「お前がポートガス・D・エースか。似てないな」
カツン、と軍靴が甲板を叩いた。磨き抜かれた真っ黒なブーツはさっきまで海に浸かっていたせいで盛大に水音を立てており、歩きにくそうにしか見えない。
モビー・ディックの甲板に水滴で道を作りつつ隅に腰掛けていたエースの元まで歩いてきた女は、人工的な黄色の短髪を揺らしながら何か眩しいものでも見るかのようにブラウンの瞳を細めた。
女のことは知っていた。エースと彼女の関係は、彼女が親父──白ひげに対して新規加入することになるエースの存在を予言したことから始まる。無謀にも白ひげに喧嘩を売ったエースを迎えたのは、予言通りに現れた青年に盛大に笑い転げる船員たちだった。
彼女、メルリオールは海賊とは相容れないはずの海兵で、それも准将と上から数えた方が早い地位にあり、それなのに何故かこの船に馴染んでいた。
曲がりなりにも四皇として新世界に君臨する白ひげの本船に軍艦一船と僅かな部下を連れて突っかかり、毎度撃退されては命を救われしばらくの間船で過ごす。そんな日々がもう5年以上続いており、メルリオールが初めて酒を飲んだのはこの船でのことだと古株連中が楽しそうに語るものだから、エースのような本人を見たことのない新参者はどう反応して良いのか分からなかった。
「……聞かなくたってあんたには分かるんだろ? 占いが得意だって聞いたぜ」
「占い……。そう、占いな」
「?」
つい、と視線が横に逸れた。正気のない表情で、何があるでもない水面を瞳に映す。
メルリオールの未来視を『占い』と揶揄すると烈火の如く怒り出す、という情報は訂正する必要がありそうだ。
こうなったのは2月ほど前、らしい。
それまではギラギラした瞳で海賊に噛み付き、尊大な物言いながらも生来の善性を根底に潜ませる、兄貴分たちの言葉を借りれば『カワイイ』奴だったと聞いた。跳ねっ返りのエースのことを可愛がるような捻くれ者たちだ、その可愛いが陸の人間の感性とズレていることくらいエースにも分かる。
叩いても叩いても折れない芯があって、どんな人間だろうと愚直に正面から見据えようとして、馬鹿馬鹿しい夢を大真面目に語って邁進している。
究極、
けれど、折れたらしい。
ポッキリと折れて、今あるのはこの幽霊のような女だけだ。
そんなものか、と思った。親父たちは評価していたようだが、それも過去の話だ。
そうやって斜に構えて、久しぶりだというメルリオールの襲撃──ないし形ばかりの鎮圧とその後のやり取りを、エースは人混みの端から眺めていた。
自分が加入出来たのはメルリオールの口添えがあったからかもしれない、と考えて会う時があったら声をかけてみてもいいと思っていた。もしくは向こうから声をかけられるかもしれないとも考えていた。だから解散して疎らになった甲板を動かず、気の良い奴らの誘いも断ってここにいた。
「お前、さ」
「ん?」
けれど、今のエースからはそういった考えは全て吹き飛んでいた。
聞かねばならないことがあると思った。
それはエースにとっては勇気のいることで、人生で一度も口にしたことのない言葉だったから、声になるのに暫くの時間が必要だった。
決心して、エースの言葉を待っていたのか突っ立っていただけなのかも分からない女の瞳を見上げて、それがあんまりにも無感情だったので開きかけた口を閉じる。今ではない、と漠然と思った。
「おい、なんだよ」
「いやァ、いいや。お前さ、カワイクねェからもうちょっと笑えよ」
「あ?」
「あ。いや、すまんそうじゃなくて!」
「弁明は要らねェよ、大した言い訳も出来ねェクソガキが」
「違うんだって!」
「はいはい」
咄嗟に言葉の選択をミスったが、言いたかった意味合いは伝わってるんだろうと思った。メルリオールがそういう不思議な力を持っていることをエースは聞かされていて、これからエースが行う全ての言い訳の言葉も読み取ってしまったことだって想像がつく。
なら、いつかメルリオールはエースの感情を理解するだろうか。
エースだって喜怒哀楽が大袈裟と称される側の人間なのだ、ずっと自分を読んでもらっていれば、折れて無くなってしまったというメルリオールの感情は、戻ってくるだろうか。
そうしたらやっぱり、エースは聞いてみたいことがある。
海の青に目を輝かせ、守るべきものの前に立ち上がり、己の理想に泣き、くしゃりと笑う彼女に。話したいことがあった。
結局。
それは
