深夜。一つだった影が二つに分かれた。
絡ませていた足を解き、寝返りを打ってカラダの上で眠る彼を起こさないようにベッドに下ろした。上下が逆になり、胸の肌色で、仰向けに眠る彼の顔を圧し潰すような体勢になった。音もたてずに身を起こすと、名残惜しげな手が虚空を掴んだ。咄嗟に手が出て握ってしまうも、直ぐに指を抜き取ると、力なく垂れる。窓から入り込む月明かりだけを頼りに、目を凝らせば、彼の体は酷い有様だった。涙濡れの顔は何時ものこと、全身に鬱血痕が赤い蕾のように点々として、首筋にも肩にも血が滲む歯形がくっきりと刻まれていた。オマケに足の先から耳の裏まで、誰かさんの舌が這いずり回った所為でよだれでべとべとだった。どんなにワンパクな犬でも、飼い主にここまではしないだろう。きっと、堪え性の無い狂犬が、彼に酷いことをしてしまったのだ。飼い主を愛するばかりに、加減も知らない腕力に物を言わせて乱暴を働いてしまったのだ。
押し倒して、力尽くで身動き取れなくして、身包みを剥いで、舐り上げて、しゃぶり尽くして、噛みついて、食らいついて。我に返って傷を舐り、また噛んだ。垢を落すように、飼い主を隈なく舌で味わい尽くしたのだ。自分が満足するまで。許してもらえることを確信できるまで。そうしてから、漲ったものを咥え込んだに違いない。何時も何時も、この幸せな記憶は完全なものでいてはくれない。朧げな、夢幻のようで。悪夢を殺す特効薬で。私を惹きつけて、魅了して離さない麻薬なのだ。浅ましく自分勝手に腰を振って、我に返って汗みずくのまま飛びのいて、ベッドを転げ落ちた。ワンワン泣きながら、或いは息を殺して尻尾を振りながら。私は今度こそ、赦しを乞うた。いつも通り。そう、いつも通り。自分で八つ裂きにした毛布に、猛る我が身を包んでもらおうと媚びを売る。頭を低くして、腰を高く掲げて。彼の困惑などお構いなし。自分に都合よく解釈を重ねて、自分が望む形で赦して貰おうとする。最後まで自分にだけ都合の好いお遊びを、恥も外聞もなく主人に向かって哀願する。赦して貰えればこっちのものだと、言質を取ればすぐさま醜い本性を剥き出しにするのだ。なんて惨めで、甘美な事だろうか。
「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!赦して!赦してください!信じていたんです!正しいことだって、そう信じてたんです!自分の為だなんて、思いもしなかったんです!褒められることなんて、そんなの求めてなかったんです!ただ必死に、自分に出来ることを一生懸命やっただけなんです!」
「全て告白します!全てです!聞かれたことはなんでも答えます!全部全部!差し出します!曝け出します!だから、どうか!お慈悲を!赦してください!」
喚く内容は、何時もそのことばかりだ。そのことだけが、私の人生の汚点であり、同時にご主人様から躾けて貰うために必要不可欠なスパイスだった。快楽の為の隠し味。嗚呼、私はなんて酷い女なんだ。まるで人間をやめてしまっている。だが、これがね、堪らなく気持ち好いの。体を投げ出して、跪き、涙も流して懇願するの。自分よりも遥かに弱くて、ハエも殺せない人畜無害なご主人様に、彼からの赦しだけを乞うの。私は強い。人間として、きっと誰よりも強い。以前は肉体が。今では心までも。私はとうの昔に、彼と初めて肌を重ねた時に、人殺しに対する忌避も罪悪感も何もかも、私とご主人様が生きる上で不要だと判断したものは過去に捨ててきたの。すっかり忘れてしまって、そのカタルシスといえばなかった。心の底から、全部と引き換えに自由になれたの。ご主人様は放し飼いをご希望だから。好きに動いて、時たま投げて頂ける骨を、他の飼い犬仲間と浅ましく、出来るだけ下品に取り合って見せるの。総取りすると恨まれるし、マンネリしちゃってご褒美を愉しめない。忘れた頃に、耐えられなくなる寸前で与えられる刺激が、劇薬のように脳を焦がしてくれるの。
