夕暮れ時、ありふれた高校の教室。
辺りは静寂に満たされている。どちらかと言うならば────穏やか、というよりも密やか……そんな様相だ。きっと、差し込む空の色も影響しているのだろう。
茜より橙と表現するべき光を反射するのは、きっかり40個並べられた机と椅子、それに前側にポツンと置かれた教卓のみ。
不揃いな長さのチョークを並べられた黒板には、隅の辺りに少しだけ白色が残っているだけで何も書かれてはいない。
教室後方の、どちらかと言えばこじんまりとした黒板には隅に落書きが添えられている辺りも含めて、なんとも“らしい”光景だろう。
斜陽を差し込ませるばかりで、夕日はいつまでも沈まない。
窓の外を流れる砂嵐も、どこかへ行くことはなく巡るだけ。
それは、正しく心象風景と呼ぶべきものであった。
進み続ける青年と、止まったままの少女。すれ違うように繋がった二人の心が交わった、そんな景色だと。
その教室の中で、一人少女は席に着いていた。
ぐったりと上半身を机に伸ばして、何となしに外を眺めている。夕日の橙に映える浅葱色の長髪は、窓際最後方の席にゆるりと広がっている。
「や」
不意に、声が響いた。
肉体を捨て去ったからか、少しだけ在りし日の幼さが戻った音。けれども“高音”という言葉が程遠いその色は、間違いなく少女のものではない。
どちらかと言えば、なんて枕詞を付けるまでもなく男性の声だ。
「────え」
振り返った少女が、大きく目を見開く。
白い外套の裾を揺らす青年は、その様子に少しだけ笑みを溢した。思った通りだと言うように得意気に、あるいは、ようやく逢えたと喜ぶように。
くつくつ、と。
「なん────どうし────え、え!? アヤト君!?」
「うん、そうだよ。一応……はじめまして、って言うべきなのかな? ユメ先輩」
わたわたと手を動かしながら乱れた髪を整える姿からは、彼女の心の動きが透けて見えるようで。けれども、そこには負の感情が覗いたりはしていない。
あえて表現するのならば。思わぬサプライズを受けたみたく、少女は少しだけ頬を緩めていた。
「アヤト君、なんだよね……? 本当に」
「まあ、そうだね。……にしても、カシスさんだけじゃなくてあなたも俺をそっちの名前で呼ぶのか」
もしかして、マクガフィンって名前ダサかったのかな…………なんて呟く青年は、やはり等身大のままだ。
等身大のままに、ようやく十全に辿れるようになったpathを通じて逢えた彼女と向き合っている。それが、何よりも雄弁に彼が梔子ユメの求めていた人物であることを告げていた。
「えっと……だって、私を救けてくれたのはアヤト君だし…………それに、私がずっと見てたのは、舞台装置じゃない人間のあなただから」
「────っ」
ポリポリと頬を人差し指でかきながらの言葉に、今度は青年の方が目を見開く。
少女にとっては何というコトのない事実であるそれは、けれども彼にとっては何よりも大きな言葉だったのだ。特に、誰でもない梔子ユメという人物がそれを口にしたという部分が。
「ああ、うん。そっか。そっかぁ……」
「えと、アヤト君?」
けれども、それは彼女にとって自明のコトであるからこそ分からない。それが、どれだけマクガフィンの……薪浪彩土の救いになったのかを。
ずっと刺さっていた棘が抜けたように、かさぶたになっていた傷が癒えたように。今度こそ、青年が心からの笑みを浮かべる。
「ありがとう、ユメ先輩。生きていてくれて」
ほっとしたように紡がれた言葉は、純粋な色。
安堵と、喜びと、感謝と。ようやく、自分がこの世界にいても良かったのだと思えたように青年は笑う。自分自身の生にかけていた呪いが、ようやく晴れたかのように。
「本当に、ありがとう。あなたが生きていてくれただけで、俺は救われたんだ」
「────じゃあ、私からも! あの日、私を護ってくれて……私を救ってくれて、ありがとう!!」
ゆるりと交わされるお礼の言葉は、どこか甘やかな響きを伴って届けられる。きっと、互いが互いを『他で代替する事など考えられない存在』として捉えているからだろう。
彼にとっての“はじまりの君”が梔子ユメであるように、彼女にとっての“きっとある奇跡”とは薪波アヤトなのだ。
けれども、そうであるからこそ。
