ロアナプラより愛をこめて
俺の人生には、幾つもの特異点が存在する。
そのどれもが、衝動的で、偽善的で、独善的で、平凡で、陳腐な振る舞いだったと自負している。どれもこれも、根底にあったのは自分可愛さと、自己陶酔と、ほんの少しの良心と勇気だった。
俺の人生には幾つもの特異点が存在する。それは同時に分水嶺だったのだと、俺が知るのは十年以上後のことだったが。
ともかく、俺は小心者でありながら、他人に称賛される為でも何でもなく、ただただそうすることが好ましい、という理由だけで幾度も一線を越えた。
普通の人間には理解できない。ある種の破滅願望かもしれない。
けれど、同時に俺は俺のことが心底嫌いで。であるがゆえに、自分を愛するに足る人間だと思い込みたいがために、あんなことをしてしまったのだ。
何度も。何度も。
一度で済めば、それだけよかっただろう。だが、一度では到底、俺の卑屈さは治ることなどなく、寧ろ自己嫌悪と自己矛盾でより一層歪んだだけだった。
最初の特異点は、家族旅行で行ったアメリカでのことだった。
生まれも育ちも日本だったが、幼少期一年の半分はアメリカで暮らしていた。苦労せずに英語を習得できたことは終生俺の身を助けた。
長期休暇の度に、また両親の都合で社会勉強の体でしょっちゅうアメリカに飛んだ。向こうでは、母方がユダヤ系で金持ちの家系だったから、アメリカに住む一族の家にご厄介になっていた。
裕福な家庭に生まれて、育ちはよかった俺だが、育ちが良いというのは聞こえがいいが、言い換えれば世間知らずなだけだった。
ある時、祖父母からニューヨーク観光の為の駄賃を渡された。百ドル紙幣が十枚。小学生の子供に持たせるには過ぎた大金だったが、緊張する俺を他所に、両親も祖父母も何も違和感を感じていなかった。戦々恐々としながらニューヨークに向かった。
言わずと知れた繁栄の象徴のような大都市で、俺にとっては余りにも眩しかった。純真な精神が高揚したのを感じたし、その大通りを肩で風を切りながら堂々と進む身綺麗な両親を誇らしく思った。
だが、常に陽は陰を生む。その日は単なる偶然だったかもしれないが、少なくとも俺にとっては必然であるように感じられた。
大通りを抜けて市街地に入り、いくつかのビルや服飾を扱う店を回り、帰りの準備を済ませる頃には俺は着ぶくれたようになっていた。
マフラーからコートまで全身をバーバリーで固め、靴は日本で買った三越伊勢丹の子供用のオーダーで作らせたフォーマルシューズ。酷く身形の好い子供が一匹出来上がった。
いざ帰るぞとなった時、ふと視界の端に異物が入り込んだ。それは子供だった。
いっそ滑稽なほどに身形の好い自分と対比するかのように、その子供は薄汚れていて、疲れ果て、瞳は淀んでいた。
子供は俺にも、俺の両親にも気づいていなかった。だが、ぼんやりと送迎の車を待つ身形の好い人の一団を見ていた。俺も両親も、その風景のピースの一つだったに過ぎない。
俺は、胸が苦しくなった。それは哀れみであり、同情であり、潜在的な貧困に対する恐怖であり拒絶感だった。同時に、どこかで言うまでもなく浸っている優越感に対する心理的な防衛機構、言い訳でもあった。
だが、この時の俺はただただ幼く、純粋で、そして摩天楼と繁栄の気にやられてハイにでもなっていたのか…。例えそれがバーバリーのコートが見せた錯覚であったにしろ、兎に角根拠のない自信と全能感、義憤に突き動かされた俺に、その場から動かないという手はなかった。
俺はその時、ある種の英雄的自慰に身を焦がしたのだ。俺の目の前にいるのは、俺が相対しているのは、一人の貧者ではなく、もっと巨大な貧困と言う概念そのものだとでもいうように。全ての貧者を救うとでも意気込む様に。
それはとても甘美な体験だが、大人びれば、学べば、知るほどに羞恥心と自省に悶える羽目になる経験だ。
待合いから飛び出した俺に、両親が声を掛けたが聞こえなかった。俺はまっすぐ走っていき、子供が俺を正面から認めてから、上着のコートを羽織らせて、マフラーを巻いてやった。子供は為されるがまま、呆然としていた。
子供は痩せていた。臭いとも思った。汚いとも思った。だが、興奮と熱狂の渦の中で、そう言ったことはどこか遠く感じられた。少なくともその時は、気にならなかったのだ。
俺の顔を食い入るように、信じられないものを見るようにして見つめる子供の顔を、俺は横目にちらちらと流し見た。好奇心半分。もう半分は、俺の都合で文字通りお仕着せられる子供に対する申し訳なさと、それに対する恩着せがましい感情との葛藤だった。
まるで照れるみたいに、子供の顔を観察してみれば、向こうも俺と同じようなアジア人的風貌だった。俺は瞳の色素が薄く碧眼であることを除けば、まるっきり色白で日本人らしい童顔だが、その子供は俺と同い年の時分で既にかなり整った風貌をしていた。この場合は相手が年下で大人びていて、単に俺が幼稚で童顔だっただけなのだが…。
マフラーを巻くにあたって彼女の顔を真正面から見据えて、俺はようやく相手が女の子だと気が付いた。すさんだ生活の所為なのか、目つきの鋭さに俺の背筋はぞくりとしたが、可愛い異性に押し付けとはいえ優しくできたことに、打算的なぬか喜びを催した。
俺の喜びと期待を知ってか知らずか、俺と目を合わせるのを戸惑うように彼女は、その暗い瞳を彼方此方に彷徨わせてから、覚悟を決めたようにじっと俺の顔を見つめてきた。目と目が合うと、相手をようやく他の多数ではなく、この世に一人しかいない独立した一人の人間だと認識できた。お互いに。
そうなってくると、もっともっと優しくしたくなるものだ。可愛い異性。オマケに俺は興奮していた。自分の行動と決断、勇気に対して。正しいことを出来ている。正しい行動をしていると信じられている限り、人は自分も他人も顧みずに行動できるのだ。ただ一つの目的に向かって、自分が最良だと考える手段はすべて使って。
俺の場合、コートもマフラーも上げてしまえば、あと残っている物と言えば祖父母から貰った現金だけだ。俺にとってはお小遣いでも、祖父母が、両親が汗水たらした努力の結晶だ。本来、望まれた用途通りに自分の為に使うべきかもしれない。だが、この時の俺は今ここで金を使わなければ、そのことを長く後悔するかもしれないと思った。だから使った。今も俺に後悔はない。
