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クマさんに頼み、エレジアの近くの島へと飛ばしてもらい、船を借りて島に降り立った瞬間から、違和感はあった。
映像電伝虫で聞いたあの歌声が、この島のどこにも存在していない。音がないわけじゃない。風の音も、瓦礫が擦れる音もある。ただ、人の気配だけが、意図的に消されている。
エレジアは、静かすぎた。
まるで『ここでは音を立てるな』と、島そのものに言われているような感覚。
俺は無意識のうちに足音を抑えて歩いていた。
廃れた劇場の前で、彼女を見つけた。
色分けされた髪は、映像で見たままだった。だが、印象はまるで違う。
舞台に立つ人間の姿ではない。歌姫でも、アイドルでもない。ただ、そこに“立っているだけ”の少女だった。
彼女は、壊れた客席を見下ろしていた。
歌うでもなく、笑うでもなく、何かを懐かしむようでもあり、同時に切り離そうとしているようでもある。そんな曖昧な背中。
「……すまない。ちょっといいか?」
声をかけた瞬間、空気が変わった。
彼女は素早く振り返り、即座に距離を取る。
その動きに、ためらいはない。何度も繰り返してきた反応だと、直感で分かった。
「誰?」
感情を削ぎ落とした、警戒だけの声。その瞳は、暗く、何も写さず、何かに絶望している。その目を知っていた。あの映像で見た瞳と、全く同じだったから。
「俺は、ジェム。ここに歌手をやってる人はいないかな? 映像電伝虫で発信している人がいたと思うんだけど」
「……いない。そんな奴」
──いない? 俺はこの子が歌っていると思っていたが、違うのだろうか?
「君は、歌わないのか?」
そう言うと、少女の目がわずかに揺れた。
怒りではない。拒絶でもない。もっと別の、触れられたくない部分を突かれたような反応。
「……やめたの」
それだけ言って、視線を逸らす。
その仕草が、答えのすべてだった。
歌えない、ではない。
歌わない、でもない。
──やめた。
自分の意思で、切り捨てた言い方だった。
──お、重い……。軽い気持ちで来ちゃダメだった奴だわこれ。
俺は、すぐには言葉を返さなかった。
踏み込めば拒絶されると分かる境界線が、そこにははっきり引かれていたからだ。
彼女は俺を見ない。
視線は劇場の床、割れた石材、剥がれ落ちた装飾へと向けられている。まるで、過去を数え直すように。
「……そっか」
間抜けなくらい、素っ気ない返事。
慰めも、励ましも、説教もない。
我ながら、情けないくらいの語彙力だ。
彼女は、ちらりとこちらを見る。
様子を窺う目。“どうせ何か言うんでしょ”という警戒。
──うーん。これはあれだ。ミス・バレンタインが任務前の俺を見た時の目と一緒。余計なこと言うとぶん殴る。ちょっと、人と話したくないんだから、どっか行け。とか言われる奴。
言葉に熱はなかった。
諦めでも、悲嘆でもない。ただ、もう議題にすらならない事実として整理されている。
俺は、小さく息を吐いた。
「……じゃあ、俺が来たのも無意味か」
「そう」
だが、言葉ほど突き放すような声音ではない。
拒絶はしているが、敵意はない。むしろ、遠ざけることで守ろうとしているようにも聞こえた。
歓迎ではない。許可でもない。ただ、線を引いた上での最低限の理解。
「ここは、何も残ってない島だから」
彼女は、劇場を見回した。
「歌ってた頃の私も、聴いてた人たちも、全部……もう、いない」
“死んだ”とは言わない。
だが、存在しないものとして扱っている。感情を挟まない、冷たい整理。
「だから」
そこで彼女は、ようやくこちらを見た。
「歌を求めて来たなら、帰って」
その視線は、真っ直ぐだった。
怒りも、涙もない。逃げ場のない現実だけを突きつける目。
俺は、すぐに頷かなかった。
「まぁ、求めてたのは、歌じゃないんだけどな」
「じゃあ、何」
「あの映像を撮った子と話がしたかったからだ」
一瞬、彼女の表情が固まった。
踏み込み過ぎたか?とも思った。