互いが互いを深く想い合い、そしてpathという深い部分で繋がっているからこそ。その心根は、何よりも鮮烈に相手へと届く。
「……いっちゃうんだね」
「うん」
いくつもの意味が重ねられた問いへの答えは、どこまでも端的な二音。それが、彼の中ではその終着点が確定していることを代わりに告げている。
けれども、ほんの少しだけ不安の色を覗かせながら、青年は返すように問いかけた。
「……やっぱり、あなたは止めるかい?」
僅かにでも今の彼が弱さを見せたのは、それだけ彼女の事を大切に思っているからで、そしてそれだけ彼女の気持ちが伝わっているからだ。
たとえ誰に否定されて引き留められようと、その道が今さら揺らぐことは無い。
だが、それでも“はじまりの君”に否定されれば堪える部分もある。心残りというワケではないが、少しだけ後ろ髪を引かれる思いは生まれるだろう。
そして、その全てを正しく感じ取った少女の答えは。
「……その訊き方は、ズルいよ」
切なげに顔を歪めながらの、不満の言葉であった。
「私には、あなたを止められないよ。だって、全部分かっちゃうんだもん」
「…………」
「あなたのしようとしている事の凄さも、何を思ってあなたがそれをしようとしているのかも、このままじゃ私はずっと眠ったままになっちゃうことも……唯一、元々この世界にいなかった自分なら死んじゃっても問題ないって思ってることにだけは、言いたいことがあるけど」
胸元でギュッと掌を握って、今にも泣きそうな瞳で少女は言う。
私にあなたを止めることなんて……私にあなたの願いを否定することなんて、できるわけがない、と。
それは、青年に『生きていてくれてありがとう』と伝えられても消えなかった少女の罪悪であった。
誰よりも彼の近くにいて、どこよりも彼の遠くにいた、そんな彼女の抱えた罪業であった。
きっと、それは外からの働きかけで癒えることのないもの。どれだけ青年が否定しても消えないもの。
彼女自身が何かを為して、それでようやく赦せるようになるもの。
だから、梔子ユメという少女には絶対に青年を止められないのだ。
救われるだけ救われて、それなのに彼の在り方を歪めてしまったと。そう思っている、彼女には。
「あなたにとって、できる事をしなかった世界は……見え透いた悲劇に手を打たなかった世界は、生き地獄に他ならない。そうでしょ?」
「……うん」
「それは、あなたなりに考えて……その結果として選び取った終着点。そうでしょ?」
「…………うん」
静かに肯定を返す青年の顔に浮かぶのは、はたしてどんな感情なのか。
悔恨か、納得か、罪悪か、あるいは。
きっと、その全てを感じ取れるのは彼女以外にいないのだろう。
「だから、私は止めない。あの子といっしょ。いってらっしゃいって、あなたを送り出すよ」
「ごめん……ううん、ありがとう。本当に、俺は幸せ者だよ」
その言葉に、少しだけ呆れたように頬を緩めて。
そっと、少女は青年を抱きしめた。
「でも────でもね。これだけは、言わせてほしいんだ。あなたが死んじゃったら、私は寂しいよ? あなたに生きていてほしいって、そう思ってるの。この想いだけは、伝えさせて」
「うん。分かってる。あなたの想いは、きっと誰よりも。だから……ごめんね」
「ふふ、大丈夫。謝る必要はないよ。私にも、ちゃんと伝わってるから」
時の流れが曖昧な黄昏の世界で、二人だけの時間は緩やかに流れる。
数分か、数時間か、はたまた。
互いの心まで溶けあってしまいそうな感覚を共有して────そして。
青年は、背を向ける。
それでも、前へと進むのが彼であるからこそ。
「さようなら。いってきます、ユメ先輩」
「いってらっしゃい。ばいばい、アヤト君」
いよいよ全ての
とある少女とは違って涙を流さずに見送った梔子ユメは、一人。
「大丈夫。最期まで、私は一緒にいるからね」
密やかに、そう呟いた。
────────
銃弾が舞う。
互いが互いの思考をほとんど完全に読み合う戦闘は、通常のソレとは一線を画す。常に動線上に銃撃が置かれた状態で両者は戦っていると言えば、多少はその程度が伝わるだろうか。
場所はアトラ・ハシースの箱舟中央、ナラム・シンの玉座に程近い辺り。
砂狼シロコとシロコ*テラーとの戦闘は、時間の経過と反比例するように苛烈さを増しながら推移していた。
「……ぐっ」
