第二次特別試験が行われた日から一夜明けた朝、補習授業部の4人は合宿所のシャワー室前の更衣室に集められていた。先生からいつの間にかモモトークで送られてきていた指示である。
「先生……遅いですね…………」
ポツリと、ヒフミが呟きを零した。
とはいえ、現在は通常なら既に朝食を摂り終え、なんなら“さあ勉強を始めようか”となっている頃合いである。そうおかしくない彼女の疑問に返ってくるのは、無言ながらも同意を示していると分かるみんなの硬い雰囲気だけであった。
「にしても、先生は私たちを更衣室なんかに集めてナニをしようとしているんでしょうね?」
と、そんな空気を切り換えるためだろうか。
いつも通りの調子で、“ナニ”の部分を強調するようにハナコが言葉を紡いだ。先までは何か心当たりがあるように顎に手を当てていたというのに、今は意味深な微笑を浮かべている様からはある種の貫禄が醸し出されている。
おそらく……いや確実に必要ない貫禄だが。
「何って……それが分かんないから待ってるんじゃないの?」
そんな彼女が提唱した疑問に、傍らのコハルが合いの手を入れる。
ハナコがこの雰囲気の時は大抵上手くやりこめられて来ているというのに返事をするのは、迂闊なのか純粋なのか。何はともあれ、こうなったからにはいつも通りの補習授業部の光景が繰り広げられる事になるのだろう。
「コハルちゃん、本当に分からないんですか?」
「……はぁ?」
「だって、ここは更衣室なんですよ? 服を脱ぐことが合法的に許されている空間なんです。そして、汗をかくような激しい運動をしても汚れを洗い流せるシャワー室が、すぐそこにあるんですよ?」
「な、何言おうとしてるの!? エッチなのはダメなんだからね!? 死刑よ、死刑!!」
案の定、瞳に妖しい光を浮かべたハナコがにじり寄るように語る言葉に顔を真っ赤にするコハル。
あくまでも事実*1を並べているハナコのソレから
まあ、世の中には『言わぬが花』という言葉もある。思っていても外に出さない方がいい事というのは、案外身近に溢れているものだ。
その言葉の“花”を名前に持つハナコは言ってしまう事の方が多いのだが。
「……ヒフミ、ハナコが言っているのはどういう事なんだ? 普通のことしか言ってないような気がするんだけど」
「あはは……アズサちゃんはそのままでいいと思いますよ?」
そうしていると、やはり二人の会話に付いていけなかった純粋なアズサが疑問を零した。
まさしくいつも通りの日常風景である。
と、そうしていると出入り口からコンコンコン、とノック音が響いた。
「みんな、私だけど。入っても大丈夫かな」
同時に聞こえてきたのは、扉を挟んだことで少しくぐもった先生の声。大して困ることも無いため、代表してヒフミが肯定の言葉を返す。
「待ったよね。遅れてごめん」
いつも通りの調子で謝罪しつつ戸を開く先生の姿。
しかし、その姿にはいつも通りではない点が存在した。
「先生、その台車は?」
なんてことのないようにハナコが口火を切るが、しかしその表情は僅かに硬くなっている。とはいえそれは彼女だけでなく、その他の面々も似たような表情になっており、誰もが『何かあるな』と勘付いていた。
そう、先生は一つ、とても大きな段ボール箱を台車で押しながら更衣室へと入ってきたのだ。
そんなハナコの疑問にそう時間を置かず『ああ、これはね────』と返そうとした先生であったが、その言葉が言い切られる前に異変が起こる。
段ボール箱の内側から、ダンッ、ダンッ、と叩くような音が鳴ったのだ。
それはそう広くない筈の室内で、やけに、そしていやに目立つように響き渡った。
数瞬だけ、シンとした静寂が場を満たす。
誰もが、何か反応を示すことさえ忘れて黙り込んだのだ。
「ヒッ……」
擦れたような音が、コハルの喉から漏れ出る。
朝早くとは言わずとも、まだまだ日が中天に昇るには早いような時間帯。
天井の蛍光灯のおかげで見慣れたはずの室内はとても明るい。
近くには合宿の日々を通じて仲を深めた友人たちもいる。
本来なら安心できる要素しか存在しない。
けれど。
そんないつも通りの光景だからこそ、日常に紛れ込んだ
