筆が乗り過ぎたため、2万字近くになってしまいました。
ゆっくり読み進めていただけると幸いです。
あの花が咲いたのは、そこに種が落ちたからで
いつかまた枯れた後で、種になって続いてく
─羊文学 『光るとき』─
六年という歳月は、一人の少年を大きく変えるには十分な時間だった。
大吉山北中学校へ入学した春、隆翔は初めてフルートを手にした。満足に音を鳴らすことすらできなかった少年は、来る日も来る日も楽器と向き合い、指を動かし、自らの音を磨き続けた。
その歩みが常に順調であったわけではない。望んだ結果を得られず悔しさを感じたこともあった。自分の未熟さに苛立ち、人と衝突し、選択を誤ったことも一度や二度ではない。それで一度、彼は音楽と縁が途切れた。北中で大きな別れを経験したあと、隆翔は北宇治高校へ進んだ。そして大きな出会いがあった。
希美の笑顔は、いつも隆翔を温かく照らしている。そして、道標でもあった。
希美との出会いから、隆翔は多くの功罪を経験した。他者を信じること。誰かの想いを背負うこと。支えるだけでなく、ときには自らも支えられること。そして、自分が選び取った結果から逃げず、その責任を最後まで引き受けること。
北中から北宇治へ。
中学、高校と重ねた六年間。様々な出会いと別れ、成功と挫折。その一つ一つを積み重ねながら、少年は奏者として、そして一人の人間として成長してきた。
長かった道程は、今ひとつの到達点を迎えようとしている。
六年前には遥か彼方にあった舞台に、隆翔は立とうとしていた。
全国大会ともなれば、これまで経験してきた府大会や関西大会とは、会場を満たす空気からして違っていた。いま、この建物には日本各地の支部大会を勝ち抜いてきた高校が集っている。名前だけなら何度も耳にした全国常連校。その制服を実際に目にするたび、川島をはじめとした吹奏楽マニアの部員は目を輝かせていた。
出場校の生徒や関係者には、参加者であることを示す赤いリボンが配られている。運営側が識別するための簡素な目印に過ぎない。それでも左肩にそれを付ければ、自分たちが全国大会の出場者なのだという事実が、否応なく形を持って迫ってきた。
「隆翔くん。悪いけど、これ付けてもらっていい?」
沙里に差し出された赤いリボンを受け取り、隆翔は彼女の左肩へ手を伸ばした。
こうして間近に立つと、改めて細い身体だと思う。その華奢な肩に、北宇治はフルートのソロを、そして『一年の詩』を締め括る最後の一音を託している。
府大会ですら相応の重圧があった。まして、今日は全国大会である。
たった一本のリボンを留めているだけなのに、それがまるで目には見えない何かまで彼女の肩へ乗せているように思えて、隆翔はわずかに指先を鈍らせた。
「ありがとう。じゃあ、隆翔くんのも付けてあげる」
今度は沙里が隆翔の左肩へ手を伸ばす。目線とほとんど変わらない高さで、彼女は慎重に留め具を扱った。
「……よし。これで大丈夫」
「サンキュ」
顔を上げた沙里と一瞬だけ目が合った。瞳に宿る熱を確認するように、じっと見つめあった。
背中は預けたよ。
そう言われたような気がして、隆翔も小さく頷いた。
展示施設としても使われるホールでは、各校の生徒たちがそれぞれの待機場所で本番を待つ。ケースの中から取り出したフルートは、昨日の練習後に丁寧に磨いたので、照明を反射させたシルバーメタリックの本体が輝いていた。
「あれ、滝先生じゃない?」
「うわ、めっちゃイケメン!」
「実物やばいね」
本番用のタキシードを纏った滝が廊下を歩いてくる。その姿に気付いた他校の女子生徒たちから、途端に色めき立った声が上がった。
もはや見慣れた光景だった。沙里と小田は顔を見合わせ、揃って何とも言えない苦笑を浮かべている。
「今年もやってるねえ。滝先生がいるだけでこれだもん」
「文化祭の時なんて普通に囲まれてたしね。まあ、顔がいいのは否定しないけど」
「外から見てるうちはね。あの指導を一年間受けて、同じこと言える人が何人残るかな」
「……で、なんで高坂さんはちょっと得意気なの?」
思い思いに好き勝手なことを言っている。もっとも、滝の指導そのものを軽んじている者はいない。
彼がいなければここには来れなかった。誰もがそう認めていた。
「巧美ちゃん、大丈夫……?」
視界の外でか細い声が漏れる。振り向くと、水井が向かい合わせになりながら吉田の手を握っていた。その目は心配の色に染まっている。
「だ、大丈夫、多分……」
「府大会も関西大会もちゃんとできてた。やることは変わらないよ。だから自信を持って?」
「……う、うん」
その声音は、とても大丈夫には見えなかった。体躯の良い吉田は、演奏中は自信を覗かせ、背筋を伸ばすとそれだけで頼もしい。しかし、ここは全国大会の会場だ。真面目な彼女はこの独特な空気にあてられていた。
二人がやっているのは、本番前のルーティンだ。手を握りながら相手を褒めたり、これまでの努力を認めて自己肯定感を上げるルーティンだ。かつて隆翔が中学時代にやっていたものであり、サンライズフェスティバルで初めて本番を迎えた二人に隆翔はやってみせた。本番前のこうした儀式は、各パートで違っていた。低音パートでは、同期同士で体を密着させ合っている。スキンシップトレーニング、南中で流行っていたらしく、当時は「大好きのハグ」と呼ばれていた。
隆翔の視線を感じた吉田は、その表情を僅かに強張らせた。本番で失敗する、先輩の最後の舞台を台無しにする想像が彼女を萎縮させてしまっていた。水井はどうしたらいいか分からないと言いたげに隆翔へ救いの目を向けていた。
「緊張してる?」
「はい、すみません最後まで……」
「ううん、良いんだよ。こういう環境じゃ、性格でどうにかできるものでもないし」
水井に代わって隆翔が吉田の手を握る。スラリとした指先に触れると、冷たく、汗で湿った感触がした。
