悪魔の実 Sレア   作:もやしモン

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第十八話 「私にとってウタは楽器でしかない!」とか言いそうな顔してんね

 

 

 ────

 

 クマさんに頼み、エレジアの近くの島へと飛ばしてもらい、船を借りて島に降り立った瞬間から、違和感はあった。

 映像電伝虫で聞いたあの歌声が、この島のどこにも存在していない。音がないわけじゃない。風の音も、瓦礫が擦れる音もある。ただ、人の気配だけが、意図的に消されている。

 

 エレジアは、静かすぎた。

 

 まるで『ここでは音を立てるな』と、島そのものに言われているような感覚。

 俺は無意識のうちに足音を抑えて歩いていた。

 

 廃れた劇場の前で、彼女を見つけた。

 

 色分けされた髪は、映像で見たままだった。だが、印象はまるで違う。

 舞台に立つ人間の姿ではない。歌姫でも、アイドルでもない。ただ、そこに“立っているだけ”の少女だった。

 

 彼女は、壊れた客席を見下ろしていた。

 歌うでもなく、笑うでもなく、何かを懐かしむようでもあり、同時に切り離そうとしているようでもある。そんな曖昧な背中。

 

「……すまない。ちょっといいか?」

 

 声をかけた瞬間、空気が変わった。

 

 彼女は素早く振り返り、即座に距離を取る。

 その動きに、ためらいはない。何度も繰り返してきた反応だと、直感で分かった。

 

「誰?」

 

 感情を削ぎ落とした、警戒だけの声。その瞳は、暗く、何も写さず、何かに絶望している。その目を知っていた。あの映像で見た瞳と、全く同じだったから。

 

「俺は、ジェム。ここに歌手をやってる人はいないかな? 映像電伝虫で発信している人がいたと思うんだけど」

 

「……いない。そんな奴」

 

 ──いない? 俺はこの子が歌っていると思っていたが、違うのだろうか?

 

「君は、歌わないのか?」

 

 そう言うと、少女の目がわずかに揺れた。

 怒りではない。拒絶でもない。もっと別の、触れられたくない部分を突かれたような反応。

 

「……やめたの」

 

 それだけ言って、視線を逸らす。

 

 その仕草が、答えのすべてだった。

 

 歌えない、ではない。

 歌わない、でもない。

 

 ──やめた。

 

 自分の意思で、切り捨てた言い方だった。

 

 ──お、重い……。軽い気持ちで来ちゃダメだった奴だわこれ。

 

 

 俺は、すぐには言葉を返さなかった。

 踏み込めば拒絶されると分かる境界線が、そこにははっきり引かれていたからだ。

 

 彼女は俺を見ない。

 視線は劇場の床、割れた石材、剥がれ落ちた装飾へと向けられている。まるで、過去を数え直すように。

 

「……そっか」

 

 間抜けなくらい、素っ気ない返事。

 

 慰めも、励ましも、説教もない。

 我ながら、情けないくらいの語彙力だ。

 

 彼女は、ちらりとこちらを見る。

 

 様子を窺う目。“どうせ何か言うんでしょ”という警戒。

 

 ──うーん。これはあれだ。ミス・バレンタインが任務前の俺を見た時の目と一緒。余計なこと言うとぶん殴る。ちょっと、人と話したくないんだから、どっか行け。とか言われる奴。

 

 言葉に熱はなかった。

 諦めでも、悲嘆でもない。ただ、もう議題にすらならない事実として整理されている。

 

 俺は、小さく息を吐いた。

 

「……じゃあ、俺が来たのも無意味か」

 

「そう」

 

 だが、言葉ほど突き放すような声音ではない。

 拒絶はしているが、敵意はない。むしろ、遠ざけることで守ろうとしているようにも聞こえた。

 歓迎ではない。許可でもない。ただ、線を引いた上での最低限の理解。

 

「ここは、何も残ってない島だから」

 

