最初に会った時のことを、私はよく覚えている。
劇場に私はいた。普段は島の外側にいる。この島を歩くたびに、歌のことを思い出すから。でも、あの日は特別な日だった。
だって、シャンクスたちに捨てられた日だったから。
あの日の出来事がずっと、頭から消えない。忘れられない。国は燃えて、高らかに笑っていた。私を騙して、アイツらは私を捨てたんだ。でも、それも日が経つごとに変わっていって、虚しさだけが残った。
それを忘れたくなくて、私はこの日に劇場に来る。
そんな時にアイツは来た。
「ここに歌手はいないか?」
まさか、そんな人が来るとは思わなかった。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。
「……いない。そんな奴」
「そうか。君は、歌わないのか?」
その一言で、心の奥を指で弾かれたような感覚が走った。
怒りでも、拒絶でもない。ただ、触れられたくなかった場所を、正確に踏まれた。それだけ言って、視線を逸らす。
「……やめたの」
それで、十分だった。
歌えない、じゃない。
歌わない、でもない。
──やめた。
自分の意思で、切り捨てた言葉。
もう戻らない、と自分に言い聞かせるための言い方。
彼は、すぐには何も言わなかった。
けれど、それは重苦しいものではなく、むしろ踏み込まないための間だった。
私は彼を見なかった。視線は、劇場の床、割れた石材、剥がれ落ちた装飾へと落ちていく。
まるで、過去を一つずつ数え直すみたいに。
「……そっか」
間の抜けたくらい、素っ気ない返事。慰めも、励ましも、正論もない。拍子抜けするほど、何も背負わせてこない言葉。
思わず、彼をちらりと見た。
どうせ、ここから何か言う。そんな警戒を含んだ視線だったと思う。
でも、彼は続けなかった。言葉に熱はなかった。諦めでも、悲嘆でもない。ただ、「そうなんだな」と事実を受け取っただけの声音。
結局、あっさり彼は帰ってしまった。
彼の足音が完全に消えてから、私はゆっくりと息を吐いた。
劇場に戻った静けさは、胸の奥まで染み込んでくる。
誰もいないはずなのに、さっきまでの会話だけが、空気に残っている気がした。
変な人だ。
『歌いたくなったら、教えてくれ』
彼の言葉が、遅れて胸に触れた。
歌え、とも。歌うべきだ、とも言われていない。
ただ、歌いたくなったら。
何も解決していない。何も救われていない。
それなのに、胸の奥で固まっていた何かが、わずかに軋んだ。
「……めんどくさ」
大好きだった歌を歌わないと決めた癖に、たまたまあった人の言葉で揺らいでいるのか。くだらない。もう会うことも無いだろうし、忘れよう。
立ち上がり、劇場を見渡す。
壊れたままの景色。過去のままの場所。
それでも。ここに来た理由が、歌だけじゃなかったことが、少しだけ引っかかっていた。
会うつもりはない。話す必要もない。そう思いながら、私は一度だけ、入口を振り返る。
誰もいない。
けれど、歌を憎む理由の奥に、“歌わなくても存在していい”という、知らなかった選択肢が、静かに残っていた。
私はその感情に、名前をつけないまま、ゆっくりと背を向けた。
なのに──
「よっ。今日もいい天気だな。絶好の引きこもり日和だ」
アイツは、また来た。
軽くて、緊張感がなくて、真剣な空気を壊すことを、何とも思っていないみたいな声。
近づいてきて、勝手に喋って、何かを変えようとするでもなく、かといって、放っておくわけでもない。
軽い口調。いつも通りの、どこかふざけた声音。
でも──それだけで、胸の奥に溜まっていた不安が、すっと引いていく。
ジェムは気づいたのか気づいていないのか、いつもの調子で隣に腰を下ろした。
「今日の奴も自信作だ。食べてみてくれ」
パンケーキを褒めてから色々料理を作ってくれる。私のために作ってくれてるのが嬉しかった。ゴードンも作ってくれるけど、健康に気を遣ってくれた食事が多くて、甘いものとかはあまりなかったから。
そう。お世話をしてくれているんだ。なのに、私は何も、何もしていない。何も出来ない。
「……まぁまぁ」
「そっか、良かった」
「……まぁまぁって言った」
「君のまぁまぁは上手いってことだろ? 最近わかるようになった」
「……知ったみたいに」
──この人は、何がしたいんだろう。
歌の話をしなければ、無理に慰めないし、励ましもしない。
ただ、そこに来て、くだらない話をして、あと、ケーキとかいろいろ作ってくれて、それはすごい美味しかった。私が黙っていても、気にしない顔をしていた。
それが、少しだけ、怖かった。
期待されないことに慣れていなかったから。
何も求められない距離が、どう扱えばいいのか分からなかった。
でも──
いつの間にか、私は彼が来る時間を覚えていた。
シャンクスたち、ゴードン、ルフィもか、男の人、それも全く知らない人と話すなんて久しぶりだった。今の私が誰かと話したいと思えないけど、話してくれるのは、退屈な時間を埋めるのに好都合だった。
風の向きとか、足音の癖とか、今日はどんな変な話をしてくるんだろう、ってこととか。今日は何を作ってくれるんだろうか? とか……それが1番大きいかも。
何もしない私に、彼はずっとそばにいてくれた。何も聞かずにいてくれた。だから、つい、聞いてしまった。
──歌わない私でも、来る?
