吹奏楽部に衝撃を与えた再オーディションの告知から一夜明けた学校は、部活中の波紋が嘘のように穏やかだった。清々しいまでの秋空は、禍根を残しながら進むしかない吹奏楽部を嘲笑っているかのようで、部員たちの中には、人の気も知らないでと忌々しく思う人も少なくない。
四限目の授業が終わると昼休みになる。クラスメイトたちは待ってましたと言わんばかりに弁当を広げ、束の間の休息を堪能する。斯くいう隆翔も、母が作った弁当を食べながら午前中の授業で出た内容を頭に叩き込むという、普通の日常を送っていた。
一応、進学校である北宇治は殆どの生徒が大学や専門学校への進学を希望する。川島
十月に入り、女子の制服も冬服に変わった。そして、推薦入試の時期も近づいていた。試験は十一月だが隆翔はこれを狙わずに、年が明けた一月の一般入試に向けて本腰を入れていた。
「樟葉」
教科書から目を離して呼び声に顔を上げると、そこには深緑色の髪を靡かせた小田が立っていた。隆翔の机の上を見たのか、少しバツが悪そうな顔をしていた。
「あっ……ごめん。勉強中だった?」
「いや、気にしないで」
「昨日のお礼を言おうと思って。沙里のこと、本当にありがとう」
そう言うと、小田は恭しく頭を下げた。
「どういたしまして。昨日のうちに色々聞きたかったんだけど、色々あって機会を逃しちゃった。あれからどうだった?」
「今朝はもう落ち着いてた。でも、わだかまりは残ってるみたい」
「そうか……」
心は落ち着いたとしても、沙里の中では気持ちに整理がついていなかった。
「私に全部吐き出してくれたらいいんだけど、それをしないのがあの子らしい」
「まあ、確かに……」
「どうするの? このままだと沙里、多分滝先生に直談判するよ」
「いやいや、流石に……」
とは、言い切れなかった。あれだけの怒りの熱を見せたのだ。「ユーフォだけじゃ不平等だ。フルートも再オーディションに参加しろ」と言い放つ光景はありありと想像できる。
「樟葉は、今回の結果に納得してるんだよね」
「そうだね……納得というか、沙里には全幅の信頼を置いてるから。そう言う小田は?」
「私も……沙里で良いと思うよ。ずっと頑張ってきたんだから、最後はあの子が吹くべきだと思う」
小田も実力のある奏者だ。だからこそ、自分を偽ってまで彼女を推挙したわけではない。緑青色の鋭い瞳が、それを雄弁に語っていた。
「じゃあ、やることは決まったな」
「沙里の説得ね。でも、具体的には何をするの?」
強情になった沙里の説得は骨が折れた。もし、この再オーディションに加わろうとしているならば、隆翔も沙里も傷付かずには終われない。隆翔自身はともかく、これ以上沙里が傷ついていくのは見ていられなかった。
「自分の音が誰よりも優れているって理解させるしかないな。いや……あいつの場合は、俺たちが担ぎ上げてやるのが相応しいか」
「もうちょっと言い方があるんじゃない?」
「でも、間違っちゃいないだろ」
「まあね」
小田は、ふっと表情を緩めた。愛すべきパートリーダーを支える役目を、彼女も自覚していた。
「今日やるんでしょ」
「そうだな、早い方がいい」
「ちなみに、沙里は進路面談で部活来るの遅れるって」
「ならば、善は急げだ」
「分かった、蕾実たちにも伝えとく。また放課後にね」
そう言ってから、小田は教室を出て行った。
心を決めた瞳を残して。
「仲、良いんだね」
耳もとで囁かれるハスキーボイスに、肩がビクッと揺れる。振り向けば、微笑みを浮かべた真由が隆翔に呼びかけていた。
「仲が良いというか、なんとかしないと沙里が立ち直れないから必死なだけだよ」
「高橋さん、何かあったの?」
真由の疑問は尤もだ。パートが違うことはもちろん、沙里が落ち込んでいる一件はフルートの三年生しか知らないことだからだ。
「ん、まあ……ちょっとな」
「多分、オーディションのことだよね」