 彼女は、劇場を見回した。

 

「歌ってた頃の私も、聴いてた人たちも、全部……もう、いない」

 

 “死んだ”とは言わない。

 だが、存在しないものとして扱っている。感情を挟まない、冷たい整理。

 

「だから」

 

 そこで彼女は、ようやくこちらを見た。

 

「歌を求めて来たなら、帰って」

 

 その視線は、真っ直ぐだった。

 怒りも、涙もない。逃げ場のない現実だけを突きつける目。

 

 俺は、すぐに頷かなかった。

 

「まぁ、求めてたのは、歌じゃないんだけどな」

 

「じゃあ、何」

 

「あの映像を撮った子と話がしたかったからだ」

 

 一瞬、彼女の表情が固まった。

 

 踏み込み過ぎたか?とも思った。

 だが、彼女は視線を逸らさなかった。

 

「……意味ないよ。そんなの」

 

 そう言いながらも、声は低く、少しだけ掠れていた。

 

「いるだけ。生きてるだけ。それ以上でも以下でもない」

 

 ただ、何かを失ったあとでも立っていなければならなかった、ひとりの人間の言葉だった。

 

「そっか。なら、今日はこのまま帰るよ」

 

 俺は一歩引き、踵を返すと、彼女が、わずかに目を見開いた。

 

「……歌手を探してるんじゃないの?」

 

「本当はね。でも、無理矢理やらせるのは嫌だからな」

 

 嘘ではない。

 説得も、救済も、この場では不可能だと理解した。

 

「歌いたくなったら、教えてくれ。それまでこの島をぶらぶらしてっから」

 

 足音を立てずに歩き出す。

 

 背後から、呼び止める声はなかった。

 

 

 ーーーー

 

 あの子に出会ってから、何日かが過ぎた。

 

 正確な日数は覚えていない。

 あの子は心を閉ざしてる。考えるだけ意味ない。何度もここに来て、何度も同じ場所に腰を下ろし、何度も昨日とは違う何かをする。そんだけ。

 

 城の外、海に近い崖の上。

 背の低い岩が一つあり、そこが彼女の定位置だった。

 

 彼女はいつも膝を抱え、海を見ている。

 どこか遠くを見ているようで、実際は何も見ていない。視線は水平線の少し手前で止まり、波の音だけを聞いているようだった。世界と距離を取ることに慣れきった、そんな座り方だ。

 

「はぁ……はぁ……よっ。今日もいい天気だな。絶好の引きこもり日和だ」

 

 走ってきて息が上がっていたが、いつもの調子で声をかける。

 明るく、軽く、深刻さは一切混ぜない。ここでは、それが一番安全な挨拶だった。

 

 彼女は、ちらりとだけこちらを見た。

 顔は動かさず、目線だけを寄越す。

 

「……また来たの?」

 

 拒絶でも歓迎でもない。

 ただの事実確認。天気を聞くのと同じ温度だ。

 

「おう。常連だからな。そろそろスタンプカード作ってくれてもいいぞ?」

 

「作らない」

 

「そりゃ残念」

 

 俺は彼女の隣──よりも、少し離れた岩に腰を下ろす。

 距離感は大事だ。詰めすぎると、彼女は無言で立ち去る。これまで何度かやらかして、ようやく学んだ。

 

 潮風が吹き抜ける。

 二色の髪が揺れ、光を反射した。何度見ても、やけに目につく色だと思う。

 

「さっき面白い事があってさ」

 

「……興味ない」

 

「話してもないのに」

 

「だいたい分かる」

 

 それでも、俺は話す。

 

「さっき島の反対側でさ、岩に足引っかけて転んだんだけど、ちょうど目の前にカニがいてさ。鼻挟まれて赤っぱなのでかっ鼻になっちまったんだ」

 

「……」

 

「……なんかごめん」

 

 こんな感じで反応が全くない。

 俺の話がつまらない可能性も高いが、それでも彼女は立ち去らない。それだけで、今日は上出来だった。

 

