この郷において博麗神社と双壁をなすもう一つの社、守矢神社。あちらに比べると随分と新顔であり、その参入は一つの異変として扱われる等大いに騒がれましたが、現在ではその存在も認められ、人里ではかの祭神を信仰する者も現れているそうです。
この神社は郷でも屈指の高嶺であると同時に妖怪達が思い思いの暮らしを送る、妖怪の山の中腹にポツリと位置しています。わざわざ排他的な妖怪達が余所者の介入を拒み続けたような場所に土着したのは何故か、曰くその存在は妖怪の山に対して打ち込まれた楔とも、或いは妖怪が信仰を身代として人間を支配し続ける為、わざとここに打ち込んだ楔ともされますが、真相の程は定かでありません。
山の麓には郷の人間達が耕した田畑が一面に広がっており、この辺りは妖怪の支配圏で無い事が察せられます。丁度今が田植えの時期ですから所々で人間が整然と並び作業に勤しむ姿、或いは昼時という事もあって畦に腰掛け、握り飯や弁当にがっつく姿が見られますね。この辺りは地形が平べったい事もあってか田畑が殊に美しく整理されており、抜け目なく格子状に張り巡らされた様子は正しく壮観だと言えましょう。
『わたし』はその光景もそこそこに、更に妖怪の山へと近付いていきます。眼下の地形は少しずつ狭まり、幾らか傾き始めました。この辺りもまだ田畑に覆われていますが、先程まで見掛けたような整然さは薄れ、幾らかの歪さを持った形へと変化しています。山からの木々が取り囲むように伸びきっている為、日当たりの方もあまり良いとは言えないでしょう。…人間はここでも作業をしていますが、その姿をよく見ると先程とはこれまた違う雰囲気を感じます。それはこの一帯が湿田故に、作業をすれば忽ち泥田坊のようになってしまうからでしょうか。或いは…先程見掛けた人間と比べ、頬がこけているからでしょうか。
そんな泥んこの中に、幾らか容姿の変わった者が居る事に気付きました。周囲の人間が継ぎ接ぎされた古着を着るような中、赤を基調とした洒落た衣服を纏いつつも自らの手で代掻きに勤しんでいます。見るからに人里に住んではいないでしょうし、妖怪の山からでもやってきたのでしょうか。しかし妖怪であれば、あのように自ら泥を被ってまで人間を手伝うような意義など無い筈です。…ともなれば御社も構えずに自ら信仰を集めている、これから向かう守矢の祭神とは正反対の姿をした八百万神の一端、と言った所でしょう。
更に妖怪の山へと近付くにつれ、田畑には伸び放題の雑草が絡みつく様が見受けられるようになってきました。…既に人里からは随分と遠く、この一帯に辿り着くだけでも人間には一苦労でしょうから所有者が粗雑だとは言い切れません。…驚くべきは、これだけ妖怪の山に近いような箇所にあっても開墾の手が伸びている事でしょう。近い内に郷が飽和状態となっても不思議ではありません。そうなったら、一体全体どうするつもりなのでしょうか。
もう少し進んでみると俄かに森が拓かれ、ちょっとした建物が立ち並びます。入口に立てかけられた看板には大層な墨文字で「守矢神社」。…ここが人間の支配圏の限界にして、妖怪の山が余所者に対して唯一開いた門、架空索道の乗り場です。聞き慣れない言葉ですが向こう側では「ロープウェイ」とか呼ばれるそうで、正にそちらからやってきた守矢神社らしい施設でしょう。ここから山の中腹に位置する拝殿まで一っ飛び出来るそうですが、今は丁度畑仕事の繁忙期、わざわざ訪れる時間も無いからか人の姿はあまり無く閑散としています。
『わたし』は妖精なので自らで拝殿へ飛んでいく事も出来ますが、それは無謀に近い行為です。妖怪達が認めたのはあくまで守矢神社の区域とこの架空索道のみであり、そこから少しでも外れると彼らの土地を侵したと見なされ忽ち攻撃を受けてしまうでしょう。それでも余程の力を持った者であれば堂々と入り込めるでしょうが…一端の妖精が赴きたいとなれば、人間のルールに則るのが最も安全でしょうね。
