ロアナプラより愛をこめて   作:ヤン・デ・レェ

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ロアナプラより愛をこめて 続

寒すぎるのも嫌だったので、なるべく温かい時期にロシアに渡った。それでも死ぬほど寒くて驚いたが。中南米での生活で寒さへの耐性がよほど低くなっていたらしい。俺もそうだが、レヴィもロザリタもシンドそうだった…が、ロザリタに関しては素振りにすら見せないので実際のところは分からんのだが。

 

ともかくこのクソ寒い凍土にも人間が暮らしているって話だから、ロシアは正しくおそロシアである。

 

ソヴィエトの通貨が信用ならないのでアメリカドルを大量換金してから向かったが、言うまでもなく大人気である。敵国の金なのにな。

 

特に軍人とかに大人気。公務員の大好物が袖の下とか…ソ連の終幕を俺たちはひしひしと感じていた。

 

自由に動き回れて、かつ多少の無理でも通せるように…具体的には銃撃戦を事故として処理してもらえるように…手を回したら、そこからはキューバの時と変わらない。あの時は初日から頓挫したが、まぁ仕方がない。そもそも、何となく、何かが起こるまでの余暇をだらだらと過ごしているだけなのだから。

 

何かに追われるように生きる必要などないのに、俺は常に何かを恐れ、その何かから逃げるように、少しでも遠くに行けるように生きている。やってることと言えばぼーっと、観光地に入り浸るでもなく、レヴィとロザリタと三食食って、晩酌して、雑談して、偶に買い物に行って…それくらいである。作家でもないのにホテルに缶詰めだが、二人は何も言わないし、俺も特に何も思わない。俺は楽しんでいる…いや、違うな。俺は、安心しているんだ。穏やかな生活に、この平凡な日常に、心底安堵している。その安堵に満足しているのだ。そして俺の感じる安堵は、形は違えど俺たち三人に通じる何かであるはずだ。レヴィとロザリタは実にカタギらしく振る舞っているし、それが好いとさえ思う。無理に牙を剥く必要はないのだ。

 

何を待っているというのか…俺自身にも理解できないまま、日がな一日ジャム抜きのロシアンティーを肴にテレビを見ながらとりとめのない会話に花を咲かせていた。一週間も過ぎる頃、俺たちは三人で近所のバーに向かった。こっちに来てからしばらく、夜の間は入り浸っていた。

 

店に入り壁際のカウンター席に陣取ると、いつも通り店員に三百ドル押し付けて人払いを頼んでからカウンターの上に百ドル置いてバーボンをストレートで頼んだ。ロシアで飲むアメリカの酒は皮肉が利いてて美味い。

 

ロザリタもレヴィもいつもなら好きな物を頼むのだが、この晩は違った。レヴィは腕を組み煙草を咥えていたが、煙を肺に入れていなかった。座ろうともしなかった。ロザリタはミルクを頼んでそれきり岩のように微動だにせずドアを無表情で見つめていた。明らかに異常だった。だが、俺はそう言う日もあるかと全く気にせずに、一人でちびちびと酒精を舐めていた。

 

二人が何を考えているのか、何に意識を割いているのか、何を警戒しているのか、なんてそんなことは俺には分からない。張り詰めた空気感も感じ取れないし、かと言って他に特に何を考えているわけでも無い。品揃えの悪い酒瓶に反射するボヤっとした照明の光を見つめていた。ロシアの次は何処に行こうか。

 

一杯目を干し、二杯目も同じバーボンを頼んだところで店に人が入ってきた。人払いは済ませたし、何だったらこの店自体が人入りのいい店でもない。値段は高いし酒の種類は貧相だ。なら、入ってきた人間は細かいことを気にしない人間か、はたまた俺に用がある厄介ごとで違いなかった。

 

結論から言って、彼女は前者に属していた。入ってきたのは軍服を着た酒臭い女で、朝から飲んでいたのかもしれない。余程酒に強いのか顔色は赤くない。寧ろ青いくらいだった。能面の様な顔には疲労の色がにじみ、げっそりと頬は削げて見えた。足取りは確かで姿勢も背筋が伸びていてしゃんとしているが、それだけだった。覇気はなく、足取りは鉛を履いているように重い。目の下の隈がどす黒く、あちこちに包帯を巻いているし、治りの悪い顔の火傷を剝き出しにしていて不気味なことこの上ない。まだ熱が籠っているような瞳だけが、爛爛として、ただそこにはここではない何処かを睨みつけて逃さない執念だけが籠っていた。

 

ボロボロの風体を、小奇麗なおろしたての軍のコートに無理やり押し込んだのだろう。兎に角、本物の軍人に会ったのはこっちにきてから初めての経験だった。俺は無意識に下唇を舌で湿らせた。

 

女は店員の制止も振り切ってカウンターの席に腰かけた。腰を下ろした途端に、縮んだように見えた。事実、彼女は身体を支えきれなくなった。カウンターに両肘をつき、胡乱な視線が酒瓶のラベルをなぞった。壁際から二番目の席だ。ロザリタがついさっきまで座っていた席だ。席を立ったロザリタは俺の真後ろに立ち、女軍人の背中を睨みつけていた。レヴィは入り口近くの壁に背中を預けて腕を組んだまま動じなかった。

 

「隣の軍人さんにも、何か一杯」

 

促されるように、自然と声に出していた。それが何を求めてか、何を期待してかはさて、俺にもどこまで望んでいるのか理解できなかった。ただ何となく。そう何となくなのだ。そう言ったらカッコいいかな、とか。こういう振る舞いに憧れていたんだよな、とか。そういう、マスターベーションに俺は勤しんでいた。懲りもせず。悪びれもせずに。

 

「酒はもういい、茶をくれ」

 

隣で俺の声をしっかりと聴いていたらしい。彼女はそれだけ言って、鋭い眼光で俺を睨んだ。顔が近づく。くんくん。瘡蓋を剥がした時の匂いがした。饐えた汗の匂いも。酒の匂いも。

 

「ロシアに何をしに来た」

 