私が懇願して、ベッドから一段低い床に頭を擦りつけてお願いすると、彼は決まって赦してくれる。あぁッ!こうすれば、こんなことで赦して貰えるんだぁ!って、私は理解するの。犬の躾ってそういうものでしょう?だから、ご主人様が赦してくれれば、他のことはどうだっていいの。散々甚振って、傷つけて、辱めて、犯して、それを何度も何度も、私の番が来るたびに繰り返す。拒絶されないことをいいことに。そうやって、滅茶苦茶にしても、腕に青い痣が残るまで握りしめても、首に手を掛けて意識を失う寸前まで絞めても、血が出るまで全身に噛み痕を刻んでも。貴方が叱ってくれないから。貴方が感情に任せて怒ってくれないから。貴方が赦してしまうから。私の狂犬を、貴方が気に入って、愛してしまったから。愛してくれるから。その全てを、赦してしまうから。だから、私は私のまま。
ご主人様にオイタをした悪い子には、キツイお仕置きをしなきゃいけない。罰は即ち、赦しなのだから。罪を浄める禊なのだから。あぁ、なんて浅ましいんだ。こうやって、何度でも繰り返す。また貴方を傷つけて、その度に赦されて、
「あ、ぁ…くびを、首を、絞めて、くださ、い…お願い、おね、がい、します…首、を、貴方に、した、みたいに、私、にも、おなじ、痛みを、あなた、と、おなじ、いた、みを、くださ、い…知り、たいの、おねがい、しま、す…」
人間は激しいセックスのことを犬のようだとか、猿のようだとか、動物の交尾だとか表現するけれど、彼らには発情期があってそれ以外の時はお行儀がいい。それに比べて人間は、発情期と言う周期的なものが無い代わりに、年がら年中発情期だ。ウサギなんかよりよっぽど性欲の強い動物だ。もしも浅ましく激しい行為を形容するならば、今後は人間のように、と表現するのが適切だろう。
だが私は常々、敢えて
嗚呼、甘美だ。何と甘美な。
か細い喘鳴をかみ殺して、細く白い両手を私の首に回して、入らない力で首を絞めながら、必死に腰を打ちつける彼の存在のなんと矮小な事か。私は強い。彼のことなど歯牙にもかけまい。片手で、指一本で、その命すらも奪ってしまえる確信がある。だが、それが出来ない。それだけが、私には到底不可能なことだ。我を忘れる術など、彼自身が私から奪い去ってしまった。嗚呼、酷い。なんて残酷なんだ。理不尽なんだろう。私の道理など関係なく、私の首に、見えない首輪を嵌めてしまった。逃がさないように。けれど、貴方の手にも、聖痕のように、逃れられぬ運命のように、その手には見えないリードが縛り付けられているのよ。私が逃がさないために。貴方が私から離れて行ってしまわないように。貴方が勝手に死んでしまわないように。ちっぽけで弱い貴方が、私の力で圧し潰されてしまわないように。どんなに狂暴な犬だって、上限関係には従順なの。だから、貴方がご主人様なの。私が壊せない唯一のものとして、貴方が上で、私が下。決して翻らない私の為の、貴方と共に生きるための絶対の理よ。
「噛んで!噛んでよ!首にも、うなじにも、胸にも、お腹にも、太ももにも、背中にも、痕を刻んでッ、自分のだって、教えてよ、私に、教え込んでよッ!」
「嗚呼、幸せぇ…いいの、あなたのままで、いいの、もっと、ちから、づよぐ、しでッ…も、もっど!アハ…ハ…フフ…イイわ、イイの、ぞのままで」
「髪、髪を、引っ張って、乱暴に、して、強く、引い、ひっぱって!抜けても、いい、から!だから、あぁ"ッ!好いッ、それが、いいのッ…!!」
「あたま、あたま、撫でて、お願い、撫でてよッ!やめないでッ!あ、ぁ…うん、優しく、撫でて、ずっと、続けて、それだけは、優しく、して…」
顎の力も、手足の力も、膂力に至っては比べるまでもない。弱い。徹底的に弱い。だから、最後まで、本当に傷だらけになるのはご主人様だけだ。私の体に残った傷は、数日もすれば跡形もなくなってしまう。古傷だけが、過去の過ちの末に刻まれた傷だけが残ったまま。
そのことが、憎らしく、悲しく、虚しく、狂おしいほどにいじらしい。愛しいと思う。そうとしか、思えない。いつか消える傷痕のことを、これほどに惜しむ日が来ようとは。いつか消えてしまうから、私は常に満足せずにいられる。満たされないままで、ご主人様からの御情けを貰い続けられる。最高に幸せになれる。色褪せることのない幸福を噛み締められる。依存性の高い麻薬だと知りつつも、私は止められない。自分を止めることなどできない。そう在れかしと、貴方が私に許してしまったから。言葉通りに暴れた狂犬を、底なし沼の愛情に引きずり込んでしまったから。貴方に赦された所為で、最後の理性も死んでしまった。
