《メブキモール 1F外部・非常口付近》
作戦本部から突入の命令が下される瞬間を今か今かと待ちながら、人質救出部隊を率いる銀鏡イオリの顔には緊張の色が浮かんでいた。
理由は先んじて潜入している外部協力者、小鳥遊ホシノからもたらされた情報。
────敵は銃弾に薬品を塗布している可能性がある。
あくまでも彼女の推測。裏付けも何も取れていない。
しかしながら、もしこれが事実であれば敵の危険度は数段上がることになる。同時に、人質救出の重要度とその難易度も。
(なんて面倒な連中なんだ)
想定を何度も超えてくる敵の狡猾さに、ギリリと奥歯が鳴った。
他の隊員も含め、一刻も早く人質を救出しなければと決意を滾らせる一行に、ノイズ交じりの伝令が届く。
『今、ヒナがテロリストとの交渉に向かった。3カウントでホシノが奇襲、その後一拍空けてイオリたちには突入してもらう』
「分かった」
『りょーかい』
緊張もあるのか、いつになく簡潔な先生からの指揮。とはいえ、それは通信機越しに答えるイオリとホシノも同じであった。
三者三様の、しかし張り詰めた雰囲気は共通した通信。耳を澄ませば、息遣いまで聞こえてきそうで。
『よし、それじゃ────3、2、1……作戦開始ッ!!』
そんな静寂は、先生の声で吹き飛んだのだった。
先頭に立つイオリが、ガンッと音を立てながら蹴破るようにして非常口をこじ開ける。
瞬間、おそらく協力者である彼女が行ったのだろう。火災報知器がけたたましい音でモール内を蹂躙するのが、震わされる耳朶と共に脳に認知される。
聴覚からの情報が処理されると、次は視覚からの情報。
どうやらホシノの行動は早かったようで、扉の両隣には警備していたテロリストが鉄の塊となって鎮座していた。損傷具合を見るに、少なくとも駆動部を修復しなければ再起は不可能だろうと予想できる。
すなわち、これからの戦闘においてコイツらを気にする必要はない。
ここまでの情報を3秒程で処理しきると、すぐさまイオリは声を上げる。
「行くぞっ!」
他の隊員たちが────僅かにではあったが────面食らいつつあったからだ。故に、彼女はそう声をかけながら鉄火場へと駆け出す。
軽く振り向けば、狙い通り正気を取り戻したらしい隊員が後ろに続いているのが目に入った。
(よし。とりあえず、これなら大きく崩れることは無いはず)
ジリリリというベルに混じってSG特有の銃声が鳴っているため、既にホシノは戦闘を開始しているはず。となれば、自分たちは早く人質を救出しなければ。
そんな思いと共に改めて前を向くイオリ。そんな彼女の視界に映ったのは────
「うそ、だろ……」
現時点で4割近くの構成員が倒れ伏した大ホールと、その上で舞うように敵へと襲い掛かる桃色の少女の姿であった。
(単騎で、ここまでできるのか……? これじゃまるで、委員長みたいじゃ────)
想定以上の状況に呆気にとられながらも、人質の下へ向かう足は止めない。外部協力者である彼女がここまでしているというのに、
とはいえ、それで衝撃が薄れるわけもなく。
そんな風に、思わず目を奪われてしまうほどには彼女の動きは鮮烈だった。
風紀委員会本部で見たものよりも更に数段上がっている速度は、昨日よりも狭く遮蔽も少ない
微かに捉えられた桃色の軌跡を追いかけようにも、ジグザグと不規則に進行方向を変えられるせいでむしろ混乱を引き起こされる。
ならばどこか一点に目標を定め、そこを通る瞬間を狙い撃とうと動きを止めれば。
次の瞬間には背後に回り込んだ彼女によってブン殴られ、姿勢が崩れたかと思えば懐にSGによる痛烈な一撃が見舞われる。
更には毎度丁寧に急所や駆動部が撃ち抜かれているため、近距離での火力が高いSGの特性も相まって一撃でダウンさせられてしまう事も珍しくない。
