痛い、苦しい、どうしてこんな目に。
霊峰の足場が悪い山道を駆け上がりながら、少女は繰り返し繰り返しそう心の内で叫んだ。
身に纏う白い衣装は所々破け血が滲み、履物はどこかに落としてしまった。履物もなく、山道を駆け上がっているからきっと足の裏は酷い有様だろう。
しかし、脇目も振らずに走らなければならない理由が彼女にはあった。怪我に耐えて逃げるか、背に食いつかんと追い立ててくる恐ろしい獣に食い殺されるか。
その二択を突きつけられるならば、どれだけボロボロになろうとも逃げなければならないと彼女は思う。
少女の背を追う獣共はなんの前触れもなく彼女の住まう村を襲ってきた。鹿のような体躯をしながら、鹿のそれでは無い牙と血走った目を持つ獣が。
《神秘の力》で何とか撃退を図ったがその期待も虚しく、獣共にはその力が通用しなかった。故に、少女の両親を含めた村の人間は為す術もなく食い殺されたのだ。両親のおかげで命からがら村から逃げ出した少女ですらも、獣共は見逃さない。
右も左も言えずに追い立てられた彼女は、気づけば《禁域》と呼ばれる霊峰に辿り着いていた。獣に食われた両親から寝物語で何度も聞いた霊峰に。
この霊峰には人類を見守ってくれる《王》がいる。
人類はその《王》のことを忘れてはならず、無下に扱ってもいけない。そうすれば《王》は人が危機に脅かされた時には必ず、その力を奮ってくれると。
少女の村は霊峰に住まうと言い伝えられていた《王》を祀る者達の村だった。彼女自身もこんな事になるまでは無邪気にその気高き存在の姿を夢想したものだ。
されど所詮は寝物語だ。
無垢な心は今の絶望的な状況を前にして、そう悲観的に皮肉を思う。
もしも本当に人を守る《王》が居るのなら、今の自分に手を差し伸べてくれるのだろうか。禁域に立ち入り足が血塗れになるほど山道を駆けても、全く事態は好転しない。
もしも《王》が実在するのなら、どうして己を祀る民達を救わなかったのか。殺し尽くされるまで自らの信奉者を捨ておくなど、残酷にも程がある。
それが少女の《王》と言う存在の救いを疑う理由だった。捨てる神はあれど拾う神は居ないのだと、彼女は絶望した。
絶望したことで鈍かった痛覚が再び鋭敏さを取り戻したらしい。もはや肌の色は見えぬほど赤に染った足で逃げ切ることの方が無理がある。
言い知れぬ痛みについつい走る脚が弛緩した。そしてゴツゴツとした山道に倒れ込む。
さらに運が悪く倒れ込んだところにあった拳大の石に頭を打ち付けてしまった。
追い立てる獣共の息遣いとその足音は近い。
遂に、その命の終わりを自覚して目をゆっくりと閉じていく。昨日までの己は、今日このように獣に食い尽くされて死ぬなど思ってもみなかっただろう。
両親や友の顔が頭の裏に過ぎる。
生を諦め死を受け入れる覚悟を決めると、頭を打ち付けたせいか自然と意識が遠のいていく。
完全にその意識を手放す直前、美しい《人》が倒れ伏す自身の前に現れたのはきっと、死ぬ前に見る幻覚だろう。
◆ ◆ ◆
ふわふわとした心地良さと温もり中で少女の意識は微睡んでいた。先程までの痛みや苦しみ、辛さはない。
もしかすると死後の世界に辿り着いたのかもしれない。もしもそうなら目を開けたとしても、恐ろしい景色は待っていないだろう。
そう思った少女はゆっくりと瞼を上げる。
差し込んでくる陽光に、何度か目を瞬かせるとぼんやりとした視界は晴れていった。
視界に広がる若草色と鼻腔をくすぐる花と青葉、土の匂い。小鳥は囀り、さらさらと風が草花を揺らす音が聞こえる。死後の世界はこうも自然に満ちているのか、と少女は考えた。首だけを動かし左右を見れば、森の中にある花畑に倒れているらしい。そのほとりには透き通った美しい泉がある。そしてもう一度正面を向き、空を見た。
ここは本当に、死後の世界だろうか?
伝承で聞く死後の世界とは似ても似つかない。
そんな中、凛とした男の声が少女の耳に入った。
「目が覚めたか?」
思わず身を固くし慌てて起き上がると声の主を探す。暫く見渡してから声の主らしき男を見つけた。
黒くつややかな髪と赤い鮮やかな双眸を持つ背丈の高い男だ。男は驚いた様子の少女を見ては面白そうに目を細めている。
「まさか禁域とされていたはずの霊峰に人間の子供が居るとは、俺にもまだ驚くことはあったらしい」
「霊峰……じゃあ私は、まだ…」
戸惑う様子の少女に軽く含み笑いを零してから「あぁ、生きている」と彼女に告げる男。
「久方振りに休眠から目を覚ませば、俺の住む霊峰にズカズカと入り込む愚か者……目に物見せてやろうと思って行ったはいいが……」
と、そこで言葉を切って男は少女を見据える。
言い知れぬ威圧感に、再び身を固くして口を噤む。そんな少女は、もしかすると、という思いが過ぎった。
「貴方は、《王》……なのですか?」
「……何故そう思う?」
何故かと問われれば、思わず言葉を詰まらせてしまう。品定めをするような、試すようなその視線に必死に言葉を選ぶ。こういう時、村の大人ならなんと返すだろう。まだうら若い少女は必死に考え、そして思いついた言葉をたどたどしく紡いだ。
「……神聖な霊峰で、眠ることが出来るのは……人の王しか居ない、から……?」
「…………」
その言葉を聞くなり、男の顔は拍子抜けしたようなものになる。そして無言に。
小鳥の囀りと風の吹く音だけが聞こえる無言の間。
その間が嫌に長く感じられる。
しかし、しばらくした後で男は笑い始めた。その様子には今度は少女が拍子抜けだ。
一頻り笑った後で気が済んだらしく、男は口を開く。
「いや何、まさか眠ることに焦点を置かれるとはな……ククク、数百年ぶりに言葉を発する生き物の話を聞いたがやはり面白い」
「……あの、では……」
少女は男の正体を確かめるために、問いを投げかける。そしてその問いに男は不敵に笑ってから頷いた。
「如何にも、俺が