「今日はいいもの持ってきててさ」

 

「いらない」

 

「そう言わずに、せっかく作ったんだ。良かったら食べてくれ」

 

 そう言って取り出したのは、簡単なパンケーキだった。

 島の材料で作れる、砂糖控えめの生地に、上から溶かしたチョコをかけただけのもの。昔、ミス・バレンタインの機嫌が悪い時によく作っていた。

 

「……ホイップはないの?」

 

 思ったより具体的な注文が飛んできて、少しだけ笑ってしまう。

 

「ごめんな、泡立て器が無いんだ」

 

「……ふうん」

 

 受け取らないと思っていた皿を、彼女はしばらく見つめてから、ゆっくりと手に取った。

 警戒は消えていない。毒でも盛られているかのような慎重さで、フォークを構える。

 

 小さく切り分け、ほんの一口。

 

 ……反応がない。

 

「あー……美味しく無かったら残していいからな?」

 

 やっぱり駄目だったか、と内心で肩をすくめかけた、その時。

 

 彼女の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。

 

 眉が、わずかに動く。

 それから、もう一口。今度は、さっきより少しだけ大きい。

 

「……」

 

 無言のまま、三口目。

 

「……焦げてない」

 

「褒めてる?」

 

「事実を言ってるだけ」

 

 そう言いながらも、フォークは止まらない。

 チョコのかかった部分を、無意識に選んで食べている。

 

 しばらくして、彼女は皿を見下ろした。

 

「……これ」

 

「ん?」

 

「温かい」

 

 その言葉に、少しだけ間が空いた。

 

「焼きたてだからな。冷める前に持ってこうって思ってな」

 

 彼女は何も言わなかったが、パンケーキを置く手つきが、最初よりもずっと雑になっていた。

 最後の一口を口に運んだあと、皿の端についたチョコを、指でそっとすくう。

 

 そして、気づいたように手を引っ込めた。

 

「ん」

 

 短く言って、空になった皿を差し出してくる。

 

 顔は相変わらず無表情だ。

 けれど、さっきまで固まっていた肩は、少しだけ力が抜けている。

 

「ホイップ、次は用意して」

 

「はいはい。善処します」

 

 彼女はそれ以上何も言わず、また海に視線を戻した。

 けれど、膝を抱える腕の位置が、ほんの少しだけ緩んでいた。

 

 料理が美味しかったのか。

 それとも、誰かが自分のために作ったという事実が、少しだけ嬉しかったのか。

 

 どちらでもいい。

 

 彼女が拒絶せず、全部食べてくれた。十分だ。

 だから、少しだけ声のトーンを落とす。一段、踏み込む。

 

「……ここ、退屈じゃないか」

 

「……別に」

 

「他に人はいないのか?」

 

「……1人だけ。あとはいない」

 

 その言葉に、彼女の肩がほんのわずかに強張った。

 分かりやすい反応だ。触っちゃいけない場所に触れた、という感触。

 

「何か好きなもんとかある?」

 

「……ない」

 

 嘘だな、と思う。

 でも、否定はしない。否定したところで、扉が一枚増えるだけだ。

 

「じゃあ、嫌いなもんは?」

 

 わざと明るく言う。ヘラヘラと、無害ですよと手のひらを見せるみたいに。

 

「……海賊」

 

「お、奇遇。俺も嫌い。アイツら暴力しか頭に無いからなぁ」

 

 その瞬間、彼女がこちらを見た。

 真っ直ぐで、感情の読めない目。試すような視線。

 

 これ以上踏み込むな、という目ではない。

 むしろ、興味を向けられている気がした。気がしただけかもしれないが。

 

「なんで嫌いなんだ?」

 

「……裏切られたから」

 

 短い答え。

 それ以上、掘り下げる気はないと分かる声音だった。

 

 俺は、そこで止めた。

 

「明日も通っていい?」

 

