「──その質問には、私が答えてもよろしいでしょうか」
静まり返った音楽室で、声の主である黄前久美子が微かに震えた声で再び部員に語り掛けようとしている。明日はソリストを決める場へ立たなければならない。その恐怖を逃げずに受け止めようとする強さがあった。
指揮台に立つ滝はそんな彼女へ視線を送り、何かを確かめるように目を細めたあと静かに頷いた。
「……分かりました。部長、こちらへどうぞ」
部員たちの視線を一身に受けながら、黄前はゆっくりと音楽室の前方へ歩き出した。
音楽室に、橙色に染まった太陽の光が差し込む。外の雑木林では、日暮れを惜しむように秋虫の声が幾重にも重なっていた。しかし、音楽室だけは別の世界に切り離されたように、不思議なほど静かだった。
黄前は滝に代わって指揮台に上がると、一度深呼吸してから全員を見渡した。
「部長の黄前です。まず、みっちゃ……鈴木美玲さんの質問から答えようと思います。今回の再オーディションを迎えるにあたって、私は考えました。公平って、平等ってなんだろうと……」
先ほどの合奏中、隆翔がまさに考えていたことが黄前の口から出てきて、内心驚いた。
黄前は言葉を選びながら、ゆっくりと話し出す。
「この前も、そしてその前のオーディションも、一年生から三年生まで公正にオーディションを行ってきました。関西大会の前にも言いましたが、北宇治らしく実力主義に則った、みんなにチャンスがあるやり方だと思います」
何人かが首を縦に振る。
彼女が関西大会直前に放った言葉は、既に結果で証明されていた。
「ですが、今回の公開オーディションは、そんな平等や公正さを喪ってしまう『怖さ』があると、私は思いました。誰々が好きだからとか、お世話になったからとか、みんな色んな想いがあると思います。みんなが信じられないからではなく、その判断をする上で必要な環境を整えたつもりです」
既に存在している人間関係がある以上、人は先入観を完全に捨てることは不可能だ。しかし、奏者の先入観を伏せることでその影響を少しでも小さくすることはできる。黄前が求めたのは、部員一人ひとりが自分の耳で聴いて、自分の意志で選ぶことだった。
「経験者も初心者も、みんながこの一年間頑張ってきたからこそ、こういうオーディションができるのだと思います。なので、この音なら、この演奏ならコンクールに出るに相応しい。そう思った方に正直に手を挙げてください」
黄前の言葉に感化された部員から拍手があがる。
関西大会の直前にもこんな光景があった。その再現なのか、黄前の言葉は再び部員の心を熱くした。
しかし、これまでの因縁がそんな簡単に解決するはずがなかった。
隆翔は僅かに首を巡らせ、後ろに座る真由の様子を窺った。そこには、伏し目がちになりながら周囲に合わせるように小さく手を叩く姿があった。
◇◆◇
ホール練習が翌日に控えているため、いつもより早い時間に全体練習が終わった。音楽室に蔓延るどこかそわそわとした空気の中で、部員たちはそれぞれの楽器を片付けながら周囲の顔色を窺うように小声で言葉を交わしていた。
隆翔もフルートをケースへ収めて帰り支度をした。
ふと低音パートの方へ視線を向けたが、そこには身支度をしながら雑談に浸る一年生の姿しかなかった。
「隆翔くん、もう行くでしょ?」
「ああ、うん。でも、時間が中途半端に余ったな」
「じゃあ、どこかに寄って行こうよ。私お腹減っちゃった」
フルートケースと学生カバンを肩に担いだ沙里に連れられて音楽室を後にする。これまで部活帰りに何度寄り道したか分からない。しかしこうしたことも、あと指折り数える程度しかないのだ。
昇降口に来ると、靴に履き替える真由と遭遇した。いつも一緒に帰っている釜屋つばめは、今日は妹と帰ったらしい。
「二人ともお疲れ様」
「お疲れ……」