その上で、困ったように笑みを浮かべる先生は箱を見た状態で動かないのだ。いつも通りの、自分たちに向けるのとそう変わらない種類の笑みを浮かべたままで。
異質であった。
こんなおかしな状況だというのにいつも通りに振る舞っているのだ。
身に馴染んだいつも通りの日常に異物が紛れ込んでいるのだ。
元々怪談話が得意ではないコハルにとって、その情景は何よりも怖く感ぜられた。
しかし、状況はそんなコハルを置いて進む。
叩くような音の止んだ箱が、ゆっくりと開き始めたのだ。
先生が開いたわけではない。
当然ながら、自分たちの誰かが開いたわけでもない。
だというのに、それは内側からナニカが出ようとしているかのように押し開けられたのだ。
「ヒィッ……いや、なんなのソレ! やだ、やめ────え、誰?」
「自分で提案しておいてなんだが、揺れるし暑いしで最悪な乗り心地だな!」
いよいよ近くなった限界にコハルが叫び声をあげるかと思われたその瞬間、遂に箱の内側にいた存在がその姿を晒す。
しかしそれは、彼女が想像していたようなおどろおどろしいナニカではなく、彼女自身と同じぐらいの体躯の生徒であった。
そして同時に、全く見覚えの無い生徒でもあった。
何が飛び出てくるかと身構えていたからこそ、その反動でコハルが誰何するのも当然の話だった。
とはいえ、その答えは箱から出てきた人物が答えるよりも先に聞こえてきたのだが。
「セイアさんっ!?」
「セイアちゃん……無事だったんですね」
ヒフミが驚きを、そしてハナコが安堵と納得を込めてその生徒の名を呼んだのだ。
「まあ、色々とあってね。君たちも元気そうで良かったよ」
薄く微笑むその姿は可憐で、そして何よりも美しかった。
数分ほど経過し、全員が冷静さを取り戻した頃。
改めて、セイアと呼ばれた少女が口火を切った。
「さて、改めて名乗らせてもらおうかな。私は百合園セイア。ティーパーティーの一席、そしてサンクトゥス分派の長を務めているが……まあ、ただの先輩だと思ってくれていいよ。むしろ今回は頼みごとをしに来ているからね、対等に扱ってくれてもいい」
「そ、そんな……」
「相変わらずなようだね、ヒフミ。ハナコは……少し変わったかい?」
「まあ、多少は変わりましたね。ええ」
元々ティーパーティーと関わることの多かったヒフミとハナコが、旧交を温めるようなセイアの言葉に答える。
とはいえ残りの二人は出方を窺っているような状態だ。なんと話しかけるべきか測りかねているのだろう。
それぞれにそれぞれの要因で。
とはいえそのままでいられる訳もなく、二人の方へと視線を向けたセイアが口を開いた。
「君
「…………っ! あ、ああ。私が白洲アズサだ。はじめまして」
「えと、私が下江コハルです。よろしく、お願いします?」
互いにその意図を読み違えず、初めましての挨拶を交わすアズサとコハル。
これで一応の顔合わせは済んだ形だ。
となるとさあ本題へ入ろう、となるかと言えば、そうは話は行かないわけで。
「え、ねえ、どういうことなの? 昨日の話じゃセイアさんって襲撃を受けて行方不明って話じゃなかったの!?」
手っ取り早く答えを教えてくれそうなハナコへと小声で質問をするコハルの姿が、その内心をよく表していた。
まあ、その答えをハナコが持ち合わせているのかと言えば、“おそらくこれが真相だろう”という推論しか無かったのだが。
「すまないね、混乱しているだろう。その辺りも含めて、私の方から全て説明させてもらうよ」
しかしながら、そんなコハルの疑問に答えたのはハナコではなくセイアであった。
そのまま、自身が襲撃された時から今までの話を、アリウス分校に関わる部分も含めて全てを包み隠さずに彼女は語り始める。
「以上が、君たちが事態に巻き込まれることになった理由だ。全ての責は私たちティーパーティーにある。本当に、すまなかった」
昨夜先生に語った事もあってか滑らかな語り口で事情を説明し終えると、静かにセイアは頭を下げた。
元々がティーパーティーの内輪の話であったが故の、謝罪であった。
「……顔を上げてください、セイアちゃん。どちらかと言えば、あなたの立場はただの被害者です。問題があるのはアリウス分校の企みを見抜けなかったミカさんと、補習授業部を立ち上げたナギサさんのはずです」
