『わたし』が見た幻想郷   作:eg

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『わたし』が見た紅魔館

 『わたし』がふと眼前に舞い降りてきたビラを拾ったのは、ほんの偶然の事でした。野良妖精を対象としたと思しきそれは大きな文字で"臨時メイド募集"と書かれており、丁寧な事にその下の要綱に至るまで仮名が振られています。文末には「紅魔館」との文字と簡単な所在地、そして館のメイド長のものらしい何とも書き慣れた記名。

 

 ビラを読む限りですと館で大きな招宴があるらしく、その為に人手を欲しているようですね。単に『わたし』が今まで見掛けていなかっただけかもしれませんが、あの館がこれだけ大規模に喧伝するというのは非常に珍しいような気がします。余程この招宴が館の面子を賭けるようなものなのでしょうか。

 

 首を傾げつつよく見るとビラには報酬についての言及が一切無く、代わって制服貸与とおやつ付きと素っ気なく記載されているだけ。対象が人間や妖怪であればとんでもない契約となりますが、年がら年中遊んでいるような妖精としてはこれでも十分な待遇かもしれません。

 

 …さて、どうしたものでしょうか。メイド稼業には然程気が向かないのですが、紅魔館自体には前々から興味があるのです。それに臨時募集という事もあってか勤務は半日程度。であればちょっとした道楽ついでに行ってみて良いのかもしれませんね。『わたし』はそう心に決めながらビラを小さく折り畳み、薄虹色の羽根を広げて飛び立ちました。

 

 

 紅魔館は霧の湖のほとりに荘厳と構えられた赤塗りの館です。…赤とはしましたが、それは錆びた鉄のような、或いは滴り落ちて溜まった凝血のような…まあ何とも悪趣味な見掛けと言えましょう。最もそこに住まう主が吸血鬼なのですから、不運にも迷い込んでしまった人間に対しては危険色としての役割を見事に発揮していますし、これだけ異様な風貌の館に化物が巣食うというだけで…如何にもそれらしさがあるのですが。

 

 『わたし』が大方の目印である霧の湖まで辿り着くとそこは濃霧に包まれており、向こう岸どころか大層に目立つ筈の館すらも窺う事は出来ません。駆け下りるかのような山の斜面直ぐに位置するのも理由にはあるのでしょうが、ここの霧は本来発生しやすい早朝等では無く昼に濃くなる事が多かったりと食い違ったような箇所がありますし、時に瘴気かと見紛う程の馬鹿みたいな濃さになるのです。そんな些か異様な場所だからかここには妖気も満ちやすく、人里からそれなりに近い割には人の気配が無い場所でもあります。

 

 濃霧の中をよく凝らして見ると、ここを棲み処とする青髪の妖精が道行く妖精に何かを尋ねています。尋ねられた方の妖精が紙をひらめかせている所を見るに、あちらも『わたし』と同じようにビラを拾い、その為に紅魔館に向かっているようです。やはりこのビラは相当な広範囲に撒かれているのでしょうか。…しかしその割にはここまで来た際、そこらに棄てられたビラを殆ど見掛けていませんので実態は何とも掴めません。思えば『わたし』が持つこのビラも、丁度目の前に落ちて来たものを拾った訳です。誰かが上空から目標を見定めて落としたのでしょうか?

 

 『わたし』は前を歩く妖精に付いていくように湖畔を辿っていきます。聞こえる音はせいぜい足音位であり、湖の中からも生き物の気配を殆ど感じません。ここの水温は年中低いらしく、凍り付く程ではありませんが棲むには少々寒い所と言えるでしょう。しかし全く生き物が居ない訳では無いらしく、その証拠に時折人間が湖に向けて釣り糸を垂らしている姿を見掛けられます。…丁度、あそこにも。

 

