あなたのいる世界が笑ってほしい
─『青の朔日』BUMP OF CHICKEN─
「答辞。春の訪れを感じる季節となった今日、私たちはこの
紅白の垂れ幕で彩られた体育館に、きっぱりとした声音が響きわたる。壇上の背後壁には『卒業証書授与式』と書かれたパネルが吊り下げられていた。
壇上中央にあるマイクの前に立つ北浜由佳里は、時間を掛けて練り上げた答辞を読み上げている。その瞳に涙はなく、端然とした表情で前だけを見つめていた。
この日はかなり肌寒かった。朝は氷点下まで冷え込み、畑の黒土には霜柱が立っていた。
どこからか啜り泣く声が聞こえる。クラスメイトは北浜の勇姿を見守りながら、彼女から放たれる言葉を噛み締めていた。担任の松本美智恵は既に箱ティッシュを抱え、しきりに目元を拭っていた。吹奏楽部員にはお馴染みの光景だが、普段の
卒業証書を受け取るため壇上へ上がり、校長の前へ進んだ。その途中、隆翔は一度だけ体育館を見渡した。整然と並ぶ卒業生の席。その後方には保護者席が設けられ、晴れ着や礼服に身を包んだ家族たちが、それぞれ壇上へ上がる我が子の姿を見守っている。
その中に、母の姿を見つけた。周囲と同じように拍手を送りながら、どこか誇らしげにこちらを見ている。
ドイツにいる父とは、今朝電話をした。向こうではまだ眠りの深い時間だったのだろう。少し掠れた眠たそうな声で、それでも父は、無事に高校を卒業する息子を祝福してくれた。仕事の都合もあって、この場に来られたのは母一人だけだ。
三年間で、自分はどれほど変われただろう。
少なくとも今日くらいは、母に少しでも立派になった息子の背中を見せられているだろうか。壇上に立った隆翔にとって、それだけが僅かな気がかりだった。
保護者席の脇、式の進行や退場の動線を妨げない壁際には、吹奏楽部の部員たちが楽器を手に待機していた。楽器ごとにそれぞれ所定の位置に並び、卒業生退場の合図を待っている。壇上から見下ろせば、つい数か月前まで自分もその中にいたことが、どこか遠い出来事のように感じられた。
三年生の引退後、吹奏楽部は新体制へ移行した。部長にはオーボエの剣崎梨々花、副部長には黄前の傍で部の内情を見続けてきた久石奏。そして、高坂の跡を継ぐドラムメジャーには鈴木美玲が就いた。かつては三年生の背中を追っていた彼女たちが、今ではそれぞれの立場から部を支える側に回っている。
沙里の推薦どおり、これからのフルートパートは江藤香奈がリーダーとして引っ張っていく。少しプライドが高いところはあるが、一年生ながら全国大会の舞台に立った吉田巧美とも、うまく歩調を合わせていくであろう。そして、江藤の横には支える平石成美と山根つみきがいる。常に一緒にいるこの三人なら心配はいらない。吉田と同じく一年生の水井陽向の手にはピッコロが握られている。本人曰く、三月までは山根と共にピッコロの研鑽を積み、四月からは彼女が正式な奏者になるのだという。
新生北宇治高校吹奏楽部は四月に新入生を迎え入れると、次のコンクールに向けて舵を切る。彼女たちなりの歩幅で。それを見ていたいという気持ちには、嘘はつけない。
老兵は去るのみ。かつて自分たちが先輩の背を見送ったように、今度は隆翔たちがこの場所を去る番だった。後輩たちが先輩の助けを必要としない。その頼もしさこそ、去りゆく者にとって何よりの餞別なのだろう。
「卒業生、退場」
進行役の号令に合わせて三年生が起立し、それと同時に吹奏楽部が曲を奏でる。順番に退場するクラスの中には、鳥羽涼葉の姿もあった。長い髪を靡かせ、背筋を伸ばして凛然と歩く姿には、どこか気品があった。
吹奏楽部が奏でる曲は、E・エルガーの『威風堂々 第一番』。卒業式などでは定番となった曲だが、隆翔はこの勇ましく優しいメロディが大好きだった。幼い頃、母の車でこの曲を流してもらった記憶が甦った。今日、その母はハンカチを握り締め、拍手で卒業生を見送っている。
北浜の背を見送った後、隆翔も歩みを進める。
吹奏楽部員の横を通ると、フルートパートの後輩たちが瞳を潤ませながらこちらを見ている。だが、涙を浮かべたその顔には、この『威風堂々』という名に相応しい頼もしさがあった。
不意に目頭が熱くなる。みっともない姿を見せたくなくて、隆翔は目尻に浮かんだ涙を指の腹で拭った。そして、彼女たちにとって、これからの一年が実りあるものとなるよう、心の中で祈った。
卒業式を終えた生徒たちは教室へ戻り、最後のホームルームを迎える。クラスメイトが一堂に会するのも、この時間が最後になる。教室に入るなり、加藤と川島が隆翔を呼び止めた。
「樟葉も書いてよ」
「何これ」
「美智恵先生への色紙。なかなか会えなくて最後の方になっちゃったけど、空いてるスペースに一言もらえると嬉しいな」