「……勝手にすれば」

 

 それは許可じゃない。

 でも、拒絶でもない。

 

 俺は、それを「続けていい」と受け取った。

 

 翌日も、その翌日も、同じ場所に来た。

 

 変な踊りを披露した日もあった。

 即興で意味の分からない歌を歌った日もあった。

 島で拾った、どう見てもただの石を「珍しい石」だと言い張った日もある。

 

 彼女は笑わない。

 反応しない日も多い。

 

 それでも、少しずつ変わるものがあった。

 

 俺が来る前に立ち去らなくなった。

 俺の話を途中で遮らなくなった。

 沈黙が、以前ほど重くならなくなった。

 

 ────

 

 

「さて、船に戻りますかね」

 

 静かな島。それがこの島の第一印象。

 

 潮騒は確かに耳に届いているし、風も木々を揺らしている。それなのに、人の気配だけが、まるで最初から存在しなかったかのように希薄だ。島全体が深い眠りに沈んでいる。人1人いない島。

 

 ──と、思ってたんだがな。

 

 後方。距離はある。だが、確かに“いる”。

 

 隠す気配がない。

 いや、正確には──隠そうという意思そのものが感じられない。力量以前に、やり方を知らない、そんな気配だ。ウタに接触してから、ずっと遠くから見られている。

 

「……何かようか?」

 

 声は低め。冗談の入り込む余地を、最初から排したトーンだ。

 

「尾行するなら、もうちょい上手くやれ。素人丸出しだ」

 

 数拍の沈黙の後、岩を踏みしめる重い足音が響いた。逃げる気はないらしい。むしろ、呼ばれるのを待っていたようにも思える。

 

 振り返った先に立っていたのは、大柄な男だった。年齢は五十代前後。眉間に深く刻まれた皺と鋭い目つきが、第一印象を最悪なものにしている。正直なところ、善人に見える要素は一つもなかった。

 

「……あの子に近づくな」

 

 ──第一声がそれか。怪しさ満点だなおい。

 

「そう言われてはい、そうですかと言えるほど、利口じゃないもんで。ちゃんと教えてくれるかな? あんたは誰で、この島はなんでこんな壊れているのか」

 

 壊れされた家。天地が入れ替わった家。遠くに見える崩壊した城。

 

 どう見ても異常だ。

 

 何かがいる。それがあの子が歌を歌わない理由と関係している。それをこの男は知っている。ここで逃すわけにはいかない。

 

「……そう言う君も、何者なのか答えてもらっていない。それを知らない限り、私から話すことは何もない」

 

 そう言われて、俺はこう思った。

 

「確かに」

 

 ──白髪グラサンムキムキ男が女の子に近付いてんだ、警戒すんのが当然すぎるじゃねぇか。

 

「申し訳ない。俺はジェム。この島に流れ着いた……と言うと語弊があるな。ここから聞こえた歌声に、どうしようもなく惹かれて来た」

 

 そう告げて、軽く両手を上げる。

 武器を持っていないこと、敵意がないこと──言葉より先に伝えたかった。

 

「あの子の声が、あの子の歌声が、俺にはどうしても忘られないんだ」

 

 俺が言いたいことを言い終わると、沈黙が落ちた。

 

 潮の音が、やけに大きく聞こえる。

 さっきまで意識していなかったはずの波が、耳の奥を叩いてくる。

 

 男は俺を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。

 睨んでいるわけでも、値踏みしているわけでもない。

 ただ、じっと──確かめるような目だった。

 

「……そうか、君も彼女の歌声が……」

 

 言葉尻が、わずかに揺れる。

 

「?」

 

 含みのある言い方に、思わず首を傾げる。

 

「私はゴードン。この島で、あの子の世話をしている者だ」

 

「え? 不審者じゃなくて?」

 

「失礼だな君!?」

 

 即座に返ってきた怒声に、逆に拍子抜けする。

 

