トレーナーウマ娘がミスターシービーを無敵にした話   作:幸い辛い

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あったかもしれない話


おまけの前編

 ミスターシービーはトレセン学園のトレーニングコースの芝生の上に仰向けになり、ぼぅっと青い空を見上げていた。

 派手に転んだせいで、学園指定の赤いジャージは芝と土にまみれている。

 

「……間に合うかなぁ」

 

 何しろ時間がない。あと1ヵ月で“アレ”をモノにできなければ、到底勝つ見込みなどないのだ。

 ジッと目を閉じ、深呼吸をする。弱気になっている場合ではない。そんな暇があるのなら練習をしろ。

 仰向けの姿勢から体のバネだけを使って一気に立ち上がる。

 そして気合いを入れなおそうとしたところで、コースに入ってくる影があった。

 

「やあ、シービー。調子はどうかな?」

 

 やってきたのはトレセン学園の生徒会長であるシンボリルドルフだった。

 

「ずいぶんと話題になっているよ。あのミスターシービーがトレーニングコースで転げまわっているとね」

「……おかしかった?」

「いや、なにもおかしくはないさ。トレセン学園のウマ娘が練習をするのは当たり前のことだ」

 

 だが、とルドルフはそこで一旦言葉を切った。

 

「常に飄々とした態度を崩さないキミが万死一生に練習をしているのが珍しい、という話さ。キミとの付き合いも長くなってきたが……私もそんな姿は初めて見るよ」

 

 ルドルフの表情からは心配の色が濃く見えた。どうやら思ったよりも危うく見えているらしい。

 だが仕方がないのだ。こうでもしないと彼女にはきっと追いつけない。

 

「どこまで仕上げるんだ?」

「……今までにないくらい、かな。ミスターシービーっていうウマ娘の限界値を……ううん、限界の先にアタシは辿り着いてみせる」

 

 シービーの返答を聞いたルドルフは、眩しいものを見るかのように目を細めた。

 

「キミがそうまでしなくてはならないほど強大な相手なのか、彼女は」

「うん。あの子は最初で最後の……最高で最強のライバルだから」

 

 

 

 事の始まりは今から1週間前のことだ。

 レディダスクの“あのコース”の閉鎖が間近に迫っていたその日、シービーはチームメイトであるトウカイテイオーを、同じくチームメイトであるカツラギエースと一緒に鍛え上げていた。

 シービーは己の競技人生をこのコースと共に終えると決めていた。ダスクが管理していたおかげで永らえていたシービーのウマ娘としてのピークが、コースの閉鎖と同じタイミングで終わろうとしていることを何となく感じていたからだ。

 だから自分の競争能力が完全に残っている間に、チームで1人だけトゥインクルシリーズに残るテイオーに実戦形式で可能な限りの技術を叩き込む心積もりでいた。

 そして練習に一段落がつき、シービー、テイオー、エース、ダスクがぞろぞろとコースに併設された小屋へと戻った時のことだった。

 シービーがドリンクを飲んでリラックスをしていると、長椅子に疲労困憊で寝転んだテイオーが唸り声を上げた。

 

「うぇー……シービーが最近厳しいよ……」

 

 片付けをしていたエースが、仕方のない奴だと言わんばかりに苦笑した。

 

「ま、後輩に向けての愛の鞭ってやつだな。甘んじて受けてやれよ、テイオー」

「確かにタメにはなるけどさー……もう少し手心とかあってもいいじゃん……」

 

 テイオーには起き上がる気力もないらしく、シービーに向かって非難がましく唇を尖らせるだけだ。

 

「つっても、あたしらには時間がねえからなぁ」

 

 エースの言う通りだった。なぜなら間もなくシービーとエースはトレセン学園を卒業するからだ。

 来る別れにテイオーは表情に寂しさを浮かべ、エースに尋ねた。

 