「お疲れ様、黒江さん」
真由はいつものように人当たりのいい笑みを浮かべた。社交辞令のようで、言葉は少なかった。
「じゃあ、また明日ね」
軽く手を振って昇降口を出ようとする。その背中を見た瞬間、隆翔の胸に妙な引っ掛かりが生まれた。このまま何もなく、彼女はオーディションを迎えてしまうのか。どこかで助けを求めていなかったか。彼女にとって、この現状は芳しくないはずなのに。
──このまま帰してはいけない。
確固たる理由はなかったが、考えるより先に体が動いていた。
「待ってくれ!」
「……樟葉くん?」
「悪い。このあと時間あるか?」
「このあと? えっと……うん、塾までなら少しあるけど」
「ちょっとだけ、話したいことがあるんだ」
真由は目を丸くした。横にいた沙里は、隆翔の意図を察したのか何も言わずに頷いた。
学校を出た三人は、駅へ向かう途中にあるファストフード店へ入った。夕食にはまだ早い時間だったが、店内には同じように学校帰りらしい学生の姿がちらほらと席を埋めていた。レジで注文を済ませ、窓際にある四人掛けの席へ腰を下ろした。
三人の前には、それぞれジュースが入ったカップが並んでいる。その中央には、隆翔が注文したフライドポテトを置いた。
「これ、食べていいから」
「いいの?」
「一人じゃ多いし。沙里も食うだろ」
「もちろん」
言うが早いか、沙里は遠慮せずに一本摘まみ上げた。
真由も「じゃあ、少しだけ」と笑いながら手を伸ばす。
「こんな学校から近いところにお店があったんだね」
フライドポテトを口に運びながら、真由が店内を見回した。
「黒江さんは初めて?」
「うん。学校と家の往復ばっかりだから、こういう道から外れたところって意外と来なくて」
「へえ。私たちは前にも来たことあるよ」
「そうなんだ」
「まあ、あんまり楽しい理由じゃなかったけどさ」
沙里が含み笑いを浮かべた瞬間、隆翔は嫌な予感がした。
「……わざわざ言わなくていいだろ」
「まだ言ってないけど」
「そういう問題じゃない。含みを持たせるなって言ってんの」
「もう〜、誰のお陰で丸く収まったと思ってるの?」
「そりゃ、沙里のお陰だけどさ……」
隆翔が眉間に皺を寄せると、沙里は楽しそうに肩を揺らした。
真由は丁寧な所作で口の周りについた脂をナプキンで拭き取っている。二人のやり取りにきょとんとしていたが、やがて小さく笑った。
「二人って、本当に仲良しなんだね」
「まあ、友達だし」
「そうだね……こうなった経緯は複雑だけど」
沙里が隆翔の腕を軽く小突く。
隆翔は面倒そうにそれを払いながら、カップへ口をつけた。炭酸の気泡が口の中でパチパチと弾け、人工甘味料の甘ったるい味が広がった。
二人を眺めていた真由が、不意に呟いた。
「お似合いなんだね」
「え?」
摘んでいたポテトを持ったまま沙里がフリーズした。
真由は何かおかしなことを言っただろうかと首を傾げて、穏やかな笑みを浮かべていた。
二人はほとんど同時に顔を見合わせた。どちらから説明するべきか、互いに押し付け合うような沈黙が流れる。
先に観念したのは沙里だった。
「……そう見えるんだ」
呟いた声は消えそうなほど儚かった。頬がほんのり朱に染まっているのは、店内の暖色系のダウンライトのせいではないだろう。
「でもね黒江さん。私、隆翔くんに振られてるんだ」
「……え?」
「正確には告白すらできなかったんだけど……」
真由は笑みを浮かべたまま固まった。
沙里の恋慕は、表沙汰にならないまま終わっていた。彼女が隆翔に恋心を抱いていたことを知っているのは、本人と一部の友人たちのみだ。本人も話題にしていなかったからこそ、今ここで打ち明けたことに隆翔は仰天した。
「沙里、お前……」
「いいじゃん。別に今さら隠すことじゃないよ」
隆翔を軽くあしらってから、沙里は真由へ向き直った。