「……ご明察です」
気まずい雰囲気になるのは仕方がない。そもそも当事者がいる空間でこの話をしたこと自体、迂闊であった。
「……私のせいだったりする?」
「いや、それは無いよ。ただ、沙里的には納得できなかったんだと思う」
再オーディションという前代未聞の決定。そのせいで、自分たちが信じ続けてきたオーディションそのものを疑わざるを得なくなった。昨日あった出来事を、隆翔は簡潔に伝えた。
「そう……なんだ」
話を聞いた真由は、小さな声で言った。
真由は目を伏せ、腕を抱くように自分の身体を包む。ほんの一瞬だけ浮かんだ陰りは、すぐに穏やかな笑みに塗り替えられた。
「言いづらいのに教えてくれてありがとう」
「いや。黒江こそ、当事者だから気になるもんな」
そう返すと、真由は曖昧に頷いた。
「……うん」
それだけ言い残して、真由も教室を出て行った。
少し暗い表情だったのは、再オーディションを控えた当事者だからだろう。隆翔はそれ以上深くは考えなかった。
だが、その時見せた儚げな横顔の意味を知るのは、もう少し先のことになる。
◇◆◇
放課後、フルートパートの練習教室では、進路面談で遅れる沙里を除いた八名が、各々準備に取り掛かっていた。
府大会まではB編成の部があったので別々に合奏練習が行われていたが、関西大会以降は全員等しく『一年の詩』を練習している。本番、何らかのトラブルで参加できないAメンバーが居ないとも限らない。そうした時の補充要員も加味して、ギリギリまで調整していた。
後輩からしても三年生との最後の練習期間になる。わざわざ口にする部員はいないが、別れの時間が刻一刻と迫っている今はその一分一秒が貴重だった。
昨日のことを話すなら今しかない。その念が通じたのか、小田と目を合わせて一度頷いた。
「みんな、練習始める前に少しだけ聞いて」
丸く囲われた椅子の真ん中で、小田が手を叩いて注目を引いた。管の調節をしていた吉田や水井、世間話をしていた二年生たちも顔を見合わせて小田を見た。
「芽衣子先輩、沙里先輩がまだですけど練習始めるんですか?」
「うん。練習を始める前に、少しだけ沙里に関することで話をさせてほしい」
山根の問いに、小田が優しい声で答える。
その言葉に、江藤や平石は「えっ」と驚いた表情になった。
一呼吸置いて、小田はゆっくり語り出した。
「みんな、昨日の結果発表聞いたよね。全国大会には私たち三年生と、一年生の吉田さんが出ることになった。そしてソリストは沙里に決まった」
各々、首を縦に振る。
「自由曲のソロについて、みんな色々思うところはあるでしょ。特に、ユーフォだけが再オーディションに決まった。私は、はっきり言ってびっくりした。確かに黒江さんと黄前さんは、実力も同じくらいだから、きっと滝先生も迷ったんじゃないかなって」
見たままの結果だ。しかし、その主観にみんなは頷いた。驚き、困惑、愕然。それぞれの想いと信念がそこにはあった。
「でもね、それでも今まで滝先生の判断を信じてきた。だからどうして今回、しかもユーフォだけって思わなかったかと言われれば、それは嘘になる」
そこで一度言葉を切って、目を閉じた。
親友がひた隠そうとした事実を打ち明ける。きっと、小田にとって初めて彼女を裏切ることになる。その罪悪感と必死に戦っていたのだ。
「昨日、沙里が遅れて来た理由なんだけど……実は、私が保健室に連れて行ってたの」
後輩たちの表情が明らかに曇る。
その想いを代表して、吉田が心配そうに尋ねた。
「保健室って……何があったんですか?」
「昨日のオーディション発表のあと、色々思い詰めちゃって。それで壁を叩いた時に手を怪我しちゃったの」
「えっ……」
明らかになった事実が受け止めきれないのか、吉田と水井は困惑した表情で互いに顔を見せ合っている。
「だから、あの絆創膏……」
