次号が正真正銘、最終回です!
未来は君のためにあるの
Future is Yours
─サンボマスター 『Future is Yours』─
一月も終わりに差しかかり、身体の芯まで冷えるような日が続いている。
大きく吐き出した息が白く曇り、重たげな冬空へ溶けていく。そんな寒さなど意に介さないように、隆翔は歩きながら手元の参考書へ視線を落とした。
今日は第一志望である
赤信号に引っかかると隆翔は参考書を閉じ、鞄から英単語帳を取り出した。
日々の勉強では、すべての教科で一定以上の成績を維持することを心掛けてきた。高坂や北浜のような首席を狙えるほどの秀才ではないが、学生の身の上である以上、学力は将来の選択肢を左右する尺度の一つだと考えていた。後になって「あの時もう少し勉強していれば」と悔やむくらいなら、やれるうちにやっておいた方がいい。その考えが間違いだと思ったことは、一度もない。
尤も、こうして何度も見返したはずの英単語帳も、試験当日の朝になれば途端に頼りなく感じてしまう。
「……acquire、獲得する。estimate、見積もる……」
周囲には届かないほどの小声で、ぶつぶつと意味を確かめる。
隆翔は英語があまり得意ではなかった。試験範囲が分かっている定期考査ではそれなりの点数を維持していたが、受験対策ともなれば課題が浮き彫りになっていた。そのため、夏休み前から通っていた予備校や、バイトの合間を縫って勉強を手伝ってくれた希美、英語が比較的得意な沙里などの手を借りて、なんとか間に合わせることができた。
吹奏楽部員の受験事情はなかなかに厳しい。十月下旬に吹奏楽コンクールが終わりを迎えると、すぐに受験モードとなる。他の部活動で早期に引退した生徒に比べれば、本腰を入れるタイミングとしてはかなり遅い。その遅れを挽回すべく、文字通り死に物狂いで勉強に励むしかなかった。
隆翔と同じく文系一本に絞っていた沙里は、海外での仕事に対する憧れから神戸の公立外国語大学を第一志望としていた。学年で唯一海外留学を志望した高坂は、ニューヨークにある音楽大学への留学が正式に決定し、日々音楽と英会話の研鑽を積んでいる。
黄前はかなり悩んだ末に教員への道を目指すこととなった。彼女が志望する教育学部のある大学は京都市内にある。残念ながら恋人の秀一が理系のため同じ大学とはいかなかったが、彼もそこから程近い府立大学を志望したため、日夜勉強漬けだという。
私立が第一志望の隆翔は、吹奏楽部員の中では比較的早いタイミングでの受験となった。専門学校へ行く川島や短大志望の加藤のように早々に決まった生徒もいる反面、国公立組の入試は二月下旬に行われる。パーカッションのつばめや井上順菜は大阪の国公立、真由は東京の女子大学、吹奏楽部員ではないが、クラスメイトの北浜も大阪の国立大学を目指していた。
やがて信号が青へ変わると、足を止めていた学生たちが示し合わせたように一斉に動き出した。
隆翔は濃紺のダッフルコートの襟元を整え、外へ出ていたマフラーの端を内側にぐっと押し込んだ。なるようにしかならない。そう気持ちを整理しながら、隆翔は大学の門を跨いだ。
すべての試験を終えて建物の外へ出た途端、肩に掛かっていた力が抜け落ちた。朝から何時間も問題用紙と向き合い続けたせいか、頭の奥に鈍い疲労が残っている。
出来は悪くなかった。だからといって、自信満々に合格を確信できるほど隆翔は楽観的ではない。思い返せば、解答に迷った問題はいくつかあった。
「……今さら考えてもしょうがないか」
一度きりの本番という意味では、試験もコンクールも同じだ。過ぎたことにくよくよするのは性に合わない。そう言い聞かせるように隆翔はひとりごちた。
大学構内の自動販売機で温かいカフェオレを買い、プルタブを開ける。口に含むと、甘さの奥から仄かな苦味が広がった。
このあと希美と待ち合わせをしていた。電源を落としていたスマートフォンを起動すると、既に彼女から連絡が入っていた。
希美は駅前のコンビニの前で待っていた。膝下まである淡い色のコートに厚手のタイツ、首元には去年の秋に買ったというマフラーを巻いている。その傍らには、隆翔にとっても見慣れたフルートケースがあった。
隆翔の姿を見つけた瞬間、希美の表情がぱっと明るくなった。
「試験お疲れさま!」
「ありがとう。寒い中待たせてごめん」