「あと、黒板にもメッセージを書いちゃいましょう!」
「お、いいね! みどりナイスアイデア!」
そう言うなり、加藤は色紙を隆翔に押し付け、黒板にチョークでイラストを書き始めた。
黄前、加藤、川島の三人は、三年間を通して松本の教え子だった。加えて吹奏楽部でも副顧問として世話になったのだから、この中の誰よりも彼女を慕っていた。
「さて、なんと書こうかな」
色紙には温かいメッセージが一筆ずつしたためられている。その殆どが、厳しい指導の裏にあった彼女の心配りへの感謝となっている。
松本との出会いは二年前の六月に遡る。希美に絆され吹奏楽部の扉を叩いた隆翔は、気持ちに整理をつけるため松本にすべてを打ち明けた。松本は、隆翔の弱さも過去も否定しなかった。ただ一度、奏者として向き合うべきことから逃げようとした時だけは真正面から叱った。受け止めるべきところと正すべきところの線引きを明確にしたその厳しさを含めた温かさに、隆翔は救われていたのだと思う。
昨年、隆翔が休部した時にも部内は大きく揺れた。体制そのものが変わろうとする中で、松本も副顧問として何かできることはなかったかと、自問していたように思う。そう考えれば、隆翔は彼女にとって、手のかかる生徒であったに違いない。そして担任として見ても、この三年三組は松本にとって少なからず特別なクラスだったのだろう。
「隆翔くん、何書いてるの?」
「先生へのメッセージだって。真由は書いた?」
「うん、書いたよ。この前葉月ちゃんと会った時に」
彼女の長い指が示す場所に、丸みを帯びた文字で今年一年への感謝の言葉が書かれていた。
隆翔はペンを取り、そこに一筆書き加えた。
半年前の再オーディションで苦々しい顔をしていた彼女に向けた、隆翔の本音だった。
「……素敵だね」
「あんま褒めないで。恥ずかしいから」
「ふふっ、ごめんなさい。優しさが詰まってるなって」
真由の言葉の中にも、そんな意味が込められているようだった。少なくとも、この二人から彼女へ贈る言葉は、これで十分だろう。
「そうだ、樟葉くんにはまだ渡してなかったなって。はい、これ」
真由が鞄から差し出してきたのは、小さな透明の袋に入ったお菓子だった。その中には、東京土産として有名なバナナ味のカスタードケーキの個包装が二つ入っていた。
「ありがとう。そういや、先週まで東京行ってたんだっけ」
「うん。大学の前期試験だったの」
「そんな気を遣わなくて良かったのに」
「ううん。私があげたいなって思っただけだから」
体の前で手を振りながら、遠慮がちにそう言った。
東京の女子大学を一般受験する真由は、つい先週前期試験を受けに行っていた。滑り止めとして受けた大学もすべて東京の大学で、そちらは既に合格を決めている。つまり、彼女の中に京都に残るという選択肢はなかった。
「そっか、東京か」
「修学旅行、楽しかったね。あの時、助けてもらって嬉しかったな」
「礼なら俺じゃなくて北浜に言えよ」
「もちろん。でも、隆翔くんとお友達になれたから、この学校でも楽しく過ごせたんだよ」
真由は屈託のない笑みを浮かべた。
多くの生徒が数年来の関係を築いているこの学校で、真由だけは一年間の付き合いだった。演奏は抜群に上手く、社交的で、誰に対しても分け隔てなく接することができる。その柔らかさは、真由が人間関係の中で身につけた処世術でもあった。誰かを傷つけるくらいなら自分が退けばいい。そうして波風を避けようとする彼女の在り方は、実力も意思も正面からぶつけることを求める北宇治では、かえって彼女自身を追い詰めることになった。
東京へ行けば、真由はまた新しい人間関係を築いていくのだろう。生活する場所が変われば隆翔との接点も自然と減っていく。だから卒業を境に、この限定的だった関係も少しずつ希薄なものとなっていくのだろうと、隆翔は勝手にそう考えていた。
「真由なら友達たくさん作れそうだな」
「そうだといいな。一人暮らしはちょっぴり不安だけどね」
「頑張れよ。京都から応援してる」
「ありがとう」
卒業すれば、真由とは自然に疎遠になるのだろう。隆翔はどこかでそう決めつけていた。接点もなくなってしまうし、わざわざ連絡を取り合う必要もない仲となる。真由の人生はこれから始まると言っても過言ではない。そこに隆翔の存在は必要ないということは、ちゃんと自覚していた。
そんな隆翔の考えを見透かしたわけでもないだろう。真由は、何でもないことのように続けた。
「もし、みんなで集まることがあったらちゃんと行くからね。同窓会とか」
「同窓会……?」
隆翔は思わず聞き返した。
「うん。私が京都に帰ってくる時は絶対みんなに連絡するし、逆にみんなが東京に来る時は会いに行くよ」
真由はそこで何かを思いついたように、ぱっと表情を明るくした。