この架空索道は人間を主な客とする為、使用出来る通貨は当然人間のそれとなります。『わたし』は受付を執り行っているらしい河童が肘をつく机の上に、腰に引っ掛けた袋に貯めておいた銭貨をザラザラと流して見せました。…これらは別に人間から奪ったものではありません。時折拾ったり、人間相手にちょっとした山菜を売ったりして少しずつ集めた物です。但し作られた時代が違う銭貨が入り混じる為、正直な所どれが幾らの価値を持っているのか『わたし』はさっぱり分かっていなかったりします。
河童はその音を聞いてようやくこちらに気付き、最初こそ疑り深く覗いていましたが、こちらの意図が伝わったらしく銭貨から幾らかを抜き取って棚に投げ込むと、通って良いと伝えるかのように腕を翻しました。『わたし』は軽く一礼をすると、机にぶちまけた銭貨を抜かりなく袋に収め直し、一見すると矢倉のような形をした木造りの索道に乗りました。
乗客は『わたし』が乗る前から数人居たようで、索道に設けられた腰掛けに身を降ろした直後に乗り込んだ一人、そして身なりからして責任者らしい先程とは別の河童が乗り込んだ所で動き出しました。所々にそびえ立つ人工物に丈夫な縄を引っ掛け、この縄を引っ張る事で進む仕組みのようで、地面が段々遠くなっていくと同乗している人間達は分かっていても少々怖がっている様子で柱を掴んでいます。確かに足元に張られた板の下は、と考えると飛べない人間にとっては恐ろしいのかもしれません。
『わたし』以外の客は何とも普通の人間であるようで、そのせいか時折こちらを見てくるような気がします。確かにこの索道を妖精が利用するのが相当珍しいという事は、先程の河童の動向からも察せられるでしょう。普通の妖精は索道に乗って守矢神社へ行こうとするどころか、先ず銭貨を貯めようともしませんから。…そういう意味で『わたし』自身、力こそ大した事は無いものの些か変わり者である、という自覚はあります。
最も、此度の『わたし』の主目的は守矢神社ではありません。只、見たい景色を拝む上でこの索道を利用するのが一番安全かつ確実であっただけで、そちらはおまけのようなものです。…最初の通りこの妖怪の山は遥かに高く、その中腹に位置する神社すら、もう一つの神社である博麗神社よりずっと高度にあります。であれば望める郷の景色も、あちらとは又違ったように見えるのではないか、『わたし』はそう考えたのです。
索道の向かう先を眺めると、遥か高くを境として一切の植物を見つけられなくなります。あれ以降では充分な生育が望めない程に気温が低いという事になるのでしょう。…しかしその先にある筈の頂は何故か窺えません。特段曇りがちとも言えない気候ですがそれでも頂が見えないとなれば、それは果たして単に地形の都合で隠れているだけか、或いは…あまりの高さ故に霞んで見えなくなってしまっているか、でしょうか。
時折吹く風や縄自体の軋みに揺られて一刻程、ようやく終点が眼前に現れました。見下ろした限りまだ山の植生に大きな変化は起きていませんが、気温の方はやや下がったような気がします。反対側を見ると、先程通ってきた田畑が豆粒よりも小さくなっており、随分と高くまで登ってきた事を否応なしに理解させます。
索道が大きく口の開けた建物に入った所で動きを止め、乗っていた人間達が続々と出ていきます。『わたし』はそこで腰を上げ、その列に続く形となって地面に降り立ちました。敷かれた石は博麗神社のものとは比べられない程大きく立派で、それが見事に磨き上げられているのですから最早鏡のような光沢を放っています。視線を前へ向けると、そこに屹立するのはちょっとした小山のような大きさの拝殿。傷やくすみが一切見られない程厳格に整備されている点も博麗神社とは大きく異なっていますね。
