悪魔の実 Sレア   作:もやしモン

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第十話 ここから先は一方通行だ!!

 

 ──そして翌日。

 

「さぁビビ!! 新人研修のはじまりだ!」

 

「ビィオラです!!」

 

 俺は両手を広げ、太陽を背に仁王立ち。港の倉庫街にて、ド派手にポーズを決める。

 いつもの挨拶(ツッコミ)も無事完了したが、なんか不満げな表情のビィオラ。

 

「……それで、なんで、倉庫の掃除をやるんですか?」

 

「修行はまず掃除から! これは格闘マンガの鉄則だ!」

 

「そんなの、聞いたことないですよ」

 

「聞いたことないから面白いんじゃねぇか!」

 

 ミス・オールサンデーから、頼まれた仕事。その準備のために倉庫の掃除をすることになった。ちょうど良いので、ビィオラにも手伝ってもらう。訓練になるらしいからな。

 

「良いか、ビィオラ。汚れを取ることは、悪を取ることに通じる!」

 

「え? そうなんですか!?」

 

「そう! 例えばこの油染み! これは世にはびこる“悪の象徴”だ!」

 

 俺が指を刺した場所には、汚れた空の酒樽が山積みになっていた。

 

「これ、なんですか? 」

 

「魚のオイル漬けに使ってた奴。魚の劣化を防ぐから、航海にはいいんだ」

 

 俺の解説に予想よりも興味を示し、「へぇ」っと感心しつつ、ビィオラはたわしで必死にゴシゴシと磨きだした。

 

「この油汚れって…全然落ちませんね」

 

「油汚れには、小麦粉を使うと取れるぞ?」

 

 言われるがまま小麦粉を油に擦り付けて、擦るとみるみるうちに汚れが落ちていく。

 

「え、本当だ!?」

 

「さぁ、悪を滅ぼすのだ!!」

 

「はい!!」

 

「……いや、ただのシミに何をして……はぁ、私も手伝うか」

 

 バレンタインが冷静に一刀両断。

 結局、三人で体育館くらいある倉庫を半日かけて掃除を行なった。

 

 

 ──────

 

「つ、疲れた〜……」

 

 ピカピカになった倉庫の真ん中に、座り込むミス・バレンタインとビィオラ。

 

「そうですね。でも、綺麗になった場所は見てて気持ち良いです」

 

「2人ともお疲れ様。ほい、飲み物」

 

「ありがとう」

 

「ありがとうございます」

 

 少しの休憩を挟み、2人が飲み終わるのを待ってから俺が立ち上がる。

 

「それじゃあ、準備運動したし、修行するか」

 

「半日準備運動だったんですか!?」

 

 倉庫の扉を閉めると、港町のざわめきが遠のいた。中は広く、天井の鉄骨が軋むような音を立てている。

 

「じゃあ、始めようか」

 

 俺は掌を広げ、小さな火花を散らした。能力で作る“爆発”の前触れだ。

 ビビは一瞬、肩を震わせる。だが目を逸らさない。

 

「安心しろ。これは威嚇でも脅しでもない。ただ、衝撃に慣れてもらうためのものだ」

 

 そう言って、俺は床へ向けて小さな爆風を放つ。空気が一瞬だけ押し出され、埃が舞い上がった。

 

「きゃっ!」

 

 ビィオラはとっさに体が動かず、尻餅をついてしまう。

 

「逃げるな。ちゃんと足を止めて、体を沈めるんだ。衝撃を下に流すイメージで」

 

「は、はい!」

 

 もう一度、今度は横に向けて爆風を流す。吹きつける風に煽られ、ビビはよろめいた。だが左足を踏み出して体を支える。反射的なものだが、体が覚えているのだろう。

 

「よし、いい反応だ。相手の攻撃は避けられなくても、体の芯を残せば、崩れにくくなる」

 

「なるほど」

 

「戦いは常に次の動きを意識すること」

 

「はい!」

 

 そんな修行の様子を見ていたミス・バレンタインから視線を感じる。凄く何かいいたげだったので、どうしたのかと尋ねると、

 

「……急に真面目じゃん」

 

 冷静なツッコミが返ってきた。不思議だ、真面目にやっていると何故かツッコミを入れられる。

 

「良いことだろ?」

 

「寒暖差で風邪ひくわね」

 

「何!? 体調が悪いのかミス・バレンタイン!?」

 

