サバイバルスローライフ   作:鶏キャベ水煮

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幕間2

 茜色の光が差し込む絢爛な歩廊。豪奢な絨毯の敷かれた白大理石の歩廊を二名の男が歩いている。白のケープ、紫のケープ。それぞれのケープの下に純白のローブを纏ったのは壮年の男たちだった。

 荘厳な柱に囲まれた奥の一室に男たちが入っていく。部屋の天井には精巧な彫刻が施され、壁には六柱の光の柱と過去の戦争の様子。そして歴代の神官たちの姿を描いたタペストリーが懸架されていた。ここはとある国の重鎮たちが密談を交わす--神聖な聖域--にある一室だ。

 アンネリーネはその一室の中央に立っていた。

 

 「失礼する」

 

 男たちは先客に一言告げるとタペストリーに向かって祈りを捧げた。静寂が支配し、聞こえてくるのは三名の呼吸する音だけ。彼女の白銀の髪が輝きを失う頃、ようやく二名の男は口を開いた。

 

 「〈絶死絶命〉。今回の任務、ご苦労であった」

 「光の神官長として私からも礼を言う。我が陽光聖典隊員の無念を晴らしてくれて本当にありがとう」

 「どういたしまして」

 

 感謝と労いの言葉を受けた彼女はそう言いつつ表情を崩さずに〈占星千里〉からも報告があったと思うから簡単に言うわ。と前置く。

 

 「私は例のビーストマンを倒していない」

 

 アンネリーネの報告を受けて光の神官長の顔が強張る。今回、陽光聖典が犠牲を払ったにも関わらず取り逃がした件のビーストマンは隊長含む数名の隊員で事に当たって対処できなかったのだ。乱戦であったため部隊全体による総攻撃とはいかなかったものの、多数対個で抑え込んでも効かない強者を倒せる存在が()()を除いて大森林にいるというのは考えたくないことだった。

 光の神官長は引き絞るような声で「まさかエルフ王か?」と言うが闇の神官長が即座に否定する。

 

 「いや、〈絶死絶命〉の言ったことは真実だ。ビーストマンが逃げ込んだと推定できる頃に前線であのクソッタレを確認している」

 「そうだったな」

 

 先に開かれた神官長を含む十二名の国の最高執行機関が集まる定例会議でそのような報告があったことを思い出した光の神官長はこめかみを手で抑えた。前線で特別な装備を持ったエルフの少年を倒した時だった。エルフ王が現れて少年の装備を回収したかと思えば幻のように姿を消したという。少年を見捨てて。

 エルフ王でないとするならばあのビーストマンを屠ったのはまた別の存在となる。大森林を舞台として侵攻を行っている者からすれば警戒する対象が増えるのは頭痛の種だった。

 

 「隊員の遺族にもまだ顔を合わせていないというのに。次から次へと」

 「案ずるなイヴォン。漆黒聖典は必要ならば陽光聖典に協力する」

 「すまないな、マクシミリアン」

 「問題ないさ。我ら人間は弱い。だからこそ互いに手を取り合うべきじゃないか」

 

 そうして二人のおじさんが肩を抱き合う。所々に皴が目立つ壮年の男たちが抱き合うのは少し暑苦しい気もしたがそこには確かに友情があることが分かった。

 

 「盛り上がってるところで悪いのだけれど、いいかしら?」

 

 生暖かい目をして男たちを眺めていた絶死が二人の熱い友情に水を差す。おじさんたちは我に返ったように互いの顔を見つめると取り繕うように皴のできた純白のローブを正した。

 

 「ああ、大丈夫だ。続けてほしい」

 

 光の神官長--イヴォン--が続きを促す。

 

 「私はそこで一人の森妖精エルフの女の子に会った。もしかしたら、その子、神人かもしれないわ」

 「なん……じゃと!?」

 

 イヴォンが驚愕する。神人とは神の血を覚醒させた者。--六百年前。かつて人類が滅亡の道へと追い立てられていた時に救世主のように現れた六柱の神。彼らがいなければ今もなお続く人類の存続はなかったかもしれなかった。神人とはその末裔である。神人の血を覚醒させた者は人としての領域を逸脱した強さを誇る。それがあろうことか戦争をしている敵対国に出現した。この事実にイヴォンの顔色がみるみる悪くなっていく。

