『わたし』が見た幻想郷   作:eg

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『わたし』が見た地霊殿

 

 …『わたし』は今、一体何処に居るのでしょうか。目的も無く妖怪の山付近を飛んでいた時にふと見つけた谷間へと入っていってしまったのが運の尽き、すっかり好奇心のままに奥へ奥へと突き進み、我に返った時には戻る方法すらさっぱり分からなくなってしまいました。既に陽光が差し込むような隙間も無く、手元の小弾の灯りに頼らなければ後にも先にも進めそうにありません。

 

 一旦足を止めてみるとやはり深みの方から僅かに風が吹いてきています。空気の流れがある、という事は一見地上に繋がっていそうなものですし、実際『わたし』はその予想に従って進んでいる訳ですが…その割に行く先は明らかに下へと潜っていっているのです。これではとても、ここから地上へ続くような通り道へと変化するようには見えません。…いよいよ『わたし』の予想の的外れを認めなくてはならないのでしょうか。

 

 とは言え、この予想には他にも根拠が残っています。…単純な話、これだけの空間に何も無いとは考えにくいのです。現に一発小弾を天井へと投げ込んでみると『わたし』の背の十倍はあろうかという高さがある事が分かります。そんな洞穴は滅多にあるようなものでは無く…かつこういう所には大概、妖魔が棲むものです。実際ここでは時折不自然に転がっていく岩が窺えます。恐らく地から湧き上がる妖気が乗り移り、無生物ながら半妖怪的な性質を持つに至ったのでしょう。であれば何も無く行き止まり、とはちょっと思えません。

 

 進んでいくにつれ、この先に何かがあるという点に関しては確信へと変わりつつありました。…そして同時にこの先が地上では無い、という点も察しつつありました。しかしこれだけ暗い空間に一人居ると、もう何でも良いから何かがある所へという気概にもなるものです。先程までは風にしか意識を向けていませんでしたが、ふと『わたし』が鼻を鳴らしてみると何か匂います。それは地上でも時折嗅ぐような…温泉の匂い。

 

 洞穴はそれから間もなく大きな空間へ合流する形で途絶え、『わたし』はそこから広がる空間を一望し、無意識の内に息を呑みました。各所に点された赤い照明、張り巡らされた道と長屋、地下水脈を転用したらしい川に掛かる橋、中央にそびえる一際異質な洋館…眼下の一帯に広がるそれは確かに街であり、加えて人里のそれに殆ど劣らない程の規模だったのです。

 

 妖精、もっと言えば『わたし』のような郷の妖精はあくまで地上空間のみを棲み処とし、それ以外の場所には基本訪れる事が無いどころか一部の変わり者を除いて殆どが特定地付近から動く事はありません。ですから地上以外の地理に関しては極端に曖昧な認識しか持っておらず、現に『わたし』が衝撃的な表情でその街…後に聞けばここは旧都と呼ばれるかつての地獄から分離した地下街だそうですが、その存在を此の方知らなかったのです。

 

 街へと降りる一応の道筋に時折看板が建てられている所を見るに、先程まで『わたし』が通ってきた洞穴も一つの順路として用意されているようです。最もあの道はおいそれと人間を通すようには見えませんし、そもそも『わたし』は他の通行者とここまで出会っていません。一応整備されているというだけで実際には殆ど使われていないのでしょう。

 

 道筋は緩やかな螺旋状の階段となって街の一角を囲むように延びています。恐らくこのまま降りて行くと…丁度あの洋館を隔てて対する辺りで接続するのでしょうか。勿論『わたし』は飛べるのですからここから直接眼下の街へ降りても構わないのでしょう。…しかし、折角滅多に訪れる機会の無い場所ですし、ゆっくりと階段を下りつつ横目で景色を眺めるのも悪くありません。

 

 少しばかり進んで街へ段々と近付くと、そちらから聞こえる人里のような喧騒がここまで届いてきます。街を行き交う人々の姿も豆粒ながら見えてきました。天蓋は堅い岩盤に覆われているものですから当然陽光など一閃を差し込んでいませんが、その活気振りは正しく不夜と呼べるものでしょう…しかし敢えて『わたし』は、それを"昼を知らぬ喧騒"であると例えたくもなるのです。

