練習が始まる前にマネージャー間で打ち合わせがある。今日の練習内容、スケジュール、後は部員間で起きている問題や相談事の共有であった。後者に関しては友恵が黄前と共に一年生指導係で構築した信頼関係や、女子特有の悩みといったところをフォローする。実際、隆翔としては非常に助かっていた。
「マネジメントって難しいよね。例えば、パート内でもファースト奏者、セカンド奏者っているけど、引っ込み思案な子がファーストをやるって相当プレッシャーにもなる。でも、部内の方針で決まってしまえば拒否権は発動しづらい」
「友恵先輩はそういう時、どうするのが良いですか?」
友恵は少し考え込んでから、折衷案として提示した。
「まず、そうした信号を出している子は絶対にいるから、同じパートの子には内緒にする条件で話してもらう。それがマネージャーの協力のみで解決できるならそうしちゃうかな。もし、パートが関わってくるならパートリーダーだけには話つけちゃった方が良いかな。可能であれば部長、副部長を巻き込んでもいいよ」
「なるほど。あの二人の方針に適ってますね」
「でしょでしょ。ぶっちゃけ、明日のオーディション以降、何かしら問題は出てくるよ。絶対に」
「言い切れるんですか?」
ため息を吐いて去年の話なんだけど、と切り出した。
「自由曲でトランペットのソロがあったんだけど、去年の三年生と高坂でソロを取り合う事件があったの。私のパートで起きた出来事だったから、もう雰囲気最悪で」
「うわ、それはやばいですね」
「そうなんだよ。高坂もああいう性格で一切譲らないし、三年生側に加担した優子と大喧嘩に発展しちゃって……。でも、滝先生の発案で公開オーディションが開催されて、結局高坂がソロを吹いた。これが事の顛末」
隆翔にも思う所があった。中学二年の時も、結局オーディションに落ちた三年生の愚行で泣きを見た同級生がいた。それ故に、他人事には出来なかった。
「でも、今年はそういうの無さそうだよ。各パート見た感じだと、実力が拮抗しそうなソリストもいないし、下馬票通りに行くんじゃないかな」
友恵の言うことは尤もだった。『リズと青い鳥』で想定されるソロ奏者としては、フルートの希美、オーボエのみぞれ、トランペットの高坂あたりが妥当だろう。ユーフォニアムも担当が三人のうち、黄前が最も演奏歴が長く技術もある。つまり、同じパート内に対抗馬がいないのだ。
「起きないに越したことはないけど、一応アンテナは高めに張っていこうよ」
「ですね」
それから、友恵と明日に行われるオーディションの段取りと、演奏順に関して最終的な打ち合わせをした。窓の外は、梅雨時らしく雲が垂れ込めていた。
「明日から雨だって」
ノートにメモを書き記しながら、友恵が呟いた。
「酷くならないといいですね」
隆翔の内心では、良い予感と嫌な予感の両方を感じ取っていた。
翌朝は予報通りの雨であった。そんなこととは無関係であるかのように、予定通りオーディションは開催される。
ミーティングで音楽室に集められた後、使用しない椅子や机を運び出してからそれぞれのパートごとに教室で待機する。トランペット、ホルン、クラリネットと、あらかじめ決められた順番でオーディションが行われる。移動に時間のかかる低音や打楽器は最後の方に行われる。
クラリネットのオーディションが終わり、次はフルートというタイミングで隆翔はトイレから現れた希美と鉢合わせた。
「先輩、フルートの順番ですよ」
「了解、ありがとう」
ハンカチをスカートのポケットに仕舞うと、希美はパートメンバーの集まる教室へと向かった。
「緊張しますか?」
「まあね。でも、こんな雨だけどコンディションはばっちりだよ」
ピースサインで好調さをアピールする希美に曇る気配は一切無かった。
「ソロ、取ってくださいね」
希美は意志のこもった隆翔の声にぎょっとした。
「なんか珍しいね。マネージャーとして? それとも君の意見?」
「ここだけの話にしといてください」
「もちろん。でも、調や沙里ちゃんだって実力あるし、当然狙ってると思う。でも大好きな卯田先生の曲だし、みぞれと吹きたいなって思ってるから」
希美は右手を空に向かって伸ばした。その表情は羨望のような、厚い雨雲の先を見据える眼だった。
オーディションは一人ずつ行う。そのため、演奏者以外は外の廊下で待機をしている。