それは寧ろ俺が聞きたかった。ちょっと何言ってるのかわかんない。

 

「理由、必要か?」

 

腰に固い感触がして、ちらりと見ると銃口が押し当てられていた。ロザリタとレヴィは動じない。俺が手で制したからだ。俺も、勿論動じない。寧ろここで撃たれたら死なない程度に酷い怪我をして、そうしたらレヴィとロザリタに看病してもらえるかなとか、優しくしてもらえるかなとかそんなことが思い浮かんだ。思わずにやけてしまう。

 

「もう一度聞くぞ。貴様は、私の国に何をしに来た」

 

視線がヒリヒリしたものに変わった。そう言って撃鉄を起こした彼女。虫でも見るような眼だった。

 

軍管区司令部で何か聞いて来たのだろうか。羽振りのいい来客があったとでも聞いたのかもしれない。碧眼のヤポンスキーでアメリカドルを将校にばら撒いた…ここだけ切り取ればなるほど、怪しい。格別に怪しい。だが、ならば職質して捕まえればいいだけである。捕まえずに金を受け取った時点でダメである。だから、逆説的に目の前の彼女は金を受け取らなかったということなのだが。

 

だが、いよいよ困ってしまう。本当の本当に、理由は無かった。寧ろ理由が無かったのが理由だ。俺はコロンビアの居心地が悪くなったからこっちに来ただけだった。飽きたらまた何処へとでも行くことだろう。

 

この国の歴史にも、この国の行く末にも…俺は全くもって興味が無い。だが、目の前の女に興味が湧いた。

 

俺は女の頭越しにレヴィのことを見た。彼女も俺を見ていた。

 

「アンタの好きにしろ」

 

彼女の答えは簡潔だった。必要十分だった。

 

目の前の彼女が腰を浮かせて身構えたが、気にせずに振り返ってロザリタを見た。彼女は穏やかに微笑んでいた。

 

「どうぞ心赴くままに」

 

「地獄へなりとも喜んでお供いたします」と彼女は付け足した。俺は二人からの賛意を得て酷く脱力した。気が抜けたのだ。

 

俺がほっとしていると、いよいよ腹の肉に銃口が沈んだ。血走った目で、彼女は俺を見ていた。彼女が、俺を見ていた。

 

何かが彼女をこの場所に誘い、俺は彼女と出会った。レヴィや、ロザリタや、彼女と同じなのだ。目の前の彼女もまた。

 

何かが彼女を俺に惹きつけた。俺を彼女に惹きつけた。俺はとても、とても嬉しい。とても、興奮している。

 

俺は彼女の双肩に手を置き、真正面から瞳を重ねた。

 

「何をするつもりだ?」

 

彼女の指がゆっくりと引き金に掛かるのを確認してから、俺は思い切って彼女の唇に喰らいついた。彼女の眼が見開かれた。

 

と同時に、信じられない膂力で俺を引きはがそうとしてきた。ついでに舌も噛まれた。だが、俺は何時になく真剣だった。あらん限りの想いを込めて今日会ったばかりの名も知らぬ女の荒れた唇を貪った。もがくほどに舌が暴れた。

 

「ーーーーーーーーーーッ!?」

 

ちぎれるかと言うくらいに腕を引き絞られ、ありとあらゆる体術を駆使されたが、それでも俺は離れなかった。俺は彼女の背中に左腕を、右手で彼女の頭に手を回した。意地でも離さないという意志が通じたのか、彼女の抵抗も激しさを増し…そして冷静になる前にと、勢いよく店の床に彼女を押し倒した瞬間に、待ちに待った銃声が響いた。

 

一発。俺は離れない。

 

二発。俺は離れない。

 

三発。俺は離れない。

 

四発。俺は離れない。

 

五発。俺は離れない。

 

六発。俺は離れない。

 

七発。俺は離れない。

 

八発。俺は離れない。

 

九発。俺は離れない。

 

十発。俺は離れない。

 

十一発。俺は離れない。

 

十二発。俺は離れない。

 

十三発。俺は離れない。

 

十四発目は不発に終わった。弾がジャムを引き起こし、それを認めた女が銃を捨てるより早くロザリタが拳銃を蹴り飛ばした。俺もロザリタもその時を待っていたのだ。俺は選ばれた。コレは洗礼なのだ。洗礼の砲声なのだ。自分が死ぬなどとは微塵も考えていなかった。レヴィもロザリタも、それは同じだっただろう。肝は冷やしたかもしれないが。視界の端でレヴィが店の外に向かうのが見えた。救急車でも呼んできてくれるのだろう。

 

俺は、まだ離れない。離れたら痛いのが無駄になる。もったいない。だから離れない。この女にはそれだけの価値がある。よくわからんけどそんな気がする。俺がそう思うのだからそうに決まってる。

 

撃たれようが、暴れようが俺が離れないと理解した女は戸惑ったような表情に変わった。怒りは呆れに、呆れは困惑に変わった。次第に抵抗は弱まり、あれほどシステマティックだった動きは精彩を欠いていき、遂にはか弱い女がするような背中を爪でひっかくような微弱なものに落ち着いた。俺の独り善がりな舌の動きに、女の舌が寄り添い始めた。酸素が脳に行き届かなくなったようだが、好都合だ。続けさせてもらおう。俺は女を締め堕とすくらい強い力で抱きしめた。

 

と、そこで俺の意識は暗転した。俺は見事に昏倒し、その日の内に緊急入院した。

 

診断は腹部が弾け飛んでいた。どうしてまだ生きているのか信じられないそうだ。自決用のガバメントが俺の身代わりに粉々になり、予備の札束が三発の銃弾を受け止めていた。またしても破滅願望が俺を破滅から遠ざけたことは確かであった。傷が一か所に集中していることも幸いし、銃創が肉ばかりを通り抜けて主要な臓器に掠りもしていないことは奇跡だと言われた。しばらく点滴オンリーの生活になるが、死ななかったのだから大儲けも好い所だった。いや、寧ろ丸儲けだ。なにせ、俺の意識が戻るなりあの女が見舞いに来たのだから。