「ううん、全然! それより、試験どうだった?」
「まあ、手応えはぼちぼちってところかな」
「……ふーん」
希美は隆翔の顔を確かめるように覗き込んだ。
「でも、隆翔のことだから出来ててもそうは言わないもんね」
「なんだそれ」
「長い付き合いだから、隆翔のことはなんとなく分かるんだよ」
そう得意げに笑う希美に隆翔は苦笑した。
結果が出るまでは無闇に期待しない。そんな石橋を叩いて渡るような性格も、彼女にはすっかり見透かされているらしい。
希美はオーケストラサークルの練習を終えたところだった。入試期間中は在学生の構内への立ち入りが制限されているため、今日は近くの多目的ホールを借りて練習していた。
希美のフルートケースを眺めていると、最後のコンクールからまだ数か月しか経っていないのに、楽器を持ち歩いていた頃が随分昔のことのように感じられた。
「今日はもう帰り?」
「うん。そうなんだけど……」
希美が道路の向こうへ視線を向けた。
「あっ、来た!」
「え?」
何事かと思って振り返ると、聞き覚えのある声が、駅前のロータリーから飛んできた。
「おーい!」
停車したミニバンの助手席から身を乗り出した優子が、こちらに大きく手を振っている。
「部長? どうして?」
「突っ立ってないで早く乗りなさいよ」
状況を飲み込めずにいる隆翔の手を希美が引いた。
「ほら、行くよ」
二人で後部座席へ乗り込む。運転席には夏紀がいた。ポニーテールはほどかれ、肩へ落ちた髪の向こうで片手をハンドルに添えている。
「先輩たち、一体どうしたんですか?」
「ウチらはバンドの練習帰り。希美から、樟葉が今日受験だって聞いてたから」
「それで、ちょうど近くを通るし拾っていこうって話になったの」
夏紀が運転席から振り返る。
「宇治まで乗せていくよ」
「夏紀、ありがとう。助かる〜」
「希美はともかく、俺までいいんですか?」
「今さら一人増えたところで変わんないって」
そう言うと、夏紀はセンターコンソールに置いていた缶コーヒーに口をつけた。デニムのジャケットを羽織り、髪を下ろしたまま運転席に収まる姿は、高校時代よりいくらか大人びて見える。
「……夏紀先輩、またイメージ変わりましたね」
「そう? あ、この服は従姉妹のおさがり」
「似合ってますよ。なんか女子ウケしそうですね」
「いや、そこは男子じゃないんかい!」
夏紀は肩をがくりと落とし、呆れたように笑った。
隆翔が扉を閉めると外の冷気が遮断され、暖房の効いた車内の空気が冷えた身体をじんわりと包み込んだ。
「じゃ、出すよ」
夏紀がシフトレバーへ手を掛ける。
少し年季の入ったミニバンは低いエンジン音を響かせながらロータリーを離れ、四人を乗せて冬の街へと走り出した。
「樟葉に会うのも全国大会以来ね」
「ですね。その節はありがとうございました」
「いいのよ。後輩たちが私たちの雪辱を果たしてくれたから。それに……本当に最高の演奏だった」
「優子がそんな素直に人を褒めるなんて珍しっ」
「……こんな素直な部長が見れるなんて、明日は雪かもしれませんね」
「アンタはともかく、樟葉はいつから先輩にそんな口を聞くようになったのかしら」
「あはははっ」
夏紀と隆翔が揃って優子を揶揄った。そのやり取りの背後で希美が楽しそうに笑っていた。
「ていうか、樟葉もいつまで私のことを部長って呼んでるのよ」
「俺にとって優子先輩は永遠に部長なんですよ。南中出身の後輩がいまだに希美を部長呼びしてるのと一緒です」
「まあ、そういうことなら……」
「満更でもないって」
「夏紀うっさい!」
優子が助手席から睨みつけると、夏紀は面白そうに口元を緩めた。
優子、夏紀、そして今日ここにはいないみぞれの三人には、隆翔が北宇治で再び音楽へ向き合ってきた中で返しきれないほどの恩義があった。
希美との関係も含め、高校生活の中で彼女たちと結ばれた縁は、卒業したところで簡単に途切れるものではない。むしろこれから先も、折に触れて互いの人生に何らかの形で関わってくるだろう。
隆翔はつい数時間前まで、生まれて初めて自分の意思で選んだ進路を掴むための試験に挑んでいた。まだ将来像がはっきりと浮かんでいるわけではないが、勝ち取りたい未来があった。そのために学びたい分野があり、その場所としてこの大学を選んだ。
