少し薄暗く、ステンドグラスで色付く光りを受けその場に跪づく修道女。
思わずその姿に魅了され喉がコクリと無意識に動く。
まだこちらに気付いていないのか祈りというものを続けている。
「神よ、今日もありがとうございます」
その声に体の心が反応する。
欲しい、と。
「見つけたぜ」
ゆっくりと建物中に浸透するように声を出せばこちらを向き驚きに目を大きく開く‘修道女’、別名‘シスター’。
海賊でありながら全く無縁の教会に座っているのはこの修道女に挨拶をするため。
「なぜ、此処が……」
喉が張り付いたようなか細い声に笑みが漏れる。
彼女もまさかローがここまで来るなど予想していなかったことだろう。
修道女は怯えと困惑の瞳を揺らし考えあぐねているようだ。
「メアリ、迎えに来た」
「……」
修道女のメアリが息を呑む音が微かに聞こえローはまた笑う。
だが、シスターは笑わなかった。
無駄だとわかっていても、距離を詰められているとわかっていてもなんとか逃れようと後ろへ後退する。
最後の一歩を動かせばそこは行き止まりで聖母像に体が当たった。
「純潔を守るなんて、と思っていたがおれにとっては好都合だな」
「おっしゃっている意味がわかりません……」
「わからなくていい。いずれわからせてやる」
「結構です。お引き取りください」
ついにローに追い詰められ、聖母像を後ろに感じながらロザリオを握り祈る。
そのロザリオを握る手を捕まれハッと上を向くとかなり近い距離に彼の顔があったので顔を必死にのけ反らせる。
「私は神に使える者。誓いを破るわけにはいかないのです」
「メアリ」
フッと空気が抜けるように名前を呼ばれメアリはギュッと掴まれている手を握る。
その人間の名はトラファルガー・ロー。
その名前を幾度も聞き、そして、その名前から逃れるように各教会を回った。
『おれと来い』
それがメアリとローの最初の会話であり出逢いだった。
あまりに唐突すぎてどう反応すればいいのかわからなかったのをよく覚えている。
元々メアリは修道女になろうとして教会に入ったわけではなかった。
記憶があるのは自分が海に流され教会に拾われたのがきっかけだ。
それより前の記憶はなくそれから修道女として三年間過ごしてきた。
自身の前の暮らしを証明するものはただ一つ。
今現在捕まれている手首にあるイニシャルが彫り込まれているブレスレットである。
「この手を退けていただきたいのですが」
「構わねェ」
その手首に馴染んでいるブレスレットを一瞥し、ローはあっさりと手を離す。
「では、お引き取りを──」
「明日も来る」
相手は不服そうに表情をしかめると、その長い足を動かし教会の入口へと向かう。
ローが自分に一切危害を加えないことは前々からあったことで、メアリも安堵の息を気づかれないようゆっくりと吐く。
「シスター」
「なんでしょうか」
不意にローに呼ばれ首を動かせば、意志の強い瞳とぶつかる。
「その修道服、よく似合ってる」
その言葉は、いささか違和感を産んだ。
料理と酒と香水が充満する場所でローは隣に女を侍らせ酒を仰ぐ。
そうしていると、もう一つ隣に座るペンギンが尋ねてきた。
「船長、見つかったのか?」
わかっている答えを聞いてくるペンギンにローはその口元を弧に上げ上機嫌を表す。
「もう会ってきた」
「早いな」
「それに越したことはねェだろ?」
そんなことを言われてしまえばもうペンギンは何も言おうとはしなかった。
「ねェ、ローさん。今日は泊まっていくかしら?」
店の一番人気の女が媚びるように腕を絡めて顔を近づけてくる。
しかし、ローは済んでの位置で女の唇をやんわりと押し止めた。
「‘キス’はしねェ主義なんだよ」
「あらローさんって本命がいるの?」
押し止めたことに文句は言わず、からかうようにルージュの艶めく口元を妖艶に曲げる女にこちらも笑みを向ける。
「そうだ。本命‘だけ’にしかしねェ」
そう言うと女は少し驚き、そして再び元の表情になると「羨ましい限りね」と近くに置いてあったチョコレートを一つ口に入れた。
***
「シスター!」
パタパタと忙しなく走り寄る子供達に注意をする。
「危ないので走ってはいけませんよ」
「はーい!」
聞き分けがよい分すぐに言ったことを忘れるからメアリもきつくは言わない。
そうして、やんわりと事が済むと子供達はいつもとは違うような雰囲気でいきり立つ。
「熊!シスター熊がいる!」
「熊?野生のですか?」
そうだとすればこんなにのんびりとしているわけにはいかないと思ったメアリは猟師を呼びに行かなければ、と呟く。
「野生じゃないよ!服着てるし喋るんだ!」
「シスターも早く来て来て!」
興奮が冷めない様子の子供と、その言葉に疑問を残したまま手を引っ張られメアリは教会の外へ行く。
(一体なんだというの……?)