 ──いやだって、あの子の歌声は私のために使うのだ!とか、他の人間にアイツをうまく使えるか?とか言いそうなタイプじゃん。めっちゃエアプしたわ。

 

 ゴードンは、しばらく黙っていた。

 視線を外し、崩れた城の方角へと目をやる。その横顔は、先ほどまでの剣呑さとは違い、どこか疲れ切った老人のそれだった。

 

「……君の言葉が嘘だとは思わない」

 

 低く、重い声だった。

 

 そこで一度、言葉を切る。

 喉の奥で何かを飲み込むような仕草だった。

 

 俺は何も言わず、続きを待った。

 

 ゴードンは再びこちらを見る。

 だがその目は、俺ではなく、もっと遠い過去を見ているようだった。

 

「この島がこうなった理由も、彼女が歌わなくなった理由も……私は知っている」

 

 胸の奥が、わずかに軋む。

 

「だが、それを語る資格が、私にあるのかどうか……今も分からない」

 

「何故?」

 

「私は……彼女の力を恐れているからだ」

 

 それだけは、嘘ではなかった。

 

「同時に、彼女がその力ゆえに傷つくことを、誰よりも恐れてもいる」

 

 沈黙が落ちる。

 潮騒が、再び島を満たす。

 

「君に全てを話すつもりはない」

 

 ゴードンは、深く息を吸った。

 

「彼女の歌を“聴く者”として、ここへ来た君にだけは、一つ頼みたいことがある」

 

 その声音には、迷いと、諦めと、そして覚悟が混じっていた。

 

「もし、彼女が再び歌おうとするなら。もし、島の外へ目を向けようとするなら──」

 

 視線が、まっすぐ俺を捉える。

 

「その時は、彼女の傍にいてくれ」

 

 それは命令ではない。

 懇願に近い言葉だった。

 

「私には、もう……彼女を正しい方向へ導く自信がない」

 

 自分が選び続けてきた“守り方”が、彼女を縛ってきたことを、ゴードンは理解している。

 それでも、今さら全てを告げる勇気がない。

 

「君が信じる歌を、信じてやってほしい。

 そして、私にどうか……彼女の歌の指導を、続けさせてほしい」

 

 それだけ言って、ゴードンは視線を落とした。

 肩から、長い時間背負ってきたものが、少しだけ零れ落ちたように見えた。

 

「……大変なんだな、あんたも。抱えてるんだな」

 

 慰めるつもりはなかった。

 ただ、事実としてそう思った。

 

 俺はこの人のことを何も知らない。

 それでも、この人がずっと一人で、あの子の未来と向き合ってきたのだけは分かる。

 

「なら、一つ質問をいいか?」

 

「……何かね?」

 

 少し身構える声音。

 

「彼女が好きな食べ物は?」

 

「……パンケーキだな。ホイップが沢山のってあると、あの子は……よく笑っていた」

 

「ハハ……」

 

 思わず、声が漏れる。

 

「……あんた、やっぱりあの子の親だよ」

 

 ゴードンは一瞬目を見開き、それから、困ったように眉を下げた。

 

「私は、本当の父親ではないが」

 

「そうか。でも、親だよ」

 

 血の話じゃない。愛情の話だよ。

 

「任された……あの子の“本当の歌”を、俺も聞きたいからな」

 

 ゴードンは何も言わなかった。

 ただ、深く頭を下げた。

 

 その背中が、少しだけ軽くなったように見えた。

 

 ────

 

 そして、今日も、俺は崖に来た。

 

「いやー、天気悪いな。まあ俺の人生に比べたら、雲一つない快晴だけど」

 

 返事はない。

 けれど、耳は確かにこちらを向いている。

 

 隣に腰を下ろす。

 しばらく、波の音だけが続いた。

 

 今日は、なぜか言葉が軽く出てこない。

 

「……なぁ」

 

 声を落とす。

 

「歌、嫌いになったわけじゃないよな」

 

