『わたし』が見た幻想郷   作:eg

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『わたし』が見た幻想郷

 

 "私"は、未だこの能力を知らない。たった幾千年では何も知り得ない。

 

 

 夢と現の境を弄る事も。

 

 昼と夜の境を傾ける事も。

 

 表と裏の境を接ぐ事も。

 

 生と死の境を入れ替える事も。

 

 

 何もかも、為せる様にすら思える。現実に"私"がイメージした概念は全て思うがままに弄べている。……それ故に分からない。限界がまるで知れないこの能力を、"私"は何処か恐れてもいた。

 

 

 "私"は、本当にこの能力を操れているのか?

 

 "私"に、この能力を扱う程の器はあるのか?

 

 "私"が、この能力に呑み込まれたらどうなるのか?

 

 "私"とは、或いはこの能力が皮を纏っているだけの存在ではないのか?

 

 

 だからこそ……"私"は自らを押し留めるようにあらゆる手を尽くした。恐れられつつも畏れられぬよう自らをスキマの中に隠し、表立って目立たないように努めた。同時に…妖怪として在り続ける為、この手で"私"自身の意義を作った。それが郷が成立した理由の一端だ。

 

 …"私"が為す事の以上、その姿と名は"賢者"などとラベルされてしまう。しかしそれを"私"は甘んじて受けた。驕る事に享受した訳では無いし、仮にそうだとしても驕り高ぶる事に罪は無い。妖怪とはそういうものなのだから。しかしそれ以上に…"賢者"というラベル、その程度に枠付けられるなら本望であった。

 

 期待したように"賢者"という枠はこの能力の万能性を制限し、又"私"自身をも縛りつけ固着させた。惨めに地に伏した屈辱すらも、"私"という個を維持する上では必要なものとして喰らった。「弾幕ごっこ」もこの能力にとって絶対的劣位な規則となり、思うがままにさせなかった。

 

 "私"がこうして今存在出来るのも、これまで抜かりなく予防線を張り続けたお陰なのだろう。…ところが結局、この能力の底を知れた訳では無い。そして"私"はその無知を、此度後悔する事になった。

 

 

 

 

 

 一件の切っ掛けはほんの気紛れだった。只、見られる筈も無いものを覗こうと人差し指で空を薙ぎ、未来との境目を開こうとした。為せる筈が無い、"私"がそう思っていた。…ところが開いた先に見えたのは、"その能力"が垣間見せた、"私"にとって最悪の景色。

 

 

 

 人間が外の世界と同様な文明を持ち、あらゆる妖怪が蹂躙された未来の世界。

 

 

 

 その能力が、見えてはならないものを繋いでしまった。それは妖怪にとっては数百年後の余命宣告に等しく、"私"にとってはこの能力が刃となって、首元にひたりと当たるような虚脱感。閉ざせるのであれば直ぐに閉ざし、全てを忘れてしまいたかった。実際、この能力にとっては造作も無い事だったのだろう。

 

 しかし"私"は瘋癲な妖怪では無い。"賢者"だ。そうであれば何を為すべきか。見えてしまったあの未来を回避する事か?…目の前に開かれた未来が、果たして覆せるものなのかという保証は無い。もしかしたら手遅れなのかもしれない。しかしそれでも…毒を喰らわば皿まで。或いは何処かに糸口を見出す為にも、未来の姿をもっと知るべきでは無いか?