「でも、ありがとね。私たちが見られなかった景色を見せてくれて」
夏紀の言葉に返事を悩んでいると、優子が先に口を開いた。
「アンタたちのお陰で、私も色々吹っ切れたわ。全国大会金賞って目標は、もちろん自分たちで決めたんでしょうけど……結果的には、私たちの分まで背負わせたようなところもあったと思う」
「…………」
「樟葉から逐一聞いてた話じゃ、一筋縄ではいかなかったみたいだしね。でも、最後にアンタたちが金賞獲って、あんな顔で喜んでるのを見たら……そんな心配、全部どっかに吹っ飛んだ」
「……部長」
「だから、その部長ってのやめなさいって」
「嫌です」
「即答かよ!」
優子は呆れたように息を吐く。
それから助手席からこちらを振り返ると、少し意地の悪い笑みを浮かべた。
「それより、私じゃなくて横にいるカノジョに構ってあげたら? さっきから完全にむくれてるわよ」
「え?」
希美は頬杖をつき、窓の外へ顔を向けていた。
「別に、むくれてませんけど」
「えぇー……」
「いいよ。優子の方が可愛いし、人気あるし」
前の二人との会話が久しぶりだったとはいえ、少々夢中になりすぎたらしい。優子と夏紀は、もはや自分たちには関係ないと言わんばかりに前へ向き直っている。
「ごめん、希美。先輩たちと会うの久しぶりだったから」
「……もう、仕方ないな」
そう言って、希美は希美は頬杖を解いて座り直した。
膝の脇へだらりと下ろされた彼女の手が、隆翔のすぐ傍にある。偶然なのか、それとも握ってほしいという意味なのか。それは考えるまでもなかった。
隆翔はその手へ自分の手を重ね、指を絡めるようにして握った。
希美も何も言わず、握り返してきた。
窓の外では、物寂しい冬の街が静かに夜を迎え入れようとしていた。
先のことに不安がないと言えば嘘になる。この先にある大学生活がどんなものになるのかも、今の隆翔には想像することしかできない。
だが、未来を悲観する理由はなかった。
隣にはこうして大切な人がいる。手のひらから伝わってくる希美の温かさを感じながら、隆翔は静かに流れていく景色へ目を向けた。
◇◆◇
二月も半ばを迎え、三年生は自由登校の期間に入っていた。通常の授業はすでになく、登校している生徒のほとんどは自習を目的としている。家にいても気が緩んでしまいそうな気がして、隆翔も週に何度かは学校へ顔を出していた。
第一志望である向日美大学への合格が決まり、隆翔の受験はひとまず終わりを迎えた。父と母、そして何より希美の支えがあったからこそ、隆翔は第一志望の学部へ合格することができた。聞いたところによると、三人とも隆翔の合格をどこか確信していたようで、本人だけが気が気じゃない、という様子だった。
隆翔を含め続々と私立組の結果が出る中、下旬には国公立の前期試験が控えていた。教室には今なお受験勉強を続けている生徒が何人も残っており、聞こえてくるのはシャープペンシルをノックする小さな音や、参考書のページを捲る乾いた音ばかり。合格した人間がそこで呑気に時間を潰すのは憚られた。
しばらく自席に座っていた隆翔だったが、やがて居心地の悪さに耐えかねて教室を出た。もっとも、行くあてがあるわけでもない。
すべての授業が終わった三年生が登校するのは月に数回。下級生の授業中は楽器を吹けないので、その時間は特にやることもなく、入試を終えた友人と雑談を交わしながら残り少ない高校生活を漫然と過ごしていた。
「あれ、隆翔じゃん」
声のした方に顔を向ける。すると、階下からクラスメイトの滝井倫也が上ってきた。
彼はバドミントンのスポーツ推薦で、すでに昨年のうちに進路を決めている。今さら学校へ来たところで、隆翔と同じく授業があるわけでもない。
「久しぶり。何してんの?」
「いやー、家にいても暇だからさ。バドの練習まで学校にいようと思って。隆翔は?」
「俺も似たようなもん。と言っても、部活の時間に合わせてどっかで吹こうと思ってさ」
「お前って音楽教室通ってなかったっけ?」
「それは去年のうちにやめてるよ」
「なるほどな。そりゃ、吹けるとしたら外か学校くらいしかないわな」
そう言って隆翔の右手を指差す。そこには、受験期間中しばらく仕舞ったままになっていたフルートケースがあった。
「じゃあ、練習まで時間あるよな」
「あるよ。教室行ったけど、とても暇つぶしできる空気じゃなかったから今はあてもなく徘徊中」