「…………」
しかし、その中に少しずつ解れが見え始める。
元々地力で劣っている上に重傷を負った状態のシロコが、追い込まれつつあるのだ。対するシロコ*テラーはまだまだ絶好調、むしろ恐怖の力を引き出してさらにギアを上げているぐらいだ。
戦況が傾くのも、当然のことであろう。
だが、しかし。
その戦闘の中心に、異変が起きる。
「────?」
先にソレに気付いたのは、シロコ*テラーの方であった。
彼女は箱舟の演算能力を利用した空間跳躍を行うことができる。故に、その異変をいち早く察知できたのだろう。
「ん……?」
そして、数秒ほど遅れてシロコも気付く。
もっとも、彼女に関しては、空間に罅が走るという目に見える形にまで異変が進行したからであったが。
しかし、両者がそれに気付く頃には既に遅かった。
何か手を打つよりも先に罅が進行し、その辺りの空間が割れるように砕けたのだ。
「よお」
人一人分ほどの大きさの孔をくぐり、白色の人影が現れる。
響く声は朗々と、立つ姿は晴れやかに。新たなる色彩にまで至ったマクガフィンが、遂に箱舟へと
────────
場所は移り、地上のシャーレオフィス。
苦難を乗り越え、先生たちがいよいよ虚妄のサンクトゥム攻略戦を完遂した時。
まるで運命の悪戯のように、ソレは起きた。
「あれは、シロコ……? いや、二人!? それにマクガフィンも!?」
先生の目の前に、孔のような黒色のナニカが現れる。
奥側に見えるのは、どうしてか二人いるシロコが戦っている姿と、そしていつかのように白色に変わったマクガフィン。
「っ! ちょうどいい! 先生、受け取ってくれ!!」
「ん────!?」
マクガフィンが障害物として展開した神秘の塊と、シロコ*テラーが攪乱のために展開しようとした空間跳躍のゲート。それが同一座標に置かれたことで引き起こされたそのイレギュラーへと一番に反応したのは、マクガフィンであった。
彼はゲートの奥に先生とシャーレの姿を認めると、即座にシロコを投げ飛ばしたのだ。
「ちょっ、マクガフィン!?」
驚く先生にも構わず、白ずくめの青年はシロコ*テラーとの戦闘を継続させる。今の平静を失った彼女では、押さえておかなければシロコを追いかけてシャーレにまで突入しかねなかったからだ。
箱舟内部ならともかく、現段階で地上に二人のシロコが揃ってしまえば何が起きるか分からない。彼が阻もうとするのも、当然のことだろう。
加えて、今の彼は最悪の場合には────本当に“最悪の場合”だが────A-H.A占領戦やPHT決戦が起きずとも構わないと考えていることも大きかった。
後の影響が計り知れないことや、かつて先生としてその全てを見届けたからこそ思うこともあるが……シロコ*テラーたち三人だけならばどうにかできるだけの力を彼は有しているのだ。
アリスとケイがプロトコルATRAHASISに関する全権限を放棄している事実を識ったこともある。生徒たちの安全のためにマクガフィンがそう考えるのも、ある意味当然の帰結と言えた。
それ故彼は最低限の治癒をすませたシロコをシャーレにまで放り投げたのだが、その辺りの事情を先生は何一つとして把握していない。
そもそも、先生にとってみればこの状況は疑問点しか存在しないのだ。
しばらく前からシロコの消息が分かっていない事は把握しているが、それがどうして二人に増えているのか。
第7サンクトゥムにて彼の分体が白に染まりながらベアトリーチェを討ったことは知っているが、どうして本体である彼までもが白色に変わっているのか。
そして、何があって三人は戦っているのか。
一から十まで何もかもが不明な状況は、先生が混乱している間にゲートが口を閉ざし始めたことで終わりを迎えようとする。
そこで、彼が選んだ行動とは。
「せ、先生っ!?」
かなり珍しいリンの驚いた声が響くも、ワープゲートに飛び込んだ彼を止める事はできず。
かくして、運命が収束するように先生はソレを見た。
視界を覆う黒のナニカ。
黒い球体のように宙高くでバリアを展開するナニカ。
白い司祭服らしき物に袖を通した、奇妙な仮面のナニカ。
傷だらけの姿でどこかに佇むシロコ。
緋色の空を海のように漂うナニカ。
先よりも近く、全身を囲む黒のナニカ。
深く潜り込んだその奥側に視えるのは────いつか、アビドス砂漠にて垣間見た光景。