「樟葉先輩……私、ここに来てよかったです。最初は立華に行きたかったって少し不貞腐れた時期もあったんですけど、ここじゃないと出来ない経験が出来ました」
吉田は握られていた手を解いて、骨張った隆翔の手を握った。心なしか、握る手に力が入っていた。
「でも、もう最後なんですね。それがたまらなく虚しくて……今朝、起きた時も涙が止まらなくて……本当、最後まで弱々メンタルでごめんなさい」
短く切られた毛先が、首が横に振られるごとに揺れていた。瞳には涙が浮かび、先輩との最後の舞台に立つのに奮起できない自分の情けなさを自嘲した。
「謝る必要なんてない。一年生でこの舞台に立てるなんて吉田さんは幸運だと思う。でも、その幸運は自分自身で掴み取ったものなんだよ。滝先生と水谷先生、二人から指導を受けてるんだもの、こんな贅沢なことはないよ」
恐怖が前面に出ていた吉田の双眸に微かな光が宿った。寂しがっている彼女は、まだ殻を破れていない。大舞台に慣れろ、なんて突き放すような言葉は誰にでも言える。だが、今まで彼女を精神面で成長させてきたのは、隠す必要のない屈託のない言葉だった。
「……むしろ、ありがとうって言うのは俺の方だよ」
「え?」
「吉田さんたちが入ってきてくれたから、俺も先輩になれたんだよ」
自分で口にしてから、隆翔はその言葉を噛み締めるように一度だけ間を置いた。
「今までまともに後輩を教えた経験なんてほとんどなかったからさ。今年、一年生を任された時は俺だって不安だった。でも、その一年生の中から吉田さんがA編成に入って、こうして全国まで来てくれた。それは素直に嬉しかったし、先輩として誇らしかった。俺たち三年生は今年、吉田さんをエースにしようって決めてた。かなり厳しいことも言った。理不尽だって思ったこともあったかもしれない。でもね、その目標はちゃんと叶ったんだよ」
「…………」
「だから次は君が伝えていってほしい。水井さんや二年生のみんな、そしてこれから入ってくる後輩たちに今日まで経験してきたすべてを。俺たちがいなくなった後のフルートパートを、よろしく頼むよ」
「……っ、先輩……!」
最後まで堪えていたものが、とうとう決壊した。
隆翔としても、彼女がここまで慕ってくれたことは幸運だった。目に見えて伸びていく一年生の存在は、教える側である三年生にとっても大きな刺激となっていた。
「じゃあ、最後にいつものやろうか」
「……はい!」
頬を伝った涙を強引に拭うと、吉田はいつもの強気な瞳を隆翔に向けた。
「絶対大丈夫。昨日より今日、今日より明日って、一日ずつ積み上げてきた努力は嘘をつかない。吉田さんが本番に強いってことは、ここにいるみんなが知ってる」
「はい」
「それと──最後にひとつだけ、先輩からお願いしていい?」
「なんですか?」
「金賞がほしい」
隆翔は、ことさら飾ることなく言った。
「どうしても金賞が欲しいんだ。俺もそうだし、それ以上に今日まで頑張ってきた沙里と小田、そして中野、他の三年生たち。部長に副部長にドラムメジャーも。滝先生と松本先生、それから今日ここに立てなかったみんなにもだ」
随分と欲張りな願いだ、と隆翔は思った。しかしそれと同時に、最後の願いを託す存在として、彼女は申し分ない相手だとも思った。
「先輩からの最後の情けないお願いだけど、聞いてくれるかな?」
吉田は泣き腫らした目でしばらく隆翔を見つめ、やがて小さく鼻をすすって、僅かに口元を緩めた。
「……やっぱり、樟葉先輩って優しいですね」
「そうかな」
「だから──そんな優しい先輩たちのためにも、最高の演奏を約束します!」
僅かに吊り目がちな吉田が不敵に笑う。つい先ほどまで涙を浮かべていたとは思えないその顔は、どこか高坂のそれに似ていた。
吉田の力強い宣言に、隆翔は満面の笑みで答えた。
「では北宇治、リハーサル室に移動します!」
◇◆◇
本番までの流れは関西大会と大して違わない。最後の音出しが許されたリハーサル室で、チューニング、冒頭部分の確認をしていく。本番前のルーティンだ。言葉で鼓舞されるより、ピタリとハマった演奏を何度も繰り返す方が自信になった。
「いつも以上の力を出そうと背伸びする必要はありません。普段の演奏に、私たちの音は詰まっています。誰かに聞かせることを意識するよりも前に、自分たちが楽しむことを第一に考えましょう。全国大会の舞台を、どうか思う存分味わってください」
滝が大きく腕を広げた。
「この瞬間、あのステージは北宇治のために用意された舞台です。皆さんは今日という物語の主役となる。いままで自分たちが積み重ねてきたものを信じましょう」
『はい!』
部員の返事に満足したように頷くと、部長に前へ出るよう促した。
「まず、今日こうしてこの場所に立てることを、私は誇りに思います。私は北宇治が好きで、滝先生が好きで、みんなが好きです。そんなみんなと金賞が獲りたい。あとは本番、どうか悔いがないよう……」
そう言い掛けて、黄前は言葉が詰まった。部長として最後まで言葉を届けようとしながらも、胸に込み上げるものを抑えきれない。
少しの沈黙のあと、黄前は最後列へ視線を向けた。
「──やっぱり、最後はドラムメジャーから」
みんなの前に出てきた高坂は、右から左へ、全員と視線を合わせていく。ポーカーフェイスの奥では、高鳴るものがあるに違いない。
「一昨年の今日、私たち三年生はこの場所にいました。あの扉をくぐり、ステージに立ちました。みんなには色々なことを求めました。厳しい先輩であったことは認めます。でもそれは、今日という日を後悔したくなかった、納得したかったからです」
高坂に付けられた『鬼のドラムメジャー』という二つ名。その名に違わぬ厳しさがあったのは自明だった。
これまでの日々が思い出される。幹部同士でトラブルが起きた日、隆翔は高坂を自転車の後ろに乗せて喫茶店で相対した。あの時間が無駄だったとは思わない。