「エースは移動レース教室を開くんだっけ?」

「ああ、ツテのあるクラブチームがあるから、そこでノウハウを勉強させてもらってから全国を回ろうと思ってる」

「そっか……寂しくなるね」

「別にお前らはいいだろ。ダスクはトレーナーを続けるし、シービーも会える距離にはいるし」

「それにしたって今より会う頻度は減るでしょ?」

「シービーがトレーナーになってトレセン学園に出入りし始めたら賑やかになるさ」

「えー……トレーナー試験って難しいんでしょ? シービーが簡単に突破できると思えないんだけど」

「それくらいはダスクがなんとかするって。なあ、ダスク」

 

 エースから話を振られたダスクは窓に向けていた視線を外した。そして緩慢に振り返る。

 

「え? あ……ごめんなさいエース。聞いてなかった」

「……大丈夫かダスク。また悩みでもあるのか?」

 

 ダスクは最近、調子を崩していた。心ここにあらずといった様子で常に遠くを見つめていて、そのせいか走りにも精彩がない。

 特に先週辺りは酷いものだった。スタートに失敗し、コーナーで足を滑らせ、挙句の果てにはお家芸とも言えるスパートの最中に吹き飛ぶように転んだ。

 なんとなく覚えのある失敗だった。シービーもダスクから走りを教わった当初は同じような失敗をしていた。

 いや、シービーだけではない、テイオーとエースも同じだろう。あれはダスクの走りを習得する上での登竜門のようなものだ。

 つまり今のダスクは、そんな初歩的な失敗をしてしまうほど不調であるということだった。

 

「悩みと言えば悩みだけど……前みたいにレースに関わるのを辞めるとかそういう話じゃないから大丈夫」

 

 ダスクはにこりと笑って再び窓の外へと視線を戻した。

 こういう時はだいたい大丈夫じゃない。ダスク本人は隠せているつもりらしいが、少し付き合いがあればウソであることなど簡単にわかる。

 様子を心配そうに見ていたエースはシービーに視線を移すと、目線だけで合図をした。あんたがなんとかしろ、ということらしい。

 まあ、ここは最も親しい自分の出番だろうと、シービーは意を決して切り出した。

 

「あー、その……ダスク」

「どうしたの?」

「なにかあったんなら相談してほしいな。なんでも力になるから」

「ありがとうシービー。なにかあったらその時は頼らせてもらうね」

「……うん」

 

 話が終わってしまった。どうしたものか。

 エースとテイオーが、マジかよコイツ役に立たないなと言わんばかりの白い目をシービーに向けている。

 仕方がないだろう。核心を突きでもしなければ、この手のことでダスクが口を割ることはないのだ。だいたい心の内に秘めてしまう。

 この間の一件はなんとなく予感があったため聞き出せたが、今回に関しては本気でわからない。いったい彼女はなにをそんなに悩んでいるのだろう。

 結局その時はダスクの悩みは聞けず仕舞いで、各々が帰り支度を済ませ、切りのいい所で早めの解散をすることになった。

 

 

 

 その運命の瞬間に遭遇したのは帰宅した後のことだった。

 シャワーを浴びようとしたところで、ふとシービーは右耳の違和感に気がついた。

 さっと手を当てると、そこにあるはずのものが無い。

 

「あ、耳飾り忘れてきちゃった」

 

 そういえば小屋で着替えた時に外した後、つけた覚えがない。おそらく小屋に置いてきてしまったのだろう。

 明日の練習の時にでも回収すればいいやと思いもしたが、取りに戻ることにした。なんとなくジッとしていられなかった。

 

「うーん、モヤモヤするなぁ」

 

 自宅へ帰ってからもずっとダスクの悩みについて考えていた。だが思い当たるフシが全くない。

 ダスクが深刻に悩んでいるというのに力になれない。シービーは胸が締め付けられるような心地だった。

 

「なんで何も言ってくれないんだろう」

 

