キッチン部屋から出てからローの自室前に来るまでの記憶が抜け落ちている。
動揺して頭が真っ白になっているのも加えてローの耳に囁いた台詞がずーっと頭の中で繰り返されているせい。
どういう意味なのか、やはり男が。
と思っていると食べ物を届ける事に気付き持って行くことにした。
今は考えるべきではなさそうだ。
というか今でも船員が密航者捕獲の為に見回っているのにどこに隠れているのだろう。
何かの能力者という線もある。
「面倒……」
もう別に持っていかなくても良いんじゃないのかと思ってしまう。
どんどん持って行くのが億劫になる。
ぶっちゃけても良いような。
そもそも脅しに屈しなければこの計画は破綻してしまうので彼女の命運はリーシャに握られている。
「そもそもこの船に乗っているのはローを好きな人達ばっかりってのをあの子は分かってないんだよね」
呆れながら向かうと出会ったところへ。
辺りを見回すと音もなく現れる女。
「能力者?」
「やっぱり分かっちゃう?悪魔の実、食べちゃったの!ローに会いたいからバカな男海賊から奪ったのよ~。男ってチョロいんだ!」
(何かフラグが立ったようなー?)
主に報復される方向で。
しかも悪魔の実を食べるだなんて。
「うん。ローに好かれたくて悪魔の実食べて強くなったの」
「何の実?」
「ユゲユゲの実。湯気になるの。凄くない!?」
興奮した様子で語られて段々うんざり。
けれど、重要な事を言われるかもしれないから聞き逃してしまわないように気をつけて聞き役に徹する。
それにしてもローを呼び捨てにするなんて特殊な子だ。
彼は呼び捨てにされるのは気にならないが馴れ馴れしいのが好きではない。
さて、仮にローと会って呼び捨てにしたら恐らく眉間にシワを寄せて不機嫌になるだろう。
「凄い。どんな事出来る?」
赤子に聞く様に丁寧に聞く。
勝手に気分を上げてペラペラ話してくれるかなって期待しているのだ。
女とは本来女狐と称される事があるからして頭が回るし相手を値踏みし男よりも更に未来を考えて物を言う人だっているが、この子はそれに当てはまらないな、と瞬時に察せた。
「あはは、やっぱ気になるう?だよねっ、なんせ悪魔の実だもん」
馬鹿だ馬鹿だと思っていたが上げて上げていけば上手くいくだろう。
「何が出来るか教えてあげる。どーせローに認めてもらえるように沢山練習したし皆に御披露目するんだろーしっ」
駄目だ、馬鹿過ぎて。
「何からにしよっかな~」
音符が付きそうな程楽しげにしている。
口がパカーンとあいてしまいそうになる。
必死に口を閉じて我慢。
「湯気になって姿をくらませて見えなくするのは当然。湯気を発生させて人を蒸らすの!戦えるのよ。ふふーん、凄いわよね」
「嗚呼」
(聞くのしんどくなってきた)
こんな女に使われるのが超億劫。
しかし、今は我慢。
「ローに手っ取り早く売り込むには寝込みを襲うに限るわ」
(バカだ。分かってたけどバカが居る!)