「私ね、隆翔くんのことが好きだったの。二年生の冬くらいから。でも、知っての通り隆翔くんには付き合ってる人がいるでしょ。しかも去年の夏からだから、私が好きになるよりも前に付き合ってて……だから、何もできなかったんだ」
こうも本人の目の前で堂々と過去を明かされると、彼女の恋を台無しにした側としては居た堪れない。隆翔は何も言えず、少しでも存在感を消そうと背中を丸めた。手持ち無沙汰にストローを弄りながら、氷の解け始めた炭酸飲料を見つめた。
「そんな露骨に小さくならなくてもいいじゃん」
「誰のせいだよ……」
「隆翔くんのせいじゃないってば。これは私の話だから」
自分の痛々しい過去を笑いながら打ち明けられるのは、誰にでもできることじゃない。胆力が違う、と隆翔は心の中で感心した。
「でも、隆翔くんとは今も変わらず友達だよ。それに、フルートでは絶対に負けたくないって思わせてくれるただ一人の存在なんだ。私より上手くなられたら悔しいし、私の方が上手くなったら思いっきり自慢する。そうやって今まで切磋琢磨してきたから」
「最後は負けたけどな」
「ふふん、滝先生のお眼鏡に叶って良かった」
「まったく……」
再び始まった軽口の応酬を前に、真由は笑うことなく目を見開いたまま、二人を交互に見つめている。
やがて自分の発言を思い返し、申し訳なさそうに眉をひそめた。
「ごめんなさい高橋さん、お似合いなんて言っちゃって。私、全然知らなくって……」
「いいよいいよ、気にしないで。それより、どうしてあんなに驚いたの?」
真由の視線が二人を交互に向けられる。
それから二人の間にあるものを確かめるように、しばらく黙り込んだ。
「その……告白とかって失敗したら気まずい関係になるじゃない? そのあとで普通に接することって難しいなって思ってたから、そうならないのが凄いなって」
「あはは……まあ大体の場合はそうなるよね。でも、現にこうして一緒に帰ったりしてるよ」
「……そうなんだ」
真由は手元のカップへ視線を落とした。
ストローの先を指で弄りながら、ぽつりと言葉を零す。
「そんなことも、あるんだね……」
それは単なる驚きというより、自分の知らなかった答えを初めて見つけたような呟きだった。
「黒江さん、もしかして……前に何かあった?」
それは単なる驚きというより、真由の中では両立しないはずだった二つの事実を、目の前で突きつけられたような呟きだった。好きだった相手と結ばれなくても、以前とは違う形で関係を続けている。真由にとって、それは今まで見たことのない関係性だった。
やがて、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「……昔の話なんだけどね。小学校の頃、転校した先で仲良くなった女の子がいたの」
真由は記憶を一つずつ拾い集めるように、ぽつり、ぽつりと昔のことを話し始めた。
転校したばかりで右も左も分からなかった真由には、すぐに仲良くなった女の子がいた。何人かで集まったグループの中でも中心にいるような女の子で、転入してきた真由にも分け隔てなく接してくれた。休み時間には遊びに誘い、学校のことも色々と教えてくれたという。
「優しい子だったんだね」
「うん。すごく優しくしてくれたんだ」
その女の子には、好きな男子がいた。
真由もその男子とは仲が良く、休み時間に話したり、他の友達も交えて遊んだりする間柄だった。ただ、それ以上の感情を抱いたことはなかった。
ところがある日、その男子から好きだと告白された。恋愛感情に対してあまり関心がなかった真由は、その告白を丁寧に断った。真由にとって、それで話は終わったはずだった。告白されたからといって、それまでの関係まで変える必要はない。自分は恋愛感情を抱いていないのだから、それを正直に伝えて、これまで通り友達でいればいい。少なくとも当時の真由はそう考えていた。