「いや、ただの比喩で「それは大変!! 早くベッドに!!」あんたら、仲良しね!!」

 

 なんやかんや、3人の仲が深まっていった。

 

 ────

 

 それからの日々は、朝から倉庫に集まり、港のざわめきが聞こえる中での修行が続いた。

 

 最初は爆発音に怯えてばかりだったビィオラも、三日目には膝を落として構えを崩さず、風圧に耐えられるようになった。汗で濡れた前髪が頬に張りついても、彼女は歯を食いしばって踏みとどまる。

 

「よし、そのまま! 腰を落とせ、視線を逸らすな!」

 

「っ……はいっ!」

 

 俺は掌に火花を散らし、小さな爆風を何度も叩きつける。衝撃は床板を震わせ、倉庫の隅で眠っていた野良猫すら逃げ出した。それでもビィオラはもう悲鳴をあげなかった。

 

「少しは板についてきたじゃない」

 

 ミス・バレンタインが肩を組むように近寄り、水筒を差し出す。

 

「……ありがとうございます」

 

 ビィオラは額の汗を拭いながら、ほんの少し誇らしげに笑った。

 

 その様子に、俺は心の奥で安堵していた。教えるのは思ったより難しい。自分では簡単にできることも、人に伝えるには言葉や例えを工夫しなければならない。だが彼女は必死に食らいつき、諦めることをしなかった。

 

 ──ふむ。ビィオラは格闘技は素人だけど、護身術が出来ると言っていたし、なかなか動けるようだ。飲み込みも早いし。

 

「それじゃあ、そろそろ任務の準備をするか」

 

「あ、はい。何処へ行くんですか?」

 

「ここだよ。そのために掃除したんだから」

 

「そ、そうだったんですか」

 

「今回は、ミス・バレンタインが頭上からターゲットを狙ってくれ。俺がサポート。ビィオラは、見張りだ。退出経路を確保してくれ」

 

「えぇ」

 

「わ、分かりました」

 

 今回の任務は、取り引き相手の打捕。

 取り引き相手として、俺が注意を引き、その相手をミス・バレンタインが頭上から埋めて確保する流れだ。

 

 全員が配置についたとほぼ同時に、扉がギィと音を立てて開いた。

 

「時間より少し早いな」

 

 その言葉に相手からの返事はなかった。何故なら、その入ってきた男が前のめりに倒れたからだ。

 

「お、おい!」

 

 背中には、何かに斬られたように赤く染まっており、誰かにやられたのは明らかだった。

 

 その男を踏みつけながら、中から姿を現したのは──背の高い、筋肉の鎧を纏った男。無駄のない体躯に、刃物のような瞳。

 

「……どちら様で? 掃除のバイトは募集してないけど?」

 

 俺の問いに答えることは無く、攻撃の気配を感じとり、頭を低く下げた。頭上を風を切る音が耳を裂く。

 拳。いや、拳というより、鋼鉄の刃を叩きつけられたような一撃。攻撃をする前に避けた俺に対し、相手は目を見開いていた。驚きたいのはこちらも同じだ。

 

「よく躱した」

 

「……取り引き相手じゃねぇな、お前。誰だ?」

 

「お前が知る必要は無い」

 

「あるわボケ」

 

 ──前にもあったぞ、人の話聞かなくて戦闘になった奴。この世界の奴らはどいつもコイツも会話が一方通行なんだよなぁ!!

 まぁ、ハックの時と違うのは、コイツからは血の匂いがするってことだが。マジで殺る気だ。

 

「1万キロプレス!!」

 

 ミス・バレンタインが頭上から高速で落下してくる。そこはちょうど奴の天辺。このまま潰されて終わ──やばい!!

 

 俺は、足元を爆破させ、奴の元へと一気に距離を詰める。ミス・バレンタインが驚いた顔を見せるが、俺は構わず彼女の体へとぶつかる。

 彼女の体は想定よりも軽くなっており、簡単に距離を取ることに成功した。

 

「あんた、一体何し……」

 

 彼女の顔が怒りから驚きに変わる。本当は無傷で助けるはずだったが、流石に無理だった。アイツの刃が俺の肩を切り裂いていた。

 

「無事か?」

 

「私を庇って……」

 

「こんなもん唾つけとけば治る」

 

 視界を埋める砂塵の中、俺は肩口をかすめた切創の痛みを顔に出さず、彼女に笑顔を向ける。足を滑らせながらも体勢を立て直す。血の匂いと鉄の擦れる音。敵意と敵意が衝突して、空気そのものが緊張で張り詰めていた。

 

「アイツは俺がやる。下がっててくれ」

 

 俺が立ち上がると、服を掴まれ、止められる。その手は震え、その視線は、奴に向いていた。

 

「待って……アイツ、殺し屋 ダズだわ。懸賞金 7500万ベリー。私たちが勝てる相手じゃない!」

 

 ──なん……だと?

