「どうですかね?」
「まだサビのとこが上手くあわんけんど、よーなっちゅうように思う」
「さっきよりだいぶ良くなってると思うわ」
深夜の言葉にうなずきながら、須藤先生がスマホを手にこちらに戻ってきた。
休日にもかかわらず、今日の須藤先生はスーツ姿の完全オンモードだ。普段はキレイめの私服を着て働いているので、大会引率時以外でスーツを着ている須藤先生を見るのはこれが初めてかもしれない。練習前に、ラブライブ!協会の偉い人が見学にくるのだと先生が説明してくれたので、たぶんそのせいなのだろう。普段は淡々としている須藤先生が、朝からやけにそわそわしている姿も珍しく、相当な重鎮が来るにちがいないと乃々羽は予想していた。
「午前はここまでにしましょうか」
「午前の練習おわりでーす! 午後は1時に家庭科室でお願いしまーす!!」
乃々羽が声を張り上げると、4階の廊下でカメラを調整していた映像研のメンバーが、手で大きな丸を作り、了解の合図を返してくれた。
「相変わらずノノちゃんの声はよーとおるねぇ」 と、深夜はしみじみと言いながら旧校舎に向かって歩き出す。乃々羽もドリンクとタオルを手に、あわててそのあとを追いかけた。
涼やかな風が屋上庭園を吹き抜ける。遅れて訪れた秋の気配に、乃々羽は少しだけ嬉しくなった。何より、真夏のように、練習中に滝のような汗を流して何回も着替える必要が無くなったのが、シンプルにありがたい。とはいえ、長袖の練習着はじんわりと汗で湿っていて、午後練に備えて着替えは必要だった。
乃々羽はふと、雲に覆われた空を見上げた。午前中はなんとか持ってくれたものの、今にも雨が降り出しそうだ。午後は、午前中に撮ってもらった映像を確認したあとに講堂で練習を行う予定なので、屋上庭園を使う必要がないのは幸いだった。
(地方大会の時には、秋晴れになってくれるといいんだけど)
そんなことをぼんやり考えていると、「おはようございます!」と乃々羽と同じくらいよく通る声が聞こえて、乃々羽は現実に引き戻された。声の方に顔を向けると、新校舎から一人の女性がゆっくりと歩いてくるのが見えた。その顔には見覚えがあって、乃々羽は記憶の糸を手繰りよせる。
上品なたたずまいとモデルのような美しい歩き方。
──県大会で挨拶してた偉い人だ。
乃々羽がそう思い出したのとほぼ同時に、須藤先生がその女性に駆け寄って「日向先生、ご無沙汰しています!」 と深々と頭を下げた。
***
乃々羽は目の前に座る日向先生をじっと見つめた。
日向先生はティーカップを優雅に持ち上げ、一口紅茶を口に含む。細い首筋がなめらかに動き、喉をこくりとならした。その所作のひとつひとつが、まるで舞台の上で演技をしているかのように美しい。乃々羽のイメージしていた通りの品のある佇まいだった。
柔らかなベージュのニットに包まれた手には、かすかに年齢を感じさせる皺があるものの、それさえも彼女の美しさを引き立てているように思えた。近くで見ると、日本人離れした顔立ちをしていて、まるで映画の中から抜け出してきた大女優のようだ、と乃々羽は感じる。
「私のことは気にせず、お昼ご飯食べてくださいね」
まじまじと見つめる乃々羽の視線に気づいたのか、日向先生は微笑みながら声をかけてくれた。
その柔らかな笑みに、乃々羽は慌てて「は、はい!」と返事をして、弁当のご飯を口に運ぶ。おずおずと咀嚼したせいか、なんとなくいつもより味が薄い気がしてならない。
県予選の時も感じたのだが、日向先生の雰囲気はどこか重野先生に似ていた。そのせいか、彼女を前にすると重野先生を前にしているような気がして、自然と緊張してしまうのだ。
一方、横に座る深夜は普段通り大きな弁当箱を勢いよくかきこんでいる。そんな様子に少しだけ緊張の糸を緩めかけたところで、須藤先生が準備室から戻ってきた。彼女はいそいそと日向先生の隣の席に腰を下ろし、机の上に弁当を広げた。
「須藤先生、あらためてお二人にご紹介いただけるかしら?」
日向先生の問いかけに、須藤先生が緊張した面持ちで「はい」と答える。そのやり取りの中で、乃々羽は、どうやらこの二人に何らかの特別な関係があるのではないかと気づき始めていた。
(偉い人が来るからっていうより、知っている人が来るからそわそわしてたのかな)
乃々羽は、そんな推測をしながら須藤先生の言葉を待った。