 

 

 この境目から覗ける未来の景色は酷く断片的で、理解する上ではあまりに情報が足りない。故に境から覗きつつも、それを先導する為に"誰か"が、実際にあちらへ赴く事が望ましかったが…その候補は限られた。未来で妖怪そのものが消失している事実は、妖怪が存在できる環境では無くなっている事を暗じている。

 

 …そしてそれは実際の調査で裏付けられた。それは祭神を失う事によって自らの神性も失った風祝の末裔。只の人間へ戻り、辛うじて科学に身を委ね生き続けていた吸血鬼。人間によって妖怪が淘汰され、構造が丸ごと転用された地底の核融合センター。それらが見事に示している。あのような状況では"私"ですら、向こうに手を触れれば最後、即座に存在が否定され消えてしまいそうにすら思えた。

 

 しかし人間を使う訳にもいかない。彼らは死ねば魂となるが、それだけの質量をもこちらから回収する事が出来るか、一切の保証は無いのだ。…未来での活動を許され、ある程度観察の意思を持ちつつ、かつその記憶を保持したまま回収できる存在を用いなければならない。

 

 …そこでお誂え向きだったのが妖精だ。未来にあっても人間は栄養を摂らねば生きていけない、それはつまり妖精の存在を許す程の植物性物質が存在している事になる。周囲を観察して記憶する程度の知恵はあり、何より死んだ後に記憶を維持しつつ、在るべき所へ再出現する。その在るべき所が…例え未来で死んだとしてもこちらであるかという懸念も、博麗神社で偶々見つけて送り出した妖精…

 

 

 

 

 …そう。『あなた』がこちらで蘇生された時点で実証された。手段は完全に見出せたのです。

 

 そして"私"はその後の調査も…丁度初めに用いた『あなた』を使い続ける事にしました。名無しでありながら少しだけ賢く、少しだけ寡黙。見た物事を考察するだけの力があり、余計に得た記憶を言いふらさない。…偶然見出したにしては余りにも向いていたから。

 

 後は簡単。『あなた』が随所へ赴く度に裂け目を開き、こちらからも境目越しに概ねを見つつ、そちらにはあらゆる感覚を駆使して記憶してもらうだけ。…記憶を如何にして"私"へ伝えるか、その手段に少々迷う所もあったけれど、偶然『あなた』が地底に迷い込んだのでそちらに手を回し、そこの覚妖怪に表層意識ごと入り混じった記憶を読み取らせられたのは幸運でした。手間が省けただけでなく、口から語られただけでは得られない詳細な情報も得られた。

 

 これら情報群の内には…"私"にとって意外な可能性を示唆するものも含まれていて…『あなた』は、ここから覗いているだけだった"私"では不可能な視点から見てくれていたのよ。お陰で未来への理解も順調に進むでしょう。…最も惜しい事が一つ、博麗神社での一件は表層意識の内に残っておらず、すっかり損ねてしまったようね。

 

 つまり『あなた』は博麗神社の事を覚えていないという事になる。……となれば気付いていないでしょう。初め博麗神社で未来へと飛ばされた時だけ、明確に見ていた時間軸が異なっている事を。

 

 あの時"私"はこの能力が許す限りの未来へと境界を繋げました。…完全に人間が妖怪を克服したと言うならば、恐らく最後まで否定されずに遺るのが外と内とを隔てる結界…つまりこの能力そのものの限界と重なる、そう考えたから。

 

 しかしその際"私"が境目越しに僅かに見えたのは人間が一切居なくなった景色。そして辛うじて神社の形を保たせる程度に矮小化した結界がその最期、陽光程度の刺激によって完全に蒸発した姿でした。…それは"私"の予想と異なっている。人間によって結界が否定され消滅される事無く、その前に人間が姿を消していた…。

 

 

 …人間達が自ら滅亡の途を辿ったという事なのでしょうか。然らば何故そうなったのか、時間を少しずつめくり、その瞬間を探る必要が出てきます。…守矢神社で見た景色の時点では人間の文明は栄えている。そこからほんの僅かにずらした紅魔館の時点でも文明は確認できた。しかしそこから僅かにずらし……地霊殿で見た景色では、『あなた』が明らかに異様なものを捉えてくれた。

 

 

 