 肩が、わずかに強張る。

 

「……どうして、そう思うの」

 

「嫌いなら、もっと分かりやすく拒絶する」

 

 指で小石を弾く。

 

「君は、避けてるだけだ。それって……怖いってことだろ」

 

 間があった。

 風が吹き、二色の髪が揺れる。

 

「……怖いよ」

 

 独り言みたいな声だった。

 

「歌うのが」

 

 俺は、すぐに反応しなかった。

 こういう言葉は、急ぐと引っ込む。

 

「……何が、怖い?」

 

「歌は……私を一人にするから」

 

 指先が、きゅっと握られる。

 

「歌うと、思い出すの」

 

 空気が変わる。

 俺は、聞き返さない。

 

「褒められたのも……捨てられたのも……楽しかったのも、苦しかったのも……止められなかったことも」

 

 淡々とした声。

 だからこそ、押し殺しているのが分かる。

 

「だから……歌わなければ、思い出さなくて済む」

 

 俺は、何も言わなかった。

 

「……ごめん」

 

「謝る理由、ないだろ」

 

 潮の音だけが続く。

 

「……聞いて、どう思った?」

 

 試すような問い。

 

「どうも思わないって言ったら、怒るか?」

 

「……怒らない」

 

「じゃあ、それだ」

 

 海を見たまま、声をかけずに、思ったことをそのまま告げる。

 

「歌が怖いなら、怖いままでいい」

 

 指先が、ぴくりと動く。

 

「無理に克服する必要もない。歌わなきゃいけない理由があるなら、それを決めるのは君だ」

 

 初めて、彼女を見る。

 

「俺じゃない」

 

 彼女は膝に顔を埋めた。

 泣いてはいないように見えるが、何かを考えているのだろうか? 少しすると、彼女は顔を上げ、こちらを見た。

 

「……歌わない私でも、来る?」

 

「来る」

 

「何も出来なくても?」

 

「それでも来る」

 

「……失望、しない?」

 

「何を期待してないと思ってる」

 

 しばらくして、彼女が小さく言った。

 

「……また、来て」

 

「おう」

 

 軽く返す。

 

「常連だからな」

 

 立ち上がると、彼女はもう俯かなかった。

 

 

 ────

 

 あの日から、彼女はほんの少しだけ変わった。

 

 劇的な変化ではない。

 笑うようになったわけでもなければ、饒舌になったわけでもない。

 

 ただ、以前よりもこちらを見るようになった。

 それだけのことだが、俺にとっては十分すぎる変化だった。

 

 崖の上にある、いつもの岩場。

 空は澄み切り、海は穏やかで、風もほとんど感じられない。世界が静かに呼吸しているような、何も起こらない午後だ。

 

 俺が岩に腰を下ろすと、彼女は珍しく、こちらが何か言う前に口を開いた。

 

「……ねぇ」

 

「お?」

 

 名前を呼ばれるわけでもないのに、声を向けられるだけで、少しだけ背筋が伸びる。まだ慣れない感覚だった。

 

「あなたって、ここに来る前、何してたの?」

 

 意外な質問だった。

 これまで彼女が、俺の過去に興味を示したことはなかったからだ。

 

「んー……仕事?」

 

「仕事」

 

 オウム返しのように繰り返される。

 けれど、その声には、話を切り上げようとする気配はなく、ちゃんと聞く意思が滲んでいた。

 

「海賊?」

 

「違うな」

 

「旅人?」

 

「それも違う」

 

 少し考えてから、肩をすくめる。

 

「……会社員。ちょっと怖めな」

 

 彼女は目を瞬かせ、わずかに首を傾げた。

 

「……怖いの?」

 

「嗚呼。任務失敗したら殺されるくらいの」

 

 一瞬、空気が止まった。

 波の音だけが、やけに大きく聞こえる。

 

「……犯罪者?」

 

「ニアピン」

 