だが、彼女は視線を逸らさなかった。
「……意味ないよ。そんなの」
そう言いながらも、声は低く、少しだけ掠れていた。
「いるだけ。生きてるだけ。それ以上でも以下でもない」
ただ、何かを失ったあとでも立っていなければならなかった、ひとりの人間の言葉だった。
「そっか。なら、今日はこのまま帰るよ」
俺は一歩引き、踵を返すと、彼女が、わずかに目を見開いた。
「……歌手を探してるんじゃないの?」
「本当はね。でも、無理矢理やらせるのは嫌だからな」
嘘ではない。
説得も、救済も、この場では不可能だと理解した。
「歌いたくなったら、教えてくれ。それまでこの島をぶらぶらしてっから」
足音を立てずに歩き出す。
背後から、呼び止める声はなかった。
ーーーー
あの子に出会ってから、何日かが過ぎた。
正確な日数は覚えていない。
あの子は心を閉ざしてる。考えるだけ意味ない。何度もここに来て、何度も同じ場所に腰を下ろし、何度も昨日とは違う何かをする。そんだけ。
城の外、海に近い崖の上。
背の低い岩が一つあり、そこが彼女の定位置だった。
彼女はいつも膝を抱え、海を見ている。
どこか遠くを見ているようで、実際は何も見ていない。視線は水平線の少し手前で止まり、波の音だけを聞いているようだった。世界と距離を取ることに慣れきった、そんな座り方だ。
「はぁ……はぁ……よっ。今日もいい天気だな。絶好の引きこもり日和だ」
走ってきて息が上がっていたが、いつもの調子で声をかける。
明るく、軽く、深刻さは一切混ぜない。ここでは、それが一番安全な挨拶だった。
彼女は、ちらりとだけこちらを見た。
顔は動かさず、目線だけを寄越す。
「……また来たの?」
拒絶でも歓迎でもない。
ただの事実確認。天気を聞くのと同じ温度だ。
「おう。常連だからな。そろそろスタンプカード作ってくれてもいいぞ?」
「作らない」
「そりゃ残念」
俺は彼女の隣──よりも、少し離れた岩に腰を下ろす。
距離感は大事だ。詰めすぎると、彼女は無言で立ち去る。これまで何度かやらかして、ようやく学んだ。
潮風が吹き抜ける。
二色の髪が揺れ、光を反射した。何度見ても、やけに目につく色だと思う。
「さっき面白い事があってさ」
「……興味ない」
「話してもないのに」
「だいたい分かる」
それでも、俺は話す。
「さっき島の反対側でさ、岩に足引っかけて転んだんだけど、ちょうど目の前にカニがいてさ。鼻挟まれて赤っぱなのでかっ鼻になっちまったんだ」
「……」
「……なんかごめん」
こんな感じで反応が全くない。
俺の話がつまらない可能性も高いが、それでも彼女は立ち去らない。それだけで、今日は上出来だった。
「今日はいいもの持ってきててさ」
「いらない」
「そう言わずに、せっかく作ったんだ。良かったら食べてくれ」
そう言って取り出したのは、簡単なパンケーキだった。
島の材料で作れる、砂糖控えめの生地に、上から溶かしたチョコをかけただけのもの。昔、ミス・バレンタインの機嫌が悪い時によく作っていた。
「……ホイップはないの?」
思ったより具体的な注文が飛んできて、少しだけ笑ってしまう。
「ごめんな、泡立て器が無いんだ」
「……ふうん」
受け取らないと思っていた皿を、彼女はしばらく見つめてから、ゆっくりと手に取った。
警戒は消えていない。毒でも盛られているかのような慎重さで、フォークを構える。
小さく切り分け、ほんの一口。
……反応がない。
「あー……美味しく無かったら残していいからな?」
やっぱり駄目だったか、と内心で肩をすくめかけた、その時。
彼女の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
眉が、わずかに動く。
それから、もう一口。今度は、さっきより少しだけ大きい。
「……」
無言のまま、三口目。
「……焦げてない」
「褒めてる?」
「事実を言ってるだけ」
そう言いながらも、フォークは止まらない。
チョコのかかった部分を、無意識に選んで食べている。