だが、それからしばらくして、仲の良かった女の子の態度が変わった。
話し掛けても素っ気ない。休み時間になっても誘われない。それまで一緒にいた友達の輪に入ろうとしても、どこかよそよそしい空気を感じる。
最初は気のせいだと思っていた。しかし、それが何日も続けばさすがの真由も理解した。
自分は避けられている、と。
「それでその子に聞いたの。私、何かしたかなって」
「……うん」
二人は話を遮らないように口を挟まず、真由の表情をじっと見つめた。
女の子から返ってきたのは、当時の真由には理解し難い答えだった。好きだった男子を取られた上に告白を断った。自分が好きだと知っていたのに思わせぶりな態度を取って、その男子を誑かしたのだと。
「……黒江さん、それはどうしようもないよ」
「でも、その子からしたら、きっとそう見えたんだと思う」
真由は語っている最中も、その子を責めるような言い方はしなかった。
ただ友達として接していただけだった。けれど、自分がどう思っていたかと、相手からどう見えていたかは違う。小学生だった真由は、図らずもその考えに至ってしまった。
その後、真由に告白してきた男子とはそれまでのように話せなくなった。
真由自身は友達でいたかった。けれど、一度互いの感情を知ってしまえば何もなかった頃には戻れない。顔を合わせても何を話せばいいか分からず、やがて関わる機会そのものが減っていった。
それでも真由は、女の子との関係だけは元に戻したかった。何をすれば許してもらえるのか。自分のどこが嫌だったのか。そう尋ねる真由に、女の子はいくつか約束を求めた。
「それで男の子とはあんまり話さないでって言われて」
「……そうなの?」
「うん。その通りにしたよ」
それから真由は、できるだけ男子と距離を取った。話し掛けられても必要以上の会話は避け、遊びに誘われても女の子たちと一緒にいることを選んだ。
すると、少しずつ元の輪へ戻ることができた。再び声を掛けてもらえるようになり、女の子とも以前のように笑い合えるようになったという。
「それで、仲直りできたんだ」
「うん」
真由は、そこだけははっきりと頷いた。
「その時はそれでよかったんだと思ったの。私がちょっと我慢すれば、みんな前みたいに仲良くできるなら、それでいいかなって」
何かを手放せば、壊れた関係を元に戻せる。自分が少し身を引けば、誰かが安心してくれる。幼い真由の中では、その経験が一つの成功例として残った。
やがて真由は、再び転校した。
「その子とは、それっきり?」
「最初の頃は年賀状とか来てたよ。でも、それは数年でなくなっちゃった」
「そっか……」
真由は小さく笑った。いつもの人当たりのいい笑顔で。
隆翔は、これまで真由が友達について話す時、どこか刹那的な響きがあったことを思い出していた。仲良くなっても近いうちに離別する。それでも、関係が続いている間だけはなるべく波風を立てたくはない。自分が譲歩することでその空間を守れるなら、それで構わない。そんな考え方が幼い頃から彼女の中に根付いていたのかもしれない。
その根底にこうした経験がいくつ積み重なっているのか、隆翔は身の毛のよだつ思いがした。
「……よくある話だね。恋愛絡みで、それまで仲良かった子と気まずくなるとか。女の子同士なら珍しい話じゃないと思う」
沙里は目を伏せ、テーブルの上に残ったポテトへ視線を落とした。
「だからって黒江さんが悪いって話にはならない。もちろん、その子も悪かったとも思わない。みんな子供だったから、どうすればいいのか分からなかったんじゃないかな」
真由は何も答えなかった。
沙里も無理に慰めようとはしない。ただ、そういうこともあるのだと真由の話を真正面から受け止めていた。