「俺もすぐ出てきちゃったわ。あそこにいたら息が詰まりそうでさ」
滝井は周囲を憚るように声を落とし、苦笑した。
「でさ、今日北浜も来てんだ。お前も来いよ」
「北浜?」
「俺らに続いて、暇人三号なんだってさ」
「本人に直接言えないからってお前な……」
滝井に導かれるまま廊下を進み、辿り着いたのは生徒会室だった。彼には無縁と思われる部屋だが、隆翔が尋ねる前にその扉を無遠慮に開け放った。
「あら、樟葉くんじゃない」
そこにいたのは、『会長』と札の置かれた机に腰を据え、悠然とこちらを見ている北浜由佳里の姿だった。
部屋の中はぽかぽかと暖かかった。部屋の隅に置かれた古い電気ストーブが、低く唸りながら赤い熱を放っている。
「あら、じゃないだろ。こんなとこで何してんの?」
「避難、とでも言っておきましょうか。安心して。先生の許可は取ってるわ」
「副会長に飽き足らず、とうとう会長職へ下剋上ですか?」
「それも悪くないわね。実際、生徒会選挙では会長を狙っていたし。でも、留年してまでやるほど未練はないわ」
「そりゃそうだ」
隆翔と北浜の会話には、昔から遠慮というものがあまりない。もっとも、相手への礼節や敬意まで捨てているわけではなかった。どこまで言えば冗談として通じるのか、互いに分かっているからこそ成立する応酬である。
北浜も当然それを承知しており、隆翔が投げれば必ず何かしらを返してくる。そして滝井は、そのやり取りを横から面白そうに眺めている。
三者三様。この三人でいる時の空気は、一年生の頃から驚くほど変わっていない。北宇治で過ごした三年間を通じて、最も長く付き合ってきた友人たちでもあった。
「北浜って推薦だろ?」
「ええ、この前全部の選考が終わったわ」
「ってことは……」
「合格よ」
「おおー! マジで受かったのか、本当にすげえな!」
その吉報に、滝井はぱん、と手を叩き、自分のことのように喜んだ。北浜は平静を装っていたが、その口元には僅かに照れたような笑みが浮かんでいる。
秀才という言葉は、彼女のような人間にこそ相応しい。
夏休み前の学期末試験で首席を取って以来、一度もその座を明け渡すことなく最後の定期試験まで学年トップを貫いた。進学クラスの教師はクラスから首席を出せなかったことを本気で悔しがり、担任の松本は態度こそ出さなかったが誉高かったに違いない。
「九月まで府大志望だったのに、よく土壇場で進路を変えたよな」
「あの頃もどちらにするか迷っていたのよ。松本先生には、目指すなら手の届くかどうかギリギリのところへ挑戦した方がいいって言われて」
「それで決めた感じ?」
「それもあるけど、最後に決断できたのは樟葉くんのお陰ね」
「俺の?」
思いもよらぬ名前に、隆翔は目を瞬かせた。
「吹奏楽部の全国大会の演奏、動画サイトに上がっていたでしょう。それを見たの」
全国に多くのファンがいると言われる吹奏楽界隈。
とりわけ全国大会ともなれば注目度は高く、大会が終われば演奏の映像や音源が動画サイトで話題になることも珍しくない。北宇治の演奏もまた、多くの人の目に触れていた。
「私には演奏の技術的な良し悪しまでは分からない。でも、あれだけの歓声を受けるに相応しい演奏だったことは素人でも分かるわ。……だって、心が震えたもの」
「隆翔も今年は忙しそうにしてたもんな。全国に出るだけでも凄えのに、その上で金賞だもんな」
真正面に褒められると、どうにも居心地が悪い。
隆翔はそのむず痒さを誤魔化すように、椅子へ座り直した。
「それも、進路を決めたきっかけの一つよ」
もう過ぎたことだと、まるで何でもないことのように言った。
それがどれほど大きな決断だったか、二人はいまいちピンと来ていなかった。
北宇治は二年前にも、全国でも指折りの難関大学への合格者を出した。昨年は医科大学に合格した生徒もいたという。そうした実績が積み重なるにつれ、学校自体の進学実績や評価も少しずつ上がっているのだと聞いた。
北浜の言葉が本当ならば、隆翔たちの音が知らず知らずのうちに人の心を動かしているということだ。ただ、目の前にある舞台へ向かって必死に音を重ねていただけだった。北宇治という環境で奏者の基礎を築けたことは、代え難い財産となっていた。
「……つーか、俺たち本当に卒業なんだな」
滝井が何気なく漏らした一言に、隆翔と北浜も一瞬だけ口を閉ざした。