しばらくして、彼女は皿を見下ろした。
「……これ」
「ん?」
「温かい」
その言葉に、少しだけ間が空いた。
「焼きたてだからな。冷める前に持ってこうって思ってな」
彼女は何も言わなかったが、パンケーキを置く手つきが、最初よりもずっと雑になっていた。
最後の一口を口に運んだあと、皿の端についたチョコを、指でそっとすくう。
そして、気づいたように手を引っ込めた。
「ん」
短く言って、空になった皿を差し出してくる。
顔は相変わらず無表情だ。
けれど、さっきまで固まっていた肩は、少しだけ力が抜けている。
「ホイップ、次は用意して」
「はいはい。善処します」
彼女はそれ以上何も言わず、また海に視線を戻した。
けれど、膝を抱える腕の位置が、ほんの少しだけ緩んでいた。
料理が美味しかったのか。
それとも、誰かが自分のために作ったという事実が、少しだけ嬉しかったのか。
どちらでもいい。
彼女が拒絶せず、全部食べてくれた。十分だ。
だから、少しだけ声のトーンを落とす。一段、踏み込む。
「……ここ、退屈じゃないか」
「……別に」
「他に人はいないのか?」
「……1人だけ。あとはいない」
その言葉に、彼女の肩がほんのわずかに強張った。
分かりやすい反応だ。触っちゃいけない場所に触れた、という感触。
「何か好きなもんとかある?」
「……ない」
嘘だな、と思う。
でも、否定はしない。否定したところで、扉が一枚増えるだけだ。
「じゃあ、嫌いなもんは?」
わざと明るく言う。ヘラヘラと、無害ですよと手のひらを見せるみたいに。
「……海賊」
「お、奇遇。俺も嫌い。アイツら暴力しか頭に無いからなぁ」
その瞬間、彼女がこちらを見た。
真っ直ぐで、感情の読めない目。試すような視線。
これ以上踏み込むな、という目ではない。
むしろ、興味を向けられている気がした。気がしただけかもしれないが。
「なんで嫌いなんだ?」
「……裏切られたから」
短い答え。
それ以上、掘り下げる気はないと分かる声音だった。
俺は、そこで止めた。
「明日も通っていい?」
「……勝手にすれば」
それは許可じゃない。
でも、拒絶でもない。
俺は、それを「続けていい」と受け取った。
翌日も、その翌日も、同じ場所に来た。
変な踊りを披露した日もあった。
即興で意味の分からない歌を歌った日もあった。
島で拾った、どう見てもただの石を「珍しい石」だと言い張った日もある。
彼女は笑わない。
反応しない日も多い。
それでも、少しずつ変わるものがあった。
俺が来る前に立ち去らなくなった。
俺の話を途中で遮らなくなった。
沈黙が、以前ほど重くならなくなった。
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「さて、船に戻りますかね」
静かな島。それがこの島の第一印象。
潮騒は確かに耳に届いているし、風も木々を揺らしている。それなのに、人の気配だけが、まるで最初から存在しなかったかのように希薄だ。島全体が深い眠りに沈んでいる。人1人いない島。
──と、思ってたんだがな。
後方。距離はある。だが、確かに“いる”。
隠す気配がない。
いや、正確には──隠そうという意思そのものが感じられない。力量以前に、やり方を知らない、そんな気配だ。ウタに接触してから、ずっと遠くから見られている。
「……何かようか?」
声は低め。冗談の入り込む余地を、最初から排したトーンだ。
「尾行するなら、もうちょい上手くやれ。素人丸出しだ」
数拍の沈黙の後、岩を踏みしめる重い足音が響いた。逃げる気はないらしい。むしろ、呼ばれるのを待っていたようにも思える。
振り返った先に立っていたのは、大柄な男だった。年齢は五十代前後。眉間に深く刻まれた皺と鋭い目つきが、第一印象を最悪なものにしている。正直なところ、善人に見える要素は一つもなかった。
「……あの子に近づくな」
──第一声がそれか。怪しさ満点だなおい。
