サブタイトル:MIRAI TICKET
最初に懐かしさを感じたのは空気感だった。
木張りの床の匂い、レースのカーテン越しに差し込む淡い光、きゅっきゅとしなる床の音。清澄白河女学院部室棟2階のスクールアイドル部専用メインスタジオ。ここは、数多のスクールアイドルたちが汗を流してきた、伝統ある練習場だ。中学生の時、乃々羽は高校生組が練習を始めるまでの1時間、この憧れの場所で練習するのが何よりの楽しみだった。
その憧れの場所に、今、乃々羽は部外者として立っている。
楽しかったことも、辛かったことも。様々な記憶が頭の中にリフレインする。最後はあんな形で終わってしまったけれど、清澄白河女学院スクールアイドル部が大好きだったという気持ちは嘘ではない。倫がセン学に憧れてセン学に入ったように、乃々羽もまた憧れを抱いて清学に入ったのだから。
幼い頃から何度も夢見た憧れの舞台の記憶が蘇る。
清澄白河女学院スクールアイドル部定期公演のトリを飾るラブライブ!優勝楽曲「ユメ色コンチェルト」。高校生の中で選ばれた5人だけに許されるパフォーマンス。客席から、舞台袖から、何度も何度も見て憧れたパフォーマンス。
「ユメ色コンチェルト、夢見るコンチェルト、君と奏でる……」
いつの間にか乃々羽は歌詞を口ずさみながらステップを踏んでいた。
その姿が、壁面の鏡に映し出される。乃々羽の目に入るのは、「清澄白河女学院の沢渡乃々羽」ではなく、「かがみ川女子高校の沢渡乃々羽」だった。
「おはようございます」
一年前までは四六時中耳にしていた声。決して大きくはないのに、何故か通る声だ。凛とした音が、スタジオ内にしんと響く。その音が耳に届くだけで、乃々羽の背筋は無意識のうちにピンと伸びた。
乃々羽は元気よく「おはようございます!」と返事をしつつ、入り口に立つ重野先生の方に向き直る。
重野
指導者として清学をラブライブ!優勝に3度導いた、正真正銘のレジェンドだ。
トレードマークの少しグレイがかった白髪は、変わらずぴっちりと整えられている。シンプルな白シャツとしっかりとプリーツの入った黒のスラックス。足下は黒のパンプスで締められている。全体的にシンプルながらも上品なスタイルは、エレガンスを漂わせている。
すっと伸びた背筋、優雅に揃えられた両手。すでに60歳近い年齢のはずなのに、その立ち姿は乃々羽が見惚れるほど美しかった。
「お元気そうですね、沢渡さん」
「先生もお元気そうで」
乃々羽は床に置いていた紙袋を手に取り、重野先生に手渡す。 少し緊張した面持ちで、しかししっかりと目を合わせて「あ、あのこれ母からです」 と言った。重野先生は優雅な所作で紙袋を受け取り、中身をちらりと確認すると、紙袋をのぞき込んでぱっと顔を輝かせる。
「ありがとうございます。わぁ、
「東京とは全然違います。街も学校も。でも、想像してたよりはずっと自分に合ってたみたいです」
「よかったですね。おばあさまの調子はいかがですか?」
「ぼちぼちですね。ただ、母が近くに居るのが安心するのか、少しずつ良くなっています」
「先生はいかがですか?」
「相変わらずですよ。24時間365日、スクールアイドル漬けの日々ですね。今日もこのあと聖リリとの合同練習を見に行かないといけないので」
聖リリア学園 。東東京の清学、西東京の聖リリと呼ばれることもある、スクールアイドル強豪校だ。清学とは昔から関係が深く、よく合同練習や合同公演をしている。乃々羽も清学時代に、何度も聖リリを訪れたことがった。
「お忙しいところお時間つくっていただきありがとうございます」
「いえいえ。沢渡さんのことは少し気になっていたので、こうやって会いにきてくれて嬉しいですよ」
重野先生はお土産の入った紙袋をいったんテーブルの上に置いて、戻ってくる。そして、ここからが本題だという風に、ゆっくりと口を開いた。
「沢渡さん。スクールアイドル。また、始めたんですよね。栴檀学園の櫻木先生から聞きましたよ」
「もうやらないつもりだったんですけど、色々あって結局やめられませんでした」
「そうですか」
その一言に含まれる感情を乃々羽はうかがい知ることはできない。
「どうですか、新しい環境でのスクールアイドル活動は」
「清学がどれだけ恵まれてたのか痛感してます。何もかも自分たちでやるのは、想像してたよりずっとずっと難しいことなんだって分かりました」
「今はどんな環境で練習していますか?」