「一昨年、そして去年卒業した先輩たち、ステージに立てなかったメンバー、そのすべての想いと一緒に私は演奏します。三年生にとっては最後の演奏です。これまでのすべてをぶつけてください。金賞、獲りましょう!」
ボルテージは上がり切った。誰もが瞳に炎を宿し、やってやるぞと決意を胸に秘めている。
黄前が拳を作る。それに従って、隆翔たちも手を強く握った。
「それではご唱和ください。北宇治ファイトー!!!」
『オー!!!!』
五十五人の叫び声が室内に響き渡る。不安も緊張もすべて吹き飛ばして、ステージに繋がる扉が開かれた。
舞台袖を覆う暗幕の向こうから、一つ前の学校が奏でる自由曲が聞こえていた。布に遮られ、ぼんやりとした音色でも上手いことは手に取るように分かる。全国大会へ来るような学校だ。当然、ミスなど起こりようがない。だが、不思議と怖さはなかった。この舞台は最初から最後まで自分との闘いなのだ。
視界の先では、真由が少し離れた場所でつばめと何やら話している。高坂は黄前に短く声を掛けると、トランペットパートの輪へ戻っていった。沙里と小田、中野は吉田を囲み、何がおかしいのか笑い声を漏らしている。
誰も暗い顔をしていないことに、隆翔は安堵の息を漏らした。
高校最後の演奏。ここまで来た以上、後悔も不安もないと言えば嘘になる。しかし、ここまで来て怖がっているのは勿体ない。
『来年、君が全国に行くんだよ』
アンサンブルコンテスト校内予選が迫る日だった。夕闇の空を背景に放った、希美のある種の呪い。そう言った彼女の表情は、見惚れるほどの笑顔だった。
長い、長い旅だった。
初めてフルートを触った日のことはあまり覚えていない。薄靄のかかった記憶の中で、梓の小さい手が隆翔の腕を引いていた。中学の部活の記憶は意図的に消そうと思っていた。最後の鮮明な記憶は両親からもらった
そんな隆翔の前に現れたのが、傘木希美だった。
彼女の音色と生き方に触れ、差し伸べられた手を取った。埃を被っていたケースを開き、三年ぶりに相棒へ息を吹き込んだ。そして、止まっていた時間が動き出した。
どれほどここに来たかったのだろう。誰よりもそこへ行きたがっていた人が、あと一歩のところで夢を断たれた。あの日に見た涙と胸の中で聞いた嗚咽を、隆翔は片時も忘れてはいない。
託された想いを胸に抱えて、隆翔は再び奏者となった。
再会した梓の成長と覚悟を垣間見て、自分の未熟さを知った。
そして、軽率さと不誠実さで人を傷つけ、再び吹奏楽部に背を向けた。しかし、そんな隆翔に沙里は手を差し伸べた。副部長として隆翔の復帰に奔走した秀一も、変わらぬ友人としてあり続けた。
後輩たちも逞しくなってくれた。こんな自分を慕ってくれる彼女たちは、隆翔にとって生涯忘れることのない存在となった。
無数の巡り合わせが一本の道となり、この舞台袖まで続いていた。消えない過去、そして後悔も失敗もすべてを推進力にして進んでいく。
客席にいる隆翔の太陽。彼女は目を離すことなく、ステージをじっと見つめていることだろう。
ならば、今ここで証明しなければならない。
彼女が差し伸べた手が間違っていなかったことを。
彼女が愛してくれた自分の音が、この舞台まで来たことを。
──負けたくない、絶対に。
そう思った途端、握り直した相棒が熱を帯びた。
この道が荒野を統べる一筋の光となるようにと、隆翔は祈った。
◇◆◇
──三番、京都府立北宇治高等学校。
その名前が呼ばれた瞬間、期待の大きさを反映したような拍手が鳴り響いた。
目の前に広がるのは、薄い光の膜越しに見える無数の人影。一人ひとりの顔を窺い知ることはできない。いつもこの光景を前にするたび、脳裏に浮かぶのは隆翔の原点ともいえる感覚だ。
遥か頭上から照らされる無数の照明。目の前が光の筋で覆われて真っ白になる。そして、身を焦がすような圧倒的な熱量が降り注ぐ。緊張、奮起、希望、絶望。これまで、このステージに立ったすべての人が残していった感情が、足元からぐわっと襲ってくる。
かつて、梓に本番の怖さを語ったことがあった。
本番では一度放った音を取り戻すことはできない。どれほど悔やんでも時間は前にしか進まず、失敗も成功も、その瞬間に過去へと置き去りにされる。だから怖いのだと、あの頃の隆翔は思っていた。
その感覚は今も変わらない。
むしろ経験を重ねたからこそ、本番というものがどれほど残酷で、どれほど公平なのかを知っている。練習に何百時間も費やしたところで、審査員や観客が耳にするのはこの先の僅か十二分だけだ。今日まで積み上げた努力を斟酌してくれる者はいない。奏者に許されているのは、たった一度、その瞬間に出せる音を鳴らすことだけだった。
それでも今は、その怖さから逃げたいとは微塵も思わない。むしろ味わい尽くしたいとすら思えている。
胸の奥が締め付けられるような緊張も、身体の内側から湧き上がる熱も、指先にまとわりつく僅かな震えも、すべて今日ここへ辿り着かなければ知ることのできなかった感覚だ。北中で初めて舞台に立った頃には、そんなふうに考える余裕などなかった。ただ失敗したくないと願い、怖さを押し殺すことに必死だった。
あれから六年。
憧れを抱き、願いを背負い、誓いを守ってきた。
隆翔は静かに息を吸った。肺の奥まで吸い込んだ空気が、熱を孕んでいる。
怖い。だが、それでいい。
この舞台を怖いと思えるほど、自分は今日まで本気で音楽と向き合ってきたのだ。
もう逃げる理由など、どこにもなかった。
やがて拍手の余韻が静まり、タキシード姿の滝が舞台中央へ歩み出る。客席に一礼したのち、彼はゆっくりと指揮台へ上がった。
滝の両腕が持ち上がると同時に、フルートに息を吹き込んだ。