 

 そんな様子を横から見ていたマクシミリアンは顎に手を当てて思案する。絶死の接触した神人は果たして祖国の脅威になり得るのか。神人といえど、その強さは玉石混合--通常の上澄みの人間よりは明らかに強い--だった。一人で一国を滅ぼしうる力を持つ者もいれば一人で千の兵を御せる程度の者もいる。果たして絶死が接触したエルフの娘がどの程度の力を有しているのか未知数だ。一つ、強さを測る指標として陽光聖典でも手を焼くビーストマンを倒したという事が事実なら少なくとも無視していい存在ではなかった。

 

 「強いのか?」

 

 推し量るような声でマクシミリアンがそう聞いた瞬間、絶死は嬉しそうな声で一言、「ええ、とっても」と答えた。獰猛な肉食獣が獲物を前にしたような、それは恐ろしい笑みを浮かべて。息の詰まるような重苦しい空気が室内を支配する。この場にいるのはいずれも普通の人間の尺度で考えれば強者と呼べる者しかいない。それでも彼女から発せられる喜色を含んだ殺意に当てられた男たちは冷汗を流さずにはいられなかった。

 

 「強いわね。実際に矛を交えたわけじゃないから言えないけど」

 「そ、そうか」

 「あの子なら……、私に敗北を。いえ、少しは楽しませてくれそうな気がするわ」

 「そこまでなのか」

 

 漆黒聖典番外席次。それがアンネリーネの、神人の血を極限まで覚醒させた者の肩書だ。周辺国家の人間という種族において彼女の右に並ぶものはいない。つまり絶死は一人で一国を滅ぼしうる力を持っているということだ。そんな彼女を倒すまでとはいかないが相手取ることができるというのは彼らにとって十分に脅威だった。そんな目も当てられない発言を受けた神官長たちの顔色は優れない。マクシミリアンは血の気を失って青くなりながら深々と溜息をつき、イヴォンに至ってはガタガタと小刻みに震えていた。

 

 「クソッ! エルフ王め! 我らが侵攻していてもチクチク突いてくるだけで目立った反撃をしてこないのはいつでも我らを滅ぼせると高を括っていたからか! 舐められたものだな!」

 「落ち着けイヴォン。絶死の言うエルフが敵だと確定したわけではない」

 「その娘はエルフなんだろ!? ならば敵として見る方が自然ではないのか!」

 

 自棄なったイヴォンを尻目にアンネリーネは涼しい声で口を挟む。

 

 「でも、不思議よね。あの子ほどの力があれば火滅聖典の築いた前線を押し返せそうなのに」

 

 イヴォンをなだめていたマクシミリアンがアンネリーネの疑問に答える。

 

 「その娘、エルフ国の姫なのではないか」

 

 絶死はよくわからないといった表情を浮かべる。そしてイヴォンは両手で顔を抑えながらお腹から絞り出すように声を出した。

 

 「大切な娘を、後方に避難させるというのは自然であるな」

 「なるほど! なるほど? それにしてはみすぼらしい生活をしていたようだけれど」

 

 エイダの住居は簡素なものだ。よくしなる弾力のある細木で骨組みと枠を組んで蔓で固定。それをドーム状にして周りを葉っぱで囲んだだけの原始的なものだった。およそ一国の姫が住んでいい住居とは言い難い。それに家具らしい家具もない。あるのは調理器具だけだった。これだけは王城にあってもおかしくなさそうな逸品揃いではあったがそれだけだ。彼女の着ていた服は高価なマジックアイテムとして見られたが住環境とのアンバランスさが際立っていた。どちらかというと避難より家出の方がしっくりくる。

 

 「うむ。<占星千里>からの報告を受けて幻術で再現したものを見れば、確かに一国の姫の生活にしては余りにも野蛮だったな。従者の姿がないのも不自然であった。今後<占星千里>の監視対象に加えるとしよう。それとイヴォン、しっかりしろ」

 