「…………ハナコ、それなら事前に情報を持っておきながらトリニティに来た私も悪いはずだよ。そもそも私が依頼に応じなければみんなは巻き込まれなかったんだから」
「フフッ、生徒に優しいのは変わりませんね、先生。……そうですね、それを言い始めれば、私だって頑張れば見抜けたはずなんですもんね」
「そ、それはちょっと飛躍しすぎじゃないかな……」
僅かに険悪になりそうな気配は覗きつつも、無事セイアの謝罪を受け取る事にしたハナコ。
他の面々もまた、確認を問われるとそれぞれに了承を返す。
こうして、補習授業部とセイアとの和解はなされたのだった。
「そういえば、セイアさん、最初に頼みごとがあるって仰ってませんでしたっけ……?」
規則は規則という事で三次試験は通過してもらわないとダメだが、できる限りは便宜を図るとの約束もセイアから貰い、これにて一件落着かと思われたその時。
ふと入室時のセイアの言葉を思い出し、ヒフミが疑問を零した。
「ああ、そうだそうだ。実はこれから色々と根回しなんかをしないといけなくてね。そのための拠点としてこの合宿所の部屋を借りたいんだが、構わないかい?」
「それぐらいなら大丈夫ですけど……」
「私の存在はいわばジョーカーのようなものでね。まだ外部に気取られるわけにはいかないんだ。そう考えると、ある程度校舎と近く、なおかつ生活する上でも困らないここはかなり良い立地になるんだ。多少は監視の目もあるけどね」
まあ、そんなわけで許可を貰えて良かったよ。
そう肩をすくめると、最後に改めて感謝と謝罪を告げ、ついでに折り畳まれた段ボール箱と台車を伴ってセイアは部屋から出ていった。
きっとすぐにでも準備を始めるのだろう。
「……なんというか、ミスマッチ感が凄かったわね」
立ち振る舞いからは洗練された優美さが感じられるのに、出ていく際の姿は庶民的なものであった事に、ポツリとコハルがツッコミを漏らした。
というか、あの状態で出ていくのなら入ってくるときも段ボールの中にいる必要はなかったのではないか?
そんな疑問に行き付き、ヒフミやハナコの顔には自然と苦笑が浮かべられるのだった。
────────
時計の短針が真上から45度と少し進み、時刻はおおよそ昼過ぎあたり。
麗らかな日差しが窓ガラス越しに暖かく差し込む一室で、アズサはセイアと向かい合っていた。
「……まぁ、そろそろ来る頃かとは思っていたよ」
ここは補習授業部が特別試験対策のために使用している合宿所の一室、今朝がたセイアが使いたいと許可を取った部屋である。
自分たちが4人で使っているのとそう変わらない間取りの室内には、しかしトリニティの大地図や文字がびっしりと書き込まれたカレンダー、それに膨大な数のメモ書きがそこかしこに鎮座しており、むしろ手狭なようにさえ感じられた。
今は一時休憩ということで昼食後の紅茶を楽しんでいたのか、丸テーブルの上にはティーセットと茶請けとしてクッキーが並んでいる。
ただしカップが一つではなく二つ並んでいるあたり、本当に自分の来訪を予期していたのだろう。
「…………」
「とりあえず掛けたまえよ。短時間で済む話じゃないし……それに、昼休みはまだしばらくあるんだろう?」
何と切り出すべきか掴めず黙り込む自分に、しかし柔らかな調子でセイアは語りかける。
「……ありがとう」
いつかと同じように、まるでこれから起こり得る事象を全て見透かしているかのような振る舞い。
しかしかつてと異なり、対面の夕焼けのような金の瞳にはたしかな光が宿っていた。
「セイアは……アリウス分校を、潰す、のか?」
数口ほどティーカップを傾け、ダージリンの爽やかな渋みを味わった後。
この様子のセイアに誤魔化しても意味がないだろうという事で、アズサは本題を切り出した。
しかしながら、その語調は酷く吃ってしまっていた。極度の緊張と不安のせいである。
「……」
ちょうどセイアが紅茶に口を付けたタイミングだったからだろう。
少しだけ、室内を沈黙が満たした。
一瞬が無限に引き延ばされたかのような静寂。
焦燥感が、アズサの身を焼くかのように襲い掛かる。
早く、早く答えてくれ、と。
かつて自分を拾ってくれたあの人たちをどうするのか教えてくれ、と。
けれども同時に、身も凍えるかの如き恐怖もその身へと襲い掛かる。