「あ、隆翔くんも彼女さんと東京に遊びに来ることがあったら教えてね。おすすめのお店とか、観光するところとか、ちゃんと教えてあげるから!」
「そこまでしてくれなくても……」
「えー。だって、せっかくお友達になれたんだもん」
少し食い気味に言葉を続けた真由に、隆翔は返す言葉を失った。
隆翔は、真由がこの一年で紡いだ関係は限定的なものであると解釈していた。しかし、それは思い違いだった。勝手に関係性に線を引こうとしていたのは、隆翔の方だったのかもしれない。真由にとって北宇治で過ごした一年は、誰かの望む役割へ自分を押し込めることをやめ、自分自身の意思で生き始めるための時間だったのだ。
「真由ちゃん、こっちで書きましょう!」
「うん、今行くね」
黒板の前で思い思いに落書きをしている生徒たちの中から、川島の声がした。その声に明るく返事をすると、真由は席を立った。
隆翔は、最後まで真由を見誤っていたのかもしれない。一年を通じて、隆翔は何度も自身の見方の浅さを思い知らされた。人の心も、人と人との関係も、自分が勝手に引いた線の内側へ収まるほど単純ではない。その奥深さを知ったこともまた、真由と出会って得たものの一つだった。
やがて教室に来た松本は卒業式で涙に崩れた化粧を直したのか、身嗜みを整えて教室へ戻ってきた。しかし、黒板に書かれた落書きやメッセージと、加藤たちから色紙を贈られるサプライズを受けて再び号泣してしまった。加藤たちが慰めている光景を、隆翔は微笑ましく眺めた。
小雪が舞う中、昇降口の前では、下校する卒業生を見送る各部活動の在校生たちが賑わいを見せていた。演奏のために残っていた吹奏楽部もまた、それぞれが卒業生との最後の時間を過ごしている。
「先輩、嫌です……いなくならないでください」
大粒の涙を流しながら、湿った声で叶うはずもない願いを口にする吉田の背中を、水井が優しく撫でている。
隆翔の腕の中には、二人から贈られた小さな花束があった。淡い紫の花々が、降りかかる小雪に僅かに揺れている。そのたび、冬の冷たい空気の中へ、ほのかな甘い香りが滲んだ。
泣きじゃくる吉田の頭に、隆翔はぽんと手を置いた。
「フルートパートを頼んだよ、エース」
「……はいっ!」
「水井さんも、吉田さんと一緒に、江藤たちを支えていって」
「はい」
元気な返事に、隆翔も破顔した。
四月に掲げた、この二人を一人前の奏者へ育てるという目標はひとまず果たせたと思っている。少なくとも、こうして別れを惜しんでくれる姿を見れば、先輩として彼女たちに何かを残すことはできたのだと信じてもよかった。
部活動だけでなく音楽教室での交流も含めれば、吉田とは少なくない時間を共にし、フルートの研鑽を重ねてきた。彼女にとって少しは理想とする先輩でいられただろうか。そんな不安も、制服の袖で次々と溢れる涙を拭う姿を見ているうちに杞憂だったのだと思えてくる。
江藤たち二年生は、沙里、小田、中野と最後の言葉を交わしている。後輩たちに囲まれ、一人ひとりへ声を掛ける沙里の目にも涙が浮かんでいた。
至るところで、同じような光景が広がっている。秀一たちパートリーダーは、世話になった滝へ深く頭を下げていた。生徒たちの目元は赤く、滝もまた、いつもの穏やかな表情をわずかに崩している。
求は、部内で唯一自信と同じコントラバスを担当し、師でもあった川島へ、涙を流しながら深く頭を下げていた。真由や加藤は、別れを惜しむ低音パートの後輩たちに抱きつかれている。
「また、私と吹いてくれますか……?」
「もちろん。大歓迎だよ」
「私、ソロコンに出ます。そして、ソロでもコンクールでも、絶対全国に行きます。だから、だから……!」
涙に暮れながらも、その胸には確かな火が灯っている。
もっと上手くなりたい。その一心を持ち続ける限り、彼女はこれからも伸びていくだろう。どこまで行くのか。その先を見届けられないことだけが、少し惜しかった。
低音パートでの挨拶を終えた久石奏は、誰の邪魔にもならないよう人の輪から少し離れた場所に立っていた。吐く息は白い。時折寒そうに肩をすぼめながら、それでもその場を離れようとはしない。
そこへ、あらかた後輩への挨拶を終えた隆翔が声を掛けた。
「樟葉先輩。ご卒業、おめでとうございます」
「ありがとう。……こんなところで何してんだ?」
「別に何もしていませんよ。このあと練習があるので、それまで時間を潰してるだけです」
久石は手持ち無沙汰を示すように、空いた両手を軽く広げてみせた。
「新体制はどうだ?」
「なんですか、藪から棒に。どうもこうも、今のところは順調です」
「そっか。それならいいや」
「随分あっさりですね。もう卒業したから関係ない、って顔をしてますよ」
「そこまでは言ってないだろ」
隆翔と久石は互いに小さく笑った。