というより、襲われた敵の九割が彼女の一撃で地へと崩れ落ちていた。
ならば、『動きは止めないようにしつつ、敵が自分たちを攻撃する……つまりは動きを止める瞬間を狙おう』と。肉を切らせて骨を断とうとテロリスト達が考えるのは自然の摂理なのだが。
俯瞰視点でも持っているのだろうか。彼女が取るポイントは、的確に同士討ちを誘うような位置ばかりで。
それに躊躇すればその間に味方は処理される。逆に同士討ちを覚悟で引き金を引けば、今度は即座にホシノが退避するせいで仲間を誤射してしまう。
そうなれば、当然ながら動きは鈍る。どう行動しても裏目に転ぶからだ。
もはや大ホールに残る“スープリ・ファミリー”の面々の脳裏には、『もう何をしても無駄なんじゃないか』という一種の諦観さえ生まれつつあった。
さらにそこに加わったのが、人質を奪還したイオリ率いる風紀委員たちによる援護射撃である。
ホシノに不足していた“面”に対する制圧射撃、さらに要所要所で差し込まれるイオリの正確無比な狙撃。その効果は考えるまでもなく。
先に増して加速した殲滅速度により、遂には一人残されるのみとなった構成員。
そんな彼に、一転してゆっくりと、そして一挙一動全てを見通すかのようにホシノが近付く。無機質に響くカツン、カツンという足音はまるで死神の立てる鎌の音のよう。
圧倒的な格上に睨まれたテロリストは、ガタガタと震えながら泣き叫んだ。
「なんなんだ……なんなんだよッ、お前はッッ!? 誰なんだ────ガッ」
答える声は無く。
立てられたのは、その隙を突いて動いた靴の滑り止めが鳴らしたキュッという音と、突き付けられた《Eye of Horus》による乾いた銃声だけであった。
────────
《メブキモール 1F外部・正面出入口》
飛び交う銃撃と、向かい合う両陣営が遮蔽に使った花壇などが撃ち抜かれる硬い音。
まさしく悲惨という言葉が似合うような状況であるが、野次馬や近隣住民を含めて一般人の退避が済んでいることだけは幸いか。
この場に流血や悲鳴まで加えられたような情景は、正直考えたいものではない。
本来ならば、この場は色々な人によるもっと別種の賑やかさで満たされているはずの場所なのだし。
『ヒナ、ホシノからの連絡が入った。モール内のテロリストは全員制圧できたらしい』
そんな中。片方の陣営、その最前線に立つ白髪の少女に届く伝令が。
少女の名は空崎ヒナ、言わずと知れたゲヘナ最強の生徒である。
(思っていたよりもかなり早い……とはいえこれで増援の心配は必要なくなった。それに、敵の誘導も完了した)
「大まかに私が片付ける。みんなは撃ち漏らしをお願い」
あまり声を張る事をしない彼女の指示は小さい。されど、そこは経験を積んだ風紀委員会たち。
慣れた様子で頷きを返している。
彼女たちがこうして銃撃戦をしているのは、主に敵の判断が早かった事と立地が悪かった事が原因だ。
元々の作戦は、敵が人質の奪還に気付かなければ時間を稼いで前後からの挟撃で、もし気取られればその混乱を突いて一気に仕留めるというものであった。
しかし、どうやら潜入した救出隊は随分派手にやっているようで。
モール内では火災報知器のベルと銃撃戦が賑やかに合唱を奏でていた。
とはいえこれ自体にはあまり文句は無かった。ホシノから伝えられた可能性を考えれば、むしろ派手に攪乱しながら迅速に事を運ぶ方が良いとも思えるし、実際想定よりも数段早く敵の殲滅は完了したようであるし。
では何がマズかったのかと言えば、先にも述べたようにテロリストの判断の速さであろう。
流石にマフィア組織ということもあって荒事にも慣れているのか、
そこに交渉のために出向いていたリーダーまで付いているとなればどうなるかは────まあ、この現場を見てもらえれば分かるだろう。
