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今朝降りやんだ雨が地面に染み込んで、土と草の匂いが鼻をつく。
ところどころが割れたアスファルトの坂をのぼり切ると、遠くには海の上で眩しく輝く太陽が見えて。
曲がりくねった長い道の先に、寂(さび)れた海沿いの町が眼前に広がる。
木々が無造作に生えた山と海に囲まれた、小さな町には小さな漁船が何隻か停泊していて。
草色のパーカーを着たその少年は、後ろに五つに束ねられた髪を揺らしてしばらく歩いていたが。
坂を半分ほど下ったところで立ち止まると、背負っていたズタ袋を地面に置き。
「……だいぶ歩いたな」
すこし早くなった呼吸を整えて、ジーンズからスマホを取り出した。
そして彼は地図アプリを起動させて、町までの距離と『境界線』の有無を調べていく――
「『ガイ』、もう少しで次の町だよ」
スマホの画面には赤い毛だるまのような表面の、神社の『狛犬』を模したマスコットキャラクターが表示され。
赤ん坊のように小さなその身体を丸めて、それは眠りについていた。
「さて、行こうか」
反応を待つことなく、少年は微笑んでスマホを再びジーンズにねじ込むと。
そのまま、荒れたアスファルトの道を歩いていく。
しばらく歩いていくと、町の周囲を覆い尽くす有刺鉄線の壁が見えてきて。
少年は否が応でも、その町が『日本』ではないことを再認識するのだった。
全高6メートルほどの有刺鉄線が、人気(ひとけ)の無い町を囲んで。
海と山にも、いたるところに鉄線が敷かれていた。
瞳を細めてそれを見つめていると、少年のはるか後方からボンネットの長い黒塗りの高級車が走ってきた。
キキーッ。
「そこの日本人、ここから先は『オセアニア連合』の統治する町ですよ」
ゆるやかにブレーキをかけて、少年に隣り合うかたちで停車した車はすぐさま運転席側の窓をあけ。
運転手の執事然としたスーツを着た、銀髪をオールバックにした初老の男性がぴしゃりと言い放つ。
神経質そうな、長い顔立ちの眼光の鋭い男だった。
「知っています」
少年は、やや冷たく返答し。
「ならば、日本人がこの町に勝手に出入りできないことは分かっているはずです、早々に立ち去らなければ……軍を呼びますよ」
「通行証ならあります」
やや強い物腰しで言う男に対し、少年は慣れた様子でスマホを見せつけようとした。
偽造された通行証は、日本人である彼が全国を巡る上で必要不可欠なものであり。
こういったやり取りも、この2年半の間に何十回と行ってきた。
「いや、必要ありません――この町はオセアニア領の中でも特別区域であり、通行証があろうと部外者の日本人を入れるわけにはいきません」
だが、その男はスマホに表示された通行証を見ようともせず目を伏せて。
「そんな……」
少年は思わず、不服そうな表情を浮かべていた。
日本人である彼が、祖国の街を自由に行き来できない。
それが2064年の日本という国の実態であり。
2年半前の戦いによって一部が返還された後でも、そのような厳しい現実は続いていた。
「待て待てイゴール、その少年……もしや『北陸(ほくりく)戦線の英雄』、椎葉アモウじゃないか?」
落胆していると、大きな車の中から勇猛な印象を受ける男の声が響いて。
「お館様……確かに、この顔はニュースで見たことがあります」
その声の主に、男はうやうやしく返し。
「面白い、乗せてやりなさい」
「いえ、しかしお言葉ですがお館様、日本人を乗せるわけには……」
声の主の提案に、男は難色を示した。
それは、今の日本において普通の反応だった。
日本人は、外国の人間にとっては侮蔑の対象であり。
当たり屋のように難癖をつけなければいい、外国の人の車など、日本人にとってはそれぐらいの認識で。
「構わんさ、この町の長であるこの『レドガー・ダンバム』が良いと言っているのだ、さっさと乗せてあげなさい」
その車から響く、声の主のような者が奇特(きとく)であり。
少年も、旅を始めてから見知らぬ外国人の高級車の中に招かれるのは初めてだった。
「了解しました、では乗りなさい日本人」
主らしき者に言われ、言葉がやや柔らかくなったその男は車から降りて。
後部のドアを開け、少年を見据え。
「いえ、椎葉アモウくん……靴の汚れをこれで拭いてから上がりなさい」
前言を訂正しつつ、汚れ一つないタオルを差し出すのだった。
「ありがとうございます、失礼します」
少年は、砂や泥のついた靴を拭いて服の埃をはたき。
その男の誘導するままに、黒塗りの高い車に乗り込むのだった。
「やあ、初めましてだなアモウくん――私の名前は『レドガー・ダンバム』、君がこれから向かう町の代表監督官だ」
広々とした車内のシートに座っていたのは、金髪のパーマと口周りのヒゲが整えられたワイルドな顔立ちが特徴的な中年の男性だった。
「町の皆には『町長(ちょうちょう)』と呼ばせているがね」
体格は良く、小綺麗な黒いスーツに赤いネクタイをつけて、身体からはほんのりと香水の高級感のある香りがして。
「はじめまして、乗せてもらってありがとうございます」
スーツの上からでも分かる肌艶や肉体の締まり具合を少年は、この男がしっかりと体力作りと健康に気をつかっている『意識の高い大人』であることを看破した――
「まあ、そこまでかしこまってくれるなよ、まずはこの出会いに乾杯させてくれ」
男はにこやかに笑うと、細いシャンパングラスを差し出し。
もう片手の指で、足元の小さいシャンパンクーラーからいかにも高そうな細いビンの葡萄ジュースやオレンジジュースを掴み出し。
「あ、ありがとうございます」
少年と男は、グラスをかちあわせて乾杯していく。
そうこうしているうちに、車は晴れ渡る空の下を排気ガスを出しながら走っていき。
曲がりくねった道の先の町へ、日本であって日本ではないその異様な場所へと吸い込まれるように向かっていく――
つづく