これは『善い』ことではないかもしれない。でも『悪い』ことでもないと思う。そして、俺にとっては間違いなく『好い』ことなのだ。論理が役に立たなくなれば、残るのは感情論だけだ。これに照らせば、好いことはこの場における正義に取って代わる。ならば迷うことはない。
俺は小遣いを入れる為だけに今日買ってもらったばかりのバーバリーの財布ごと、少女に千ドルを押し付けた。金が世界の全てだとすれば、この金はこの時の俺の世界の全てだった。
俺はまた貰えるかもしれない。額が小さいかもしれない。だが、金だ。銭は銭なのだ。
結局、俺は少女と一言も交わすことなくその場を去った。少女は終始俺の顔を見つめていた。瞬きを忘れたように、じっと見つめていた。まるで焼き付けるように。
迎えの車に乗ってすぐに両親からは褒められた。貴族的な振る舞い…ノブレスオブリージュ…が甚くお気に召したようだ。貴族趣味…或いは生まれへの憧れは成金と蔑まれてきた家に生まれた母にとっても、そんな母と結婚した父にとっても他人ごとではなかった。そしてそれは祖父母や親戚にとっても同じことだった。
結果的に、俺が破滅することはなかった。代わりに、新品のコートとマフラーと財布、カルティエの腕時計を買い与えられ、小遣いが倍になった。俺の破滅への願望は、俺から破滅を遠ざけるのと引き換えに、繁栄へとその身を一歩近づけた。
二度目の特異点は、両親が死んだ直ぐあとの出来事だった。
俺が十五歳の頃、両親が相次いで亡くなった。癌だったようだ。金が幾らあっても死は免れないことを最後に教えられたような気がした。
両親には心から感謝していた。どこまで言っても凡人、登り詰めても陳腐な悪魔にも成れない俺のことを最後まで愛してくれたし、自分たちが死んでも俺が生きて行けるようにと恐ろしい額の遺産を託してくれた。不動産も含めれば、それこそ一生豪遊しても使いきれない額だ。
遺産を手に入れて、人が変わるかもしれないと恐れたが、俺は変わらなかった。
多感な時期だったし、アメリカの高校のスクールカーストは日本のそれが比にならないくらいに物騒だったからだ。
祖父母がまだ生きていたから、財産管理のことは紹介してもらった一族の代理人の弁護士とか税理士に丸投げして、俺は生活費だけを貰って戦々恐々と中学・高校生活を送っていた。下手に大金を持っていると、いつか必ず痛い目に遭うと思ったのだ。
案の定、俺も成金としていじめられた経験を持つが故に、尚更そう考えられてならなかった。金は暴力と相性がいいが、金そのものは道具にすぎず、金単体では暴力に太刀打ちできないことを知っていたからだ。
考え方が卑屈になり、生来の小心者が酷くなったのはこの過酷な青年時代の生活が原因に違いなかった。中学以降はアメリカの方で暮らしたから、この国の子供たちが如何に日本の子供と比べて大人びているのかも知っているが、それは同時に如何に物騒で、容赦がなくて、冷酷なのかも理解する羽目になった。
でも悪いことだけじゃない。中学では虐められた絶望感から死のうかとも思ったが、高校に入るなり彼女が出来て死ぬ気が失せた。金髪の美人で絵に描いたようなアメリカ人だった。
高校が始まってすぐに、告白された。その後のノリの良さや押しの強さとは別次元の清楚ぶりに、俺はまんまと騙されて二つ返事で頷いた。が、それが全ての間違いだった。虐められても彼女がいれば頑張れると、なんとも単純な心理でいた俺を打ちのめしたのは他でもない彼女だった。
なんと彼女は泣く子も黙る女王様として学校に君臨し始めたのである。
一種の暗黙の了解として、アメリカのスクールカーストの頂点は男のジョックと女のクイーンビーのカップルが占めるのだが、彼女がクイーンビーにピッタリなことは置いといて、そもそも俺はアウトカーストである。一ミリも学校の支配にも人気者にも権威にもそそられなかった。
だから必然的にジョックは代わりの男が出てきて、その男と彼女が改めて引っ付くのではないかと、日々戦々恐々とした心理状態だったのである。
彼女に相応しい男になろう!とか、そういうことは考えもしなかった。そもそもカーストなんて代物を形成すること自体に否定的な俺にとって、自分の上に人がいるのも、人を踏みつけにするのも気味の悪いことだった。その為に努力するなど…もってのほかである。
俺の内心が伝わったのかは分からないが、少なくとも彼女は俺にジョックとして振る舞えとは言わなかった。
だが…その一方で、結論から言って彼女が俺から離れていくこともなかった。
別れることはおろか、彼女は他の人がジョックを選ぶことも、新たなジョックを生み出すことも許さなかったそうだ。よく創作物の中でスクールカーストで権力を振るうビッチと言うのを見かけるが、彼女はそんな頭の悪い存在とは一線を画した。その肌に指一本触れさせずに男子生徒を魅了し、類稀なヘイト管理で女子生徒を統制していた。
いつ始まるかも分からない虐めに怯えながら過ごす日々は突然終わり、代わりに与えられたのは驚くほど穏やかで充実した高校生活だった。
全て彼女のお陰だった。学校の中での彼女は正しく女王として振る舞った。誰も彼女には逆らえず、教師と言えど彼女の顔色を窺った。男子生徒は女王蜂の命令に喜んで従う働き蜂にもなり、他校の生徒から俺が虐められた時には、他校に乗り込んで暴れる兵隊蜂にも競うように志願していた。女子生徒は学校中どころか町中の情報を些末なものからスクープになる代物まで、噂話として女王の元に集めてきていた。彼女は学校の中に居ながら他の誰よりも情報に通じており、常に自身の周囲の環境を俯瞰し、そして慎重に整えていった。
当然、学校の女王の話が恋人である俺の耳に入らない訳もなかったが、彼女は俺の前では女王の顔が嘘に見えるほど明るく振る舞った。威厳も何もあったものじゃない。ぐいぐいと俺の手を引く彼女の姿が本物なのか俺には理解できないが、そんな彼女を憧れと共に見つめていた。造り物じみた完璧な振る舞いは、彼女を崇高なものにしたかもしれないが、誰よりも近くにいることを許されているのに…俺には彼女が遠く感じられた。