 どう返していいかわからなかったのだろう。

 彼女は少し眉を寄せ、視線を足元へ落とした。

 

「……どんなこと、してたの」

 

 正面から話すには、まだ気恥ずかしい。

 俺は海の方へ視線を逃がしながら、言葉を選んだ。

 

「任務だよ。潜入したり、誰か捕まえたり、物壊したり」

 

「……怖くなかった?」

 

「怖いぞ。毎回死にかけてるし」

 

 言ってから、少しだけ後悔する。

 重すぎたかもしれないと思ったが──彼女は、目を逸らさなかった。

 

「……どんな?」

 

「最初の任務で、自爆して気絶したり」

 

「……じばく……」

 

「勘違いで骨折られて、借金が一億になったり」

 

「……いちおく……」

 

「倉庫もろとも爆破したり」

 

 指を折りながら数えると、彼女は思わずこちらを見た。

 

「……それ、全部生きてるのおかしくない?」

 

「よく言われる。運がいいか、しぶといか、その両方だな」

 

 冗談めかして言ったが、実際のところ、どちらも否定できなかった。

 

「……怖くて、やめたいって思わなかった?」

 

 その問いは、ほんのわずかに震えていた。

 

「何度も思った。逃げようともしたし、全部投げ出したくなった」

 

「……それでも、やめなかった?」

 

「やめなかったな」

 

 少し間を置き、続ける。

 

「俺には、それするしか無かった。今、俺に出来ることをやる。進むしかない。強くなるしかないって、そう思った」

 

 理由は、それだけだった。

 

「……大変だったんだね」

 

「まあな」

 

 軽く返し、この話題を終わらせようとした、その時。

 

「……ねぇ」

 

 また、彼女が呼んだ。

 

「例えば、だけど」

 

 視線は海に向けられたまま、言葉だけがこちらに届く。

 

「どんな願いでも叶う島があるって言われたら、行きたい?……みんなが楽しいって思える島があったら」

 

 声が、わずかに揺れている。まるでそんな力でもあるかのように恐る恐る聞いてきた。そんな彼女に対し、思ったことをそのまま伝える。

 

「え? 行かない」

 

 彼女は、はっきりとこちらを見る。

 

「……ど、どうして?」

 

「怪しい」

 

「そういう理由じゃなくて」

 

 珍しく、食い下がってくる。

 

「願い、叶うんだよ? 何でも」

 

「だからだ」

 

 俺は、ゆっくりと言葉を選んだ。

 

「何でも叶うってことは、自分で選ばなくていいってことだろ」

 

「……楽じゃない?」

 

「楽だよ」

 

 そう認めたうえで、続ける。

 

「でもな、人間ってのはよく出来てて、楽すぎるとクソになる」

 

「……え?」

 

「汗水かいて稼いだ金は大事に使うけど、他人からもらったお年玉は、気づいたら消えてる。そんなもんだ」

 

 足元の小石を拾い、海へ投げる。

 波紋が静かに広がり、すぐに消えていった。

 

「君は勝負が好きかい?」

 

「……小さい頃、友達とよく勝負してた」

 

「君が望んだ世界じゃ、勝ち負けは無い」

 

 波紋の名残を見つめながら続ける。

 

「勝って嬉しいって気持ちも無い。だって、お互いに勝ちを望んだら、世界は“負けない”をくれるからな」

 

 彼女は黙り込む。

 海風が、髪をわずかに揺らした。

 

「……よくわかんない」

 

「世の中、漫画みたいな世界は無い。全部が思い通りにならないから、人生は面白いんだ」

 

「……それ」

 

「ん?」

 

「友達も、似たようなこと言ってた」

 

「そっか。気が合うかもな」

 

「ふふ……そうかもね」

 

 小さな笑い声。

 彼女は、この話を否定しなかった。

 

 願いが叶う島に行かない理由を、まだ完全には理解できていない。

 けれど──

 

 理解しようとするだけの距離には、確かに、なっていた。

 

 

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