「幸い、演奏に影響するような大きな怪我じゃなかった。でも、それくらい昨日の結果発表は沙里にとって悲しかったんだと思う」
教室が静まり返った。誰も軽々しく口を挟めるような雰囲気ではなかった。
沙里には、希美や優子、高坂のようなカリスマ性はない。しかし、どんな時もポジティブで誰も見捨てなかった。フルートパートの精神的支柱であることは、ここにいる全員の周知の事実だ。
小田は一人ひとりの顔を見渡した。
「誤解しないでほしいんだけど、あの子は部長や黒江さんを責めてるわけじゃない。今回の件は、誰かが悪いとかでもないの」
小田は一度言葉を飲み込み、小さく息を整えた。親友の痛みを代わりに語ることへの躊躇いは、最後まで消えなかった。
「ただ、今まで信じてきたものが揺らいじゃって、そのことがどうしても受け止めきれなかっただけ」
滝の審査を信じて受け入れてきた三年間。その積み重ねを共にしたからこそ、沙里が抱えてしまった苦しさを想像できた。
「だからさっき、樟葉と話し合った。このまま全国まで引きずらせるわけにはいかない。だからみんなの力を貸してほしい」
その言葉を最後に、教室は再び静寂に包まれた。しかし、誰も下を向いていない。沙里が教室へ入ってきた時、自分たちは何を伝えるべきなのか──それぞれが、その言葉を胸中で探し始めていた。
その時、ガラリと扉が開いた。
「ごめん、お待たせ!」
進路面談を終えた沙里が息を切らして教室に入ってきた。いつもと変わらない明るさで。むしろいつもと違うのは教室の空気だった。誰一人として音を奏でておらず、八人全員の視線が一気に沙里へ集まった。
「……え、みんなどうしたの?」
沙里はきょとんとして、その場で固まった。
誰もが彼女を見つめたまま、去来した感情を思い思いに受け止めていた。
「えっと……もしかして練習に遅れたから怒ってる? ごめんごめんって。ほら、時間もないし、早く始めよう?」
そう冗談めかしたところで、誰も反応していないことに気付いた。
「あっ……さてはみんな、私が来るまで練習サボってたでしょ。もぉ〜、しょうがないなあ」
「沙里先輩」
困惑する沙里の声を遮って、最初に口を開いたのは吉田だった。椅子から立ち上がり、真っ直ぐに沙里を見つめた。
「昨日起きたこと、芽衣子先輩から聞きました」
「……え」
その一言に、沙里の表情が固まった。そしてゆっくり、視線を小田に送った。
小田は申し訳なさそうに眉を下げ、小さく頭を下げた。
「ごめんなさい、沙里。私がみんなに話した」
沙里は目を瞬かせると照れ臭そうに小さく笑った。
怒るでも呆れるでもなく、横髪を耳へ掛けながら息を吐いた。
「そっか……かっこ悪いから、本当は知られたくなかったんだけどな」
「そんなことありません!」
沙里の言葉に、吉田は首を振って否定した。
「沙里先輩がそこまで思い詰めてたなんて知りませんでした。なのに、私はメンバーに選ばれただけで舞い上がって……自分が恥ずかしいです。私は沙里先輩に出会わなかったら上手くなれませんでした……!」
「巧美ちゃん……」
「私は……ソロは先輩が吹くべきだと思います」
吉田の心の中は悔恨と申し訳なさ、そして沙里を慕う想いが混濁している。その中であっても、彼女は笑って沙里のソロを支持した。
その言葉に続くように、江藤も立ち上がった。
「私もです。昨日の話を聞いて、余計にそう思いました。そこまで本気で音楽に向き合える人だからパートリーダーが務まるんだって」
江藤の力強い言葉が沙里を包み込む。それに続くようにして、平石と山根も口を開いた。
「演奏技術だけじゃなくて、私たちのことを一番に考えてくれたのは沙里先輩でした」
「私もです。ピッコロになった時、慣れるまでずっと手取り足取り教えてくださったこと、ずっと忘れません。沙里先輩のお陰で、ピッコロが好きになれました」
「今までソロって、一番上手い人が吹くべきだと思ってました。でも、違ったんですね。このパートを代表する人が吹くべきだったんだなって」