無数の生命維持装置に繋がれたショートヘアの少女。
粉々に砕け散る瞳を模した薄桃色のヘイロー。
生徒名簿に刻まれた『行方不明から74日経過』の文字。
どことも知れぬ寂しい場所で砂に埋もれた、鈍く輝く一枚のカード。
銃痕の刻まれたタブレット状のオーパーツ。
────そして。倒れ伏す
(これは……これ、は)
「そこまでだぜ、先生。それ以上は戻ってこれなくなりかねない」
「────っ、げほっ、ごほっ。今、のは……」
首根っこを引っ張られるように意識が浮上し、止まっていたらしい呼吸を荒い息で再開する先生。
なおも垣間見えた一つの結末に呆然とする彼に、不意に浮遊感が襲う。
「マクガフィン……? ま、待って!」
「いやいや、流石にさっさと帰ってもらわないと困るから。咄嗟にやったからゲートもいつまでこじ開けていられるか分かんねえし」
霞むように前方へと流れる景色の中、先生は必死に手を伸ばす。
垣間見た……その手に掴んだ真実の断片から行き着いた、一つの可能性に。
「そのシロコはっ! 色彩の嚮導者は────」
「────まだ、その時じゃあない。何をどうするのかは先生次第だが、答え合わせにはまだ早いんだ。じゃあな、先生」
どれだけ伸ばせども手は空を切る。
痛みを覚えるほど必死になろうと、殉教者たる青年にも、もう一人のシロコにも、そして色彩の嚮導者たるプレナパテスにも。
最後、放り込まれたゲートを潜る瞬間に先生が見たのは────
「先生。あなたには、生きていてもらわなくちゃならないんだ。この先を、子ども達と一緒に、な」
横顔だけ見返るようにした青年の、どこか不思議な笑みであった。
「マクガフィンっ!!!!!」
叫ぶ声は虚しく、何も起こせずに溶けて消えた。
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シロコが離脱させられ、乱入した先生もまた消えたアトラ・ハシースの箱舟。
けれどもそこに静寂が戻ることは無く、未だ激しい戦闘は繰り広げられ続けていた。
とはいえ、その天秤は傾きつつあったのだが。
そも、シロコ*テラーが色彩から恐怖の力を汲み上げて強くなっているのに対し、今のマクガフィンは新たなる色彩という境地にまで至っているのだ。差が生まれるのも当然だろう。
その上で、今の彼は再誕の日のように『聖人』としてのテクストを完全に発現させており、更には────励起させこそしていないものの────この状態になって新しく得た切り札まで彼は残している。
これで戦いが互角に推移できるわけがなかった。
そして、そうなれば少女に打てる手は限られてくる。すなわち、奇襲攻撃である。
正面戦闘では勝てない相手を倒すための策としては定石のソレであったが、幸いなことに彼女には空間跳躍という奇襲に最適な力があった。
故に、少女は一射撃ごとにワープしながら攻撃をしているのだが。
「上。右。後ろ。んでまた上」
まるで
これまで使っていなかった六角形状の神秘のバリアで銃撃を弾く姿は、周囲に散る火花も相まってどこか幻想的にさえ映った。
しかしながら青年は反撃を行わず、中心で佇むように立つばかりである。余裕の表れかは分からぬが、そこにこそ付け入る隙があると判断すると、ようやく戻ってきた理性で以てシロコ*テラーは伏せておいた技を一つ解禁した。
すなわち。
「食らえ」
「────っ!?」
撃ち放った弾丸を着弾前に背後へとワープさせることで行う奇襲という、これ以上ないほどの初見殺しである。
見事に左胸の辺りを撃ち抜かれた白ずくめの像は、驚愕を示すよう固まって────
「ま、こんなもんかな」
「ん────っ!?」
直後、ハラリと解けるように全身を糸状に変化させ、少女を拘束した。
「残像だ……ってわけじゃないが。そいつは分身だったってわけで、中々面白いだろ? 魂を乗せてない分マニュアル操作が必要な……ぶっちゃけほぼ産廃な小技ではあるんだが、かわりにこんな奇襲もできるんだ」
さてさて、いつから入れ替わってたでしょーか、なんて戯けながらマクガフィンはシロコ*テラーに近寄ると。ゆっくりと、その意識を奪い去った。
続けて、流し込むようにその神秘を手繰り、自らの恐怖の力で壊れつつあった少女の肉体を青年は癒す。