 

 次の瞬間、心臓が妙な鼓動を打った。頭の中で、金の桁がぐるぐると回る。俺の背にのしかかる、返しきれない額。その現実が、恐怖をかき消すように熱を灯した。

 

「7500万ってことは……あいつを倒せば、俺の借金チャラ! 夢の無借金ライフ到来ってことだな!?」

 

「はい!?」

 

 ドクトリーヌから請求された1億ベリー。会社負担で3000万払ってもらって、残り7000万ベリー。月々払い続けても、利息分しか払えず、どうにか減額出来ないかと、交渉し、その度に、炊事、洗濯、買い物、掃除と、今までこき使われて来ていた。それでも借金は全然減ってないんだ。

 

「お前をぶっ飛ばしたら、あの家事地獄は解放される!!」

 

「やめなさいって!!」

 

 ビシィッと指を突きつける彼女。だが俺の耳には「倒せばチャラ」という甘美な響きしか残っていない。

 

「安心しろ、ミス・バレンタイン。あのカチカチ野郎を倒す算段はある。下がっててくれ」

 

 ──賭けだけどな。それに、コイツがこのまま逃がしてくれるとは到底思えない。

 

「……そこまで言うなら、邪魔はしないわ。でも、死んだら、許さないから」

 

「嗚呼」

 

 ミス・バレンタインが何かを言いたげだったが、黙って飲み込み、その場を後にする。俺はその背中を見ずに、奴から目を逸らさずにいる。その腕には、赤い血と、鋭い刃へと変わっていた。それが、俺を傷つけた能力。悪魔の実だ。

 

「体を刃物にする能力。ハモハモの実の能力者だな?」

 

 口角を無理やり吊り上げて笑みを作り、余裕を見せる。こうやって、命の危機を感じると思う。

 軽口で気を散らせるのは俺の癖で、臆病な心臓を落ち着かせるための手段になっているのだと。

 だが相手は眉ひとつ動かさない。無機質な眼差しを向けてくるその顔は、まるで切っ先そのもののように冷ややかだった。

 

「スパスパだ」

 

「……そうとも言うか」

 

「そうとしか言わん」

 

 乾いた声。信念も、怒りも、余計な感情もない。ただ任務に徹する、刃物のような宣告。だからこそ厄介だ。こいつは揺らがない。

 

 先に仕掛けてきたのは相手だった。フェイントも無く、俺に真っ直ぐ向かってくる。

 俺は深く息を吸い込んだ。肺が焼けるほど空気を吸い込み、次の瞬間に右足を強く踏み込みハイキック。

 

「……ッ!」

 

 だが相手の鋼鉄の体にはびくともしない。奴の腕が変形し、鋭い刃が俺の眼前へと迫った。

 見聞色が警鐘を鳴らす。反射的に体を捻り、頬を掠めて鋼が通り過ぎる。俺の頬から血の飛沫が宙を舞った。

 だが、止まらず、俺は掌を奴の胸板めがけて突き出す。

 

「ニーライト爆拳(ボンバ)!!」

 

 拳を叩きつけ、鋼の巨体が後方へ押し返される。地面に爪痕を残しながらも、奴は両足で踏みとどまった。胸部に黒い焦げ跡が広がっている。それでも致命傷には程遠い。

 

「……少しは骨があるようだな」

 

 首に付いた血を拭い、足元にあった小石を拾い指先で弾き飛ばす。

 血のついたそれは相手の目の前で爆破し、目眩まし代わりに閃光と小さな煙を生み出した。その隙に間合いを詰め、低い姿勢から拳を突き上げる。

 

 俺の周りの水を相手の体へと届ける。体がほぼ水の人間へと、爆発を内部へと浸透させる。

 

「魚人空手 鮫瓦爆拳(さめがわらばくけん)!」

 