二年生の三人は、強い意志の宿る表情で沙里を見つめた。彼女たちも、フルートパートの母艦たる沙里への敬意をもってソリストへ推挙した。
「まだ分からないことだらけですけど……このパートに入って本当に幸運だったって思います。色んな奏者がいて、色んな音があって……でも、一番好きな音は、沙里先輩の音色です」
遠慮がちで、普段はそこまで目立とうとしない水井がはっきりと沙里がソロを吹くべきと意思表示した。
最初は、どのパートに入ろうか右往左往していた彼女に、フルートの楽しさを教えたのは沙里だった。水井にとって、それは何よりも心に残ったのではないだろうか。
「みんな……」
沙里は左手へ視線を落とす。
衝動のあまり自分で付けた傷に貼られた絆創膏を、まるで許しを乞うように右手でそっと撫でた。
「沙里ちゃん」
中野は微笑みながら、沙里の手をそっと包み込んだ。その仕草に沙里の顔が上がる。
「もうそんなふうに、自分を責めないで」
自傷行為を肯定したり責めたりはしない。ただ、沙里という存在そのものを抱き留めるように、彼女は元来の優しさで沙里の行いを諌めた。
そして、小田も前に出て簡潔に言葉を告げた。
「このパートが今日まで活動できたのは全部沙里のおかげ。だから、全国で吹いて」
小田も沙里や中野と共に真面目に頑張ってきた。しかし、沙里とソロを争う最大のライバルは自分ではないと自覚していた。チャンスがあれば、かつての希美のように堂々とソロを吹きたい。奏者であれば一度は思うことだ。その願いに蓋をして、彼女は大親友が復活することを望んだ。
「ほら、樟葉も」
小田に背中をポンと叩かれ、椅子から立ち上がる。
これが沙里への最後の一押しとなるか。隆翔は表情を引き締めて、彼女と向き合った。
「俺は……自分の限界がどこにあるのか、まだはっきりとは分からない。でも、二年生の途中から今日までやってこれたのは、ここにいる全員が俺を受け入れてくれたから。でも、先週のオーディションの時点で、俺は沙里を実力で上回れなかった」
瞳を潤ませて首を小さく横に振る沙里と真正面から向き合う。こんな状況でも、そう思ってくれる優しさが隆翔には眩しかった。
「ごめん、沙里。俺は、再オーディションで証明するまでもなく、沙里がこのソロに相応しいと思う。三年間頑張ってきたんだろ? 全国でソロを吹きたいんだろ? 俺は譲ってなんかないからな。譲られたって思いながら全国で演奏したら、俺はお前を許さないからな!」
府大会で感じてしまった実力不足。経験値の少なさか、それとも技術力か。いずれにしても、自分の足りない部分を底上げした沙里が関西大会ではソリストになった。
オーディションの判断基準は不透明だが、全国大会でも同様に、彼女の安定した音色とメンタルが相応しいと判断されたのだとすれば納得するしかない。
長い沈黙が流れた。
言うべきことは言った。沙里に吹いてもらいたいという想いは、フルートパートの総意だ。
「……本当に、私でいいの?」
沙里は震える声で問い掛けた。その声に、全員が手を伸ばす。
「もちろんです!」
「沙里先輩しかいません!」
「先輩ならやれます!」
「全国金、獲ってください!」
後輩たちが矢継ぎ早に沙里を鼓舞する。
愛すべきリーダーへの賛辞と、闘い抜く勇気を届ける鬨の声があがった。
重なる言葉に沙里は堪え切れず、頬を伝う涙を拭いながら、何度も小さく頷いた。
「……ありがとう。こんな私だけど、みんなが金を獲れるように、精一杯演奏するね!」
その言葉でみんなに笑顔が戻った。最後まで引き締まった顔つきの小田もほっと胸を撫で下ろした。
九人のフルート奏者が、再出発の汽笛を鳴らす。
よく磨かれた管に、決意の籠った横顔が映り込む。そこには、もう涙はなかった。
「それじゃあ、今日も頑張ろう」
『はい!』
最初の音が鳴り響く。