 

病室は個室を用意させた。女は来るなり謝罪してきた。ソーフィヤと名乗った彼女は、初めて会った時とは比べ物にならない程にしおらしかった。すっきりとした表情に、清潔な装いだった。まるで別人だったが、俺はそれも彼女だと感じた。封じ込めていたものが発掘されたのか、はたまた落としたものを拾ったのか。いずれにしろ俺には好都合だった。俺はレヴィとロザリタに退席を頼み、彼女たちは素直に応じた。余りに隔意のない態度にソーフィヤは驚いていたが、すぐに苦笑した。

 

「私に興味が無いのだな」

 

ご名答である。彼女たちは無関心なのだ。身内以外の有象無象に対して。レヴィもロザリタも、ゾッとするほど無機質な目で世界を見つめている。彼女たちが関心を向けることは俺に関係すること全てだけである。それが望ましく、そうでなければ俺は安心して夜眠れないのだ。俺が教えてやると、ソーフィヤは憮然として言った。

 

「狂っているな」

 

彼女はまだ、自分もまたその一人として選ばれた事実を理解していない。誰が選んだのか、さぁ?この世界が選んだのだ。或いは俺が選んだのだ。彼女が俺を選んだのだ。現に彼女は俺と再びあっている。今度は密室に二人で。

 

俺たちはその日、見舞いの時間が終わるまで話をした。彼女はアフガン帰還兵であり、祖国の為に命懸けで戦い、不本意な形で軍籍を除かれた。言ってしまえばそんなストーリーであった。俺の感想は「へー」である。彼女は腹を立てなかった。寧ろ、嬉しそうだった。何か、探し物が見つかったような顔であった。土産も無しに来たことを詫びてから、彼女は帰って行った。

 

「また明日来る」

 

彼女は明後日も来ることになるだろう。

 

「暫くは俺も暇だ、満足するまで話を聞こう」と。

 

そう答えておいたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あぁ~ソ連が壊れる音ぉ~!

 

そんな季節になりましたなぁ。

 

俺はまだ退院できなかった。銃創自体は大したことが無かったが、骨折が中々治らなかったのだ。だが、それを除けばもうほとんど健康体だ。まさか自分の肉体がこんなにも頑丈だったとは知らなかった。一生知らなくてもよかった。

 

俺が怪我をしてる間に世界が動いていた。

 

なんやかんやあってソ連が崩壊してしまい、大規模な混乱が発生したのだ。給料の未払いはソ連軍の十八番だったが、案の定元軍人も現役軍人も困窮した。再就職のめどが立たない退役軍人の境遇は悲惨の一言に尽きる。さて、そんな酷い状況下に後押しされる形で一躍一大勢力へと成長を遂げた組織がある。

 

そう、マフィアである。

 

本来のマフィアはシチリアにルーツを持つ犯罪組織を指す言葉なのだが、地域的に強大な力を持つ組織のことも総じてマフィアの範疇に入ってしまうらしい。俺がいたのはロシアであるから、必然的にロシアン・マフィアと呼ぶことになる。ソ連邦は気が遠くなるほど広く、そんな版図が一斉に大混乱に陥ってしまったのだから、当然その反動は想像を絶するものとなった。

 

社会は受け皿を失い、社会主義・共産主義のモットーに唾を吐くように貧者や弱者から順に手の平から零れ落ちて行った。その中にはソーフィヤのような退役軍人の中でも不遇な身分の者たちも、当然含まれていた。

 

ソーフィヤと知り合ってからそれなりに時間が過ぎたが、あれ以来毎日のように俺のもとに通っていた。彼女は俺の質問に対して実に正直に答えた。勿論俺に尋問のスキルなどないから大したことは聞かなかった。ただロザリタにした時と同じように、何が都合が良いのか、何が都合が悪いのか、何が好きなのかについて聞いただけだ。お陰で距離が縮まった。手の甲に指が触れ、手の平が重なり、指が絡み、最後は睦み逢うように手首を擽るようになった。流し目がなんともいじらしかった。

 

まぁ、俺は応えなかったが。だって安心できなかったから。俺にとっても据え膳だったが、ソーフィヤは俺に焦らされた形だな。甘い雰囲気は不健康にも見えたし、単純に彼女が不器用で初心なだけにも見えた。ぎこちないと、一周まわって淫靡である。真っ白い病室のベッドで広がる金髪はさぞかし映えたであろう。傷だらけの裸体も、望めば手に入ったに違いない。だが、俺はアートが嫌いである。英雄もいらない。犬が欲しい。手のかからない狼のような犬が欲しい。従順で、健気で、俺より遥かに優秀な犬が欲しいのだ。犬は飼い主の為にしか動かない。犬は飼い主のことしか考えない。犬は自分が生まれた国の行く末なんて案じたりしない。名誉とか矜持とか、俺以外の誰かが植え付けたお上品な首輪を大事に抱えて判断を誤るようなロマンスはいらない。ダースベイダーはルークを殺すべきだったのだ。ソーフィヤ、お前はどうだ。お前はまだ人間だから要らない。

 

ソーフィヤは俺とのコミュニケーションを穏やかに続けていたが、それでも常に情緒不安定だった。それも当然と言えば当然だ。ソ連がぶっ壊れて、連邦諸国も連鎖的に血を吐いて崩れて行った。俺にとっては他人ごとだが、ソーフィヤにとっては自分事だろう。

 

俺は退院する日にロシアを出ることにした。国が亡ぶ瞬間を目に納めることができるのなんて一生に一度あるかないかである。キューバとかコロンビアとか、共産圏の国に縁があるようだし。そこら辺をうろうろするのも悪くない。

 

名残惜しいがソーフィヤともバイバイだった。国を出る旨を話せば、今度は彼女が自分から唇を重ねてきた。あの日は酷く荒れていたが、今度はしっとりと柔らかかった。香水かな、好い匂いもした。

 

それはともかくとして、鉄で出来たような女かと思えば、可愛い顔もできるものである。俺はキュンとした。

 