 

 緩やかな階段を下り切り、掛かる一本の大橋を渡った先に待っているのは、ずっと奥まで続いた人里のそれとは似て非なる様式の長屋群。行き交う者の様子も人里とは少し異なるようで、酒を流し込みながら意味も無く笑っていたり、何かを呟きながら爪を噛んでいたり、何かに怯えるようにそそくさと人影に隠れていたり。それこそ真に夜の街といったような喧騒と治安であって、人里の昼のような温かみとも違う何処か汗臭い熱気に包まれています。

 

 長屋に入っているのは軽食売りや果物売りといった立って買うような店の数々で、思い思いの経営戦略の結果に出っ張ったらしき陳列棚が道の一部にまで飛び出しています。勘違いされないようにちらと値札を見ると、どうやらここでも人里の通貨に遠からぬものが使われているようですね。…生憎貯めていた銭貨はあちらに置いてきてしまったので、それらを試しに買ってみるという事が出来ないのが残念です。

 

 長屋同士の隙間に設けられた横道へ向かうと、そこは意図的に照明の落とされたかのような陰気な通りとなっています。こちらでは露天商のような店に代わって宿場のような雰囲気を醸しており、ふらりと店へ入っていく者が多い事もあり通行量は先程からかなり減っています。思えばこの街には遊び人のような風体の者が多く、それら一定の住処を持たぬ者にとっての床となる宿屋には一定の需要がありそうですね。まあ、中には異性を引っ掛けていく者が居る辺りそういう店も兼ねているのでしょうが。

 

 中途で道を引き返し最初の大通りに再び合流した『わたし』は、通りの奥に位置するかの大きな洋館を目指して歩いていきます。…今一度周囲を人々を一瞥すると、純粋な人間らしい者は殆ど居ないようにも感じられます。同時に如何にも妖怪然とした者も見掛けはしますが数は多いとは言えず、概ねは一部に人外らしい要素を持った者、或いは亡霊、怨霊の類でしょうか。因みに一部ではありますが『わたし』のような妖精の姿も見られ、人里以上にごった返したような雰囲気の一端を思わせますね。

 

 …ところで、この街は人里と異なって均されたような立地では無いようで、この大通りにあってもちょっとした段差が存在しています。伏目がちな者が多いのは単に根暗な性格に依るものとは限らず、こういう段差を躱す為に自然と下向きに矯正されてしまったのでしょうか。…流石に長屋の部分は基礎を立てる為にもある程度土が盛られているようですが、それでも見て分かる程に歪んだ柱が散見されるなど、こちらも随分と粗雑と感じられます。

 

 しかしこういった雰囲気も、遠くに僅かに望んでいるだけだった洋館が段々と存在感を増していくにつれ薄れていきます。意外なのは人通りの変遷で、てっきり『わたし』は中央の人通りは如何程になるのかと入り口付近の混雑ぶりから少々恐れていたのですが…実際に赴くと人通りが多かったのはむしろ入り口付近であって、この辺りは人の通りこそ未だ絶えないものの道が幾らか広い事もあり尚更に少なく感じます。せり出した店の売り物も無くなっているどころか、そもそも両端の長屋が大手の宿屋や酒場へと変貌していました。

 

 そんな開けた道の真ん中で立ち止まっている大勢の人の中に、一際大きな体格と頭から生えた赤い一角…語るまでも無くのあからさまな鬼が仁王の如く立っています。どうやら周囲の者からの話を聞いている様子で、口に手を当てて頷いていたかと思えば、片手で持った赤い盃を傾けて威勢よく飲み干しています。周囲の者の様子からしてこの街の妖怪達を束ねる格のようで、相当に慕われているらしい事も遠目から見て取れます。その内鬼がぐっと自らの手を握ったかと思えば周囲で掛け声が上がり、それら妖怪達を引き連れて何処かへと歩いていきました。全員から酒気のようなものが漂っていましたし、些か陽気な百鬼夜行とでも言いましょうか。

 

 

 

 

 