だから、責任を取ってくださいね。貴方の責任は私がお取りします。最期の最期の一吐息までお供します。お傍に居ります。邪魔なものは全部
朝日がゆっくりと地平線から昇って来る。今日はロザリタにとっていつもと変わらぬ平日だ。慣れない家事をこなしつつ、過行く日々だ。
火薬の量を計る手際で洗剤の量を量り、時限爆弾の時間を設定する要領で洗濯機を回す。ナイフを磨くのと同様に、投げつければ額を割れる程度に皿を磨き、血の汚れを落すように洗い物をする。人体を切り刻む様に食材を寸断し、拷問に掛けるように火加減を調整しつつ切った食材を焼く。人間がギリギリ耐えられる温度を測るように、ポットで湯を沸かす。体術の動きを脳裏に描きつつ、最大効率で最小限の動作でコーヒー豆を挽く。地雷探知機を使う要領で、家中を隈なく掃除する。爆弾や盗撮や盗聴に備えた掃除も欠かさない。寧ろこっちの方が慣れている。レイジの家は三人が暮らし、三人分の客間を備える平屋だ。広くもないが狭くもない。秒単位で仕事を機械的に熟しつつ、いつも通りの朝を迎えた。
仕事を始める前、ロザリタは狂犬の皮の上から、大人しくお上品なメイドの皮を被る。丁度、彼を独り部屋に残してきた時だ。まだ暗い内に、寝室から抜け出して、向かった先は浴室だった。トイレと洗面所とは別々に、分けられている。彼女はシャワーとバスタブのある浴室に入ると、熱めに調整されたシャワーの栓をひねった。猛然と、滝に打たれる様な強さで、お湯がロザリタのしなやかな肉体を打擲した。
張りのある、きめ細やかな肌に、腰まで伸ばした結われていない長い髪。髪の色は烏の濡れ羽色という表現がよく似合う。艶があり、漆黒の中で紫や青が慎ましやかに調和している、唸る様な黒髪であった。手足は長く、全身に言えることだったが、無駄と言うものが一切なかった。その無駄には、筋肉の過剰による体型の不均衡をも、また過剰な低脂肪による女性的なシルエットの崩壊をも含んでおり、人体として、完璧に過ぎる調和を漲らせていた。元軍人として、背筋は伸び、姿勢は凛々しく、立ち居住まいは淑やかである。足運びは音を忘れるが如くであり、ランウェイを歩かせた所で不足はない。顔貌は眉目秀麗であり、その鋭く硬質な眼差しは、しばしば狼や戦士に例えられることも納得である。
だが、鋭い眼光とは裏腹に、その肉体には包容力が宿る。胸は大きすぎず、かと言って片手では収まらない満足感があり、またハリ、ツヤのみに怠らず、形と質感にも精緻で堂々たる上向きの絶妙が宿っており、見るものを老若男女問わず圧倒せしめる。臀部はふくよかでありながら、腹部に納められた頑強な筋肉に引き締められて品を失することが無い。健康的な肉感と言う言葉でまとめることは容易だが、その一言で済ませるには勿体ないと感じてしまうことも道理であった。
彼女の怜悧な瞳が細められ、口元や、目元や、そしてその全身に婀娜が宿る時、彼女の肉体は暴力的な色気と、どこか現実離れしていて『魔』めいた恐れを同時に与える。それが死神の鎌になるか、或いは性愛故の計算し尽くされた暴走と捉えるかは、試しに一度抱いてみるか、抱かれてみないと理解できなかった。現に、真実を知る者は彼女自身と、彼女の主人を置いて他にいない。
シャワーに打たれつつ、全身に沁みわたる甘い痛みを感じるたびに、ロザリタは自分に与えられた幸福を噛み締める。何度も何度も。噛んでも噛んでも甘露が溢れて来る。全身に刻まれた、被所有の証、独占欲の象徴が、彼女を事後にのみ味わえる恍惚へと誘う。アドレナリンが落ち着き、彼が寝静まった後からが、ロザリタにとっては祈りの時間に等しかった。祈る相手は、寝室で眠りについている。全身を爛れさせて、適切に処置しなければ熱を出すかもしれない傷跡を刻まれた状態で。それでも穏やかな寝顔を見守るたびに、ロザリタは敬虔な心地になる。祈りたくて仕方が無くなる。祈る事しか出来なくなる。エダあたりは、理解できることかもしれない。感謝と畏敬と慕情と、頭の中だけではなくて、心の中、形の見えない大切な部分をぐちゃぐちゃ掻き混ぜられて、犯し尽くされる。肌を重ねるたびに。彼の寝顔を見るたびに。何度も。何度でも。狂ったように脳みそが茹だり、口の中が干乾びる。生唾を呑み込むにも、唾液すら出なくなり、彼が寝ていることをいいことに、手始めにその指を咥え、堪え切れなくなると次にその口を舌でこじ開けて、無理矢理にその口内を荒らして回る他ない。呼吸を忘れてそうしていると、段々と心が落ち着いてきて、カラダが火照りだす。