「あと二週間か」
「あっという間ね」
「早えなあ。三年になった時は、まだ一年あるじゃんって思ってたのに」
三月に入ればすぐに卒業式がある。今、こうして過ぎていく時間の延長線上にあるとは到底思えなかった。
昨年の四月は、このクラスで一年を過ごすことさえ随分長く感じていた。それが気付けば年を越し、受験本番を迎え、学校へ来ること自体が特別になりつつある。
「北浜は何をしに学校に来てんだ?」
「その言い方、暇な人みたいだからやめて。こう見えても忙しいの」
「さっき滝井が暇人三号って言ってたぞ」
「それを言うなって!」
本人のいないところだからこそ言えた揶揄を告げ口され、滝井が慌てて隆翔の肩を掴む。北浜はというと、怒るでもなく「ふうん」と低く漏らし、意味深な笑みを浮かべた。
「まあ、いいじゃない。一号と二号もいることだし」
「違いない」
「それで、私が登校した理由だったわね。今度の卒業式で答辞を読むことになったから、さっきまで先生と打ち合わせをしていたのよ」
「マジで? すげえじゃん」
「お前さっきからそればっかだな」
隆翔が思わず突っ込む。
昨年の卒業式で答辞を読んだのは生徒会長を務めた先輩だった。夏紀やみぞれと同じ進学クラスの出身で、成績も優秀だったと希美から聞いた覚えがある。そう考えれば、北浜がその大事な役目を任されたことにも納得がいった。
「でも、去年の答辞は生徒会長だった人が読んでたよな」
「別に生徒会長が読むとかの制約はないみたい。私が選ばれたのは、三年間の成績と生徒会活動を考慮した結果らしいわ」
「さすがだな」
「貴方に言われると、褒められてる気がしないわね」
「そう疑うなよ」
隆翔が口端を上げると、北浜も負けじと不敵な笑みを返した。
「そういや去年の先輩、答辞の途中で泣いてたな」
「北浜も泣くかもしれないな」
「泣かないわよ」
「つまらないな。あの鉄面皮の北浜の泣くところが見られたら、最高の餞別なのに」
「バカ言わないで」
「ハンカチ貸してやろうか」
「遠慮するわ。むしろ、二人が卒業式で泣いてるところを私が壇上から見届けてあげる」
北浜の答辞は隆翔も楽しみのうちの一つだった。親友の最後の晴れ舞台は、彼女なりにしっかりやり遂げるのだろう。そういう信頼があった。
やがて、話題は自由登校期間の過ごし方に移った。
「進学の準備が結構大変なのよ。大学から届いた書類に目を通したり、必要なものを揃えたり。あとは、お世話になった先生たちに挨拶して回ってるわ」
「真面目だなあ」
「そういう滝井くんは?」
「俺はもう向こうの先輩たちと練習してるよ」
「大学の?」
「そう。インハイの時に声をかけてもらった人がそこの選手でさ、推薦決まったって言ったら練習に参加させてくれて。最近は週に何度か一緒に打たせてもらってる」
「なんだ。もう半分大学生じゃん」
「いや、全然。高校生より球速くてパワーあるし、試合してもボコボコにされてる」
そう言いながらも滝井の表情はどこか楽しそうだった。四月を待たずして、新しい環境へ足を踏み入れ始めているらしい。
その後、北浜から水を向けられた隆翔は、目先の重要な出来事について話し出した。
「教習所って、車の?」
「そう。自由登校だから予約詰めまくって、もうすぐ仮免試験」
「いいなあ! もう運転してんの?」
「教習所の中ではな」
「やっぱり、免許は持っていて困るものでもないのかしらね。私も大学に入ったら取ろうかしら」
いかにも北浜らしい、実利的な考え方だった。お金はかかるが持っていて損はない。初心者のうちは母が教官役となってくれるらしい。
未来への楽しみを口にする二人の話を聞きながら、隆翔はふと表情を曇らせた。
「でも、仮免取ったら路上なんだよな……」
「そんなに怖い?」
「そりゃ怖いよ。今までは教習所の中だから多少ミスしても教官が何とかしてくれるけど、バスとかトラックが走ってる公道に出るんだぞ」
教習所内をたかだか時速三十キロで走るだけでも、ブレーキに掛ける足に力が入るものだ。それ故に、格段にスピードと危険度が増す路上教習は想像すらできなかった。
「教習中に事故の画像を見せてくるのやめてほしいわ。あんなの不安を助長するだけだって」
「でも、必要なことなんでしょ?」
「全国大会で金獲った奴が路上教習にビビってんの面白いな」