 そこから半刻も歩かない内に長らく続いた通りは終わりを見せ、ふと面を上げるとそこには地上の赤い館とは又趣を異にした洋館が眼前にまで迫っていました。人の声もこの辺りでは遠くから響くのみであり、先程までの喧騒振りが嘘のように閑散としています。最も『わたし』としては…この館の庭に植えられた数々の植物故か、こちらの方が性に合うような環境ですね。

 

 何とも興味深いのは庭の植生で、色々な植物が見えますが大きく目立つのは薔薇、赤い館では赤い薔薇のみで揃えられていたのに対し、こちらでは思い思いの色をした花弁が開いています。ここで重要なのは花の色では無く、薔薇が咲いているという所自体…即ち陽生植物すらも揃っているという事なのです。何分こんな光の届かないような地の底でわざわざ咲かせる苦労というものはかなりのものでしょうが、その分館が纏う上品さと一点の異質さを表すのに一役買っているのでしょう。

 

 よく見ると庭の随所には妖精の姿が見えます。自然在る所に妖精在りなのですし、道中にも幾らか見掛けたので驚く事ではありませんが、その容姿は『わたし』が知る地上の妖精とはやや異なり少々陰気な雰囲気を纏っています。彼女達は元々地上からやってきてここの自然を棲み処としたのか、それともここの自然から発生したものなのでしょうか。少なくともこの館にこれだけの植物がある理由の一端にはこの妖精達が関わっていそうです。

 

 館の壁には幾らか蔓が延びていますが、館自体を覆ってしまう程では無い所を見るとこちらもキチンと管理されているようです。どの蔓もある一定から須らく延び切っていない法則性を見るに、思い思いに伸ばしがちな妖精以外の誰かもこの庭を管理しているようですが…ふと館正面の方から俄かに声が聞こえたのでそちらを向くと、猫車に軽く腰を掛けた赤髪の妖怪、そして長身長髪かつ大きな翼を生やした奇妙な妖怪の下に、集まった複数の妖精達がやいのやいのと遊んでいるようでした。

 

 『わたし』が興味を持って近付いてみるとその妖怪達はこちらが他の妖精とは見掛けが違う事に気付いたような素振りこそ見せますが…特に気にしてはいないようです。近場で妖精が囲うように集まっているせいか押していた猫車が動かせなくなっているようですが、赤髪の妖怪は集まってきた妖精と手遊びをしてみせたりなので特段気にしてはいないようですね。

 

 もう一つの翼を生やした妖怪の方も特に怒るような素振りは見せていませんが、こちらは長い髪を左手の人差し指で意味も無く巻き取ってみたり何処か遠くを見つめていたり、何とも分かりやすく暇を持て余しているようです。…先程"奇妙な妖怪"としましたが、その容姿は他の誰とも似ついていません。胸元には…宝石でしょうか、真っ赤な瞳を思わせる装飾が付いています。足元を見ると右には岩のような塊、左には常に瞬く弾が纏われているし、何より右腕の一定から先が神社の御柱のような奇妙な棒となっているのです。…地の底特有の妖怪なのでしょうか、しかしここまで歩いてきてもこれだけ特徴的な見掛けは類似するような例すらありません。

 

 もう一つ、ここまで近付いてからようやく気付きましたが…猫車の積載物からでしょうか、妖怪が纏っている煙っぽさとも、妖精が纏っている薔薇のようなキツめな甘さとも違う異様な臭いがしています。地上でも森では時折嗅ぐような臭いなのですが、一体何だったか…そんな事を考えている内に猫車が動き出し、『わたし』は連れ立って流れていく妖精達に巻き込まれていきました。

 

 

 ほんの流れのままに入ってきたこの館。一目見ても赤い館とは対照的に硝子がふんだんに用いられており、玄関から入って直ぐの天窓に嵌められたステンドグラスから注がれた七色の光が、黒と赤のツートンで構成された一見無機質な館内部を彩っています。光を感じる装飾が多く見られるからか館の外よりもずっと明るく、『わたし』はここが地の底である事を忘れ、口をぼんやりを開ける事しか出来ません。

 