いざ外へ出てその光景を目にすれば、子供の興奮する理由がすぐに理解できた。
「熊熊~!」
「遊んでー!」
「わっ、順番ずつ!あ、毛を引っ張るなって!」
そこには確かに二足歩行で服を着ていて、喋る熊が子供達に囲まれていた。
その近くには熊と同じ服──ツナギを来た二人の男性もいてメアリは声を掛ける。
「すみません、もしかしてご迷惑をおかけしてしまいましたでしょうか」
子供達が修道服にしがみついたままメアリが二人に問い掛ければ、少し驚いたように二人はお互い目配せをした。
「いや、別にたいしたことではない」
「そうそう、むしろ怖がられるよりまだマシだな!」
キャスケット帽子とペンギンと書かれた帽子を被った二人はこちらの目から見るとあの白い熊の友人だろうと考えた。
そして、本当にそうだったようで二人は返事を返してくれ安心する。
「もしよければ紅茶はいかがですか?」
「え、あー」
「もらおう」
「あ、ちょ!ペンギンいいのかよ!?」
「別に断る理由なんてないだろ」
「違ェーよ!もしこのことがあの人にっ」
「シャチ、少しは口を慎め」
「なにィっ!?あ」
今にも喧嘩が始まりそうだったがキャスケット帽子を被った男性がメアリの視線に気づくと恥ずかしそうに頬をポリポリと掻いた。
「ふふ……ではこちらにどうぞ」
その様子に可笑しくなり、笑みを漏らしながら教会の扉を開ければ二人は中へと入った。
「どうぞ」
「ありがとう!」
ニコニコと嬉しそうに笑う白熊──ベポは出された紅茶の香りをヒクヒクと嗅ぐ。
「お菓子まですまない」
「上手いなこれ」
キャスケット帽子のシャチとペンギンロゴの入った帽子を被るペンギンが口々にメアリの出した茶菓子を食べる。
先程二人に中で紅茶をと誘った時にベポが「お、おれも行く!」と子供の悪戯から逃げる為の避難をし、同じく席を共にした。
白熊とお茶が出来るなど夢にも思わなかったメアリは薄く笑い内心喜びを感じていた。
「皆さんはどうやってこの町に?」
「え」
「船で来た」
答えあぐねたようなシャチに対し、ペンギンは坦々と答えた。
「ではログが溜まるのはすぐですね」
「明日には溜まる」
「すぐ出航するかは船長次第だな」
シャチの言葉に少し残念そうに声を漏らすベポ。
「もうかぁ……もっとここにいたいな」
「そんな風に思ってもらえるだけでも十分嬉しいです」
ふふふ、と聖女のような微笑みに三人は心が洗われるような気持ちになり少しの間息をするのを忘れる。
そんなことに気づかないメアリはゆっくりと紅茶を嗜む。
「運命は導かれますよ」
ふわりと風が流れるようにメアリは三人に言葉を送った。
***
まだ一度も会ったことのなかった──いや、会うことを許さなかったあの人がやっと許可をした夕方、彼女に会いに言った。
シャチとベポも連れて。
別に一人で行こうなどと考えてはいなかったがどうしても行きたいと駄々をこねる二人を仕方なく連れて行くことにした。
それに自分一人では会いにくかったのもある。
そうして三人で会って見れば予想外に彼女──メアリは清楚な女性だった。
実際修道女なのだから清楚なのだが。
声も透き通るような響きで一瞬息を飲んだ。
運なのかどうかはわからないが紅茶に誘われ承諾した。
シャチは何か言いたげだったがあの人がメアリに会うことを許可した今、躊躇することも見つからないようにする必然なんてない。
ペンギンは船長として尊敬しているあの人があれ程までにメアリを自分達に見せたくない理由がなんとなくわかった気がした。
汚れを知らぬ子供のように微笑む彼女に世の中を見せたくないと錯覚を起こす。
当たり前の常識すら彼女の前では浄化されそうな気さえした。
メアリの事をあまり話さないあの人にペンギンはなぜ海賊が修道女にこだわるのか最初は全く理解できなかったのが遠い昔のようで、今に思えばそんな疑問はあの人にとっては愚問だったのかもしれない。