「そう言われてはい、そうですかと言えるほど、利口じゃないもんで。ちゃんと教えてくれるかな? あんたは誰で、この島はなんでこんな壊れているのか」
壊れされた家。天地が入れ替わった家。遠くに見える崩壊した城。
どう見ても異常だ。
何かがいる。それがあの子が歌を歌わない理由と関係している。それをこの男は知っている。ここで逃すわけにはいかない。
「……そう言う君も、何者なのか答えてもらっていない。それを知らない限り、私から話すことは何もない」
そう言われて、俺はこう思った。
「確かに」
──白髪グラサンムキムキ男が女の子に近付いてんだ、警戒すんのが当然すぎるじゃねぇか。
「申し訳ない。俺はジェム。この島に流れ着いた……と言うと語弊があるな。ここから聞こえた歌声に、どうしようもなく惹かれて来た」
そう告げて、軽く両手を上げる。
武器を持っていないこと、敵意がないこと──言葉より先に伝えたかった。
「あの子の声が、あの子の歌声が、俺にはどうしても忘られないんだ」
俺が言いたいことを言い終わると、沈黙が落ちた。
潮の音が、やけに大きく聞こえる。
さっきまで意識していなかったはずの波が、耳の奥を叩いてくる。
男は俺を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
睨んでいるわけでも、値踏みしているわけでもない。
ただ、じっと──確かめるような目だった。
「……そうか、君も彼女の歌声が……」
言葉尻が、わずかに揺れる。
「?」
含みのある言い方に、思わず首を傾げる。
「私はゴードン。この島で、あの子の世話をしている者だ」
「え? 不審者じゃなくて?」
「失礼だな君!?」
即座に返ってきた怒声に、逆に拍子抜けする。
──いやだって、あの子の歌声は私のために使うのだ!とか、他の人間にアイツをうまく使えるか?とか言いそうなタイプじゃん。めっちゃエアプしたわ。
ゴードンは、しばらく黙っていた。
視線を外し、崩れた城の方角へと目をやる。その横顔は、先ほどまでの剣呑さとは違い、どこか疲れ切った老人のそれだった。
「……君の言葉が嘘だとは思わない」
低く、重い声だった。
そこで一度、言葉を切る。
喉の奥で何かを飲み込むような仕草だった。
俺は何も言わず、続きを待った。
ゴードンは再びこちらを見る。
だがその目は、俺ではなく、もっと遠い過去を見ているようだった。
「この島がこうなった理由も、彼女が歌わなくなった理由も……私は知っている」
胸の奥が、わずかに軋む。
「だが、それを語る資格が、私にあるのかどうか……今も分からない」
「何故?」
「私は……彼女の力を恐れているからだ」
それだけは、嘘ではなかった。
「同時に、彼女がその力ゆえに傷つくことを、誰よりも恐れてもいる」
沈黙が落ちる。
潮騒が、再び島を満たす。
「君に全てを話すつもりはない」
ゴードンは、深く息を吸った。
「彼女の歌を“聴く者”として、ここへ来た君にだけは、一つ頼みたいことがある」
その声音には、迷いと、諦めと、そして覚悟が混じっていた。
「もし、彼女が再び歌おうとするなら。もし、島の外へ目を向けようとするなら──」
視線が、まっすぐ俺を捉える。
「その時は、彼女の傍にいてくれ」
それは命令ではない。
懇願に近い言葉だった。
「私には、もう……彼女を正しい方向へ導く自信がない」
自分が選び続けてきた“守り方”が、彼女を縛ってきたことを、ゴードンは理解している。
それでも、今さら全てを告げる勇気がない。
「君が信じる歌を、信じてやってほしい。
そして、私にどうか……彼女の歌の指導を、続けさせてほしい」
それだけ言って、ゴードンは視線を落とした。
肩から、長い時間背負ってきたものが、少しだけ零れ落ちたように見えた。
「……大変なんだな、あんたも。抱えてるんだな」
慰めるつもりはなかった。
ただ、事実としてそう思った。
俺はこの人のことを何も知らない。
それでも、この人がずっと一人で、あの子の未来と向き合ってきたのだけは分かる。
「なら、一つ質問をいいか?」
「……何かね?」