ので、餞別代りに俺の保有する不動産を全て彼女に譲ることにした。俺は経営とかぶっちゃけ知らんし。持ってるだけで金を吐き出してくれるけど決済とかめんどくさいし。かと言って腐らせるのはもったいない。どうせならうまく運用して成り上がって欲しい。

 

欲しいと思わなかったと言えば嘘になる。でも、俺以外のしがらみに囚われてる女は面倒くさい。いざと言う時に捨てられるんじゃないか、そう思うと体が震えてくる。涙も出て来る。レヴィもロザリタも吹っ切れてるから俺は一緒に居てそんなに怖くない。そんなに不安にならない。だが、ソーフィヤにはまだそう言うのが無い。帰る場所もあるのだろうが、そういう女は物足りない。かと言って捨てたくない。俺以外の人間に拾われるのは癪だからだ。だから唾を付けておく。全身ベッタベタにしてやる。結局唇以外は指一本触れなかった。だって安心できないからだ。

 

俺を安心させてくれ。俺はお前に安心させてもらいたい。その為なら身銭を切ることも、撃たれることも厭わない。お前が俺に跪くその日まで、俺は待ってる。俺を安心させてくれれば、抱いてやる。なんて一言一句違えずに。その通りにソーフィヤに伝えた。

 

言ってから、TUMIのアタッシュケースから取り出した債権とか諸々の書類と運転資金を入れたカードを彼女に押し付けた。彼女は一瞬で世界有数の不動産王になり、ついでに400億アメリカドルの大富豪になった。ソーフィヤは呆然として身体を震わせていたが、俺が病院を出るころには平時の調子を取り戻していた。駐車場まで見送りに来てくれたが、ピクリとも笑わずにただカードを握りしめていた。俺はそんな彼女にゆるゆると手を振った。最敬礼で返されてこそばゆかった。

 

400億ドルあれば何買える?

 

最安値を更新するであろうルーブルなら文字通り漁り放題だ。工場でも、企業でも、なんでも買えるぞ。きっと国も軍隊も買えるさ。

 

好きに使えと言って、俺たちはロシアの地を後にした。半年はいただろうか。今度は中国辺りに行ってみるとするか。

 

しばらくほったらかしにしてしまったが、レヴィもロザリタも怒った様子はない。どことなく満足げな様子だった。ロシア旅行は代金四百億飛んで五万二千アメリカドルを計上した。ついでに不動産はすっからかん。俺は身軽になってゾクゾクした。それはもう、ゾクゾクした。おぉぉぉ、これは良いかもしれない。一時の衝動に身を任せて四百億ドルを溝に捨てるとは!最高に気持ちがいい。好きだな、こういうの。心と体が軽くなった気がした。

 

…俺が無一文になった時、レヴィとロザリタはどうするんだろう。俺を殺すかな。それとも、一緒に死んでくれるかな。黙って出て行くのかな。案外、養ってくれるかもしれない。

 

…その時が来たら考えよう。俺は思考に蓋をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

五度目の特異点は、中華人民共和国での出来事だった。

 

この国に思う所は多かったが、百想うだけで一つとして成す気は起きないのだから、無関心なのと一緒である。

 

俺の関心はただ一つ。この国のハニートラップに興味があった。北朝鮮もそうだし、とかくヤヴァイ国ほどハニートラップが上手なイメージがあった。

 

情報のプロがありとあらゆる情報の中から抽出した人材を送り込んでくるのだから期待できる。しかも国家単位での仕事である。ましてや俺は世界有数の大富豪で、今回はアメリカのパスポートで入国した。そう、確信犯である。俺の好みを彼らがどこまで深く理解できているのか、またその理解が俺の本質や癖にどこまで深く刺さるのか…大変興味深い。

 

俺は実に楽しみだった。だが、充分な情報が集まるまでに俺が嫌いな尻軽女やあからさまな工作員でお茶を濁されるのには耐えられなかった。俺は沸点が低いのだ。感応性は鈍いが。

 

ともかく、俺は俺の性癖についてこの国に理解してもらえるように、極めて協力的な態度をとることにした。どういうことかと言うと、何時何時でも両脇にレヴィとロザリタを侍らせて過ごしたのだ。盗聴器や盗撮の心配についても、俺は自分が安心できる場所以外では裸になどならないし、女も抱かない。その相手が工作員で、尚且つ是非とも抱いてくださいという類でも無ければ。

 

そもそも、俺はレヴィにもロザリタにも手を出していない。不思議に感じるかもしれないが、それとこれとは別である。彼女らには、彼女らに相応しいタイミングと言うものがあり、俺にもそう言うものがある。その時が来れば、自然と分かるものなのだ。俺の野生の勘がそう告げていた。何より、二人の裸も、声も、何一つとして俺以外の人間に味わわせるわけがなかった。知っていいはずがない。そんな奴がいれば、そいつは必ず死んでいなければならない。老若男女は問わずだ。俺は3Pとかも興味ないしな。一つのことにしか集中できないし、集中したくない。それに、抱き着く相手が二人もいると気が散って眠れないから。

 

かくして俺の為だけに用意された最高の人材をウキウキしながら待っていたのだが…国からの使嗾よりも早く、明らかに俺の好みを把握してない地元の黒社会の連中が女を部屋に送り込んできやがった。どこのクソバカだよ。ぶっ殺してやりたい。

 

とはいえ、である。普通、こういう女はこれまでも送り込まれてきたが、俺の目の前まで辿り着けた試しはなかった。何故ならレヴィとロザリタの眼が光っており、彼女らの勘や経験則を潜り抜けられる猛者など存在しなかったからだ。全員追い返されるか、俺の見えないところで差し向けてきた相手共々おっ死んでいても不思議じゃなかった。用足しは俺の見えないところでする。俺に飼われる犬の基本のきである。綺麗なところだけ見せろ。汚くても綺麗でいろ。そういうことだ。

 