高校生にとって、高校の中が世界の全てだ。その中のルールが何事にも適用され、その中の道徳が美徳とされる。狭い世界だが、狭くとも世界なのだ。規範があり、ヒエラルキーが構築されたれっきとした社会なのだ。
高校の期間中、俺はずっと嫉妬と羨望の標的にされたが、それでも一度として同じ学校の生徒から虐めや嫌がらせを受けたことはなかった。彼女に守られていることは言うまでもない。俺を虐めようと考えるだけで、鋭く察知した彼女から文字通り殲滅されるのだ。そんなリスクを負うほど、俺は虐め甲斐のある獲物じゃなかった。
孤立はしていたが、代わりに常に彼女が隣に居て、文字通り手取り足取り全てを指南してくれた。若者らしくデートをしたり、買い物に行ったり…振り返れば楽しいことも多かっただろう。最初から最後まで彼女のお陰だった。
実に楽しく甘酸っぱい時間。その裏では過酷な生存競争が繰り広げられていることを、彼女はおくびにださない。自分にだけ甘く媚びたように振る舞い、アクセントとばかりに女王の冷酷で気品ある仕草で飽きさせない。かと思えば恥じらいと淫靡で魅了し、鍛えられ磨き抜かれた健康的な色気を纏った肉体と湿度を感じさせる妖艶な雰囲気で誘惑する。骨抜きにならない訳が無かった。
自分にだけ優しく従順で、俺が少しでも物欲しげな眼差しを向ければ、俺を持ち上げ誉めそやし慰め癒し、比較して他人を徹底的に詰り貶めることも厭わない。言葉と行動でこれでもかと曇りのない愛を伝えられ、言葉にも行動にもあらわさずに間接的にも愛を伝えられる。美しく、凛々しく、賢明で俺の為なら何でもする女。欠点は、俺みたいな男に一目惚れして操を立ててしまう所…それしか思い浮かばない。実に心地よかった。気持ちよかった。都合が好かった。どこまでも煩わしさのない、男という面倒臭く我儘な生き物にとって完璧な女性だった。だが、あまりにも都合が好くて。あまりにも満たされすぎた。
ふとした瞬間に、俺を恐怖が襲った。その全ては幸福が目減りしていくのをまざまざと観察させられるような…絶望のカウントダウンに変わった。
俺は高校卒業を目前にして、ずっと恐れていたことが杞憂で終わったことに安堵しつつ、同時に自分の中で頭をもたげる破滅願望に怯えていた。恐れていたのは彼女に見捨てられること。今更、彼女無しではなにごとも上手く行かないだろう。常に隣に居たのだから、当然俺たちはワンセットとして扱われていた。彼女が周囲にそのように認識するように仕向けたのだ。当然の結果だった。
だが、俺が求めることは彼女からの脱却だった。それは彼女の庇護から離れ、自立すること。彼女の声から、微笑みから、カラダから、温度から、想いからの逃避だ。俺はそれを望んでいた。
いつか、ここよりももっと高く、遠い場所で…後戻りも修復もできない何処かで彼女から見捨てられるのではないか、突き落とされるのではないか、忘れられるのではないか、嘲笑されるのではないか…小さな小さな疑問が、連鎖的にパラノイアを掘り起こし、押し込められた疑念はニトログリセリンのように敏感に感応する。感応したが最後、それは爆発し、俺を破滅に誘うだろう…と、俺は思っていた。
一度疑念に上がった時点で、それはお行儀がいいだけで質の悪い確信である。崩れるのは一瞬だった。
そこに破滅願望が合わされば、もう手が付けられない。俺の思考は次第に変質し、彼女に見捨てられるなら、見捨てられる前に自らを放り捨ててしまえ、と考えるようになった。自ら、そう、自らの選択の結果、彼女に見捨てられてしまえば…そうすればもう何も恐れる必要などない。
だが、死んでも彼女に迷惑も、苦労もさせたくなかった。それだけは許せなかった。彼女が何と言おうと避妊具を被せた。彼女の人生に俺の汚い足跡が刻まれてしまったことには慚愧に耐えない。俺にとっての幸福は、つまり彼女の人生の汚点になる。俺はそれが恐ろしい。
だが、それでも俺は自分が可愛かった。どうしても、全てを捨てることは出来なかった。かと言って、逃げることを断念できる余裕もなかった。当然、彼女に打ち明ける勇気も、反対されて押し切れる覚悟もなかった。俺は彼女の人生に責任を持つ覚悟も、権利も、そして義務もなかった。
気が付けば、荷造りを終えてキューバ行きの便に乗り込んでいた。手荷物は牛革張りのTUMIのアタッシュケースだけ。服装はブルックスブラザーズのスリーピース。足元は磨いていないベルルッティの革靴。左腕には変わらずカルティエのレクタンギュラーを巻いていた。クロコの革ベルトは既に三代目、こなれてきたのか腕にしっとりと馴染む。
鞄の中には全財産の50%…約500億ドル…が書類とカードと僅かな現金に形を変えて詰まっていた。両親が残してくれた遺産の内の三割は祖父母に、残りの二割は貴金属類と共に彼女に譲渡するために遺してきた。祖父母にも財産はあるが、迷惑をかけた詫びとこれまでの恩返しのつもりだ。とはいえ、そう言っても素直には受け取ってくれないことは分かり切っていたが、もしも俺が無一文になった時の為の保険だと言えば受け取ってくれた。彼女には…こんな形で報いることが出来るとは思っていないが、金銭以上に役立つ何かを、俺は終ぞ思いつかなかった。謝るのも変だが、お礼を言うのも今更だ。だから黙って出て行くことにした。祖父母に行先だけを告げて、もう戻らないかもしれないとは言わずに十年近く暮らした実家を出た。生まれて初めて一人でタクシーを拾った。
ニューヨークの摩天楼が遠ざかる。彼女との時間が、あっという間に過去のものになる。美しい姿のまま、氷の中に隠しておこう。
一人で外国へ行くことはおろか、一人で遠出するのなんかそれこそ生まれて初めてだった。冷静になると不安が募った。
俺の不安が天に届いたのか否か、飛行機に乗るや否や隣のシートに座った少女から声を掛けられた。
「よぉ、色男」
にんまり。そんな音が聞こえてくるような笑みを浮かべた少女が俺の顔を覗き込んでいた。濃紺のデニムオンデニムで、中には黒のタートルネックを着ていた。ナイフみたいに鋭い眼光。底が見えないほど深い黒目が嵌め込まれていた。口元が裂けたみたいに笑っている。大人びた剣呑な貫禄を纏っているが、それでも俺の方が年上のはずだ。