 館の中には人の形をした住民の代わりに多数の動物が暮らしているようで、地上でも見掛ける種類から見た事も無いような種類まで実に様々です。中には恐ろしいような風貌のものも居ますが…こちらを見ても襲ってくるような様子はなく、他の妖精達はそれらの下に集まって一緒にのんびりとしていました。

 

 『わたし』もそれに混じって一際大きなトカゲの横に座り込んでみます。…一見すると冷たそうな印象すら抱く床は意外な程に温かく、ここに居る動物達が軒並みごろ寝している理由が分かった気がします。それだけならほのぼのとした景色なのでしょうが、遠くの暗い部屋にはこちらを窺うようにふわふわと浮かぶ気配。まるでこちらの気を散らす様に動き回るそれは恐らく怨霊の類でしょう。

 

 ふと横に居た大トカゲが起き上がり、怨霊のたむろする方へその視線を向けました。…どうやら視界の端に映る怨霊を目障りに思ったようです。怨霊の方もその視線に気付き、こちらへ向かってくるか、或いは身を引こうかとこれまでとは異なる動きを見せようとした瞬間…大トカゲがその巨体とはまるで見合わぬ加速であちらへと飛び掛かっていきました。

 

 怨霊は驚いた様子で部屋の方へと逃げ込みますが、そこに一切の躊躇いを見せずに大トカゲは飛び込みます。暫く部屋の方から散発的に衝撃音が聞こえた後…満足そうな表情をしつつ大トカゲが出てきて、再び『わたし』の横に座り込みました。幾らか口を動かしている所、部屋からは何の気配もしなくなっている所を鑑みるに怨霊達を喰い尽くしていたようです。

 

 そんな大トカゲに『わたし』は少し驚きの目を向けつつも…床の温かさのせいか姿勢が随分と崩れており、もう殆ど寝っ転がっているような形になっている事に気付きます。周りを見ても妖精達は既に寝息を立てながら夢の世界へ飛び立っているような雰囲気で、大トカゲも舌を軽く動かしながらも瞼が随分と落ちている様子でした。『わたし』も何処か眠くなってしまい、付いた肘で顎から頭を支えている以外はすっかりうつ伏せの態勢になり…

 

 

 不意に襲った身体もろとも意識が落下するような感覚と、一瞬の暗転。

 

 

 

 

 

 直後、顔をぶつける衝撃が『わたし』の意識を一気に引き戻しました。痛みこそほぼありませんが反射的に手で鼻を押さえつつ、『わたし』は周囲の様子を見回します。…この現象は何度目でしょうか。思えば直ぐに周囲を確認したのも慣れあっての事なのかもしれません。しかしその床の冷たさは『わたし』の視覚より早く、その事実を伝えていました。

 

 先程まで転がっていた所から比べれば随分と狭く、しかし照明の光が一帯をくまなく塗り上げる為に奥行きの程が全く知れない真っ白な廊下。その手触りからして、地上の館の際に触れたあの白い素材と同じようです。…こちらではよく用いられる建材なのでしょうか。

 

 立ち上がって見ると廊下には幾つもの扉があるようで、その全てを調べていればどれだけの時間が掛かるか分かったものではありません。偶々近くにあった扉を開けてみると…と言ってもやはり触れずに開く構造なのですが、そちらの部屋は真っ暗、しかし意を決して入ってみた途端に突然明るくなり、驚いた『わたし』の口元から小鳥のような悲鳴が漏れます。

 

 …気を取り直して部屋の中を見ると、幾つも並べられた棚から様々な物品が飛び出す様な状況で仕舞われています。先程の真っ白な廊下と違ってやや埃っぽく、暫く誰かが訪れたような様子もありませんので差詰物置のような扱いなのでしょうか。…棚には箒のように扱い方の分かるような道具も存在しますが、その殆どは見た事すらも無いような奇妙な物。『わたし』はその内の一つに興味を持って触れようとしますが、ふと棚に積み上げられた物があまりの不安定さで並んでいる事を思い出し、急いで触れかけた手を引っ込めました。

 