しかし、現に目の前には女がいた。若い女だが…見る分にはレヴィとそこまで変わらないかもしれない。つまり年下だ。レヴィよりは年上なのかもしれないが、とにかく年下だ。つまり、未成年の筋もあり得た。だが確かに美人だった。少し痩せぎすで顔色もよろしくないが、しなやかな筋肉が眩しい。本場とだけあって立派なしつらえのチャイナドレスに映える黒髪には紫の艶が通っていて美しかった。目が切れ長で細く、どことなく不憫な匂いがした。大人びていて不憫で美女で肉感的…なるほど、正解だった。大正解。ご名答。なるほど、だから二人はこのちんちくりんを部屋に入れたのだ。流石に何年も一緒に生活してきただけはある。俺の好みをよっくと理解しているようだった。ならば色々と試す価値はあるだろう。もう何年も女を抱いていなかったし、丁度好かった。

 

「英語はできるか?」

 

俺が尋ねるとコクコクと頷いた。

 

そこからはいつも通りだ。先ず名前を聞き、次に何が欲しいのか、どういう人生を送ってきたのかを聞いた。女…シェンホアは素直に答えてくれた。名前はシェンホアでいいとして、欲しいのはお金。俺に抱かれて来いと命じられてここに居ること。子供のころから碌な目に遭っておらず、貧困に喘いできたこと、今は裏社会の人間に飼われて娼婦をしていること…なんかを正直にゲロった。

 

話してみて分かったが、この女もレヴィと同じで強かなのだろうことが感じられた。今この場で俺に正直に話した方が、俺に近づくのにも、飼い主の命令を達成する上でも都合が良いと判断したから喋ったのであって、生来の天然おバカが炸裂したわけではなさそうだった。うん。強かな女は好い。賢く逞しい。俺なんかよりは余程。こういう女のほうが、ビバリーヒルズで人間よりも高い服を着たモップ犬を抱いてる化粧の濃いババアどもより、ずっと上手に金を使うだろう。勿論俺よりも。俺よりも賢く生き残るはずだ。俺はシェンホアを気に入った。

 

「いくら必要なの?」

 

俺は「欲しいの?」ではなく「必要なの?」と聞いた。馬鹿ではないシェンホアは真顔で逡巡してから、少女の身で背負うには大きい額を提示した。

 

「明日も君が好い」

 

それだけ言って。俺はシェンホアに必要な額の倍の現地通貨の札束をチャイナドレスのあちこちに目立つように突っ込み、それから二十万アメリカドルが入ったカードをぱっくり開いた谷間に隠した。強くて賢い女なら、これで自由になれるはずだ。現実から這い上がる為のチケットを、みすみす飼い主に差し出したりはすまい。もしもこいつが忠犬なら、或いは飼い主を愛しているならば話しはまた別だが…その時はその時である。そういう時は、国からのハニートラップ要員に乞うご期待だな。

 

ペコペコと何度もお辞儀しながら部屋を出て行ったシェンホアの背中が見えなくなってから、俺たちは今日も三人で優雅な食卓を囲んだ。ロシア料理も嫌いじゃないが、宮廷料理と言えば中華である。レヴィは血のルーツに馴染むのかもりもり食べていたが、ロザリタには脂っこすぎたようで箸の進みが悪かった。つーか箸使うの上手いな。ほぼ暗器だもんな。俺は北京ダックのタレと生地を倍プッシュして楽しんだ。幼少期に一度だけ食べて以来、このもちもちとした生地とタレを贅沢にたっぷり使って食べてみたかったのだ。ダックと野菜の量は据え置きで、生地とタレは倍にするという。俺は子供の頃の夢が叶ってご満悦だった。

 

食後は三人で茶をしばいた。レヴィは何でもそつなくこなすので茶を淹れるのも直ぐに上達していた。美味い。しかし、逆にロザリタは不器用だった。中国でも蒸し暑い地方だし、気心の知れたレヴィは阿吽の呼吸でスリットの深いチャイナを着てくれているが、ロザリタはコロンビア以来のキャリアウーマン風ボディガードの装いだ。どっちが敏腕秘書に見えるかと聞かれれば十中八九ロザリタだろう。しかし、ロシアの病院で看病されていた時から思っていたが、ロザリタはマジで戦闘以外の適性が無かった。大雑把な作業に向かないのに戦闘だけは得意って…それ完全にサイボーグじゃん。とはいえ戦闘に関係すればどんなに複雑で緻密な作業でもお手の物なのだから流石としか言いようがない。ボディガードだし別にいいのだが、本人は気にしていた。ロシアでも俺の看病はレヴィの仕事であった。看護師も看護婦も信用できなかったし、一度ロザリタに手ずから飯を食わせて貰った時は給食のスピードがバグってて殺されるかと思った。C4を扱うように丁寧にしろと言えば通じたが、動きが精密機械の如くであり、食事ではなく給餌だった。次ロザリタに飯を食わせて貰う時がくるとすれば、その時は確実に口移しになるだろうな。

 

発展著しい中華だが、決してユートピアではないことは言うまでもなかった。息苦しいほどのスモッグやら、とにかく清潔感の欠如は筆舌に尽くしがたい。ホテルのサービスやら内装やらに嫌気がさした俺はハニートラップを楽しんだら速攻で国を出る旨を二人に伝えてから、一つのベッドで川の字になって眠った。

 

 

 

 

 

 

 

 

次の日からは毎日、シェンホアの案内で四人で観光に出向いていた。驚く勿れ、俺はそれなりに中華史が好きなのだ。そう、今の国のあれこれには爪の先ほども興味が湧かない俺だが、昔の話は大好きなのだ。向こうは俺に干渉できないし、俺も向こうに干渉せずに済むからな。

 

まぁ、そんなこんなで俺たちは関羽や岳飛を拝みに行ったりした。劉の一族っていつも塩の密売やってるイメージなんだが、俺の気のせいかな?