 その人間は『わたし』達妖精の姿をちっとも気に掛ける事無く、じっと鏡のような水面を視界に捉えたまま身じろぎもしません。その容姿からして何の変哲もない人間でしょうが何とも大した集中振りであり、何処か仙人の修行のような雰囲気すらも纏い始めています。…人間の足元には釣れた魚の代わりに御札が何枚か散らばっていますが、恐らくは護身の為に備えたものでしょう。見掛けからして相当由緒のある品でしょうし、これを見てちょっかいを掛ける妖怪はそう多くないでしょうね。…果たしてそれだけしてまで釣り糸を垂らし続ける意義というものを、妖精である『わたし』は理解出来ませんが。

 

 

 そんな調子で歩いていると霧の中から建物が現れました。近付いてみると確かに洋風な造りの館でこそありますが…意匠の類似は兎も角色合いは随分と落ち着いています。前方を行っていた妖精が不意に踵を返してすれ違っていった所からして方向を間違えてしまったようで、『わたし』の顔にも苦い笑いが浮かびます。

 

 ふと洋館の方を注視してみると、備えられた窓の内からは仄かに光が漏れ出ています。生活音の類は一切しないのですが、その代わり…何処か陰気であり、又何処か陽気な音色が融け合ったアンサンブルがささやかに聞こえてきました。この館、外見こそ蔓に覆われ廃墟に近いような風貌ですが、ここにも誰かが暮らしているようですね。

 

 記憶が正しければこの湖は醸された雰囲気に反して然程大きくありません。それこそ霧が晴れていれば、視界に湖の全てを収めてしまえる程度です。湖ですから右回りだろうが左回りだろうが構いませんし、それならこのまま進んでも問題は無いでしょう。『わたし』は先程すれ違った妖精が霧の奥へと消えていくのを見届け、自らも廃洋館の前から去ります。…不思議な事に先程ほんの少しだけ聞いた音色はその後暫く耳の内で愉快に踊り続け、頭の中すらも真っ白になりそうな濃霧の中、『わたし』の意識を繋ぎ留め続けていました。

 

 

 

 

 

 『わたし』の見立て通り半刻程歩いた所で俄かに森が開け、赤レンガ造りの高い壁が見えてきました。今度こそ目的地である紅魔館です。槍状の装飾は本当に触れれば怪我をしそうな程研ぎ澄まされており、その先端から門全体に掛けて抜かりなく赤一色に塗られている様は一遍回って清々しさすら感じさせましょう。どうやら正門はまだ開け放たれていないようで、大方同じ目的であろう妖精の姿が軽く数十人は見掛けられます。先に集まっていた皆に倣い、『わたし』もその場に腰を下ろし門が開くのを待ちました。

 

 中華風の装いをしたオレンジ髪の門番が壁に寄り掛かっていますが、帽子を深く被った上で顔を伏せているので顔を窺い知る事は出来ません。開門を待つ妖精の中には門番に対してこちらを認識しているのかと問うように目の前で手を振って見せたり、何とも無謀な事に帽子を取ってしまう者も居ましたが、それでも一切の反応を示す事はありません。そういう意味では先程見掛けた釣り人のように、深まり切った集中故にあらゆる雑音を一切排しているのでしょうか。

 

 幾らか経って湖に掛かる霧もやや晴れてきた頃、いよいよ門前の妖精達が溢れんばかりの数になった所でようやく門番が動き出します。俄かに沸いていた妖精達の雑多な会話は瞬時に止み、それを見計らったかのように門番は懐に忍ばせていた鍵で随分と仰々しい南京錠を開け、門を一気に解き放ちました。

 

 『わたし』は周囲の妖精達に巻き込まれていくように紅魔館の敷地を進んでいきます。ふと振り返って正門の方を望むと先程の門番が再び門を閉じた後にこちらへ向かってきており、差し詰め十分な人数が集まったという所で募集を締め切ったという事なのでしょう。『わたし』達一団が館まで中程に進んだ所には銀色の髪を持った人間のメイドが立っており、その指示のまま正面玄関を避け、館の外周をくるりと回っていきます。その途中人間メイドはこちらを向き、こちらの人数を数えるような素振りを見せます。しかし全員を数える前に指の動きが止まり、伸ばした人差し指で頭を抑えながらため息を吐いていました。