見知らぬ少女にどう返せばよいのかと俺が戸惑いを見せても、少女は冷静に、しかし興奮している様子だった。寧ろ、「見違えただろ?」とでもいうように胸を張り、目を細めた。
「今のあたしがあるのは、アンタのお陰なんだよ」
そう言って、少女は胸ポケットからくたびれたバーバリーの革財布を取り出し、中から一枚の百ドル紙幣を抜き取った。シミが目立ち擦り切れた、くしゃくしゃのそれが何なのか…俺にとってはただの紙幣だ。物だ。だが、彼女にとっては何だろう。
口に出ていたのか、彼女は口の端をクイと小さくもたげ、瀟洒な微笑みで応えた。
「お守りだよ。コイツも、な」
見覚えのある財布を見て、俺は古い記憶から、目の前の少女が昔出会ったあの子供なのだと気が付いた。
俺はあの日、家に帰ってから後悔したことを今でも覚えている。大人になるにつれて後悔は強まっていった。
高いコートを…もったいなかったなとか。
あの財布気に入ってたんだよな…とか。
お小遣い全部なくなっちゃったな…どうしてあんなことしたんだろう、とか。
そんなんばっかだ。
勝手に施して、勝手に満足して、勝手に不快になって、勝手に後悔して…。後悔したことを後悔して。
そして後悔した自分の浅ましさに失望を抱えて大きくなった。情けない。ダサい。死ぬほどダサい自分の身が、それでも可愛い。
一度に、自分という人間の罪の結果を見せつけられたような気がして、恐ろしいほどの罪悪感が、胸を圧し潰した。
俺は震える声で聴いた。「どうしてここに?」と。
彼女はニヒルに笑っておどけて見せた。
「アンタと同じで、アメリカから逃げなくちゃならない理由が出来てね。空港に来てみたらこのとおり、運命の再会って奴だ」
彼女の顔に後悔はない。
俺は羨ましくなった。そして浅ましい自分がもっと嫌いになった。
俯かざるを得なかった俺の耳元に、吐息が当たった。
「なぁ、暫くアメリカには戻れないんだろ?ならさ…あたしのこと、用心棒として雇ってみないか」
「アンタ、弱そうだし」と彼女は付け足した。
頭で考えるよりも早く、頷いていた。
ひとりは、寂しい。半日でさえ、これから一人きりで生きて行かなくてはならないのだと思い込むことは苦痛だった。
生憎金はあった。何より、誰かに傍に居て欲しかった。俺を知る人に、話し相手になって欲しかった。俺のことを知っていれば好い。俺に恩があれば尚好い。なんて、酷いことを思いながら。
飛行機が離陸して、暫くしてから彼女が言った。
「自己紹介がまだだったな、レベッカ・リー…あたしのことはレヴィって呼んでくれよ。ご主人サマ…」
機上で簡易契約書を作成し、俺とレヴィがそれぞれ署名したことで契約は成立した。言い値で好いと言ったが、彼女は自身の値段を月給一千アメリカドル…年間契約で一万五千ドル…で好いと言って聞かなかった。俺が説得して押し付けた三千ドルのボーナス込みでも破格の安さだ。衣食住の面倒は見ると言っても、命を懸ける仕事でこの安さは異常だった。だからという訳ではないが、俺と彼女の契約期間は彼女からの希望が無い限りは無期限とした。俺のちっぽけなプライドと罪滅ぼしが妥協を求めた結果だった。
だが、契約書の控えを大事そうに財布に仕舞う彼女からは悲壮さも、重苦しさも感じられなかった。ただ純粋に、契約を喜んでいるように俺には見えた。彼女にとって、俺との契約が何を意味するのかを俺は知らない。何が嬉しいのか、俺には理解できなかった。
だが…一つだけ。俺は言い知れない予感を感じていた。古いしがらみが一度途切れて、新しいしがらみが自分を縛る予感を。
俺は逃避したつもりが、自ら更なる深みに沈んだだけなのかもしれない。
三度目の特異点は、キューバで起こった。
レヴィを雇い、二人旅で無事にキューバに入国するまでは順調だったが、そこからが問題だった。
言わずと知れた共産国家であるキューバにアメリカ国籍の人間が入国するためにはいくつかのハードルを越える必要があるのだが、訳アリのレヴィがそんなものを用意する余裕があるはずが無かった。
この時点で、俺とレヴィの出会いが空港での運命での再会ではないことは明らかだった。おそらく空港で俺を見つけたレヴィが急遽行先を俺と同じキューバに変えたと言うのがことの真相だろう。
閑話休題。
かくして、日本のパスポートでスムーズに入国できた俺の後ろで、別室に通されそうになっているレヴィを助けるところから、俺とレヴィのキューバでの生活が始まったのである。
第一関門から躓いたことは確かだが、税関職員から法外な値段で葉巻を買い取るという、なんとも回りくどい鼻薬が功を奏したことでレヴィは無事に入国が叶った。アメリカドルはアメリカ本国と違って何時如何なる時と場所においても大人気である。
一本百ドルでニ十本買い取った葉巻は、これと言って特別な物でも無かったが、捨てるには勿体ないからとレヴィと二人で味わうことにした。
民間のタクシーを拾い、首都で一番グレードの高いホテルに向かった。車内は俺とレヴィがふかす葉巻の煙で大変なことになった。二人とも葉巻の吸い方など知らないから、思い切り煙を肺に入れてしまい、二人して咽て咽て仕方なく、運転手から笑われた。ひとしきり笑ってから、彼は親切なことに葉巻の正しい吸い方を教えてくれた。
運転手に葉巻の吸い方を教えて貰った礼に百ドル紙幣を握らせると、荷下ろしからチェックインまで世話を焼いてくれた。お陰でその日は荷解きも早めに終わり、俺たちは一日中、覚えたばかりの葉巻を無くなるまで吸っていた。散々吸ってから、俺もレヴィも葉巻はあんまり得意じゃないことに気付いたのはお笑い話だった。
そして平穏な時間はあっという間に過ぎ去っていき、事が起きたのは夜になりホテルで夕飯を摂ろうと階を降りた時だった。
今思えば空港で騒ぎを起こしたことも、日本旅券でキューバ入りしたことも、チップを大盤振る舞いしたことも、全てが全て大間違いだったのだが。
とかく危機感のない俺はレヴィを引き連れてホテル内を闊歩していたところを、拳銃を構えた三人組の集団に拉致されてしまい、そのまま目隠しをされるか…というところで、容赦なくレヴィが現地で買い付けた拳銃で三人組をあっという間に撃ち殺してしまった。
銃声が三発。死体も三つ。反応を見せる余裕も与えない早撃ちだった。