「でもね、黒江さん。私だって、今みたいに隆翔くんと話せるようになるまで、何もなかったわけじゃないんだよ」
沙里はそう言って、向かいに座る隆翔をちらりと見た。
「さっき言った通り、私は隆翔くんのことが好きだった。だから、最初はどうすればいいのか分からなかった。先輩のことを羨ましいって思ったし、できるだけ距離を置いた方がいいのかなって思ったこともある。でもね──」
沙里は隆翔の視線を受け止めた。瞳の奥、隆翔では辿り着けない場所に沙里は居場所を空けてくれていた。
「こうして今も一緒にいられるのは、隆翔くんが私を受け入れてくれたからだよ」
「大したことしてないよ……」
「本当、そういうところだよ」
沙里は、ふっと小さく笑った。
「それに希美先輩も、私が隆翔くんのことを好きになったって知ってるのに、今まで通り接してくれた。心がざわつかないはずがないのに、友達として近くにいることを許してくれたんだ」
叶わなかった恋という事実そのものは変わらない。
けれど、それによって築いてきた関係のすべてを失う必要もない。希美はその考えがあって沙里を受け入れた。
「だから私は運が良かったんだよ。好きだった人と今でも友達でいられて、同じ楽器を吹くライバルでもいられる。隆翔くんには負けたくないって思えたから、私も頑張ってこれた。そうやって一緒に上手くなれたのは、すごく幸運だと思ってる」
「……そっか」
沙里は一度言葉を切ったあと、少し躊躇ってから視線を真由に向けた。
「だからさ、黒江さん。どちらかが我慢しなきゃ仲良くできないってわけじゃないと思うよ」
それまで凪いでいた真由の表情に、ほんの僅かな揺らぎが生まれた。
「私も……久美子ちゃんとそうなれたらよかったのかな」
真由はカップを両手で包み込んだ。
氷が溶け始めているのか、表面についた水滴が指先を濡らしていた。
「また失敗しちゃった」
「また?」
一旦、真由は会話に一呼吸置いた。テーブルへ落としていた視界の奥では、言葉を探すような揺らぎがあった。それが今まで以上に落ち込んだ姿だったので、沙里も隆翔も顔を見合わせて困惑した。
「……前の学校でね、仲の良かったユーフォの子がいたの」
清良女子に在籍していた頃の話だ。
その同級生も、高校へ入学する以前からユーフォニアムを吹いていた経験者だった。同じ楽器を担当する同級生ということもあり、入部して間もない頃から自然と行動を共にすることが多かった。練習中はもちろん、部活以外の時間も共にしていた。
しかし、二人の間には明確な実力差があった。
真由はその事実を誇るでも卑下するでもなく、淡々と言い切った。コンクールメンバーには、いつも真由が選ばれた。技術力のある人が選考上有利になるのは清良女子も同じであり、そこに私情の入る余地はない。真由も選ばれたからには期待に応えようと精一杯練習した。そして結果を残せば、次の大会では並んで吹けることを信じて。
しかし、次も、その次の選考でも、真由だけが選ばれた。
その度に友達は笑っていたという。
「頑張ってね」「次は負けないから」
オーディションの結果が発表される度に、そんな言葉を掛けてくれた。最初のうちは、その言葉を額面通り受け取っていた。
「でも、今思えばあの子の心はどんどん擦り減っていたんだろうな。段々と会話もあまり続かなくなって、一緒に帰ることもいつの間にか……」
テーブルの下で作った沙里の拳が強く握られていた。抑揚少なく、淡々と言葉にする様は、諦観以外の何物でもなかった。
「何も分かってなかった。どうしてなのかな、何か怒らせるようなことしたかなって、そんな頓珍漢なことばかり気にしてた」
そして二年生になり、再びコンクールでの演奏メンバーの発表が行われた。