ちらと参道の脇を見ると、社務所の方に忙しなく動く巫女の姿が見られます。これだけ敷地の広い神社ではありますが、祀られた祭神を除くとすれば彼女一人で切り盛りしているそうです。…正確には彼女自身が御神体であり広義的には神そのものと認められるそうですが、少なくとも敬虔な信徒以外は守矢神社の巫女、としか見ていないでしょうね。『わたし』としても…赤い方の巫女に比べるとまだ分別的ではあるものの、だからこそ何かあった時の無差別かつインチキな弾幕は容赦がありません。結局はどっこいどっこいの印象です。
『わたし』は先ず社務所や拝殿の方では無く、敷地の端に設けられた展望所へと向かいます。どうやらこの神社の一部分は元々あった平地からはみ出しているらしく、その為山の一部を大胆に削り、その土を斜面に盛りつける形で確保しているようですね。展望所の際には簡易的な柵が設けられており、そこから覗き込んでみると真下の地面が非常に遠く感じます。あれが本来の地形であるとして、それだけここの整地が大事業であったかを伺わせますね。…『わたし』にはそれが、凡そ人間や妖怪に為せる技とは思えません。これも祭神がもたらした奇跡の一端なのでしょうか。
博麗神社から望んだ景色と異なり、ここから見えるもの全ては眼下に位置しています。多くの人間の営みを護り続ける人里も、その人間達が長きに渡って拓いていった田畑も、ここからでは盆地という盃になみなみと注がれたどぶろくのように雑多に混ざり、一つ一つの存在を単なる米粒のようにしか認知出来ません…そしてそれを一挙に飲み干せてしまいそうな程、あれだけ広く思えた郷がちっぽけな空間にしか見えないのです。
『わたし』は後ろ髪を引っ張られんばかりの圧倒感を一身に浴びていましたが、尚もその光景に現実味を抱けずにいました。見えるもの全てが余りにも小さく、それが見知ったものであると思えなかったのです。…博麗神社から郷を一望した時ですら、映るものそれぞれがはっきりと認識できたというのに。『わたし』はぐっと瞼を締めて吹き飛びかけていた意識を手繰り寄せ、くるりと振り向いて展望所を立ち去りました。
敷地内には何本もの御柱が天を貫かん程に真っ直ぐ打ち立てられています。どれもこれも大変立派なもので、相当な樹齢を経た末に切り出され、ここまで運ばれてきたのでしょう。御柱は定期的に新しいものに建て替えられるようですが、聞いた話ではその際に集まった溢れんばかりの群衆の眼前で、祭神がたった一人でこの柱を突き立てたそうです。人や大方の妖怪には為せぬ御業で以って信仰を得る、これも新興たる守矢神社の作戦なのでしょう。
拝殿の方を改めて見ると、その大きさはさることながら随分と清潔感を感じさせます。建立されたのが最近ですから当然の話といっても、もう片方の俗っぽさや荒っぽさと比較する以上尚の事そう見えますね。…しかしながら、何もかもが新しさばかりで形作られている訳でも無いようです。
『わたし』が拝殿に備えられた段を上って中を覗き見ると、そこには年季を感じさせる色彩の木壁や祭具が見えます。初め黄金に塗られていたであろう祭具はメッキが剥がれかけていますが、それがむしろ神秘性を纏わせているようにも感じられます。この神社は向こう側では相当に由緒があったそうですから、そちらをそのまま持ち寄って転用しているのでしょうか。寺のそれとは趣を異にした芳しいお香も、雰囲気作りに一役買っていそうです。