しかし彼女に接触するが、深くは干渉しないあの人に対する疑問が消えたわけではない。
それに最近は少しずつ接触する回数も増え、干渉しないというあの人の‘ルール’がどこかで変わりメアリに触れ始めているようだ。
ペンギンは今だ考えが読めないあの人に教会の帰り道で紅茶について語っているシャチとベポを見ながら小さく息を吐いた。
***
「ねぇ、シャチ」
「あ?なんだベポ」
二人は船の甲板で釣り糸を垂らしながら座り込んでいた。
不意にベポの眠そうな声に軽く返事をすればベポは質問の続きを言う。
「キャプテンあの人知ってるのかなぁ?」
「お前本当ストレートだな」
「ストレートでごめんなさい」
「打たれ弱!」
いつも会話になるとベポがネガティブになるのをシャチはすかさずツッコむ。
そして影を背負ってしょげているベポに先程の質問を答える。
「おれも詳しくは知らなねェけど、船長は何か知ってる感じだな」
「メアリを?」
「そうだろ」
最後の固定を付ければ返ってきたのは白熊の唸り声。
「う~ん……やっぱり気になるなぁ」
「直接船長に聞いてみたらいいんじゃねェの?」
お前だったら上手く聞き出せるだろうし、と内心付け足すシャチ。
するとベポは突然立ち上がり「わかった!」と船長室に向かった。
「今か!?まじかよ!」
止めに入るシャチ虚しくベポを止めることもままならないまま断念せざるおえなかった。
「あいつマジ足早ェ~!」
***
ローは横になりながら手にある物を見つめていた。
すると扉の向こうからドスドスとベポ特有の足音にそれを枕の下へしまう。
「キャプテン、キャプテン!」
「なんだ」
「メアリってキャプテンの知り合い?」
「薮から棒になんなんだ」
「気になってさ。キャプテン、メアリのこと好きなの?」
ベポの純粋無垢な質問にローはフッと枕を見る。
そして再びベポの方へ向くとニヤリと笑った。
「もちろんだ。じゃねェと仲間に誘わねェ」
「仲間?メアリを仲間として好きなの?」
かなり詳しい答えを要求するベポにローは小さく息を吐く。
ベポはこんなにお節介な性格だっただろうか。
多分ローがベポに甘いからかもしれない。
「さァな」
ローの心は常に一つ。
ベポの言葉にローは確かな返事をすることはなかった。
「メアリさん」
「ランス神父」
名を呼ばれ振り向けばこの教会の神父であるランス。
どうやら今来たばかりのようで髪が乱れていた。
「髪を整えてはいかがですか?」
「あ、これは失礼。昨日は結婚式に行ったりと多忙で寝ていなくて」
神父らしいと聞かれればまだ若いこの神父はらしくない人だと感じる。
しかし神には忠実でおおらかな人間だ。
メアリは恥ずかしそうに髪を整えるランスに笑う。
「貴女が来てからというもの、子供達がよく来てくれるようになりましたね」
「そうですね。賑やかで私も嬉しいです」
メアリが来る前は教会に来るのは年寄りばかりで小さな子供は来なかったのだが、メアリが読み聞かせをすることで子供が教会に来るようになった。
「ありがとうございます」
「いいえ、私は喜んでもらえただけでも嬉しいですから」
神父なるランスにお礼を言われ気恥ずかしくなるメアリ。
「これからもよろしくお願いします」
「はい」
お互いに頭を下げる。
この教会にいつまでいられるかわからないができる事をしようと誓った。
ローに毎回誘われても屈しはしないと思いながら。
***
ローは男を誘う露出したドレスを身に纏う女を侍らせながら夜のネオン街から町へ移動する。
後ろには船員が同じように歩いていた。
歩いていればこうして女が寄ってくる。
振り払うことはせずに腰を抱き寄せ誘いに乗るのだ。「船長~、本当美人ばっかですね」
シャチがローにいらぬ報告をする。
ローはそれに答えることはせず隣で腕を組む美女を見る。
どうやら女は一番人気らしく妖艶なオーラを纏っていた。