死ぬかもしれない確率が高い。
仮に能力を披露出来たとして、ローが受け入れるかは別問題なのを想像してないようだ。
バカ過ぎて最早自殺したい人の最後のお遊びにしか思えない。
ローは只の町人でも好青年でもなく裏社会に足をズボッと突っ込んでいる男だ。
そんな見え透いた媚びに引っかかるとは思えないし、やはり死亡フラグがバイブレーション付きにやってくる。
え、何を言っているのか分からないって?自分まで混乱して意味の分からない比喩を口走っているらしい。
止めた方が良いのか止めずに痛い目を見て学ばせたら良いのか悩む。
ええい、こうなったらローの貞操は守る。
恐らくこの子はこちらを味方として数えているだろうし、その油断を手に取り転ばせよう。
ローは何時に寝るのだと聞いてきたから適当に四時と答えたら嬉々として分かった!と言うので溜め息を殺し馬鹿だと罵り思った。
だって、普通に考えてそんな時間まで起きられるわけもない。
起きていられたとしても体内時計が寝ている筈の時間まで起きていても、頭がぼんやりしてしまう。
この子が規則正しくない時間まで意識を起こしていられるとは思えない。
そして、これはクリオネだからこそ知り得るのだが、ローは本を毎日朝方まで読み徹夜する。
本人にとっては慣れた習慣。
つまり、襲っても返り討ちにあう。
この子に一パーセントすら勝算がない上で提案した。
勝手にされるよりも手の平で踊られた方がマシ。
「準備は良い?」
ということであれから時間が経過し今は夜中の四時。
本当に四時まで起きていたが、かなーり襲撃者は眠そうである。
眠いのなら止めておけば良いのに。
保険としてシャチに直筆で紙に書いて気配を消してもらい死角に居てもらっている。
女が能力者というのをちゃんと言ってあるのでシャチが攻撃しても無効化されるのであくまで見ているだけに留めてもらう。
「せーの!」
小声にしてはデカい。
やはり色々抜けている。
──パタッ
扉をゆっくり開けるのかと思いきや、そんな事は無く、普通に開けた。
「ロー!私の話を聞いて…………居ない!?え、何で?」
「…………シャワー?」
ローが居ないのはリーシャも知らなかった。
首を傾げていると扉を開いた状態の部屋の立ち位置から後ろに突如引かれて、バタムと扉が閉まる光景だけが見えた。
「え!な、何!?ちょっと開けなさい!騙したわね!」
いや、騙してないし閉めてもない。
では誰だろうと思えば見当が付くのは教えていたシャチだろう、と後ろを向く。
しかし、ソコに居たのは彼でなく部屋の本来の主であったのだ。
驚きと共に絶句していると扉のドカドカという音と女の声が聞こえる。
「出しなさーい!何やってんのよぉ!?」
煩いな、ドアが傷ついたらどうするんだ。
それに、部屋を荒らされたらどうしようと心配しているとこちらを寄せて部屋から離れさせた人が口を開く。
「良く見つけたな」
「!、いえ」
二回目と言って良い程こんなに近くで声が聞こえて鼓動がドクンドクンと音を立てる。
良いボイスを持っているその男に褒められて嬉しくなった。
ジッとしていると彼は扉を見てから相手に話し掛ける。
おれに何のようだ、え、ロー?なんでローがそっちに?というやりとりの中でローのこめかみに青筋が立つ。
怒気を込めてローはなに呼び捨てしてんだああん?という気迫で舌打ち。
ローの怒りを間近に感じているこちらはひたすら黙るのだが、それを感じられない扉越しの女は騒然としている。
ローが直ぐ前に居るというのを感じているせいか、気がそぞろだ。
小さく聞こえてくる「嘘。そんな。どうしよう、髪ボサボサなのにぃ」と今気にするべき所じゃないしという突っ込みが心の中で済まされる。
彼も呆れた様子で刀をギチギチと鳴らしている所を見ると力をそちらに込めて怒りの感情を何とかしようとしている節が見受けられた。
「直ぐに答えろ」
彼は女に質問し出した。
どこの誰だか分からないのに良く口を利けるなー。
「勝手に何故乗った」
拒否をしたのに関わらず。
言葉にされなくても言外に含まれるそれらを感じ取れた。
しかし、女は残念な理解力らしく気付いてすらいない。
バカっぽくアホっぽく、どれだけ己を過信しているのかという「私が居れば貴方は望む椅子を手に入れられるからよ」と興奮して述べる。
しかし、女よ、それはローが望んだ事でなく只の女の欲望なのを気付け。
頼まれてもいないのに乗るだなんて自意識過剰を逸脱している。