 

 大きく囲われた赤塗りの壁の内には丁寧に管理された庭が設けられており、咲き誇る薔薇の香りがこちらまで届いています。社交場として多くの目に触れる手前、この辺りは殊に美しくしなければならないのでしょう。周囲からも感嘆のため息が時折聞こえ、この度に後続に歩いている門番が少々誇らしげに肩を回しています。…恐らくこの門番が庭の管理も兼ねて行っているのでしょう。わざとらしくも見えますが、実際これだけ見事に整備された以上、ここに居る誰もが苦言を浮かべる事はありません。

 

 館の裏手にまで回ってきた所でまん丸になっていた一団が真っ直ぐな列に矯正され、狭い裏口から次々に館へと入っていきます。館の中も赤を基調とした壁紙と天井、赤いカーペットと雰囲気作りには余念がなく、招宴を控えている為か既に相当綺麗にされているようにも感じます。

 

 列となった一団は入って直ぐにあったそこそこの大部屋へと集められ、そこに元々の雇われであろう妖精メイド達が大箱を持ち込んで部屋へと入ってきました。…箱からは溢れんばかりに袖やら裾やらが飛び出しており、あれこれを推測するまでも無く中身が給仕服である事を示しています。何なら運んでいる最中に頂点が崩れていたらしく、最後尾の妖精メイドがせっせと落ちた服を集める始末となっていました。

 

 一先ずこれに着替えろという事で、丁度近くにいた妖精から次々と服一式を取り出して着替えていきます。『わたし』も少し遅れてその服を手に取ってみると、当然羽根を通す穴が用意されているだけで無くあくまで妖精という事もあってか略服に近い構造で、着替える際に厄介な手法を踏まないように一応の配慮がされているようです。

 

 しかしここまで来ておいてなんですが、『わたし』がここでどんな仕事をすれば良いのかさっぱり分かっていないのです。…ビラにはその旨が「簡単な仕事」と随分抽象的であり、『わたし』は単に書くまでも無いような事、例えば清掃なりだとばかり想像していました。しかし現にこの館は見事に磨き上げられておりこれだけの人員を動員してやる事は無いように思えます。…ところが前方の妖精から次々と渡されたのは雑巾であったり箒であったり、明らかな掃除の道具。そしてそれについてあれやこれやと思索するよりも早くにハタキを持たされた『わたし』は…雇い主の顔すらも拝めないまま、持ち場へと腕を引っ張られるように連れていかれました。

 

 

 

 ビラに誘われて紅魔館の半日メイドとなった『わたし』の仕事、雇い主からは一切説明がありませんでしたが、どうもそれはハタキを持って"それらしく振舞え"という事であると了解しました。一見すれば余りにも抽象的であるように聞こえますがそうではありません。…正確にはこれが十分な説明なのです。つまりは只々それっぽい給仕者の"フリ"をしていろ、という事ですね。実際『わたし』は一刻程も全く同じ所をハタキで撫でているだけですが、時折通り過ぎる他の妖精メイドや先程先導していた人間メイド…どうやら彼女がここのメイド長らしいのですが、一切その働き振りについて口酸っぱく言ってくる事はありません。

 

 適当に壁を叩きつつも『わたし』は、この館に入ってから何となく引っ掛かっていた点を頭の中で整理します。…外から見た際の館は確かに大きかったのですが、それでもこの郷の一大勢力であるというには少々物足りなさがありました。ところがこうして中から館を見ると…不思議な事に随分と広いように錯覚するのです。或いはあんまりに庭が広く立派であった為、外から見た屋敷の大きさを錯覚していたのでしょうか。

 