課題曲Ⅰ、江原大介作曲『スケルツァンド』。その冒頭が放たれると、それまで静まり返っていたステージへ無数の音符が弾け飛んだ。目覚まし時計のようなトライアングルが鳴り響く。軽妙な旋律の上を木管が駆け、受け取った旋律をサックスが押し返し、その合間を金管が鮮やかに縫っていく。矢継ぎ早に組み合わされる旋律を縫い合わせるように、一つの音楽を形成する。その応酬は目まぐるしいが、音楽そのものには少しの窮屈さもなく、五十五人が同じ大きな流れの中で自由に飛び回っているようだった。
隆翔の視界では、滝の指揮棒が軽やかに拍を刻んでいる。北宇治の強みでもあるクラリネットは、忙しない運指を軽やかに運び、その反対側ではサックスが身体を僅かに揺らしながら次の音を拾う。後方から飛び込んできたトランペットの破裂するような響きに木管が応じれば、その足元では低音楽器が決して揺らがない拍を作り、つばめたち打楽器群が輪郭を鮮明に縁取っていた。
曲の中盤、穏やかなサックスのソロが解き放たれると、木管とコントラバスのユニゾンがそれを支える。緩やかな欧州の川の流れを想起させる旋律が過ぎて行くと、再びけたたましいトライアングルの警笛。それを合図にして、バスクラリネットとトロンボーン、チューバが地鳴りのような鼓動を叩いていく。盛り上がりは最高潮。速いパッセージを飛び越え、金管と木管のパッチワークを経て最後のメインテーマを奏でる。
音と音の間を、フルートとピッコロが魅せる部分は何度練習したか分からない。だが、府大会や関西大会と同じく、完璧に揃った時の血の湧き立つような快感が背筋を走り抜けた。
走り抜けるようなヴォランテのあとで、滝が腕を振り下ろした。
熱を帯びた残響が高い天井へ吸い込まれ、ほんの数秒間、荒くなった呼吸を整える音だけが舞台に残った。
再び、皆の視線が指揮台の滝へ一斉に集まる。
彼は僅かに口角を上げ、全員を見渡した。そして静かに両腕を持ち上げると、最初のユニゾンを担う高久がクラリネットを構えた。隆翔の右隣では、リッププレートに口を添えた沙里がこちらを一瞥する。
視線が重なると沙里は目を細め、そしてニヤリと口端を吊り上げた。
自由曲、戸川ヒデアキ作曲『一年の詩 〜吹奏楽のための』は、高久ちえりのクラリネットソロから始まる。
澄んだ音色が静寂を柔らかく掻き回す。まだ誰の足跡もついていない朝の道へ、最初の一歩を踏み出すような旋律。その孤独を包み込むように沙里のフルートと梨々花のオーボエが加わると、三つの音は静かに重なり、凍えていた空気へ少しずつ温度を与えていった。
第一楽章『春、新たなる息吹』。
今年の北宇治は、多くの傷を残したまま新年度を迎えた。
順風満帆とは程遠い航海を経て、船体は傷つき、帆は破れていた。
しかし、それでも一年生は何も知らずに音楽室の扉を開いた。吉田や水井たちのような、まだ粗い音が先輩の音へ混ざり、福岡からやってきた真由もその輪の中へ静かに加わった。
オーボエが歌い、ハープがその足元へ柔らかな光を落とす。木管の間を渡ってきた旋律が徐々に太くなり、やがてトランペットのファンファーレが春の静けさを高らかに突き破って、音を開花させた。
剣崎梨々花は本当に上手くなった。一度として同じ舞台で演奏できなかったみぞれへの憧憬と尊敬を胸に、実力ある一年生の加千須みくと共にダブルリードの一角を支えてきた。
そして、高坂と並んでトランペットのファーストを務める小日向夢。昨年は友恵の影に隠れながら、おずおずとしていた彼女はアンサンブルコンテストでその殻を破った。中学の頃に見ていた姿からは想像できないほどその音は洗練され、高坂の後継として相応しいほどに成長した。
アルトサックスを奏でながらパートを牽引する牧誓。彼女は沙里と同じく、高校から吹奏楽を始めたのだそうだ。その表現の幅は広がり続けている。彼女は間違いなく木管を支える柱の一角として君臨していた。
一本だった旋律が束になり、合奏となってホールへ広がっていく。その華やかな響きの中には、新しく入ってきた者を迎え入れ、教えることに戸惑いながら、それでも先輩になろうとした上級生たちの時間が確かに息づいていた。
そして春は、留まることなく夏へ走り出す。
第二楽章『夏、栄光の謳歌』へ入った途端、木管の運指は一気に忙しさを増した。クラリネットが駆け出し、フルートがその上を飛び越え、金管から飛んでくる強烈な響きが旋律の輪郭を次々と塗り替えていく。
今年の夏もそうだった。蒸し暑い音楽室で何時間も音を奏で、互いの演奏を比べ、オーディションという明確な線によって選ばれる者とそうでない者に分けられた。そして最後の夏という自覚を少しずつ実感しながら府大会を迎え、合宿で部内の不和という荒波に立ち向かった。魔境の関西を越えなければ悲願はない。そのために手段を選んでいる余裕はなかった。春にはまだ輪郭さえ曖昧だった全国大会という舞台に上がるために、多くの部員が身を削った。
ユーフォニアムの速い運指が音の土台を牽引する。背後から流れてくる音に耳を澄ます余裕はないが、黄前と真由が合わせた時に得られる音の波は、途轍もない安心感を与えてくれた。
ホルンからクラリネットへの音の受け渡し。滝はこの移り変わりを相当意識していたように思える。そして低音から受け取ったあとに来る、フルートの編成を厚くしてまで気を遣った二十一小節目。クラリネットとのユニゾンで意識したのは、透明感のあるフルートの音色の先にあるフォルテッシモだった。
関西大会と同じように、つばめが二本のマレットで正確無比なマリンバの打音を刻む。低音が大きくうねり、その上を高音群が躊躇なく駆け抜けていく。スポットライトに照らされた金属の表面が次々と煌めき、奏者の身体が呼吸に合わせて僅かに揺れるたび、目には見えないはずの音まで光の粒となって飛び散っているようだった。
やがて音楽は熱を失い始めた。
強烈だった響きが徐々に遠ざかり、川島のコントラバスが深い低音を残す。盛夏の空を覆っていた入道雲が形を崩し、夕暮れの向こうへ流れていくように、舞台の色彩が少しずつ落ち着いていった。