特段神頼みする事が無い為お気持ち程度の銭一枚を投げ込んで拝殿を後にした『わたし』は参道から脇の小道へと逸れ、神社に隣接して存在する湖へと向かいます。こちらの杜において主となっているのはカラマツ等の木々。春に殊鮮やかとなる博麗神社に対し、対となる秋に色づく木が群生しているというのは…全くの偶然か、或いはちょっとした対抗意識なのでしょうか。
ほんのりと纏われた杜を抜けた先にある湖は、パッとした見立てでは霧の湖よりも大規模なものです。…その景色からは忘れてしまいそうになりますがここは妖怪の山の中腹。盆地に溜まったような湖より、山の中腹にぽっかりと開いた湖がずっと大きいというのは少々異様と捉える他ありません。
…こうして間近にしても、霧の湖に漂っていたような妖気がここでは一切感じられません。代わって満ちるのは清浄な神社の空気であり、水面も一切の揺らめきを持ちません。索道に乗っていた時には時折吹いていた風もすっかり止んでいて、一帯から音が消失しています。
その静けさは、最も意外な形で打ち破られました。水面を覗き込み過ぎた故か、『わたし』の身体が突然前にのめったのです。あまりに咄嗟の事であった為『わたし』は羽根をはためかす暇も無く体勢を崩し…バシャリという大きな音と水飛沫を上げました。
あまりに呆気に取られていた『わたし』は突然の水没に狼狽し、その場で数秒程もがきました。水中はまるで真っ暗に見え、伸ばした手足が水中の石に際無くぶつかってもそれを取っ掛かりにして踏ん張る事が出来ず、只大きな水音を上げるだけです。そしてその音も律を乱すような異音として処理され、尚の事恐怖を煽るのです。
幸い落下したのが湖の縁なので水深は浅く、落ち着いてしまえば立つ事は難しくありません…しかしあの一瞬で全身がもうずぶ濡れで、ずっしりと水を含んだ服と安堵の心情が折り重なって身体に伸し掛かってきます。もしや誰かがとその場で振り向いてみましたがそこに一切の気配は無く、『わたし』は苦笑いを浮かべつつ振り上げた手で頭を掻くしかありませんでした。
湖から出ると直ぐに濡れた服特有の不快な感覚が襲ってきます。直ぐにでも着替えたい所ですが当然そんな持ち合わせはありません。『わたし』は着ていた服を目一杯に絞って出来る限りの水を排する事で妥協しましたが、直ぐにでも飛び立てるよう、羽根だけはしっかりと乾かしておきました。…何やら嫌な予感がしたのです。恐らくそれは目の前に広がっている湖が…たったさっきに比べて二回り程も小さくなっている、そんな異様な現象を単なる錯覚だと信じ切れなかったからでしょう。
『わたし』は景色の変化が無いか確かめながら先程通った杜を貫く小道を歩いていきますが、群生する木々も、足元の石畳も何ら違和感がありません。そんな内に道先の隙間から光が差し込んでいます。何かあるとすればきっとこの先に…『わたし』は唾を呑み、杜から勢いよく飛び出しました。
…目の当たりにしたのは、先程見た守矢神社のそれと変わらない光景です。敷かれた石も、立派な拝殿も、屹立する御柱も。全て先に見た通りのまま。『わたし』は安堵したように息を吐きましたが、そこには幾らかの落胆も含まれていました。…落胆?不意に足取りを止めて考えを巡らしますが、湧き上がったその感情の理由を言語化する事は出来ません。
『わたし』が参道に合流して一帯を見回すと、社務所に居た巫女は現在箒を手にして参道の敷石を掃いています。一人で切り盛りするような巫女の仕事は実に多岐に渡るでしょうし、そこに一切の違和感はありません。一枚一枚の敷石を撫でるかのように丁寧に掃く姿を見ると、この神社が醸す清浄な雰囲気の理由がこうした地道な努力によって為されている事を窺い知れるような気がします……いや、何か違う?