乃々羽はかが女でスクールアイドルをはじめたきっかけや、それからの経過、今の練習環境などについて、順を追って説明する。そのすべてを話す中で、乃々羽の心には様々な感情が渦巻いていた。過去の自分、現在の自分、そしてこれからの自分。話しているうちに、それらが少しずつ心の中で整理されていくような気がした。
重野先生は一通り話を聞き終えると、静かにうなずいた。その目には何かを見通すような鋭さがありながらも、どこか温かみが感じられる。
話終えた乃々羽を待っていたのは、意外な提案だった。
「ねえ、沢渡さん。せっかくだから久々にパフォーマンスを見せてもらえませんか。今の沢渡さんを少し見てみたいんです。かがみ川女子で、どう変わったのか」
重野先生のその言葉に、乃々羽の心臓は一瞬止まったかのように感じた。清学時代ですら、一対一で重野先生にパフォーマンスを見てもらったことはなかった。清学における重野先生の立ち位置は総監督で、中学生は週に1-2回全体練を見てもらう程度だったからだ。思い返してみると、高校生ですら、マンツーマン指導をされているところはほとんど見たことがない。個々人の細かな評価は、重野先生ではなく、下についているそれぞれのレッスンコーチが主にやっていた。
だからこそ「パフォーマンスを見たい」という重野先生の提案は、乃々羽にとっては胸がきゅっとなるくらい緊張するものだった。ただ、それ以上に不思議と今の自分を重野先生に見てもらいたいという気持ちがわいてくる。
「はい、是非」
乃々羽はまっすぐ重野先生の目を見て、そう答えた。
***
スピーカーが音を鳴らし終わり、曲が終わる。
乃々羽はポーズをといて、ぺこりと頭を下げた。 今の乃々羽にできる最高のパフォーマンスはできたという自負があった。
「なるほど」
重野先生が静かに呟いた。
乃々羽は次の言葉を待つ。息が詰まるような静寂の中、重野先生が続けた。
「技術的には大きな進歩はないですね。むしろ練習の量と質が落ちたせいか、中学生の時の貴女とは違って少しだけ雑な部分が目立つようになっています」
重野先生の指摘は、乃々羽が薄々感じていたことだった。走り込みや筋トレ、レッスンは一生懸命やっているつもりでも、作曲やメニュー作り、その他のことに追われて、清学時代の練習量を確保できているとは言えない。指導という面で見ても、基本的には自分で自分の動画を見て修正していくしかない今の環境は、レッスンコーチから一挙手一投足について指導があった清学時代とは雲泥の差だ。その積み重ねが結果につながる。それは至極当然のことだった。
「ですが」
重野先生の声がさらに低く、重みを増して続く。
「技術の衰えを加味してなお、良くなっていますね」
厳しい指摘のあとに続いたのは、思いもよらない言葉だった。
重野先生は、嘘やお世辞を言うような人ではないことは乃々羽にはよく分かっていた。つまりこれは、重野先生の本心から出た言葉だということになる。思ってもみなかった評価に、胸が熱くなる。
「技術力は落ちたって先生おっしゃられましたよね」
「もともと沢渡さんは技術力が高いんだから、少しくらい下手になったって、私のような一部のマニアが気づくくらいの些細な差異ですよ。あなた自身もよく言っていたではないですか。スクールアイドルはテクニックだけじゃないと」
たしかに乃々羽はそのようなことをよく友人たちに言っていたのだが、まさか重野先生の耳にまで届いているとは思っていなかったので驚く。くわえて、重野先生は基礎体力と技術を重視するタイプの指導者だと思っていたので、その重野先生から乃々羽と同じような言葉が出るとは想像していなかった。
「私、良くなっていますか?」
「なっていますよ。見違えるくらい。ここでやっていた頃の、苦しくて苦しくて仕方がないようなパフォーマンスとは雲泥の差です」
「正直、実感がありません。高知でも他の子たちはちゃんと成長してるのに、自分だけあまり成長してないように感じていて……」
そう言いながら、乃々羽は深夜や倫のことを思い出していた。この数ヶ月で目に見えて成長したふたりに比べると、自分はまったく成長していないようにしか思えなかった。
「あなたは他人に対しては俯瞰的に評価できるのに、相変わらず自分に対する評価は苦手ですね。まあ、小田桐さんを知ってしまったせいで、多かれ少なかれ自己評価が低くなってしまうというのはわかりますけど。それにしても自己評価が低い。自己評価の低さは美徳ではなく、弱点です。そこはきちんと治していかないとですね。しかし、コアの
「マネジメントの才能……? 私にスクールアイドルの才能がないから、だからパフォーマーをやめろって先生はおっしゃったんじゃないんですか?」
「あなた、そんな風に受け取っていたんですか」