そんなカラダを冷やすために、熱いシャワーを浴びる。冷たいシャワーでは、凍えて乾くだけだ。一滴だって無駄には出来ない。無駄にしたくない。燃え上がるような湯気が立ち昇ると、頭皮から足の裏まで、その全てから熱が零れ落ちないように、熱で閉じ込めるように湯を浴びる。頭を限界までボーっとさせて、彼への敬虔な気持ちだけで思考を埋め尽くさなくてはならない。そうして初めて、冷静になれる。理性が戻ってくると、罪悪感と歓喜が沸き起こり、ぐつぐつ煮立った感情が、カラダの興奮と心の険を絆すように、熱で優しく歪められていく。ここに居ても好いんだ。ここが私の居場所なのだと。理解するしかなくなっていく。現実は、彼に逢ってから甘美になった。残酷も、理不尽も、その全てを塗りつぶされて今がある。どこまでも都合が好くて、私にばかリ都合が好い気がして、途端に恐怖を感じながらも、どこかで楽観的になってしまう。焦りが冷や水になり、頭が冷えて来ると、息が整えられるようになり、鏡に映る自分を見つめた。
人間は生まれてからしばらくの間だけ、完全な生き物でいられる。世界と言うものが絶対的なものだと認識していられる。その世界の終わりを告げるのが、鏡に映った自分自身を見た時だ。鏡が、自分を映していることを、人間は何故か理解できる。理解してしまい、そこで世界は変容を強いられる。完全で絶対的な世界は終わりを告げ、引き換えに相対的な世界に閉じ込められる。自由に身動きが取れるようになると、途端にその世界は広がるが、同時に絶対的な世界の残滓すら殺してしまう。決して後戻りのできない地獄に堕ちてしまえば、鏡の中の自分に怯えながら、常に鏡の中の自分と、鏡の中の自分の姿を見る前の完全だった頃の自分とを、比べながら、囚われながら生きていくほかない。そうでなければ、それが耐えられないのであれば、自分が望む世界を映し出してくれる、魔法の鏡を手に入れるしかない。その狭い世界。一人に一人分の余地しか与えられていない特別な鏡を、手に入れる他に救われる手立てはない。
だから、彼は鏡。彼と言う存在が、自分が望むものを映し出してくれる。自分が好きな自分だけを映してくれる。浅ましく醜悪な自分を映し出してくれる。汚いままで、誰かに愛してもらえるだけの価値を認められた自分を映してくれる。穢れた罪深い自分を、それでも愛してくれる誰かの存在を映し出してくれる。その人との、甘い時間を、穏やかな生活を、刺激的な情事を映し出してくれる。この身に刻まれた痛みが、この身に刻まれた快楽が、この身に刻まれた恍惚が、この身に刻まれた切なさが、その全てが私の現実を証明してくれる。彼の存在が夢幻ではないことを証明してくれる。
美しすぎる悪夢ではない。都合の良すぎる意地悪な幻覚でもない。これは現実なのだ。私のことを美しいと思う彼は実在する。私の狂気をこよなく愛してくれる彼は実在する。彼に愛される汚くて惨めで醜悪な私もまた実在する。罪深く残酷な私のことを決して自ら手放すことが出来ない、可愛い可愛い飼い主が、確かに実在している。そんなご主人様を骨の髄までしゃぶり尽くした私も実在して。そんな悪い私にカラダを許して、その罪を赦してくれた彼も実在する。赦された私が実在する。嘘じゃない。まやかしじゃない。確かにそこにあるんだ。今も、寝室で穏やかな寝息を立てておられる。御可愛いそうに、全身を痛ましく爛れさせて。涙の痕を、拭いて差し上げなければ。こうしてはいられない。ご主人様を介抱して差し上げねば!傷つけた悪い子のロザリタが、直ちに参ります!