そんな厄介な状況へさらに拍車をかけているのが、ショッピングモールの目の前であるという立地である。
ヒナはホシノの事を自身に比肩する強者であると認識しているが、二人にはいくつか違いがあった。
それは例えば得意な戦闘スタイルであったり射程距離であったりであるが……今回特に重要であったのは、攻撃がもたらす有効力の広さ。
つまり、ホシノはSGによって少数を大火力で落とすのを基本としているのに対し、ヒナはMGによる対多数への面制圧射撃を基本としている点であった。
これが道路などの真っ直ぐ開けた場所であったのなら、いつも通りに最大火力で済ませられたのだが…………残念ながらここはショッピングモールのすぐ近く。
考え無しにトリガーを引けばその被害がどうなるかなど火を見るよりも明らかなわけで。
そんなわけで彼女たちが行っていたのが、友軍と敵の直線状にモールが入らないように少しずつ位置取りを調整するという面倒な作業であった。
とはいえそれもたった今完了した。
さらにはモール内のテロリストの鎮圧も完了したという事で、余力を残す必要性もそこまで大きなものではなくなった。
となれば────
「ターゲットは確認した…………逃がさない」
為すべき事は決まり切っている。全力全開での制圧射撃、それだけだ。
強く押し込まれた引き金と共に、銃弾が世界を蹂躙する。
慣れ親しんだ得物に籠められた神秘の量は計り知れず、鮮やかな
SGやSRよりも単発火力は低いMGであるはずだというのに一発一発が万物を貫くか如く突き進み、射線上にある何もかもを撃ち抜き、破壊し、そして地に伏せさせる。
殲滅、鏖殺、蹂躙、どんな言葉でも物足りない。
そんな。
ただ只管に、平等に不公平な暴虐の嵐がテロリスト達を呑み込み、そして全てを平らげた。
「撃ち漏らし、いなくないですか? 委員長」
「……少しやり過ぎてしまったみたいね」
場の全てを圧倒するような光景によって生まれた沈黙は、そんなどこか気の抜けるような会話が交わされるまで続いたのだった。
と、ちょうど場の緊張感が霧散したタイミングで。ヒナたちの左手に位置しているモールの正面出入口から、2~30人ほどで構成された集団が出てきた。
先頭に立つのは、銀糸の髪をツインテールにまとめた見慣れた少女と、膝まで届くような柔らかな桃色の髪の少女。少し後ろには黒縁の眼鏡と下げた大きなバッグが印象的な少女も。
その背後では、見慣れた制服を纏った少女たちが人質にされていたのであろう人々を誘導している。何人かは担架────おそらくモール内の備品を拝借したのであろう────で運ばれているようだが、焦燥の色は浮かんでいないのを見るに、立ち眩みなどの症状があったというところだろうか。
「お、こっちも丁度終わったタイミングだった感じ?」
「みたいだね。さすが委員長」
「お疲れ様です、委員長」
上から順にホシノ、イオリ、チナツの言葉。
少しばかり気を抜きすぎなようにも聞こえるが、現場は戦闘の推移が一方的であったのを読み取るには十分すぎる惨状であり、さらには張り詰めた空気も霧散しつつあるとなればこうなってしまうのも仕方ないだろう。
事実、僅かに口角を上げながらヒナも答えようとしているのだし。
「ええ。そちらも問題なく終わったようね。良かっ────────」
しかし。
その続きが彼女の口から紡がれることは無かった。
むくりと、倒れ伏したテロリストの陰から立ち上がる影。ボスと呼ばれていた人物だ。
震える手元には、しかし確かな力を籠めて狙撃銃が握られている。その足元には、バラバラに割れたガラスケースの残骸と、装填できなかったのであろういくつかのライフル弾が。
そしてその銃口が向けられているのは、桃色の少女。
────なぜ? 仕留め損なっていた? なぜ狙撃銃を? なぜ彼女に? 一番近いから?