無常にも、その子はこの年もメンバーに選ばれなかった。中学の頃はコンクールでソロも経験して、合奏が好きだと言っていた。だが、それでも全国大会金賞の常連校である清良女子の壁は厚かった。
その頃になると、度々諦めを孕んだ表情を浮かべ、練習も休みがちになっていたと言う。彼女を蝕んだのは経験者としてのプライドか、好きな合奏に加われないもどかしさか。いずれにしても、そこに忸怩たる想いがあったのは想像に難くない。
それから間もなく、彼女は部活に来なくなった。
「……辞めちゃったの?」
真由は静かに頷いた。
「会おうと思えば会えたんだけど、気まずくてほとんど話さなくなっちゃって。多分、向こうも私とは話したくなかったと思うし……」
退部した理由を、本人の口から聞いたわけではない。
だから、本当のところは今でも分からない。恐らく、擦り減ったメンタルとモチベーションが回復しないまま、真由とその子の時間は止まってしまった。
真由は静かに続けた。
「小学校の時からそう。私の周りでは誰かが嫌な思いをして、気付いた時には取り返しがつかなくなってて」
「黒江さん……」
「──だからね、今回も誰かが嫌な思いをするくらいなら、私はソリなんて吹かなくてもいい。久美子ちゃんが吹けば全部丸く収まるから、今までずっと、オーディションを辞退するって言ってきたの」
真由はカップから手を離して、指を組んだ。
強い口調ではなかったが、既に何度も自分の中で反芻して出した結論に違いなかった。
「久美子ちゃんは部長さんで、三年間北宇治で頑張ってきた。だからみんな、最後は久美子ちゃんに吹いてほしいと思ってる。久美子ちゃんがソリになったら、きっとみんな納得する。それに、尚更全国大会では高坂さんと一緒に吹くべきだよ。ずっと一緒に頑張ってきたんだから、最後に二人で吹けたら、きっといい思い出になると思う」
まるで自分とは関係のない、誰かの幸福な未来について話しているかのようだった。それが穏やかな声で語られるから、尚更痛々しく感じた。
「そしたら、そこに私はいらないでしょ」
沙里の表情が固まった。
「……黒江さん、それは」
「必要、ないんだよ」
真由は力なく微笑んだ。
彼女は、自分さえいなければすべて上手くいくという結論を、これまで何度も人間関係を壊さずに済ませてきた方法の延長として受け入れていた。
鴨川の河川敷で希美が言っていた言葉がフラッシュバックした。器用にこなしてしまうから、元々の環境を壊してしまう。その結果、彼女は心を磨耗させて、やがて恐怖心へと膨らんでいった。
「だから、明日も久美子ちゃんにソリを辞退させてほしいって言うつもり。久美子ちゃんはどうやったって高坂さんと吹きたいっていう気持ちに嘘はつけない。高坂さんと吹きたいって、そう一言言ってくれたら私は喜んで身を引くつもりだよ」
隆翔は真由の奥底にある自己犠牲に身震いした。自分はその場所に定着できない存在で、仲良くなった人からもすぐに忘れ去られてしまう。
まるで、実体を持った幽霊のように。
「久美子ちゃんがそれでも駄目だって言うなら、ちゃんとオーディションは受けるよ。先生たちも、みんなも準備してくれてるから」
真由は二人に言い聞かせるように小さく笑った。ただ、その笑顔に対する答えが見つからなかったZ
「……私、ハッピーエンドを諦めたくないの」
「ハッピーエンド……?」
「最後は、みんな笑って終われた方がいいでしょ」
あまりにも真由らしい言葉だった。
しかし、思い描いた結末に真由自身の幸福は含まれていなかった。幼い頃から繰り返してきた短期間での出会いと別れの果てに、真由はそれが最善の答えだと盲信していた。
隆翔の中の怒りにも似た感情が遂に決壊した。
「それはハッピーエンドとは言わないよ」
「……ど、どうしてそう思うの?」
「だってそうだろ。何、自分が居なければどうにかなるって、本気で思ってんの?」