「修道女がこんな場所にいちゃいけねェなァ?」
「通してください」
澄んだ聞き覚えがある声にローは斜め前を向き足を止めればそれに気がついた船員達も立ち止まる。
よく見てみればそこには薄汚い男達が群れていた。
「船長さん、どうかしたの?」
「待ってろ」
「えっ」
女が何か言う前に掴まれていた腕を振り払い男達に向かう。
その隙間には黒い布が見え、もしかして、と群れに近づいた。
「おい」
「なんだァ……!ト、トラファルガー・ロー!?」
「おれのこと知ってんのか」
「逃げるぞっ!!」
ローのニヤリと口元を上げた笑みに男達は恐怖に逃げ出した。
それを見送るとローは今まで成り行きをぽかんとした表情で見ていた修道女──メアリに顔を向ける。
「修道女がこんな場所で何をしてる」
「貴方に言われる筋合いなどありません」
「質問に答えろ」
「私は言葉の暴力には屈しませんよ?」
メアリのあの強い眼差しにローはまた目を細めた。
まるで、眩しいものを見るかのように。
そうしてローとメアリが見つめ合っているうちに彼女はハッと気がついたように目を見開く。
「貴方とこんなことをしている場合ではありませんでした。私は先を急ぐので失礼します」
「おい」
メアリがローをすり抜け急いで目的の場所へ歩き出す。
しかし、その足はローが彼女の腕を掴んだことにより進まなかった。
成り行きを見ていたハートの船員もその行く末を案じる。
「おれも行く」
そうして数秒が経ちようやくローが口にした言葉はメアリや船員達を驚かせた。
「どうして貴方が行くのですか?」
「お前は無防備過ぎて見てらんねェからだ」
「私には神がついておられます。心配はご無用」
「神は知らねェが、おれなら神よりも早く助けられるぜ」
ローはフッと笑いメアリをみれば彼女は諦めたように前を向く。
「これも神のお導き。お好きにどうぞ」
ローがその言葉にひっそりと口元を上げたのを船員達は見逃さなかった。
コツコツと、二人の足音が夜の誰もいない街区にこだまする。
ローとメアリはお互い無言で歩いていたが、実のところメアリは迷っていた。
「何か言いたげだな」
メアリの心を見透かせたように、ローは笑う。
そんな、余裕の相手に一度は口を開き、何も言えないまま口を閉じた。
言ってもいいのか、言ってしまえば、ローはどんな反応をするのか。
メアリは言うことを迷っていた。自分の心の内を。
「言わねェなら、おれが質問する」
彼はメアリの様子に表情を変えず、前を向いたまま口を開いた。
メアリはスッと、相手を見れば、ローは笑っていなかった。
「どうぞ」
どんな質問がくるのか、と考えれば、普通は海賊である彼の話しは、聞かなかっただろう。
メアリの返事に、予想外だったのか、ローが驚いた様子でこちらを見ていた。
「お前はこの先もずっと、修道女として生きていくつもりか?」
「神に遣えるかぎり」
彼の質問にメアリはごく当たり前に答えた。
修道女になったときから自分は遣える者として生きる。
「海賊よりは、安全かもな」
「え?」
掠れて、聞き取れなかった声にメアリは横を向いたが、ローは何も言わなかった。
これ以上聞こうとは思わなかったメアリは、再び前を向き、歩き続けることにした。
***
「着きました」
その声にローは真ん前にある扉を見て、メアリに尋ねる。
「誰がいるんだ」
「入ればわかります」
メアリがそれ以上言うつもりがないと、ローは聞かずに彼女の後についていく。
扉を開ければ、そこはごく普通の家だった。
すこし古びているが、人の住んでいる気配がした。
「カーネさん、メアリです」
「メアリさんかい?夜分遅くにすまないねぇ……」
年寄り特有の声に顔を向ければ、かなり年のいった老婦人がいた。
足が不自由だとすぐにわかった。ロー自身、医者の知識はある。
老婦人の足に視線を止めていると、メアリが老婦人に袋を渡していた。