 

三食俺持ちでホテルも高いとこを選んだが、それでもそこまでの負担じゃないのはまだこの国が国際競争の舞台で末席に位置することを表していたが、俺にとっては都合が良い。安く済むからな。俺はケチなのだ。安く済むことに越したことはなかった。

 

そこそこ充実した日々を送っていた俺たちだったが、ここにきてようやく当局からのハニトラ要員がやってきた。そう、俺がシェンホアに手を出さなかったのは俺が安心できなかったというのもあるが、この国の威信をかけたハニートラップの出来を真剣に確かめる為だった。俺の審査を潜り抜けるべく現れたのは…

 

「子供じゃないか」

 

紅い顔を隠そうともせずに、どっからどう見ても子供が現れた。ミニスカートに眼鏡が似合うマロくて太い眉毛が特徴的だ。日本に居たら高純度のメスガキ扱いされたであろう少女である。

 

どういう了見だ?この国の本気はこんなものだったのか?俺はロリコンじゃねーぞ。

 

俺は暗然とした。そして一つ心当たりがあった。まさか、俺がシェンホアを何時まで経っても抱かないのは、単純に俺の好みの範疇から外れていたとでも推測したのか?そんなバカな!?この国の情報部はミスタービーンなのか?すっとぼけた解答を出してんじゃねーぞ!お笑い話にもほどがあるぞ!要人のファイリングは長閑マダムの井戸端会議じゃねーんだぞ!

 

俺は呆れていたが、この少女が気の毒に思えてきた。手を出すつもりはない。だが、事情ぐらいは聴いておこう。

 

「名前は?あと幾ら欲しいの?国からはなんていわれてるの?」

 

俺の質問に対して、少女は最初の一つだけ答えるとフリーズした。

 

…フォンって、偽名だよな。ドイツ人?んなわけねーな。にしても、幼い。肉体もそうだが、精神も同様に。俺は人のこと言えんがね。

 

そして一つ明らかなことがある。人民軍は一つ間違いを犯した。この女は俺の質問に答えなかった。シェンホアには考える頭があったが、この子には強かさが足りてない。きっと経験が無いんだな。専門のハニトラ要員じゃないことが見え見えだ。他所の部署から引っ張ってきたとして、賢いことと勉強ができることをはき違えているんじゃなかろうか。成績と顔が好い若い女を小手調べに送り込んできたのか?あーーーーーー…めんどくさい。

 

「もう、めんどくさいから、お金あげるね。これからシェンホアのこと抱くから帰ってくれない?それとも見学していく?」

 

俺がそう言うとまずシェンホアが顔を赤らめた。次にマロ眼鏡のメスガキが顔を赤らめた。前者は驚きと恥じらい。後者は怒りと羞恥で。

 

俺は懇切丁寧にフォン少女に説明した。俺はロリコンじゃないこと。君たちの国の情報部には失望したこと。そしてお小遣いは人民元とアメリカドルどっちが好いのか。

 

少女は俺の話に蒼い顔をしたり、赤い顔をしたり、口元がにやけたりした。クールな見た目に反してストレスに弱いのだろう。目の前につるされた餌にすぐ食いついた。もっと強かになって出直しておいで。結局、彼女が希望したのはアメリカドルだった。俺はレヴィに目配せした。それだけで理解したレヴィは、TUMIのアタッシュケースから札束を一つ取り出してフォン少女に突き出した。ピカピカの一万ドルだ。少女の手は震えていた。

 

「持ってけよ、ボスからの駄賃だ」

 

レヴィはわざわざ少女の目の前で煙草に火を点けながら言った。ZIPPOの軽快な開閉音と、煙を噛むくぐもった声には、嫌らしいくらいに余裕がある。その余裕が、焦る少女との対比だ。実に美しい。わかっててわざとなのか、自然と出来てしまうのか、んなこたどっちだっていいのだ。俺はこういう女が大好きなのだ。少女に向ける気だるげな半目も、言い知れない興奮を俺に与えてくれた。レヴィが未成年じゃなかったら襲ってたな。

 

うーん。にしても実に様になる。こういうのを見ると猛烈に可愛いく感じる。後で勝手に可愛がろう。

 

渡された方は赤い顔に不満を張り付けたまま、おずおずと退出していった。俺はこういう時、密かな期待を胸に宿す。レヴィとの再会が教えてくれたものだ。選ばれた者は、また会うこともあろう。俺が選び、彼女が選ぶ。つまりは、そういう意味だ。

 

満足した俺はシェンホアに向き直った。彼女の顔は赤い。目が見開かれているのが分かる。分かるだけで、理由は知らんが。近寄ると逃げなかった。だから捕まえた。体を抱き締めてみると、やはりレヴィに近いものを感じる。それは何も血のルーツだけじゃないだろう。シェンホアは台湾の方で生まれたそうだが…顔が好きだからどっちでもいいや。美しいもの、好きなもの、大切にしたいもの…そう言うものは得てしてずっと見ていても飽きないものだ。寧ろ、ずっと俺の視界に納まっていて欲しい。俺の意識に居場所が欲しいし、相手の意識の中にも俺の居場所が欲しかった。俺が死ぬまで俺だけのものでいて欲しい。身を売らなくて好いように、俺の持ってるものは何でも譲ろう。俺が欲しいのは物じゃない。安心だ。安心を得るための、安らぎを得るための道具でしかない。俺には金しかその為の道具が無いだけ。使える道具を使ってるだけなんだ。それだけの男なんだよ。

 

俺は、怯えていた。シェンホアは不思議そうに首を傾げていたが、次第に顔を赤くして身を寄せてきた。懐かしい。高校の時の彼女は俺の初めてをガシガシ食い散らかしたからな。彼女も初めてだったか。ここにはいない女のことを考えていると、今度は目の前の女が不安そうな表情をした。俺は困ったように笑ったと思う。相変わらず情けない。受け入れられたいが、受け入れるのは怖い。そう言うものだ。女の前で自分が萎びていく。胸に顔を埋めると、頭を撫でられた。シェンホアは面倒見がいいのかもしれない。観光案内までしてくれたもんな。よくよく考えれば不思議だ。二十万ドルあれば逃げれただろうに。ここしばらく、ずっと一緒にいてくれた。二人目は君でいいのかもしれない。いや、君が好い。

 