気付いた時には、わたしはわたくしになっておりました。ええ、何時ものことでございます。気が付けば伊達眼鏡のレンズ越しにご主人様がお目覚めになるのをじぃ~~~っと、お待ち申し上げているのです。シャワーから出た瞬間から記憶が曖昧なのです。えぇ、いつも通りにございます。次に意識を取り戻した時には、頭にホワイトブリムを被り、ヴィクトリアンメイドを身に纏い、愛するご主人様のお体を浄めて差し上げている真っ最中でした。全身の汚れを細心の注意を払いながら力を制御して落し、湯浴みの際に少しでも痛みが和らぐように傷口を消毒した上で、酷い所はガーゼで保護するようにしております。嗚呼…今回は一段と酷い、私に殴られてしまわれたのですね。頬が腫れておりました。
切実に死にたくなりますが、私の命はご主人様のものですので、狂犬の自分を恨みこそすれど自死などもってのほか。寧ろ、この駄メイドの優秀なカラダを使ってご奉仕するしかありません。そうです。お詫びのご奉仕でございます。狂犬には出来ない丁寧で甘々な時間を過ごしていただかなくては…。これはあくまでもお詫びです。なので卑しい下心などございません。あるワケが、ございません。狂暴な自分にばかリ微笑みかけられて、あんなに、壮絶なお顔をされて、必死に純粋で一途な想いをぶつけられて…羨ましくなど、無いとは口が裂けても言えませんが、それでも、です。それでも、これは敢えてのお詫びということにしておきましょう。えぇ、その方が丸く収まります。武装していて尚且つ家事が出来ない上に淫乱とか洒落にもなりません。はぁ…ああ、おいたわしやご主人様。
御召し物を私の手で整えさせていただきました。もうしばらくごゆるりとお休みなさいませ。その間に、私は家事をこなして参ります。直ぐに終わりますのでご安心を。残りの時間はご主人様の稚い寝顔を見守ることにして、レヴィの部屋以外はお掃除できますね。私の部屋と、ご主人様の私室、それから昨日は誰もお泊りにいらっしゃらなかったので客間が三つ。この程度ならば、他の家事も含めて二時間ほどで終わるでしょうか…もう少し丁寧にした方がよろしいのでしょうか。いえ、しかし、起きてしまわれるかもしれないし…。
面倒でございます。まとめて一時間で終わして、ご主人様が起床されるまでは添い寝することにいたします。ええ、そうしましょう。お腹をポンポンして差し上げます。起きたら、きっと褒めてくださいますもの。おはよう、ロザ、ありがとう…と。そうと決まれば張り切りましょう。家事も私事も両立できて、初めてご主人様の専属メイドを名乗れるのでございます。他所は他所、ウチはウチ。我が家では自分を大切にできなければ一人前とは言えませんものね。
ロザリタが朝の仕事に取り掛かる頃、ロアナプラから遥か遠く、彼女の故郷ベネズエラの港では、現地に根差すマニサレラ・カルテルの成員たちが、巨万の富を生み出すシノギの一つ、ヘロイン密輸の為に荷を運び込んでいた。
緊張感を抱えながら、一方でカルテルの武力に裏打ちされた安心感とも、傲慢とも感じる弛緩した惰性を抱きながら、カルテルの関係者たちは様々な物に偽装されたヘロインを船倉に積み上げていく。片や平穏な朝の日常風景が送られ、片や緊迫感と悪辣の共存する犯行現場が日常の一頁として送られていた。
ロザリタは知る由もない事だったが、この日偶然にも、ロアナプラのラグーン商会が運ぶ予定のとある積み荷が、ヘロインと一緒に日の出と共に出港した。その積み荷はなんと子供で、しかも南米十三家族に連なる貴族の子息だった。
名前をガルシアと言い、紆余曲折在ってカルテルに誘拐されてしまった気の毒な少年である。とはいえ、人身売買などそれこそ古くからある商売であるし、百年や二百年前までは場所によっては合法であった。まして巧妙化する手口に伴い、実態を掴むことが困難な現代の奴隷取引市場の規模を考えれば、ガルシア少年の身柄は砂漠の砂粒一つにも等しいものだった。加えて、今回の誘拐は何も金の為だけではなかった。寧ろ、怨恨に近い。
カルテルに言わせれば落とし前やけじめの為の誘拐と、見せしめの為の人身売買に違いなかった。レアアースが採掘される土地の利権をめぐり、ガルシア少年の生家ラブレス家の現当主ディエゴとマニサレラ・カルテルとの間に生まれた確執が、このような形で表出してしまった。労働力にもならない育ちのいい子供の行きつく先など、生きたまま変態に玩具にされて飼われるか、或いは臓器売買の為のストックと言ったところが妥当だった。