少し身構える声音。
「彼女が好きな食べ物は?」
「……パンケーキだな。ホイップが沢山のってあると、あの子は……よく笑っていた」
「ハハ……」
思わず、声が漏れる。
「……あんた、やっぱりあの子の親だよ」
ゴードンは一瞬目を見開き、それから、困ったように眉を下げた。
「私は、本当の父親ではないが」
「そうか。でも、親だよ」
血の話じゃない。愛情の話だよ。
「任された……あの子の“本当の歌”を、俺も聞きたいからな」
ゴードンは何も言わなかった。
ただ、深く頭を下げた。
その背中が、少しだけ軽くなったように見えた。
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そして、今日も、俺は崖に来た。
「いやー、天気悪いな。まあ俺の人生に比べたら、雲一つない快晴だけど」
返事はない。
けれど、耳は確かにこちらを向いている。
隣に腰を下ろす。
しばらく、波の音だけが続いた。
今日は、なぜか言葉が軽く出てこない。
「……なぁ」
声を落とす。
「歌、嫌いになったわけじゃないよな」
肩が、わずかに強張る。
「……どうして、そう思うの」
「嫌いなら、もっと分かりやすく拒絶する」
指で小石を弾く。
「君は、避けてるだけだ。それって……怖いってことだろ」
間があった。
風が吹き、二色の髪が揺れる。
「……怖いよ」
独り言みたいな声だった。
「歌うのが」
俺は、すぐに反応しなかった。
こういう言葉は、急ぐと引っ込む。
「……何が、怖い?」
「歌は……私を一人にするから」
指先が、きゅっと握られる。
「歌うと、思い出すの」
空気が変わる。
俺は、聞き返さない。
「褒められたのも……捨てられたのも……楽しかったのも、苦しかったのも……止められなかったことも」
淡々とした声。
だからこそ、押し殺しているのが分かる。
「だから……歌わなければ、思い出さなくて済む」
俺は、何も言わなかった。
「……ごめん」
「謝る理由、ないだろ」
潮の音だけが続く。
「……聞いて、どう思った?」
試すような問い。
「どうも思わないって言ったら、怒るか?」
「……怒らない」
「じゃあ、それだ」
海を見たまま、声をかけずに、思ったことをそのまま告げる。
「歌が怖いなら、怖いままでいい」
指先が、ぴくりと動く。
「無理に克服する必要もない。歌わなきゃいけない理由があるなら、それを決めるのは君だ」
初めて、彼女を見る。
「俺じゃない」
彼女は膝に顔を埋めた。
泣いてはいないように見えるが、何かを考えているのだろうか? 少しすると、彼女は顔を上げ、こちらを見た。
「……歌わない私でも、来る?」
「来る」
「何も出来なくても?」
「それでも来る」
「……失望、しない?」
「何を期待してないと思ってる」
しばらくして、彼女が小さく言った。
「……また、来て」
「おう」
軽く返す。
「常連だからな」
立ち上がると、彼女はもう俯かなかった。
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あの日から、彼女はほんの少しだけ変わった。
劇的な変化ではない。
笑うようになったわけでもなければ、饒舌になったわけでもない。
ただ、以前よりもこちらを見るようになった。
それだけのことだが、俺にとっては十分すぎる変化だった。
崖の上にある、いつもの岩場。
空は澄み切り、海は穏やかで、風もほとんど感じられない。世界が静かに呼吸しているような、何も起こらない午後だ。
俺が岩に腰を下ろすと、彼女は珍しく、こちらが何か言う前に口を開いた。
「……ねぇ」
「お?」
名前を呼ばれるわけでもないのに、声を向けられるだけで、少しだけ背筋が伸びる。まだ慣れない感覚だった。
「あなたって、ここに来る前、何してたの?」
意外な質問だった。
これまで彼女が、俺の過去に興味を示したことはなかったからだ。
「んー……仕事?」
「仕事」
オウム返しのように繰り返される。