その晩、俺はシェンホアを抱いた。一が二になった。それだけ。なんのことはない。温かくて、柔らかくて、気持ちよかった。鼻をすすって、膝枕をしてもらって、足を絡めて眠った。次の日の朝、彼女のカードの中身は200万ドルになった。これで何処へとでも羽ばたいていけるだろう。先ずはお腹いっぱい食べて着飾ると好い。俺は彼女の飼い主の居場所を聞いた。シェンホアは正直に答えた。ロザリタを行かせた。

 

「邪魔だから消して来い」

 

社会的に悪人かもしれないが、影響力の有無は好悪を以て受け入れられている証左だ。頭を消せば秩序が乱れ、地元の基盤を揺るがすかもしれなかった。が、俺の知ったこっちゃなかった。興味がね、無いんだよ。ここに住んでる人間にも。ここにこれから生まれて来る人間にも。相手が悪人なら尚のこと。俺はロザリタから必要なものを聞き、それをレヴィに買い付けに向かわせた。人民解放軍は喜んで金を受け取るか、或いは俺を殺しに来るだろう。

 

結果は前者だった。荷物が届いたので、ロザリタに預けた。一応聞いておく。俺の体が震えだし、歯の根が鳴る。革張りのソファーで踏ん反り返り、高いスーツに身を包んだ小男が震えているのだ。滑稽極まるね。でもシェンホアはご機嫌だ。気にした素振りもなく、励ますように震えて仕方ない俺の腕を挟む様に胸を押し付けた。震えは止まらない。どもるし。

 

俺は一生懸命説明した。相手は何も悪くないし。多分一人一人に家族もいるだろうし。そもそもこの仕事は危険だし、怪我するかもしれないし。お金は払えるけど、信念もクソもないし。本当に隣の家の生け垣が邪魔だ、くらいの調子だからと。

 

でも邪魔だから殺してきてね、と。目が泳いでロザリタの眼を真正面から見れなかったし、冷や汗はかいたし。貧乏ゆすりもしながらだった。カッコ悪いよな。

 

「行って参ります」

 

ロザリタは俺がどもども説明するのを何も言わずに最後まで聞き届けてから、一言そう言って出て行った。肯定の言の葉の代わりに、しっとりと柔らかいベルベットのような優しい微笑みが脳裏に焼き付いて離れなかった。ロザリタの足取りは軽く、正しく出張に向かうオフィスレディのようだった。道具が詰まったトランクケースを片手に。現金輸送の振りをして。

 

俺はへこんだ。初めて人殺しを依頼したからじゃない。ロザリタにカッコ悪いところを見せてしまったからだ。元からカッコ悪いが、更にカッコ悪い。俺は自分が情けなかった。でも、多分治らない。拒絶されることを怯えながら、恐る恐るシェンホアの腰に手を回した。彼女は腰を浮かせて身を寄せた。

 

二時間ぐらいボーっとしてたら、ロザリタが帰ってきた。返り血を浴びていたが無傷だった。シャワーを浴びると言っていたので、一緒に入った。風呂場でロザリタに抱き着いて泣いた。寒いのが嫌で熱いシャワーを出しっ放しにして、筋肉質な彼女の裸体に抱き着いてジッと動かずにいた。恐る恐る目を見ても、彼女の瞳は澄んでいた。穏やかで、淑やかだった。腰に手を回して強く抱きしめれば、口元の端だけが僅かに歪んだ。火照った顔に犬歯が見え隠れして、とても淫らだった。下手な笑顔だ。だが、それがいい。お互いに言葉は交わさなかった。それ以上は何もせず、抱き合ったままシャワーに打たれていた。

 

「どうだった?」

 

「出国は明日でも問題ございません」

 

シャワーから上がり、お互い何時もの服装に着替えてから首尾を確認したところ、そんな返答が返ってきた。なるほど、つまりどういうことだ?

 

普通なら細かく聞くところだが、問題ないとロザリタが言うなら問題ないのだ。俺はもうどうでもよくなった。お気楽である。

 

ホテルの部屋には俺の他にロザリタ、レヴィ、シェンホアが集った。

 

「どうする?なにがしたい?」

 

開口一番俺はシェンホアに問うた。俺は彼女のことをまだ何も知らなかった。それに、俺についてこいとか、そういうことを言えるほど俺は賢くない。計画性もない。レヴィは契約がある。ロザリタは帰る場所が無い。二人とも何かしらの理由がある。俺は自分の行動に根拠を求められると弱いが、相手の行動には根拠を求める。弱くて面倒臭い性分だ。だが、手順を踏まなくては怖くて怖くて仕方がない。足元が崩れ落ちるような感覚だ。だから、強かな女の意見が聞きたかった。俺よりも賢く、強く、美しい。そんな彼女に赦してほしかった。

 

俺は俺のことが嫌いだ。憎んでさえいる。でもわが身可愛さを捨てられない。俺はシェンホアに一緒に居て欲しかった。彼女には俺は必要ない。多分俺にも彼女は必要ない。でも、彼女を自分以外の誰かに盗られるのが嫌で嫌でしょうがない。だから、何でもいいから理由を付けて俺の傍に居て欲しかった。彼女の口から言って欲しかった。拒まれるのは恐ろしい。拒まれたところで俺は何もできないのだが。文字通り、何も。動くことさえできなくなる。金をちらつかせて翻意されてみろ、俺はシェンホアを愛せなくなる。暴力をちらつかせて頷かせてみろ、俺は自分を許せなくなる。視界が暗くなっていく。喉がつっかえた。胸に迫る、苦いものがある。

 

「ついてくよ。私の飼い主はアナタね」

 

あっけらかんと彼女は言った。目を細めて面白そうに俺の顔を見つめていた。

 

はぁ~……。

 

ソファーに身を沈めた。天井が歪んで見えた。雫がぽろぽろ零れた。あーーー…よがっだぁ…。ごわがっだッ!