お見事!と言いたいところだったが、無許可で銃を撃ってしまった時点で警察の御用になることは間違いないし、この時俺たちが撃ってしまった男たちの身元にも問題があり、俺のキューバでの隠棲計画は早々に破綻したのであった。
死体を呆然と見ていると、男たちの所持品を漁っていたレヴィが「げッ…」と言うなり、面倒ごとを見つけたことを教えてくれた。
「こいつら多分組織の連中だぜ。こういう手合いはメンツで飯食ってるから、まず間違いなく報復されるな」
どこの、とは言わなかったが。レヴィの仄暗い半生、その苦労をうかがい知れるような言葉だった。
俺は意外にも落ち着いていた。レヴィに先導を頼みつつ、キューバから脱出する方法を考えることにした。
いつどこから刺客が現れるかも分からない状況だったが、とにかくまずは安全な隠れ家を必要としていた俺は、レヴィに持てるだけの現金を預けた。
高卒で金を持ってるだけの男である俺には、この状況を打開するだけの知識も経験も足りていなかった。
「なんとかしてくれ」という情けないリクエストに対して、レヴィは花が咲いたような笑顔を浮かべた。
「そうだ、それでいいんだよ。そのためにあたしがいるんだからよ…武器と隠れ家と移動手段、後は逃げるための伝手だな」
そういうやレヴィは俺の前を先導して歩き始めた。俺は彼女に導かれるままに、ホテルを後にした。
キューバで俺たちが起こした事件はニュースになったがすぐに忘れられた。珍しくもないことだという言葉で片付けられてたのが印象的だった。
ホテルを出てからはレヴィだけが頼みだった。俺は金を出しただけ。多分、これからもそうだろう。
レヴィは手際よく武器と隠れ家と移動手段を用意した。レヴィが自分で持つためのカトラスのコピーと、俺が持つための護身用のガバメント。海沿いの廃屋を改装した隠れ家、トヨタのランドクルーザー。後足りないのは国外に逃げるための伝手だけだった。
アメリカに帰るのは論外として、俺とレヴィを受け入れてくれるような人間の手が汚れていない保証はなかった。だが、レヴィを用心棒にした時点で、腹は括ったし、目の前で三人死んだときに覚悟は決まった…つもりだ。つもりなだけかもしれないが、どっちみち俺が銃を抜くのは死ぬときだと心得た。
地元のギャングからの襲撃に怯えながら暮らして何事も起きずに一月もたってしまうと、人間誰でも気が抜けてくるものだ。これは引き締めようと意識しても緩んでしまう。仕方のないことだった。
レヴィを連れて一月ぶりに街に出て、レストランで食事をした。初日にホテルで食事を食い損ね、それからは屋台や売店で売っている既製品ばかりだった。まともな食事にありつけたことで、俺はますます気が緩んでいた。レヴィが険しい顔で席から立ちあがるのと、若い…大学生くらいの…見知らぬ女性が俺たちの座る角の席に「相席してもよろしいでしょうか」と声を掛けたのは同時だった。店は空いている。相席の必要などなかった。
ふと見上げれば、声の主は清楚なワンピース姿の女性だった。身綺麗で、身長は俺よりも高かった。黒髪は編み込まれ尾のように垂れていて、固い笑みを口に浮かべていたが、目つきは鋭かった。女性にしては肩幅が広いと感じた。
目は口程に物を言う。目が合うや咄嗟に「どうぞ」と手で席を示してしまったのは言うまでもない。俺は押しに弱いのだ。
レヴィは俺を責めることもなく、静かに俺の隣で女と周囲に意識を割いていた。女が座ってからも俺の退路を確保するように、或いは女の退路を断つように通路に立ったままだった。女はコーヒーを頼んだ切り、相席を求める声を最後に一言もしゃべらずに、俺のことをじっと見つめていた。コーヒーは減らずに、ただ冷えていった。
とても気まずい。気まずいなんてもんじゃない。相手は刺客かも分からない。少なくとも、レヴィの警戒度合いからカタギではないことは間違いなかった。
女は結局その日、一言もしゃべらなかった。途中で声を掛けてはみたものの、結局女は俺を見つめるばかりで、レヴィは獲物を睨む狼のように冷たい眼差しで周囲を見遣るばかりで…ただただ、沈黙がこの場を支配した。
やけくそになり、出された食事を堂々と貪ってからは気まずさと女の視線の圧力が増したが、食べると言う目先の目的が出来た分、幾分か気が紛れてマシになった。それからはデザートにバニラのアイスクリームまで食べて、食後のコーヒーまで飲んでから店主に勘定を頼んだ。
満腹になり心に余裕が出て来ると、不思議と空腹のときには気付かなかったことにも気づけるようになった。目の前の女の顔を、相手がジッとして動かないのをいいことに、まじまじと観察してみた。すると、一見無表情でいるように見えて、唇を噛むような仕草をしていることに気が付いた。
何か悲しいことがあったのか、或いは俺の顔が面白すぎて笑いをこらえているのかの二択だったが、恐らく前者であろうと俺は考えた。
思うに、悲しみをこらえることができる人間は、少なくとも情緒と言うものを理解している人間だ。そう言った人間は精神構造が単純ではないと言うことの証左であり、精神構造が単純ではないということは、つまり忍耐があり理性があると言うことだ。そして、得てして忍耐強く理性的な人間は、高度な教育に裏打ちされた教養ある人間か、はたまた生まれながらの詩人と革命家くらいのものである。加えて、感情を表に投げ出してしまう点から考えても、目の前の女性は少なくとも生まれながらの悪人でも、人格破綻者でもないであろう。そして、耐えなければならない感情を表に出してしまうという行為は、葛藤から逃れたいと言う人間の当然の弱さの発露であると同時に、その人が何か解決困難な課題にぶち当たり、その解決方法を…俗にいえば救いを外部に求めているからではなかろうか。
ありていに言えば、困っているから助けて欲しいと顔に描いているようなものだ。
…とまぁ、そんな後付けの論理を立てたことはさておき。この時の俺にとって、女はなにか困っているように見えた。そして、その困りごとに関わらなければ気が済まなくなった。
女の顔が好みだったのかもしれない。抱きたいと思ったのかもしれない。善意だったのかもしれない。はたまた、運命だったのかもしれない。