「それにね、私、この世界に来る前に女神から貴方は海の秘宝だって言われたの!凄くない?秘宝って滅茶苦茶凄いんでしょ?」
「……イかれてやがる」
秘宝って何だろうか。
首を傾げたまま聞き役に徹しているとローは溜息を吐き女に此処に居ろと部屋の中で大人しくしているように聞かせた。
女はローに認められたと思っているのか気前良く「分かった。出来るだけ早く迎えに来てよね」と言う始末。
ローが感情だけで動く男ならば既に彼女はこの世に居ないのではと思ってしまう。
彼が温厚なタイプで彼女は幸運だ。
この航海中に放られるかはまた別の次元のお話だが。
船長はこちらの事をちらりと見てから腕を引く為に手を伸ばしてくるが、咄嗟に腕を引っ込める。
「歩けます」
腕なんて掴まれたら女だと即バレる。
それは嫌だと感じて機転を利かせたのだが、どうにも相手の表情が強ばるので、もしかしてバレているのか、と冷や冷やする。
だが、ローは何事もなかったの様に持ち場に戻るように命令してから近くに待機していたシャチへ解散するように言う。
海楼石を持ってこさせても居たので彼女を閉じ込めるつもりなのだろう。
後は彼等に任せるべきだと思い、場を離れるが、歩いている途中ではて、己はどこに寝れば良いのかと気付き困り果てる。
今まで人間のまま朝を迎えた事もないので寝る場所はない。
いつもあの小さな世界で過ごしていたのだから。
うむ、と俯いていると後ろから足音がして振り向く。
驚いた、ローがこちらを真っ直ぐ見ていた。
観察しているというより何か言いたげだ。
(このまま立ってるから可笑しいかも)
部屋に戻る為に向かう筈の人間が立ち往生しているのだから不審に思われてしまう。
慌ててローが歩く為の道を作り脇に身体を寄せる。
そのまま通り過ぎるかと思いきや立ち止まられた。
それにびっくりして見上げる。
「空き部屋でおれは寝る」
ハテナマークが頭を占める。
うん、で?な内容だ。
「お前もそこで寝ろ」
「え」
各自部屋を与えられている船員に部屋なしは当然居ない。
ハートには幹部は居ない。
年功序列もないので一人一部屋なのは船長だけだ。
リーシャも船員として部屋が割り当てられていると知っているだろうに、そんな事を言ってくるローの気が知れぬ。
「いいな」
「は、はぁ」
嗚呼、でも女クルーならば割り当てられていた。
あまり男だ女だと思って彼らと接していないので意識していない。
リーシャは女だがクリオネでもある。
その生物的思考故にオスだのメスだのという意識も極端に薄い。
その弊害からか裸でも恥ずかしさはほぼ無し。
そういえば船員達から一度もお風呂一緒にとか言われたことがない。
可笑しいな、他の人が誘われているのは見た事があるのに。
しかし、誘われてもホイホイ行けないのが女体だ。
そんな事を回想している内に付いてこいと顎を動かすのが見えて付いて行く。
こういう風に誰かの後を行くのは初めてだ。
隠れる様に運動したりするから話す事も稀。
元々船内はローに連れ回されて自然と覚えたから船員の後に付いて行ってという事も無い。
部屋に行くと整頓してあって埃もないみたいだ。
「フフ、ほら。入れ」
ベッドのある寝室に案内されて辺りを見回す。
今までこんなに沢山喋った事なんてないから緊張はピーク。
これ以上話しかけられても話題を提供出来ない。
もう沈黙、それしかないと腹を括る。
ローに足されて椅子に座るが女座りにならないように男らしく振る舞う。
それを見ているローはつぶさに観察をしているようなしていないような気がする。
「おれはベッドで良いか。お前も寝れば良い」
二つあるけれど一つは簡易でローが指しているのは簡易でない方だ。
それで良いと頷く。
この動作は便利だ。
ただ首を振るだけでいい。
彼は上半身をベッドに乗せて横になる。
靴は脱がないのだろうかと思ったが指摘する程ではないと思ったので何も言わない。
彼は彼の好きなようにさせる。
それを言っても尚更、今更である。
今は兎に角気配を薄くして彼の意識の範囲外になること。
でないと、うっかり眠れぬ。
彼に体をマジマジと見られでもしたら多分お医者な彼は見抜くに違いない。
体を固くするしか出来ない。
ちょっとでも気を抜けばバレると分かっているから寝られないのだ。
そんなガチガチな空気を当然ながら感じ取れるだろうローが自発的に話しかけてきて更にビクッとなる。
「この船には慣れたか」
今日は何だか口数が多いなあ。
不思議だけれど、あんな事があったから誰かと話したいのかもしれない。