 どうにか周りを支えながら引っ張り出せば取れるかもしれませんが、もし崩れた時は雪崩が雪崩を呼ぶような形で一遍にこちらへと物が降り掛かり、それだけで"一回休み"になってしまいそうな気がします。折角こちらに来たのですから、"一回休み"となって引き戻される前に何かしら新たな知見でも得ておきたいのですが…。『わたし』はそれを棚から引っ張り出す事を諦め、この場からどうにか眺めてみます。

 

 …大きさは『わたし』の頭と同じくらいでしょうか。黒みがかっている上に皺のような複雑な模様があり、人為的にこの形状にされた訳では無いでしょう。複雑に溶けて固まった溶岩のようにも見えましたが、それならこんな所に置かれている理由が分かりません。少なくともこの場所と何かしらの関わりがある物体なのでしょうが……そう言えば、先程見掛けた妖怪の足元もこんな複雑な塊だったような。

 

 

 『わたし』が未だその物体をまじまじを見つめていたその時。部屋の上部に掛かっていたらしい照明が何の予兆も無く点滅し、バツンという何かが切れるような音を最後に部屋が暗闇に支配されました。そしてそれすらも把握が間に合わないような直後、今度はギーッという耳が痛くなるような不快な音が襲ってきたのです。『わたし』は無意識の内にその場にしゃがみこんで両手で耳を抑えましたが、それでも音は平然と貫いていき、こちらの思考すらも上塗りしてきます。

 

 焦って扉の方へ向かおうとした『わたし』でしたが、あまりに一瞬の変化にこの場の状況を忘れてしまっていました。暗闇の中では何処に何が置いてあるか等検討も付かず、案の定『わたし』は何かにぶつかって躓き大きくスッ転んでしまいます。更にその衝撃のせいか棚も揺らぎ、『わたし』は身を起こす暇もなくそれらの雪崩に巻き込まれてしまったのです。忽ち僅かな視界すらも物に覆われていき…意識が埋まり切る直前、廊下の方から煩わしく響く音に混じって多くの人間の絶叫と足音が聞こえたような気がしますが、それが何だったのか確かめる事は出来ませんでした。

 

 

 

 …目を開くとそこは暗闇の中。身体は痛み、つま先までもが圧迫感に押し潰されそうになっています。…つまりまだ、"ここ"に居る。『わたし』は必死にもがいて落ちて来た物の山から何とか頭と手を出し、ゆっくりと周囲の物をのかしていった末に脱出を果たしました。先程響いていた音はすっかり止んでいますが、上を望んでも照明らしき物体は一切の光を放っておらず、部屋は再び何も見えないような真っ暗へと戻っています。

 

 小弾で空間を照らしてみると棚自体が折れ重なったようになっており、そこに乗せられていた殆ど全てが滑り落ちています。…この惨状を見る限り、『わたし』が"一回休み"にならなかったのは幸運だったのでしょう。今更になって安堵のため息が漏れだし、身体がどっと重くなるような感覚に襲われました…いや、これは単に安堵によるものなのでしょうか?『わたし』がふと足元を見ると右足が少々おかしな曲がり方をしているようで、感覚もそこだけ微妙に欠落しています。…どうやらそこまで長く活動は出来ないかもしれません。

 

 崩れた棚に手を置きつつ瓦礫の山のような部屋を進んで扉の前に立ちましたが、幾ら待っても先程と違い勝手に開いてくれません。仕方なく扉に備えられた溝に指を引っ掛けましたが、あれだけ無垢の様に軽く動いていた筈の扉が今では思いっ切り力を掛けてようやく動くようになっており、何とか身体をねじ込める隙間を作るのにも一苦労です。

 

 廊下に合流したは良いものの、部屋の中がああなのですから当然のようにこちらも真っ暗となっています。『わたし』は次いで壁に寄り掛かりながらも先導させた小弾の灯りを頼り進んでいきますが、何処にもあらゆる気配はありません。その代わりに…意識が失せる直前に聞いた狂気的な声の一端を担っていたらしき、既に動かない人間が幾つか転がっていました。

 