「お帰りなさい、准将」
「メルちゃん准将、今日は備蓄の缶詰を全部パーッと開けて鍋にしやした!」
「おい、誰だこいつに料理当番任せたやつ!」
「全員交代制だって言ったの誰でしたっけ?」
「私だ!」
元気よく肯定して、メルリオールは誤魔化すように正義のコートをパタパタさせた。定期的に階級を主張しておくのも歳下上官の仕事だ。一部舐めた口を聞く奴はいるが、この軍艦の中で将官はメルリオール一人であり、彼らの指揮官も勿論メルリオールだった。者によっては既に何年かの付き合いになる。
白ひげの元を離れて自分の艦に戻ったメルリオールは、夕飯の支度を命じていた部下が差し出してきた鍋に鼻をつまんだ。この状態を予期出来なかったメルリオールが悪い。
実際、未来視が不調になってからというものこういったトラブルは尽きない。日頃どれだけ未来視に頼っているかが知れる事態だ。
「おい、誰かまともな飯作れる奴はいないのか?」
「メルさんは成長期ですからねェ。そう言うかと思って懐で温めておいた菱餅がありますよ」
「一から十までなんでだよ」
副官の戯言を無視して、メルリオールは食堂の椅子に雪崩れ込んだ。
まだ日が陰ってすらいない時間帯だが、夕食の時間だ。
メルリオール准将麾下50名。その全てがこの場に揃っていた。大半はG5の荒くれものと、本部から連れてきた一部の部下とで構成されており、その他にメルリオールが各地で引っこ抜いてきた海兵も何人かいる。
「それで、どうなさいますか?」
新参者についてですが、と続けるのはメルリオールの副官、レクターだ。黒の短髪に実直そうな顔立ちをしているが、多少ネジの外れたところがあった。そうでなければメルリオールに着いてこれやしないが。
「今度は10年後から来たらしい」
「10年後かァ……」
「これで最後かな。もっと未来の人間が出てきても面白いけど」
「おい黙ってろ馬鹿ども」
ガン、とテーブルを叩いてから馬鹿の一人が椀によそったゲテモノスープを受け取った。食わなきゃ仕方ないのだ。年嵩の海兵がべったりと浮かんだ脂にうっと口元を抑えている。メルリオールだって調理当番の頭からぶっかけてやりたい。
「准将の知り合いがおられたんですよね?」
「そうだな。話は通じる。協力体制も取れはするだろう。だがアテにはしない。我々は変わらず作戦通りに
「了解。本日も15名の兵が同行しますが、調理当番の彼も連れて行かれますか?」
「よしそうしよう」
「なんでだよ!」
心頭滅却して全員が椀を空にした後、ひとときの自由時間を挟んでメルリオール以下15名の兵士は夕暮れを前に武装を整えた。
普段使いのピストルを二挺、軍刀を二振り。両手両足で使うんでもあるまいに不要な武器をぶら下げているのは、メルリオールが継戦能力を重視しているからだ。
未来を視て、その為に走り続けるメルリオールには止まる隙がない。武器が壊れた程度で足を止めるわけにはいかないのだ。少しでも早く、少しでも遠くに、より多くを『救う』ために。
壊れても構わないと思って、メルリオールは正義を遂行していた。
──壊れて構わないのは、果たして武器だけなのか。
時折胸の内から響く声に、聞こえないふりをしながら。
初めは地震だった。グラリと足元が揺れて、全員がたたらを踏む。バランスを崩して転んだチョッパーを抱き起こそうとしたロビンが真っ先に異変に気付いた。
「地面が……!」
変色していく。何の変哲も無い砂の色が、黒々としたものに。似た色を見た記憶があった。まるで、長い間放置された血痕のよう。
息を呑むと同時に、ふつりと影が落ちた。
原因は周囲を見渡さずとも明らかだ。時刻は夕方から夜になる時間帯。日没。けれど、赤色の偏光が残るはずの水平線はどこかの地点で途切れたかのように沈黙していた。
空に月も、星もない。明らかに異常事態だ。用意しておいた焚き火の炎が、その周囲だけを不気味に照らしている。
見れば分かる、夜に備えろ、と言い残して去った仲間の過去の姿を思い返しながら、麦わらの一味は異様な雰囲気に口を噤んだ。
「んじゃまァ、今日も一丁やりますか」
代わりにフラットな声が沈黙を裂いて、雰囲気を誤魔化すように腰掛けていた丸太の山から飛び降りた。ルフィの兄、エースだ。
彼は麦わらの一味が白ひげの船を一応視認できる程度には離れたビーチに寝床を兼ねた仮拠点を設営している間、何か言いたげな表情を浮かべながらもここまで黙り込んでいた。聞いても、そのうち分かるの一点張り。
