一年前のわたしに「一年後にはアキバドームに立つよ」なんて言ったら、きっと信じなかっただろう。あの頃のわたしは、スクールアイドルにも自分にも絶望していて、そんな未来が来るなんて一ミリたりとも思っていなかったから。
だけど今、わたしはアキバドームのセンターステージ下の簡易控え室で座っている。隣にはみゃー先輩がいて、いつもと変わらない調子でふあっと大きなあくびをしていた。本番直前だというのに、そんな余裕を見せられるのはさすがみゃー先輩。少しだけドキドキしているわたしとは大違いだ。
メインステージとセンターステージをつなぐ花道の下には地下道があって、沢山のスタッフがそこをせわしなく行き来している。その動きに目を向けていると、わたしたちが「プロに近いアマチュア」としてこの場に立っているんだと実感する。東京にいた頃は、受け手としても作り手としてもこういう雰囲気には慣れていたはずだった。でも今は少し違う。どこか現実感のない遠いものに感じてしまうのは、この一年で自分が高知のあの穏やかな日常に馴染んでしまったからなのかもしれない。
時計は14時52分を示していた。
開演前の注意事項を伝える場内アナウンスも終わり、あとは開演を待つだけ。控え室から暗幕一枚隔てた向こうには観客席が広がっていて、5万人が詰めかけている。客席からは今年のラブライブ!テーマ曲に合わせたコールやクラップが断続的に響いていた。開演前だというのに、すごい熱気だ。
ついこの前までは、わたしもあの客席で同じようにコールやクラップをするうちの一人だったのだ。そのときはただ楽しくて、エンターテインメントの一部として「ラブライブ!」を受け取っていただけのつもりだった……けれど、本当にそうだったのかな。
夏に重野先生に言われたことを思い出す。わたしのラブライブ!のステージへの憧れは「ファンベース」の憧れだと。その言葉を聞いたときは否定できなかった。でも、今は少し違う答えが出せる気がする。
あの頃のわたしは、ただ観客として楽しんでいただけじゃなかったんだ。胸の奥底で「どうして自分はあそこに立っていないんだろう」って、そんな思いがまるで小さなトゲのように刺さっていた。そのことに気づけたのは、ここまで来れたからだ。
あの憧れのステージを目の前にして、客観的にあの日のわたしの気持ちに気づくことができたのだ。
ここに来るまでに時間がかかったけど、ようやくわたしはあの日刺さった小さなトゲを抜くことができる。
「ノノちゃん、緊張しちゅうが?」
みゃー先輩の声が、ふわりと私を現実へ引き戻した。ざわめく会場の中でも、その声は妙にはっきりと耳に届く。
「ちょっと、昔のこと考えてました」
「ノノちゃんにとっては憧れの場所やきねぇ」
その一言で会話は途切れる。控室は薄暗く、みゃー先輩の瞳の奥に潜む感情までは掴みきれなかった。
「本番5分前です。かがみ川女子高校スクールアイドル部のおふたりは最終セッティングをお願いします」
スタッフさんの呼びかけに促され、わたしは立ち上がる。イヤモニを耳にはめた瞬間、外のざわめきが嘘みたいに遠のいた。この感覚、正直あまり好きじゃない。どこか、自分だけ世界から切り離されたみたいで。
スタッフさんが近づいてイヤモニやレシーバーの位置を微調整し、マイクを手渡してくれる。その間にわたしは衣装の袖を整え、スカートの裾を軽く払った。
今日の衣装は地方大会向けに施されたスパンコールがすべて外されている。ドームの強い照明の下での余計な反射を防ぐためだと雅先輩は言っていた。代わりにリボンなど目立たせたい部分のサイズや位置が微調整されており、細かなところまで雅先輩と空ちゃんの想いが詰まっているのが感じられる。
この衣装を着るのも今日でラストか──そう思うと胸が少しだけ熱くなる。アキバドームという特別な舞台で、この素敵な衣装をまとえることが純粋に誇らしかった。
うちの服飾部の実力が、ちゃんとみんなに伝わるといいな。
「1分前です。会場が暗転したら、階段を上ってセンターステージまで進んでください」