「で、でもっ、関西大会の時だって私がソリになったらみんな動揺してたし……」
「確かにな。府大会で安定して吹いていた黄前から変更するって判断なら、当然みんなびっくりするよ。でも、それは関西大会前の話だろ」
「……っ!」
真由もすかさず反論したが、隆翔の言葉に口を閉ざした。
「関西での黒江と高坂のソリは凄かったよ。俺の主観じゃなくて客観的に見てもね。あの瞬間、この会場でお前以上に上手いユーフォ吹きはいないと思った」
「……買い被りすぎだよ」
「そうかな?」
二人のやり取りを見守っていた沙里が、優しく真由の言葉を否定した。
「私も隆翔くんと同じ意見だよ。関西での黒江さん、本当に凄かったから」
「そんなことないよ……」
「そんなことある! だって私たち、誰よりも近くで演奏を聴いてたんだから」
沙里の顔がパァッと朗らかに綻んだ。
真由は、何か信じられないようなものを見るかのように目を丸くした。いま目の前にいるのは、彼女に後悔を与える存在ではない。今年一年、一緒に音を重ねた仲間なのだ。
「それに関西のとき、ソリのところでちょっと泣きそうになったんだ」
「えっ」
「もちろん、本番中だから頑張って抑えたよ。でも、すごく綺麗な音で、高坂さんのトランペットとも合ってて……聴いてたら、なんか急に目頭が熱くなっちゃって」
沙里はあの日を思い出すように視線を上へ向けた。隆翔も同じ舞台に立っていたからこそ、あの瞬間の空気は今でも鮮明に覚えている。
「演奏が始まってから結果のことばかり気にしてたのに、あの時間だけは純粋に音を楽しんでたんだ。あの景色は、多分一生覚えてると思う。黒江さんが吹いたから嫌だったなんて一度も思ったことない。むしろ、あの演奏を同じ舞台で聴けて良かったって誇らしく思うよ」
自分の音に心揺さぶられた人がいたこと。そして、それこそが真由が本当の意味で北宇治の一員になれた瞬間だった。
「……そんなふうに思ってくれてたんだ」
「うん。だからさ、もっと自分の音を信じてもいいんじゃないかな?」
「……信じる?」
「他人がどう思うかとか、自分のポジションがどうとかっていうのは悪いこととは思わないよ。寧ろ、そこに気遣えるのは黒江さんの美点だと思う。でも合奏って、自分の音に相手が合わせて、相手の音に自分を重ねるってことだよね。なら、私は関西で聴いたような凄い演奏に自分の音を重ねたい」
返事はなかったが、真由が一考するだけの手応えはあった。
沙里の言葉は常に単純明快。だから心に突き刺さる。人間関係を均衡に保つことに重きを置いていた真由からしてみれば、あまりに純粋に見えるだろう。しかし目の前で微笑むのは、心の底からフルートが好きで、最後の最後まで全身全霊で音楽と向き合う沙里の姿だった。
「隆翔くん、時々言葉遣いが荒いことあるからびっくりしたよね。ダメだよ、女の子相手なんだからもっと優しく言わないと」
「……すんません」
「ふふ、全然気にしてないよ」
真由の微笑みの後で、隆翔は言わなければならないことを口にした。
「黒江に謝らなきゃいけない。合宿の時、無闇に黄前と競わせようとして申し訳なかった。お前の気も知らないで、あんなことを言った自分が恥ずかしい」
隆翔は額がテーブルについてしまうほど深く頭を下げた。
もしあの時に何もしなかったら、畿内での序列が高くない北宇治は全国に及ばなかっただろう。だからこそ、全国規模の演奏を知る真由を本気にさせる必要があった。真由が抱えている感情は度外視して。
「ちょ、ちょっと樟葉くん。謝るようなことじゃないよ」
真由は狼狽えたように両手を振った。
「私だって、あの時はちゃんと自分の気持ちを話してなかったし。それに樟葉くんが悪気があって言ったわけじゃないのも分かってるから。だから頭を上げて?」