変な女に纏われているから嫌な気分なのかも。
想像だ。
「ええ。ぼちぼち」
無難な回答が出来た。
それにしても最近入ってきた新人と勘違いしているっぽいな。
ローの何気ない膨大な優しさをそう受け取ったのであった。
「ぼちぼち、か。何か不自由してねェか」
しかも、心配してくれている。
どうしたのかな、ヤケに絡んでくるな。
「はい」
「何か頼みたいことがあれば直ぐに言え」
本当、どうしたのだろう。
しかし、質問したら墓穴を掘りそうで怖い。
やめておこ、おやすみって言おう。
「眠たくなってきました。寝て良いですか?」
出来るだけ不審になら無いように敢えて許可を取りこれ以上の会話を封じる作戦。
直ぐに嗚呼と答えてもらえて寝たフリをする。
いつもの状態ではないから寝るにも眠れぬ。
何度か寝返りをしそうになったが、傍でローが寝ているから安易に寝返りすら打てない。
またローが話しかけてくるのも困るので息を潜めて待つ。
こうなったらいっそのこと外に出てハンモックで寝た方が眠れるかもしれない。
そう思ってそろりと腰を浮かせて起き上がる。
ゆるりゆるりと扉へ向かう。
ガン、と頭を打つ。
真っ暗で夜目も効かない己の身体能力では前へ進むのは困難だ。
見かねたローが能力により部屋の外へ移動させるまで頭を打ったり身体を打ったり散々ぶち当たった。
気付けば外へ出ていたことを知ると溜め息を吐く。
痛いしぶつけまくったのだ。
もう暗闇を、今日を最期に出歩きたくないな、と懲り懲りとした。
あぁ、ぶつけた、額、とネガティブな思考で甲板まで行くとハンモックは仕舞われていてどこにも見当たらず、見当ハズレになっている寝床をまた探さねばならなかった。
ふと、目が海に行き、もしかしたら海に入れば……と期待。
海水なんだから入り心地は保証されている。
けれど、クリオネを捕食する生物の胃に放り込まれるのを想像したら海に入るのが怖くなった。
うう、どうしよう。
悩んだ結果、甲板の扉の隣によっこらせと横になる事に決める。
こうすればなんとか寝る事が出来そうだ。
明日にはローの部屋へ入れるようになっていれば良いのだが。
そうでないと甲板の外へ寝る日々を連日過ごす事になるのは、かなり不便。
お風呂にも頻繁に入れないし、海へ浸かれば良いのだろうが、食べられるから無理だ。
それにご飯の調達も無理だろう。
飼われるという行為に慣れきった体たらくなので。
「むう」
リーシャは考えるのを止めて寝ることに集中した。
けれど、枕が変われば寝付けないというのと同じで空間自体変わってしまいどうにもこうにもならない。
いくら寝返りを打とうが、目を閉じて無心なっても無理だ。
力を抜いてだらけたってどうにもならなかった。
どうしようと悩みが起こり一旦起き上がると目をそこら辺に動かして景色を見る事にする。
眠れないのなら起きているしかない。
夜目も効かないので景色は真っ暗であるが。
夜空の星なら見るのが可能だったのでそれを眺める事にする。
星を数えようと一つ一つ数えるがマメではない性格と集中がそこまで続かなかった性質が災いし心の中で早めに飽きて諦めた。
星を数えるなんてそもそも無謀であったという突っ込みは、無しの方向でっ。
足を少し浮かせてフラフラさせ、時間をもて余す。
暇だな、何か起こらないかなとグランドラインの上で不吉な事を考えてしまう。
スプラッタではなく楽しい事が起きて欲しい。
勿論。
「海へ……やっぱ駄目……」
この船へまた帰ってこられるかは保証されない。
ちょっとだけという思考でやらかしてしまうかもしれない。
そんな危険な賭けはダメダメ。
そろぉ、と海に向かって視線を向けてみるものの、こっちおいでー気持ちいいよーという誘惑が聞こえてきそうな気がする。
「っ!」
いっそ、と誘惑がふわりと来た瞬間、足音が聞こえてきて硬直。
此処に居るのがバレたら職務質問されてお前部屋はどこだ?分からない~となりこいつ不審者ー!という想像に行き着く。
バレたらイコール身バレして海に叩き出される自分な事になりかねない。
それだけは避けねば今後活動しにくくなる。
聞き耳を立てて誰が来たのかと緊張に手をグッと握り込む。
ガタンと扉の開く音が聞こえてきて暗闇で見えなかった周りが誰かのランタンにより照らされる。
リーシャはホッと息を付き、ローではない船員の姿に安堵。
船員ならば何となく誤魔化してやれそうだ。
「お、どーした」
ぺたんと座り込んでいるのを見つけた彼はこちらにランタンを向けて問うてくる。