「何するんだ?」
「陽が落ちたらもう直ぐだ。メルはお前らに何か忠告しなかったか?」
「忠告ってーと、確か全員固まって動けとは言われたな」
「だから船番してたおれらが呼び出されたんだろ?」
早く合流すること。後は白ひげと問題は起こすなとも言っていた。彼女の善性は海兵として不足ないものであり、元より仲間の言葉だ、例え今は正反対の立場に身を置いていようと全員その通りに行動している。だからルフィも好奇心を抑えて島の中には突撃しないのだ。ジンベエがしっかり抑えていたことと、動くそぶりのないエースのことを気にしていたのも大きいだろう。
「あー。まァそういうこった。メルの言葉は可能な限り聞いた方が良い。じゃねェと……」
「知ってるわ」
あまり愉快な言葉が続くとは思えなかったので思わずロビンは口を挟んだ。
これは『忠告は聞いた方が身の為』という次元の話ではない。『思い通りにならないと破裂する爆弾』と自嘲した仲間のことを知っている。
「わたしたちがあの子の心を傷つける選択をすることはない。怖〜い旦那様も目を光らせているもの」
最後に茶化して、会話が聞こえる範囲で座り込んでいる男にウインクを飛ばした。
「トラ男・ローなァ」
「違ェ」
一方エースは途端に皺くちゃの顔になって腰に手を当てた。
「やっぱ一回殴り合いはしとくか」
「勘弁してくれ。あいつの保護者と一々戦ってたら身が持たねェよ」
「ハハ、冗談だ。お前には良いもん見せて貰ったし」
「良いもん?」
一度空を見上げたエースは、ニカリと弟そっくりな笑顔を見せた。
「おれが出逢った時にはもう、あの泥みてェな目じゃなかった。見てみたかったんだよなァ、親父たちの話の中にしか登場しねェ、喜怒哀楽が激しくて、ギラギラした目で水平線の果てまで追いかけてくる、『狂犬』メルリオール!」
無知で無垢で無茶苦茶な海兵。
ロビンたちもまた、それを話の中でしか知らない。『正義』の文字を背負っていた頃の彼女を知っているのは、それこそあの大海賊白ひげや、古くからこの海に君臨してきたものたち。
そして、彼女の心のより深いところに突き刺さった一人の青年くらいのものだ。
それがどれだけ貴重で、犯し難く、また砂上の楼閣のように儚いものか。
「誰でもそうだろ」
青年はそう囁く。何に対する返答なのか、ロビンは一瞬戸惑った。ただ続いた話の流れの一つと解釈して、目を伏せる。
誰もが知っていた。知りながら、知らなかった。あの理想が、あの正義が、一度終わりを迎えたその時のことを。
「そらそうだ。さて」
同意の声と共に彼の背後が赤く燃える。この暗闇に差した光に、自然と皆の視線が吸い寄せられた。
ドン、という重い音は少し遅れて届いた。
真っ赤に燃え盛る中央の火山の山頂が、マグマと噴煙を空高く噴きあげる。
「おやまァ、噴火ですか?」
「不味いわ、早く避難しないと」
「行ってくるな、ルフィ」
弟に声をかけて、エースは姿を消した。そのスピードを想起させる突風が吹き荒れる中、続いて周囲を能力のドームが包む。
「トラ男」
「ああ」
為した男はルフィに頷いて、ROOM内に侵入したいくつかの大岩を何処かに散らした。一味に降りかからなかったものは島のあちこちに墜落し、森をなぎ倒していく。船は、とモビー・ディックを見遣れば白ひげが鬱陶しそうに払い落としていた。
「一旦沖に出るべきだ、サニーに戻って噴火が落ち着くのを待つしかねェ。ウソップ、突貫で灰避け作るの手伝ってくれ。ナミ、風向きは」
「しばらく東風よ」
「いいえ」
首を振ったロビンに、ルフィとロー以外の視線が集まった。
「わたしたちは戦うべきだわ。それも、全員揃って」
「噴火と!? 何言ってるのロビン、これは自然現象なのよ」
「メルは船を出せとは言わなかった」
麦わら帽子を抑えた男が、幾分か静かな声でそう言った。
「みんな一緒にいろとは言われたけど、逃げろなんて言ってねェもんな」
「ええ。どうすべきかを言わなかったということはきっと、何もするなという意味でしょう。けれど、何もするなとも言われてないわ」
そして、と今もなお黒煙を噴きあげる火山を指差した。
「きっと倒すべき敵が、そこにいるのよ」
「リオだな」
「今は『メルリオール』さんだ」
「同じよ同じ。全く」
何がどうなっているのか、何も分からないけれど。
「よーし、戦闘開始だァ!!」
戦う理由など、そのくらいで十分なのだ。