「寒い」
乃々羽は小さくつぶやいて、身震いした。手袋をしていても指先がかじかむ。地方大会を境に一気に冬が訪れた。ほんの数週間前までは半袖でも問題なく過ごせていたことが、今ではまるで別世界の話のように感じる。
寒さを振り払うように走り出すと、吐息がメガネを曇らせた。冷え込んだ空気に鼻の頭がチクチクと痛む。春先より少しだけ長くなったポニーテールを揺らしながら、乃々羽は目をつぶってでも走れるほど慣れ親しんだコースを駆け抜けていく。
──そういえば初めて高知に来た時は、歩道の広さに驚いたっけ
幹線道路の歩道は、車一台が優に通れそうなくらいの広さだ。実際に車がショートカットしているところを何度か目にしたこともある。
高知弁で書かれた看板も、信号が変わることを大きな音声で教えてくれるアーケード街の横断歩道も、今では日常の1ページだ。
イヤホンからは今年のラブライブ!全国決勝大会進出校の楽曲が流れている。セン学、テレスト、清学。どれもこれも全国決勝大会にふさわしい素晴らしい楽曲だ。
地方大会の結果がまだ心の奥でくすぶっている自覚はあった。結果発表の瞬間を夢に見て、夜中に飛び起きたことも一度や二度ではない。それでも現実から目を背け続けることはできない。ラブライブ!敗退は、次のラブライブ!の始まりを意味しているのだ。
須藤先生の提案で、一週間の完全休養をとったが、今週からは一人で練習を再開している。
体育会系の乃々羽にとって、運動は幼い頃から好きなことの一つだ。体を動かしていると、心が少しずつ軽くなり、前向きな気持ちになれる。中でも朝のランニングは特別だ。一人で黙々と走る時間は、自分と向き合う大切なひとときでもある。リズムよく足を運ぶうちに、頭が冴え、感覚が研ぎ澄まされていくような気がした。
地方大会から二週間が経った。少し冷静になって振り返ると、今回の敗北は実力負けだったと乃々羽は思う。改めて中四国地方大会のパフォーマンスを見直して感じたのは、セン学とテレストのレベルの高さだった。その二校は明らかに頭一つ抜けていた。
大会前は実力的に近いセン学を最大のライバルだと考えていたが、いま振り返ると、真のライバルはテレストだった。
ラブライブ!出場校は、大まかに3〜4人までの小規模、10人程度の中規模、そしてそれ以上の大規模グループに分類される。今回の中四国大会では、小規模グループから
なぜそうなるのか、はっきりした理由は分からない。ただ、相対評価で採点せざるを得ない以上、同じカテゴリの学校同士で無意識に比較してしまうのかもしれない。実際、地方大会で乃々羽自身もテレスト以外の小規模校に対して満点の評価をつけることはなかった。
つまり、小規模グループであるかが女にとって、同じカテゴリのテレストに匹敵するパフォーマンスを見せなければ、地方大会を勝ち抜くことは不可能だったのだ。そして、その状況は来年も変わらない。
新入生が何人入るかは未知数だが、かが女が来年中規模グループになる可能性は限りなく低いからだ。
──どうやってテレストに勝つか
今年は初参加という目新しさや、屋上庭園ステージという変化球の「バフ」があってなお、テレストには届かなかった。しかも、みゃー先輩は初心者とは思えないほどの圧巻のパフォーマンスを見せていて、全体のパフォーマンスレベルとしても地方大会上位に値したと思う。それでも届かなかったのだ。来年、新入生たちが今年のみゃー先輩と同じレベルにまで到達できるかどうかは分からない。
さらに言えば、新入生が入らず、来年はソロで挑まなければならない可能性もゼロじゃない。
今のところ中四国地方には目立ったソロスクールアイドルはいないが、全国的には瑠璃先輩というソロスクールアイドルの怪物が君臨している。たとえ地区が違っても、ソロスクールアイドルというだけで、どうしても彼女と比較されてしまうだろう。
つまり、ソロはソロで茨の道なのだ。