「ではパートリーダーの井上先輩からスタートです。その次に傘木先輩、二年生、一年生の順番にオーディションしてください」
「分かった。じゃあ、行ってくるね」
「頑張ってください、調先輩」
「調、ファイト!」
自信があるのだろう。淀みのない表情で音楽室に入っていたのは井上調。フルートパートのパートリーダーだ。彼女が一年生のときに同じパートの希美が退部したことで、去年の夏まで唯一の二年生だった。希美が部活に復帰してからはあまり仲が良くなかったが、最近では良好な関係を築いているという。ちなみに隆翔と同級生の中野と小田芽衣子は、井上に懐いていた。
音楽室の扉がぴしゃりと締まる。しばらくしてからフルートの音色が音楽室からこぼれてきた。オーディションで吹く場所は人それぞれであるが、今回の自由曲でソロパートがあるフルートは、当然オーディションでは第三楽章を吹くことになる。
第三楽章が流れてきた時、パートメンバーの間に緊張が走った。希美はというと、椅子に座ってじっと正面だけ見つめていた。
「希美」
やがて自分の番を終えた井上が音楽室から出てきた。希美は無言で頷くと決意を帯びた表情で一度も振り返らずに音楽室へ入って行った。隆翔は口にはしなかった。吹奏楽部員全員が並々ならぬ思いでこのオーディションに臨んでいる。マネージャーとは全部員に平等であるべきだ。希美にソロを吹いて欲しい。この想いは口にせず隆翔の胸の中にしまった。
◇◆◇
中間テストの期間、部活動は全面的に練習ができない。隆翔は勉強が苦手ではない。全教科それなりに点数を稼ぐことができた。中学生の頃に吹奏楽部を退部したことで両親には余計な心配をかけてしまった。その後ろめたさもあり、中学三年生の成績は勉強に力を入れた。それ以降、やった分だけ成果に現れる勉強は隆翔の中で意義があるものとなっていた。
テスト期間が終わると部活が再開され、オーディションの結果が発表される。コンクールメンバーの選任は顧問である滝と副顧問の松本が行う。
音楽室に集められた、八十九人の部員たち。音楽室では冷房の使用許可は出ていない。その人口密度の高さ故に、じめっとした空気が支配していた。
「全員揃ったな。これよりAメンバーの発表を行う」
正面に立つ副顧問の松本が室内をぐるりと見回した。彼女のよく通る声と鋭い眼光に、部員たちの背筋が一斉に伸びた。
「合格者は全員で五十五人だ。呼ばれた者は、はっきりとした声で返事しろ」
「はい!」
「では、まずはトランペットパートから」
黒いバインダーを手にした松本がリストをめくる。
「三年、吉川優子」
「はい!」
「三年、滝野純一」
「はい!」
「二年、高坂麗奈」
「はい!」
トランペットの合格者は全部で五名だった。
続いてホルン、トロンボーン、低音の順番で呼ばれる。次々に名前が呼ばれ、編成の全貌が明らかになっていく。コンクールメンバーのほとんどが三年生、二年生部員だった。そして一年生の中でも吹奏楽経験者は基本的に名を連ねていた。
「続いて木管。フルート」
隆翔の中で緊張が走る。おそらくこの中にも注目している者はいるだろう。
「三年、井上調」
「はい!」
「三年、傘木希美」
「はい!」
まだ発表中ではあるが、希美は小さく拳を握りしめた。
隆翔も目立たないように右手を強く握りしめた。湧きあがってくる喜びは、彼女への期待の大きさを表していた。
フルートのメンバーが呼ばれた後、オーボエはみぞれが唯一の奏者となった。
そして打楽器が呼ばれ、五十五名すべてのコンクールメンバーが発表された。ソロパートのメンバーは予想通り希美とみぞれが選ばれた。
「京都大会まで残り一ヶ月、悔いのないよう過ごせ。いいな」
「はい!」
梅雨明けの空はどこまでも晴れ渡っていた。そんなすがすがしい空とは裏腹に、A編成に選ばれて安堵する者、メンバーに呼ばれず涙を流す者、喜怒哀楽が音楽室に渦巻いていた。
◇◆◇
「それでは全体練習を始める前に、去年に引き続き橋本先生と新山先生がみなさんの練習に参加します。コンクールに向けて、自分の足りないところ、伸ばすべきところをしっかりと学んでください」
「滝クンの紹介に預かりました橋本真博です。二、三年生は久しぶり。一年生ははじめましてだね。僕は主にパーカスメインでやらせてもらってます。それ以外でも教えられますので、じゃんじゃん訊きに来ちゃってください」