けれど、その声には、話を切り上げようとする気配はなく、ちゃんと聞く意思が滲んでいた。
「海賊?」
「違うな」
「旅人?」
「それも違う」
少し考えてから、肩をすくめる。
「……会社員。ちょっと怖めな」
彼女は目を瞬かせ、わずかに首を傾げた。
「……怖いの?」
「嗚呼。任務失敗したら殺されるくらいの」
一瞬、空気が止まった。
波の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……犯罪者?」
「ニアピン」
どう返していいかわからなかったのだろう。
彼女は少し眉を寄せ、視線を足元へ落とした。
「……どんなこと、してたの」
正面から話すには、まだ気恥ずかしい。
俺は海の方へ視線を逃がしながら、言葉を選んだ。
「任務だよ。潜入したり、誰か捕まえたり、物壊したり」
「……怖くなかった?」
「怖いぞ。毎回死にかけてるし」
言ってから、少しだけ後悔する。
重すぎたかもしれないと思ったが──彼女は、目を逸らさなかった。
「……どんな?」
「最初の任務で、自爆して気絶したり」
「……じばく……」
「勘違いで骨折られて、借金が一億になったり」
「……いちおく……」
「倉庫もろとも爆破したり」
指を折りながら数えると、彼女は思わずこちらを見た。
「……それ、全部生きてるのおかしくない?」
「よく言われる。運がいいか、しぶといか、その両方だな」
冗談めかして言ったが、実際のところ、どちらも否定できなかった。
「……怖くて、やめたいって思わなかった?」
その問いは、ほんのわずかに震えていた。
「何度も思った。逃げようともしたし、全部投げ出したくなった」
「……それでも、やめなかった?」
「やめなかったな」
少し間を置き、続ける。
「俺には、それするしか無かった。今、俺に出来ることをやる。進むしかない。強くなるしかないって、そう思った」
理由は、それだけだった。
「……大変だったんだね」
「まあな」
軽く返し、この話題を終わらせようとした、その時。
「……ねぇ」
また、彼女が呼んだ。
「例えば、だけど」
視線は海に向けられたまま、言葉だけがこちらに届く。
「どんな願いでも叶う島があるって言われたら、行きたい?……みんなが楽しいって思える島があったら」
声が、わずかに揺れている。まるでそんな力でもあるかのように恐る恐る聞いてきた。そんな彼女に対し、思ったことをそのまま伝える。
「え? 行かない」
彼女は、はっきりとこちらを見る。
「……ど、どうして?」
「怪しい」
「そういう理由じゃなくて」
珍しく、食い下がってくる。
「願い、叶うんだよ? 何でも」
「だからだ」
俺は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「何でも叶うってことは、自分で選ばなくていいってことだろ」
「……楽じゃない?」
「楽だよ」
そう認めたうえで、続ける。
「でもな、人間ってのはよく出来てて、楽すぎるとクソになる」
「……え?」
「汗水かいて稼いだ金は大事に使うけど、他人からもらったお年玉は、気づいたら消えてる。そんなもんだ」
足元の小石を拾い、海へ投げる。
波紋が静かに広がり、すぐに消えていった。
「君は勝負が好きかい?」
「……小さい頃、友達とよく勝負してた」
「君が望んだ世界じゃ、勝ち負けは無い」
波紋の名残を見つめながら続ける。
「勝って嬉しいって気持ちも無い。だって、お互いに勝ちを望んだら、世界は“負けない”をくれるからな」
彼女は黙り込む。
海風が、髪をわずかに揺らした。
「……よくわかんない」
「世の中、漫画みたいな世界は無い。全部が思い通りにならないから、人生は面白いんだ」
「……それ」
「ん?」
「友達も、似たようなこと言ってた」
「そっか。気が合うかもな」
「ふふ……そうかもね」
小さな笑い声。
彼女は、この話を否定しなかった。
願いが叶う島に行かない理由を、まだ完全には理解できていない。
けれど──
理解しようとするだけの距離には、確かに、なっていた。