この足元の不確かな状況下で長らく高いストレスを受け続けた結果、破滅願望が再び頭をもたげたのだ。
首を突っ込めば必ず不始末に追われる羽目になると理解していながらも、目の前にいる謎の女を酷く魅力的だと感じている自分がいた。危険な女なのは間違いなかった。レヴィにも迷惑をかけるに違いない。下手すれば死ぬかもしれない。面倒ごとは嫌いだが、俺はあまりにもこの手の衝動に対して脆かった。熱しやすく冷めやすい。度が過ぎるほどに。
漠然と、何かしてやりたくなった。跪かせてやりたくなったのだ。救うだなんて大それたことはできないから、代わりに有難くて拝みたくなるような目に遭わせてやろうと思ったのだ。
それは天啓だったかもしれないし、そうではなかったかもしれない。衝動に理由はない。恋や愛と一緒。理不尽で容赦がない。朽ちるのも一瞬。栄えるのも一瞬だ。
ともかく俺は自分でも驚くほど穏やかな声で女に声を掛けていた。
「明日も同じ時間に来るよ」
そう言って女の肩に手を置いてから店を出た。隣を歩くレヴィの方をちらりと見ると、レヴィも俺を見ていた。何か言うのかとも思ったが、彼女は黙って前を見た。不機嫌そうには見えないのが、どうにも不思議だった。
その日からしばらくは、昼時になると例のレストランで食事を摂った。俺は昼間はしっかりと食べたいのでステーキだとか、比較的重いものを頼んでいたが、レヴィは何も食べずに俺を見守っていた。切り分けてフォークの先に刺した肉を差し出せば食べたが、その間も視線は例の女から離さなかった。
女は飲みもしないコーヒーを頼みそれっきりだったが、三日もたつ頃にはようやくカップに口を付けた。店主が鼻を鳴らした。
女は何もせず何も言わなかったが、一週間後の昼時にモスグリーンの戦闘服と戦闘帽を身にまとって現れるなりこう言った。
「何も問わずに、どうか一緒に来ていただけませんか」
ようやく口を開いたかと思えば、第一声がこれである。
とはいえ、俺の腹は決まっていた。だから、レヴィの方を見た。
「契約を破るかよ。ついて行くに決まってんだろ」
歯を剥いて不機嫌そうにそう言われたので、ついつい声を出して笑ってしまった。
俺の人生こんなんばっかだよ。河の流れに落ちた葉は流されるばかり、だ。
俺はレヴィと共に女の後を追った。停めてあったトラックに詰め込まれ、俺たちは目隠しをされた。レヴィの手を咄嗟に握ったが、杞憂だった。車のエンジンが唸り、尻が痛くなるのを我慢しつつ進んだ。砂埃が唾液に絡んだ。そして辿り着いた先で、目隠しを付けられたまま船に乗せられ、目が覚めた時には別の何処かについていた。
「無事みたいだな。安心したか?」
レヴィはすでに起きていた。
安心…どうだろうな。俺は、一生誰かに捨てられることを恐れながら生きていくんだと思った。
それこそ、レヴィにもね。
そんな思いを込めてじっと見つめれば、彼女は視線を逸らすことなく強く見つめ返してきた。結局、俺の方が根負けして視線を切った。レヴィの俺を見る目は穏やかだった。
特に拘束もされずに、例の女に案内された先でよくわからんが偉いらしい人に挨拶させられ、そのまま宿舎に通された。宿舎と言ってもホテルを改装しただけのものだが、ベッドもあればトイレもあるし、シャワーも冷蔵庫もあった。文句はなかったが、そろそろ説明が欲しかった。女が何を俺に求めているのか、俺には見当もつかないからだ。たとえその要求が何であれ、可能性のあるほとんどが金で贖える何かだとしても。
レヴィと俺と名前も知らない女との同棲生活が始まってしまったまま暫く時が過ぎ、一か月が経つ頃にようやく女が俺たちの前に姿を現した。
俺は生来危機感が薄いもんで生活できれば気にしないが、レヴィはよくもまぁ俺なんかの面倒をみてくれるもんである。完全にアウェーだが、それでも俺の安全のことだけを考えてくれてるのがひしひしと伝わってきた。健気で、俺は勝手に温かい気持ちになって、勝手にレヴィに構って、勝手にレヴィに優しくした。でも、レヴィは嬉しそうにしてくれた。俺も嬉しかった。
そんなこんなで、不思議と苦痛ではない一月を過ごし、唐突に現れた女はここに来て初めて洗いざらいすべてを話した。
「申し遅れました、私はロザリタ…ロザリタ・チスネロス。革命に身を捧げる一兵士です。そしてここはコロンビア。貴方には私の…革命の理解者になって頂きたいのです」
ロザリタははにかみ、自分で発した自分自身の言葉に驚いていた。
恭しくも粗暴な。敬虔な暴徒。そんな表現がぴったりな女だと思った。そして、彼女の言葉の多くを聞かずにその場で応じた。
無論俺に革命云々など理解できない。ただ、俺は全くもってそう言ったものに対して隔意が無いことだけは確かである。それに、革命が起きるくらいだから皆喉から手が出るほどにアメリカドルが欲しいことだろう。
ならば呉れてやる。それくらいの気持ちであり、それは驚くほど素直に言葉となって表れた。
「君にとって都合が悪いことはなんだ?君にとって都合が良いことはなんだ?君が好きなことはなんだ?」
俺にとって、この三つを理解することこそが、ロザリタの革命を理解するための近道だった。そして事実、彼女はこの三つを一つ一つ、訥々と打ち明けた。彼女の願いを一つ一つ聞き、メモを取った。
彼女の思想は、綺麗だった。淀みなく、純粋だった。論理的であり、理性的であった。
言うまでもなく、ロザリタには高い教養の素地があり、育ちが良かった。義憤に駆られて行動するだけの行動力があり、人殺しに物怖じしない度胸があった。革命と言う大義に殉じる覚悟があり、ゲリラとして如何なる悪環境下でも戦い抜く忍耐があった。熱意だけでなく知能も高く、人間的にも清廉であり、尚且つ戦いの才能にも恵まれていた。
美しく。強く。賢い。狼のような女だ。
きっとジャンヌダルクもこんな女だったに違いない。
俺は思った。こいつを飼おう。買って、飼おうと。
理由を知ることなど彼女の心の中を覗けでもしない限り不可能だが、何故か彼女は俺に聖人君子のような誠実で清廉で無欲で公正で、人情味あふれる解答を見出しているようだった。俺の何が彼女を惹きつけているのかはわからない。だが、これはとても都合がよかった。