アロハシャツにサンダルと学校には不釣り合いな出立ちで現れた橋本は、北宇治OBであり、プロのパーカッション奏者である。滝とは音楽大学時代からの仲である。単純明快かつ豪快な雰囲気は滝とまるで正反対である。
場が和やかな雰囲気に包まれたところで、橋本の隣に佇む女性が歩み出た。
「木管楽器を担当する新山聡美です。去年よりも多くの生徒が入部したと聞いています。みなさんを教えられる日を心待ちにしていました。短い間ですが、よろしくお願いします」
歓迎の拍手と共に、一年生女子から黄色い歓声が上がる。容姿端麗、フルート奏者のイメージにありそうな雰囲気を醸し出している。彼女もまた滝とは音大の同級生であり、プロのフルート奏者である。
ちらりと希美を盗み見ると、プロの奏者を前にしてフルートを握るその手に少しだけ力が入った。そして希美の視線は講師の新山ではなく、間違いなく前方に座るみぞれを捉えていた。
コンクールメンバーは音楽室で練習に励んでいる。隆翔と友恵は、職員室で今後の活動を滝と打ち合わせていた。
「コンクールの一週間前にホールでの練習日を設けました。マネージャーのお二人には、当日の動きをまとめていただきます。完成したら私と松本先生で確認しますので、来週までにお願いします」
「わかりました。ところで滝先生、橋本先生と新山先生はいつまでご指導されますか。昨年と同じように、生徒からお礼状を書かなければなりませんので」
昨年を知る友恵はてきぱきと話を進める。昨年は奏者の間でこうした事務的な作業も行っていた。今年はマネージャーの存在が大きく、奏者は練習に費やす時間が大幅に増えた。
「そうでしたね。お二人は関西大会まで教えていただけるそうです。その後のことになりますので、急がなくても大丈夫ですよ」
昨年のコンクールでも裏方を経験していた友恵の存在は心強かった。当日はB編成の生徒も動員して、サポート体制を広げると言っていた。
「いよいよって感じになってきたね」
音楽室へ向かう廊下で友恵が語りかける。
「そうですね、正直俺一人だったら不安でした」
友恵はにっこりと笑って、隆翔の背中をポンと叩いた。
「来年、君は奏者になってるかもしれないね。でも、今年の活動を来年に繋げてくれると、マネージャー冥利に尽きるってものだよ」
入部前に、友恵は隆翔の奏者復帰を後押しすると明言した。隆翔にとって、身近な味方がいるということとなって、今日まで活動してきた。
最初こそ、吹奏楽部という活動に否定的だった。しかし、友恵と活動している内に気持ちに変化が現われていることを隆翔自身も自覚していた。本人にも復帰のビジョンが見えていないと言うわけではなかった。
音楽室ではコンクールに向けた練習が一層熱を帯びている。全体練習では滝の指揮で演奏し、横で見ている新山と橋本から細かい指摘が矢のようにとんだ。
「これさ、去年も言ったんだけどオーボエの子、なんか型にはまりすぎてない?」
全体練習で、みぞれに橋本の指導が飛んだ。
「この曲は物語性がすごくあるのよ。特にこの第三楽章で、このソロは一体何を表現しなければいけないのかな?」
みぞれは橋本を正面に見据える。その唇が少しだけ息を吸った。
「……リズの、心?」
「そうだね。卯田先生は第三楽章を描くためにこの曲を作ったと仰っている。物語をどう解釈してどう演奏するかちゃんと考えてみないと『リズと青い鳥』は始まらないとボクは思うよ」
「……はい」
橋本の言葉にみぞれは暗く俯いた。
「フルートの子、傘木さんだっけ。君は生き生きと演奏するね。ボクはそういった演奏、結構好きだな」
希美の口元が少しだけ綻ぶ。橋本はでもね、と話を続けた。
「ここのパートはあくまでオーボエメインだから、あまり感情的になりすぎずにオーボエの音をちゃんと聴いていこう」
「はい」
みぞれと違い、希美は明快な返事をする。
「滝クン、何かある?」
「いえ、橋本先生がみんな言ってくれましたので私からは特には。新山先生から何かありますか?」
隣に佇む新山が一歩前に歩み出る。希美に視線を送っていた隆翔は、その瞳が細まるのを見逃さなかった。希美は新山に対して、どこか警戒している。
