「うー、寒いねぇ」
「寒いですね」
乃々羽は手で体をさすりながら、準備体操を始めた。
最近は、昼間でも気温が10度程度までしか上がらない日が続いている。練習が始まれば寒さを忘れるものの、まだ体があたたまりきっていないアップやダウンの時は、染み入るような冷たさが肌を刺し、ついつい身震いしてしまう。
「一昨日は雪が降ってたみたいですよ」
「そうなが? うちは見んかったけど」
「私も見てないですけど、ニュースでそう言ってました」
「風邪ひかんように気をつけんとねぇ」
「インフルエンザも流行ってるみたいですしね」
「夏休みの時みたいに体調崩すのだけは避けたいねぇ」
深夜の言葉に、乃々羽もうなずきながらストレッチをはじめる。ぐるぐると肩をまわすと、指先に少しずつ血が巡る感覚があった。次の動きへ移ろうとしたところで、
「「「みやせんぱーい!!!」」」
と、廊下から大きな声が聞こえてきた。
隣の深夜が屈伸をやめ、廊下に向かって大きく手を振ると、すぐに黄色い歓声が返ってくる。
「「「ののちゃーん!!!」」」
続けて名前を呼ばれた乃々羽も、深夜にならいぶんぶんと大きく手を振った。廊下には応援うちわを持った生徒たちがちらほらと集まっている。
「冬休みやのに見に来てくれるのはありがたいねぇ」
「昨日はさすがに多過ぎって思っちゃいましたたけど」
乃々羽はストレッチを再開しながら、深夜に返す。
昨日の終業式後に行われた練習には、これまでの中でも最多の見学者が詰めかけた。最大瞬間風速的には、地方大会当日と同じくらいの人数だったかもしれないくらいだ。冬休みが始まる前にちょっとバズったスクールアイドル部でも覗いてみようという、軽い気持ちの生徒たちが多かったのかもしれない。
見学ルールやスケジュールを事前に在校生向けサイトや校内掲示板で公開したり、ファンクラブの面々が現場を取り仕切ってくれたおかげで大きな混乱がなかったのは、幸いだった。
ただ、あれだけ多くの人に練習を見られると、独特の緊張感があった。乃々羽自身、本番ではほとんど緊張しないタイプなのだが、練習中を見られるのはどうにも落ち着かなかった。ちょっとした恥ずかしさのようなものなのだろうと、乃々羽は自分の気持ちを言語化してみる。
今日は昨日に比べると来ている人数はぐっと絞られていて、居るのはいわゆる熱狂的なファンの面々ばかりだった。彼女たちはふたりがバズる前から練習を見に来てくれていた古参勢なので、乃々羽も自然と全員の顔と名前を覚えている。
同じクラスの一ノ瀬さん、双葉さん、御鏡さん。
隣のクラスの吉野さん、伊月さん、陸奥さん。
2年生の七草さん、八重山さん、九重さん。
この9人は「神ファン」と言っても過言ではない存在だ。彼女たちはファンクラブを取り立ち上げてくれたことで、色々と助かっている。彼女たちを特別扱いするようなことはしていないが、彼女たちの協力や応援を乃々羽は心の中で感謝していた。
「ドキュメンタリー、今朝見たら600万再生超えちょったよ」
「日に日に再生数加速してません?」
「しちゅうねぇ。このままいけば、1000万再生いくかもしれんね」
ドキュメンタリー動画のバズりは、ここ一週間でさらに加速していた。その影響は、インターネットや校内だけではなく、日常生活にも現れ始めている。ふつうに街を歩くだけでも、見知らぬ人から「応援しています」と声をかけられることが、今では珍しくない。
それに、今日の午前中には、地方局からの取材もあった。やって来たのは、地方大会の撮影を担当してくれたクルーたち。今日の夕方のニュースで10分ほどの特集を組んでくれるらしい。
須藤先生の同級生であるディレクターは「もっとはやく取材にくるつもりだっだんだけど、企画がなかなか通らなくてね。ほんとはオープニングアクト投票の力になりたかったんだけど」と謝っていたのが印象的だった。その気持ちだけでも、乃々羽たちには十分すぎるほどありがたかった。
「さすがに再生数はそろそろ落ち着きそうですけど、投票期限まで伸び続けてくれたのはわたしたち的にはありがたいですよね」
長かったオープニングアクト投票も、明日の正午が投票の〆切だ。乃々羽たちもついさきほど、最終日の投票を済ませたところだった。
「ノノちゃんどう思っちゅう? オープニングアクト」
「中間発表の時は正直厳しいだろうなって思ってたんですけど、今は五分五分くらいかなって思ってます」
「うちもだいたいそれくらいの感覚やねぇ」
「SNSだとファンも増えてますけど、アンチもちらほら見るようになりましたし。アンチじゃなくても、聖リリとか名門校系を応援する声もそこそこ大きくなってる気がするんですよね」