一音、また一音と重なって教室に共鳴する。
わだかまりが完全に消滅した訳ではない。ただ、一人だけ後ろを向いたままなら、きっと後悔する。
これが正しかったと胸を張って言えるのは、本当に全部が終わってからだろう。
まさに、雨降って地固まる。先の見えない未来を前に、フルートパートは再び一致団結した。
◇◆◇
それからは、全国大会に向けた練習に邁進した。パート全員に背中を押された沙里は、ソリストとして最後の大舞台に向けて研鑽に努めている。
府大会、関西大会を経て、合奏のクオリティは着々と向上している。演奏に参加しないBメンバーも、自分たちのすべきことを理解してコンクールメンバーを献身的に支えていた。
「では、最初から通しでやります。第三楽章、ユーフォのソリは黄前さん、お願いします」
「はい!」
そんな中、やはり違和感を放ち続けている楽器がユーフォニアムだった。
数あるソロパートの中で、まだユーフォニアムだけが決まっていない。先日のオーディション結果発表で公開オーディションの実施が決まってから、滝はその日の状況に応じて、黄前か真由のどちらかをソリストに指定していた。
部員全員の投票によって、どちらが相応しいかを決める。一見すれば平等な方式だ。しかし、そこには大きな見落としがある。
公開オーディションにおける判断基準は、「演奏を聴いて、自分が良いと思った方」という至極曖昧なものだった。それに、黄前久美子と黒江真由を除いた八十九人の中には、高校から吹奏楽を始めた水井のような初心者も少なくはない。この再オーディションは公正に見えても、それが公平な判定を保証するものではなかった。
まるで、あの時のようだと隆翔は思った。
今年、新入生が正式に入部した日のことだ。黄前は今年の目標として『全国大会金賞』を掲げ、そのために本気で、強豪校らしい部活運営をすると宣言した。昨年、関西大会で終わった悔しさを考えれば、雪辱を果たすための目標としては当然だった。
しかし、隆翔が引っ掛かったのはお題目ではなく、目標の決め方だった。
部員の中には、『全国大会金賞』という言葉が何を意味するのか十分に理解できないまま手を挙げた者もいたはずだ。まして、その日に正式な部員となったばかりで右も左も分からない一年生なら、二、三年生が迷いなく挙手する光景を前に流されてしまった者がいても不思議はない。
だから隆翔は、挙手の瞬間に自分の違和感を信じた。
黄前や高坂に睨まれる中、最後の一人になって初めてその手を挙げたのだ。
あの時の黄前は、目標を決める上で最も重要なプロセスを飛ばしていた。
なぜ全国大会金賞を目指すのかという理由を、部員全員で共有しなかった。
強豪校として振る舞うために必要なのは『歴史の共有』なのだと、今の隆翔なら主張するだろう。隆翔が吹奏楽部へ入部する一年前。弱小だった北宇治高校吹奏楽部は前の年に大量退部という大きな問題を起こしていた。そこへ滝が顧問として赴任したことで環境は一変した。そして、当時スーパールーキーとして入部した高坂麗奈の登場によって、部員たちは実力で上級生と争うことの功罪を身をもって体験した。
そのすべてを知る黄前と高坂だからこそ、今年入ってきた後輩たちへ伝えられることがあったはずだ。
しかし秀一を含めた幹部の三人は、それまでマネージャーだった隆翔を排した新しい体制作りに躍起になっていた。その結果、伝えるべき機会を逸したまま、ただ甘さを排除するのみの部活運営に舵を切ってしまった。
もちろん、当時の隆翔がそこまで違和感の正体を理解していたわけではない。それでも、あの時だけは強権を振るう黄前にどうしても抵抗しなければならないと思った。
そして今なら、あの時彼女へ視線で問い掛けたことは間違っていなかったと言い切れる。
『いずれお前が奈落に落とされようとも、その覚悟はできているな』と。