「……君が何で俺を憎んでたのかは、だいたい理解したよ。ごめんな。でも大丈夫、少しかもしれないけど、君にも救いを残せると思うから」
姫抱きの形で少女を支える姿から溢れ出るのは、これ以上ないほどの慈しみ。
親が子に向けるような温かさを籠めて、新たなる色彩にまで至った青年は言葉を贈る。
「だから────今は少しだけ、眠っておきな。悪夢じゃない、いつかの幸せな日々を思い出して」
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「みんな、忙しいのにごめん」
場所はシャーレオフィスの一室。
その場で、ひっそりと会議は始まった。
出席者は、七神リンに砂狼シロコ、小鳥遊ホシノ、調月リオに羽沼マコト、そして百合園セイアと、錠前サオリ。とある青年に関する真実が共有された面々は、偶然か必然か学園首脳陣といった形で集められていた。
大半が通信越しの出席ではあるが、各々事前に共有された情報から状況を把握しているのだろう。その表情に緩みが見える人物は、どこにもいなかった。
「まず、現状の整理からしよう」
その面々を一度見渡すと、改めて先生は現状を振り返る。
各地に顕現した虚妄のサンクトゥムは、無事に攻略が完了したこと。
しかし、再度キヴォトス各地に同じ反応が現れたこと。
その元凶である『アトラ・ハシースの箱舟』が、上空75,000メートルの地点に存在していること。
少し前にキヴォトスへと帰還した砂狼シロコとはまた別の『シロコ』と色彩の嚮導者が、箱舟にて待ち構えていること。
そして────既にマクガフィンは、その内部にまで侵入していること。
「まず、ここまでが確定している情報。そして、ここからは推測になるんだけど」
そう前置きして、戻ってきたシロコから聞いた話や自分自身で見た事柄から導き出した“一つの可能性”を、彼は語り始めた。
まず、あのもう一人のシロコは別世界の『砂狼シロコ』であること。
そして、プレナパテスもまた別世界の先生自身であること。
経緯は不明だが彼らは色彩に取り込まれており、その結果この世界へと攻撃をしかけてきていること。
そして────おそらくだが、マクガフィンは既に彼らの攻略に乗り出していること。
そこまでを語り終えて、一呼吸挟むことで言葉を切って。
先生は、この会議の核心を口にした。
「これらを踏まえて、私は君たちの意見を聞きたいんだ」
すなわち、アトラ・ハシースの箱舟へと反攻作戦を行うか否か。
これからを考える上で最重要ポイントであるそれを、先生は問い掛けた。
「…………」
じっとりと、纏わりつくように重い沈黙が満ちる。
時計の秒針と通信特有の微かなノイズが小さく目立つその中で、数秒ほど。
最初に口を開いたのは、調月リオであった。
「……まずは、それぞれのメリットとデメリットを確認するべきではないかしら」
「メリットとデメリット、か」
「ええ」
マコトの呟きに答えると、リオは落ち着いた様子でそれを整理する。
「まず、反攻作戦を行わない場合。私たちはマクガフィンが味方である事を知っているから、箱舟の攻略を彼に任せて地上の対処に専念できる。ただ、彼一人で攻略が可能なのか、という点については不透明でしょうね」
「正直……カシスから聞いた話や第7サンクトゥムで見た姿を考えれば、あの人ならば何とかしてしまいそうな気もするが」
「……まあ、それは否定できないわね。事実、あんな不条理な変数をまともに考えるべきじゃないっていうのは、私も少し感じているのだし」
世界の存亡をマクガフィン一人に託すことになる、というデメリットに対するサオリの言葉に、少し嫌そうに表情を歪めながらもリオは同意を返す。
なんだかんだ合理を重んじる性質の残っている彼女としては、意志の力だけで自身の死であったりを覆し続けている青年は考えるだけで頭が痛くなるような存在なのだろう。もっとも、そこにはその自己犠牲的な在り方に対する感情も多分に含まれているのだろうが。
「話を戻しましょう。次に反攻作戦を行う場合だけれど……こちらに関しては単純ね。彼一人に箱舟の攻略を任せるよりもキヴォトス存続の確実性は上がるけれど、かわりに参加するメンバーの安全は一切保証できない。…………いえ、ここで言葉を濁すべきではないわね。概算だけれど、参加した生徒が生きて帰ってこれる可能性は30%を下回っているわ」