しかし、いつかのような皮肉の応酬は長く続かなかった。
彼女はふと隆翔から視線を外し、昇降口の前に集まった吹奏楽部員たちを見渡した。何かを探すように人の間へ目を走らせたあと、僅かに眉尻を下げる。
別れの時間はまだ続いていた。トランペットパートでは、小日向夢が泣きながら高坂へ感謝を伝えていた。普段の練習では鬼とまで称された高坂も、今ばかりは柔らかな表情で後輩の言葉を受け止めている。
久石が誰を探しているのか。隆翔には、一人しか思い当たらなかった。
「久石」
「……はい」
「後悔したくなかったら、今しかないぞ」
それまで口元に残っていた薄い笑みが消え、表情がほんの僅かに強張った。
「……何の話ですか。分かったようなこと言わないでください」
「分かったとは言ってないけどね」
「だったら余計なお世話です」
「そうかもな」
隆翔は「まったく仕方ないな」とでも言う代わりに、小さく息を吐いた。最後まで、妙なところで意地を張る後輩だった。
久石は胸の内にあるものを、どんな言葉にすればいいのか分からずにいる。だからこんな所で立ち止まっているのだ。
この一年、ユーフォニアムを取り巻く状況はあまりにも複雑だった。普段はほとんど接点のない木管の隆翔から見てもそう思えたのだから、その渦中にいた奏ならなおさらだったはずだ。
だからといって、想いの整理を手伝う義理はなかった。それができるのは、久石が求めている人だけなのだ。
「黄前なら、ちゃんと聞いてくれるだろ」
「どうでしょうね。そういうところ、久美子先輩は鈍感なので」
「ははっ。それは言えてるな」
久石はしばらく隆翔の顔を見つめた。
本当に表情を隠すことに長けている後輩だ。だが、その奥には怒り、悲しみ、悔しさ、そして喜びが濁流のようにせめぎ合っていた。
「……そうですね」
やがて視線を伏せ、短く息を吐いた。再び顔を上げた時には先ほどまでの迷いが僅かに薄れていた。
「樟葉先輩」
「ん?」
「短い間でしたが、ありがとうございました」
何に対するお礼なのか、敢えて隆翔は訊かなかった。
「おう」
彼女は深く頭を下げると、踵を返した。
そして、先ほどまでの逡巡が嘘だったかのように、粉雪の中を駆け出していった。
──もう二度と、後悔しないために。
◇◆◇
三月下旬、沖縄への演奏旅行を兼ねた卒業旅行も終わり、高校生として残されていた予定はすべてなくなった。
中学の修学旅行以来の沖縄だったが、同級生や後輩たちとの最後の時間を過ごせたことは、隆翔の中に強烈な思い出として残っていた。
それから数日が経ったある日。大学への進学準備に追われていた隆翔のもとに、沙里から一通のメッセージが入った。そこには『このあと会えない?』という短い一文と、待ち合わせ場所が記されていた。
その日の夕刻。
通っていた音楽教室からほど近い宇治川の河川敷を、隆翔と沙里は並んで歩いていた。川を跨ぐ鉄橋を近鉄電車が通過する。車輪が線路の継ぎ目を越えるたび、重厚感のある走行音が川縁へ響き渡った。
空は一面厚い雲に覆われ、夕暮れの光を遮っている。西の空には沈みかけた太陽があるはずだが、その輪郭を窺うことはできない。ただ、雲の向こうから滲む淡い橙色の光だけが、時刻の移ろいを告げていた。鈍色に沈んだ川面も、その僅かな明かりを受けて緩やかに揺れている。
時折、ランニングをする人が脇を駆け抜け、飼い犬を連れた人とすれ違う。三月も下旬とはいえ、日が傾けば川沿いを渡る風にはまだ冬の冷たさが残っていた。
隣をぽてぽてと歩く沙里は、卒業式を終えた今になって、なぜか北宇治高校の制服を着ていた。歩くたびにブラウンのプリーツスカートが揺れていた。対する隆翔もまた、学生服に身を包んでいる。
「なんか変な感じだね」
「何が?」
「卒業したのに制服着て、こうやって二人で歩いてるの」
言い出した張本人が何を言うのかと、隆翔は横目を向けた。
「制服で来いって言ったのは沙里だろ」
「そうだけどさ」
沙里は悪びれもせず笑った。
「卒業式の時は、まだ終わった気がしなかったんだよね。沖縄も残ってたし」
「まあ、確かに」
「でも、制服にカバーを掛けた途端にね、ちょっと名残惜しくなっちゃった。これを着て学校に行くことは、もうないんだなって」
その言葉に、隆翔も小さく頷いた。
制服というのは、私服に頓着のない隆翔からすれば便利なアイテムだった。しかし卒業した今、外へ出るたびに服を選ばなければならなくなり、隆翔は頭を悩ませながらクローゼットと対峙していた。沙里の言うように、日常から制服が消えた瞬間の方が、かえって卒業を実感させるものなのかもしれない。
「でも、なんで制服?」
「なんでって……うーん、あんまり考えてなかったかな」
「なんだよそれ」
「嫌だった?」
「嫌ではないけど、クローゼットから引っ張り出すのが面倒臭かった」