「薬か」
「あぁ、私は足が不自由だからね。いつも薬はメアリさんに届けてもらっているんだよ」
老婦人は足を見ながら、思いふけるように目を細めた。
メアリはそんな老婦人の様子を静かに見守っていた。
彼女はこの老婦人に薬を渡す為に、あの裏通りを通ったのだと、納得がいくロー。
老婦人は彼女に微笑みかけると礼を言った。
「危ない地区なのに、すまないねぇ」
「かまいません。それより、お体はいかがですか?」
ローは自分より老婦人を心配するメアリに、呆れたような、仕方ないような、諦めの表情を浮かべた。
お人よしにも程がある。
いくら老婦人の為であっても、自分が通りがからなかったら、今頃どうなっていたか。
身の危険をわかっていないと、ローはメアリを見る。すると、彼女と目が合う。
「それでは置賜させていただきますね。幸多からんことを」
メアリは、すぐにローに視線を外すと老婦人に十字架を切った。
「おい」
「なんでしょう」
「お前は命が惜しくないのか」
老婦人の家を出、帰宅の道を進む二人。
ローはメアリに問い掛けると、彼女はピタリと立ち止まった。
「貴方に言われる意味をはかりかねます」
それは、つまり明日は生きているかわからない死と隣り合わせの現実に生きるローへの当たり前の疑問であろう。
なんの感情も映さないメアリの瞳は美しかった。
その瞳が自分を見ていることに優越感さえ感じる。
そんなことを今口にすれば、彼女は怒りだすだろうか。
きっとそうですか、と当たり障りのない言葉を出すだけだろう。
「人間として死ぬのが怖いのは本能だと思うが?」
「だから私達修道女は神に仕えているのです」
「なるほどな、つまり天使っていいてェのか」
「いいえ、私は人間です。それ以上でもそれ以下でもありません」
メアリの考えに笑いたくなった。
確かに正論で、けれど矛盾している。
人間だというのに神の領域に入るのは筋違いではないのかと。
「死ぬまでそう思ってるのか」
ローはメアリに聞き取れない声色で一人呟いた。
いつものようにステンドグラスから受ける光を浴びながら、メアリは聖母像に跪ずく。
そうしていると、耳に微かな足音が聞こえた。
「どなたですか」
立ち上がり、顔を扉付近へと向ける。
黒い服を身に纏った服に、顔が殆ど見えない布で被われた服装の人間が立っていた。
「私は教団<異能の獅子>に所属する者です」
「<異能の獅子>?」
初めて聞く教団の名称に首を傾げた。
「はい。わたくし達は傅く君子を年来において探しております」
「君子、ですか」
「ええ。この世界と血の繋がらない救いの聖女」
「血?あの、よくわかりませんが。つまりは誰かを探しておいでだというわけでしょうか?」
「そうです」
「どうして、ここへ?」
「貴女様がその聖女の血を引いておられる可能性があると耳に入りまして。こうして伺い申し上げましたところです」
「可能性とは?」
「記憶がないと聞きました。つまり世界を知らないという事が考えられます」
「…………」
メアリは返事に困った。
この教団を名乗る男の言葉が理解できないのだ。
もちろん記憶はないが、だからといって世界を知らないわけではない。
むろん、日常が過ごせる程度の記憶の欠落。
それに、君子と呼ばれる存在にも心当たりはない。
「そうですか……非常に申し上げにくいですが、それはわたくしではないですね」
「そうですか?先代からの言い伝えによりますと、我等が求める君子は素性を知られる事を恐れるあまり命懸けで正体を隠すと言われております」
「は、はあ……正体を隠す必要はわたくしにはありませんが」
「おや、礼拝者ですか?」
メアリが困惑していると不意に教壇の隅にある入口からランス神父が出てきた。
「いえ、もう帰らせていただきます。貴重なお時間をありがとうございました。それでは失礼いたします」
