かがみ川女子高校スクールアイドル部顧問の須藤先生のお話です。どうやら栴檀学園スクールアイドル部顧問の櫻木先生に食事に誘われたようで……
高知の古くからあるアーケード街、
ひとりじゃ、さすがに来ない店ね。
のれんをくぐって建て付けの悪い引き戸を開けると、もわっとした熱気と肉の焼ける香ばしい匂いが千絵を包み込んだ。
「いらっしゃい」
低い声が耳に届く。店のイメージを体現したかのような強面の大将が、こちらをちらりと見ることもなく黙々と焼き台に向かっている。カウンターだけの狭い店で、それなりに年齢のいったスーツ姿の男性たちが静かに酒を酌み交わしていた。
BGMは流れておらず、炭のはぜる音と客が交わす言葉がぽつりぽつりと宙に浮いている。
「須藤先生、こっちこっち」
カウンターの一番奥の席で、栴檀学園スクールアイドル部顧問の櫻木先生が手招きしていた。
千絵は狭い通路をなんとか進み、櫻木の横に腰を下ろした。
「遅くなってすいません」
「全然。私がはやく飲みたくて少し先に来てただけだから」
そう言いながら、櫻木は瓶ビールからグラスにビールを注いだ。633と呼ばれることもある大瓶は、すでに半分近くが空いていた。
「須藤先生もビールで大丈夫?」
「はい、いただきます」
櫻木が席を立つと、壁際にある小さな冷蔵庫の上に載っていたグラスを手に戻ってきた。冷蔵庫内には瓶ビールがところ狭しと並べられており、どうやら自分たちで取っていくスタイルのようだった。櫻木が千絵のグラスにビールを注ごうとしたので、千絵は慌ててグラスに手を添えた。
「じゃあ、乾杯」
千絵はグラスの底に手を添えて、櫻木のグラスより少し下に当てた。グラスをくいっとあおると、よく冷えた
高知に帰ってきてからの付き合いでは辛口の日本酒を飲むことが多かったが、千絵はどちらかというと学生時代からビールを好んでいたので、この一杯はたまらなく幸せな一杯だった。
「今日は誘っていただきありがとうございます」
「いやー、須藤先生とはずっと飲みたかったからさ」
「私も櫻木先生とは一度ちゃんとお話したかったので」
「そう言ってくれると嬉しいよ。今日は忙しくなかった?」
「ちょうどテスト期間だったので、むしろ今日で良かったです」
「うちもちょうどテスト期間なんだよね。テスト期間は授業も部活もないから、楽でいいよ。まあ、生徒たちはその分大変なんだろうけど」
櫻木は学校から直接来たのか、セン学の見慣れたジャージに身を包んでいる。千絵はいったん帰宅してから出てきた。最初は先輩との食事だしオシャレして来ようかとも考えたものの、あらかじめネットで仕入れた店の情報から、最終的にはジーンズに黒のTシャツというラフな格好を選んだ。どうやらそのチョイスは間違っていなかったらしい。
「この店来たことある?」
「いえ、はじめてです」
「そうなんだ。わかりにくい場所にあるでしょ」
「Googleマップ使ったので大丈夫でした」
「良かった。ここさ、セン学スク部関連で誰かと呑むときに昔から使われてきた店なんだよね。顧問とかOGとか保護者とかでさ、よく来るのよ」
「昔からってことは、日向先生時代からですか?」
「そうそう」
その名前を口に出したことで、ずっと蓋をしてきたあの頃の記憶が、千絵の中によみがえってきた。
***
栴檀学園スクールアイドル部。ラブライブ!第1回大会参加校。20年以上連続での県大会優勝。高知県で唯一アキバドーム開催決勝大会出場校。スクールアイドルが大好きだった千絵が、高知県のスクールアイドル業界で圧倒的な知名度を誇っていたセン学スク部に入ったのは、ごく自然なことだった。
四国を中心に全国各地から集まってきた仲間たちと切磋琢磨し、時にぶつかりあい、時にくだらないことで一緒にはしゃぎ、厳しい指導と練習に耐え、定期公演や大会をこなしていく充実した日々。初めてスタメンに選ばれた二年生で経験したラブライブ!中四国地方予選で、あと一歩のところで全国決勝大会を逃した悔しさ。部長に選ばれた最終学年は、あと一歩届かなかったその一歩を埋めるために、自分についてきてくれる仲間たちとともに死に物狂いで駆け抜けた。