 奴が一瞬だけ目を細めた。刃の防御を貫き、波動が内部へ届き、爆発。

 鉄の体が軋んだ音を立てる。内部へと響かせた、確かな手応え。

 

「無駄だ」

 

 だが次の瞬間、奴の膝蹴りが俺の腹を捕らえた。肺から空気が強制的に吐き出され、視界が白く弾ける。

 内臓がかき乱される痛み。だが踏ん張った。吐き出す血を飲み込み、倒れるのを拒否する。

 煙と火花が舞い、夜空を背に鋼と爆炎が交差する。互いの息遣いが荒れ、地面には無数の裂け目と焦げ跡が広がっていた。

 

「人の癖に、魚の真似事をするとはな」

 

「……強くなる為ならなんだってするさ、大事な人を守る為にな」

 

「くだらん」

 

 鋼鉄と爆炎の衝突は、夜の埠頭を昼間のように照らし出した。

 焦げた板張りの床が破裂音と共に吹き飛び、倉庫内へお破片が散っていく。

 

 ──マジでかってぇなオイ。腹筋バキバキとかそういうレベルじゃねぇ!! 文字通り鉄の塊ぶん殴ってる感じなんだが!?

 このまま拳で殴り続けたら、先にこっちの拳がイカれちまう!

 

「全く……爆発してんだから、効けよな。この世界の奴らはどいつもこいつも…」

 

 冷静に考えてどうする?

 

 奴の体は鋼鉄そのもの。武装色が安定すれば突破口になるはずだが、未だに力は霧散してしまう。腕を覆った覇気は黒く染まりきらず、ただの衝撃でしかない……もっと、火力を出す方法は。

 

微塵速力斬(アトミックスパート)!!」

 

 次の瞬間、奴の姿が霞む。足をスケート靴のように変化させて地面を滑るように、刃となった右腕を振り抜いてきた。

 

 見聞色が告げる。

 下からの斬撃──避けきれない距離だ。

 

 俺は咄嗟に右腕に武装色を纏わせようとした。

 

 だが、不発。黒く硬化するはずの腕は染まらない。

 

「ダメかっ」

 

 それでも、躊躇している暇はなかった。爆発を腹部で起こし、その風圧で相手を攻撃の速度を緩める。だが、相手はそれで終わりではなかった。

 

発泡雛菊斬(スパークリングデイジー)!!」

 

 両手首を合わせ、掌底を繰り出すように斬撃を放った。倉庫の壁と、俺の体は、切り刻まれ、体から血が流れる。

 

「吹き飛べ」

 

 更に、追い討ちと、衝撃波により、扉を吹き飛ばし、薄暗い部屋へと転がり込んだ。そこは、脱出経路の通路だった。

 

「Mr.5!!」

 

 そこを見張っていたビィオラと、ミス・バレンタインが、俺に駆け寄って来てくれた。2人ともに怪我はなさそうでホッとしていると、ビィオラが、横たわる俺のそばへと屈む。

 

「ひどい怪我……早く手当を」

 

「……大丈夫だ。それより、良いところに来てくれた」

 

 俺の言葉に、ミス・バレンタインが、何かを察してくれた。

 

「まさか、まだやる気? 今なら、どさくさで逃げられる。逃げるのも戦いよ!」

 

「逃げるのも大事なのは十分理解している。でも、全てを出し切りもせず、ただ逃げる事を選んだら、常に逃げるという選択肢が生まれる。そんな事じゃ、君を守るなんて絶対に出来ない……だから、逃げない」

 

「っ! もう、どうなっても知らないわよ!」

 

「嗚呼。だから、2人とも協力してくれ」

 

 

 

 

 

 ────

 

 

 

 瓦礫ぶっ飛ばし、部屋の外へと出ると、そこには、刃物野郎がじっと見ていた。起き上がるのが分かっていたように。

 

「……フン、やはり立ち上がるか。さぁ、次はどう来る?」

 

 俺は血が滲んだ目隠しを取り、久々に瞳を露わにする。そして、一度空気を大きく吸い、深く吐き出す。

 

 ──ここからは見聞色頼み。時間さえ稼げれば、俺の勝ちだ。だから、まずは……。

 

逃げるんだよぉ!!