スタッフさんに促され、わたしは暗幕の前に立った。
その瞬間、みゃー先輩と初めて屋上庭園でパフォーマンスをした日の記憶がふとよぎる。制服の上にカーディガンを羽織っただけの、手作り感あふれるあの日の舞台。ふたりで歌ったあの『&GAIN!!!』。
全ス選、夏合宿、県予選、文化祭、地方大会……
わたしたち、ずいぶん遠くまで来たんだな。
トントン、と肩を軽く叩かれる感触。
「ノノちゃん、髪のとこ」
イヤモニ越しに少しくぐもった声が届く。
みゃー先輩が手を伸ばしてわたしの髪を軽く触ると、微かに汗と制汗剤が混ざった匂いが漂った。この一年間、何度も嗅いだその香りは、わたしたちが一生懸命スクールアイドルに向き合ってきた証みたいなものだ。そう思うと、不思議と気持ちが落ち着いた。
顔の近くで、みゃー先輩が小さくOKサインを作る。
わたしもそれに応えてOKサインを返すと、みゃー先輩はにっこり笑って前を向いた。
わたしも一度深呼吸をして、前を見据えた。頭の中でここからの流れを再確認する。
会場が暗転したらステージに上がる。
ショートムービーが流れて、わたしたちを紹介する短いアナウンスが入る。
そしてパフォーマンス。
パフォーマンスが終われば、すぐにステージをはける必要がある。パフォーマンス以外で伝えられるのは学校名くらいだ。
そこから先は、ラブライブ!全国決勝大会が始まる。そこにはもうわたしたちの居場所はない。
全国決勝大会がはじまるまでのたった5分間だけが、わたしたちがステージに立つことを許される時間。
たった5分。
だけど、わたしには確信があった。
この5分は、きっと人生で忘れられない5分になる、と。
イヤモニからカウントダウンが聞こえてくる。
あの日、憧れたあのステージに立てる喜びは、思ったほど強くない。
それよりも、今わたしの胸を満たしているのは──「2024年度かがみ川女子高校スクールアイドル部最後のパフォーマンス」をアキバドームのセンターステージで多くの人に見てもらえるという、ただその喜びだけだった。
カウントダウンが、あっという間にゼロになる。
そのとき、会場が「「「おおお」」」というどよめきに包まれた。イヤモニ越しでも、5万人の声が押し寄せてくるのがわかる。ビリビリと震えるような感覚が全身を駆け抜けた。
目の前の暗幕がゆっくりと開かれる。
最初に目に飛び込んできたのは、無数のペンライトの輝き。その光がキラキラと瞬くのを横目に、わたしはみゃー先輩の背中を追って階段を一段ずつ上っていく。
センターステージにはまだ照明が当たっておらず、暗闇が広がっていた。足元の蓄光テープがマーキングされたポジションを示している。わたしはその光を頼りに、一歩ずつ慎重に歩を進めた。
ふと客席に目を向けると、そこには光の海が広がっていた。
リハーサルのときは、ただただ広い空間という印象だったけれど、観客が入った今、アキバドームはまるで別世界みたいだった。
すごい。綺麗。
語彙力なんてどこかに飛んでいってしまったみたいで、そんな簡単な言葉しか浮かばない。
ピンクと青の鮮やかな光の海──これからわたしたちがパフォーマンスすることを知ってくれている人たちが沢山いる。
どこかホームのような安心感に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
イヤモニから、聞き慣れたラブライブ!名物レポーターの声が流れてきた。それにハッと我に返る。
そうだ、わたしはここにパフォーマンスをしに来たんだ。かがみ川女子高校スクールアイドル部のスクールアイドル、沢渡乃々羽として。
感慨を頭の片隅に追いやって、ポジションに立つ。
「オープニングアクトはぁぁぁ、ラブライブ!全国決勝大会オープニングアクト投票史上最多得票数──456,305票を獲得した、かがみ川女子高校スクールアイドル部で『
ぱっと照明が向けられる。一瞬、強い光に目がくらんだ。
その直後、会場全体を揺らすような歓声がわたしを包み込む。イヤモニをしていてなお、その大きな声の塊に圧倒されそうになる。