「演奏はミスっても人は死なないからな」
隆翔の心配をよそに、滝井と北浜が声を漏らして笑った。
「じゃあ、免許が取れたら私たちも練習に付き合ってあげる」
「なんで?」
「初心者のうちはたくさん運転した方がいいでしょう?」
「免許持ってる奴にかこつけて足にしたいだけだろ」
「賛成! 三人でどっか遊びに行こうぜ」
「どうしてそうなるんだ……」
まだ仮免許すら持っていないというのに、随分と気の早い話だった。
卒業すれば、三人はそれぞれの道を歩む。未来なんて誰にも分からない。もしかしたら、昨年の十月に若い桜の木の前で撮った写真が、この二人との最後の思い出となるかもしれないとすら思えてしまう。それでもこれからも友達でいたいと思うのは、理由なく会える気軽さがあるからなのだ。
北浜と滝井の二人と共に過ごした時間は退屈しなかった。この二人と最後の一年を過ごせたのは、神様のいたずらのように思えて仕方がなかった。
◇◆◇
「まったく、本当に金賞獲るんだからすげえよ」
いまだ寒風の吹き荒ぶ二月下旬。マンションのすぐ近くにある児童公園のベンチに、梓と隆翔は座っていた。会うのは関西大会以来なので、実に半年ぶりだ。幼馴染みとして過ごしたこれまでの人生の中で、二人は寄せては返す波のように、何度も別れと再会を繰り返してきた。
かつて、ここは二人の遊び場だった。幼い頃に何度も往復した滑り台は、カラフルな塗装が剥げ、赤茶けた錆が露出している。
「寧ろ、それ以外の結果は眼中になかったけどね」
「これでマーチングは三年連続全国大会金賞か。立華が安定している限りは、関西は一枠埋まってるようなもんだな」
そう言って、隆翔は手にしていた缶の表面に力を入れた。スチール製の缶は、ペキッと音を立てて凹んだ。
「母さんが梓の進路を知りたがってた。とは言っても、それを見たら一目瞭然なんだけどさ」
「そりゃ分かるよね。引退しても楽器持ってる人は、音大か芸大の音楽系を目指してる人くらいだから」
一人分の距離を空けて座る梓の傍には、白い楽器ケースが立てかけられていた。その中に仕舞われているトロンボーンは、中学校進学と同時に彼女の母が買い与えたもので、六年の歳月を感じさせないほど綺麗に磨かれていた。
「合格が決まってもレッスンは行くんだな」
「もちろん。受験に向けたレッスンは終わったけど、入学してからが本番だからね」
周囲から次々と吉報が届くこの時期、梓もまた例外ではなかった。
二年生の夏、隆翔と梓は府大会の会場で偶然の再会を果たした。二人の関係は、そこから
既に立華のエース奏者として君臨していた彼女は、小柄なのにやたらと大きな存在として見えた。だが、隆翔の前ではいつもと変わらない、茶目っ気があって少し甘えがちな少女だった。それは当然のことで、昔から梓が涙を見せるのは隆翔の前でだけだった。
「あまりに周りで音大行く奴が多いから感覚が麻痺してるんだけど、行けるだけで凄いんだよな」
「そうらしいね。それに、お金的にも受けるのも行くのも大変だから、そういう理由で断念する人もいるらしいし」
「前から思ってたけど、おばさんの本気度も凄いよね。その期待に応える梓も凄いけど」
「褒めても何も出ないよ」
そう言って、手を温めていた紅茶のキャップを捻った。
梓は大阪の音楽大学へ進路を定めていた。それを決めたのがいつだったかは隆翔には分からない。だが、一度行くと決めた以上、梓は一切妥協しなかった。その努力の甲斐あって、彼女は先日第一志望に合格した。
「そういう隆翔も、合格おめでとう」
「あ、どうも……」
「どうしてそんなによそよそしいの」
「改まって言われると、なんて反応したらいいか分からなかったから」
昔ならこんなやり取りは気軽に返していた。だが、ただの幼馴染みにしては複雑な過去が混じっており、隆翔は何気ない祝福の言葉にすら身構えてしまった。梓はそんな空気を察したのか、それとも最初から気にしていないのか意地の悪い笑みを浮かべた。
「隆翔がなんでその大学を受けたのかは、美音と花音から聞いてるよ。随分と色ボケた理由だこと」
「バカにしてんのか?」
「そうだよ。だって、好きな人と一緒に演奏したいから同じ大学を選ぶなんて、バカの極みでしょ」
「そりゃ、トロンボーンを極めたいっていう崇高な理由で音大を目指す梓から見たら、動機は不純だろうさ」