品性下劣の極みだが、それでも俺はこの立場に甘んじてロザリタが欲しくなった。もっと言えば、彼女が上手い事使われるだけ使われて始末されることを考えただけで、我がことのように腸が煮えくり返った。俺の理性も、意識も関係なしに、俺の心が叫んでいる。コレは俺のだ!俺のものだ!と。
だが、かと言って俺に出来ることは少ない。レヴィとの契約も俺の心身の安全を確保することであり、業務内容外の行動を強いることなど俺にはできない。
結局、俺が使えるものは手の内にある金だけなのだ。この金で、ロザリタには好きに暴れて貰うことにする。この金で、ロザリタには望むがまま、好き放題にさせることにする。そこには確かに、革命の答えがあるはずだから。正答も誤答も、答えには変わりがない。答えを導き出したという事実こそが、人が前に進むうえで重要なファクターになるはずだ。現実を見つめるかは別として。
その日から俺はFARCの非公式支援者…具体的にはロザリタ個人のパトロネス…として、その活動を支援し始めた。
とはいってもだ、俺には戦争のことなど分からないし、ましてや自分がコロンビアのどこにいるのかも分からない身なのだ。かと言ってウロチョロして役に立つのかも疑わしいので、全てはロザリタの望むままにさせた。
「学校を建てたい?どうぞ好きなだけ建てるといい」
「病院を建てたい?どうぞ好きなだけ建てるといい」
「ラジオ局が欲しい?どうせならバンドも呼んで生演奏させるといい。ライブなら誰も死なない。撃たれるのも心だけだ」
「教会を建てたい?豪華なのも宗派で分けるのも無しならいい。純粋に祈る為の場所を提供しよう」
「物資が足りない?貿易会社を作って輸入させるといい。作るのが面倒なら買収してもいい」
「道路を通したい?私道で好いなら通せばいい。後で面倒にならないように舗装もすると尚いい」
「水道が止まった?新しく造り変えればいい。通せるだけ通せばいい」
「孤児院の運営資金が足りない?好きなだけ使えばいい。給食センターを建てて三食食べさせて、水道を最優先で通すこと」
「失業者が多すぎる?雇えるだけ雇って相場の三倍給料を払うといい。有給を作って家族サービスの為にも消化させること」
「電波が悪い?電話基地でも何でも建てていいよ。衛星も打ち上げたきゃ打ち上げてどうぞ」
「銀行が倒産した?私立銀行で好いなら…。アメリカでもどこでもいいから投資家とか金融工学の専門家を引っ張ってきて金転がしをさせるといい。アメリカがだめなら中華でも第三世界でもどこでもいいから金ばら撒いて引っ張ってくること」
「俺の銅像を建てたい?…カストロを見習ってどうぞ」
化粧とかジュエリーとか…そういうものにアホみたいに金を浪費する頭の悪い女が大嫌いな俺からしてみれば、ロザリタの金遣いは理想的なものだと言えた。銅像は余計だが。まず何よりも重要なことは、自分の主張を表明するための場があり、そしてそれを広く人に知らしめるための手段が増えたことが重要だ。敵を殺す以外に、革命の為の戦い方が多様化したことはロザリタにとって願ってもいなかったことだったらしく、日に日に彼女は活力を得て血色がよくなっていった。
三か月目に突入する頃には、三食三人で食べるようになり、雑談にレヴィが混じることも少なくなかった。ロザリタは戦闘服を着る頻度が減り、代わりに初めて会った日のようなワンピースを着る回数が増え、出来るだけ市民に威圧感を与えないことを心掛けるようになっていた。俺は好ましく思った。革命などと言う、世界レベルのクソ陽キャ共のバカ騒ぎに付き合いきれるほど、俺は心が広くない。成功するにしろ失敗するにしろ、一刻も早い革命の終結を俺は望んでいた。
ロザリタと出会い奇妙な同棲生活が始まってから二度目の春を迎えた頃に、俺たちのコロンビアでの生活は唐突に幕を下ろした。
俺が殺されかけたのである。FARCに。
詳しく説明すれば長くなるが、先ず俺が金を支払っていた事業の大半がロザリタの尽力により大きく成功を収めた。次に、民衆の支持によりロザリタと…金を出していた俺が支持されるようになる。革命戦士よりも待遇の好い仕事があるから志願兵が減り、政府軍に圧され始める。そうなると民衆の支持とは裏腹にFARCの尻の座りが悪くなる。かといって理由もなく俺を始末するなんて出来ない。ロザリタの排除はもってのほか。悩んでいたら投資の成功で金が入ってきて俺の資産が爆増。ロザリタの好きにさせる。事業が成功する。フローレンシアが嫌に平和になる。外国企業がハゲタカのように参入してくる。何故か俺とロザリタを通して事業を起こす。FARCの尻の座りがますます悪くなる…の悪循環に陥ったのである。
ロザリタを挟めば他じゃ金を出してくれない地味な案件にも文句ひとつ、注文一つ付けずに金を出してくれる俺の存在の所為で、FARCの幹部にとっては非常に都合の悪い事態が続くことになった。
ロザリタのお膝元であるフローレンシアの生活水準は向上し、治安は安定し、民衆は豊かになった。ロザリタはFARCとして活動していたが、自ら前面に立ち草の根活動を厭わないロザリタを知らない民衆はいない。生粋の革命家としてロザリタに迷いはない。弛まぬ姿は敵味方を問わず驚嘆と畏敬を喚起する。信奉者が生まれれば最早彼らの口に戸は建てられず、噂話は千里を走る。気が付けば政府が反政府組織の個人でしかないロザリタに交渉を持ちかけたくてウズウズし出した。報道は加速し、過熱していった。メディアの煽りを受けて、自由主義諸国も共産主義諸国でもあっという間に熱狂が巻き起こった。気が付けばロザリタはユートピアを求めるリベラルのアイドルになっていた。本人が物理的に最強で無敵の戦闘マシーンであることはこの際加味しない。
その活動はアメリカでも評価されるほどになったが、因果応報の言葉通り、ロザリタ熱はある一件を境に急速に冷めて行った。
彼女の足を引っ張った、その身から出た錆は、他ならぬ彼女の誇りであったはずの何かであった。
彼女が革命の狂信者であり、その正義の為に組織から下された任務を、その内容が如何なるものであれ完璧に遂行してきた…という革命戦士として最高の賛辞・美徳とされた文言によって、彼女の革命は幕を下ろす羽目になった。
発信元は彼女の所属しているFARCであり、上層部はロザリタが革命戦士として活動を賛美され、また敵に恐れられる所以を滔々と語った映像を公開し、かつ徹底的に彼女の戦績を誇示し称賛し顕彰した。