 人間が行き過ぎた技術を制御できずに溺れ、取り返しのつかない惨事を引き起こした。…"私"の視点だけではそう解釈したでしょう。しかしその場で一幕を見届けた『あなた』は、そこに「三つの足と大きな翼を持った妖怪」…即ち地獄烏を見た。それを覚妖怪から伝えられた時、"私"の中で大きな何かが崩れたわ。

 

 妖怪が蹂躙された未来。"私"はその前提を大元にして思考を行っていた以上、本来そこに妖怪らしき姿すらありえないと見做していた。しかしそこに地獄烏を見たという事実は、その瞬間妖怪が存在しえる条件…即ち"未知"、そして"恐れ"を満たしていた事になるでしょう。

 

 …人間達は元あった核融合センターを流用していた為に、その技術に関して未知なる部分が残されていたのでしょうか。そうであればトラブルに対し適切な対応が出来ず、増大する危険性を前に"恐れ"を抱くに至った可能性も十分考えられます。その事実は同時に、未来においても「条件さえ整えば」妖怪が再び現れるという事も示していたという事。…当たり前のように聞こえるけれど、この常識が未来において生きていたというのは非常に重要です。

 

 …兎も角、これから見る未来が恐らく人類の最期の姿となるでしょう。軸で言えば『あなた』が地底で垣間見た事象の直後。核融合センターの喪失は語るまでも無い大事件でしょうが、"私"が見立てる限りでは、それ単体のみが原因で無く、単なる切っ掛けに過ぎない……恐らく『あなた』であれば、"それ"を捉える事が出来る筈。

 

 

 

 

 …今、その妖精は一帯の空間と結び付ける形でこちらを大方察したようで、"私"に対し怒りを滲ませた眼を向けていた。最もこの空間に居る限り、あの妖精に眼という器官は無いが…その不定形な精神の形状がそのままの感情を示しているのだから、その様を幾重も見てきた"私"にはよく分かる。…恨みたければ幾らでも恨んで欲しい。初めから善とは名乗れないこの身、とうに取り繕いようも無い。

 

 しかし、此度送るその時間軸が"私"の見たい最後のシーンである事。それっきり、"私"から『あなた』への干渉は行わない事。だからもう一度だけ、その景色の見たままを記憶してほしい事。そんな"私"の言葉が妖精の意思自体に直接書き込まれると…妖精の精神が少しだけしぼんだ。一応承諾の意思は示してくれたらしい。

 

 …最も一つだけ、報酬を提示した方が良いかもしれない。"私"は急いで書き込んだ言葉に「菓子折り一箱」とだけ付け加える。瞬間、それまで尖り模様な形がパッと解けていき、向けられた警戒心も幾らか薄れたようだ。賢いとはいえ、妖精とは妖精である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 閉じた瞼越しからでも、人工光が満ちる街並みが窺えます。感覚を取り戻した直後故に感度のズレた耳からも、人波の喧騒が聞こえます。…『わたし』は既に、向こう側の郷の一角に立っていました。

 

 …先程の取引は少々軽率だと、『わたし』は恥じるべきだったのかもしれません。しかし"それ"が提示した条件は特段こちらに不利ではありませんし、何やら菓子折りまで付いてくるようです。それに『わたし』は…こちらへ来る事を、何時しか楽しんでいた所があるのです。…退屈な妖精暮らしにおいて、少々過激なまでの刺激と言えましょう。

 

 …先程まで並べ立てられた"種明かし"、それを全て直ぐに咀嚼して理解する事は出来ません。そもそも"それ"自体が何処まで信用に値するかも分かりませんが、流し聞く限り語られた事に『わたし』の認識との齟齬はほぼありませんでした。…一つだけ『わたし』と"それ"の予測にずれがあるとすれば。地の底の大爆発によって全てが吹き飛んだ、或いは直接の原因になったとばかり考えていた『わたし』と違い、"それ"は単なる切っ掛けであるとした所でしょう。

 

 