「それは申し訳ないことをしちゃったね」
「思ってもないこと言うなよ」
沙里は悪びれる様子もなく舌を覗かせ、おどけてみせた。その姿に、隆翔は小さく溜息を漏らした。
高校生としての生活は幕を閉じた。あとは、それぞれが四月から始まる新しい生活へ向かうだけである。そんな中、昔を懐かしむように沙里がぽつりと呟いた。
「ねえ、入学式の日のことって、まだ覚えてる?」
「覚えてるよ。ヘッタクソな『暴れん坊将軍』で出迎えられたよな」
「あったねえ。でも、その時はまだ初心者だったから、演奏の良し悪しなんて全然分からなかったよ」
吹奏楽部が昇降口前の階段で新入生を迎えるのは、昔からの慣例だった。
当時はまだ滝が顧問になる前で、今振り返れば、その演奏は随分と酷いものだった。それが三年後には全国大会で金賞を獲るのだから、人生何が起こるか分からない。
「今聴いたら、きっと下手だなって思うんだろうね」
沙里は小さく笑った。
「でも、あの時の私はすっごく嬉しかったんだ。高校に入ったんだって感じがして。吹奏楽部に入ろうって思ったきっかけも、多分あの演奏があったからだと思う」
「そうだったんだ」
思えば、沙里も数奇な運命を辿っていた。
初心者として入部し、楽器の持ち方すら分からなかった少女がその年のコンクールメンバーに選ばれた。
そして夏休み明けに希美が戻ってきて、沙里は大きなショックを受けたという。
「私、一年生の頃はね、本当に自信がなかったんだ」
河川敷の先へ視線を向けながら、沙里は静かに口を開いた。
遠くの空では、雲の切れ間からオレンジ色の光が線となって地上へ降り注いでいた。
「すっごく上手な先輩がBで、全然上手くない私なんかがコンクールメンバーで本当にいいのかなって。あの時、ちょうど全国大会直前にユーフォの三年生が家庭の事情で出れなくなるかもしれないっていう事件があって、ギリギリまで中川先輩が代理で吹いてたことがあったの。それなら私も同じようにできないかなって、希美先輩に直談判したんだ」
この一年間、様々な話をした間柄だったが、そのことについては初めて聞く話だった。
「希美はなんて?」
「多分……怒ってたと思う」
「そうなの?」
「直接的ではなかったけど、多分ね。あの時は自覚なかったけど、凄く失礼なことだったと思う。だから心の中では怒ってたとしても仕方がないよ。でもね、その席は沙里ちゃんが勝ち取ったんだから、最後まで吹くべきだよって、きっぱり断った上に付きっきりで練習に付き合ってくれたんだよ」
沙里は空を見上げた。暦の上では春でも、頭上には冬が図々しく居座っているような厚い雲だ。春遠からじ。そんな言葉が浮かんだ。
隆翔が知らない時間の中でも希美は希美だった。部活に復帰してすぐの希美は、B編成として全国大会に出場するメンバーのサポートに加わっていた。なので、スランプ状態の後輩に手を差し伸べる余裕もあったのだろう。
「……だから、今があるのは全部希美先輩のお陰なの」
沙里の告白に、隆翔はコクンと黙ったまま頷いた。
隆翔にとって太陽のような存在である希美は、沙里にとっても道を照らし続けた
「北宇治で良かった。フルートを吹いていない人生なんて考えられない。吹部に入ってなかったら芽衣子にも蕾実にも、先輩たちにも会えてなかった。それに───」
沙里の視線が隆翔へ向く。声音が震え、鼻を啜る音が鼓膜に響いた。
「隆翔くんにも、出会えてなかったから。本当に、楽しかったなぁ……」
沙里の頬を、大粒の涙が伝っている。溢れ出てくるそれを、もうほとんど着ることのない制服の袖で強引に拭った。
「ごめんっ……本当は泣かないって決めたんだけど、やっぱり無理だった……」
「謝ることじゃないよ」
拭ったそばから溢れ出る涙に、隆翔も昂ぶるものがあった。
親友と書いてライバル。それが隆翔と沙里を定義する関係性だった。しかし、今になって思えば、そんな取って付けたような言葉で言い表せようか。
春、壊れかけた隆翔の手を引き、部に戻してくれた。
夏、後輩を慮り、大きな声を上げてくれた。
秋、互いにソロを懸けて研鑽を積み、頂点に立った。
そして冬が過ぎ、二度目の春を迎えた。そこにあったのは、あまりに残酷で綺麗な別れだった。
「……寂しいなぁ」
掠れた声が、その正体を露わにする。
「みんなと離れ離れになっちゃうのは、やっぱり寂しい」
四月になれば、沙里は暮らし慣れた宇治を離れ、進学先の神戸で寮暮らしをすることになっていた。京都からは電車で一時間。そうは言っても、距離や時間以上の遠さを沙里は感じているのだろう。
沙里はゆっくり深呼吸した。涙の跡は、まだ乾き切っていなかった。
「私ね……」
スカートの生地をぎゅっと握る。躊躇いながらも、沙里はその言葉を口にした。
「隆翔くんのこと……ずっと好きだったよ」