そして、「ここ十年で最強の栴檀学園スクールアイドル部」と言われるまでの前評判で迎えたラブライブ!高知県予選。ミス一つない三年間で最高のパフォーマンスを終えて、あとは「優勝」の二文字を待つだけだった。正直なところ、県予選なんて通過点にしか過ぎなかったし、全校のパフォーマンスが終わった時点でもその思いは変わらなかった。
なのに。
「準優勝、栴檀学園スクールアイドル部」
そう呼ばれた瞬間、頭が理解を追いつかなかった。意味がわからなかった。
会場全体を包むどよめき、抗議する日向先生の鬼の形相、起きた事態を飲み込めない仲間たちの顔。
あまりの想定外の事態に、涙を流すことすらできず、須藤千絵のスクールアイドル人生は唐突に幕を下ろしたのだった。
***
不正が発覚したのは全国決勝大会が終わったあとだった。
きっかけは、不正に関わっていたとあるスクールアイドルのSNS。当時のラブライブ!は純粋な人気投票制によって順位付けするシステムだった。参加校が増えるにつれ、その投票方法には様々な変更が加えられたものの、「スクールアイドルとスクールアイドルを応援する高校生たちによる投票」というコンセプトそのものは神聖視され、守られ続けていた。もちろんこのシステムを使う以上、実力と人気は必ずしも一致するわけではないが、それでもスクールアイドルたちのパフォーマンスは「正しく」評価されてきた歴史があった。
しかし、その年、高知県予選で行われたのは、ラブライブ!の神聖性を真っ向から否定する悪意だった。
鍵設定を間違えたというお粗末なミスからスクショとともに一気に拡散された不正の内容は、ミスと同じくらい馬鹿げたくだらないものだった。それまでセン学のせいで優勝を逃し続け、地方大会に出ることがかなわなかったいくつかの学校が中心となって共謀し、意図的なセン学への低評価と他校への高評価を行ったのだ。つまり、あの年の県予選は、はじめからセン学スク部が敗退するこたが決まった出来レースだったと言える。
こういった不正行為は多かれ少なかれ予選や決勝でも行われてきたのだろうが、ここまで大々的に行われたことははじめてで、しかもそれが明らかな結果をひっくり返したこともあって、この事件は世間の目を引いた。すでに拡散力という点ではメディア顔負けの力を持っていたSNSを中心に大炎上し、悪辣なやりとりは白日の下にさらされた。
当然ながら不正校の県大会優勝は取り消され、千絵たちが卒業したあとに県大会優勝は栴檀学園スクールアイドル部に変更された。
でも、そんなことは千絵たちにはなんの意味もなかった。
地方大会も全国決勝大会も終わったあとにお情けでもらった県大会優勝トロフィーには、なんの価値もなかった。ただひたすらにアキバドームにみんなで立つことを夢見て、駆け抜けた日々が返ってくるわけでもない。あの舞台に立てるわけでもない。
残ったのはただ空虚さだけだった。これが実力で負けていたのなら違ったのだろう。悔しさやふがいなさを感じることがあっても、虚無感を覚えることはなかったと思う。戦いの舞台にすら立てなかったということのむなしさは、千絵をスクールアイドルから遠ざけるには十分すぎる理由になった。
***
あれから10年。千絵はスクールアイドルとは完全に無縁の生活を送ってきた。とはいえ、あれほどの話題になった事件だ。意識的にシャットアウトしていても、ことあるごとに情報は入ってきた。日向先生がセン学を辞めたこと。不正をしていた子たちの個人情報が晒され、様々な私刑に遭い、就職や進学が取り消されたこと。この不正をきっかけにラブライブ!自体のシステムが大きく変更されたこと。でも、それらの話はもはや他人事のようにしか聞こえないほど、千絵の心はスクールアイドルから離れてしまっていた。