ぽっと出でバズった学校より、名門校を応援したくなる気持ちは乃々羽にも分かる。特にスクールアイドルのガチオタならなおさらだ。乃々羽はDMを友人以外には開放していないので、直接誹謗中傷を受けることはなかったが、それでも名指しで批判するようなコメントが目に入ることが増えてきたように感じる。
パフォーマンスを世間に出す以上、好き嫌いがあるのは当然。否定的な意見があるのもむしろまっとうなことだと、乃々羽は割り切っていた。
(清学時代にも似たようなことあったし、結局こういうのは有名税なんだよね)
つい数週間前なら否定的な意見すら目にすることがなかったことを思えば、今回のバズがどれだけかが女スクールアイドル部を有名にしたかが分かる。
「もう投票も終わりやし、あとは結果を待つしかないねぇ」
「ドキドキしますね」
「良いクリスマスプレゼントになるとええがやけど」
オープニングアクト投票の結果発表は、25日──クリスマスの正午。
結果発表は、地方大会準備会の面々と家庭科室に集まって、見ることになっていた。選ばれても選ばれなくてと、発表のあとにみんなでクリスマスパーティをする予定も組んである。
「じゃあ、そろそろ練習はじめよっか」
深夜の言葉にうなずき、乃々羽は立ち上がった。床においてあった水筒を手に取って喉を潤す。ほんのりとあたたかいポカリが、冷えた体の奥からじんわりと温めてくれる。
水筒には「LoveLive! 30th」のロゴが踊っていた。深夜が受験の時に買ってきてくれたプレゼントだ。保温機能がしっかりしているのでスクイズボトルより使い勝手が良くて、乃々羽は気に入っている。
何より、深夜とお揃いだというのが嬉しかった。
同じ水筒を手に立つ深夜に、乃々羽は目を向ける。
特段オシャレでもないかが女のジャージも、深夜が着ているとなぜか垢抜けて見えた。冬の張り詰めた空気に混ざる白い吐息と相まって、まるで絵画のようだった。
その立ち姿に、乃々羽は思わず見惚れてしまう。
(みゃー先輩、やっぱり華があるなぁ)
顔立ちやスタイルの良さだけでなく、ソロアイドルとしての魅力が格段に高まっているように乃々羽には思えた。特に地方大会が終わってからは、心なしか貫禄のようなものすら感じられ、その華やかさは瑠璃先輩にも迫る勢いだ。
この人と一緒にスクールアイドル活動ができることが本当に幸せだと、乃々羽は改めて思う。
「25日で終わりになっても後悔がないよう、練習頑張らないとですね」
自分にも言い聞かせるように、乃々羽は言葉を紡いだ。
「うちはノノちゃんとこうやって楽しく練習できるだけで、十分やけどね」
「じゃあ、楽しさついでにオープニングアクトがダメでも卒業まで練習続けます?」
「それはせんって約束やんかー」
「冗談ですよ、冗談。ちゃんと、みゃー先輩を部長から解放しますので」
「ホントに?」
「ホントですよ、ホント」
深夜が疑い深そうに目を細める仕草がおかしくて、乃々羽は思わず笑ってしまう。そして、笑顔のまま深夜の手を取った。ひんやりとした柔らかさが指先に伝わる。その感触を感じながら、乃々羽は深夜を屋上庭園の中央まで連れて行こうと歩き出した。
スクールアイドル部の部長は、いまだに深夜のままだ。
地方大会の終了後、練習再開にあたって二人で部長交代について話し合ったのだが、乃々羽はどうしても深夜に部長を続けてもらいたいと強く主張した。
「2024年度のかがみ川女子高校スクールアイドル部としての活動をしている間だけはみゃー先輩でお願いします」と。
最初のうち、深夜は部長を続けることを渋っていたのだが、最後には折れてくれた。
乃々羽が頑なに部長交代を拒んだ理由。
それは、至極シンプルなものだった。
──次のかがみ川女子スクールアイドル部部長として相応しい姿を、最後にちゃんとみゃー先輩に見せたい
地方大会が終わったあと、乃々羽が一番後悔したこと。
それは、負けたことではなく、泣き崩れてしまい、深夜をちゃんと送り出してあげられなかったことだった。
あの時は「全国決勝大会に行くんだ」という強い目標に心が向いていて、その後のことなど何も考えられなかった。
だからこそ、終わりが目の前に現れた時、受け入れられず、泣くことしかできなかったのだ。
でも、今は違う。
今は、終わりがちゃんと見えている。
早ければ25日、遅くても来月の13日──それが今期のかがみ川女子高校スクールアイドル部の終わりの日だ。
動画がバズって、深夜が戻って来て。
やってきた奇跡のような延長戦。
この時間を、ただ「深夜と一緒に練習できて嬉しい」で終わらせるわけにはいかない。
──地方大会のあとの、あの情けない姿はもう二度とみゃー先輩には見せない
たとえ投票で敗れたとしても、胸を張って次期部長として、結果を受け止める。そして、堂々と深夜を送り出す。
(みゃー先輩に、安心して引退してもらわないとね)
乃々羽は、深夜の横顔をじっと見つめながら、心の中で静かにそうつぶやいた。