 よくない方向にループしそうになる思考を振り払うために、小屋へは走って行くことにした。部屋の中で考え続けた所で解決策など出やしない。

 動きやすい恰好に着替えなおし、ランニング用のシューズを履いて外に出た。空を見れば、ぼちぼち日が沈み始めている。

 ストレッチをしてから道路のウマ娘レーンに躍り出て、まずは軽いジョギングから始め、そこから少しずつ制限速度いっぱいまで加速していく。

 シービーの最高速に比べると欠伸が出るほどの速度だったが、流して走るならこんなものだろう。

 無心で走ればコースにつくまではあっという間で、思ったよりも運動にならなかったことに落胆した。走った気がしないせいか心は晴れない。

 こうなれば仕方がない。せっかくコースまで戻ってきたところだし、こっそり何本か走ってから帰ろう。

 そんなことを考えながらコースまでの道に歩みを進めた、その時だった。

 

「誰か走ってる……?」

 

 ちょうど夕日が逆光になっているせいで目が眩んだが、コースの向こう正面側でウマ娘が走っているということだけはわかった。

 凄まじい速度で疾走している。もしかしたらシービーに匹敵するかもしれない。

 

「……誰?」

 

 走りを見ればわかる。アレはテイオーでも、エースでもない。

 ならば誰がと思考を巡らせれば、ふと浮かんだ名前があった。しかしシービーは即座にその名前を頭の隅に追いやろうとした。

 だって彼女にはもうあんな走りはできないから。だから彼女は悲嘆にくれ、涙を流したのだから。

 けれど向こう正面を走っているウマ娘の影から感じる気配は、あまりにも懐かしかった。

 

「そんな……いや、でも……」

 

 ああ、そうだ。あれを昔、見たことがある。姿勢が、腕の振りが、地面の蹴り方が、ありとあらゆる要素が調和して生まれた究極の走り。

 讃える美辞麗句が脳内で弾けるように浮かぶが、飾り立てた言葉に意味はない。必要なのは、たった一言。

 

「――きれい」

 

 第3コーナーを回って第4コーナーへ入ろうとしたところで、ようやく逆光に慣れてきた瞳が彼女の姿を正確にとらえ始める。

 夕日に照らされ輝く金色の長髪。シービーが見たことのないほど真剣な茜色の瞳。

 我慢ができなかった。気づけば走り出していた。全力で地面を蹴り飛ばし、コースを駆ける彼女を追いかけた。

 第4コーナー出口で合流し、一気に最高速へ。

 

「あは――あははっ!」

 

 走っている最中なのに笑い声が漏れた。笑わずにはいられなかった。

 いつもなら少し本気を出すだけで追い抜けるのに、今は影を踏むのがやっとだ。

 

 だったらコレはどう!?

 

 無音でステップを踏み、スパートの姿勢に入る。

 高い柔軟性が必要な走法だが、今のシービーにとっては容易いことだった。

 シービーが一気に加速し、外から追い抜いてやろうとしたその直前になって、突然彼女がバランスを崩した。一瞬にして彼女の走りが破綻する。

 だがシービーは、ソレが破綻ではないことを良く知っていた。その証拠に前を走る彼女は、無音でシービーと同じステップを踏んでいる。

 

 やっぱり! キミならそれくらい当然だよね!

 

 体が一気に加速し、シービーたちだけが侵入できる究極の世界へと到達する中、かつてないほど高鳴る鼓動とは裏腹に、シービーの思考は研ぎ澄まされていた。

 冷静に彼我の能力の差を分析する。身体能力はほぼ同等だが、おそらくパワーはこちらが勝っている。末脚の速度だけならシービーのほうが上だろう。

 だったらこのまま差し切ってやる。

 

 あの頃とは違う、今のアタシならやれる! やれる、はずなのに――

 

 ――距離が全く縮まらない。

 理由は1つに決まっている。身体能力で上回っているのに技術で負けているのだ。

 ゴールが近づいてくる。もう時間がないのに、差し切れない。

 

「ああああああああ!」

 