──秋が来る。
そこにあるのは、ヴェルレーヌの高名な詩の一節を思わせるような物悲しさだった。
滝の視線が、最後列の高坂を捉えた。
第三楽章『秋、宿命の時』。
鋭く研ぎ澄まされたトランペットが鳴った瞬間、それまで幾重にも重なっていた音楽が一本の線へ収束した。
客席の空気が明らかに変わった。
高坂が三年間追い求めた生き様を、そのまま音へ変えたようなトランペットだった。
高く、強く、しかし決して乱れない。
そして一本の光が秋の夜空を切り裂く。その後を追うように、真由のユーフォニアムが響いた。
北宇治高校吹奏楽部の全員が傷つきながら選んだ、紛うことなき最強のユーフォニアム。誰もその音に疑問など抱かない。誰もこの音を否定しない。そして、誰もがそれぞれの想いをこの音に託していた。
性質のまるで違う二本の旋律が互いの輪郭を損なうことなく絡み合っていく。それを支える伴奏にも躊躇はない。結果を受け入れた黄前も、最後まで信念を曲げなかった高坂も、自分の存在意義を問い続けた真由も、一つの音楽に帰結する。正しさと信念は最後まで戦い続けた。それでもこの道を選んだことに後悔などあるはずがない。秋は深まり、色鮮やかだった旋律が一枚ずつ葉を落とすように静まっていった。
第四楽章『冬、終焉……そして再び始まる』。
ハープの静かな響きに、沙里と隆翔のフルートが重なる。先ほどまでステージを満たしていた熱気が嘘のように引き、木管の細い音色が、白く冷えた景色を作り上げていく。
クラリネット、サックスが最後の輝きの土壌を奏で、オクターヴの高いフルートへバトンを渡す。短い見せ場だが神は細部に宿る。まだだ、まだだと自分を抑えながら、慎重に旋律を繋いでいった。
そして盛り上がりは最高潮を迎えた。
すべての音が解放され、トランペットの音が飛び立つその背に喝采のファンファーレを奏でる。沙里を筆頭に、この最高潮を最も速い七連符で駆け抜けた。
もう、ここまで来てしまった。十二分という短い時間も、あと僅かしか残されていない。
最高の仲間と演奏してきた一年間。そのすべてが、いま宝石となった。
終わってほしくない。まだまだこの舞台に立たせてくれ。身震いするほどに焦がれた最高に贅沢な時間を、隆翔は一瞬で駆け抜けてきた。
光へ手を伸ばす。隆翔が吹奏楽部の門を叩くよりも前から蒔かれた種が芽吹き、枝を伸ばし、花を咲かせた。そしていつかは枯れて、また種となって続いていく。
不意に、一筋の涙が頬を伝った。その雫さえも、いつか次の季節に新たな芽を吹かせるためのものに思えた。
そして、また新しい春へ。
左肩につけたリボンが揺れる。北宇治が託した最後の一音を、万感の想いを乗せて沙里が奏でた。その旋律が広いホールをゆっくりと渡っていく。最後まで息を緩めず、音は遠くへ伸びていき、やがて客席の暗がりへ溶けていった。
◇◆◇
どこまでも広がっていく青色。
秋晴れの空の下、会場の外に広がる植栽に広がる一角は憩いのスペースとして開放されている。
つい先ほど、隆翔は高校生活最後の演奏を終えた。
まだ身体の奥に残る熱と余韻を持て余すように、暖かな日差しの下、ふかふかの絨毯を思わせる芝生へ仰向けに寝転がる。
午前の部の最後に行われる結果発表までは、まだ幾らか時間があった。ホールの中では今も他校の演奏が続いている。後輩たちは後学のため客席へ戻り、強豪校の演奏に耳を傾けていた。一方で、今日を最後に部活動から退く三年生たちは、それぞれ思い思いの場所で、張り詰めていた時間の続きを過ごしている。
「あ、サボってる人がいる〜」
不意に陽光が
眩しさに細めていた目を開くと、太陽を背負うようにして希美がこちらを覗き込んでいた。
「サボってないよ。これは正当な休憩」
「みんなのところにいなくていいの?」
紺色のロングスカートを押さえながら隆翔の傍に腰を下ろした。
「ちょっとだけ離脱してきた。さっきまでみんなに揉みくちゃにされて、それどころじゃなかったから」
「……うん。なんとなく想像つく」
その光景を思い浮かべたのか、希美は小さく吹き出した。
北宇治は会心の演奏をした。客席から注がれた万雷の拍手が、それを何より雄弁に物語っている。ミスというミスはなく、それどころか、普段以上の力を舞台の上で引き出せたという実感すらあった。
舞台袖へ戻った途端、それまで張り詰めていた糸が一斉に切れた。その場にしゃがみ込んで泣き出す者がいれば、言葉にならない声を上げながら互いに抱き合う者。沙里は小田と中野に挟まれるようにして身を寄せ合い、三人とも目元を赤くしながら「よかった」と何度も繰り返していた。
やり切った。少なくとも、あの場にいた全員がそう思ったに違いなかった。
柔らかな風が希美の髪を弄ぶ。彼女はくすぐったそうにそれを耳へ掛け直すと、隆翔の顔をじっと覗き込み、ふっと頬を緩めた。
「どうしたの、ニヤニヤして」
「なんか良いなって」
「どういう意味?」
「この会場で、隆翔と二人きりになれてるのが」
確かに妙な光景だった。
全国の吹奏楽部員が目指すこの会場。その片隅で、希美と二人きり同じ景色を眺めている。夢でも見ているような気分だ。
そして、芝生の中央にあるアコウの木を眺めながらしみじみ言った。
「ここに来れて良かった。私が辿り着けなかったところに隆翔が連れてきてくれたんだなって思ったら、今まで引っ掛かってたこととか、悔しかったこととか……そういうモヤっとした考えとかが整理できた気がする」
隆翔は照れ臭さを誤魔化すように視線を上空に逃し、じわじわと遅れて湧き出てきた喜びを実感した。
「俺がここにいること、誰に聞いたの?」
「沙里ちゃんだよ。それがどうかした?」
「いや。じゃあ、みんなとはもう会ったんだ」
「うん。優子と夏紀、それにみぞれも後輩たちに囲まれてた。あと去年の卒業生だと、しのぶと友恵が到着してたよ」