彼女が隆翔に抱いた淡い恋は、告げることなく終わりを迎えるはずだった。
──ならば、今更告げなくてもいいじゃないか。
そんな無粋な言葉を今の彼女に告げるのは、人の気持ちが分からないのと同義だ。心の痛みに顔を歪めながら、沙里は長い時間をかけてこの感情に決着を付けようとしていた。
「いつからなんて覚えてないや。今まで男の子と付き合ったことも、ちゃんと好きになったこともなかったから。でもね、たぶん私が思っている以上にずっと好きだった」
でも、と沙里は続けた。
「……だからお願い。私のこと、振ってほしい」
沙里の頭上に、雲間から漏れた春の暖かな陽光が降り注ぐ。頬を濡らした涙が橙色にキラキラと輝いて、隆翔はその美しさに見惚れてしまった。
隆翔は微笑みかけるように口元を僅かに緩めた。その眼差しに溢れ出しそうな感情を押し留め、これから告げる言葉だけは決して曖昧にしないという覚悟を宿した。
「ようやく言ってくれたね」
強く苦しく、他人に分けられない痛みに目を背けないように。
「……言葉にできないのはつらかったよな。今日までよく耐えたと思う」
他人事みたいな労いしか言えない自分の情けなさを呪って。
「沙里の気持ちは十分伝わったよ」
沙里が信じてくれたから、その言葉を受け入れられた。だから……。
「でも……俺は希美が好きだ」
掻き集めた星を砕くように、残酷な答えを告げた。
「大好きだから、沙里とは付き合えない」
「……うん」
次の瞬間、堰を切ったように再び涙が頬を濡らした。
「うぅ……っ、結果なんて、分かりきってたのに……!」
両手で顔を覆う沙里に、隆翔は頭を撫でることも、抱き寄せることもしなかった。
隆翔に縋っていた自分を、沙里はいま自分自身の手で
決別しようとしていた。半年前、隆翔に甘える自分をやめたいと決意してから、沙里は少しずつ距離を取ってきた。今ここで慰めるように手を差し伸べれば、その決意まで否定することになる。
一定の距離を保ちながら、隆翔は沙里の慟哭を聞き続けた。
頭上から顔を出した太陽は、二人を照らし続けていた。
暖かくて、少し寒気がした。
どれほどそうしていただろうか。
やがて沙里は大きく鼻を啜り、袖で目元を乱暴に拭った。
「……よしっ! これで後腐れなく神戸に行ける!」
真っ赤な目と鼻を曝しながら、沙里は破顔した。
「大学行ったら、隆翔くんよりずーっといい男捕まえるから!」
「……そっか」
「めちゃくちゃ格好良くて、優しくて、背も高くて、頭も良くて──」
「え、ちょっと要求多くない?」
指を折りながら条件を数える沙里に、隆翔は突っ込まざるを得なかった。
「言ったでしょ。隆翔くんよりいい男だって」
「程々にしときなよ?」
「責任も取れない癖に、余計なこと言うな!」
その時だった。
沙里の手が胸元に伸びて、ぷつりと細い糸が切れる感触がした。気付いた時には、学ランのボタンが一つ、沙里の掌に収まっていた。
「やったね」
「お前、何勝手に──」
「まあまあ。どうせ、もう着ることもないでしょ?」
沙里は悪びれる様子もなく、千切ったボタンを大事そうに握り締めた。
そして今度は、自分の首元へ手を掛けた。
「その代わり、これあげる」
するりと解かれた赤いスカーフが、隆翔の胸へ押しつけられた。
「もしかして、制服を指定したのってこれが目的?」
「そうだよ」
「そうだよって……こういうのは普通後輩とかにあげるものじゃない?」
「去年、希美先輩のスカーフ貰ってたんだよね。だから、ある意味お返しになるのかな」
「どうしてそうなる……」
「捨てないでよ?」
「捨てない……けど、希美にバレたら結構面倒なやつじゃない?」
「ふふっ、そこは上手に隠してよ。あとで苦情は受け付けないから」
ボタンを掌で転がしながら沙里はそれを眺め続けた。金属製のそれは、三年間着続けた制服の一部とは思えないほど、太陽の光を反射して輝いていた。
「それとね、これからもフルートは続けていくよ」
「えっ」
「今までみたいに毎日何時間も吹くことはないと思うけど……絶対、やめない」
ぎゅっと固く握りしめた手を胸に当てて、沙里は決意を口にした。
これまで二人の時間を紡いできた楽器が、これからもそれぞれの明日を形作っていく。そうして積み上げた時間の先で、また交わることがあるかもしれない。
川沿いの道を歩けば、すぐ近くには二人が通った音楽教室がある。マーチングで全国大会金賞を取った西条姉妹らと祝勝会をしたファミレス、教室終わりに立ち寄ったコンビニ。この河原だって何度も二人で歩いた。幾重にも重なる思い出も、いずれはセピア色に褪せていくのだろう。
どれも日常だった場所だ。
そんな日々が戻ってくることはもうない。
共犯者。
運命共同体。
最後まで、二人を定義する言葉は見つからなかった。