 道を歩く人間達は何処か早足に動いていますが、それが特別な事では無く彼らの癖であろう事は表情からも察せられる所です。次いで何処か皆視線を伏しがちですが、これも首の曲がり様からして彼らにとっては当たり前の事なのでしょう。…それら全てが、何も変わり映えのない日常を送る人間の姿でしかありません。

 

 

 ああ、これらが全て終わってしまう。

 

 

 『わたし』は振り向き、すっかりしぼんだ"元"妖怪の山を見ました。丁度夕暮れに差し掛かろうかという事もあり斜面は赤みがかっていますが、人工光が照っているせいかあまりそうには見えません。…地の底では日が望めぬ以上、発生した時刻は『わたし』には分かりません。しかし"それ"がこの軸に送り込んだという事は、そういう事なのでしょう。

 

 

 

 不意に山の内から漏れる、それが直接放つような赤光。道行く誰もが違和感に気付き足を止め…一瞬の静寂の後。

 

 

 

 突如として郷を覆っていた"光"が消え、立て続けに襲う天が落ちてくるかのような暴れ狂う鳴動。

 

 

 

 『わたし』はその瞬間に羽根をはためかせて飛び立ち、人間よりもほんの少し高い所から事を見届けてました。…向こうからこちらへと、こちらから向こうへと人々が駆けていきます。その誰もが引き攣ったまま頬が動かず、或いは喉が枯れんばかりの絶叫を上げているのでした。先程までの喧騒とは比べるべくもなく無秩序なもので、地上では雑踏の内での事故騒ぎ、空からは伸び切った建物からの落下物。忽ち大通りは血と瓦礫の絨毯に覆われていきました。

 

 そんな人間達を嘲笑うように太陽は西へと沈んでいき……辛うじて届いていた赤い光が薄れていくと、いよいよ景色は一変しています。…最早そこは人間達が支配していた郷ではありません。人間達が恐れ、されど長らく忘れていた、闇の中。

 

 微かに遺った人工光はその概ねが真っ赤なもので、けたたましい音と共にぐるりぐるりと回っているものですから凡そ人間にとっての拠り所として役には立っておらず、むしろ人々はその音と光に恐怖を助長されているようにすら…人間は自ら生み出した光に依存していただけでなく、微かに生き残った人工光にすら裏切られたのです。

 

 

 

 郷を満たす絶え間ない悲鳴と絶叫。そろそろ聞いてくるこちらの耳も痛くなり、それら情動にあてられた『わたし』の心拍も幾らか高まっているようです。…しかし、裏を返せばそれだけかと『わたし』は考えていました。山の異変は間違いなく地の底の爆散によるものでしょうし、現に郷中が暗闇に包まれているのも…状況からして密接な関係である筈です。ですが郷全てが吹き飛んだ訳では無く、あの山すら大きく揺れこそしたものの、ペチャンコになってしまった訳ではありません。人間が滅ぶ、そんな大逸れた事態にまでは…

 

 

 …不意に"それ"の言葉が思い起こされました。これは「単なる切っ掛け」だと。つまりここから未曾有の災害でも重なって生じるという事なのか…いや、もしかして既に異変が起きつつあるのでしょうか。人間が今盛んにやっている混乱こそが"それ"が言及した通りの。

 

 

 

 "妖怪"の発生条件である、「未知」なる暗闇への、「恐れ」?

 

 

 

 不意に遠くから甲高い絶叫が聞こえました。…今までのものとは何かが違います。それまで出会った未曾有の異変に対する漠然とした恐怖では無く、明確な殺意を向けられた…死ぬ直前の人間が放つような声色。

 

 声は建物群の隙間に延びる細い道からのように聞こえました。『わたし』は空中でくるりと向きを変えた後に地面に降り立ち、建物の隙間を駆け抜けていきます。飛ぶには狭い空間である以上地に足を付けなければならず、故に『わたし』は向こうから押し寄せる人々の群れを縫っていく他ありません。

 