サックスOGの森田しのぶと、トランペットからマネージャーへ転向し、隆翔と共に部を支えた加部友恵も会場に駆け付けていた。
全国大会のチケットは簡単に手に入るものではない。希美たちはどうにか確保できたものの、二人は演奏そのものを客席で聴くことは叶わなかったのかもしれない。それでも、後輩たちの晴れ舞台のためにわざわざ名古屋まで足を運んでくれた。
「二人とも、もなかのメンバーには慕われてるもんね。加藤さんと瞳さんの泣きっぷり、すごかったよ」
北宇治のサポートメンバーは『チームもなか』と呼ばれている。何がその由来なのかと言えば、一昨年にコンクールメンバーを外れた上級生である森田しのぶ、中川夏紀、加部友恵の頭文字を取ったものだった。
「ありがたいね……」
隆翔は噛み締めるように呟いた。
「この一年、本当によく頑張ったね」
「なんだよ急に」
「きっと、隆翔が相談してくれたこと以上に色々あったんだろうなって。ただ漫然と過ごしていたら、本番が終わった後にあんなふうに泣けないよ。途中で投げてもおかしくなかったのに、ちゃんと最後までやり遂げた。それが、どんなことよりも嬉しい」
寝転がった隆翔の頭を、希美は優しく撫でる。誰にも邪魔されない空間で、こうして希美と過ごしたのはいつ以来だろう。ひどく懐かしくも感じるし、時間にしてみればそんなに経っていないのかもしれない。隆翔が北宇治で過ごした時間の濃さを表していた。
希美からかけられた期待と呪いは、とっくに解けていた。そう思えたのは、誰よりも希美にこの一年を肯定してもらいたかったからだ。
「希美、覚えてる?」
「何が?」
「アンコンの前に、希美言ったじゃん。『君が全国に行くんだよ』って」
隆翔はなんでもないように言った。この一年、隆翔の原動力といえば間違いなくその一言だった。
「私、あの時は半分くらい願掛けみたいな気持ちで言ったんだけど」
「ふうん。もしかしたら呪いみたいなものかと思ってた」
「そんなんじゃないよ。でも、ちゃんと効いてたんだ。重荷だった?」
「重荷だったか、と聞かれればそうだったよ。でも、それがあったからブレずに来れた」
荒波を越えてきた今年の北宇治で隆翔がやってこれたのは、紛れもなくその一言があったからだ。
「もうすぐ結果発表だ」
「結果聞くの、怖い?」
「そりゃね。この結果が、後輩たちの重荷にはなってほしくないから」
そう言って、隆翔は立ち上がった。背中とお尻に付いている草を払いながら、天に向かって軽く伸びをした。
「でも、もう
「そっか」
隆翔の言葉を聞いた希美は嬉しそうにした。そして自然な動きで、隆翔の手をとった。
◇◆◇
午前中、すべてのプログラムが終わったホールは、どことなく落ち着かない空気に満ちていた。あちらこちらから、期待と不安をないまぜにした話し声が聞こえてくる。それらのざわめきさえ、時間が経つにつれて少しずつ耳から遠ざかっていくような感覚がした。
北宇治の座席だけは、周囲の喧騒と切り離されたように静まり返っている。
心臓の鼓動が速くなっているのが分かった。
呼吸は浅くなり、喉もひどく乾いている。あれほどの大舞台で演奏していた時よりも緊張している自分がおかしくて、隆翔は少しだけ笑いたくなった。
一度、深く息を吸う。
肺いっぱいに空気を入れ、時間をかけて吐き出した。それだけで狭まっていた視界が僅かに広がり、周囲の様子が鮮明に見えた。
ステージ脇には部長の黄前と、副部長の秀一が立っている。ほかの三年生たちも、誰一人として視線を逸らさず壇上を見つめていた。
隣で拳を握りながら、目を閉じて祈る沙里の姿が目に入った。
その胸の内に不安や恐れがないはずはなかった。むしろ彼女は、この一年、そうした感情をできる限り表へ出さずに歩いてきた。弱さを抱えながらも、それを理由に誰かへ責任を押しつけることなく、最後までフルートパートを率いてきた。
そんなことまで考えられる程度には、先ほどの深呼吸が効いたらしい。
『これより、全日本吹奏楽コンクール高校・午前の部。結果発表を行います』
司会者の声が、マイクを通してホールに響いた。
『一番、東京代表、東京都立片敷高等学校。銀賞』
薄暗い客席の一角から、落胆の声が漏れた。
溜息、啜り泣く声、僅かなざわめきが否応なく耳へ入ってくる。それらの音に、隆翔は一年前の関西大会を思い出した。
『二番、東関東代表、
抑揚のない声ひとつで、一年間の努力に金、銀、銅という色が与えられていく。
残酷なものだと思う。音楽は本来自由なものだが、音楽を生業とする部活動においては、秩序の上に成り立っている。一人で完結することはできず、周囲と音を合わせ、同じ目的へ向かわなければならない。
その秩序から外れれば、その場から弾き出される。
少なくとも、かつての隆翔にとって吹奏楽部とはそういう場所だった。
──音楽が好き。フルートが好き。でも、吹奏楽部は嫌い。
昔の自分が吐き捨てた言葉を思い出す。
では、今はどうであろうか。一度失った時間も、人も、関係も、完全に元へ戻すことはできない。自分が犯した失敗も、それによって傷つけた人間も消えてはくれない。
それでも、後悔という大波に幾度となく飲み込まれながら、ここまで泳いできた。
『三番、関西代表、北宇治高等学校』
胸の奥が強く締め付けられた。
もし『青春』とは何かと問われたなら、きっとこれこそがその答えなのだろう。
息をすることさえ忘れ、隆翔は次の言葉を待った。
『────ゴールド、金賞』
その瞬間、絶叫の大波が客席を呑み込んだ。
「金だ!」
「やったー!」
「おっしゃあああああああ」
「嘘みたい……!」
歓喜の声が四方から飛び交い、もはや誰が何を叫んでいるのか分からない。
隆翔も例外ではなかった。生まれてから一度も出したことがないほど大きな声を上げ、握った拳を天井へ突き上げる。
全国大会、金賞。
本当に、自分たちは獲ったのだ。