お互いに不器用だった。そんな似た者同士だから弱みを見せられた。そして強くなれた。
ずっとぶつかってばかりで、これまで負った傷の数など覚えていない。だが、二人を分かつ道の先には、無数の傷で描いた星が赤々と輝いている。
樟葉隆翔と高橋沙里。
二人の関係は、説明できるような言葉に直せるものではないのだろう。ただ、確実に言えることは、二人はきっと、生涯この
やがて二人は河川敷を離れ、最寄り駅まで並んで歩いた。
「じゃあ、私こっちだから」
「おう」
改札を通った沙里は、数歩進んだところで振り返った。
赤いスカーフのなくなった胸元が少しだけ寂しく見える。彼女の右手には、隆翔の胸元からちぎり取ったボタンが握られていた。
「……またね」
「またな」
今度こそ沙里は振り返らなかった。長い黒髪を揺らしながら、次第に人の流れへ埋もれていく。隆翔の左手に握られた赤いスカーフが、その存在を主張するようにひらひらと揺れていた。
必然の別れを背にして、隆翔も反対方向へ歩き出した。
◇◆◇
────五ヶ月後。
割れんばかりの拍手が、講堂いっぱいに響き渡った。
無数の手が打ち鳴らす音を全身に浴びながら、隆翔は胸の奥に溜め込んでいた息を、ようやくゆっくりと吐き出した。
スポットライトの熱のせいか。それとも、演奏を終えたばかりの高揚がまだ身体の内側に残っているからなのか。頬の辺りが、幾分か火照っている。
眼前に広がる講堂は、北宇治高校の体育館とは比べものにならないほど広い。所狭しと並べられた客席はほとんど埋まり、大学の学生らしい若者から、演奏を聴きに訪れた地域の人々まで、様々な顔がステージへ向けられていた。
「只今の演奏は、映画『ラ・ラ・ランド』メドレーでした!」
マイクを手にしたコンサートマスターが、演奏の余韻を引き継ぐような弾んだ声音で曲名を告げる。
ステージの一段下では、黄色のドレスと青いスーツに身を包んだダンスサークルの部員たちが、客席へ大きく手を振っていた。拍手に応えるその表情は晴れやかで、やがて最後の一礼を済ませると、袖へ向かって次々と退場していく。
隆翔たちオーケストラサークルも、次の出番までは一度舞台を離れることになっていた。
「いやー、後輩くん。デビュー戦、お疲れ!」
舞台袖へ足を踏み入れた途端、背中へ鋭い衝撃が走った。
「いてっ!」
思わず声を上げて振り向く。
立っていたのは、三回生のトランペット奏者だった。首元で切り揃えられた髪を軽やかに揺らしながら、悪びれる様子もなく満面の笑みを浮かべている。
「……ありがとうございます」
じんじんと熱を持つ背中を摩りながら、隆翔は僅かに引き攣った笑みを返した。
「ダンスサークルの部長も喜んでたよ。『見せ場作ってくれてありがとう』だって。いやあ、まさか演奏の前で踊らせるとはね。樟葉くん、意外と演出家じゃん」
「いや、そんな大層なものじゃないです。お互いの出番も近かったですし、曲も曲だったんで……もしよかったら、くらいのつもりでした。邪魔になってなかったならいいんですけど」
「邪魔どころか大成功でしょ。ほら」
先輩が細い人差し指を伸ばした。
その先では、先ほどまでステージで踊っていたダンスサークルの部長が、仲間たちと興奮冷めやらぬ様子で言葉を交わしている。時折こちらへ視線を向けて嬉しそうに笑っているところを見る限り、少なくとも迷惑を掛けた心配はなさそうだった。
隆翔は息を小さく吐いた。
「よかった……」
「心配性だねえ」
「……初めてのことだったし、完全に思いつきだったんでもし滑ってたらどうしようかと」
「滑るどころか、客席めちゃくちゃ湧いてたよ」
「なら、良かったです」
先輩は愉快そうに笑うと、今度は隆翔の肩を軽く叩いた。
「っていうか、やっぱ北宇治でやってただけあるね。上手いのは練習の時から分かってたけど、本番でも気後れせずにちゃんと客席の方へ音が飛ぶっていうかさ。ステージ慣れしてる感じしたよ」
「……そうですか? 正直、心臓バックバクでしたけど」
「またまた。全国大会の方がよっぽど大変だったでしょ」
「いや、あれとはまた別物ですよ。大学入って最初の本番ですし、周りは先輩ばっかりですし……」
口にしてから、少し弱気すぎただろうかと思った。
高校時代に経験した全国大会は、確かに緊張が大きかった。ただ、積み上げたものの自負もあった。
今日は大学に入ってから最初の正式な演奏会。リハーサルで初めてステージに立った時、講堂の規模に圧倒された。それは隆翔だけでなく、周りの一回生全員に言えることだった。
それでも、大学での初舞台は盛況のうちに幕を閉じた。こうして上級生から真正面に演奏を褒められるのは、存外悪い気はしない。むしろ、素直に嬉しかった。
「何言ってんの。今日の感じなら全然問題なし。これからもっとこき使えるね」