まるで神父の追求から逃れるかの様に去る人間を目で見送り、すぐにランスへと礼を述べる。
「助かりました」
「いいえ」
ランスへと頭を下げると彼は当たり前だと言って親身になる。
「一体彼は何者なのでしょうかね」
「私には全く検討がつきません」
ただ首を横に振るしか出来ない。
記憶がないことを何故知っていたのか等、疑問もあったが得体の知れない雰囲気に考えないようにした。
簡素で動きやすい服を来て、町で買物を済ませるとカフェのテラスで一休みを挟んだ。
人が行き交う風景をぼんやりと眺めていると横からカタン、と音がした。
「……たくさんテーブルは空いていますよ」
「クク……おれはここに座りたかったから座っただけだ」
屁理屈とも横暴とも取れる事を言う男に反論する気持ちが無くなり溜息をつく。
シスターとしても一般市民としても決して馴れ合うことはないだろう海賊の長である男に対して、既に諦めの感情がセットになっている。
言っても無駄、咎めても無意味。
海賊である人間に人徳を説こうとは思わないが、しかしトラファルガー・ローの考えている事が分からなくて困惑していることは確かだ。
今も正面に居座る行動やメアリに近付く理由も貞かではない。
ローはコーヒーというイメージが合う通り注文していた。
海賊とコーヒーはとても合わないが、ローとコーヒーなら自然と合う気がする。
ちらりと飲む姿を見遣り再び人が行き交う道を眺めた。
と、不意に彼が質問してきたので目を合わせる。
「シスターも私服を着るのか?」
「私は生まれながらの修道女ではないですし、価値観が他の方とは違うだけなので、一概にそうというわけではありません」
「丁寧に返されるとは予想外だ」
「貴方が聞いたのですよ」
「そうだな。でもお前はおれの事が嫌いだからあんまり話さねェのかと思ってた」
メアリはローの言葉の意味に一瞬呆気に取られた。
あんなに追い回すように教会を捜し当てて見つけ出す行為を重ねてきたのはそっちなのに、今更何を言うのか。
それ以上に、海賊が一人の力無い修道女相手に嫌われる事を考えていることに驚いた。
メアリが密かに目を見開いて相手を見ていると彼はフッと口元を緩く上げて二度目の質問をしてくる。
「この町は好きか?」
「今まで住んできた町も好きですから決められません」
「そう答えると思ってた」
ローは嬉しそうに見つめてきたので一瞬疑問が脳裏を掠めた。
何故答えを予期出来たのかと。
その答えを知る術が目の前にあったのに喉から声が出なかった。
聞くにはまだ早いと本能が感じ取っていたのかもしれない。
ローも答えを言うことはしなかった代わりに違う話を持ち込んできた。
明白な事実は時として知らない方が良いこともあると、記憶に残る声が囁いた。
「聞きましたか?シスターメアリ」
「何をです?」
ランス神父が朝早くの教会で話し掛けてきたので首を傾げながら聞き返す。
「この島に有名な海軍の少将がおいでになられるそうです」
「海軍の……いつ頃ですか」
「明後日の昼には着くと知らせが届きました」
「わかりました。それにしても、何故そのような地位の方がこの島に来るのですか?」
「なんでも、近辺の海賊の討伐と島の治安を調べにくるそうですよ」
ランス神父は詳細を述べて最後に用件を頼んできた。
「そこで、案内を貴女に頼みたいのです」
「ランス神父は確か明後日に大切な用事がおありでしたね。私で良ければ引き受けさせていただきますよ」
「ありがとうございます。私が案内出来れば良かったのですがね……」
残念そうな声音で俯くランスに慰めの言葉を投げかけ、案内をする準備をする為に外へ出た。
曇る空を見上げ今日は天気が悪くなりそうだと不安が過ぎる。
人が少ない通りに出ると、突然腕を横に引っ張られた。
何をされるのかと身構えたが予想に反してローが目の前でこちらを睨んでいた。