熱を伴って回る思考。中央を残して大きく歪む視界。呼吸さえ忘れてしまうようで。
配置の関係で、それに気付いているのは自分だけ。
けれども間に合わない。敵は既に引き金に指を掛けている。今から銃身を上げて照準を合わせようと、こちらが撃つ頃には向こうの行動は終わっている。
「避けてっ! ホシノっっ!!」
この場で取り出すという事は、アレが敵の切り札だろう。すなわち、掠り傷でさえ危険なはずで。
今から回避したところで間に合わない。
そんな事は分かった上で、それでも悪足掻きをした彼女の視界の先。
理性の判断を待たずして反射的に横っ飛びに回避をする彼女と、そのさらに奥で遂に引き金は引かれ────
────透けるように光を反射するナニカが揺らめくと共に、暴発した狙撃銃が大きく音を立てて破裂した。
「「「「ッ!?」」」」
場に驚愕が満ちる。
ヒナは予想だにしなかったまさかの展開に。
スープリ・ファミリー首領は突然走った右腕の激痛に。
イオリたちは、ヒナの形相と背後で突然鳴った暴音に。
そしてホシノは。視界の端、メブキモール屋上にていつか見た黒色が翻されるのを捉えた気がして。
直接的か間接的か、物理的か精神的かの違いはあれど、全員が等しく衝撃に固まる数瞬。
呼吸の音さえ薄れ、衣擦れであろうと耳朶を叩くような停滞。
真っ先にそれを打ち破ったのは、場で二番目に小さな少女であった。
ゲヘナに訪れてから何度も……それこそつい十分前にも行われたように、細い足が大地を掴むように踏み込まれ。
桃色の軌跡を残してフッと姿が掻き消えたかと思えば、次の瞬間には敵の眼前から地を踏む音が鳴り。
そして。彼女以外の全ての認識を置き去りにして、絞られる引き金と共に散弾が放たれる。
「ガッ────!?」
何が起きたのかすら理解できずにスープリ・ファミリーのリーダーが崩れ落ちるも、それを為した彼女に喜びや達成感の色は無かった。
どころか、焦燥をはっきりと滲ませながらモールへ戻るように駆け出すほどで。
もし近くに先生がいたのなら話は変わったのかもしれないが、生憎今回の彼は後方から全体指揮を行っていた。異変を察知して駆けて来てこそいるものの、彼女のように
よって、残されたヒナたちにできたのは、ただ茫然と起きた出来事を受け止めることぐらいであったのだった。
「ちょっとちょっと!? あれバレたんじゃないんですか!?」
「だから今急いでんだよ! さっさとずらかるぞ!!」
「もっと静かに終わる予定でしたよね!? だから私も付いて来たっていうのに!」
「つってもあれは俺が動かねーとマズかったろ! てかおめーが勝手に付いて来たんだろーがよっ!!」
「そうですけど! …………ってもう向かってきてますよ!?」
「分ぁーってるよ! 行くぞ繋ぎ手!!」
「あーもう……何でこうなるんですかね!」
乱暴に音を立てながら、切れ切れになった息も乱れた髪も気にせずに階段を駆け上がる。
早く、疾く。まだ足りない。もっとだ。
もっと、もっと迅く────
視線の先に見えた扉を体当たりのように押し開け、勢いのままにそこへと着地する。
だが。心のどこかで予感していたように、そこには何も居ない。何の痕跡も残っていない。
「見間違い……?」
思わず漏れた小さな呟き。
しかし、心が“そんなわけが無い”と叫んでいる。きっとあれは彼だった、と。
彼は
見えてる事柄だけで言えば、それこそ“そんなわけが無い”だろう。敵だと断じてしまう方が容易い。
けれども、あの日。黒服の攻撃から護られたあの瞬間。
壊れ物を扱うかのように優しく、しかししっかりと自分を抱き抱えた彼からは害意なんて欠片も感じられなかった。
だから、今になって
復讐心は、重くて粘っこくて、ずっと抱えているには余りあるモノだから。そうでないほうがずっと良いから。
そんな心が生んだ執念は、確かな意味を持って形となった。
屋上に置かれた給水タンク。その上部へ上るための梯子に絡まるように残された、神秘的な糸の切れ端として。
掴めば逃げるような、握れば壊れるような脆い手がかり。
しかし同時に、ちゃんとそこにあった物。
その事実を静かに噛みしめながら、少女は疑念を深めるのだった。
────────
動乱からは離れ、場所は移り
事務仕事を一区切りつける段階まで進めたリオは、机へと下げていた視線を上向けた。
「…………なんで私、こんな事してるのかしら」
我に返ったかのように呟かれる言葉。
とはいえその疑問はそう的外れなものではない。というより、むしろ正鵠を射ていると言えるだろう。
なにせ、彼女が今行っているのはゲヘナ学園の事務仕事なのだ。
それも、彼女がこの地を訪れる原因となったコト────すなわちカイザーコーポレーションに関わるアレコレ────とは何ら関係の無い、部活動の会計報告書の精査・整理という仕事を。
逆になぜ今まで違和感に思わなかったんだと言われるぐらいであろう。
だが忘れてはならないのは、元とはいえ彼女はミレニアムサイエンススクールの生徒会長にまで上り詰めた傑物であるという事。
当然ながらその程度の疑問を今の今まで抱かなかったワケではないし、この仕事を任せてきた
故に、先の呟きはどちらかと言えばノリツッコミと表現する方が正しかったりする。
ちなみにだが、質問に対する答えは『うん? 今はカイザーの調査結果を待つ段階なんだからできる事も無いだろう? まさか自分の足で捜査をするというわけでもあるまいし。それなら別の仕事を任せても構わんだろう』などという、一見正しいように見えて死ぬほど厚かましいものであったらしい。
ある程度────主に前半部分────は正当性があるのが何とも面倒だ。
もちろん、本来予定していた業務とはかけ離れた仕事を回されて思う所が無いわけではない。
とはいえ、マコトが言ったように現時点でリオにできる事といえば精々が持ち込んだ小型AMASでパトロール紛いを行うぐらいなわけで。土地勘は無く、更には不良生徒たちに攻撃されるリスクもあると考えれば……まあ、予想できるリターンも釣り合わない。
かといって周りが日々の業務に追われている中一人手持ち無沙汰に佇むのも気まずいし、心苦しくもなる。
特に、最近の彼女は周囲へ目を向けるという事であったりを意識している真っ最中。おそらくではあるが、その内何か手伝えることは無いか尋ねに行っただろうというのは自分でも予測できる。
できるのだが……
(あそこまで堂々と言い切れるものなのかしら……それとも、単に私が堅苦しいだけなの?)
