凪のあすから~heart is like a sea~短編集 作:白羽凪
~遥side~
「たまには一人でゆっくりするのはどう?」
そう千夏に言われたのは、都合よく金曜日にあてられた祝日の話だった。恵の面倒もあると断っては見たものの、正直千夏の提案に食いつきそうにもなる。
そんな感情など余裕で見透かせる関係になった千夏は少しニマニマとしながら俺の胸中を言葉にする。
「断ってはいるけど、まんざらでもないって表情」
「・・・当たりだよ。でも、本当に恵はどうするんだ?」
「そこはお父さんとお母さんを頼ればいいんじゃないかな。それこそ、最近忙しくて恵をあっちに連れて行ってあげられなかったし、いい機会だと思う」
「なら、朝一から夜までゆっくりさせてもらおうかな。夜から父さんたちのところに行けばいいか」
俺ももうわがままになっていいことくらい理解している。大人になり、その権利は少しずつ薄れつつあるが、それを許してくれているのならありがたく享受しよう。
そうして千夏と恵と別れ、電車に乗ったのが土曜朝八時のこと。特に用事などないがたまには街にでも戻ってみよう、というのが俺の考えだった。
一時間電車に揺られ、ホームに降り立って大きく息をする。潮の匂いなど微塵もない。けれど確かに懐かしい香りは、心に染みては溶けていった。
「・・・改めて思うけど、変わらないよな、この街も」
住んでいたのは三年と半分くらいの話だが、それでもこの街はれっきとした俺の思い出の地だ。気分は高揚するし、胸も弾む。
何より、あの頃の懐かしい気持ちがふつふつと湧いてくる。だったら、あの頃と同じように街をぶらぶらと歩くこともできるだろう。
そのためには・・・。
俺の足はある場所を目指してまっすぐと歩き出す。行き先はもちろん、マスターのところだ。
通い慣れた喫茶店、openの文字は少し褪せていたが、それでも活気のあるこの店に、俺は迷わず飛び込んだ。
「いらっしゃい。・・・おっと、これは想定外」
「どうも、マスター。・・・結婚式ぶり、でしたっけ」
「知らないよそんなこと。もうずいぶんと会ってなかったんだし」
普段はコロコロと表情を変えることがないマスターだが、目に見えて分かるくらいには笑んでいた。俺が来たことを喜んでくれているのだろうと思うと、嬉しくはなる。
それから俺は少しばかり店内をきょろきょろと見回した。その意図に気づいて、マスターは先に口走る。
「美海ちゃんなら今日は休み。明日も休みだし、実家に帰るって言ってたよ。そろそろ独立するってのもあるしね」
「そっか、入れ違いか」
ここで会えなかったことが残念なのか少し嬉しいのか分からない。多分どちらもあるけど、美海がこの場所にいないことはあの頃と一緒だ。
「それじゃ早速・・・」
「島波じゃないか」
まだ混む気配のない店内、感傷に浸りながらカウンター席に着こうとする俺に呼びかける声があった。少し老けた感じは否めないが、その人を俺は知ってる。
「西野先生・・・!?」
「そう、久しぶり。覚えててくれたんだな」
この人と最後に会ったのは俺の結婚式以来。もう二年も会っていないのもあって、驚きが隠せない。
「せっかくだし、相席どうよ。そろそろ連れも来るんだけど」
「そうですね。これも何かの縁ですし」
マスターに一瞥を送って、俺は西野先生の向かいの席に座る。俺が着席すると同時に、西野先生は頬の方に皺を作りながら笑みを浮かべた。
「しかし意外だな、こんなところで会うなんて」
「ここ、行きつけだったんです、大学時代の」
会話の途中でマスターからアメリカンのホットを受け取って、一口すする。懐かしさと変な高揚感から中途半端に味がしなかったが、それでも構わずコーヒーで喉を潤す。
「それで、連れっていうのは」
場が少し膠着したところで西野先生に尋ねる。ドアがカランコロンと音を立てたのは、それと同時だった。
それから音のする方を向いて、俺はしばらく声を失う。姿かたちは昔見たそれと全く異なっていたが、少し鋭い目つきと、くたびれたような猫背を俺は覚えている。・・・想像こそしていたが、まさか会うとは思っていなくて。
「あなたは・・・」
「・・・よう、久しぶりだな」
陽香の事件の主犯。その人に間違いなかった。
「来たか孝成、遅いぞ」
「悪い、寝坊だよ」
少し申し訳なさそうな苦笑いを浮かべながら、孝成と呼ばれるその人は西野先生の隣に座る。俺が気まずそうにしているのを見て、向こうもなんと声をかけようか迷っているようだった。
けれど、それはほんの少しの時間。意を決したのか、その人は改めて口を開く。