如何に徹底的に敵を殲滅したのか。如何に効率的にゲリラ戦を展開したのか。如何にうんぬんかんぬん…。
革命戦士として従順で有能であることは、裏を返せば敵を殺し苦しめることに長け、その為には如何なる手段も厭わない冷酷で血も涙もない人間であると丁寧に説明してやる様なものである。
何より、表現として不味かったのはFARC幹部がナチスがホロコーストで見せたような、機械的で悪魔のような冷血な人間であるようにロザリタを表現したことである。無論、賛美としてその人間性の希薄さを称賛したのである。暗殺も拷問も何でもこなしてきたことが仇となった。そこに嘘はないのだから。
このことは諸刃の剣となった。ナチスに関連すると極めて敏感なユダヤ系の団体からの猛抗議がFARCを襲った。不利益は余りある結果となった。だが、同時にロザリタとナチスという単語が並んだのである。人々の記憶に一度峻烈に記憶されたこの印象を払拭することは容易ではない。ましてや、ロザリタの経歴に関してFARCは嘘を何一つとしてついていないのだから。邦人を誘拐され、身代金を奪われ、或いは人質を殺害された国は口裏を合わせたかのように一斉にロザリタの話題をシャットアウトした。
ロザリタは国際社会での評判と名誉を失い、インフルエンサーとして失脚した。だが、問題はここからである。結果論的にロザリタは民衆を豊かにしたが、過程において共産主義と言う理想の実現の為に、資本主義の力を使ってしまった。彼女は使える手はすべて使ったに過ぎず、またFARCからの認可も受けていた。外国人投資家による資金供与、という形ではあるが。
果たして事業は成功し、革命で達成したかった目標には現実的な範囲内で概ね達成できそうであった。民衆は笑顔になり、生活は豊かになり、ロザリタは町を歩けば感謝を伝えられる。喜ばしいことだった。だが、結局のところ目標の為に手段を択ばなかったという点では、彼女も、FARCも変わりなかったというだけなのだ。
FARCは革命実現の為。ロザリタは革命によって齎されるものの為。正義の為にFARCは麻薬組織とも喜んで手を組むし、ロザリタは資本家(俺)の手を取った。それだけのこと。どいつもこいつもバカばっかりだよ。
まぁ…そんな、それだけのことに20億ドルも溝に捨てた俺もバカの一人である。気が付けばアメリカから持ち出した全財産の500億ドルはロザリタの好きに使わせた結果480億ドルに減っていた。事業自体は成功してるから、その内リターンもあるだろうが…そのころにはコロンビアにはいないだろう。
ロザリタは日に日に非協力的になるFARC上層部への苛立ちを募らせたが、先述の大暴露でユダヤ系資本の撤退が呼び水となり海外企業の撤退が相次いだこと、更にはFARCが麻薬組織と手を結び密売と栽培に一役買っていることのダブルパンチで膝をついた。心がバキバキに折られたロザリタを可哀そうだと思う一方で、俺はFARCどころかコロンビアにも革命にも興味が無かったため、特に何のリアクションも取らなかった。その日の晩御飯の席でのロザリタが辛気臭すぎてレヴィと二人で気まずい空気になっただけだ。
だが、何の因果なのかロザリタが『猟犬』として復帰したと見るや、FARCとコロンビアマフィアとキューバのジモティーから刺客がダース単位で送られてきた。何故か俺の方に。
恐らく、俺がフローレンシアにというかロザリタにつぎ込んだ資金を、引き揚げるとでも思ったんじゃないか?…と言うかそれしか思いつかなかった。
俺からしたらはた迷惑だったが、向こうからすれば俺は二十億ドルの男である。全力で殺しにかかる気持ちも理解できる。だから俺は特に何も感情が湧かなかった。代わりにレヴィとロザリタが怒ってくれた。
レヴィは口汚くウィットに満ちた調子で。ロザリタは酷烈かつ丁寧に。それはもう罵詈雑言を投げかけ、赫怒と死をまき散らした。俺は横でTUMIの鞄を抱えて見てただけだ。怯える必要もなかったし、悲しむ必要も、怒る必要もなかった。俺は淡々としていた。淡々と。
M2ブローニングを銃身が焼け落ちるまで腰だめで乱射したり、対空機関砲で敵の車列を掃射したり、ロケットランチャーを戦車に撃ち込んだり。とにかく怒り狂ったロザリタの本気は常軌を逸していた。派手で、容赦がなく、恐れ知らずだった。凡そ人間の限界を超えた戦いっぷりに、俺はシモ・ヘイへやハンス・ウルリッヒ・ルーデル、船坂弘と相対した時の敵の心中をお察しした。
レヴィはと言うと、どこまでも堅実に、かつ俺から離れすぎないことを第一にしていた。それでも視界に入れば片っ端から敵を撃ちぬいていた。恐ろしい精度であることは素人の俺にも理解できたし、狙撃手としては知らないが、選抜射手としてならば野戦でも通用するような水準なのではなかろうか。知らんけど。
二日前に朝起きるなりロザリタがいて、何処から知ったか俺に刺客が差し向けられることを聞いて居ても立ってもいられなくなり馳せ参じたらしい。俺には戦争のこともアンダーグラウンドなこともさっぱりである。端的に必要なものを聞き、必要な分だけ金を持たせて武器とか、その他もろもろを買いに行かせた。相場の十倍まで対応できる額を持たせた。安心したのも束の間、戦車まで持ち出されて流石に無理かと、自決用の拳銃の存在を思い出して使い方のおさらいをしていたら、ロザリタとレヴィが獅子奮迅の活躍をし始めたのである。
ロザリタ無双は半日ほど続き、恐ろしいほど丁寧に掃討までこなしてからロザリタはFARC軍服を脱ぎ燃やした。
髪を肩口に雑にナイフで切り払い、伊達眼鏡にレディーススーツという…ともすればデキるキャリアウーマン然とした新生ロザリタが誕生した。デキるというより殺れるが正しいが…そんなこんなで俺たちはコロンビアの地を去った。
俺は20億ドルと引き換えにロザリタ・チスネロスを得た。うん、実に安い買い物だった。
暑い場所に行ったから、今度は寒い場所に行きたくなった。次の行き先を決めかねていると、アフガンの情勢がきな臭いという情報を耳にした。俺は自分の直感を信じてロシアに向かった。そして、そこで四度目の特異点を体験するのである。