図星を突かれた仕返しのつもりだった。
同じように音楽を続けていく身でありながら、その先に求めるものはまるで異なる。希美と同じ場所に立ち、再び共に音を奏でることを望んだ隆翔に対して、梓は音楽そのものを生業へ繋げようとしている。
少なくとも隆翔は、彼女がこの先も研鑽を怠らなければ、いずれ演奏で身を立てられるほどの奏者になるだろう
と半ば確信していた。
「……そんなに崇高なものじゃないよ」
「梓……?」
不意に、梓の声音から戯れの色が失せた。
冷たい風が公園を横切り、裸になった木々の枝を揺らしていく。梓は僅かに肩をすぼめると、両手に包んだ紅茶のボトルへ視線を落とした。
「小学生の頃、私、金管バンドに入ってたでしょ」
「うん」
「あの頃はね、ただ褒めてもらえるのが嬉しかった。練習でも本番でも、楽器を吹けば『梓が一番上手かったよ』って隆翔とお母さんが喜んでくれて。また笑ってほしくて、いっぱい練習した。それは中学に入ってからも同じだった」
でもね、と梓はそこで言葉を切った。
手の内で、まだ温もりの残るボトルをゆっくりと転がす。
「隆翔と一緒に吹奏楽部にいた頃のこと、ずっと忘れられなかったんだと思う。みんなで練習して、同じ曲を吹いて、大会に出て。あの頃が楽しかったから、立華に行ってからも、どこかで同じものを追いかけてた」
梓は俯いたまま、胸の奥に沈めていたものを一つずつ掬い上げるように言葉を継いだ。
平らかな声音の中には、容易に口を挟ませない静かな強さがあった。長い時間をかけてようやく輪郭を得た感情なのだと、隆翔にも理解できた。
「あの時、隆翔を引き留められなかったこと、ずっと後悔してた」
「そんなの、梓のせいじゃないだろ」
「うん。今なら分かる。でも、一昨年に隆翔と再会するまで、私はずっと引き摺ってた。あの時もっと早く、隆翔が苦しんでることに気付けていたら、何か変えられたんじゃないかって」
梓は一度だけ息を吐いた。白く濁った吐息が、冬の空気へ溶けていく。
「もう一度フルートを好きになってほしかった。昔みたいに、また楽しそうに吹いてほしかったんだと思う」
それは謝罪でも、許しを請うものでもなかった。
長い間、梓の胸の内に解けないまま残されていた感情を、なんとか絞り出したような言葉だった。
かつて交わした、また一緒に吹こうという約束。
隆翔にとっては幼馴染みとの何気ない約束の一つだったが、梓にとってはフルートから離れてしまった隆翔を、もう一度あの頃の場所へ連れ戻したいという願いでもあったらしい。
「……でも、それも結局は私のわがままだったんだよ」
「わがまま?」
「うん。一昨年の関西大会に隆翔を誘ったのだって、理由の何割かは演奏を褒めてほしかったから。あの日、私にしてはすっごく調子良かったんだよ」
「……そうだったんだ」
「そう。だから聴いてほしかった。隆翔なら、ちゃんと分かってくれると思ってたから」
梓に誘われ、大阪まで足を運んだ関西マーチングコンテスト。そこで隆翔は、生まれて初めてマーチングという競技を目の当たりにした。
目まぐるしく隊形を変えながら刻まれる精緻なステップ。その激しい運動量に少しも埋もれることなく、会場を貫いた力強い音色。座奏とはまるで異なる迫力に、ただ圧倒されたことを覚えている。目を閉じれば、今でもあの日の光景を鮮明に思い出すことができた。
「たぶん、あの時点で私が一番願ってたことは、もう叶ってたんだと思う」
「どういうこと?」
「あの演奏を観て、隆翔がまた奏者に戻ったって聞いた時、本当はそれだけでよかったはずなんだよ」
梓は膝の上へ視線を落とした。
「もう一回フルートを吹いてほしかった。昔みたいに、音楽を楽しいと思ってほしいって願いが叶ったのに、それ以上に欲しがったから……お互い傷ついたんだと思う」
「それは──」
「お願い。否定しないで」
言葉を遮る声音はあくまで穏やかだった。
しかし、その決意を覆す余地は残されていなかった。
「そうやって考えないと、いつまでも昔の自分に引っ張られる気がするから。私、もうそれは嫌なんだ」
あくまで梓は、長らく自分を過去へ縛りつけていた感情に、ようやく区切りをつけようとしていた。隆翔へ向けた強すぎる感情は、いつしか彼女の視界を狭め、もともとそこにあった単純な願いさえ見えにくくしていたのだろう。
「嫉妬……いや、強欲かな」
