有する苦い過去だ。
「……今回、一番傷ついた人って、誰だと思う?」
隆翔は、自然とそんな言葉を口にしていた。
秀一は少しも迷わなかった。
「久美子じゃないのか?」
その答えに、高坂も小さく頷く。
「私もそう思う」
「その心は?」
「いやいや、決まってるだろ。部長として部を引っ張ってきたのにソリストには選ばれない。ただ、アイツにも立場があるから全部飲み込むしかないんじゃないか」
秀一は苦々しい表情を浮かべながら言った。その言葉に、高坂も頷いている。
言ってることは、黄前の目線に立ってみれば間違っていない。それでも、隆翔は肯定できなかった。
「……俺は、黒江の方が危ういと思う」
高坂の瞳が揺れた。彼女の心根に宿っている願望が、隆翔の判断によって揺らぎをもたらした。
「どうして?」
「黒江自身が、ここを居場所と思っていないからかな。黄前という、後輩からの支持も厚い奏者の前では、黒江の実力は諸刃の剣だから」
高坂が首を傾げる。
持てる者と持たざる者。今回で言えば、ユーフォニアムのソリに最も近いのは真由で、黄前は一枚落ちる。
吹きたいという欲求からは、どうしたって逃れられない。それが奏者の
「仮にそうだとして、樟葉はどうしたいの? オーディションを止める? それとも、またパーリー集めて抗議でもする?」
「おい、そんな言い方ないだろ」
「塚本は黙ってて」
高坂は強い口調で、煮え切らない態度の隆翔を責めた。
「正解は分からない。けど、ひとつだけ言えるとしたら、部として相応しいソリストが黒江だとしても、それであいつが救われることはない」
目の前に浮かんだ現実と取捨選択。
隆翔は、きっとこうなるだろうと薄々感じていた。いくら関係が回復しても、この四人は希美や優子たちのように意気投合することはない。意見は割れ、それぞれの方向に歩みを進めていくだろう。
再び険悪になる二人を見越して、秀一が話を変えた。
「でも、なんで滝先生はこうなると分かってて、再オーディションなんか決めたんだろうな」
「まあ、確かに」
高坂は目を伏せて、静かに口を開いた。
「……本来なら、こんなことをする必要はなかったのよ」
二人が彼女に振り向く。
「関西大会の結果を鑑みれば、先生が一度下した判断をもう一度覆す理由なんて、本来は存在しない。でも、私たちは先生に全部預けきれなかった」
その一言に、秀一が息を呑んだ。
「関西大会の前、部がバラバラになりかけたでしょ。先生の決定に納得できない人もいたし、自分たちで集まって話し合いもした。先生も、それを止めなかった」
隆翔は目を伏せた。
パートリーダーを集め、部の空気を動かしたのは他でもない自分だったからだ。
「先生は、私たちが自分たちで考えて、自分たちで結論を出すことを選ばせた」
「……だから、再オーディション」
「そうよ。先生は自分なりの決断を持ってる。だけど、部員間で納得するには、こうするのが一番良いと思ったんでしょうね」
高坂の考察には説得力があった。その言葉には滝という指導者への絶対的な信頼が滲んでいた。
調理室が再び沈黙した。
そろそろ黄前も帰ってくる頃だ。幹部会議まで長居する必要はないと思った隆翔は、荷物をまとめて席を立った。
「邪魔したな。沙里は説得しとくから安心してくれ」
「ああ、頼んだ」
「それと……高坂」
「……何?」
名前を呼ぶと、彼女は吊り上がった目で隆翔を睨んだ。不機嫌な様子を隠そうともせずに。
「前に言ってたお前の言葉、俺は信じてるからな」
「……どういう意味?」
「さあ。ただ、今回のオーディションは、ただでは終わらない気がしたから」
「そう」
その予兆は、おそらく高坂も感じ取っている。
この再オーディションは、ただのユーフォニアムのソリストを決めるオーディションではない。
秀一にも、高坂にも、そして隆翔にも譲れないものがあった。そのすべてが、北宇治の未来を思い、同時に守りたい誰かを思って生まれた願いだった。正解や不正解で判断できることではない。
だからこそ、この再オーディションには救いがなかった。正しい者同士が向かい合った時、人は何を拠り所に答えを選べばいいのだろう。
その答えはまだ、誰も知らない。
【つづく】