背後から聞こえる声。それを聞いてふと手を止め、『わたし』では無い何かに視線を向ける巫女。そして近付く声と共に『わたし』の側をすり抜けるように走っていく、全く同じ服を纏った巫女。
確かめなければならない。その思考が処理を経て反映されるより先に『わたし』は全力で駆け出していました。一目散に目指したのは展望所です。そこからであれば、一帯を目視出来るでしょう。…しかし不運だったのはあまりにも行動に見切りを付け過ぎていた事、そして前すら碌に確認せず最短距離を走った為、その進路に丁度巫女が立っていた事でした。あちらもギリギリになってそれを把握したようですが到底身をよじるには間に合わず、ゴツンと勢いそのままに大衝突を起こし、『わたし』はその反動で参道へと叩きつけられました。
はてさて何とも困った事になりました。あの後『わたし』は巫女に社務所の中まで連れて行かれ、腫れ物のように丁重に扱われつつ、この部屋に半ば閉じ込められてしまっています。二人の巫女の会話を盗み聞きする限り『わたし』は迷子として見られているようですが…ついでに先程、あの二人によって為されるがまま濡れていた服を着替えさせられており、お陰様で不快感こそありませんが、替わりとなったのがぶかぶかの巫女服なので違和感自体は拭えません。
巫女の内一人は緑髪であり、その体格や格好は『わたし』の知る守矢神社の巫女と矛盾しません。顔付きに関しては…そもそも巫女と相まみえる機会が弾幕勝負という名の無差別攻撃位なものですから、本来の顔なんて殆ど知りません。これは思索を広げる上での種には成り得ないでしょう。
そして、もう一人の巫女ははっきり言って誰なのか、とんと検討が付かないものです。金髪を横で二つに纏めており、背丈はやや小さめ、随分と砕け切った口調からしても片方よりかなり幼いような印象を受けます。聞きとった限りこちらは本職の巫女では無く、ちょっとしたお手伝いとしてやっているようですね。
巫女達はどうも『わたし』の羽根について最も盛んに話し合っているようで、時々こちらの背中を窺うような仕草を見せます。…よくよく今着付けられている服の背中を見ると、羽根を通す為の穴がご丁寧にも作られています。切り目がグサグサな辺りあの巫女達が即席で開けたものでしょうが、そんな事をする位ですからこちらの素性はバレているでしょう。しかしその割には…二人の巫女が『わたし』に向ける視線は奇異極まるような様子です。妖精なんてそこら中に居るようなものですから、巫女はおろか人里の者であっても先ず見掛けた事はあるでしょうに。
…暫くすると緑髪の巫女が箒を手にしたまま部屋から出ていきました。少なくともこれで脱出における懸念は一つ減った事になります。後はもう一人。こちらはお世辞にも神職のそれとは言い難い振る舞いですし、幸い扉は開け放たれています。恐らく好機は直ぐに…。
もう一人の巫女が完全に『わたし』から視線を外し、手元で何やら弄っています。それを逃す訳にはいきません。『わたし』は壁を思いっ切り蹴り飛ばし、その勢いで呆気に取られた巫女をすり抜けました。直ぐに外へ飛び出し、今度こそ一直線に展望所へと駆け出します。
あんまりに全力で走ったものですから直ぐに息は切れ、時折意識が飛んでぐわんと視界が暗くなります。それでも尚『わたし』は身体を突き動かし続けました。掠れた息遣いのままに展望所の幾らか頑丈に整備された柵にぶつかるかのような勢いで身を乗り出し、『わたし』はそこで初めて瞳孔を目一杯に広げました。
何も変わっていなかったのではありません。この神社だけが、辛うじてその姿を遺していただけだったのです。
盆地に満ちていた田畑はその殆どが姿を消し、縦に伸びた四角の建造物が代わって生え並んでいます。元々人里があった辺りでは天を衝く程にまで伸びており、逆に離れた所では…山の際までもが、いや、この山そのものが。平べったく所々に穴の開いた、奇妙な建造物に埋め尽くされていました。
『わたし』はそれが、遥かな繁栄を遂げた人間の営みである事を瞬時に察しました。それ以外にあれまで一様なもので地を埋め尽くすような事が出来るでしょうか。…では、妖怪は?人の手が及ばない世界を支配し、不用意に土地を侵した者に脅威となって降りかかる彼等は、一体何処へ?