哀れではあるが、世に言葉のあるように、ガルシア少年一人にクローズアップした際、その犠牲は確かに悲劇と言えるかもしれないが、多方、世界中で出荷されるガルシア少年のような哀れな境遇の子供全体を俯瞰してみれば、国連や政府に提出される資料に記載される統計上の数字に過ぎないことも事実である。
我々にとって、ガルシア少年の背景を、名前を、顔を、多少なりとも知っているから哀れに想い、暫くは記憶に留めおくだけの配慮が出来るのであって、名も知らぬ数百万分の一には変わりが無い。その殆どの背景も、名も、顔も知らぬ犠牲者たちを、我々が顧みることはこれまでも、これからもあり得ないことである。それは平凡な現実であり、また罪ではない。人間が社会生活を営む上で必要なことである。覚える必要のないものは忘れるべきである。目の前の自分と同じ人間として認識できる存在へと、最大限の配慮が出来るように、そういう仕組みになっているわけだ。何も知らない顔の無い犠牲者の為に奔走することは、見方に依れば自己満足と吐き捨てられてしまう。その魂胆はともかくも、一人でも救うには、一人でも多くを自分と同じ人間として認識する必要があり、背景を知り、名前を知り、顔を知る事で、初めてそれが叶うと言える。その意味でも、労力は計り知れない。人間は、一人の人間を救うことすらままならない場合が殆どなのだ。それを罪と、怠慢と詰ることは、余りにも無恥である。
さて、そんなガルシア少年を積んだ船はどんぶらこっこと約一週間かけて海を渡り、南シナ海に面する犯罪都市ロアナプラでガルシア少年と、この地域で捌く分のヘロインを荷下ろしして、次なる目的地に向かって出港した。ガルシア少年の身柄はといえば、ヘロインと一緒に現地のマニサレラ・カルテルの元へと移送された。少年には、そこから更に売買の奴隷市場に卸す為に二度目の航海が待っていたが、その為の足に選ばれたのが、ロアナプラでは名の知れた運送屋『ラグーン商会』だったのである。適切なレートでなら、積み荷の中身は問わずにキッチリと運んでくれる、実績あるラグーン商会の存在は、ロアナプラの悪党たちにとって欠かすことのできない便利な足だった。
港近くの事務所前では、社長のダッチを始めに、ハッカーでマシン担当のベニー、凄腕の女ガンマンで切り込み隊長のレヴィ、交渉事やら雑務全般を引き受ける悪党見習のロックが勢揃いしていた。事前に依頼を受けていたため、また急ぎの用だと含められたので、直ぐに出発するために、エンジンをかけた車の中で今回の積み荷を待っていたのである。
待ち時間はどれだけ短くとも、実際の時間よりは長く感じるもので、カルテルの積み荷が来るまでの間、ラグーンのメンバーは暇を殺すべく駄弁っていた。口火を切ったのはいつも通りに一番短気なレヴィだった。
「へい、ロック!お前、いつまでそんなしみったれたホワイトカラーの恰好してやがんだ?もうちっと街に馴染めるようなマシな服ってもんがあるだろうに。TPOを弁えろって、日本じゃ耳タコだったって手前で言ってたじゃねえか」
四人分の煙がもくもく充満する車内で、クーラーをガンガンかけているにも関わらず汗が止まらない。イライラしだしたレヴィが、ロックのシャツにタイの服装をからかった。
「別に、関係ないだろ?好きで着てるんだよ。サラリーマンでもないのに服装指定なんかされてたまるか」
「よく言うようになったじゃねえかよ、ええ?」
「悪いかよ?」
「いざって時にブルっちまうよりうんとマシだね」
レヴィは面白そうに言った。素直に認められたロックとしては、粗暴な第一印象とのちぐはぐさが忘れられず、レヴィへの対応に未だに苦慮していた。
「それはさておきよぉ、聞いたかよロック?バラライカの姐御が言ってたんだが…首吊ったらしいぜ」
レヴィがいきなり話し出した物騒な内容に、ロックは面食らった。その手の話はここいらじゃ珍らしくもないが、やっぱりコイツも悪党じゃないかと落胆と納得を覚えてしまう。自分は安直なのかと不安に思うロックだったが、レヴィの話に食いついた。
「主語が無いとわかんないよ。どこの、誰が、首なんか吊ったのさ?」
「そのうち察せるようになるさ、ここで生き残るには何事も敏感でなくちゃあな…」