 だがそれが全力を尽くさない理由にはならない。

 シービーが咆哮を上げると、彼女の意識がこちらに向いた気がした。

 私から目を離すなと、背中で言われたように感じた次の瞬間だった。彼女が見たことのないステップを踏んだ。

 

「――えっ!?」

 

 瞬きをする間もなく1バ身、離された。まるでワープしたかのような加速だった。

 そして加速が終わったと同時にシービーたちはゴールラインを越えていた。一足先に足を止めた彼女が、シービーを茜色の瞳で見つめている。

 シービーは息を整え、その瞳をしっかりと見つめ返した。

 

「これがキミの悩みだったんだ、ダスク」

「……バレちゃった」

 

 ダスクはバツが悪そうに視線を逸らした。

 シービーは荒くなりそうな語気を抑え、なるべく平静を保とうと努めながら尋ねた。

 

「いつから?」

「……始まったのはコースの取り壊しが決まったころ……だったと思う。たまにあるらしいね、こういうこと」

「調子が悪かったのはそのせいだったんだ」

「うん、急に上がった身体能力についていけなくて」

 

 シービーはため息を吐いた。

 ダスクの身体能力はせいぜいジュニア期のウマ娘程度しかなかった。それが急にシニアの、それもシービーたちのような上澄みの力を手に入れればそうなるのは当然だ。

 

「どうして言ってくれなかったの?」

「……余計なことで気を使わせたくなかったから」

 

 ダスクは顔を伏せた。

 

「忘れたはずの夢が胸の奥で痛んで、辛くて仕方がないの。でもそれを知ったら、あなたたちは私のことを心配するでしょう?」

 

 今更どうでも良いと言わんばかりに、とダスクが力なく笑った。

 早すぎた本格化、あまりにも短かったピーク、たどり着けなかったトゥインクルシリーズ、挑戦すらできなかった夢。

 ダスクが手を伸ばせなかった全てを手に入れているシービーには、その心を推し量ることはできない。

 

「でも……やっぱり私もウマ娘なんだね。ちょっとだけ思いっきり走ってみたくなっちゃって……まさかシービーが戻ってくるとは思わなかったけど」

「戻ってきてよかったよ。何も知らないままでいるところだった」

 

 いつかと同じように耳飾りが導いてくれた奇跡だ。感謝しなければならない。おかげで大切なものを取りこぼさずにすんだ。

 

「それにしても凄かったよ、さっきの走り。驚いちゃった。単純なスペックだけなら、アタシとそう変わらないんじゃ――」

 

 そこまで自分で喋ったと同時に、シービーは脳の奥で大量の電流が駆け巡ったように感じた。

 待て、落ち着け、よく考えろ。

 先ほどまでは驚きと心配が勝っていて実感がイマイチ湧いていなかったが、今になってその事実がシービーを追い立てはじめた。

 そうだ、ダスクは“走れる”のだ。それも無敵とまで謡われたミスターシービーと同等かそれ以上のレベルで。

 ソレを認識した瞬間、ゾクゾクと背筋が震えた。息は止まり、視界は白く狭まり、耳は外界からの情報を断ち、早鐘を打つ心臓の鼓動だけがガンガンと頭蓋の内に鳴り響く。

 意識が朦朧とし始める中、震えた声を喉から無理やり絞り出す。

 

「あのさ、その体……いつまでもつの?」

「正確にはわからないけど、そんなに長くはないと思う。保てるのは1ヵ月か、2か月か……それがどうかした?」

 

 シービーは閃いてしまった。ウマ娘として生を受け、今まで走ってきたその意味がやっとわかった。

 

「ねえ、お願いがあるんだけど」

「シービー……?」

 

 明らかにおかしくなっているシービーの様子を見て、ダスクが心配そうに声をかけてくる。

 ああ、彼女の瞳に映る自分は、今どんな顔をしているのだろうか。

 おかしくなってしまった心の赴くまま、熱に浮かされた声音でシービーは告げた。

 

「東京レース場、芝、2400メートル」

 