重野先生は大きくため息をついた。
「私は一度も『あなたにパフォーマーとしての才能がない』なんて言ったことはありませんよ。そもそもここに入ってこれる子で、才能のない子なんていません。私はあくまでも、『あなたがマネージャーに向いている』と言ったのです」
「それってパフォーマー失格と同じ意味じゃないんですか?」
「私が沢渡さんにマネージャーへの転向をすすめた理由は二つです。一つ目は、小田桐さんが辞めて以来、誰の目にも明らかなくらいあなたのパフォーマンスに対する情熱が落ちてしまっていたからです。このままここでパフォーマーを続けていたら、この子はスクールアイドル自体を嫌いになってしまうと思ったんですよ。長年やってきてますからね、そういう勘は当たるんです。スクールアイドルが大好きで、好きで好きでたまらなかった子が、何かのきっかけで折れてしまって二度とスクールアイドルに関わらなくなる。そんな風になった子たちを、たくさん見てきましたからね」
確かに冷静に思い返してみると、あのときの自分は本当にひどかったと乃々羽は思う。瑠璃先輩がいなくなってしまって、あれほど「スクールアイドル」を体現した人が清学を去らなくてはいけない状況に、心の整理がつかなかったのだ。
清学時代、楽しかったことも沢山あったはずのに、今はネガティブなイメージばかりが頭の隅に残ってしまっているのも、もしかしたらあの頃の曇った乃々羽の心が事実を歪めてしまっただけなのかもしれない。
「もう一つは、あなたにマネージャーやプロデューサー、つまり指導者としての才能を感じたからです。努力型で、実力もあり、俯瞰的な評価に優れ、スクールアイドルに対する造詣も深い。それでいて、スクールアイドルとして喜んだ経験も苦しんだ経験もある。高校三年間、私の下でしっかり学んでもらえれば、指導者としてパフォーマー以上に大きく花開くと思ったんですよ。はあ。あのときもう少し、ちゃんと話しておくべきでしたね」
「あのときは『パフォーマーをやめなくちゃいけない』という衝撃が強くて、たぶん受け入れられなかったと思います」
重野先生は「それもそうですね」と納得する。
「そもそも、あなたは自分がステージのセンターで輝きたいタイプじゃないでしょうに。スクールアイドルが大好きで、憧れている。けれどそれは、つきつめると目標としての憧れではなく、ファンベースの憧れ。憧れの舞台に立ちたいとは思っても、憧れの舞台で輝いている自分を想像するタイプじゃない。あなた、アキバドームのセンターステージに立つ自分の姿を思い描いたことはありますか?」
言われてみて、乃々羽ははっとする。
「それ自体は悪いことじゃないですよ。チームのバランスをとってくれて、献身的に舞台上で舞台裏で仲間を支えてくれる。スクールアイドルがチーム戦である以上、そういう子は必要です。指導者としては、学年に、いえ、チームに一人そういう子がいるととても助かります。でも、きっとそれは、あなたが憧れたスクールアイドルの姿ではないですよね。中途半端にチームを支えるサポーター的なパフォーマーになるくらいなら、いっそその才能をいかして
涙が乃々羽の頬を伝う。
みゃー先輩を上手く初舞台に立たせてあげられなかったこと、予想以上に練習メニューや作曲に苦しんだこと、自分のスキルが伸び悩んでいること。心の中につもっていた、「自分がかがみ川女子高校スクールアイドル部をダメにしているんじゃないか」という不安が、重野先生の一言で消えてなくなっていく。
「ほら、泣くようなことはどこにもないですよ」
重野先生が背中を優しくさする感覚。その手の温かさに、乃々羽の胸にこみ上げてくるのは感謝と決意だった。
清澄白河女学院スクールアイドル部に憧れて、重野先生の指導を受けたくて、ずっと練習に明け暮れていた小学生時代。
はじめてこのスタジオに足を踏み入れた時の、あの高揚感。
清澄白河女学院ジュニアスクールアイドル部の一員として定期公演のステージでスポットライトを浴びた日の感激。
ずっと忘れていた思いが蘇ってくる。
重野先生がこの憧れの清澄白河女学院スクールアイドル部を導いたように、私もちゃんとかがみ川女子高校スクールアイドル部を導きたい。
乃々羽の心にわいてきたのは、舞台袖から見るようなファンとしての憧れではなかった。自分がその立場になりたいという、心の底からの憧れだった。
乃々羽は涙をぬぐって、重野先生の目をまっすぐに見つめた。
「先生、少しレッスンのことで教えていただきたいことがあるんですが、もう少しだけお時間いただいてもよいですか?」
重野先生は微笑みを浮かべてうなずいた。