 そしてもう一つ、これはここで一刻程突っ立っている内に気付いた点ですが、この館は常駐のメイドの数が館自体の広さに対して明らかに少ないのです。外から見るよりもかなり広いこの館の全てを管理するのに、果たしてこの程度の人員で足りているのでしょうか。…現にこうして管理できている以上、それ自体は何らかの方法で解決しているのでしょうが、それでも人員が少なく見えるという問題は拭えません。故にこうして外からの目が多数届くような招宴の際に…見掛けだけでも相応の人員を雇っているように『わたし』のようなサクラを増やしているのでしょう。ある種の見栄かもしれませんが、社交界というものはそう言ったものが無いと成り立ちません。この館の主のように比較的新参の妖怪であれば尚更でしょう。

 

 …さて、そろそろここで一点だけを叩き続けるのも飽きてきてしまいました。見た所妖精メイド達は明確な取り決めの下で働いている様子はなく、気付いた所や気が向いた所で清掃なり勤しむようです。ともなれば『わたし』も、館を清掃して回るフリをしても問題無いでしょうか。

 

 妖精メイドの証たるハタキだけ携え、『わたし』は館を一巡する長い長い廊下を歩いていきます。…成程、吸血鬼の住処というだけあって窓が非常に少なく、直接日光が降り注がない北側を除いては外見から違和感をギリギリ生じさせない最低限しか配置されていません。しかもその悉くにはしっかりとした手触りの窓掛けが張られており、あくまでも陽光は通さないといった雰囲気です。

 

 廊下から接続する部屋の大多数は数人程度を収容できる小部屋であり、覗いてみると意外な事に壁紙やラグ、家具等で思い思いの改造が行われている事が窺えます。この辺りは館の主人もそうそう訪れる事はありませんし、ましてや館へ訪れる客の目も通る事は無いでしょうから案外規律が緩いみたいです。…そう考えると妖精メイドの待遇というものは、薄給という一点に目を瞑れば想像以上に良いようですね。

 

 歩いていくとこれまでとは雰囲気の違う両開きの扉が現れます。隙間から中を窺ってみるとそこは数多くの椅子と長テーブルが平行に並べられた大食堂で、奥の厨房では数多くの妖精メイドとそれを監督する人間メイドが忙しなく動いています。…あの人間、もといメイド長は先程まで箒を片手にしていましたが、現在は腕を捲って何かをかき混ぜています。長という事もあって仕事は多岐に渡るようですが、それにしたって何とも手際が良いもので他の妖精メイド達の動きが随分すっとろく見えてしまいます。そんな時不意に視線を上げたメイド長と目が合い、『わたし』は何がしかの追及を避ける為にもそそくさをその場を立ち去りました。

 

 正面玄関まで回ってくると、結構な数の妖精メイド達が花瓶や絵画を手にしながらあっちこっちへと動く中、その中央に一際目立つ青髪の少女が指差しで何かを命じていました。…容姿からして彼女こそこの館の主人である吸血鬼でしょう。主人なのですから本人は椅子にでも踏ん反り返って下々に一任しても良いのでしょうが、あれだけ自ら口出ししているという事は余程自らの造形美に自信があるのか、或いはそれだけ招宴が重要なものという事か…しかし振り回されているメイド妖精達の顔は随分と呆れ混じりであり、館の装飾もかき混ぜられたかのように纏まりがなくわちゃわちゃとしています。…もしや、単に暇を持て余して好き勝手に周囲をぶん回しているだけ?