「二人とも、高校生とは思えないほど素晴らしい演奏が出来ているわ。でもね……去年、橋本先生が音楽は楽しむものだって仰っていたでしょう。今の二人は、なんだか窮屈そうに吹いているのが気になって」
「窮屈、ですか」
思わず希美の口から反感を隠さない態度の声を上げた。その言葉に、新山はにこりと笑みを深めた。
「二人とも、もっと曲のアプローチについて考えてもいいかもしれないわね。表現力は人の数だけあるから、あなたたちなりの第三楽章が見つかるといいわね」
「……分かりました。考えてみます」
その表情を一切崩さないみぞれが頷く。
「……はい」
みぞれに対して、希美は不満を抱いていた。
「ここのソロは課題とします。第四楽章から全員で合わせます」
「はい!」
滝の指示に部員全員が楽器を構える。音楽室は先ほどの指導で少しだけひりついていた。
隆翔の耳には、新山の言葉が引っかかっていた。二人のチグハグさ、違和感の正体を見つけるには、やはり童話を読まなければならなかった。
全体練習を見届けた隆翔は、図書室へ来ていた。原作の小説が図書室にあることは事前にリサーチ済みだった。
―ヴェロスラフ・ヒチル著―『リズと青い鳥』
童話の索引を辿りながら本を探す。
「……ない、か」
索引の通りならそこにあるはずの本は見当たらなかった。おそらく誰かに借りられているのだろう。
成果が無く他の本を探そうと受付来た時、目の前でトラブルが発生していた。
「図書室の本はみんなのものなんですけど」
「……すみません」
二年の図書委員に問い詰められている相手は、なんと三年生のみぞれだった。
「はいはーい、わっかりました! 以後、気をつけます」
二人の会話の横から希美が現れ、戯けながらみぞれに助け船を出す。
「あれ、樟葉くんじゃん。何してんの?」
「本を借りに。『リズと青い鳥』の」
隆翔の言葉に反応したみぞれは、おずおずと一冊の本を差し出した。
「……あの、これ」
その本は正に隆翔が探していた『リズと青い鳥』だった。
「鎧塚先輩が借りてたんですね。ちょうど探してたんですよ」
「ちょっと待ってて。これ、この人が借りたいって」
「貸出期間は二週間ですので」
仏頂面の図書委員は手続きの後に隆翔へ本を貸し出した。
「あれ、それ何?」
「これ……パンフレット?」
「うん、それは分かるよ。見てもいい?」
希美はみぞれからパンフレットを受け取った。
「へ~音大のパンフレットか。みぞれ、音大受けるの?」
「新山先生がくれた。興味あるかって」
みぞれの一言に希美の表情が凍り付く。それでも彼女は平静を保っていた。
「……希美?」
「ふーん。私、ここの大学受けようかな」
その言葉にみぞれの表情がパアっと明るくなった。隆翔はみぞれとは反対にギョッとした。向上心の発露ではない。そんな簡単に決めて良いのかという疑念だった。
「私も! 希美が受けるなら私も……」
みぞれは希美の、その言葉を待っていたように縋り付いた。彼女がここまで表情を明るくさせた瞬間を、隆翔は初めて見た。
これは、あまりにも意志疎通に齟齬がある。
いつぞやの優子の言葉が思い出される。みぞれは希美に誘われて中学校から吹奏楽を始めた。北宇治へ一緒に来たのも、きっと希美が行くから進学先に選んだのだ。まるで大型魚類に棲み着く小判鮫のように。隆翔からしてみれば、みぞれは希美の生き方に甘えているように見えた。鎧塚みぞれには、自分の生き方というものが存在しないのだ。
帰宅し、借りてきた『リズと青い鳥』をパラパラと読む。第三楽章「愛ゆえの決断」という表題にあるように、ひとりぼっちだったリズが人間になった青い鳥と仲良くなるが、リズが執着していることで青い鳥の翼を奪ってしまっている。それでは可哀想だからと青い鳥を解き放つというシーンだった。愛ゆえにリズは青い鳥を放す。彼女らしく生きてほしいから。これを悲しい話と捉えるか、明日への希望と捉えるかは読み手次第だった。
読み終えて、思わず溜息が出た。確かに童話を読まねば得られない解釈だった。隆翔はこの悲しみの正体を理解していた。北中吹奏楽部を退部する際に、幼馴染みの梓にだけ真相を伝えた。彼女は吹奏楽部という鳥籠から飛び立った隆翔を、涙ながらに見送ってくれた。
夜も更けてきた町並みを眺めて、もう何年も会っていない彼女のことを憂いた。
【つづく】
−追記−
2025.6.13 内容を大幅加筆修正しました。