 共通して紺に近い上着を纏っていますが何れもが数多の踏み跡によって蹂躙され、中には殆どぼろ布の様になっているものも窺えます。人間なのですから何かの物無くして光も確保できませんでしょうし、その上あれだけの足音がする程の数が我先にと走れば…その内幾らかはこうなってしまうのかもしれません。…しかし彼らは、一体何から逃げていたのでしょうか?『わたし』が問いかけるように屈んで顔を窺っても、それは何も語りません。

 

 幾らか歩いて行っても景色に変わりはありません。廊下の端は到底望めておらず、このままでは何の手掛かりも無く時間切れになるかもしれません。…右足の一部に過ぎなかった感覚の欠損は、今や右足そのものを覆い尽くしています。それに気付いた『わたし』の額には焦りからか汗が浮かび、それを左腕が無意識に拭いました…

 

 

 

 ……いや、熱い?

 

 

 

 思えば先程まで冷たさを宿していた床や壁が、すっかり熱を帯びているのです。今はまだ十分触れられるのでしょうが…最初はこうでも無かった筈です。『わたし』がこの廊下を進んでいる事を考えても…段々と熱が強まっている事には違いありません。

 

 『わたし』が熱源へと近付いているのか、或いは熱源自体が強まっているのか。しかし一歩進む度に熱が『わたし』へ突き刺さり、それが着実に意識を奪っている事は分かります。既に右足の感覚の消失という話ではありません、既に左足も棒きれのような感覚です。…そんな調子では歩き続けられる筈も無く、ふと踏み外して崩した姿勢を補正する気力すら無かった『わたし』はそのまま地面へと倒れ込みました。

 

 地面の熱さはまだ、身を悶えさせるような苦痛を味わう程ではありません。むしろ今力尽きたのは丁度良かったのでしょう。もっと長く歩き続けていれば…こうして微睡むように意識を失いつつあるよりももっと直ぐに、かつ苦しいものとなっていたのでしょうから。

 

 薄れる意識の中、『わたし』は最期の気力を全て思考に費やす事を選びました。…恐らくこの施設は地の底と同じ座標…つまり相当深い所にあるのでしょう。そしてそこに暮らしていた元々の住人である妖怪や霊達は地上で人間に駆逐されたように須らく消滅し、代わりに人間が何かの目的をもって台頭した。何の為か、それは分かりません。

 

 …しかし今、地の底に備えられたここに異常が発現し、高まり続けた熱が一帯を焼き尽くすのでしょう。人間はそれに対し、制止する選択肢を放棄して逃げ出したのです。…しかし幾ら地の底での事とは言え、これだけの異常がそのまま増大を続ければ…地上にも少なからず影響が出るのではないのでしょうか?

 

 

 

 そんな時の事です。不意に廊下の向こうで何かが瞬いたかと思うと、そのから異常な量の光と熱が溢れるように飛び出し、瞬く間に廊下は一隅までも残さず満たされました。増大する熱は『わたし』自身をも焼くように吹き荒れていますが、最早身体の感覚は曖昧に溶け切っている為か不思議と何も感じません。

 

 そして『わたし』は…瞼も重く閉ざされている中で尚も貫く一筋の閃光に、何かが居る事を見出しました。実際に閃光がその姿をしているのではありません。まるでそのように見えただけです。…三つの足と大きな翼を持った、かの奇妙な妖怪のような姿に。

 

 

 それが自ら放つ熱に身を捩り、悶え苦しむように。しかし何かを嘲笑うように。天を仰ぎ、慟哭のような声をあげ、左手で何かを掴むようにした途端『わたし』が居る地面が膨らんだかと思えば。

 

 

 

 閃光を噴き出す裂け目が廊下を一瞬で走り、直後に全てを吹き飛ばすかのような、朱白色の衝撃。

 

 

 

 

 

 今、『わたし』の前には紫がかった髪の妖怪が座りこちらを覗き込んでいます。…正確には、その妖怪が持つ独立したもう一つの目が、全てを見透かすような眼差しを向けていました。『わたし』は事故のような形でとは言えこの館に不法侵入している訳ですから、目の前の妖怪に…周囲の反応からして彼女がこの館の主であるようですが、ここで如何なる仕置きを受けてもおかしくありません。

 