「眠れなくて、ちょっと空気を吸いに」
低い声音を心掛け、答えたら相手は納得したのか、そうか、と言って微笑む。
しかし、次いで聞こえてきたのは困惑させられた。
「医務室にベッドがあるから休むならそっちの方が良いぜ」
(そーか!その手があったなぁ)
盲点だったその会話の内容に目から鱗。
早速向かう事にした。
医務室なら外で済ませなくても良いではないか。
しかも、薬品が置いてあるからベッドはカーテン付き。
とっても良い事だろう。
これから沢山安心して寝転がれるし、ローもそう頻繁に訪れない筈だ。
クリオネだった時は水の中で寝られていたが、人間の時に寝る非常事態の事も考えねばならないな、と考えさせられた。
(ヤバい。お礼言い忘れた)
折角良い案を提案してくれたのに残念だ。
(会ったらお礼言わないと)
寝床を探し彷徨っていたのだから当然、何か持参するべきなのだろうが。
花、は女々しいし、お金は安直過ぎて困らせる事になる。
もっと無難なお菓子、とか。
日持ちするヤツとか。
医務室に着くと鍵が閉まっていなくて本当にツイていた。
いや、いつも夜中でも開いているのかもしれないが、気にする前に今は寝る事だ。
だって、眠くないのに脳はお疲れなのである。
部屋へ入ると薬品の匂いが鼻を通り、鼻腔に広がりローの匂いだと微かに頬を緩ませた。
ベッドは月の光が届かないので手探りで何とか探り当て横になる。
ランタンを持ち歩くというのも大切だというのが身に染みた。
ハッと目を開けると朝方になっておりいつの間に寝たのだろうと苦笑した。
気付かないというのは不思議な感じだ。
「早く移動しなきゃ」
誰か来てしまい質問されるのを危惧し、部屋から退室。
誰も居ない事を確認してローの部屋の前へ行くと中から声もしないので女は出されたのか、と部屋をチェック。
良かった、開いてる、と扉をゆっくり開けてコロコロとした水槽が置いてある事にも安堵した。
あの女が壊しているかもしれないという前提もあって不安に思っていたのだ。
どうやらローの言いつけを守り大人しくしていたらしい。
良かった、と水槽に戻りチャプンと水の感覚の久し振りさにただいまただいまと興奮。
──ギュポン
聞きなれた大きな音に慌てて上を見れば蓋が閉められていた。
ローの特徴的な刺青の手が見えていつの間に部屋に居たのだろうと冷や汗をかいた。
普通に閉めたということは、見られていないのだろう。
真剣にこの水槽を眺めているローにアピールするためにわさわさと手を振る。
傍から見ていたら泳いでいるようにしか見えないだろうけれど。
「食べに行くぞ」
そう言えばまだ食べていない。
ローがクリオネ用の餌を蓋を取って、くれた。
手先にあるしお腹がペコペコだったので勢いあまりローの手のひらに乗ってしまう。
跳躍はいつの間にかこんなに跳べるようになっていた。
日々の練習って大切だ。
「!、おい……駄目だろ」
ぴちぴちと手をヒラヒラさせて、ローにアピールする。
「ほら、中に入れ」
ローはソフトに優しく優しくふんわりと水の中へ入れてくれた。
やっぱり初めて手に本格的に乗ったからかな。
水に入れられるた蓋を閉められて食堂へ向かう。
「あのイカレた女は今の所地下へ捕らえさせているからもう姿も現さないだろうな」
彼は独り言をぽつりと言う。
そっか、もう見ることはないようで安心だ。
ローが嫌な気持ちにならないのなら、嬉しい。
地下に居るのなら海桜石をかけているのだろう。
能力者なのだから、当然の処置だ。
リーシャもあの煙に撒かれるような厄介な能力はローを困らせるし、有用すれば力になりうるのを理解出来たので、彼が傍に置くのか置かないのか判断は気になった。
彼は船長だ。
船員達にとって不利な人材を置いておいたままにしておくとは思えない。
そう願おう。
食堂へ行くと互いに労り押し掛け女について船員達が話しているのが聞こえた。
全く、ローの部屋で寝られなくなるしで迷惑この上ない日であったと言える。
地下から出る事は叶わないから、次の島まで待てば良い。
船員の一人が女について愚痴るのが聞こえる。
「にしても、あの女、本当はヤバかったよなァ」
「あァ、四六時中船長の事をペラペラ話してて、引いた」
どうやらローにした初対面で述べていた事を船員達が居る前で言ったのだという。
ローの事を知り尽くしているだの、私はローに会うために異世界からやってきたのだとか。
同じ事を自分が言ったなのなら彼らはまた頭の可笑しな女だと笑うのだろうか。