ちょうど楽曲が瑠璃先輩の曲に切り替わった。
夏休みに日成のスタジオで見せてもらったパフォーマンスが脳裏に浮かび、そこに昨日寝る前にみた東京大会でのパフォーマンスが重なる。
王道スクールアイドル曲でラブライブ!を制覇した去年と違い、今年の瑠璃先輩は「昭和のソロアイドル全盛期」を彷彿とさせる野心的な楽曲でラブライブ!に挑んでいる。こうした変化球曲は好き嫌いが分かれやすく、ラブライブ!を勝ち抜きにくいというのが定説だ。だが、変化球ですら豪速球で投げられる瑠璃先輩にとっては、そんな一般論は無意味だった。
あえてチープに飾り立てられた日成の練習スタジオで撮られた東京地区予選の映像は、彼女の公式チャンネルですでに500万回近く再生されており、はやくも連覇が囁かれている。
──再生数
瑠璃先輩ほどではないが、映像研が作ってくれたかがみ川女子高校スクールアイドル部のドキュメンタリー映像も、再生数が着実に伸びている。昨日学校で確認した時点で、既に1万再生を超えていた。
ドキュメンタリーでは、乃々羽と深夜を中心に、この半年のかがみ川女子高校スクールアイドル部の軌跡が丁寧に描かれていた。いちスクールアイドルファンとして観ると、新設スクールアイドル部がラブライブ!に挑む姿を描いた作り込みは、素晴らしい出来だったと思う。実際、動画の高評価率は非常に高く、SNS上のコメントも好意的なものが目立っていた。
映像研のおかげで、自分たちの努力がこうして形となり、多くの人の目に留まっている。それが、乃々羽には純粋に嬉しかった。
半年かけて作り上げてきたかがみ川女子高校スクールアイドル部の灯を、このまま消してしまうわけにはいかない。
そんな想いが、乃々羽の胸の中で再び熱を帯び始める。
ふと、みゃー先輩の最後の挨拶が脳裏をよぎった。
──来年は私がみんなをアキバドームに連れて行く
あと一年。パフォーマンスも楽曲も、プロアイドルレベルのテレストに追いつくのは決して簡単なことではない。それでも、まだ時間はある。
モチベーションは、消えてはいない。
けれど、みゃー先輩のいないスクールアイドル部は、やはりどこか物足りなさを感じる。
──ずっとソロでやってる
瑠璃先輩の曲がアウトロにさしかかったところで、不意にLINEの着信音がイヤホン越しに耳を打った。乃々羽は足を緩め、息を整えながらジャージのポケットからスマホを取り出す。画面には「みこと」からの着信だと表示されている。
──こんな朝はやくに、なんでみこち?
スマホのディスプレイに表示された時刻は、まだ7時を少し過ぎたところだ。不思議に思いつつも通話ボタンをタップすると、みことの賑やかな声が耳に飛び込んできた。
「ノノ、起きちゅう!?!?」
普段あまりなまらないみことが、珍しく強い高知弁でまくし立ててくる。
「おはよー。朝からテンション高いねー。今ちょうどランニングしてたとこだけどどしたん?」
「動画、動画!!」
「動画って何?」
「ドキュメンタリー!!」
みことは興奮しているのか、単語を連ねるだけで精一杯の様子だ。
「ちょっと落ち着いてって。動画がどしたの? なんかあった?」
「スク部のドキュメンタリーがバズったんだよ!!!!」
「えっ!?」
「とりあえず、YouTube見て!!」
乃々羽は急いでYouTubeアプリを立ち上げた。画面の一番上には、ドキュメンタリー動画のサムネイルが表示されている。その下に記された再生回数に、思わず息を飲んだ。
──12万回視聴。
動画をクリックすると、視聴回数のカウンターが絶え間なく回り続けているのが目に入った。
──昨日の昼、学校で見たときはようやく1万再生を超えた程度だった。
それがたった一晩で、こんなにも跳ね上がるなんて。
「とにかく、今日は急いで学校に来て!」
電話越しにみことの言葉が耳に響く。その瞬間、乃々羽は気づけばもう一度走り出していた。