 マクシミリアンの言葉がイヴォンの耳に入り頭の中で引っかかりそして抜けていく。こんな時に何を、と憤りを感じたイヴォンだったが自分の立場を思い出す。イヴォン・ジャスナ・ドラクロワはスレイン法国の十二人の最高執行機関の一翼を担う光の神官長だ。その私が怯えていてどうするのだ。これでは国民に示しがつかない。矜持を持て。ひとつ、咳払いをすると目に力を込めてマクシミリアンに向き直った。

 

 「すまなかったな。マクシミリアン。礼を言う」

 「ああ」

 

 もう大丈夫だろう。マクシミリアンはイヴォンが立ち直ったのを確認すると頭の中で次の問題に目を向けた。番外席次。これはスレイン法国最強のカードだ。しかし最強ゆえに易々と国の外に出してはいけなかった。一国を滅亡に追いやる大厄災が自立して散歩しているようなものだ。外交上とても公にはできないしバレた時の反発も強い。さらに頭の痛いことに今回の番外席次の出撃は最高神官長とマクシミリアンの二名のみで決定したことだった。もちろん、他の最高執行員には内緒でだ。だからマクシミリアンはイヴォンも巻き込むことにした。陽光聖典を直轄する光の神官長さえ抱き込めればバレることはないはずだ。さらに闇の神官長になる前は司法機関に席を置いていたことから古巣に頼めば番外席次出撃に関する書類の偽造もできる。あとはどう話を切り出すかだが。

 

 「そういえばマクシミリアン。番外席次を動かしたとなれば事は法国だけでは収まらないぞ。どうするつもりだ?」

 「他のことも考えられるようになったか。だいぶ余裕が出てきたな」

 

 マクシミリアンは感心したような口調で相槌を打つ。内心はイヴォンから話題を振ってくれてほくそ笑んでいた。これでやりやすくなったと。その気を察知されないように心の中で自分を律すると硬い口調に努めて続きを話した。

 

 「それなんだが、ビーストマン追撃任務に当たったのは第九席次<疾風走破>ということにしてはどうかな」

 「確かに。<疾風走破>なら能力は申し分ないが……。だが評議国に突かれた時はどう答えるつもりだ?」

 「それならば問題ない。幸いにも今回<絶死絶命>は()()していない。たまには外の空気を吸わせるのも管理の一環だと伝えればよい」

 「それで白金の竜王プラチナム・ドラゴンロードが納得すればよいのだが」

 「ごめんなさいね。あなたたちに骨を折らせて」

 

 先ほどの猛獣のような雰囲気は鳴りを潜めている。絶死は借りてきた猫のようにしゅんとしていた。

 自分の力は確かに強力だ。しかし考えなしにその力を振るえばより強い力によって叩き潰される。それが自分に向けられるのならまだ理解できる。だが自分のせいで関係のない法国民が傷つくのは納得できなかった。だからといって一生を鳥籠の中で過ごすのも辛い。今回、叶えばいいなくらいの気持ちで無理を言ったせいで面倒事が起きている事実に絶死は心苦しさを感じていたのだ。

 

 「何をおっしゃいますか。我が国の民を守るのも我ら神官の務めでありますぞ」

 「その通りでございます。あなたの力は私たちを守ってくれます。ならば我らは知恵をもってあなたを守る。それだけのことです」

 

 そんな二人の言葉にアンネリーネの顔がほころぶ。少し前までおねしょしてたくせに。大人に向かって啖呵を切るだなんて生意気だ。それでも彼女の心には暖かいものが染み渡っていった。

 

 「ふん。ガキのくせに。言うようになったじゃない」

 

 二人の壮年の男たちは互いに顔を見合わせてはにかむ。それはまるで年上の少女に褒められて顔を赤くする少年たちのようであった。

 

 「ははは。イヴォンよ。我らもまだ尻の青いガキだということだ」

 「ぐぬぬ。アンティリーネの前では何も言えん」

 「ちょっと! マクシミリアン! 名前で呼ばないでくれる?」

 「おっと、これは失礼しました」

 