その事実が理解に追いついた途端、視界が滲んだ。目頭が熱くなり、頬へ涙が落ちていく。
ふと、隆翔の右腕が取られる。傍に座っている沙里が、泣きながらうずくまっている。少し呼吸困難になっている様子だった。隆翔は反対側の手で沙里の頭をなでた。その感触に、沙里は制服の袖がぎゅっと握りしめられ、皺が深くなっていた。すると沙里の指が隆翔の制服の袖をさらに強く握り込み、布地に深い皺を作った。
『今日、絶対に金獲って帰ろう』
全国大会を前に、そう言い切った沙里の声が蘇る。
沙里だけではない。小田、中野、吉田をはじめとするフルートパート。黄前、秀一、高坂。真由やつばめ、各パートを支えてきたパートリーダーたち。元南中の二年生。先生たち。想いを繋いできた優子、夏紀、みぞれ。そして、希美。
今日まで関わってきた人の顔が、一斉に脳裏を駆け抜けていく。
全員が傷を負い、悩み、時には互いを傷つけながら、それでも足を引きずるようにして前へ進んできた。報われた瞬間だった。
小田と中野が勢いよく飛び込んできて、沙里と隆翔をまとめて抱き締める。そこへ江藤たちも加わり、気付けば何人もの部員にもみくちゃにされていた。
袖で涙を拭っても次から次へと溢れてくる。人前でこんな泣き方をしたのは、生まれて初めてだった。
ステージへ目を向ける。賞状を受け取った黄前は泣いていた。その傍らでは秀一も目元を赤くしながら客席へ笑顔を向けている。少し離れたところでは、高坂が加藤と川島に挟まれ、膝を抱えながら喜びを噛み締めていた。
隆翔は心の中で、この一年を締め括った三人に賞賛の拍手を送った。
会場前の広場で集合写真を撮り終えると、バスへ戻るまでしばらく自由時間となった。
一度は引きかけていた涙も、苦楽を共にしたOBやOG、ここまで支えてくれた保護者たちの顔を見るたびに、また緩んでしまう。
歓喜の輪へ戻ってきた黄前と秀一も、張り詰めていたものがようやく解けたのか、まだ目元を赤くしていた。とりわけ秀一は酷い顔だった。
「ほら」
隆翔は持っていたスポーツタオルを投げ渡す。
「……なんだよこれ」
「顔拭けよ。涙と汗でべちゃべちゃだぞ」
「お前も人のこと言えねえだろ」
そう言いながらも、秀一は素直にタオルを首へかけた。
六年間の付き合いに、今さら改まった言葉など必要ない。顔を見合わせた瞬間、どちらからともなく肩を抱き、そのまま強く抱き合った。
「暑苦しい」
「まあまあ、今日くらいいいじゃん」
高坂の冷淡な声を黄前が宥める。寛大な彼女は、どこか微笑ましそうに二人を眺めていた。
秀一と離れた隆翔は、そのまま高坂と向き合う。
「長かったな、ここまで」
「そうね。これだけ色々あって、最後にここへ辿り着いたのは巡り合わせかしら」
「巡り合わせっていうより、腐れ縁だろ」
「アタシたちの場合、そんな生易しいものだったかしら」
高坂はふっと口端を吊り上げた。
「あー、麗奈と樟葉がまた喧嘩してる」
「してないわよ」
いつの間にか傍まで来ていた黄前が、高坂の肩へ腕を回す。
「でも俺たち、なんだかんだでここまで来ちまったな」
「そうね」
「始まりは、秀一が黄前にしたブス発言だっけ?」
「違うだろ!」
秀一が間髪入れずに否定する。
「じゃあ、樟葉が麗奈に友達がいないって言った件?」
初耳だったらしい秀一が思わず吹き出した。次の瞬間、その脇腹へ高坂の拳が容赦なくめり込んだ。
「痛っ! なんで俺なんだよ」
「笑ったからよ」
高坂は唇を尖らせて不満を露わにした。その仕草すら、今日は微笑ましかった。
「なんにせよ、金賞獲れてよかったよ」
隆翔がそう言うと、黄前は手にした賞状へ視線を落とした。
「うん。すっごく嬉しい」
その細い肩にのしかかる重圧がどれほどのものだったかは、想像に難くない。それでも、黄前久美子が率いた北宇治高校吹奏楽部は、いま彼女の手の中にある『金賞』の二文字が示す通り、快挙を成し遂げた。
「これで梓ちゃんがマーチングで金賞獲ってくれたら、言うことないんだけどな」
不意に黄前の口から梓の名前が出て、隆翔の胸が僅かに跳ねた。しかし、顔には出さず平静を装った。
「そこまでいったら元北中の評価、爆上がりだろうよ」
「あははっ、本当だね。全部終わったら、またみんなで打ち上げしようね」
無邪気に笑う黄前へ、隆翔は曖昧な笑みだけを返した。
ふと視線を逸らすと、建物の陰からこちらの様子を見守っている両親の姿が目に入った。
隆翔は黄前たちの輪を離れ、二人のもとへ歩いていく。
「金賞おめでとう」
「演奏、本当に感動したわ」
名古屋まで駆け付けてくれた両親の顔を間近に見て、隆翔は安堵のため息をついた。
「二人も、来てくれてありがとう」
母は手にしていたハンカチを目元へ押し当てた。
息子がここまで続けてきたこと、そして長年目指してきた全国の舞台で金賞を掴んだこと。その両方を心から喜んでいるのだろう。父も隣で静かに微笑んでいた。
父は来週、再びドイツへ旅立つ。五年前に二人から買ってもらったフルートは、隆翔と共に随分と長い旅をしてきた。だからこそ、最後の演奏は二人にも聴いてもらいたかった。父が再び海を渡る前にその姿を見せることができたのは、隆翔にとって金賞とはまた違う大きな喜びだった。
視界の端では滝が感極まって目頭を抑えている。その前では、優子やトランペットパートに見守られながら高坂が滝へハンカチを手渡した。興奮する周囲の反応に、高坂は真っ赤にした顔を覆っている。
表彰式には指揮者賞というものがある。演奏を指揮した教師へ贈られる表彰であるが、自分の学校の指揮者が呼ばれた時になんらかのメッセージを叫ぶのが慣例化している。
北宇治は事前に決めていた通り「滝先生、大好き!」と揃って叫んだ。だが、この中で熱の籠った本気の一声を送ったのは高坂だけだったであろう。
隆翔は再び両親に向き合った。
「正直、金賞まで獲れるとは思ってなかったよ。俺、部活だって途中入部だったし、みんなの方がずっと……」