ロックの質問を遮るように、ダッチが口を挟んだが、レヴィはお構いなしだ。
「そりゃ、お前え、この前の奴だよ。カゲヤマっつったかな?そいつともう一人、フジワラってぇのも、そいつの方は飛び降りだったかな?まあ、そういうこった」
「え!?な、なんでさ!どうして二人が死ぬんだよ!」
ロックは思わずと言った口調で叫んだ。レヴィはロックの剣幕に驚いた表情を見せたが、直ぐに不敵な笑みを浮かべた。
「ソイツぁな、ロック、当たり前だよ。奴さん、しくじっちまったんだからなぁ」
「しくじったって…全部、俺に背負わせるって言ってたじゃないか!それで済むもんだと、てっきり…」
夏の怪談をするような調子で語るレヴィとの温度差に、ロックはショックを受けていた。とはいえ、恨みが無かったと言えば嘘になる。自分は生き残って、自分を貶めた人間が死んだのだから。もしかすれば、心のどこかで腹を抱えてざまぁみろと笑っている自分がいるのかもしれない。そんな自分を無視して、レヴィを責めるような口ぶりをしたのだろうか…ロックは冷静になると、後ろめたさが込み上がってきた。
「おいおい、頼むぜロック。お前はこっからこういうモンに慣れて行かなくちゃならねえんだぜ?何もウチが特別なわけじゃないし、今回だけが特別だったわけじゃないさ…連中はしくじった。なにせ、交渉がそもそも出来なかったんだからなぁ」
「え?ど、どういうことだ?だって、ディスクを使って旭日重工を交渉の席に就けるためにあんなことをしたんじゃあ…」
「だよなあ?だが…そうはならなかったってだけさ。いいか、ロック。主導権を奪われると、こうなっちまうんだよ。ここでの手前の仕事はネゴだろ?…主導権を手放したが最後、振り回されて、挙句トカゲの尻尾切りでおっ死ぬことになる…ロック?理解できたか?積み荷にしたってそうだぜ?同情だけじゃメシは食えないんだ。OK?」
レヴィが全てを知っているとは、ロックにも想像がつかないことだ。まして、バラライカと何かしらの関係がある以外、二人の間に機密を共有し合うだけの接点も理由も見当たらなかった。ロックはレヴィが、ロアナプラでの物事の本質を自分に伝え、その上で覚悟を問うているのだと悟った。それは正解だったが、前提条件は間違っていた。レヴィとバラライカには機密を共有し合うだけの接点があり、そのことをこの島の極一部のみが知っているということを。
「…交渉の席にすら就けなかった、つまり、ホテル・モスクワはディスクに価値を見出さなかった、弱みだけを握られ続ける羽目になったということか…でも、なぜ?」
「あたしに聞くなよ、手前は大卒だろうが!高校にだって行ってねえあたしに聞いてどうすんだよ?」
「うぐっ…痛いところを突くなぁ、もう…」
レヴィの口撃が、クリーンヒットしたロックがズーンと沈んだところで、パッパッ!とクラクションが鳴った。
「ロック、レヴィ。仕事だぜ。メシのタネが歩いて来た。歓迎してやんな」
ダッチがそう言って、ベニーの肩に手を置いた。ベニーが直ぐにハンドルを握り、車は動き出した。
「きっちり受け渡したぜ。あとは頼んだ」
見届け人を脇に置いて、マニサレラ・カルテルのロアナプラでのボスが直々に受け渡したあとにそう言った。見届け人の出所は、現地でコロンビア・マフィアを率いるボスでもあり、コミッションで中南米一帯に本拠地を置く組織の代表者としても席をもつアブレーゴからの指示だった。積み荷の受け渡しを見届けた連絡員が電話で報告を終えると、彼らはさっさとその場を後にした。
「にしても…この子、本当に孤児なのかな?」
「あたしが知るか、まぁでも、あたしのボス曰く、こういうもんは付加価値ってやつじゃねえか?その場しのぎで小奇麗なナリに仕立て上げとくのさ。外見は良家のご令嬢だったが、買って中身をちょいと探れば、物の道理も知らねえガキだったなんて
「そんな、犬猫じゃあるまいし…」
レヴィの答えがあんまりで、ロックは顔を顰めたが、レヴィは死んだ魚のような目で淡々と返した。
「同じさロック。どっちも人間のオモチャで、どっちも金で買えちまう、だろ?」
ロックの腰が引けたところで、ダッチが積み荷を車に乗せた。
「続きは魚雷艇に運んでからにしようや。にしても…臭うぜ。ロックの時もそうだったが、最近は生きた積み荷にツキがねえ…」
「ダッチ、文句を言っても始まらないよ。バラライカからの仕事は暫く受けないって決めちゃったんだから」