視線の先でみゃー先輩と目が合う。その一瞬で、頭が冷静さを取り戻した。
5万人の観客も、カメラの向こうにいる数百万人の視聴者も、今は関係ない。
このステージに立っているのは、わたしとみゃー先輩だけ。
ずっとふたり屋上庭園で練習してきた延長線上に、今のわたしたちはただいるだけなのだ。
イヤモニから流れ始めるイントロに、自然と体が反応した。
口が動き、歌詞がマイクに乗る。
MIrAI/I∀ɹIWが完成したあの夏の日から、何百回、何千回と繰り返してきたパフォーマンス。
そして、これが最後の一回。
ピンクと青の光の海の中。
体をゆらすようなコールの中。
5万人と一緒に踊るサビの振り付けの中。
みゃー先輩と視線がすれ違うたびに、心の中に「嬉しい」・「楽しい」という気持ちがあふれて止まらない。
夢のような、最高の一瞬が続いていく。
夢のような、最高の一瞬はあっという間に過ぎ去っていく。
ピアノの音が三音、聞こえてくる。
その瞬間、会場のクラップもコールも一斉にやんだ。
静寂。
ああ、もうCメロだ。
センターステージの中央。伸ばした手が触れあうか触れあわないかの距離でみゃー先輩と向かい合う。
メインステージ上のビッグスクリーンには、映像研のドキュメンタリーが走馬灯のように流れ始めた。短い間隔で、思い出がどんどんとスクリーンを駆け抜けていく。
「鏡に映る 揺らぐ決意も」
ささやくような、語りかけるようなみゃー先輩の声が耳をくすぐる。
わたしには、その声が「楽しかったよ、ノノちゃん」と言っているように聞こえた。
だから、わたしもみゃー先輩に最後の気持ちを歌に乗せて返す。
「キミと一緒に 越えていこう(わたしも楽しかったです、みゃー先輩)」
伸ばした指先はあと少しのところでみゃー先輩には届かない。
でも、この歌は、この想いは、きっとみゃー先輩に届いている。
声と声で。
指先と指先で。
目と目で。
想いを伝え合って。
わたしは視線をみゃー先輩からスクリーンへと移した。
ドキュメンタリーから切り抜かれた数々の思い出が、スクーリーン全面を埋め尽くしていた。
その大切なひとつひとつの思い出を胸に、わたしは一歩踏み出す。
ここから先、もう曲が終わるまでみゃー先輩と視線を交わすことはない。
独り立ちの前の、最後の数十秒。
この
「「鏡の向こう 輝く未来へ」」
最後に声が、重なった。
アウトロが流れ始める。
わたしはステージの中央へと歩き出す。反対側からは、みゃー先輩が同じように近づいてくる。
やりたいことができた。
やりたいことをやりきった。
夢見た舞台に、スクールアイドルとして、一番大切な人と一緒に立てた。
それでも、この一瞬が永遠であったらいいのに、と思ってしまう。
もっと、もっとここに立ちたいと願ってしまう。
でも、もう終わり。
わたしも、みゃー先輩も、次へと進む時間が来たのだ。
ステージ中央でみゃー先輩と両手を合わせる。その顔には、晴れやかな笑顔が浮かんでいた。「楽しかった」と、その笑顔が語っている。だから、わたしもきっと同じ表情をしているんだろう。
アウトロが途切れた。
瞬間、万雷の拍手と喝采がわたしたちを包み込む。
「「かがみ川女子高校スクールアイドル部でした!」」
みゃー先輩と手をつないだまま一礼すると、その瞬間、会場は暗転した。
イヤモニから流れ始めたのは、耳馴染みのあるラブライブ!のテーマ曲。スクリーンには鮮やかなOP映像が映し出される。
さっきまでわたしたちに熱狂していた観客の視線は、もうそちらに集中していた。
ここから先は、地方大会を勝ち抜いてきたスクールアイドルたちのための舞台。
わたしたちに、このステージに留まる資格はない。
足早にステージ脇の階段へと向かう。その途中で、もう一度だけステージを振り返った。
目に飛び込んでくるのは、ステージとその向こうに広がる観客席。埋め尽くす人々。虹のように色とりどりに輝くペンライト。そして、きらびやかな演出。
そのすべてを、しっかりと心に刻む。
わたしはみゃー先輩と手をつないだまま、アキバドームのセンターステージを静かにあとにした。