 …声のする方へ向かう途中にすれ違った多くの人間は『わたし』が携える羽根や小弾に気付いていたでしょうか。しかしそんな事に気を取られている所では無かったようで、こちらを窺う視線は皆無なようです。…それだけの異常がこの奥で起こっているという事でしょうか。

 

 ふと大きな人波を抜け切った『わたし』が振り返って逃げていく人間達の容姿を見ると、大通りに居たような人間のそれとは少し異なるように感じます。それに『わたし』があちらで見た貧相ながらも何処か充足した人間達よりも…幾らかやつれたような雰囲気を纏うような…。

 

 道の行き止まりには沢山の簡易的な椅子が並べられ、先程逃げて行った人間達が置いていったらしき荷物も並んでいます。中央には仮置きされたような舞台がありますし、ここで何かしらの催しが行われていたのでしょうか。

 

 最も既に、この空間には生きた人間の気配がありません。『わたし』が小弾の光を強めて眺めると所々に服だったらしき布切れや血痕が見えています。尋常でない事が起きている事には違いありませんが、その原因らしき姿は見えません。…その代わり、何故か舞台の上だけが小弾で幾ら照らしても真っ暗なまま、様子を窺えないのです。他一帯が満ちる程に光を強めていったとしても、あそこだけ…。

 

 

 

 くちゃり、くちゃり。

 

 

 

 行儀悪く何かを食むような音。それを聞いてようやく『わたし』はその暗闇の正体を悟りました。……それは仕方の無い事なのでしょう。何せ軽く二百年でしょうか、それだけの間『わたし』は"それ"を見ておらず、すっかり表層の記憶から抜け落ちていたのです。

 

 

 暗闇と思っていた"それ"は、真っ黒な巨躯に鮮血を滴らせる明確に結ばれた像。飛び出した歪んだ腕と、天を仰ぐようにポッカリと開けられた口。……ああ、そうでした。

 

 

 

 人に恐れられ、無慈悲に人を喰う原初の"妖怪"というものは、こういう形をしているのです。

 

 

 

 "妖怪"に俄かに湛えられた微笑みがこちらを見るように揺れ動き…反射的に腕で顔を覆った『わたし』には一切興味が無いように、"妖怪"は異常な加速ですぐ脇を掠めていきました。最も掠めたのみではありましたが、それが持つ大質量があれだけの速度で動いたものですから乱流が俄かに起こり、『わたし』はそれに巻かれるように後ろへ数尺も吹っ飛ばされてしまいます。

 

 『わたし』は直ぐにうつ伏せの状態から身を起こし、土埃まみれの服を軽く払います。…人間の恐怖から生まれた以上、あの"妖怪"はそれしか喰う事はありません。それも生きる為に喰うのではありません。殺す為なのです。それはまるで混乱の最中に流れた虚説虚構に踊らされ、お互いを意味も無く憎み合い殺し合う人間の様に。

 

 

 "妖怪"の動きに追従するように『わたし』が振り向くと、遠くの方で逃げ遅れた不幸な人間達が阿鼻叫喚の内に身を捩っていました。身体から伸びた幾つもの腕が人間を押し潰し、腕の一つを掲げたかと思えばガパリと開いた口が引っ掛かった人間を呑み込みました。直後に引き千切るような音がここからでも耳を逆撫でし、『わたし』は無意識に苛まれた不快感のままに歯軋りをします。

 

 …この不快感の正体は、目の前で繰り広げられる惨状自体では無く、その中心で好き勝手に立ち回る"妖怪"からまるで理性や知性を感じられない事に依るでしょう。このままの調子で食い荒らせば一体どうなってしまうか。…そんな事は火を見るよりも明らかです。

 

 

 『わたし』が再び大通りに出ると、既にそちらも地獄が如き惨状となっていました。…しかしそこにはまだ"妖怪"の姿が見えません。…折れた看板も、割れた硝子も、地面に滲む赤い痕も、全て人間が己が本能のままに荒らしまわっていたのです。何かを抱え逃げていく人間と、それを追いかけてのし、抱えていたものを奪い逃げていく。…『わたし』はそれが人間の本性とはとても信じられません。或いは恐怖によって満ちた夜の妖気が、それにあてられた人間までもを妖魔へと変じさせているようでした。