 ぐっと一歩を踏み出してダスクを力いっぱい抱きしめると、柔らかく温かな感触がちゃんと伝わってくる。これがシービーの見ている夢ではなく、間違いなく現実であるという証明だ。

 そして今までならばシービーの膂力に潰されて息もできなくなっていただろう彼女は、僅かにみじろぎするだけで、堪えている様子は全くない。

 シービーはその事実に歓喜しながら、愛を告げるような熱量を込めて“お願い”をした。

 

「この条件でアタシと勝負してよ、レディダスク」

 

 

 

 そういう経緯でシービーがダスクに挑戦状を叩きつけたのが先週の話だった。

 トレセン学園のトレーニングコースでストレッチをするシービーは、腕を組んで見学しているルドルフに問いかけた。

 

「ねぇ、ルドルフは夕日を追いかけたことはある?」

「そうだな……幼いころになら、そういうことがあったかもしれないな」

「どうして今は追いかけないの?」

 

 ルドルフにはシービーの質問の意図がくみ取れていないようだったが、それでも真剣な様子で考え込み、彼女なりの答えを出してくれた。

 

「……追いつけないと知ったから、だろうか」

「うん、そうだね、その通りだよ。夕日には追いつけない。走っても走っても空の彼方にあって、最後には勝ち逃げするみたいに沈んじゃう」

 

 ねえ、レディダスク。きっとキミは知らないだろう。キミが走れなくなった時、絶望したのがキミだけではないのだと。

 キミに追いつくことだけを望んだウマ娘が目指すものを失い、誰にも知られないように願いを心の奥底に秘めたことを。

 

「アタシはね、今も夕日を追いかけてるんだ。あの残光が心に焼き付いて、何度も繰り返し夢を見るから」

 

 シービーは深く息を吐き、両腕を大きく広げる。

 

「でも奇跡が起きて、沈んだはずの夕日が空に帰ってきた。たった一度だけど、追いかけるチャンスを貰った」

 

 シービーが成長する中で、すれ違うようにして力を失い、ついぞ競い合うことができなかった彼女を想う。

 

「ずっと考えてた。最高の状態のあの子とレースができたならって」

 

 そしてその瞬間は間もなくやってくる。

 

「だから徹底的に追い込むんだ。ミスターシービーの全てを以てして最後のレースに挑むために」

 

 ルドルフが眩しそうに、そして僅かばかり悔しそうに目を細めた。

 

「私には見向きもしてくれなかったキミが執心するレディダスクに嫉妬する気持ちはあるが……それほど素晴らしいウマ娘と競えるキミにはそれ以上に嫉妬しているよ」

「あはは、残念だけどこのレースはアタシたちだけのものだから、誰も入れてあげないよ」

「もちろんわかっているさ、口惜しいが水を差すだけの置物になる気はない。私は戦いを見届けるだけにしよう」

 

 しかし、とルドルフが言葉を続ける。

 

「キミが彼女と“戦う”ための算段は……その様子を見るにまだ立っていないようだな」

「うん、能力が互角なら……互角であるからこそ、攻略しなきゃいけない壁がある」

 

 ダスクから出された課題にシービーは未だ解決策を見出せていなかった。

 

「ダスクが見せた、あの子が言うところの“最後の一歩”。アレを攻略しない限りアタシの勝ちはない。ゴール手前でのワープしたみたいな急加速で、少なくとも1バ身差までなら一瞬で覆されちゃうだろうから」

 

 あの日、ダスクはゴール手前で間違いなく加速した。アレはシービーが知らない未知の技だった。

 最後の一歩の攻略がダスクとの勝負には必須なのだが、この1週間で思いつく限りの方法を試してもあれほどの加速を得ることはできなかった。

 ルドルフが顎に手を当てシービーに尋ねる。

 