 アンティリーネ・ヘラン・フーシェ。それがアンネリーネの名前だ。エイダに接触したとき、危うく本当の名前を言いそうになったが自分の本名はスレイン法国の最高機密だった。だから咄嗟の機転で偽名を伝えたのだ。そして最高機密ゆえに国の最高執行機関においてもなるべく口に出すことは控えていた。防諜を徹底しているとはいえ念のためだ。それを軽い口調で口に出されたアンティリーネは鼻息を荒くしながらマクシミリアンに詰め寄った。だがそこには猛獣のような息の詰まる雰囲気はない。母親が子どもをあやすような、柔らかなものだった。

 

 アンティリーネに詰め寄られたマクシミリアンは鼻の下を伸ばす。十代半ばのような外見をした可愛らしい少女に詰め寄られて嬉しくない壮年の男はいないだろう。自分の娘はいつから自分に甘えてくれなくなったのだろうか。目の前の少女と自分の娘を重ねた男はどこか遠くを見つめていた。そんな男の態度を見て無視されたと思ったのか絶死は「ふん」と言うと頬を膨らませる。

 

 「あまり大人をからかわないことね」

 

 神聖な聖域の一室から灯りが消えるまで和やかな談笑は続いていた。

 

●〇〇

 

 「アーくん! 早く登っておいで!」

 「クーちゃん、ちょっと待ってよー」

 

 二人の幼いダークエルフが木登りをしていた。少し体の大きな少年クーは一足先に登攀を終えて高所からの景色を楽しんでいる。爽やかな晴天に恵まれ、心地よい陽射しと緑の匂いを運ぶ風に髪をたなびかせながら遠くを眺めていた。そうしてしばらく優雅に時をすごしていれば「ぜぇー、はぁー」と激しく息を切らしたダークエルフの少年アーが登攀を終えた。全身に汗をかき身に着けている衣服はぐしょぐしょに濡れていて体からは湯気が立つ。そんな満身創痍の体を見たクーはけらけらと笑い声をあげた。

 

 「あははは! アーくん、何それ! おねしょしたみたい!」

 「はぁ、はぁ」

 

 焦点の合わない目で一点を見ながら必死に荒い息を整えていたアーには相槌を打つ余裕さえなさそうだった。そんな様子がクーのツボに触れたのか笑い声は止まらない。どこか遠くにいるような気持ちでその声を聞いていたアーの心情は張り裂けそうだった。アーを除いた村の子どもたちは木登りができた。アーより幼い子でもだ。それなのに--どうして自分はこんなに体力がないのだろう。どうして上手く木登りができないんだろう。

 ダークエルフの集落では幼いころから木登りを学ぶ。それは安全な村の外に出て、獰猛な肉食の怪物から逃れて生き抜くための最も確実な手段だからだ。事実、アーは先日村から抜け出した時に死にかけた。あの状況で木登りができていたら無残にも黒い毛を持つビーストマンの餌になるようなことは避けられていた、かもしれない。

 

 「アー君どうする? てっぺんまで登ってみる?」

 

 --できない。そんな諦観がアーの心を支配した。アーの心を汲み取ったのだろう。クーは「休んでていいよ」というと一人で木登りを再開してしまった。取り残されたアーは悔しさに歯噛みしながら遠くを眺めることにした。あの日の出来事を思い出しながら。

 

 --気を失う前に最後に見た光景。父親や母親、そしてブルーベリーの名を叫んでもどうすることもできなかったあの日のことを--。そこには確かに英雄がいた。絶望的で強大なモンスターを一矢で撃退する綺麗な髪のエルフが。お伽噺に出てくる英雄はきっとあんなにかっこいいんだと心が躍った。

 あの後、父親の弓を黙って借りて矢を射る練習もした。あの人のことを思い出しながら。その結果は全然ダメだった。弓を番えるだけでも息が上がり、渾身の思いで放ってみても矢は足元に墜落するだけ。自分の理想と現実の落差に絶望するだけだった。それでも手が血まみれになるまで辞めなかった。

 練習を終えれば母親からは危ないことをしたと怒られ、父親からは溜息を吐かれる。もしかしたら自分は要らない子どもなのかもしれないとも思った。

 --だから。

 