「そんなになのかい?」
「ええ。アトラ・ハシースの箱舟は、それだけの危険性を有しているの。不幸中の幸いは、その正統な権利者である『名もなき神々の王女』が起動させているわけではないという点でしょうけど……あの多次元バリアを展開できる程度には扱えている時点で、気休め程度でしかないわね」
今度はセイアから上がった問いに返すと、リオは『シロコの奪還が果たせている現状、一度考えるべきでしょうね』と締めくくった。
より具体化した命題は、どちらにも裏目があることを明白にしながら一同に突き付けられる。そうして、再び室内に沈黙の帳が下りるかと思われた……その時。
長く沈黙を貫いていた少女が、口を開いた。
「先生は、どうしたいの?」
「ホシノ……?」
桃色の髪をポニーテールに纏め、普段とは違う鋭い雰囲気を身に纏う少女。
この中で最も件の青年と深い関係を持ち、そして深い感情を向けている小鳥遊ホシノである。
「リオちゃんが整理してくれたように、今回はどっちを選んでも裏目がある。なら、自分の想いに嘘は吐くべきじゃない……でしょ? ちなみに私は今すぐにでも乗り込みたいぐらいには行きたいけど」
言葉とは裏腹に彼女から焦燥感が漏れ出ていないのは、成長の表れなのか、それとも解き放つその瞬間のために溜め込んでいるのか。
ともかく、少女の言は一つの真理を突いているのも事実だ。先生は、少しだけ躊躇いがちにしながらもその内心を口にした。
「私は……ううん、私も、箱舟に乗り込みたいかな。彼を引き留めたいっていうのもあるし、もう一人のシロコやプレナパテスとも話がしたい。でも…………」
「なら、決まりじゃないかな。シロコは戻ってきたが、結局彼は箱舟にいるんだし。それに、箱舟をどうにかする必要があるのも事実だろう?」
その内心を吐露しながらも躊躇う先生に、今度は割り込むようにセイアが語る。茶目っ気を覗かせるように肩をすくめる姿からは、けれども真剣さがありありと滲み出ていた。
そして、想いを同じくするのは彼女だけでなく。反対の言葉が一向に出てこない事からも、この場の全員が箱舟に乗り込むべきだと考えているのが表れていた。
「……はぁ。なんとなく予想していたけれど、やはりこうなったわね」
「おや? ミレニアムの
「…………マコト。あなた、分かって言ってるでしょう。昔ならともかく、今の私は一人の犠牲で世界が救えるとしても他の手は模索し続けるべきだと考えているのよ? こんなもの認められるワケないじゃない」
「キキキッ、それでこそだな!」
「こうなると、乗り込む人員の選定も考えなければな」
「君のところは天使派の子たちがいるからね。おそらく苦労するだろうが、まあ、頑張りたまえ」
「……そういうセイアも、率先して向かおうとする側なんじゃないのか?」
「おや、これは一本取られてしまったね。とはいえ、やられっぱなしは性に合わないんだ。仕方ないだろう?」
「さっき言った通り、おじさんは絶対にあの人のところにまで行くつもりだけど……シロコちゃんはどうする?」
「ん、私も箱舟に行くつもり。あの私に言いたい事もあるし、負けたままじゃ終われない」
「そっかそっか。こうなると、ノノミちゃんたちも来そうかなぁ……?」
「多分? 全部話したら、きっと来ようとすると思う」
ガヤガヤと、それぞれに方針を定めた少女たちが言葉を交わす。
その様子からは躊躇いだとか悲壮感だとかは欠片も見出せず、それが何よりも雄弁に彼女たちの本心を告げていた。
そもそも、どれだけ大人びていても彼女らは高校生。セイアやシロコが口にしたように、一方的にやられて黙ってなどいられないのだ。
それが恩であろうと、仇であろうと。
「みんな、ありがとう」
万感の思いを胸に、先生は少女らへと頭を下げる。
僅かにその瞳が水気を帯びているのは、きっと勘違いでもなんでもない。そして、それ故に彼は決意を改めるのだ。
(これが君のやってきたことなんだ、マクガフィン。だから、どうか────)
斯くして世界は流れ、舞台を地上から75,000メートルの高空にまで移す。
一つの幕引きは、きっとすぐそこに見えている。
最後になりましたが、megane/zero さん、七哥 さん、評価付与ありがとうございました