ベニーから愚痴を諫められて、ダッチもため息を漏らしつつ頷いた。
「あぁ、そうさな…船と店の修理代諸々でボーナスの10万ドルがスッカラカンになっちまうとは、世知辛いぜ」
マニサレラ・カルテルから引き渡されたのは子供だった。なんとも小奇麗なガキである。マニサレラ・カルテル曰く孤児らしいが、既にきな臭さが漂っていた。ロックとレヴィに挟まれる形で車に乗せられた少年は、港に着くや魚雷艇のキャビンに丁重に仕舞い込まれた。
出航して間もなく、子供の世話係を決める段になり、ある問題が噴出した。
「僕に近寄るな!悪党め!こんな、子供だましでは誤魔化されないぞ!」
本物のアイスクリーム…つまりは、クーラーに入っていたハーゲンダッツを御馳走してやろうと気を回したレヴィを、災難が襲ったのだ。
べちゃ…なんて、湿った音がして。レヴィの顔面に半溶けのハーゲンダッツがぶちまけられたのだ。因みにバニラ味だった。
甘いバニラの匂いがプンと香り、子供とロックが思わず鼻を鳴らす。レヴィは噴火の三秒前と言えば伝わるだろうか。
ゴゴゴゴゴゴッ!という赤い怒りのオーラが立ち昇る様が幻視されて、ロックは思わず子供をレヴィの視界から遮るように身を乗り出した。
「待て待て待て!落ち着けレヴィ!相手は子供だ!それに、確かに悪党だってとこは間違いないんだしさあ!ね!」
「Calm down!」と「Be cool!」が連発されたが、果たしてレヴィは怒鳴りはしなかった。銃も抜かなかった。ロックは首を傾げた。
黙ってキャビンを後にしたレヴィを追いかけると、デッキに上がり海水で汚れを落してから、真水を頭から被っていた。水気を帯びた肌に強い日差しが照り輝き、黒いタンクトップが張り付いて、つんと上向きの大振りな胸が強調されていた。湿り、光沢を帯びたタンクトップもこの暑さだ、直に乾くだろう。
「い、意外だな…銃を抜くかとヒヤヒヤしたよ…」
ロックがおっかなびっくり、素直な感情を吐露すると、レヴィはニヤリと笑った。
「言ったろ?あたしは余裕がある、い~い女なのさ」
それだけ言うと、タオルを首から下げてダッチの元へ向かった。ロックは唖然としてしまった。高校にすら通っておらず、まともな養育環境で育っていない、ましてや人格形成期には既に日陰者の道を歩んでいたレヴィが、あれだけアンガーマネジメントに長けているという事実が、それがフリでも強がりでもなく、言葉通りに彼女には余裕があると言う現実が、ロックにとっては偏見や先入観をぶん殴られる様な衝撃だったのだ。
日本と言う文明的だと誰もが思い込んでいる社会の中で、どれだけ生まれに恵まれて、優れた高等教育を受けたところで、人間的に好きになれないような、それこそ子供相手にガチギレするような大人なんてゴロゴロいたのをロックは知っている。まして、それが上司だったり、大企業の重役だったり、或いは官僚や政治家にだっているのだから…
「あ~…ダッチ、あのガキの世話なんだが、ロックに任せてもイイか?手が出る前に言っとくわ」
レヴィが殊勝にも断りを入れてきたことに、ダッチは驚きの余りサングラスをかけ直した。
「ほう…大したもんだぜレヴィ、お前にそんな気遣いができるたあ…俺とガキ、どっちの日頃の行いが好かったんだろうな?」
「うるさいよ、バカちん。ロックがガキ担当で決まりだ、いいね?」
ダッチの軽口に付き合わず、レヴィはラッキーストライクのフィルターを噛んだ。流石にご機嫌斜めらしい。それでも、当たり散らさない態度にダッチは心底感心していた。
「構わねえよ…ロック、それでいいか?」
「え?あ、あぁ…うん。大丈夫、だと思う」
振り向きざまに入ってきたロックに訊ねれば、ロックは否もなく頷いた。考え事でもしていたのか、少し歯切れの悪さが気になったが。
「んだよぉ、歯切れの悪い奴だなあ…寝ぼけてんのか?」
「大丈夫、問題ない。少し、話してくるよ」
レヴィに声をかけられて、いつも通りに戻っていたが、ダッチは念を押すように声を掛けた。
「ああ、頼んだぜ。売りもんに傷つけちゃあ不味いんでな」
ダッチに見送られ、ロックがキャビンに向かう途中で見た頃には、レヴィの顔には怒りなど微塵も残っていなかった。軽く瞼を閉じて腕を組み、操作室の壁に背を預ける姿は様になっていて。
ロックはそんなレヴィのことをカッコいいと思った。