 しかしそんな『わたし』の予想に反し、その妖怪が持つ瞳がまるで釘付けの様にこちらへと視線を送り続けます。…意図的な圧力掛けでは無く、純然な興味が瞳をそうさせているのは明白でした。そして瞳がぱちくりと瞬きをする度に…紐越しに繋がった妖怪自身も驚いたかのように目を見開いたり、或いは言葉を失ったように口を軽く開けてみたり、突然目を伏せて奥歯を噛んでみたりとコロコロ反応を変えています。

 

 …そんな調子を半刻程経た辺りでその主が腰掛けていた椅子から立ち、何やら手を翻すような指示を送りました。何が起こるかと思えば直後に後ろで再び暇を持て余していたらしきあの妖怪が嬉し気に飛び上がり、『わたし』の腕を掴んで何処かへと運んでいきます。

 

 状況が呑み込めず半分引きずられるようにして館の廊下を少し行った所、その妖怪が左手で扉の前にある何かを操作しています。何が起こるかと思えば…目の前にあった扉が"向こう側の世界"のように開き、中から覗く部屋にはこれ又"向こう側の世界"のような壁が見えたのです。

 

 思いがけず混乱する『わたし』を見て、その妖怪は首を傾げました…落ち着いて考えればここはあそことは全く違います。目の前の妖怪も…あの時見せた苦悶など微塵も思わせないような…むしろ惚けたような顔をしています。『わたし』は自らに言い聞かせるように大袈裟な深呼吸をしてみせ、その部屋へと入っていきました。

 

 部屋のようなそれは少々狭く、どちらかと言えば箱という呼称が合いそうな気がします。暫くすると扉は勝手に閉まり、突然床が揺れたかと思えば…どうも箱自体が急速に上へと向かっているようでした。自分で飛んでいるのとも違う独特な感覚に揺られている『わたし』を見て、その妖怪は面白おかしいように微笑みを浮かべていました。…そして気付けば箱の上昇は止まっていて、再び開いた扉の先へと妖怪がはやし立てる様に押し出してきます。

 

 

 

 そこは地の底ではありません。森と雲と、すっかり赤くなった空。地上でした。

 

 

 

 すっかり一日中地の底を彷徨っていたようで、久方振りの澄んだ空気が『わたし』を歓迎するかのように吹き付けています。『わたし』がふと振り向いて感謝を伝えようとするとその妖怪は箱の中に備えられた何かを弄っており、直ぐに扉からは例の呻り声が聞こえてきました。

 

 『わたし』は手を伸ばしてそれを制止し…そして再び不思議そうな眼差しを向ける妖怪と不意に目が合います。…言葉で感謝を伝えようともしましたが、何と言えばいいのか口下手な『わたし』には分かりません。…結局、『わたし』は箱へと踏み込んだ一歩を引き、只手を振りました。それでは不足かもしれません。しかし…その妖怪の顔はパッと明るくなり、あちらも手を振って返してくれたのです。そうしつつも、何処か名残惜しいようにゆっくり扉は閉まっていき…彼女の姿ごと、地の底へと消えていきました。

 

 

 

 『わたし』はその場で夕焼けを望みながら、あちらで行っていた思考の続きを行っていました。…向こう側の世界の大方の流れは概ね、郷に蔓延ったあらゆる妖魔が人間に依って剋されるというものでしょう。…では、此度見たものは一体歴史の何処に差し込まれる一場面なのでしょうか?

 

 建物の雰囲気などが一様に見える以上、『わたし』がこれまで見て得られた情報からそれを断定する事は出来ません。…しかし訪れた向こう側の世界がどれも一律であるという前提におけばその可能性は二つしかありません。即ち以前か、はたまた以後か。

 

 仮に以前だとすれば、『わたし』が見たあの地獄のような情景は後になって人間に克服されたのでしょう。そしてその上で人間は繁栄を遂げた…それが以前見た奇妙な建造物群による文明である、という事です。

 

 

 

 では、もし以後の事であったとしたら?人間が地を埋め尽くす程の繁栄の後に、かの地獄の釜が開いてしまったとするならば…

 

 

 

 

 果たして人間は、あれを止める事が出来たのでしょうか?

 

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