「ほんとに全国行けると思ってたの?」
歓声と悲嘆に埋め尽くされるコンサートホール。ポツリと呟かれた言葉が私の鼓膜を揺らした。
涙で滲む視界の端に、口惜しそうな素振りすら見せない黄前久美子の姿が映る。
怒りなのか、遣る瀬なさなのか、能天気で性格の悪いコイツの一言に私は激高した。
「アタシは悔しい、めちゃくちゃ悔しい!」
呆然とする彼女に言葉をぶつけて、会場のドアを勢いよく開けた。
私は全国を目指してた。
でも現実は違った。
黄前さんの言葉が耳に木霊する。
考えてみれば、三年生不在のフルートや技術の底上げが不十分の金管など、コンクールに向けて足りない事ばかりだった。
私は私なりに納得したくてトランペットの練習を怠らなかった。活動は充実していた。それでも、今年の北中は府大会ダメ金が関の山だった。
噴水の前では、関西大会を決めた学校が歓喜の抱擁を繰り返している。その光景を目に焼き付けて、乱暴に涙を拭ったその手を見つめる。
誰がなんと言おうと、高校では絶対に全国へ行ってやる。
◇◆◇
私は友達と連んだり、どうしようもないことで連帯感を作ることが嫌いだ。そんな暇があるならばプロ奏者を目指してトランペットをかき鳴らす。
私はほとんど毎日、学校や家のスタジオで吹き続けた。
中学二年生のコンクールは散々な結果だった。同級生の辞退によってメンバー入りしたフルートの先輩は、練習不足が響いて本番にミスを連発した。
演奏も全体的に覇気を失い北中は府大会で銀賞という評価を受けた。
先輩たちは引退した。そしていよいよ、二年生である私たちの代がスタートした。
来年への一歩を踏み出そうとした瞬間、出鼻を挫かれる事態が起きた。フルートの二年生が全員退部したのだ。その一人の内藤さんは、コンクールメンバーを辞退してから部活に顔を出していなかった。だからコンクールに出場した樟葉がパートリーダーとなって率いて欲しかったのに、先輩との不和が原因でコンクール後に退部してしまった。
来年、私たちが全国を目指す上で由々しき事態であった。
コンクール直前のフルートパートは特に精彩を欠き、先生からの指摘はほとんどがそこに飛んでいた。コンクールメンバー間では進まない練習に対してフラストレーションが溜まった。パート内ではそれによる衝突も起きていたらしい。そんな状況でも、なんとかコンクールには間に合わせた。
だからこそ樟葉の行動は理解出来なかった。あの日でほとんどの三年生は引退した。これから私たちの天下だというのに退部するなんて、頭がおかしいのではとも思った。そして、残された私たちを顧みない姿勢が腹立たしくもあった。
二学期、まず私は状況を悪化させたくなくて、引き留めようと樟葉のもとを訪れた。夏休みの間に楽器を触っていなくても、来年のコンクールを見据えれば十分リカバリーは可能だ。それに、フルートパートには一年生の有望株である村上さんもいる。樟葉の実力も上がっているからこそ、彼女との二枚看板で盛り立てて欲しかった。
頑なに復帰しない樟葉にどんな言葉を押し付けたかはよく覚えていない。私の言葉に少しずつ彼の表情が引き攣って、気付けばその瞳は怒りの色に染まっていた。そこで諦めておけば良かった。しかし頭に血が昇っていた私たちは、売り言葉に買い言葉でお互いを罵り合った。
そして、ある一言が心の琴線を刺激した。
『お前は贅沢だ。そんなに引き留めたければ、もっと必死で口説いてみろよ!』
エゴの押し付け、贅沢、友達がいないなど、同級生とまともに喧嘩したこともなかった私には耳が痛い言葉だった。そんな言葉を正面からぶつけられたのは初めての経験だった。
心が痛かった。鼻の奥がツンとして、熱いものが瞳を覆った。
全国へ行きたいというエゴを押しつけてしまったのは確かだった。高みを目指すのは上手い人にとって当然の価値観でも、そうでない人もいる。
そうした擦り合わせをせずに、私は樟葉に復帰を促してしまった。
辞める人には、それ相応の理由がある。私に生まれた、新たな価値観だった。
◇◆◇
『どこまでも伸び上がっていくような音ですね』
私の記憶にある最も鮮明な瞬間がフラッシュバックする。
宇治川に架かる朝霧橋の袂で、その人は私のトランペットを聞いていた。
トロンボーン奏者の滝昇さん。私が特別な想いを寄せている方だ。
「もっと上手くなりたい、もっと遠くへ行きたい。そんな音です」
「先輩には、周りの音を聴いてないって怒られるんですけど……」
「確かにそれも大事です。でも、高いところを目指す気持ちはとても大切だと思いますよ」
その人は私の音を真っ直ぐだと褒めてくれる。だからこそ、もっと上手くなりたい、この人の特別になりたいと思うようになった。
それから昇さんは、私にある曲の楽譜をくださった。今でもその曲を時折吹いている。もっと洗練された音になるように。私にぴったりだと言った、その意味をなぞるように。
昇さんにもっと良い演奏を聴かせてあげたい。もっと上手くなった私の音を聴いてほしい。その想いがモチベーションになって必死に練習した。
あの人の特別になりたい感情が、いつしか自分を高めるための目標になった。
そして迎えた中学最後のコンクール。私たちの演奏は金賞だった。欠けた奏者を埋めることは出来なかったけれど、入部した新一年生を含めよく頑張ってくれた。それが実って、去年よりも良い評価に少しだけ安堵した。