「先輩、本音がだだ漏れですよ」
「あはは! まあ頑張れ、一回生!」
言いたいことだけ言い切ると、先輩は手をひらひらと振りながら、別の団員たちの輪へ加わった。
隆翔は苦笑いを浮かべながらその背を見送る。
その時だった。
「隆翔!」
「うわっ──」
不意に背後から腕を回され、身体へ勢いよく柔らかな重みがぶつかった。
その快活で柔らかな声の主は、隆翔が知る限り一人しかいなかった。
「希美……びっくりするだろ」
「はー、やっと捕まえた」
愛用のフルートを片手に持ちながら隆翔の腕にしがみつく。柔らかな身体が密着し、隆翔は少しだけ恥ずかしくなった。
覗き込んでくる顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
合奏を終えた後、希美はよくこんな顔をする。
誰かと音を合わせることが心底好きなのだと、傍にいれば嫌でも分かるほど、彼女は演奏のあとによく笑った。けれど、今日の笑顔には、それだけでは説明できないものが混じっていた。
「───やっと、一緒に吹けたね!」
その瞬間、胸に込み上げるものがあった。
希美とステージに立つこと。それは隆翔にとって、抱き続けてきた念願だった。
大学の同じサークルへ入り、譜面台を並べて練習を重ねるようになってから、本番の日を思うたび胸が浮き立った。高校時代にはどうしても叶わなかったことが、ようやく形になる。その瞬間が楽しみで仕方がなかった。
『ラ・ラ・ランド』の音楽に合わせてダンスサークルとの共演を思いついたのも、突き詰めれば希美がきっかけだったのかもしれない。
以前、二人で映画館へ足を運んだ帰り道。作品の余韻にすっかり浸った希美は、劇中曲を口ずさみながら人気の少ない歩道で楽しそうにステップを踊っていた。あの時の姿が、企画を考えている最中にふと脳裏へ蘇ったのだ。
「楽しかったね、隆翔!」
「……うん!」
自然と頬が緩んだ。
この瞬間を待ち望んでいたのは、きっと隆翔だけではないからだ。
「希美、樟葉くん! アンコール行くから準備して!」
舞台袖の向こうから、二人を呼ぶ声が飛んできた。
暗幕一枚を隔てた客席では、アンコールを求める手拍子が途切れることなく鳴り続けている。
「隆翔行くよ……って、どうしたの?」
ほんの数秒、隆翔の意識は現在から滑り落ちていた。
目の前にある光景が現実になるまでに費やした時間の長さを思えば、それをすぐに現実として受け止めることの方が難しかった。
暗幕の向こうから漏れ出した舞台照明が、希美の輪郭を白く縁取っている。差し伸べられた手を取ると、希美は何の迷いもなく笑った。
「ごめん。ちょっと、ぼーっとしてた」
「なーんだ。ほら行こう、 演奏はまだ終わってないよ!」
その手に引かれ、隆翔は光に向かって一歩を踏み出した。
かつて足を止め、そして導かれ、やがて誰かを導く側へ立った世界。永遠に思えた年月も過ぎ去ってしまえば呆気ないものだ。それでも、選び、傷つき、傷つけた事実は、今も確かに自分の中に生きた証として刻まれている。
音楽が好きだった。
フルートが好きだった。
それでも、吹奏楽部だけは好きになれなかった。
そして遠回りの果てに「音楽」という一本の糸を手繰り寄せた。
──恥の多い生涯を送ってきました。
いつか読んだ文学の一節を借りるなら、隆翔の青春も胸を張れることばかりではなかった。今思えば、もう少し器用に生きることもできただろう。
あの頃は、きっと居場所が欲しかったのだ。
必要とされ、自分にしかできない役割を与えられる場所。それさえあれば自分の存在に価値を見出せると信じていた。
生きているのだから、何者かになりたい。必要とされたい。証を残したい。それ自体は間違いではない。ただ、それに囚われれば、自分の価値まで他人へ委ねることになってしまう。
自由とは程遠い吹奏楽部という集団には、一人では見ることのできない景色があった。
隆翔は北宇治高校で、過去の呪縛を解くことができた。
嵐の中を踠きながら、今日まで生きてきた。
おそらくこれからも、愛する人の手を取りながらその只中を歩いていくのだろう。
終着点など、決める必要もない。
この物語は、居場所を求めた少年が幾多の紆余曲折を経て、自分の足で踏みしめる場所こそが居場所なのだと知る物語だ。
並び立つ二人の手には、舞台照明を受けて輝く銀色のフルートがある。今日も二人は、自らが生きた証を音に変えて吹き鳴らす。
それこそが人生の一節、『青春』として刻まれるのだ。
或る、フルート吹きの青春 完
二年半の歳月をかけて、樟葉隆翔の青春時代を辿ってきました。その長旅もこれにて完結です。
多くの感想や評価をいただき、ありがとうございます。執筆期間の励みとなりました。
長らくのご愛読、誠にありがとうございました。