そう聞いた時、彼は、迷いもなく言った。
──ああ、来るよ。
だから、気になった。この人はどんな人なのだろうと。
相変わらず、おちゃらけている。
軽口ばかりで、真面目な話を避けるみたいに笑う。
でも、知ってしまった。
あの人が、何度も死にかけたこと。怖いままで、前に立ってきたこと。傷つくことを今でも恐れていること。
それなのに、私の前では、怖がることを否定しない。
ただ、「選ぶのは私だ」と言ってくれた。
それが、今の彼への想い。
尊敬でも、憧れでも、まだ、名前をつけられるほどのものじゃない。
でも──
彼が傷つくかもしれない場所に、私が原因で立つことになるのなら。私は、歌わなくても、逃げずに、そこにいたいと思った。あの人が、怖いままで立ったように。
だから私は、今日も考える。
ジェムが来る時間に、ちゃんと、ここにいようって。
それだけでいい、と初めて思えたから。
────
「……私さ」
言葉が、自然とこぼれる。
「歌がないと、空っぽなの。歌以外、何も出来ないから」
「そうなのか?」
「でも、歌うと……思い出すの。嫌なことばっかり」
「だろうな。なんとなく察するよ」
ルフィだったら、きっとこうは言わない。
「細けェこと考えんな!」って、笑って終わらせる。
それはそれで、救いだった。
でも──今の私には、ジェムの言葉が深く沁みた。
「……それでもさ。歌が嫌いになったわけじゃないんだろ?」
胸が、きゅっと縮む。
嫌い、ではない。ただ、怖いだけ。それを、どうして分かったんだろう。
「嫌いだったら、こんな顔しねェよ」
冗談みたいに言うのに、目は真剣だった。
ルフィにも、そんなところがあった。いつもガキンチョな癖に、妙に鋭い。でも、嫌じゃなかった。むしろ、そのことが少し嬉しい。
「無理に歌わなくていい。でも、無理に嫌いにならなくてもいい」
ジェムは、私の方を見ずに言った。
逃げ道を、ちゃんと残すみたいに。
「歌うかどうかは、君が決めりゃいい。誰のためでもなく」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
ルフィは、私を引っ張ってくれる人だった。
前だけを見て、手を引いて、「行こう!」って言う人。
ジェムは、隣に立つ人だ。
立ち止まる私を急かさず、同じ景色を見る人。
どっちが正しいとか、じゃない。
でも──
「……ジェムってさ」
「ん?」
「大人だよね」
思ったまま言うと、彼は一瞬だけ目を丸くしてから、苦笑した。
「褒めてんのか、それ」
「うん。たぶん」
ルフィは、ずっと子供みたいだった。それが、強さだった。
ジェムは、大人っぽい。傷つくことを知っていて、それでも笑う。
「大人ってのはさ、怖いもんが増えるだけだぞ」
それでも、その声は軽い。
怖いものを知っているのに、私にそれを押し付けない。
それが──信頼できる、ということなのかもしれない。
胸の奥で、ジェムへの距離が、確かに近づいたのを感じた。
ルフィとは、違う。
でも、どこか重なる。
そして今の私には──この人の隣が、ちょうどいい。
そう思ってしまった自分に、少し驚きながら。
私は、久しぶりに小さく笑った。
────
ジェムが来てかなりの月日が経った。
それは、いつもの時間だった。
海から吹き上げる風の向きも、波の音の間隔も、全部、知っている。
この崖の上で待つ時間は、もう日課みたいなものになっていた。
──今日は、少し遅い。
ジェムは、遅れる時でも何か言ってから来るし、仕事がある時はいつも言ってからいなくなる。ふらっと消える人じゃない。
私は、岩に腰を下ろしたまま、膝を抱えた。
空は明るい。嫌な天気じゃない。それなのに、胸の奥が落ち着かなかった。
「来ない、のかな」
独り言が、風にさらわれる。
もう私に飽きてしまったのだろうか? それとも、やっぱり歌を歌わない私を嫌いになったのだろうか? そういう不安が増していく。