これは言えないと決定的な確執を感じ取ってしまう。
ならば、誰にもバレぬように過ごそうと再度決めるに十分な材料。
彼らとその船長に不届きものなる女という目で見られるのは辛い。
もしもバレたら最悪死ぬのではないかと悟る。
しかし、ローをずっと騙していたと責められても仕方がないのだ。
甘んじて受けるしかあるまい。
もしかしたら慈悲でも貰えるかもしれなしね。
「あーあ、早く陸に着かねェかなァ。一緒の船に乗ってるってだけで鳥肌もんだわ」
うんうんと頷き合う船員達。
リーシャもまた絡まれたくないので同じ気持ちで内心同意する。
女と知っている女に構われたら今度こそローとて流石に疑心を抱くだろう。
何年も乗っている船員に対して疑えるのは船長足る特権と言えるし。
ローが黒と言えば黒になるのだから一度疑われれば人間になるのを止めてクリオネだけの生活に絞るしかあるまい。
船員達の騒動から離れていつもの場所でクリオネに戻りぽちゃんと水の中へ入る。
暫くしてローが部屋へ戻ってきて蓋を閉めると息を吐き部屋で本を読み出した。
最近、更に蓋を閉める動作に磨きがかかり、早くなった。
オチオチしていられないと自分も鼻息が荒くなる。
ローは頑張り屋さんだから、少しでもリラックスしてもらえるようにクリオネらしく泳いでセラピー代わりに癒してあげるのだ。
「飯はあと少しだ、我慢しろよ」
どうやら間違えられている。
そうじゃないよ、とパタパタするものの、通じるわけもなく見逃された。
まぁ人間みたいに察せられる動きじゃないから仕方ない結果。
諦めてパタパタしまくるのを止めた。
優雅に泳いでこそ我はクリオネなのだ。
数日が経過して、陸に着いた。
漸く例の悪魔の実を食した女を降ろせると皆喜んでいる。
リーシャも安堵を感じた。
あの女はリーシャを女だと断定しているから危険な人だと理解している。
一つでも疑われてしまうと均衡が崩れ兼ねない。
ローが女の言葉を鵜呑みにしなくて良かった。
女は速やかに町へ下ろされた。
最後までローに寄せてくれと懇願したらしい。
しかし、ローも許さなかった。
又聞きした事だが、ローの大切な私物を傷つけた事が敗因だとか。
何か傷つけたのかと思い出してみるものの、それらしい私物を壊したという事は聞いたことがない。
単に噂なので、あくまで憶測の域なのだろう。
この船にも女船員が居る。
それでも彼女が降ろされたと聞いたとき、ふと、魔が差したという訳ではないが、降りようかな、と思った。
永久的に降りるという意味での下船。
そもそもクリオネがメインという意外特にこれといった特徴もなく、お気楽道楽旅のような感覚だった。
人間に慣れたのなら、特にこれといってこの船に居る意味がないように見える。
ローは旅を続けるし、仲間も居るし、リーシャが居なくなってもペットが居なくなった程度でそんなに騒がれる事もないかもしれない。
ローはもう平気なんじゃないかとリーシャは確信を持ち、こくっと一人であるが頷く。
このまま一歩、歩けば良いのだ。
町に行ってのんびりいけば良い。
ビビっと来たのならそれは運命、である。
──ドンッ
「わひゃっ」
考えながら歩いていたからか、ぶつかってしまう。
手に求人の紙を持っていたし、前が良く見えてなかったかも。
反省しながら前を向いて謝る。
「いや?気にしてない」
声が知ったものだったので緊張で肩が震えた。
この二足歩行生物は──ベポだ。
失敗した、と苦い思いで相手を窺う。
「キャプテン、この子求人紙持ってる」
ドキッと嫌な予感の音がする。
振り向くことはせずとも、誰かなど知っているから。
キャプテンとか、一人しか居ないし。
「求人?」
テノールの声音にバレないと分かっていても心臓が鳴る。
バックバクだ。
「あの、失礼、します」
これ以上、ここにいても何にも起きないと感じ、フッと数名の人達の横を通る。
「おい」
──ビクッ
平常心を唱えながら過ぎようとしたのに、反射的にありありと反応してしまう。
ローの声だから特別だ。
ずっと聞いてきたのだもの。
「お前、おれの船に乗れ」
男は、女に決してバレぬように普通を装い誘い文句、否、拒否権をなくす形で申し込んできた。
嗚呼、やっぱりローの声には応えてあげないと、と思ってしまう。
「その前に、お前の名前はなんて言うんだ」
女は男の心の中を知らぬまま、抗う気も起きず、緊張に乾いた唇を開いた。
「わ、私は──」
人間をやるのも、悪くない。