呼吸を軽く整えた後、『わたし』は柵へと飛び乗り羽根を思い切りはためかせます。後ろの方から二人の巫女の絶叫が聞こえてきますが構わずに柵を蹴り眼下の空へと飛び出し、制御できる速度ギリギリを維持しつつ翔け下りました。最もその様は、傍から見れば殆ど自由落下に見えたでしょう。
山の麓まで下降してきた『わたし』はそこでようやく羽根を大袈裟に広げ一気に勢いを殺し、横に滑るように飛行しました。地上からそれなりの高度は確保しているのですが、これよりずっと高い所まで伸びた建造物すらも散見されます。最も地上の様子を窺いつつもそれを躱す事は難しくありません。建物一つ一つは大弾なんかよりもずっと大きいですが、あちらから動かないのであれば然したる問題では無いのです。
…地上には格子模様に黒い道が敷かれ、そこに人々や変わった形の荷車が行き交っています。荷車の方は上から見ると何が何だか分からなかったのですが、一瞬だけぐいっと高度を下げて横から形状を見ると確かに車輪を窺えたので、少なくとも似たような機構を持った道具という事には違いありません。…再び高度を戻した所からでも、地上からは人々の喧騒が聞こえてきます。それは人里で見受けられる賑わいとは比では無く、それぞれの会話を聞き取る事は凡そ望めませんし、雑音として意識の横に置こうにもあんまりに煩く、『わたし』は少し頭を抱えました。
一先ずこれだけ妖怪や妖精らしい姿が見受けられないという事は、ここにおいて『わたし』のような姿はそれだけ奇異なものなのでしょう。何処か人目の付かない所に着陸する為に再び高度を上げ、周辺では最も高いであろう建物の天辺に着陸しようとしましたが、何故か幾ら羽根を震わせようとしても思うように高度が稼げず、仕方なくすぐ近くのそこそこな高さの建物へと向かいます。
着陸地点に目星を付けつつ慎重に高度を下げたものの、地に足を付けた途端に『わたし』の身体は大きく揺らぎ、そのままドシャリと崩れ落ちてしまいました。…どうもあれだけの高速飛行と制御はかなりの負担となっていたらしく、一度気を抜いてしまえば足一本すら満足に動かせなくなっていたのです。『わたし』は声も出ないような喉を震わせつつ情けなく笑い、何とか身だけは起こして周囲の様子を見回しました。
恐らくここは中心部のそれからはまだ遠いらしく、ずっと向こうにはずっと高いような建物が幾列にも並んでいます。それがどれだけの人間の生涯を内包しているのか、最早想像する事は出来ません。
『わたし』が力無く身じろぎをして反対側を向くと、丁度真正面に人間によって支配され尽くした山の成れの果てがあります。改めて一望すれば、正しく非れもない姿であると思えずにはいられません。木々が群生するのは神社付近のみであり…それすらも神秘性をほぼ欠いたハリボテに思えてしまいます。
…しかし、あの神社は何故残ったのでしょうか。あれだけ山が蹂躙される様では、本来あの立地の神社すら巻き込まれ、一切合切を失いそうにも思えます。しかし現にあの神社はあれだけの形を保持し、敬虔な信徒を…それがあの緑髪の巫女たった一人だったとしても、確かに持ち続けているのです。
もう一つだけ気になる点があります。ここから望むあの山が『わたし』が見知っている妖怪の山に比べ、どうも随分と小さくなっているように見えるのです。
神社からここを望んだ時、確かに『わたし』は天を衝く程の建造物群を見ました。それだけでなくあらゆる建物が際無く伸びているように見えました。…その理由の一つは確かにこれだけの高層建造物でしょうが、同時に『わたし』が見ていた視点が比較対象である守矢神社のそれと比べ、幾分も低かったからだったのでしょう。それに神社に隣したあの湖もかなり小さかった筈です。他の地形がまるで写し取ったように合致するのに、あの山が、そしてあの湖ばかりが不自然にも…。