睨まれるような事をした覚えがないメアリは困惑しながら首を傾げる。
彼は口を開くなり、海兵に近付くなと言う。
ますますわけがわからない。
もっと詳しく言われたのが、今日港に入港する海軍に近付くなと強く言われる。
そんな事をいきなり言われてもとローから後ずさった。
しかし、彼はメアリを壁に押し付け動けなくしてきたので逃げる事が出来ない。
ビクともしない腕。
「は、離して下さい。私は今から大事な用があるのです……」
「自分の命よりもか」
鋭い空気と冷やかな眼にゾクッとした。
一体、彼は何に対して警告しているのかさっぱり理解出来ない。
海軍に近付くべきではないのは海賊であるロー自身だろうに。
それとも、単に自分の居場所をメアリに言われたくないから来る行動なのだろうか。
「ご安心下さい。貴方の事は言いませんから」
だからこの手を退けて欲しいと頼めばローはゆっくりと力を緩めて離した。
今の内に広場へと出てしまおうと足早に背を向ける。
「違う……メアリ」
その時、耳が密かな声を拾ったが依然としてよくわからないままだった。
予定時間まで残り僅かとなった海軍の少将が乗る船の到着する場所に差し掛かった時、不意に話し声が聞こえた。
「迎えはまだかね。いつまで待たせるつもりか」
硬い声音にゆっくりと壁の陰から顔を覗かせる。
予想していた通り、とっくに船は着いていたようだ。
髭を伸ばした男が背を伸ばして立っている。
声をかけるべきだがこの時この瞬間、メアリの身に激しい頭痛が起きていた。
痛くて立っていられない苦痛にしゃがみ込む。
ズキッと何度も痛みが襲い、それと同時に瞼の裏で閃光が瞬く。
『お前はこの方と結婚しなさい』
『もう、嫌だ……』
歳が四十半ばに見える男性がメアリに何かを言っている。
更に自分は涙を浮かべて激怒していた。
記憶なのかと頭が混乱して、残像ともつかない涙を浮かべた自分が部屋を飛び出す。
その時、過去と今の自分が無意識に助けを求めるかのように口から名を紡いだ。
気付けば走り出していた。
今、修道女をしているメアリにも確かに過去が存在していて。
けれど、とても幸せとは思えない記憶。
一体、どちらを信じればいいのか分からなくなる。
過去を信じれば済む話だが、あの光景を見てしまえば元の自分に戻っても意味がないように思えた。
記憶喪失になった原因も思い出せない。
思い出さない方がいいのかもしれないと失笑する。
いつの間にか海沿いの岩場に来ていたメアリは絶壁へと進み青々とした波を見詰めた。
「どうした」
「っ!」
ドッと心臓が跳ね、慌てて後ろを向くと無表情のローがいた。
彼は絶壁に立つメアリの様子を見ても顔色を変えない。
今だ忙しなく動く心臓を落ち着かせ、何か言う為の言葉を探した。
絶壁という場所にローも隣に列び腰を下ろす。
「お前も座れよ」
立っている意味も特になかったので習って腰を下ろす。
不定期に鳴るさざ波に耳を傾けると少しだけ考える事が出来た。
何故か彼は唐突に喋り出し、顔を見る。
「そいつはな、家が中流貴族ってやつで許婚がいつの間にか決まってた」
「え?」
「壊れそうなぐらい泣いてた。手を差し延べてやりたくて、何度も会いに行った」
目を丸くして驚くメアリに構わず更に話を進める。
「でも、その甲斐なくそいつは崖から身を投げた」
「身を……」
ローの瞳は悲壮感ではなく罪悪感に染まっていた。
ローは瞳を揺らしながらこちらをゆっくりと確かめるかのように見詰め、
「けど、生きてた」
確信に満ちた声音でメアリの頬へ指を滑らせた。
その動作は幻影を見ている感覚を起こさせ、無意識に目を細める。
まるで手の温もりを知っているかのように。
身を委ね先程のあらぶった感情が溶けていく。
「私は、家を飛び出しました」
「……記憶が戻ったのか」
「いえ、ほんの少しだけです」
ローは執拗にメアリを探していたからか、記憶を失っていることを早くに知っていた。