ああも悪気も躊躇いもなく仕事を回されれば、なんというか、何とも言えない気持ちになるわけで。
いよいよ彼女の胸中には全くの頓珍漢な疑問さえ浮かび始めていた。
止めてあげてほしい。
なにせ、元が堅物という概念が服を着たかのようなリオなのだ。おそらくはあのネルでさえ気まずげに表情を歪めながら『お、おう。分かったから、一旦休もう。な? 疲れてんだよ。話は聞いてやるから、な?』と背中をさする事だろう。
そんなことを思いながらも、任されたからにはとしっかりと業務を熟した彼女は実に真面目と言える。
(ふう。まあ、数字を扱う内容だったのは良かったわね。慣れているし。それに、
なんて思いながら軽く伸びをした彼女の視線の先には、イブキと一緒におままごとをするマコトの姿があった。
甘えるイブキへ業務時間中だというのに、こう、でろんでろんという風に頬を緩める彼女は実に不真面目と言える。
ブチリ、と何かが切れる音が鳴った気がした。
もしかしたらそれはリオの外側でなく内側……具体的には脳内の血管だとか堪忍袋の緒だとかが立てた音かもしれないが。
ゆらり、と立ち上がる彼女の姿は幽鬼のよう。久方ぶりに抱えた感情のせいで、鉄火場でもないのにその姿からは凄まじい気迫が溢れていた。
その様は思わず他の万魔殿メンバーがビクッと肩を震わせながら見るほどであった。
「えっ何? 何かあったの?」
「分かんない……でもここから先は目を離さない方が良いと思う! 私の書記魂がそう言ってる!」
「はぁ…………なんとなくこうなる気はしてましたが」
しかし残念かな、これが万魔殿の日常であるが故に彼女の怒りは共感されないのだ。
……ただ一名の常識的な苦労人を除いて。
「マコト……貴女には何かするべきことがあるのじゃないかしら。それこそ、周りの仕事をしている部下を見たら思い出せるような事が」
飽くまでも冷静に、そして努めて冷静にマコトへと話しかける。
ここで単純に激昂しないのは────もちろん、リオが大人びているからというのもあるが────指導者としての彼女をある程度評価しているからである。
昨日からの短い付き合いではあるが、万魔殿において彼女が慕われていることは簡単に読み解けた。
もはや身勝手とまで言える彼女の計画に対し付き従っているのだから、それもかなりのレベルで求心力を集めていると断言できるだろう、と。
加えて、組織運営を行うトップとしての働きぶりも悪くない。
部下へと仕事を差配する手腕については、むしろ自分の方が学ばせてもらいたいと思うほどの非凡な才だと言える。
総評として、見通しの甘い部分や突飛すぎる発想などもあるが……素質としては十分。自分とは全く別種のリーダーとして、参考にするのも悪くない。
が、流石に
そんな意思を込めた言葉だったのだが、如何せん冷静すぎたのと婉曲な表現になったのが悪かったのだろう。
マコトは頭上にクエスチョンマークを浮かべながら、「はて?」と言わんばかりの表情で答えた。
「……どうした? まさか何か仕事があるというわけでもあるまいし…………一体何を言っているんだ?」
本日二度目の、何かが切れるような音が聞こえた。リオの周囲に漂うオーラは物理的な冷気すら伴いそうだ。
ちなみにイロハは額に手を当てて深々とため息をついている。
「は?」
「いや、本当にどうしたんだ? 具合が悪いのなら休んでもらっていいぞ? シャーレからの協力者に倒れでもされたら事だからな」
「……本気で言ってるのかしら」
心の底から疑問に思っていそうな様子に、怒りよりも呆れの色が表に出るリオ。
マコトがここまでの対応を取るというのは中々の破格であり、リオの事をある程度認めている事の証明なのだが…………どやらそれは伝わらなかったらしい。