 

 最早収拾は付きません。人間達だけでこれなのですから、ここにそれが加われば…そう思ったと同時に先程の路地裏から轟音と共に"妖怪"が飛び出し、振り上げた爪が地面ごと人間を引き裂きつつ一挙に道半ばにまで踊りだしました。居合わせた人間達が一斉にその"妖怪"へ視線を向け……それに応えるかのような、割れんばかりの咆哮。

 

 その時、人間達に絡まった恐怖という感情として、辛うじて彼らに自我を保たせていた糸が……完全に断ち切られたのを感じました。

 

 

 

 …そこからの記憶はあまりありません。我に返った時、『わたし』は乾ききった口を薄く開け、郷で一番高い建物からようよう昇る朝日を呆然と眺めていました。…耳の奥では未だ人間達の今際の声が再生され続けています。瞳には未だ真っ黒な"妖怪"が無用に食い荒らす様が映ります。

 

 

 しかし眼下の景色を見ると、もうそこには"妖怪"の姿はありません。…満ち満ちた陽光が郷に溜まった妖気を全て吹き飛ばしてしまったようで、人間の様子も…幾らかは落ち着いている様子でした。しかしこの惨状は装えるものではありません。

 

 各所からまだ黒い煙が上がっており、相当数の家屋が焼け落ちた事がまざまざと窺えます。又、『わたし』が見た"妖怪"以外にも相当数が出現していたようで、中にはそれがやったらしい根元から傾いてしまった建物すら見受けられるのです。今でこそ一帯は何とも静かなものですが…それは到底平和故とは受け取れません。騒げる人間はみな気力を失ったか、或いはそもそもなくなってしまっただけなのです。

 

 

 結局人間と妖怪、どちらが勝ったのか。…『わたし』にはどちらも勝ったとは思えません。確かに一度妖怪は絶滅に追いやられました。しかし妖怪は、"無い所"からも生じるのです。ですから人間がふとした切っ掛けで持ち得る秩序を失った時、再び恐怖の象徴としての妖怪は姿を持ち得る。

 

 これでは人間に勝ち目などありませんが、同時に妖怪側も人間に勝ち得る事はありません。彼らが人間の恐れから生じる存在である限り、人間が滅びる時に妖怪も滅びるのです。これでは勝ったのではなく単なる共倒れ。…並び立つ勢力で決着が着かないとは、何と滑稽な事でしょうか。

 

 

 それともう一つ、凡そ法則的な秩序が無い以上この先はどうなるのか…そんな疑問が浮かびますが、こちらは"それ"が既に答えを述べています…これを境として郷は致命的な打撃を受け、そのまま緩やかに終息していったのでしょう。『わたし』の予想と比べると何とも地味な落ちが付いたものです。

 

 とはいえここから人間が再起出来なかった理由も何となく分かります。…人間と妖怪の塩梅を調整して成り立たせたこの郷は、それ故に初めから妖怪の存在を必須とする構造だそうです。ならば妖怪を排してしまった時点で歪んだ機構に成り下がり…知らず知らずに妖怪に依っていた人間は、果たして独り立ち出来ずに惨状を許したのでしょうか。

 

 

 

 

 …そろそろ潮時でしょうか。面倒な事に"それ"はあくまで一方向に『わたし』を送り出すだけで、戻る上では自ら帰らなければなりません。…つまり"一回休み"になれ、という事です。あまり乗り気にはなれませんが、そうでもしないとここにずっと居る事になる以上、腹を括らねばなりません。

 

 