そこまで言って、隆翔は口を閉じた。今さら自分だけをこの結果から外す必要などない。
「……いや、今日まで頑張ってきて良かった」
照れ臭さに耐えながら言葉を紡ぐ。
「音楽教室にも通わせてくれてありがとう。父さんがドイツに戻る前に、ちゃんと演奏を聴かせられてよかった。母さんにもいっぱい頼ったし……少しくらいは、恩返しできたかなって」
隆翔の言葉を受け止めた母は、再びハンカチで涙を拭った。
父は口元を緩めると、大きな手を伸ばし、隆翔の頭を少し乱暴に撫でた。
「よくやったな」
その短い言葉の中には、父が見られなかった瞬間の労いまで籠っているようだった。
「じゃあ俺、もう戻るから」
「ああ、最後までしっかりな」
「帰ったらご馳走、いっぱい用意しておくからね」
「期待してる」
両親に背を向ける。数歩進んだところで、隆翔は一度だけ振り返った。二人は変わらずこちらを見ていた。隆翔は小さく手を上げると、仲間たちの待つ歓喜の輪へ戻っていった。
会場では、すでに午後の部が始まっていた。
名古屋国際会議場を離れる北宇治の生徒たちは、まだ金賞の余韻から抜け出せていない。駐車場へ向かう道すがらでも、その興奮は冷めやらない。
泣き腫らした目元も、いまは勲章のようなものだった。
バスの車内へ乗り込んだ後も、その騒がしさは変わらない。スマートフォンで記念写真を撮ったり、大会結果を家族や友人に知らせる姿もある。
隆翔も窓際の席へ腰を下ろし、ようやく一息ついた。
今日一日だけで、随分と多くの感情を使った気がする。身体には心地よい疲労が残っていた。
ふと、車内の前方が妙にざわつき始めた。
「部長たち、まだ乗ってないの?」
誰かの声につられて窓の外へ視線を向ける。
ほとんどの部員はすでに乗車を終えていた。残っているのは幹部を中心とした数人だけで、乗降口の少し先では秀一が最後の確認をしながら周囲へ声を掛けている。その首には、先ほど隆翔が投げ渡したスポーツタオルがかかっていた。
「秀一」
黄前の声がして、呼び止められた秀一が振り返る。
何を話しているのか、バスの中までは聞こえてこない。隆翔は頬杖をつきながら、何となく二人の様子を眺めていた。
黄前は賞状を胸元に抱え、秀一と向かい合っている。いつもの二人なら、ここから他愛のないやり取りが始まるはずだった。
ところが黄前は、秀一の前へ一歩踏み込んだ。
「……ん?」
隆翔は僅かに眉を上げる。
黄前の右手が伸びた。掴んだのは、秀一の首に掛かっているスポーツタオルだった。
強く引かれたことで不意を突かれた秀一の身体が前へ傾き、二人の距離が一気に縮まった。
次の瞬間、黄前が踵を浮かせた。
「おお……」
一瞬の出来事だった。
黄前の顔が秀一のそれに重なり、すぐに離れる。
隆翔が事態を理解するよりも早く、窓際にいた部員たちから悲鳴にも似た声が上がった。
「えっ!?」
「ちょっと待って!」
「今したよね!?」
「久美子先輩!?」
車内が瞬く間に騒然となる。
昨日の夜、自分が口にした言葉が鮮明に蘇る。
──待たせたご褒美に、キスくらいしてやれば。
「……本当にやりやがった」
思わず独り言が漏れた。まさか実行するとは思っていなかったから、隆翔は呆気に取られた。口付けを受けた秀一は、何が起きたのか理解できていないように目を見開き、口を半端に開けたまま黄前を見つめていた。
耳まで真っ赤にした黄前は、秀一だけに届く距離まで顔を寄せて何かを伝えた。
秀一の喉仏が上下する。
やがて彼は我に返ったように制服のポケットへ手を入れ、何かを探し始めた。取り出したのは、小さな白いヘアピン。その先端には一輪の花があしらわれている。一年前の合宿で、黄前が秀一に預けたヘアピンだった。
大切に受け取ったそれを、黄前は髪に留めた。
すると、前方の乗り込み口からちかおが声を上げた。
「おーい、そこのバカップル! さっさと乗れよ」
窓際の席から声が飛ぶ。その内容は、ほとんどが祝福だった。
「部長、大胆すぎ!」
「おめでとうございまーす!」
「塚本先輩、返事はー!?」
「うるさーい!」
我に返った黄前の叫び声が返ってくる。
秀一はいたたまれなくなったのか、頭を掻きながらバスへ向かって歩き出す。黄前も少し遅れてその後を追った。
バスに乗り込んだ秀一と目が合った。困り果てたように眉を下げながら、それでもどうしようもなく嬉しそうに笑っていた。
隆翔は何も言わず、右手の親指を立てた。
「……お前、あとで覚えとけよ」
秀一が小声で吐き捨てる。
「何のことだか」
「久美子になんか吹き込んだだろ」
「さあ?」
肩を竦めると、秀一は深い溜息を吐いた。
笑い声の絶えない車内を見渡しながら、ようやく長い一日が終わりへ向かっていることを実感した。
やがて全員の乗車を確認すると、バスはゆっくりと駐車場を離れた。
窓の向こうで、名古屋国際会議場が少しずつ遠ざかっていく。あれほど遠かった場所も、去ってしまえば呆気ないものだった。
「隆翔くん」
「ん?」
振り向くと、沙里がこちらを見ていた。泣き腫らした目元にはまだ赤みが残っている。それでも、その表情はどこまでも晴れやかだった。
「楽しかったね」
その一言が何を指しているのか、隆翔は瞬時に理解した。
清々しい顔であの時間に想いを馳せる。一度は自分から手放した吹奏楽部という場所は、失った時間を埋め合わせる以上のものを彼に与えてくれた。
「ねえ、隆翔くん」
沙里は僅かに声音を落とした。
「ここの吹奏楽部は、好きになれた?」
いつか自分が吐露した言葉を、彼女はずっと覚えていてくれたのだろう。今ならその質問に、隆翔は迷わず笑って答えることができた。
「やっと、好きになれたよ」
【つづく】
君たちはありあまる奇跡を、駆け抜けて今をゆく。
─羊文学 『光るとき』─
『或る、フルート吹きの青春』
──次号、最終回。