その時だった。
「シクシクシク。悲しいですね、悲しいですね」
背後から、聞いたことがない声に心臓が跳ねた。
慌てて振り返ると、そこに“知らない人”が立っていた。
細く長い体。黒いコート。シルクハットに日傘を刺した男だった。その肌は、生きているのか不思議なほど真っ白な色。そんな彼が、涙を流し背後に立っていた。
「……だ、誰?」
私は、無意識に一歩、後ろへ下がった。
「ああ、ここで起きた
問いに答えてもらえず、更に涙を溢れさせる男。どうして良いのか、戸惑っていると、男がピタリと体が動くのをやめた。
「あなたが、トットムジカを呼び起こせる姫ですね?」
私の問いには、答えず、それよりも当たりを見渡し誰かを探している様子。
「……とっとむじか。何、それ」
「今日はあなたにお礼を言いにきたのです」
先ほどから会話が一方通行で、こちらの話を全く聞く気がない。言いたいことだけを言って来る。ジェムとは真逆の人間だ。
「私は、人の悲しんでいる姿を見ると、辛いのです。悲しいのです」
男はそう言って、頬を伝う涙を指先で拭った。だが、その仕草はどこか芝居がかっていて、本当に悲しんでいるようには見えない。むしろ、その言葉とは裏腹に、声の奥にかすかな高揚が混じっていた。
私は言葉を返せなかった。何かがおかしいと、本能が告げている。男は一歩、近づき、傘の影に隠れていた目が、わずかに細まる。
「ですが、それ以上に──安心するのです」
その一言で、空気が冷えた。
「……そんなわけないでしょ。性格悪い」
「そうですか? 自分より不幸な人間がいる。自分より壊れている人間がいる。自分が辛い人生を送っていても、
男は優しく、諭すように、ゆっくりと、距離を詰めてくる。
その言葉に、胸の奥がざわついた。思い当たる節が、ないわけではない。だが、それを言葉にされることに、強い嫌悪が生まれる。
「嫌、来ないで」
「否定しなくてもいいのですよ」
さらに一歩。
「歌えなくなったあなた。過去に縛られているあなた。あなたが歌を歌わないのは、自分が他者より劣っていることを自覚してしまうから」
言葉が、鋭くなる。
「自分が落ちた人間だと自覚する」
「違う!」
怒鳴りつけるかのようにはっきり否定する。だが、男は嬉しそうに頷く。
「ええ、違うのでしょう。あなたはきっと、そう言うべきなのです」
男の声は柔らかい。だが、その柔らかさが、かえって逃げ場を奪う。
「人は皆、そうやって自分を守ります。とても正しいことです。とても──哀れですね」
呼吸がどんどん浅くなる。
胸の奥に触れられているような、不快な感覚。見透かされているのではなく、“言葉で形にされてしまう”ことへの嫌悪。
「うるさい、うるさい、うるさ──っ!?」
視界が、揺れる。そして、男に口を手で塞がれた。
その瞬間、私の脳裏にあの日の光景が、脳裏をかすめる。
あの日、大切な人に裏切られ、燃え盛る街、滅びた国、止められなかった声。届かなかった歌。崩れていく人たち。
「炎。叫び声。逃げていく船」
「あなたは見た。赤髪海賊団が、あなたを置いていった瞬間を。あなたが笑わなくなった理由。歌が怖くなった理由。全部、そこにある」
「やめて……」
視界の中で、人々が倒れていく。苦しむ。もがく。自分の歌が、それを引き起こしている。分かっているのに、止められない。
「やめて……やめてよ……!」
声にならない叫びをあげると、彼が手を離し、嬉しそうに表情を変える。その目には涙を流しながら。
「いいですね、いいですね。素晴らしい悲劇。素晴らしい悲鳴。私は安心します。あなたのような不幸な人間がいることに。
本当の両親から見捨てられ、認めてくれた国を滅ぼし、育ててくれた人に裏切られた。
それは、あなたが歌を愛してしまったから。あなたが起こした悲劇!! 嗚呼、なんて素晴らしいんだ!!」