 『わたし』は建物の端に座り、身を乗り出しました。首を上に向けると空はすっかり青く、昨晩の地獄のような黒さは一欠片も残ってはいません。視界の端に居座る太陽は眩しく、すっかり夜目となっていた『わたし』には少々刺激が強くも感じられます。…本来当たり前にあるようなそんな事は、どうしようもない世界であっても、或いはどうしようもない世界だからこそ、あれだけ綺麗なのでしょう。

 

 

 そんな事を呆けたように考えている内に身体はゆらりと傾き…

 

 

 

 

 不意に、触れるもの全ての感覚が消えました。

 

 

 

 

 

 『わたし』の手元にその菓子折りが届けられたのは、一件から十日ほど経っての事でした。はやる気持ちを抑えつつもその箱を丁寧に開けると、中には如何にも品格を感じさせるような品々が詰まっているものですから驚きです。…ちょっとばかり『わたし』のような妖精の口に合うのか不安にもなりましたが、試しに一つ摘まむとその甘さたるや、人里にこれだけのものがあったとは思えない程に洗練されつつも、どぎつさは一切感じさせません。…とはいえ然程保存は効かないようです。仕方ないですが、これは他の妖精とも分け合って食べる事にしましょう。

 

 "それ"に対し『わたし』があの際見た全てを伝えて以降、もう『わたし』の前に"それ"が現れる事は無く、ついであのような現象にも遭わなくなりました。…今思えばあの頃は退屈知らずであり、長い生涯の記憶の中でも爛々と輝いた日々になるのでしょう。…まあ、痛い思いもそれなりにしましたから、常にあんな羽目に遭うよりは今の退屈の方を選ぶような気がします。

 

 

 …ところで興味深いのは、"それ"が覗き見た事象と『わたし』が見たそれに、やはり齟齬が生じた事です。"それ"はあれだけ暴れた"妖怪"の姿を見ておらず、『わたし』の目の前で喰われた人間は、単に落下した物によって押し潰される等したとだけ認識したそうです。

 

 境目越しに見えた景色では"妖怪"の存在は否定されている。それは何を意味するのでしょうか。境目を隔てる過程で真実が歪められ、正しくない情報となっているのでしょうか。…ところが"それ"が見た光景もちゃんと筋が通っていますし、『わたし』自身あの時見た"妖怪"の姿は、少々現実離れしたような感じもありました。…或いは逆。"それ"が見た境目を通じた情報こそが一切の真実であり、その場で確かに見ていた筈の『わたし』が、錯覚を見ていたのでしょうか?

 

 

 

 

 ……妖怪とは何なのでしょう。『わたし』は二つ目の菓子を頬張りながら考えていました。人間の恐れに依存する生態を持ちながらそれ故に人間を害する、全く以て矛盾した概念であるように感じます。

 

 ……しかしこの郷においては、人間も又それと似たようなものなのです。妖怪を恐れつつも妖怪の作った郷の中で、妖怪の庇護を受けて生まれ、育っている。それはある種の共依存関係と言えるかもしれません。

 

 

 人間と妖怪が憎みながらも離れない、そうしないと生きていけない。そんな概念で成り立っているというのなら…それはそれは何という喜悲劇でしょう。ほんの少し歯車がトチれば壊れてしまうような、そんなものを維持し続けられると"それ"は思っているのでしょうか。

 

 

 

 

 何にせよ、もう何の関係がありません。これから"それ"は見据えた未来が決して現実とならないように手を打つのでしょうが…こちらが一切協力する道理など無いのです。『わたし』は人間でも妖怪でも無く、妖精なのですから。

 

 

 

 …さて、『わたし』が見た幻想郷の通りになるのか。或いは全く違う幻想郷となるのか。

 

 

 

 全て、『わたし』は見届ける事にしましょう。

 

 





 これにて『わたし』のお話はお畳みとなります。

 文体のコンセプトを重視した点を含みにしても色々至らぬ所があったと思いますが、良ければ忌避無きご意見を評価、感想等で頂ければと思います。
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