「こちらがラブライブ!協会理事の日向こずえ先生です。日向先生は全国ラブライブ!協会で理事を務められているだけでなく、高知県ラブライブ!協会のアドバイザーとしても精力的に活動されている方です」
「日向こずえです。今日は少しだけ皆さんの練習を見学させていただきます。よろしくお願いいたしますね」
その丁寧で柔らかな言葉遣いが、日向先生の美しさをいっそう引き立てる。
「「よろしくお願いします!」」
「部長で三年の東雲深夜です!」
「一年の沢渡乃々羽です!」
二人の自己紹介に、日向先生は名前を復唱しながらうなずいている。その様子は二人の名前を丁寧に心に刻んでいるように見えて、乃々羽の心に「優しそうな先生だ」というイメージを植え付ける。
「日向先生はもともと栴檀学園スクールアイドル部の顧問を長く努めていらっしゃったので、今日は色々とアドバイスをいただきましょう」
「指導者としては引退してだいぶ時間が経っていますが、皆さんのお力になれそうなことがあれば助言させていただきますね。他にも、何か聞きたいことがあったら遠慮無く聞いて下さい」
日向こずえという名前はどこかで聞いたことがある気がしていたが、須藤先生の説明でようやく乃々羽の頭の中で結びついた。栴檀学園黄金期を作りあげた、重野先生と並ぶレジェンドスクールアイドル指導者の一人だ。
「あのぉ……」
深夜が箸を置いて、おずおずと手を挙げた。
「東雲さん、何か?」
「練習とかとは関係ないことながですけど、聞いてもいいですか?」
「何でも聞いて下さいね」
「日向先生はセン学の先生やったってことは、須藤先生の先生やったがですか?」
深夜の質問は乃々羽にとって寝耳に水だった。
日向先生は須藤先生にちらりと目配せする。須藤先生は小さくうなずいて返した。
「そうですよ。須藤先生は私の教え子の一人です」
「え、須藤先生セン学OGだったんですか!?」
乃々羽は驚きのあまり立ち上がってしまう。
隣の深夜は「やっぱそうながやぁ」と納得したようにうなずいている。
「みゃー先輩知ってたんです?」
「あー、うん。御代がそうじゃないかって言いよったき」
(それなら先に教えてくださいよ……)
と言いかけて、乃々羽は思いとどまる。 頭に浮かんだのは、須藤先生と初めて
『ラブライブ!県予選敗退で引退した、たいしたことないスクールアイドルだったけどね』
常勝校である栴檀学園のOGでありながら、ラブライブ!県予選敗退で引退。そして、20代後半という年齢。その全てのピースが繋がり、乃々羽は一つの真実にたどり着く。
(ああ、須藤先生はあの不正事件の被害者だったんだ)
彼女が栴檀学園のOGであることを隠していた理由が、今ならわかる。全く関係のない乃々羽ですら憤りを覚えたほどの事件だ。当事者であった須藤先生がどれほどの思いを抱えてきたのか、乃々羽には到底想像もできない。
「まあ、昔のことだから」
須藤先生はそう静かに笑った。
深夜は例の事件と須藤先生との関係について知っているのか知らないのか分からないが、明るい調子で質問を続ける。
「須藤先生ってどんなスクールアイドルやったがですか?」
「須藤先生はですねぇ、結構やんちゃでしたよ」と日向先生が笑顔で答える。「熱血部長で、自分の意見をしっかり主張する人でした。同級生からも後輩からも慕われる、まさに姉御肌といった感じで」と続けた。
「えー、今の先生から全然想像できん!」
「そうなんですね。東雲さん、かわりにいまの須藤先生のこと教えてもらえます?」
「めっちゃ優しいがですよ! こうやって休みの日も文句一ついわんで出てきてくれて、合宿も運転して徳島まで連れて行ってくれるし、スク部のためならなんでもやってくれるがです。先生がおらんかったら、うちらまともに活動できてないと思います」
「指導についても強く何か言われる訳じゃないですけど、ポイントポイントですごく的確なアドバイスをしてくれるんです。わたしたちが県予選を勝ち抜けたのも、須藤先生の指導のおかげだと思っています」
「あと、紅茶とクッキーが最強ながです」
「たしかに、この紅茶は秀逸ですね。須藤先生にこんな特技があったなんて当時は知りませんでしたよ」
そう言って、日向先生はまたティーカップを手に取り、紅茶に口をつけた。
話題の中心となった須藤先生は、周りから褒められたせいか真っ赤になってうつむいている。
「それにしてもみなさんの県大会のステージ、とても素晴らしかったですね」
「ありがとうございます!」