東京での新しい生活。教員という新しい夢と生活。あっという間に時は過ぎ、事件の記憶もほとんど思い出さなくなった頃、たまたまお世話になった知り合いからの頼みで、家庭科教師として千絵は高知に戻ることになった。
「ロースとレバー、ネギマ」
淡々と品名だけを伝えると、大将がカウンター越しに串焼きののった皿を渡してくる。いずれも少し焦げ目のついた、じっくりと焼かれた串だった。最近の生焼けや華美な盛り付けをはやし立てる風潮はここにはない。串のままかじりつくと、しっかりとした歯ごたえがあり、遅れて肉のうまみが口の中に広がっていく。シンプルに塩だけで味付けされているのか、無骨さのある、ビールによく合う美味い串焼きだった。
店の雰囲気も含めて、日向先生が好んでいた理由が、千絵にはなんとなくわかった気がする。
「日向先生はお元気なんですか?」
「元気元気。相変わらずピンピンしてるよ。むしろ顧問時代より生き生きしてる」
「スクールアイドル協会のお仕事されてるんですよね?」
「今は高知県スクールアイドル協会の会長だね。高知県のスク部文化をもう一回作り上げるんだって張り切ってやってるみたいよ」
高校時代、年齢を感じさせず、自分たち以上にはつらつと指導していた日向先生の姿がまぶたの裏に浮かぶ。そのパワフルさのあまり当時はあまり気にしていなかったが、あの頃すでに日向先生は今の櫻木先生よりも年上だったはずだ。大人になってみて、千絵はそれがどれほどすごいことなのか改めて実感する。今は還暦近くになっているはずだが、それでも変わらず元気だと聞き、千絵はほっとした。
「よくお会いするんですか?」
「たまーに、にも顔出してくれるからさ。まあ、あんまり来ると身内贔屓してるみたいになっちゃうから、年1、2回くらいだけどね。むしろ協会系の仕事とかで会うことが多いかな。全ス選は管轄がちょっと違うから表には出てこないけど、ラブライブ!県予選のときは出てこられると思うよ」
確かに、全ス選予選では日向先生の姿は見かけなかった。会えなかったことへの残念さと同時に、千絵の中にはほっとする気持ちもあった。千絵たちが悪いことをしたわけではないのだが、あの件以来、セン学スク部との関わりを一切断っていたため、なんとなく顔を合わせづらさがあったのだ。
「この前日向先生に会った時に「須藤先生はどうされてますか?」って聞かれたよ。あの人なりに気にしてるみたいだから、良かったら一度顔を出してあげたら?」
「そうですね……そうします」
「まあ、会いにくい気持ちもちょっとわかるけどさ。あの事件のときにセン学とは全然絡んでなかった私と違って、須藤先生と日向先生は当事者ど真ん中だったからね」
そう言うと、櫻木はグラスに残っていたビールをくいっと呑み干し、「次もビールでいい?」と千絵に尋ねた。千絵がうなずくのを見て、櫻木は後ろの冷蔵庫に赤星を取りに向かった。
櫻木と千絵はセン学時代に直接の関わりはほとんどなかった。櫻木は千絵より10歳くらい年上で、黄金世代と呼ばれる伝説のOGの一人だった。セン学スク部として唯一アキバドームのセンターステージに立ち、その中でセンターを務めたのが櫻木だ。ラブライブ!全国決勝大会入賞トロフィーと、アキバドームのセンターステージでパフォーマンスしている櫻木たちの写真は、高校時代の千絵たちにとって大きなモチベーションだったのを覚えている。この前の合同練習で久々にセン学を訪れたときも、変わらず玄関に飾られていたのを見て、懐かしさがこみ上げた。
とはいえ、高校時代の千絵にとって、櫻木は夏季合宿や定期公演で何度か顔を合わせるくらいの、憧れの先輩以上の存在ではなかった。だから、今こうしてふたりで酒を酌み交わしていることが、千絵には不思議な感覚だった。
「それにしても、まさか須藤先生がうち以外でスク部の顧問するとは思わなかったな」
「いやー、ホントそうですよね。私もそんなつもりは全然なかったんですけどね」