 

 振り回されるのは御免だと『わたし』は廊下を引き返していき、今度は目に入った階段を下っていきます。地形からして地下に相当するのでしょうが、燭台には一切の絶え無く灯が点されている上にそもそもこの館に窓が少ない事もあってその仄かな薄暗さは地上階と然程変わりません。そんな地下階にも一際大きな扉があり、『わたし』はゆっくりとその中へと入っていきます。

 

 地下の部屋としては随分と広く感じるのはほんの序の口であり、一寸の狂いも無く綺麗に整列した棚とそこに敷き詰められた異国の本達、真上を向かないと果てが望めない程の天井の高さとその際に至るまでが本で埋め尽くされる様が目を引きます。最早外から見た館との印象の差異は包み隠せるものでは無く、『わたし』はすっかり思考をパンクさせその場で数秒ほど立ち尽くしました。

 

 この部屋でも妖精メイド達は作業をしているようですが、地上に人員を回しているのもあってか数は少なく、代わりに黒い翼を生やした悪魔が幾らか溜まっているようです。燭台が隙間なく配置されている為部屋自体に暗い印象はありませんが、空間に満ちる空気は清浄なものとは言い難く、何とも陰気な黴臭さが鼻をツンと揺らします。

 

 更に下へと降りるとそこは石造りの部屋で、置かれた木組みの枠には幾つもの樽が引っ掛かっています。見た所中身は空のようですが、扉を隔てた向こう側の真っ暗な部屋にも同じような樽が幾つも並んでおり、こちらにはまだワインがたっぷりと湛えられているのでしょう。ここにも幾らかの妖精メイドが清掃なり酒の運搬なりで訪れているようで『わたし』もそれに紛れつつ辺りを見回しますが、妖精メイドが居るのはこの部屋の南側だけ、北側には誰も近付こうとしません。…最も、その方を向けばあまり近付きたくないであろう理由はそれとなく理解できます。

 

 他の妖精メイドがその部屋から立ち去ったのを見計らい、『わたし』はその部屋の北側にある扉へと近付きます。それ以外のワイン樽を貯蔵する部屋のそれとは随分と雰囲気の違う厚い鋼鉄製で、見るからに頑丈としか言えないのでしょうが…それが内側からひしゃげており、辛うじて留め具に重量を全て委ねて引っ掛かっているに過ぎません。向こうに臨む階段は一つの燭台も見えず真っ暗であり、このまま奈落に繋がっているのかとまで思えてしまいます。

 

 ここで引き返せば良かったのでしょう。間違いなく意思自体はそれを引き留めました。しかし『わたし』は…愚かな本能に依って駆け出したのです。まるで闇が手を引くようでした。足がその恐怖に飲み込まれたいと叫ぶようでした。それはその先を知りたいと僅かたりとも思ってしまったからでしょうか。或いはその闇が…かつて博麗神社からの帰り道で浴びた黒い突風、守矢神社の湖に落ちた時の暗い水と、同じように見えてしまったからでしょうか。

 

 

 

 

 

 幾度か足を引っ掛けて転びそうになりながらも何とか立て直し、どれだけの階段を下っていったかも分からなくなった時の事です。これまで何も見えなかった筈の眼前から真っ白な光が飛び込み、『わたし』は目が眩んで最後の数段を踏み外し大袈裟に転倒しました。軽く打った頭を両手でさすりながら『わたし』が周囲を見ると、そこにはこれまでの赤い館や石造りのワインセラーとは全く違う、恐ろしく無機質な廊下です。あらゆる構成物が真っ白で塵一つ窺えず、ふと触れた床は何とも形容し難い、強いて例えるなら柔らかい陶器のような感触がしました。少なくともそれは、先程まで居た赤い館ではありません。

 

 廊下はそれなりの長さが確保されていますが廊下を行き交う一切の姿は無く、人の声も一切聞こえません。しかしその代わりとして聞いた事も無いような奇妙な音が途切れ途切れに空っぽな廊下を響いています。『わたし』が痛みの引いてきた頭から手を離して身を起こし、試しにその内の一つの扉を開けようとすると、何故か触れない内に扉が動き、呻るような音を鳴らしながら引き戸のように視界から消えていきました。『わたし』は少しビクつきながら、その部屋へと入っていきます。

 

 

 