「高坂孝成、俺の名前だ」
「あっ、島波・・・じゃないや、水瀬遥です」
「そうか、お前結婚してたんだよな」
この人たちを前にして水瀬を名乗るのが不自然に思えたが、今の自分がそうであるとはっきり伝える。それに呼応するように、証明に照らされて銀色の指輪が光った。
「・・・なんか、何もかもが新鮮だな。あの日俺の行動を止めたお前が今こうやって対面に座ってるなんてな」
「それは、まあ・・・」
高坂さんの一言で俺は我に返る。根に持っているわけではないが、発する次の一言には悩んだ。
この人は、陽香を傷つけようとした張本人。俺は、それを止めた張本人。
罪を憎んで人を憎まず、高坂さん本人に恨みがあるわけではないが、向こうからすればそうではないだろう。俺は固唾をのんで、しばらく次の言葉を待った。
「そう構えるなよ。・・・もう、全部終わったことなんだ」
「俺は恨まれてると思っていましたよ」
「恨む、か。そうだな。三年前ならお前を見つけ次第殺してやろうとでも思ってたよ」
軽く鼻で笑いながら語るが、その言葉に嘘はないだろう。俺がこの人の人生の分岐点に大きく干渉したのは事実だ。・・・全く関係のない、赤の他人である俺が。
今のこの人は、俺のことをどう思っているのだろうか。そんなことを知っても特に何かあるわけではないと分かっていても、ただ純粋にそれが気になった。
そんな俺に高坂さんがかけた言葉はこうだった。
「・・・今となっちゃ、多少なりの感謝はしてる」
「え・・・」
「そりゃそうだろ。少なくともあそこで俺が本気で人を殺していたら、それっきりもうこの先の人生はなかったんだから。・・・お前に止められて手に入れることになった今の人生で得たものも、少なからずはあるんだよ」
小さく頭を下げられた俺は狼狽する。感謝されたくてした行動でもなければ、感謝されるとも思っていなかったんだ。
けど、そうなんだ。この人はまっとうに生きる道を選んでくれている。それは俺があの日願ったことであって、嬉しいことではある。
「実際、西野に拾われてマシな生活になったしな」
「ハハッ、最初の方は大変だったよ。目に見えて分かるいやがらせとかはなかったけど、噂が出回った瞬間、客足がパア。分かっちゃいたけど、やっぱり大変だった」
「・・・笑い事じゃないですよね」
「笑い話に出来てるんだよ、現にこうして」
とても楽しそうに話をしながら、西野先生はカップに手を付ける。俺への遠慮などはどこにもなく、その言葉がただ純粋に心から生まれたものだということを疑う理由はなかった。
「それで」
「?」
「たまにはお前の話も聞かせてくれよ」
西野先生が俺の内情を強請ってくるとは思ってもみず、俺はしばらく黙り込んだ。けれどその隣から同じような視線を感じては、流石にむげには出来ない。
だから、ただありのままを話す。
「変わらず、海で先生やってますよ」
「へー、お前先生なんてやってるのか。説教垂れてる姿に合ってるもんな」
「高坂さんにそれを言われたら返す言葉もないんですけど」
実際、まだ20そこらだった俺はこの人に説教を垂れていた。大人になったつもりでいたが、こうして過去のことを思い返してみると若気の至りというものに頭を抱えたくなる。
それから高坂さんは一つ機嫌よく笑って、落ち着いた声音で続けた。
「・・・お前は間違ってくれるなよ」
「・・・間違えはしますよ、多分。でも、間違えたことには気づけると思います。なので、そこは大丈夫です」
「そうか、とんだ心配だったな」
この人が何を言いたいか、言葉は少なくとも分かる。
俺がかつての高坂さんのように誤った道に踏み入りそうになる可能性はある。可能性にゼロはないのだから。
ただ、そこからどうすればいいかを俺は知っている。それさえあれば大丈夫だということも。
手をつなぐ。
自分に差し伸べられた手を知ること、誰かに手を差し伸べること、その美しさと強さを知っているから。
「それじゃ、俺は行きますね。用が出来たんで」
自分のカップが空になったことを確認して、俺は立ち上がる。この人たちと話していて、今日の行き先はあっという間に決まった。
そして、高坂さんはそれに気が付いたのだろう。少し言いよどんでいたが、はっきりとその胸中を言葉にする。
「・・・あの子に、よろしく伝えておいてくれ」
「ええ、分かりました」
会計を済ませ、軽く会釈をして手を振る。
目指す場所は、陽の香るあの場所だ。
一応短編二話という形でやっていこうかな。
というか新(既存だけど)キャラですが本名は高坂孝成。現在は西野医院の事務をしています。
今後ちょこちょこ出していこかな。