「どうして、スク部の顧問やることにしたの?」
どうして、と聞かれて千絵は改めて考えてみる。
自分でももう関わるつもりもなかったスクールアイドル部に、どうしてふたたび関わることにしたのだろうか。
「最初はスク部の顧問なんてまったくやる気なんてなかったんですよ。人がいなくて頼まれたときも、他の部活の顧問押しつけられるよりはマシかなって思ったくらいで、正直なところ幽霊顧問のつもりで引き受けたんですよね」
思い浮かんできたとりとめのない考えを、まとまりなく、ぽつりぽつりと千絵は口にした。
「なのであの子たちがゴールデンウィーク明けに本気でやりますって言って自分たちなりに頑張って練習し始めたときも、好きにしたらいいくらいにしか思ってなくて。正直ずっと部外者みたいな感じだったんですよ。まあ、いわゆるやらされ顧問的な。彼女たちが好きにやるのを羽目外させないように監視するくらいの関わり方がお互いにとってベストなんだろうなって決めつけちゃってて」
グラスのビールを少しあおる。
「でもセン学での合同練習、昼休みに校内でやったミニライブでのパフォーマンスを見て、気づいちゃったんですよね。この子たち本気でスクールアイドルやってるんだって。それでもやっぱりあの事件のことがあったからまあ第三者的な立ち位置は崩すつもりもなかったんですけど……」
そこでいったん千絵は言葉につまった。横に座っている櫻木を見ると、穏やかな目をしていて、千絵が口を開くのを焦らずに待ってくれているように感じた。
「あれだけちゃんと頑張ってきたあの子たちが、グリーンホールのステージでは思ったようなパフォーマンスをちゃんと見せることができなくて……終わった後の舞台袖で号泣してる姿を見て……私、おんなじことしてるって思ったんです」
「同じこと?」
「頑張ってる子たちに頑張れるような場所を最大限与えてあげるのが、大人の、教師の仕事だと思うんですよね。不干渉って聞こえの良い言葉ですけど、ちゃんと頑張ってる子どもたちにとっては活躍の機会を理不尽に奪ってるのと一緒じゃないですか。それって、私たちがあの事件でやられたことと結局は同じベクトルなんですよ。努力したのにちゃんと挑戦することすらできないことの虚無感は私が一番知ってます。だから、私はあの子たちが本気で頑張る限り、それが最大限発揮できるようなサポートをしてあげないといけないって、あのとき気づいたんです」
あの日の私にちゃんと自信をもって向き合うためにも、と千絵は心の中で付け加える。
「正直、あの子たちがラブライブ!県予選で勝とうが負けようがどうでもいいんです。ただ、あの子たちが後悔のないように頑張れる環境を作ってあげて、そしてオレンジホールのステージの上で全ス選とは違う、何一つ後悔のないパフォーマンスを披露できれば、それだけで十分なんですよ」
記憶に蓋をしていても、たとえ風化していても、今でもふとした時に夢に見る。あのときのメンバーでアキバドームのセンターステージに立つ夢を。キラキラのペンライトやサイリウムに囲まれて、最高のパフォーマンスをステージ上で披露する夢を。
そんな夢にまで浸食するような「やりきれなかった後悔」を、あの子たちには味わわせたくない。
千絵はそう思う。
「いやぁ、ずっと気持ちに蓋をしてきたんですけど、やっぱりスクールアイドル好きだったみたいです、私」
「好きじゃなきゃスクールアイドル部の顧問みたいなくそ面倒なこと、そもそも引き受けないよ」
気づいたら目尻から涙がこぼれ落ちていた。櫻木の温かい手がそっと背中に添えられる。
「よし、今日はがっつり呑んで食べよう! そして英気を養って、来るべき夏に備えようじゃないか!」
櫻木は明るい声で注文を追加する。その明るさと優しさが、今の千絵には心地よかった。
東雲さんと沢渡さんのためにも、日向のような、櫻木のようなちゃんと二人を導いてあげられる顧問になりたい。
千絵は心の底からそう思った。