どれだけ耳を塞ごうと、彼の言葉が私に届く。その場で頭をふせ、彼を見ないようにするしか私には出来なかった。
「なんで……なんでこんな思いしなきゃダメなの?」
「シクシクシク、可哀想に。どうして、あなたがそんな目に遭わなければならないのでしょう。
何故、自分がこんな不幸な目に遭っていながら、のうのうと生きている人間がいるのでしょう。
そう思いなさい。解放しなさい。その嘆きを、その怒りを、その力を。
あなたの思う本能のまま、暴れて仕舞えば良いのです。他者に悲劇を、他人に、
涙が止まらない。辛い。苦しい。悲しい。言葉が、ゆっくりと沈んでいく。悲しみが私を視界を暗闇へと誘う。
──怖いなら、怖いままでいい。
何故、思い出したのかは分からない。でも、その言葉を思い出した。ジェムは、特別だなんて、言わない。選ばれたなんて、言わない。
ただ、選ばせくれる。
「……ジェムは、ジェムは待っててくれる」
私の言葉に先ほどまで涙を流し、楽しそうに、感動の涙を流していた男の動きが止まった。
「そうでしょうとも。彼は、あなたを“歌姫”ではなく、ただの少女として見ている。でも、それは本当に、あなたのためでしょうか? 」
また、男が私に告げる。
「自分で選びたくないからと、責任を負いたくないからと、そんなくだらない言葉を告げているのです。その男は何もしていないではありませんか」
「そんな言葉を告げられたところで彼は何もしない。
「考えてみてください。あなたの歌がなければ、あなたの悲劇は、誰にも理解されない」
その瞬間、過去が目の前に現れる。
エレジアが滅んだ夜のことを、私は忘れたことはない。
燃えていた。街も、家も、舞台も。
音楽で満ちていた国が、悲鳴と炎に塗り替えられていくのを、私はただ見ていた。
港に続く坂道。
人々が叫び、逃げ惑い、誰かの名前を呼ぶ声が交差する中で──
私は、海を見ていた。
船が、離れていく。
赤い帆。
赤い髪。
赤髪海賊団。
助けてくれると、思っていた。
一緒に笑ってくれた。
一緒に歌ってくれた。
大丈夫だと、言ってくれた。
でも、船は戻らなかった。
岸に立ったまま、
私は、その背中が小さくなるのを、ただ見ていた。
──捨てられた。
そう理解した瞬間、胸の奥で何かが冷たく固まった。
それから、私は笑わなくなった。
歌うと、思い出すから。
炎の色。人の泣き声。笑いながら逃げていく船。
歌は、楽しいものだったはずなのに。人と人を繋ぐものだったはずなのに。
歌うたびに、私は一人になる。
だから、嫌いになった。
それなのに。
胸の奥に、小さな引っかかりが残っている。
──ジェムだった。
彼と話している時だけ、歌のことを忘れられた。
歌えない自分を、責められなかった。
仕事の話をした時もそうだ。
何度も死にかけた、という言葉を、彼は冗談みたいに笑って言った。
でも、目は笑っていなかった。
──怖かったんだ。
今になって、分かった。彼は、恐怖を軽口で包んでいただけだった。
あの時、私が言った島の話。どんな願いでも叶う島。
彼は、迷わず行かないといった。理由を聞いた私に、彼は肩をすくめて、こう言った。
「叶っちまったら、今ここで必死に生きてる意味がなくなるだろ」
正論でも、綺麗事でもない。ただ、逃げなかった。
怖いはずなのに。傷ついてきたはずなのに。
それでも、彼は「今」を選んでいた。
「……ジェムなら」
「他人に自分の人生を委ねるなど無意味なことはやめなさい。あなたの起こした悲劇は、怒りはその程度なのですか?歌を歌うのです。あなたにはそれしか価値のない人間なんだから!!」
もし、私がこの世界を閉じたことを知ったら、彼は、きっと怒る。
冗談めかして、でも本気で。
それでも──仕方なかったんだな。なんて、言わない。
それでも、俺は行くぞ。と言って、閉じた世界の外から、手を叩いて笑う。
そんな気がした。
彼は、私を歌姫として見ていない。