しかし関西大会代表には選ばれなかった。
とめどなく涙が溢れた。悔しかった。もっと高みを目指さないと、あの人はきっと聴いてくれやしない。私はあの人に認められたかった。
「良かったね、金賞で」
悔しさで蹲る私の傍らで、能天気な言葉が囁かれる。
何を言ってるの黄前さん。関西行けなかったんだよ。
「……悔しい、悔しくて死にそう。なんでみんなダメ金なんかで喜べるの。アタシたち、全国目指してたんじゃないの」
虚しい後悔がポロポロと溢れる。
これまで堰き止めていた感情が濁流のように脳内を埋め尽くした。
しかし、私の言葉を聞いた彼女は共感どころか、私の感情を逆撫でした。
「本気で全国行けると思ってたの?」
この一年間のすべてを否定された。
限りある時間と組織の関わり合いにおいて、向上心の乖離をこの時ほど痛感したことはなかった。
「アタシは悔しい……めちゃくちゃ悔しい!」
その後のことは覚えていない。感情を爆発させた影響で放心状態になりながら、気が付けば帰りのバスへと乗り込んでいた。
それから何度かの演奏会を経て、私は正式に北中吹奏楽部を引退した。
◇◆◇
受験シーズンも佳境に迫る中、私はマーチング強豪の立華高校から推薦を貰った。全国を目指すという私の目標においては、申し分ない環境だった。
ある日の夕食。海外で演奏の仕事を受け持っている父は家を空けることが多く、母と二人で食卓を囲むことが多かった。
「高校は立華で決まりなの?」
「うん」
「そう。そろそろ願書も書かないとね。学校が渡してくれるのよね」
「今日貰ってきたから、後でハンコちょうだい」
他愛のない日常会話であった。
そして突然、聞き捨てならない情報が耳に入った。
「そうそう。滝さんの息子さん。今度の春から北宇治に赴任するんですって。良かったわ。私、安心しちゃった」
「……え?」
カシャン、と手にしていたカラトリーを落とした。
「それ、本当⁉︎」
私は身を乗り出して、母に真相を聞いた。
「ちょっと、お行儀が悪いわよ」
「あ、ごめんなさい。北宇治って、公立の?」
「そうそう。山の上にある学校よね。お父さんに続いて、昇さんも先生として赴任するなんて不思議なご縁ね」
そんなことはどうでも良かった。昇さんが北宇治に赴任する。それは即ち、あの人のもとで音楽ができるということだった。
「お母さん、アタシ、やっぱり北宇治に行きたい」
「え⁉︎ ちょっと、どういうこと」
突然の進路変更に、母が驚くのも無理はない。
でも、私にとって願ってもない機会だった。あの人のもとで最高の奏者になりたい。あの人の本物の特別になるためだったら環境は問わない。
私は土壇場で、北宇治高校へ進路を変更した。
翌日、立華の推薦を辞退すること伝えた。進路担当の先生からは何度も引き留められたが、既に私の意志は固まっていた。
程なくして公立高校入試が始まった。立華の推薦を蹴ってからは時間がなかったので一般受験となった。しかし受験科目は一通り勉強していたので、何の問題もなく合格した。
試験が終わって校内を歩いていると、音楽室に辿り着いた。北宇治高校吹奏楽部は、昇さんのお父さんが顧問だった時代に全国大会へ何度も出場するほどの強豪だった。しかし近年は府大会銀賞、銅賞になるまで落ちぶれていた。
この部を昇さんと共に再び全国へ導く。その計画に私は高揚した。
四月になり、まだ新品の匂いが抜けない茶色のセーラー服に身を包む。学校まで自転車で通う道中にある長い坂は、肺活量のトレーニングに丁度良い。
入学式では新入生代表挨拶を任されていた。その打ち合わせのために一足早く登校し職員室へ顔を出さねばならなかった。
「失礼します」
慣れない場所に踏み出す時はいつにも増して緊張したが、それもすぐに緩んだ。
「おや、これは麗奈さん……いや、学校ではこちらで呼んだ方がよろしいですね。高坂さん、この度はご入学おめでとうございます」
その人は柔和な表情で私を見た。心臓が高鳴って苦しい。
「あ、ありがとうございます」
にっこりと微笑む彼の表情が眩しくて目を逸らす。変な髪型じゃないだろうかと髪を梳く。心なしか顔が熱い。
「去年の北中の演奏を拝聴しましたが、なかなか良い演奏でしたよ。よくあそこまで立ち直りましたね」
「ありがとうございます。でも、ダメ金でした」
「確かに、コンクールでは結果が出ます。でも、良い演奏の価値観は人によって異なります。現に、私はあの演奏に好印象を持ちましたから」
頬が熱くなった。先生の言葉がスッと染み渡り、高揚していることが自分でもわかる。
「入る部活は、もう決まっていますか」
「はい。吹奏楽部に入るつもりです。先生も吹部の顧問だと伺ってます。これからのご指導、どうぞよろしくお願いします」
一段と深くお辞儀をする。はらりと耳を掠める髪の毛が擽ったい。
「これはご丁寧に。こちらこそお願いします。あなたの演奏、楽しみにしています」
正門では現役の吹奏楽部員が新入生を歓迎して『暴れん坊将軍のテーマ』を演奏している。調整不足のピッチや不揃いな音で織りなす下手な演奏は、この部活のこれまでを表していた。
それでも、私の高校生活をスタートさせるには申し分ない環境だった。
【つづく】