今回、なぜ部員全員の投票で決める必要があるのかと、隆翔は改めて考えた。
確かに高坂が言ったように、オーディションで一度大きな混乱が生じた以上、再び同じことが起こらないとは言い切れない。
ここまで来たら、是が非でも金賞を取りたい。三年生や二年生は、まるで仇討ちでもするような面持ちで日々の練習に臨んでいる。だからこそ、顧問には一度の判断ミスさえ許されない。しかも、滝に対する疑念が生まれたのは、ついこの前のことだ。本人が何も考えないはずがないのだ。
そこで辿り着いた結論が、部員の総意で決める公開オーディションだった。しかもそれは、今の三年生が一年生だった頃に経験した出来事の繰り返しでもある。秀一と高坂が苦い顔をしたのも無理はなかった。
集団の思考に純度というものがあるなら、そこにはどうしても濁りが生まれる。しかし、澄み切った水には生き物が棲みつき難いように、吹奏楽部という集団にもさまざまな思惑や感情が混ざり合う余地は必要なのかもしれない。
その清濁ごと抱え、自分たちで考え、自分たちで答えを選ぶ。滝はそれこそが奏者を成長させるものだという考えに至った可能性がある。
「では、今日の練習はここまでとします。明日はホールを貸し切っての合奏練習です。本番に近い環境で練習することで、自分に必要なこと、まだまだ改善できることを見つける機会にしてください」
『はい!』
「それと、明日の合奏練習前に行うユーフォニアムの再オーディションについて、一点お話したいことがあります。B編成の人も聞いてください」
滝の言葉に、音楽室の空気が一気に硬化した。避けては通れないとはいえ、言わずもがなデリケートな話題には違いない。ゴクリ、と誰かが生唾を飲む音が聞こえるようだった。
「まず、このたび公開オーディションとなった経緯を説明させていただきます。今回対象となった黄前さんと黒江さん。お二人とも、先週のオーディションは素晴らしい演奏でした。どちらがソリを務めても問題ないレベルに達していると、私は思います」
ですが、と滝は一度言葉を切る。
「お二人を含め、三年生は今回が最後の大会です。そしてソリストは一人。どちらが選ばれても、何かしら思うところはあるでしょう。皆さんの中にどんな感情があるかは大体把握しています。私の一存による判断でいいのか、恥ずかしながら迷ったのも事実です。そこで松本先生と相談し、公開オーディションに踏み切ることになりました」
滝の言葉からは、公開オーディションへ踏み切るまでの葛藤が滲んでいた。誰のため、何のためのオーディションなのか。公正さとは何なのか。その迷いまで、滝は包み隠さず口にしていた。
「更に先日、部長より提案があり、今回のオーディションはブラインド方式にすることに決まりました」
その言葉を瞬時に理解できた部員は、部長を除いて一人もいなかった。滝の説明は続く。
「オーディションの時のみ、ホールに置いてある白幕を使用し、客席からユーフォのお二人が見えないよう、その中で演奏してもらいます。つまり、誰が吹いているか分からないようにして、音だけで皆さんに判断していただく。そういった内容になります」
「先生、質問よろしいですか?」
唖然とする部員の中で一人が手を挙げた。女子の中でも一際背の高い、チューバ担当の鈴木美玲だった。
滝が「どうぞ」頷くと、彼女はおずおずと口を開いた。
「お二人がどちらか分からない状態で演奏するということですが、どうしてそのような方式が必要だと思ったんですか?」
滝は目を細めて、彼女の質問を受け止めた。
「──その質問には、私が答えてもよろしいでしょうか」
多少の恐れと、それでも踏み締めて進もうという気概が籠った声が、隆翔の背後から上がった。その一歩は、ソリストを目指す一人の奏者ではなく、北宇治高校吹奏楽部部長として踏み出したものだった。
そして黄前久美子は、最後の願いをこの場の全員に訴えかけたのだった。
【つづく】