ちなみに、その様子を仲裁に入んないとダメかな~、でもめんどくさいな~、と胃を痛めながら眺めていたイロハはホッと一息ついた。
噴火はしなかったようだし、どうやらまだしばらく粘れそうだ。
「……マコト、一つ聞きたいのだけれど。貴女、リーダーとしての仕事は何だと思ってるの?」
「仕事を部下に割り振る事じゃないのか? 別にそれなら今日は終わっているぞ?」
確かにそうだ。確かにそれは組織のトップとして重要だが。
「事業計画の設計は?」
「マコトタワー建設計画の事か? たしかこの辺りに……あったあった。これだろう?」
「…………いえ、大枠の展望ではなくもっと詳細な計画の事なのだけれど」
「……?」
首を傾げるマコト。
ちなみにそのあたりの修正などはよくイロハがやらされている。
「ええと……じゃあ、資金調達や管理は?」
「……? なんだそれは?」
再び首を傾げるマコト。
ちなみにその辺りの調整もそこそこの頻度でイロハがやらされている。
「…………企業との契約やその会議のスケジューリングは?」
「……?」
再び首を(ry
ちなみに契約はともかくスケジューリングは定期的にイロハが行っている。
「………………下から上がってくる報告書の最終チェックは?」
「……?」
再び(ry
報告書を選別し、「マコト先輩、これだけはご自分でも一度チェックしておいてください」と手渡ししているのはもちろんだがイロハである。
自分の苦労について理解してくれそうな人物が現れてイロハは少し泣きそうになった。
「あのね、マコト────」
「リオお姉ちゃん、怒ってるの? イブキがマコト先輩と遊びたいって言ったから?」
流石にこれは色々よろしくないということで、苦言を溢しかけたリオ。しかし、そんな彼女に話しかける小さな影が。
つい先ほどまでマコトと遊んでいたイブキである。
眉をキュッと寄せ、今にも雫が落ちそうな瞳をウルウルさせながら見上げるあどけない幼女。胸元にはおままごとで使っていた熊のぬいぐるみが抱かれている。
幼いながらに好きな先輩が自分のせいで怒られそうになっていると察したからか、その表情には悲しさが溢れており。
思わずリオが『グッ……』とうめき声を漏らすほどその姿にはインパクトがあった。
「いえ……まぁ、そんな怒っているというわけではないのよ。ただ、生徒会長というのは色々と仕事があるって教えたかったの」
「ほんと? イブキ、何か悪いことしちゃったんじゃ────」
「それはないわ。うん、それだけはないわ」
若干食い気味にイブキの言葉を否定するリオ。
なにせ、小さな少女が痛々しく沈んだ様子で自分を責める、というのは彼女にとって
「イブキちゃんは何も悪くないし、イブキちゃんと遊ぶのもたまに……時々…………節度を守ってさえいれば問題無い。うん、そうね。仕事さえできていれば問題ないわね」
冷静さを失ったまま、矢継ぎ早に口を開くリオ。なんとなく見覚えのある様子である。具体的には、どこかのセミナーの会計が大運動会の障害物競走で見せていたような感じ。
果たして、そんな彼女は段々と判定が甘くなっていることに気付いているのだろうか。
「ほんとのほんとに? イブキ、マコト先輩ともっと遊んでもいいの!?」
「────、ええ。大丈夫よ」
…………気付いていなさそうだ。
「やったー! じゃあじゃあ、リオお姉ちゃんも一緒に遊ぼ!! マコト先輩もいいよね!」
「うむ。イブキが良いと思うのならそれが一番だ!!」
グイグイと自分の手を引くイブキに流されながら、リオは後で落ち着いてから色々とマコトに伝えようと決意するのだった。
ちなみに、生徒会長の業務について教えられたマコトは『そんなに色々とあるのか!?』と目を見開いたらしいが…………それはまあ余談であろう。