どうか、何も言わないでくれ、と。
おそらく、というかまず間違いなく、セイアはアリウス分校を潰すのだろう。そもそも自分を殺そうとした相手だというのもあるし、アリウス分校は目に見えたリスクでもある。
残しておく意味も、価値もない。
歪んでいようと、自分を拾って、そして護ってくれた大恩あるあの人たちも、きっと。
だから、何も言わないでくれ、と。
(既に一度裏切ったくせに……なんて無様なんだ、私は)
ズキリと、自己嫌悪が胸を裂く。
アリウススクワッドのみんなは大事だ。
自分を拾ってくれたのもあるし、何よりもいつまでも抗い続けていた
補習授業部のみんなは大事だ。
初めてできた友達だというのもあるし、何よりも世間知らずで歪な自分を何も言わずに受け入れてくれたのだ。何もかも投げ出してこのままみんなと居たいと思うぐらいには、この空間が大好きだ。
(でも、どちらかしか選べない。選べないんだ)
でも、どちらかしか選べない。
真っ向から相反する勢力なのだ、当然のことである。
アリウス分校の在り方は間違っていると思う。でも、アリウススクワッドのみんなは家族のように大切だ。
補習授業部の空間はずっと居たいと思うほど心地良い。でも、ふとした瞬間に自分がここに居てもいいのだろうかと思ってしまう。
まだ誰も決定的な一線を踏み越えていないために、少女は悩む。
(いや、そもそも私に選択肢なんてあるのか?)
アリウス分校を選んだところで、既に一度裏切ったという事実は消えようがない。
補習授業部を選んだところで、
ぐるぐると、思考はとめどなく巡る。
捻じれて、歪んで、しかし終着点は無く。ただひたすらに、
そんな少女を現実へと引き戻したのは、カタリ、とカップがソーサーに置かれた音と────
「いや? そんな事はしないが」
なんてことのないように返された、セイアの一言であった。
「……え?」
思わず、呆けたような音が喉から漏れる。
自分でも驚いてしまうほどに、間抜けな声だった。
「というか、むしろ救おうと思っているぐらいだしね」
しかし、そんな自分の内心を分かっているのかいないのか。
セイアは更なる爆弾を投げ込んでくる。
「え────どういう────────」
文に成り損なった単語が、内心の纏まらない疑問を吐き出す。
それぐらい、その言葉は衝撃的だった。
「秤アツコ、ベアトリーチェ、そして儀式、と言えば伝わるかい? まあ、私にも色々あってね。君たちの内情は粗方理解しているつもりだ」
「いったい、どうやって……」
「それに関しては話がややこしいし、何より私も完全には理解できていなくてね。できれば置いておいてくれると助かる。……ともかく、君たちがそれ以外の道を奪われた被害者だと私は知っているんだ。なら、助けたいと思ってもおかしくはないだろう?」
いや、それはどうなんだ。
喉元まで疑問が出かかった。
それ以外の道を奪われたと言っても、相手は自分を殺そうとしてきた存在なのだ。それを赦すどころか手を差し伸べようとするなど、中々に異常な事だ。
しかし同時に、目の前の人物は常識的な尺度で測れるような存在ではなく、むしろそういった範囲から逸脱した力を持っている人物でもある。
きっと彼女にしか視えないものがあり、彼女にしか分からない経験があるのだろう。
(……良かった)
少しだけ、安堵に息が漏れる。
何に対する安堵かは自分でも分からなかった。
アリウススクワッドのみんなが救われる可能性が出てきた事か、セイアが本当の意味で味方になってくれそうだという事か……もしくは、自分がどちらかを選ばずに済みそうになった事か。
けれども、現実はそう甘くはない。
何と言うことは無い。続くセイアの言葉で、その事実を思い出す事になっただけだ。
「ただ……いずれは補習授業部の皆には君の正体も含めて話す必要がある。もちろん、君の意思は最大限尊重しようと思っているが」
「…………」
(それはそうか。私がいる時点で、みんなはきっと巻き込まれる)
再び、二者択一の命題が目の前に立ちふさがる。
あるいは、自分の居場所がこの世界のどこからも失われてしまうのではという恐怖が。
「怖いかい?」
「……っ。うん、凄く、怖い」
頭では分かっている。