「走っている中で私は……ある男性の名を口にしました」
ローは待ち望むような期待の眼差しを向ける。
「‘ロー’と」
「お前は……その名前に心当たりがあるのか」
「随分と遠回りな言い方をなさるのですね」
「まーな」
彼にしては慎重に言葉を選んでいるようだった。
「時として、知らなかった方がいいこともあるだろ」
「そうですね、確かに怖いです」
けれど、何も知らないままでは誰かを傷付けてしまうかもしれない。
口にすればローは目を見開き頭をかいた。
苦笑と歓喜が交じった複雑は面(おもて)に笑みが浮かぶ。
「じゃあ、お前の勇気に免じて一肌脱ごうか」
ローはニヤッと笑い手を差し出した。
勿論、その手を取ることが最善だと立ち上がる。
男はイライラとした様子で神父であるランスを咎めていた。
なぜなら、約束の時間を二十分も過ぎた今でも迎えが来なかったからだ。
怒鳴る男に謝るランスは端から見ていて理不尽に見えた。
「そのくらいにしたらどうだ?婚期を逃した男は癇癪を起こしやすいのか」
「なんだとっ!……貴様はトラファルガー・ロー!?」
鮮やかな笑みを携えた死の外科医に少将は顔を真っ赤な色から真っ青に変える。
怒鳴ることも忘れ間抜けに口を半開きにした男を一瞥してローはヒラリと建物から飛び降りた。
「な、貴様!何故此処に、いや……何故そのことを知っている!?」
「婚期のことか?それとも癇癪のことか?くくく……」
「婚期だっ、生意気なガキめ!」
嘲笑う男に少将は憤り露に地面を足で踏む。
回りの海兵達は突然の海賊による登場で銃を構えている。
余裕しゃくしゃくなルーキーからしてみれば、この程度の海兵を相手にするのはたやすいだろう。
ローは気が済むまでひとしきり笑うと相手から見れば死角になる建物に手招きする。
それを合図に出てきた顔に少将は身体を強張らせて震える指先で女を指した。
「ば、馬鹿な……死人が……まさか」
「生きてたって、オチだが?」
まるでタネを明かしたマジシャンのような気持ちになる。
相手は蒼白の顔色で一人のシスターを見つめ、メアリもどんな顔をすればいいのか最初は戸惑っていたがもう一人の自分が「正々堂々と」いう言葉を胸に反響させ、胸を張って姿を見せればいいのだと自信が湧いてきた。
ローはメアリの手首を掴み自然な動作で引き寄せる。
いきなりの出方に彼を見上げるとローもこちらを見ていた。
「と、いうわけだ。惜しい女をお前は逃した」
「……私は」
「お前はおれの恋人だ」
そう言われて信じられないと否定することもなく、ストンと欠けていたピースがハマった感覚がした。
自分は目の前の人間を知っていて『恋人』と断言されても違和感を抱かない関係なのだと。
何故か彼は海軍を悪魔の実とおぼしき能力で攻撃しメアリを抱えて海へ向かった。
最後に片隅で腰を抜かしていたランス神父に一礼しておいたので失礼はないと思う。
心のどこかでこのまま船へ乗せられるのだろうという確信があった。
彼と出会ったばかりの頃は絶対に海賊の仲間になんてならないと頑なに拒否していたが、記憶が少し戻った自分の性格はどうやら冒険事を楽しみにしているようだ。
心臓がドクドクと鳴る胸に手をやりローに尋ねた。
「私はまだ完全に記憶が戻ったわけではないです。それでも、よろしいのですか」
「分かりきったことだな。どんな姿をしていようと、記憶を失っていようと拒否権なんてねーよ。最初からな」
「そうですか……」
担ぎ上げられている状態で腰に回ったローの腕にブレスレットが見えた。
同じものをメアリも付けていて、イニシャルは『T.L』。
「貴方の事を少し、知りたくなりました」
「くくっ、当然だ。おれは惚れ直させるのが上手いからな」
冗談めかして聞こえた言葉に女は男に初めての笑顔を見せた。
もう一度二人で未来を走る
まずはお互いの名前から、なんていかがですか