 

 背後から何してんの!?と聞こえた気がしたが、構わない。倉庫から飛び出し、外へと逃げる。そこは、防波堤に、倉庫が立ち並んでいる場所だ。

 

「何か企んでいる目だ……乗ってやるよ。掌握斬(スパークロー)

 

 指を刃へと変化させて向かってくる。手を開けば手の内側が、拳を握れば手の外側が刃物となる。つまり、拳では決して受けられない。回避するしか無い。

 避けるたびに地面が裂け、木片が舞い上がる。背中に冷や汗が伝い、腕には細かな切り傷が増えていく。

 

「どうした? 爆発も、空手も使わずに避けるばかりか、つまんねぇ」

 

 視界の端に映った、背後の木樽に手を伸ばす。中身は油漬けの魚。重たい樽をそのままぶん投げると、軽々と切り裂くが、その一瞬の動きのロスが命綱だ。

 

「ちっ!」

 

 気がついたみたいだが、遅い。油を盛大に被った奴に向けて、右手を向け爆破を起こす。その火により、油に引火した。

 

「炎で俺が焼けると思うか? 俺は鉄だ、熱など効かない」

 

 作戦は逆効果。火を帯びた奴の刃が迫り来る。

 

 呼吸が浅くなる。胸の奥が焼けるようだ。

 見聞色で奴の動きを読もうとしても、もはや奴の刃は完全に俺の癖を見切っていた。斬撃が来る前の僅かな気配を感じても、体がついていかない。紙一重の避け合いが続き、神経が擦り切れそうだった。

 

 そして、体の力()抜いた。

 

「ようやく隙を見せたな」

 

 当然、その隙を見逃すはずもなく、拳が向かってくる。ここだ!

 

「武装色硬化!!」

 

 賭けに勝ち、武装色は成功し、相手の一撃を受け止めた。しかし、衝撃は届き、体ごと吹き飛ばされ、倉庫の中へと再び戻された。

 

 地面に手をついたまま、俺は顔を上げた。奴は悠然と歩いてくる。

 

「逃げ回るのも終わりだ。頼みの綱の油も既に残っては無いだろう」

 

 唇の端に血がにじむ。それでも笑ってみせた。

 

「知ってるか? 油汚れには小麦粉が良いんだよ」

 

「……なんの話だ?」

 

「ここの倉庫は広いからな……油汚れを落とすために大量に小麦粉持って来てんだ」

 

「……くだらん時間稼ぎだ。もう黙れ」

 

 ──これ以上は、持たない。

 

 膝をついた俺の前で、静かに歩を進める。逃げる隙も、反撃の力も、もう残っていなかった。

 

 そのときだった。

 

「そこまでよ!!」

 

 ミス・バレンタインの声が響いた。

 

 目を向けると、粉袋を撒き終えた二人が、倉庫の入り口付近に立っていた。

 ビィオラは震える手で、壁に取り付けられた灯具を外している。

 ミス・バレンタインはその横で、真剣な眼差しをこちらに向けていた。いつもの皮肉やツンとした表情はなく、ただまっすぐに。

 

「ミス・バレンタインに、ビィオラ……お前らまで巻き込む気は──」

 

「バカね」

 

 バレンタインが遮るように言い放った。声は震えていなかった。

 

「あなたが時間を稼いだんでしょ。なら──今度は、私たちの番よ」

 

 ビィオラも頷いた。

 

「……こんなひどい職場、二度と戻ってこなくていいくらい、派手に吹き飛ばしてやります!」

 

 笑いながらも、その手はしっかりと灯具を握っている。灯心の小さな炎が、粉塵の漂う倉庫の空気に照らされ、ゆらゆらと揺れた。

 

「……あんたが、ここまで踏ん張った意味を、潰させやしないわ」

 

 その瞳に、一瞬だけ懐かしい温度が宿った気がした。

 ビィオラが灯具を高く掲げる。

 

「まさか……っ!」

 

 その動きにダズが何かを察し、一歩彼女たちの元へと足を踏み出そうとしていたが、俺は最後の力を振り絞り、その足首を掴んだ。

 

「つれねぇな……俺とのデートがまだ途中だろ?」

 

「貴様!!」

 

「なぁ……粉塵爆発って知ってるか?」

 

 ビィオラが松明を粉塵の渦の中へと投げ込んだ。

 

 一瞬、世界が止まった。

 炎が白い粒子の海に触れた瞬間、光が爆ぜ、轟音が全てを塗り潰した。

 

 

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