不意に頭の中で一つの仮説が閃かれました。…成程、そういう事かもしれません。ここでは妖怪や妖精の骨子たる神秘性がすっかり失われてしまったのでしょう。…それは同じく神秘性を基調とするもの、或いは湖、或いは山の持つ力すら、無慈悲にも奪い取ってしまったのではないのでしょうか。
人に征服されていない山というものは、それはそれは悠然と大地に構えているものです。そして不用意に近付いた人間に対し災いを振り撒く事もあれば、川水や山菜という形となって人間に恵みを与える事もあります。…恐れられ、同時に畏れられるもの。それは最早、ある種の強大な妖怪とも定義出来るでしょう。
では、そのような山が人間によって調伏され、神秘性を失えばどうなるのか。…それが単なる山では無く、長きに渡って人間から恐れられた為に「妖怪の山」と呼ばれた場合は、その神秘性を踏みにじられた時にどれだけの凋落の途を辿るのか。その成れの果ての姿が、あれだけ縮こまってしまった山なのでしょうか。
…そういう意味においてこの世界の山の神社は、その一面である「妖怪への楔」としての役割を遺憾無く発揮したのでしょう。その功績故に人間はあの神社を忘れる事無く、こうして遺り続けたのかもしれません。
燃える太陽が沈み空の彩度が段々と落とされていくにつれ、建物群は自ら光を放ち、夜の大地を無数のランプが照らし出します。眼下の道で行き交う人々も、然程減ったようには感じません。ふと山の方を見ても…神社のあるほんの一角を除き、ギラギラとした光が『わたし』をも貫かんと飛んできています。…夜すらも踏みにじられ人間に完全に屈伏した妖怪の姿がそこにはあり、神社のある一角の暗がりすらも…かつて獲った鬼の首のように、人間の勝利を示す証として誇らしげに映ったのです。
…そうこうしていると、『わたし』自身の思考も鈍りつつあるのを感じました。身体の方はとうに力が入らず、寄り掛かっている壁が無ければそのまま倒れてしまうでしょう。これだけ弱った状態の上、夜になってしまったのですから仕方ありません。周囲の煩いまでの光も、それが人の手に依るものの為か全く陽気を放っておらず意味が無いようです。…そう言えば、銭貨の入った袋が見当たりません。もしや元々の衣服の方と一緒に…そこまで考えた所で瞼すらも支える力が尽き………ポトリと、意識が落ちました。
『わたし』が目を醒ますと、そこはいつもの寝床である木の洞でした。…しかし何よりもこの服、あちらから着てきたこの巫女服が、あの出来事が単なる夢では無い事をまざまざと示しています。
…元々着ていた方の服一式と長らくコツコツと貯めてきていた銭貨は、どうもあちらに置いてきてしまいました。失ったのがこれらで、手に入れたのがこの普段使いには余りにも向かないだぼだぼな巫女服。これだけではとても割に合う取引ではありません。間違いなく大損でしょう。
しかし、『わたし』はそこまで悲観はしていませんでした。服自体は一応替えがありますし…銭貨なんて滅多に使う機会がありません。あれだけの量もまた数十年間暮らせば自然と貯まっているでしょう。…それにもう一つ、これからの楽しみが増えました。
『わたし』は木の洞から飛び出し、遙か先にそびえる山…妖怪の山を一望します。今までは何気なく一瞥し特に気にも留めなかったあの山が、今では人間と妖怪の大立ち回りが行われる一大決戦場にすら見えてくるのです。それは数十年では終わりません、きっと数百年は掛かるでしょうが、妖精である『わたし』はきっと見届けられます。
かの山の神社は見事妖怪を調伏しました。さて、あの山の神社や如何に?