 真っ白な天井。壁。床。辛うじて色彩を保っているのは、その部屋に唯一設置された寝具の上に並ぶ幾つかの人形、そして仰向けに身を委ねる、金色の髪をした少女だけでした。

 

 

 

 『わたし』は恐る恐る寝具へと近付き、その少女の姿を見ます。瞳は閉じており一見寝ているようにも見えますが、その肌には殆ど生気というものが感じられず、実際こうして見ている間には一切の身じろぎを見せません。…辛うじて聞こえる呼吸の音も弱々しく、生きてこそいるのでしょうが意識は既に無いのでしょう。

 

 少女の腕からは奇妙な管が何本も伸びており、辿っていくと寝具と一体になった奇妙な箱に接続している事が分かります。先程から聞こえる途切れ途切れの音もこの箱から鳴っているようですが…『わたし』が少々失礼して少女の胸元に手をかざすと、その音と心臓の動きが全く同期している事が分かります。この箱が管を通じ、少女に何らかの作用をしているのでしょうか。

 

 ベッドの上に並べられた人形は三体。この空間では唯一心情の籠っているかのような手作りで、出来こそお世辞にも良くありませんが妙な温かみを感じられます。『わたし』はその人形には手を触れず、指差しでなぞる様に姿を見ていきます。…紫色の髪と服を纏った人形、赤髪と黒いスカートを穿いた人形…オレンジの髪をした中華風の人形?

 

 『わたし』はその部屋を後にしつつ、既に頭の内で今おかれている状況を悟りつつありました。…守矢神社の時に見たあの建物群とは材質こそ違いますが、纏う無機質な冷たさは全く同じ。『わたし』は今、それと同じ世界に居るのでしょう。…ここへ来た時はあれだけ暗く長かった階段が、いつの間にか何の代わり映えもしない短く真っ白な階段へと変貌しています。最早何が起きたとしても、『わたし』は声無く笑う他無いのでしょう。

 

 階段を上った先の景色も…凡そ予想通りではありますが別物となっています。赤色は須らく白へと変換されており、風格を漂わせていた調度品は姿を消しています。只一つ共通するのは見事に清掃の手が行き届いている点ですが、だからと言って抱かせる印象は同一のものではありません。あの赤い館が持っていた血なまぐさとは対極な、しかしながら恐怖で頬が攣り上がるような、虚無。

 

 

 

 自らの呼吸すらも全神経が感受するような静寂の空間に、突如として何かが呻るような音が突然響きます。人のものではありません。獣の類のそれとも違います。…先程聞いた引き戸のそれが一番近いでしょうか。『わたし』が立ち尽くす中、見通していた廊下に並ぶ内の一つ…一際大きな扉が開き、誰かがそこから現れました。凝視すると…そこに居たのは付き人に押される車椅子に身を委ねた、青髪の少女。

 

 

 

 刹那、何よりも冷たいものが全身を強く打ちつけました。先程まで感じていた漠然とした恐怖では無く、完全な形となって目の前に立っているのです。あの少女には見覚えがあります。すっかり覇気を失いこけ、何とか開く瞳でこちらへ視線を向けていますが…それがかの館の主人たる吸血鬼、その果ての姿なのでしょう。彼女からも無数の管が延びており、その痛々しさは見るに堪えません。

 

 しかし、『わたし』が真に恐怖を向ける"それ"は車椅子の少女ではありません。…先ず、有り得ない話です。或いはよく似ているだけの別人かもしれません、その解釈であれば矛盾が生じないのですから。しかしそれを本能が否定しました。何故なら余りにも…車椅子を押す銀髪の女の姿が、赤い館の"人間メイド"と酷似していたのです。

 

 

 

 無意識に『わたし』は半歩ばかり後退りをしていました。まるで獣と対峙した野兎のように、純粋な恐怖が身体を動かしていたのです。人間だとばかり思っていたそれが今や何よりも化物に映りました。その仕草と、『わたし』の瞳に宿る僅かな敵視が命取りとなりました。