「何か心当たりはないのか? キミですら知らない技というのは考えづらいが」

「見たのは初めてだよ。でも昔からあった技なんだとは思う」

「というと?」

「多分だけど、教えたくても教えられなかったんじゃないかな」

「教えられなかった?」

「ダスクはアタシと初めてあった時には既にピークが過ぎて衰え始めてた。下支えをしているパワーが落ちたのはもちろんだけど、なにより技を完璧に使う上で必要な体の柔軟性が失われてた」

「だから理論は存在しても実演できない失われた技術……というわけか」

「そういうことなんだろうね」

 

 難解な謎を目の前にしてシービーは心の昂ぶりを感じていた。まだ自分が速くなれるという事実に気分が高揚しているのだ。

 とはいえ秘密を解き明かせないことには話にならない。シービーは眉間を揉み、最後の一歩の正体に頭を悩ませた。

 

「うーん……ふわふわ走法からさらに速度を得る方法が思いつかないんだよね」

「ふわふわ?」

「ああ、そういえばルドルフには言ったことなかったっけ。アタシたちの末脚、ふわふわ走法って言うんだよ。ダスクが名付けたんだけどさ」

「あー、その……なんだ。随分と独特な――」

「まるでルドルフのダジャレみたいなセンスしてるよね」

「――んんっ! そうだな、悪くないセンスだ」

 

 ルドルフが顔色を変えて咳払いをした。なにか変なことを言っただろうか。

 

「うちのチーム名とか凄いんだよ。漢字の当て字で蛇威夜鬼蜂美(たいやきはちみー)って読んだりして」

「……私はそれと同レベルだと思われているのか?」

 

 ダスクのネーミングセンスについての小話は山のように出てくるのだが、語り始めると長くなるので本題に戻るとしよう。

 

「まあその辺りはどうでもいいから話を進めるんだけど」

「どうでもいい……? いや、いいのか……」

 

 そもそものところ、ふわふわ走法は完成された技だ。緻密な技術を用いたそれはウマ娘の走法として計算されつくされていて、いまさら改良する余地などない。むしろ下手にいじれば走りが破綻して失速し、場合によっては転倒することもある。

 ダスクに師事した当初は何もかも手探りで、何度もターフを転げ回ったのは今となっては良い思い出だ。

 エースが来たころには指導方法が確立されていて怪我をすることはほとんどなかったが、シービーのころは酷いものだった、という昔話はここまでにして。

 

「ダスクのネーミングセンスじゃ捻るなんてできないだろうから、“最後の一歩”は言葉通りの意味で最後の一歩なんだろうけど……」

 

 恒常的に加速して速度を上げる技ではなく、ゴール手前で急加速する技であると仮定して模索しているが、どうにも行き詰っている。

 試しに、ふわふわ走法でスパートをかけてから大きめの一歩を踏み出してみたりしたのだが、それでは転ぶだけで思ったような加速を得ることはできなかった。

 

「あの時、ダスクが踏んだステップは確か……こうして、こうして……うーん、わかんないなぁ」

 

 ああでもない、こうでもないと芝を踏みしめていると、コースの横にある土手の上から快活な声が響いた。

 

「よぉ、シービー、調子はどうだ?」

「ああ、エース。調子はあんまり――って……ちょっと、どうしたのその恰好……!」

 

 現れたエースのジャージは解れ、体には擦り傷があちこちにできている。シービーよりも多くターフの上を転がりまわったのだと一目でわかる。

 

「ちょっとばかり無理しちまってな。まぁ……手に入れたモンにくらべりゃ安いもんさ、これくらい」

「……手に入れたって……まさか!」

 

 シービーが驚きに目を見開くと、エースは悪戯の作戦を語るかのようにニっと唇の端を吊り上げながら言った。

 

「ああ……掴んだぜ、最後の一歩の秘密」

 

 エースは土手をゆっくり降ると、体のあちこちを庇いながら歩いてきた。どう見ても無事ではなかったが表情は晴れ晴れとしている。

 シービーは心配の声をかけようとして、その寸前で言葉を飲み込んだ。エースが傷だらけになるまで頑張った理由はわかっている。だったらソレは失礼だ。

 ここで選ぶべき言葉は決まっている。今は立ち止まるな、ただただ前へ進む時だ。

 