 「クーちゃーん! 僕も登るぅー!」

 「アーくーん。大丈夫ー?」

 「大丈夫ー!」

 

 せめてクーだけには見捨てられないようにしないと。そう思ってアーは木登りを再開する。しかし少し登っただけで呼吸は荒くなり目は霞んでくる。手足は痙攣して登ることはおろか降りることさえも難しかった。そんなアーの様子を見かねたのかクーが樹冠からするすると軽やかに降りてくる。

 

 「アーくん、ほんとうに大丈夫? ちょっと休憩しよ?」

 「だ、……いじょ……ぶ」

 

 今日はてっぺんまで登ると決めたんだ。その思いを果たすためにクーの提案を蹴って上を目指す。こんなこともできないならいつか……。その瞬間、アーの目の前が真っ白になった。

 

 「アーくん、危ない!」

 「……」

 

 高い所から質量のある物体が転げ落ちる音が響いた。二人が登攀していた木--エルフツリー--の周囲から大人のダークエルフたちが駆け寄ってくる。それから先のことはアーの記憶にはほとんど残っていない。残っていたのはクーの「よかった」という消え入りそうな言葉だけだった。

 

 

〇●〇

 

 

 「クーちゃん?」

 

 アーは簡素な寝床から体を起こすと周囲を見渡した。そこにクーの姿はない。自分の家とは違った見慣れないエルフツリーの中で友達のことを探す。間取りは自宅とあまり変わらない。変わるとすれば部屋の数が多いのと少し大きいくらいだった。人の気配のしない居間に出てキッチンや狩猟道具を整備する作業場などを探していくがどこにも人の気配はしない。それでも一部屋、一部屋と順に探していくと勝手口の方から話し声が聞こえてきた。アーはその声の元に吸い込まれていくように歩いて行く。音をたてないように扉を少しだけ開くと母親の声とクーの母親の声が聞こえた。

 

 「あなたのせいで! あなたがアーちゃんを見ていなかったせいでうちのクーが怪我したんでしょ!」

 「ごめんなさい」

 「なんでうちのクーが怪我して木登りが出来ないアーちゃんが無傷なのよ! なんとか言いなさいよ!」

 「……」

 

 アーは勢いよく扉を閉めて駆け出した。勝手口の先からは「えっ」という母親たちの戸惑いの声が聞こえたがそれでも構わず少年は駆けた。目から涙を流し息を切らしながら一心不乱に駆けた。クーちゃんが自分のせいで怪我をした。自分がいたせいで怪我をした。せっかく友達の足手まといにはならないと決めたのに。何もできない自分が木登りだけはできるようになろうと決めたのに。それなのに……。

 --友達を傷つけた。

 その事実に目の前が真っ白になる。こんなことになるなら自分はここに居ない方がいいんじゃないか。あの時、恐ろしい怪物に食べられていた方がよかったんじゃないか。そんな思いで頭がいっぱいになっていた。森の枝葉やトゲの生えた蔓が幼い体を傷つける。血と汗と涙でぐちゃぐちゃになりながら当てもなく夢中で駆けた。

 そして体力の限界がきたのかたたらを踏んだかと思うと木の根に足を取られて倒れこんだ。「ふべっ」という情けない声を上げたかと思えば嗚咽が漏れ出てくる。

 

 「うぅぅぅ。うぇーん。ごめん。ごめんね。クーちゃん……」

 

 --悔しい。悲しい。そして何もできない自分が腹立たしい。アーの心はそんな思いで一杯だった。だからこそ一つの感情が沸々と湧き出てきた。強くなりたい。

 --お伽噺の英雄譚に出てくる英雄じゃなくて、本物の。あの、お姉さんのように。それからアーは大声で泣き叫んだ。涙が枯れても声が枯れても泣き叫んだ。夢中になっていたからだろうか。幼い少年に近づく影に気づくことなく。

 

 「君はこの前ビーストマンに襲われていた新規ちゃんじゃん。どうしたの?」

 

 倒れ伏しているアーの目の前で膝をついて心配そうに覗き込んでいるエイダを見て少年は枯らしていた涙を再び流した。

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