 

 次の瞬間、車椅子の後ろに立っていた女がこちらに向けて飛び掛かり、『わたし』の首元一点のみを掴み地面へと叩き付けていたのです。…その姿は目に映ってすらいません。しかし『わたし』にとっての認識の次コマでは既に地面に叩き伏せていたのですから、たった一コマの間に起きた事象の差異をそう解釈する他ありませんでした。

 

 

 首を恐ろしい力で押さえられ、急速に狭まる視界と意識の果て………最期に聞こえたのは何かが折れるような、重い音。

 

 

 

 

 

 『わたし』は悪夢を見た後のような憂鬱感と首に遺った圧迫感に際悩まされながらも、何とか予定された給仕者としてのフリをやりこなす事が出来ました。あの後周りから聞いた所、『わたし』は最地下へと続く厚い扉の爆散に巻き込まれ、石畳の上で気絶していたそうです。…恐らく現場の状況からそう判断したようですが、余りにも『わたし』が実際に体験した事象よりもずっと理に適っているものですからついつい笑ってしまいました。周りはとんと意味が分からず首を傾げるばかりですが、どうせそれを語った所で誰も信じませんでしょう。

 

 招宴は概ね無事に終わったそうで、現在『わたし』のような臨時メイドも含めた全ての使用人がこのホールに集まっています。尚、地下室に籠る主人の妹君が一時期暴れたらしく主人や偶々居合わせたとんがり帽子の魔法使い等でどうにか鎮圧したハプニングがあったそうで、ホールの隅っこで不服そうに頬を膨らます金髪の吸血鬼を紫髪の魔法使い達が諫めています。…最早その姿があの地下室で見た少女や人形のそれと酷似していても、今の『わたし』には驚く事が出来ません。

 

 舞台に立った主人の労いの言葉もそこそこに『わたし』の周りの妖精…日雇いのメイド妖精達はそわそわとした素振りを見せています。果たして会がお開きになった後、メイド長から一人ずつ菓子の入った袋が手渡されると、妖精達はぱっと明るくなったような顔で館を飛び出していきました。

 

 …ところが、やっとの事で受け取る番になった時『わたし』はそのメイド長に対し手を中々差し出せなかったのです…あちらでの話だったとはいえ無意識に手が震えていたようでした。無論あちらは目の前の妖精が何故怯えているのか分からずキョトンとしていますから、変に詮索される前に『わたし』は無理矢理手を引き出し、そこに乗っけてもらうような形で袋を受け取りました。

 

 袋を手渡したメイド長は『わたし』の次に妖精が居ない事を確認した後、ホールに設けられた舞台へと向かっていきます。…招宴は終わりましたが、今度はその余興が始まっていたのです。堅苦しいような形式ですらあったあちらに比べて随分と無礼講ですが、参加者の顔色を見る限りむしろこちらを楽しみにしていたらしいのは如何にもこの郷らしさがあるでしょう。『わたし』も足を止め、少しばかりそれを見て楽しむ事にしました。

 

 メイド長は舞台の上で手持ちのナイフを次々と投げて見せたり、何処からか取り出した布やトランプを用いて手品を披露しています。手品というものは本来種も仕掛けもあるものでしょうが、『わたし』がどれだけ目を張ってもそのメイド長の手品は種も仕掛けも掴ませてくれません。周囲も最初から見破ろうという気が無いらしく、どれだけの技巧を見せたとしても顔には呆れの感情が入り混じっています。

 

 

 

 

 …或いは、あの手品には本当に種も仕掛けも無く、一見不可思議と神秘に満ち溢れたそれすらも一切の魔障を介在せず、純然な法則の下に成り立っているのかもしれません。

 

 

 

 

 だからこそ…種も仕掛けも無くなった世界において、あの人間はそのままの姿を保ち得ていたのでしょうか。

 

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