「教えてエース。どうすればいいの?」

 

 シービーが問うと、エースは軽く息を整えてから掴んだ最後の秘密を語り始めた。

 

「そもそも前提が間違ってたんだよ。“最後の一歩”は加速するための技術じゃないんだ、逆だ」

「逆?」

 

 意味がわからず首をかしげるシービーに、エースは答え合わせを始めた。

 

「ダスクの走法に遊びがあることは気づいてるよな?」

「越えると最後に転がるハメになるやつでしょ? ジャパンカップの時はそのせいで3人揃ってゴールしたあとターフに倒れたよね」

 

 あの走法には安全のために作られた遊びがあり、その限界を越えることによって想定以上の速度を得ることができる。それはシービーも知っていた。

 

「なんで転ぶかわかるか?」

「それは……フォームが崩れて止まれなくなるから、だよね?」

 

 しかも切り替えは一方通行で、その状態になってしまったが最後、元の走りに戻すことはできず減速と同時に倒れるハメに――

 シービーはそこで、はたと気がついた。逆とはつまりそういうことなのか。

 

「あの状態から安全に止まる方法が、ある?」

「ある。そしてそれこそが最後の一歩の正体だ。加速する方法じゃなくて減速して止まる技術なんだよ」

 

 シービーが手をかけられなかった真理にエースは辿り着いていた。

 

「減速するための姿勢を取った一瞬に現れる副産物的な挙動……ってのが正しいんだと思う。あたしたちは加速するってとこだけに注目して勘違いしてたんだ」

「……なら、あのステップは姿勢を前にするんじゃなくて、むしろ……」

 

 それだけわかれば充分だった。ミスターシービーの才能が理論を形に出力するのは一瞬だ。

 シービーは弾かれるようにターフを走り出した。加速のためのステップを踏み、最高速まで到達する。

 

 問題はここから! 最高速のままステップを踏んで、タイミングは今!

 

 一度だけ見たステップを再現したその瞬間、前傾していた上体が急に起き上がり、腰のあたりを後ろから押されるような感覚と共に一瞬で体が前に出て、そのまま体が急減速した。

 

「……できた」

 

 シービーが呆然と立ち尽くしていると、しばらくしてからエースが追いついてきた。

 感心した様子で、賞賛するように小さく手を叩いている。

 

「すげぇなシービー、一発で成功させるとは思わなかったぜ」

「ヒントを貰わなきゃできなかったよ。ありがとう、エース」

 

 シービーは感謝の言葉を口にした。強力な武器を手に入れることができたのはエースのおかげだからだ。

 しかしエースには悪いが素直に喜んでばかりはいられなかった。同じ武器を手に入れたからこそ理解できてしまうことがあった。

 

「……これじゃ足りない」

 

 シービーは小さく首を横に振った。

 

「自分で使ってみてわかった。ダスクがアタシに見せた最後の一歩は、ただの“お手本”だったんだよ。全力じゃなかったんだ」

「そりゃつまり、ダスクの最後の一歩は1バ身じゃなくてもっと……」

「うん、多分だけどそれ以上……下手をすると1.5バ身くらい伸びるって思ったほうがいいかもね」

「……今のシービーは多めに見積もっても1/2バ身ってとこだったな」

 

 沈黙が下りた。互角に近いからこそ、この差はあまりに大きい。

 シービーは手を握りしめた。

 

「今から練習しても、アタシじゃダスクと同じ練度でコレは使えないと思う。使い物になるように仕上げるつもりでいるけど、どこまで伸ばせるかはわからない」

「……どうにかなるのか?」

 

 心配そうに尋ねるエースにシービーは真っすぐ視線を返した。

 夕日は高く遠い。けれど諦めるわけにはいかない。

 

「大丈夫、なんとかするよ。だってアタシは、あの子の愛バ(ミスターシービー)なんだから」

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