「それでも、俺が黒江の気持ちを考えずに利用しようとしたことには変わりないから」
「利用って、そんな大袈裟な……」
「黒江さん」
二人のやり取りを見かねた沙里が、困ったように割って入った。
「受け取ってあげて。隆翔くんはこういう時、絶対に引かないから。そうしないと気が済まないのは前から変わらないんだ」
「そうなんだ……じゃあ、謝ってくれてありがとう?」
「なんで疑問系?」
「んー、自分でもよく分からないな」
「あははっ。黒江さんって面白いね」
過去が消えることはない。
「困ったなぁ……」
「何が?」
「私、この前久美子ちゃんに言っちゃったの。久美子ちゃんにソリを吹いてほしいっていう私の気持ちは、否定されちゃうのって。あの時、久美子ちゃんがどう思ってるかとは別に、私が願うことまで否定されたくなかった。だって、それは私の本心だったから」
真由は様々なアプローチから黄前の本心を引き出そうとした。しかし思惑と裏腹に、黄前は頑なだった。そして真由は、隆翔と沙里の願いとして、真由自身が輝くことを求められてしまった。
「私って、ずるいんだ」
「そうなの?」
「自分の気持ちは否定されたくないって言ったのに、他の人の気持ちは勝手に決めつけようとしてたから。それじゃダメだよね」
隆翔の中で、真由の心に雪解けの気配を感じ取った。それは沙里も同じようで、二人はアイコンタクトで通じ合った。
「明日、どんな結果になっても俺たちは味方でいると約束する。正々堂々、黄前と戦ってもいい。黄前の心情に寄り添ってもいい。だから自分だけが居なくなってもいいなんて、そんな寂しいこと言うなよ」
「………っ!」
真由の瞳の奥に揺らぎが見えた。
「黒江さんは北宇治の一員だよ。金賞獲るために、一緒に頑張ろう?」
それまで二人の間には、黒江真由に助力を乞うという感覚があった。しかし、それは真由へ誠実に向き合ったとは言えない。真由には
隆翔は己を恥じた。思えば、彼女はずっと仲間になろうとしていたではないか。それを、
「ねえ、真由ちゃん。これからは気が済むまで合奏しようよ。一人で吹いてるなんて思わせない。私は真由ちゃんの音を全力で支えるし、真由ちゃんも私の音に全力で合わせてほしい。本当は府大会の前にちゃんと言葉にすべきだった。随分遅くなってごめんね」
沙里は真由の手を取ってそう言った。
ふるふると小さく首を横に振りながら、心の扉をこじ開けた沙里の顔を見つめていた。
「沙里、本当にお前は……」
「え、なに?」
「いや、お前がいてくれて良かったよ」
「そう? それなら良かったけど」
沙里は手を握ったまま、いまいち納得のいっていない顔をした。
「あ、ナチュラルに名前呼びしちゃったけど良かった?」
「ううん、嬉しい! 『黒江』ってちょっと堅いなって思ってたから。私も沙里ちゃんって呼んでもいい?」
「もちろん!」
屈託のない笑顔を浮かべる二人の姿に、隆翔はホッと溜息をついた。
「じゃあ、樟葉くんも名前で呼ぶね?」
「えっ、俺も⁉︎」
「なに恥ずかしがってんの?」
「別に恥ずかしくなんかないわ! ちょっとびっくりしただけだよ」
「ふーん、そうなんだ。ホラ、せっかくだから呼んであげたら。ね、真由ちゃん?」
「うん!」
沙里を伴って、真由も隆翔の境界線を悠々と超えてくる。壁を作っていたのは、寧ろ隆翔の方なのではと思ってしまう。いや、あながち間違っていないのかもと、隆翔は苦笑した。
「じゃ、本番頑張ろうぜ。
「……うん。ありがとう、隆翔くん」
音は響く。そして共鳴する。
互いに響かせ合った音が交わる時、心も交わる。
真由が発した
繋いだ手は離さない。掴んだ心は一人にさせない。
かつて希美に救われた奏者生命だからこそ、隆翔はこの事を他人事になんかしたくなかった。
【つづく】
真由が本当の意味で救われるのは、きっとこうだろうなと考えました。