世界を壊した存在としても見ていない。
ただの、迷っている人間として見る。
それが、どれほど難しいことか、私はもう、知っている。
「……バカだな、私」
正しい。その言葉よりも──ジェムが、正しくなくても前に進んでいた姿の方が、胸に残っていた。
もし、誰かが私の世界を壊すとしたら。
その時、真っ先に浮かんだ顔が、あの軽口ばかりの男だったことに。
私は、少しだけ苦笑した。好感度、なんて言葉で片付けるには、もう遅いくらいに。
彼は、確かに私の中に入り込んでいた。
「私は歌わない」
歌だけが私の全てじゃない。一歩、踏み出してみよう。外の世界を見に行こう。そして、私がやりたいことを見つけよう。
そう突きつけると、先ほどまで泣いていた男の顔が変わり、表情から、すべての温度が消えていた。
「……はぁ……あなたにはがっかりですよ」
首を掴まれ、持ち上げられる。
「かっ……っ!」
その瞬間、感情が、増幅した。
悲しみが、恐怖が、後悔が。何倍にも膨れ上がって、理性を押し潰す。
「私はシクシクの実の悲哀人間。触れた相手を悲しい気持ちにさせる能力」
「うぅっ! い、いや……」
「人は、自分の心を守るために、悲劇を一時的に忘れるように出来ています。けれど、私のシクシクの力があれば、そのトラウマを今起こったことのように呼び起こせる」
耳鳴りがする。喉の奥が、ひりつく。
頭の中に、嫌な想像が雪崩れ込んでくる。
歌わなければ、また失う。
歌わなければ、誰も守れない。
歌わなければ──彼も、きっと。
「違う……っ!」
分かっている。これはおかしい。こんな考え方、私のものじゃない。
「名作と呼ばれる数々はね、いつだって数多の屍の上に立っている。その物語が背負った悲劇が深ければ深いほど、流された涙が多ければ多いほど、奪われたものが大きければ大きいほど──人はそこに意味を見出し、安心し、憐れみ、そして惹かれる。
幸福だけで出来た物語など、歴史には残りません。
苦悩も、絶望も、取り返しのつかない喪失もない英雄譚など、せいぜい一夜の慰めで終わる。
ただ前を向く? それで、何が残るのです?
辛い過去を、血も流していない、国も失っていない、たった数ヶ月一緒に過ごした“男の言葉”で、蔑ろにして良いとでも?あなたの過去は、あなたの悲劇は、そんな軽い言葉ひとつで“乗り越えられるもの”なのですか?
ありえない。そんな都合のいい物語、私は認めない。
あなたは、失った。国を、歌う場所を、信じていた背中を。
だからこそ、あなたの歌には価値がある。だからこそ、あなたの痛みは、世界を変えられる。
あなたが歌えば、誰も傷つかない。誰も悲しまない。奪われることも、捨てられることも、裏切られることもない。そんな夢の国へ行けるのですよ。
現実という名の残酷な物語を、これ以上、続ける必要はない。
あなたは、もう十分に“悲劇”を背負った。ならばその悲劇を、世界のために使うべきだとは思いませんか?」
「……い…や……そんな……しん…せか…い」
「さぁ、あなたの悲劇の始まりですよ」
視界が滲む。
ジェムの顔が、浮かんで──消える。
“歌わなければ失う未来”として塗り替えられていく。
「……っ、あ……」
喉が、勝手に開いた。
息が、音になる。
旋律が、溢れ出す。
やめたい。
止めたい。
でも、止まらない。
歌声が広がるたび、世界が歪んでいくのが分かる。
空間が、舞台になる。
現実が、遠ざかる。
「そう、それでいい」
カルナの声だけが、やけに澄んで聞こえた。
「ハハっ!! 楽しみですね。トットムジカは、どんな悲劇をもたらすのでしょう!?」
歌は止まらない。
まるで、罰のように。
鎖のように。
意識の底で、必死にしがみつく。
──たす……けて…。
誰に向けた言葉かも分からないまま、
私は、心の中で叫んだ。
それが、ジェムの名前になる前に。
世界は、完全に閉じられた。