きっとヒフミたちは自分を拒絶したりしないと。優しい人たちだから。
けど、それが同時に心苦しくもある。
その優しさに付け入っているような気がして。
心の中はぐちゃぐちゃで、頭も痛いぐらいに悲鳴を上げている。
いっその事、みんなに出会わなければ楽だったんじゃ、なんて少しだけ思ってしまうぐらいに。
いっその事、何も考えずにいられたら楽だったのに、なんて思ってしまうぐらいに。
「突き放すようだけれども。最後の最後は、自分の手で決めなければならないよ? アズサ。……まあ、どの口が言っているんだって話だけれど。それでも、何かの言いなりではなく自分で決めるという事には強い意味があるから」
「……うん」
頭では分かっている。
自分で決めなければと。そうじゃないと、人は容易く腐ってしまうものだから。
そういう人たちを、自分はアリウス分校でたくさん見てきたのだし。
けれどもやはり、どちらを選ぶのかは簡単に答えが出せなかった。
そうしてどれぐらい悩んでいたのか。数秒か、数十秒か、あるいは数分か。
再び、セイアがその口を開いた。
「今、君が何を悩んでいるのか。当ててあげようかい? アリウス分校と補習授業部のどちらを選ぶのか、だろう」
「それは……うん、そう。どちらも大切だから、私は選び切れないでいる」
「だろうね。君はとても強いが、同時にとても優しい子だからね」
セイアが元々視ていた未来では、アズサは全てを捨て去ってアリウススクワッドを討つべく行動していた。
しかしそれは調印式の襲撃が起こった結果選択の余地が消え去ったからであり、さらに言えばそれ自体もどちらかを選んだわけではない。
どちらもを捨て去ろうとしただけだ。
そして、それは
となると、覚悟を決める
「なら……いや、これは“そもそも論”になるんだがね。どちらかだけを選ぶ必要はあるのかい?」
しかしながら、セイアはそんなアズサの苦悩の根本へと疑問を投じる。
すなわち、本当にどちらかしか選べないのか、と。
「……え?」
「人間というのは強欲なものでね。何かを得ると、もっともっとと欲しがってしまうんだ」
「えっと……なんの、話? 繋がりが────」
「まあ話は最後まで聞きたまえ。少し前までの私はそういった在り方は嫌いでね。欲深いのはみっともないという思いもあったし、何よりもどうせ未来など決まっているのにと考えていたからだ」
一度そこで話を切り、口を湿らせるように数口ダージリンティーを含むと、再び対面の彼女は話し始める。
窓の外へ向けられたその瞳には、どこか懐かしむような色が浮かんでいた。
「ただ、ある人に会って少し考えが変わったんだ。その人は何か特殊な力があるわけじゃない……というか、むしろダメな部分を沢山持ってる人だった。でも、彼女は誰よりも等身大に色んな事へ手を伸ばしていたんだ。故郷を救いたい、自分を救ってくれた人の安寧を願いたい、後輩たちの幸せも願いたい。そして、出会ったばかりの私にまで手を差し伸べようとしていた」
「なんというか……その人は随分と良い人なんだな。同時に、とても欲張りだ」
「ははっ。ああ、そうだね。でも、きっとそれが『生きる』という事なんだ」
再び正面から合わせられる瞳。
夕焼けのようなグラデーションを描くその金の瞳は、内側に強い光を湛えていた。
「生きる事は苦難の連続だ。ともすれば、楽園なんて無いんじゃないかと思ってしまうぐらいに。日常の幸せは、前兆も無く、そして容易く崩れ去ってしまう」
「…………」
覚えのある内容に、思わず黙り込んで追憶をしてしまう。
たしかに、生きる事は苦難の連続だった。ともすれば、全ては虚しいと信じてしまうほどには。
でも────
「でも同時に、生きる事は沢山の経験を積み重ねる事でもある。苦難ばかりじゃない。虚しいだけではない。色々な人と出会い、色々な場所を訪れ、色々な事を経験するのが人生だ。そうなれば、自然と新しい望みも生まれてくる」
「…………」
こっちも、覚えのある内容だ。
最初は、ただ『全ては虚しい』と諦めるのが嫌なだけだった。でも、今はもっと色んな望みがある。
(もっと勉強してみたい。海にも行ってみたいし、ドリンクバーで粘って夜更かし、というのにも憧れがある。そして────)
“何よりも、みんなと一緒に居たい”