「強欲?」
「欲しいと思ったもの、全部手に入れたくなるんだよね。そういうところ、多分昔から変わってない」
「梓が強欲なら、俺は傲慢かな」
「ああ……なんか分かるかも」
隆翔の返答が余程しっくりきたのか、梓は口元へ手を添えて小さく笑った。
張り詰めた空気が弛緩したのも束の間、梓は笑みを収めると、傍らに置かれた白い楽器ケースへ視線を向けた。六年という時間を共にした彼女の相棒。その存在を確かめるように一度だけ見つめ、それから真っ直ぐ隆翔へ向き直った。
「隆翔。私、プロになるよ」
それは、迷いのない声だった。
「……だと思ったよ」
「上手い人なんていくらでもいるし、音大に入ったら今まで以上に思い知らされると思う」
それでも、と梓は続けた。
「トロンボーンを極めたい。誰にも負けないくらい上手くなって、いつか自分の音だけで生きていける奏者になる。それで、いつかお母さんに恩返しがしたい」
口元を引き締めた梓の表情に、先ほどまでの逡巡は残っていなかった。単なる憧れではなく、自分の人生を賭ける覚悟なのだということくらい、隆翔にも理解できた。
梓の母は、女手一つで娘をここまで育ててきた。中学校へ進学する際には自分の楽器を与え、私立の強豪校へ進むという選択も支え、音楽大学を目指すようになってからは専門的なレッスンにも通わせた。どれ一つ取っても、当然のように与えられるものではない。
その背中を最も近くで見続けてきた梓だからこそ、いつか自分の力で報いたいと願うのも自然なことなのだろう。
「厳しい世界だって分かってるよ。音大に入ったからって、プロになれる保証なんてどこにもないし。でも、隆翔が音楽を辞めた時の苦しさに比べたら、きっとどんなことも大したことないって思う。だったら、行けるとこまで行ってみたい。それに、お母さんにも予備校やレッスンでいっぱい負担掛けちゃったしね」
「おばさんに聞かせたら泣くかもね」
「どうかなあ。『何言ってんの』って笑いながら背中叩かれるだけかも」
その姿を想像したのか、梓の口端が僅かに持ち上がった。
周囲の人間は、梓をよく努力家だと評した。立華ではいつしか「練習の鬼」などという呼び名までついていたらしい。
けれど、本人にとってそれは誇るほどのことではなかったのだろう。努力しているという自覚すらないまま、上手くなりたいから楽器を手に取る。昨日より今日、今日より明日と、自分の音を少しでも理想へ近づけようとする。
梓にとって練習とは、苦痛に耐えて積み重ねるものではなく、日常の中にある音楽そのものだった。
「よいしょ」
梓はベンチから立ち上がった。
白い楽器ケースを肩へ掛け直すと、金具が触れ合って小さく音を立てる。
中学生の頃は、その重みに身体を取られて何度もよろけていた。代わりに持とうとして、意地になった梓から拒まれたこともあった。六年という歳月は、梓の身体だけでなく、その背中まで随分と逞しくしていた。
「いつかプロの演奏を聴かせてあげる。あ、でもその時はちゃんとチケット買ってね」
「そこは招待してくれると思ってた」
「プロの演奏をタダで聴こうっての?」
「……それは確かに」
梓の指摘には否定し難いものがあった。言い返す言葉を探したものの、結局は何も浮かばず、隆翔は諦めたように口を閉ざす。その反応が余程可笑しかったのか、梓は口元を押さえて小さく笑った。
「冗談だよ。その時くらい招待してあげる」
「楽しみにしてる」
将来の夢というものが叶う確率は、人生という複雑怪奇な道を歩む以上、高いものではないと知っていた。時間、環境、それも運命だと割り切った過去。様々ある中で、梓が選び取った未来はプロの奏者になることだった。
冬空に誓った梓の横顔を見れば、その願いに対する強い心が垣間見えて、なぜだか無性に嬉しくなった。
佐々木梓。隆翔の幼馴染みにして、音楽を通じて互いの成長を見届けてきた少女。同じ空の下、二人の絆はリボンのように結んで、解けてを繰り返した。
彼女の未来に隆翔が関わることは、これから段々と少なくなっていくであろう。幼馴染みとしての時間は、間も無く終わりを迎えるからだ。
「梓」
「なに、隆翔?」
「……やっぱ、なんでもない」
「なんだそれ」
出てこなかった言葉は、吐く息と共に冬の澄んだ空気に消えていった。
───どうか梓が選んだ未来に、栄光があらんことを。
【つづく】