「何より楽しいステージだったのが印象的でした。スクールアイドルは楽しいのが一番大事ですからね」
深夜が胸を張って「『みんなで楽しむ』が、かが女スク部のモットーながです!」と答える。そのフレーズは、深夜と乃々羽で話し合って決めた、かがみ川女子高校スクールアイドル部の部訓だった。
日向先生は「良いモットーですね」と満足そうにうなずいた。
「そういえば、先ほどの練習も少し見ましたけど、地方大会ではセンターステージ制にするんですか?」
「はい。みんなで話し合って、
県予選以降何回にもわたる話し合いを経て、地方大会は文化祭と同じように屋上庭園の中心にステージを作る方向で最終的に意見がまとまった。
雨天の場合は講堂でパフォーマンスすることになることまで考えると、一般的なステージ制でのパフォーマンスを準備しておく方が無難なことは乃々羽たちは十分理解している。それでも、セン学やテレストのような王道の強豪校と戦うには、県大会のパフォーマンスを底上げするだけでは足りないのだ。
勝つためにできるチャレンジはすべてする──それが乃々羽たちが出した結論だった。
「それに、この前文化祭でセンターステージでやってみたがですけど、めっちゃ楽しかったがですよ。見に来てくれた人たちの評判もすごく良くて、それが最後の決め手やったがです」
深夜の言葉に、乃々羽も深くうなずく。
演者にとって、360度観客に囲まれるセンターステージは、通常のステージとはまったく異なる体験となる。どの方向を向いても観客の視線を感じることができ、フォーメーションの自由度も格段に高まるからだ。実際、乃々羽も文化祭でその特別さを肌で感じ取っていた。
一方、観客にとってもセンターステージには他にはない魅力がある。どこからでも見やすく、どの席にいても一体感を味わえるため、いわゆる「ハズれ席」が存在しないのだ。
それはまさに、乃々羽たちが大切にする「みんなで楽しむ」という理念を体現するステージ形式に他ならない。
「屋外、しかも屋上という場所だけでも珍しいですけど、その上、センターステージとなると記憶にないですね。みんなを楽しませたいという貴女たちの思いも伝わるステージになりそうで、良いアイディアだと思います。ただ、普通じゃ無いことに挑む分、見せ方がかなり難しくなりますね」
日向先生の指摘は的を射ていた。実際、本番まであと2週間しかないというのに、センターステージ向けのフォーメーションはまだ完全に固まっていない。映像研の協力で多方面から撮影した映像をもとに、どう見せるかを検討している最中だ。
「日向先生、もしお時間あれば、撮影した動画を見てアドバイスしていただけますか? このあと、動画を確認しながらフォーメーションを詰めていく予定なんです」
「もちろんですよ。私で力になれることがあれば喜んで。最終便で東京に戻らないと行けないのですが、それまでお手伝いしますね」
「ありがとうございます!」
「うちは、もっとスクールアイドル時代の須藤先生のことも聞きたいがです」と、深夜がいたずらっぽい笑顔を浮かべながら付け加える。
「東雲さん!?」と、須藤先生が思わず焦った声をあげる。そんな様子を見て、日向先生が「そうですね、では秘密のエピソードをお話しましょうか」と微笑んだ。須藤先生はさらに慌てた様子で、「日向先生!?」とささやかな抗議の声を上げる。日向先生は「冗談ですよ」と穏やかに笑って返した。
「それよりも、指導するにあたって二人のことをもっと知りたいので、昼休憩の間に色々教えてもらえますか?」
「「はい!」」
乃々羽と深夜は元気よく声を揃えて返事をした。
日向先生は乃々羽と深夜の返事に微笑み、どこか懐かしそうに二人を見つめる。その視線には、かつて自分が指導してきた生徒たちを思い出すような優しさが漂っているように乃々羽は感じた。
──先生の先生
ふと、さっき深夜が口にしたその言葉が頭をよぎる。日向先生から須藤先生へ、そして須藤先生から自分たちへと。スクールアイドルの指導が受け継がれていく。その流れが何ともいえず、乃々羽の胸にじんと沁みた。
自分もいつか、誰かをこんなふうに導ける存在になれるだろうか。スクールアイドルを支えるプロデューサーや指導者として、次の世代の育成に力を注ぐ──そんな未来がふいに頭をよぎる。
それはまだぼんやりとした夢に過ぎなかった。それでも、その夢の輪郭が少しだけはっきりと見えた気がして、乃々羽は胸の中にそっと灯がともるのを感じていた。