補習授業部のみんなだけじゃない。アリウススクワッドのみんなとも、こんな風に笑顔で過ごしたい。
「抱えた沢山の夢は叶うかもしれないし、叶わないかもしれない。だから────だからこそ、私たちは生きていくんだ。その結果を大事に抱きしめながら、新しい夢に会うために」
「……っ!」
「それが、その営みこそが生きるという事なんだ。色々な人に会って、色々な場所へ行って、色々な事を経験して。時には失敗して絶望する事もあるだろう。でもそれだけじゃない。それだけで済ませちゃもったいない」
かつて未来に絶望していたとは思えないほど希望に染まりながら、セイアは語る。
その夕焼けみたいな微笑みはとても優しくて、そしてとても眩しかった。
「世界にはたくさんの事がある。どうにもならない事はあるし、悪い人間だっている。でも、それだけじゃない。頑張れば解決できる事、力を合わせれば達成できる事、信頼に応えてくれる良い人間。たくさんいるし、たくさんある。そういった事を経験して、あれにこれにと手を伸ばすからこそ、人生なんだ」
「手を、伸ばすから…………」
「きっと
大仰なジェスチャーを入れているわけではない。
特別な話し方をしているわけでもない。
でも、目が離せなかった。
誰かを思い出すようにゆるりと笑うその姿から。
陽光を浴びながら晴れやかに語るその姿から。
どこまでも真っ直ぐに人間を讃えるその姿から。
「欲深い? みっともない? ハッ! 好きに言わせてやれ! 悟った気になったところで虚無感が強まるだけだ! そんな風に諦めるより、あれもこれもと
強い口調で言い切ると、最後に一息ついてからセイアは『君はどう思うんだい?』と尋ねてきた。
……正直、目を灼かれているような感覚はある。あるいは、熱に浮かされているような感覚は。
感情的に過ぎる選択だとも思う。もしくは、短絡的に過ぎるとも。
でも────
「私は……私も、諦めたくない! そんな可能性が無いのだとしても、それでも。それでも!! みんなと────補習授業部と、アリウススクワッドのみんなと一緒に笑い合えるような未来が欲しい!」
「よく言い切った!!」
ガタリと、席から立つようにしながら叫ぶ。
そもそも答えなど最初からできていた。それを諦めようとしていただけで。
(でも、もう目を逸らさない。たとえ全てが虚しいのだとしても、私は諦めない)
胸の内で決意が定まると同時、室内に勢い任せに扉が開かれる音が響く。
「アズサちゃんっ!」
いったい何が、と脳が処理しきる前に、押し倒されるように抱きしめられた。
耳元で聞こえたのは、大事な
視線を左右に向ければ、ハナコとコハルも瞳を潤ませながら自分を見ている。
「え……?」
「すまないね。実は途中から、先生にみんなを呼んでおいてもらったんだ。君の心からの声を、彼女たちにも聞いてもらいたかったんだ」
まあ、途中からは私も熱くなりすぎて余計な事まで口走ってしまったんだが。
少しばかりの苦笑を袖で隠しながら、セイアはそう告げた。
どうやら、私はまんまと乗せられてしまったらしい。これではアリウススクワッドの名折れだ。
「みんな……私を、受け入れてくれるの?」
「何言ってるのよ! 友達なんだから当り前じゃない!!」
「ええ。アズサちゃんが隠していた思いも聞いちゃいましたからね」
「アズサちゃん。私はアリウス分校の事もまだ良く分かってません。……ううん、そもそも平凡な私には一連の事件もちゃんと理解できてるわけじゃありません。でも、私はアズサちゃんと一緒に居たいです!」
気付けば漏れていた、不安に塗れた質問。
けれども、その答えはどこまでも温かくて、そして優しいものだった。
「……うっ、ううっ。みんな、みんな…………」
視界が潤む。
頬を伝う雫が止められない。
喉は勝手に嗚咽を漏らし、腕は震えるままにみんなを抱きしめ返していた。
この日、私は初めて心の底から信じられる友達を得られたのだった。
最後になりましたが、亘理人 さん、taro8497 さん、瑞町せいか さん、EggNИ さん、第四の忠誠 さん、kito1255 さん、ジェームズドック さん、仔大猩々 さん、たーか/lautz さん、サエタ さん、評価付与ありがとうございました!