 

俺はウェ~んと泣いた。泣きながら目をぐしぐし。鼻をズビズビした。レヴィに鼻を摘ままれた。

 

「ほれ、ちーんってしろ。もうコイツはアンタのもんだ。そうだろ?ならそれでいいじゃねぇか。別に泣くこたぁないだろうに」

 

「にゃははは!!まるで赤チャンね」

 

甲斐甲斐しく世話を焼くレヴィを見ながら、脇でシェンホアが笑っていた。ロザリタは羨ましそうにレヴィを見ている。君がやると鼻血出ちゃうから。我慢してくれ。

 

女三人に慰められていたら、ふわぁ~っと大欠伸をした俺は、眠たくなったので遠慮なく寝ることにした。

 

「レヴィ」

 

「ほら、こいよ」

 

レヴィが平然と膝枕の準備をしてくれた。頭を乗せれば実にしっくり来た。うん。君に決めた。

 

「頭、撫でてよ」

 

「ん…」

 

レヴィの手の平の感触は殊の外優しかった。俺は、安心した。眠った後でなら、口に銃突っ込まれても恨まないよ。起きた時、そこが例え地獄でも。ふんふん。赤いシルクのチャイナドレス越しに彼女のほっそりとしたお腹に顔を突っ込むと、一気に眠気に襲われた。俺の意識はそのまま闇に溶けた。結局、レヴィは眠るまで頭を撫でていてくれた。起きても、きっとそこにいてくれる。多分ね。

 

 

 

 

 

 

 

次起きた時には俺は既に機上の人だった。

 

「何があったの?どうやって運んだの?」

 

機内食をもさもさしながら隣の席を勝ち取ったロザリタに聞くと、俺が寝たのを確認してから念のため空港に直行したらしい。

 

今のところ問題はないが、問題が起こる可能性がある。俺の呑気な寝顔を見ていたら自然とそんなことが頭をよぎったそうな。

 

思い立ったが吉日である。ロザリタは眠る成人男性をおんぶして税関を通過し、機内に運んだらしい。そんなことを平然と語られると、なんだか普通のことのように思えてきた。いや、寧ろ眠ってるのをおんぶされて運ばれるのは子供の特権じゃないしな。うん。納得だ。

 

「お、起きたか。喉、乾いてないか?」

 

「酒ならあるよ」

 

ふと後ろを振り向くとレヴィとシェンホアが後ろの席に並んで座っていた。

 

レヴィもシェンホアも、図太いというか慣れているというか。世に憚る術を熟知しているなと、改めてアウトローの貫禄に感じ入った。

 

うん。最高やな。もう中華にも用はねぇし、今度は何処に行こうか。

 

機内アナウンスが響き、俺たちは中華人民共和国を後にした。色々あったが豊作だった。俺は二百万ドルちょいでシェンホアを手に入れた。レヴィとロザリタは俺が受け入れた相手には互いに隔意を抱く素振りが無いからな。仲良くやってくれるだろう。

 

次の目的地を前に、俺はふと自分たちの旅券が多様化してきたことに不安を覚えた。一回、全員分の旅券を統一するべきかもしれない。どうせそろえるなら何事も最高のものが欲しくなるのが人の世の常だ。金があればなおさらのこと。アメリカは…後ろめたくて帰れないので、一旦日本に寄ることにしよう。そこで旅券をそろえよう。なぁに、日本にもお金で動く人はいるさ。政治家とか政治家とか政治家とか…ね?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

六度目の特異点は、東欧でのことだった。

 

が、その前に日本での前日譚をお話ししよう。

 

日本までの旅程はすんなりと進んだが、空港でのひと悶着があった。

 

キューバ、コロンビア、ロシア、中国と共産圏の国を渡り歩いてるせいで日本の税関で怪訝な顔をされたが、それ以上に碧眼のアジア人が目つきの鋭い別嬪に囲まれて日本入りしたのも不味かった。ただでさえソ連崩壊から半年もたっていないのだ。俺の素性はあっという間に洗われてしまい、公安と外務省からの招待状が突き出される事態に発展してしまった。

 

現場組には高確率で賄賂が通じない以上、このままだと余罪を調査されそうだった。頼る伝手も無いしなぁと困っていると、青いナンバープレートのセダンが空港に乗りつけてくるなり、スーツの白人が何かをまくしたてつつ書類を押し付け、あっという間に俺たちを日本の官憲から分捕ってしまった。

 

混乱しているので、一周まわって思考が停止して冷静な俺が声を掛けると、やけに腰が低いスーツの白人が応えた。

 

「本国よりミスターの安全を確保するようにとの指示が降りまして」

 

所属こそ明かさなかったが、外交関係の人間のようだ。大使ではなさそうだが、高位の人物だとお見受けした。日本駐在が長いせいか謙虚な振る舞いが板についていたのが印象的だった。

 

「必要なものがございましたら何なりとお申し付けください」

 

そう言われたので俺は正直にパスポートを統一したいと言った。一瞬きょとんとしていたが、すぐに再起動したようで頻りに頷きながら快諾してくれた。そこからは記憶に残らない会話を重ねつつ、日本滞在中に宿泊するホテルに案内されるのかと思いきや、向かった先は在日米軍基地だった。こっちの宿舎で寝泊まりしてくれとのこと。俺はしぶしぶ了解した。

 

日本食を楽しみにしていた一同はふてくされたが、外出制限は思ったより緩かった為、その日の夜には居酒屋で全員ご機嫌な夕食を囲んだ。何時も買い物の勘定はレヴィかロザリタがスマートに熟してくれるのだが、いつものくせでアメリカドルを出してしまい店員さんに困惑された。日本円で払うのは小学生の頃に遠足のおやつを買いに行った時以来であった。感慨深かった。

 

酒の酔い方は人それぞれ。シェンホアは陽気になり、レヴィは陽気になったり粗暴になったり、ロザリタは硬派なので嗜む程度で酔ったところを見たことが無かった。俺?俺は殆ど酒が飲めない。強いアルコール臭は消毒液のように感じられて苦手なのだ。俺が飲めるのは梅酒とバドワイザーとジャックダニエル位のものだった。

 

基地も案外快適だった。ここまでの環境が悪すぎた所為で、日本国内ならどこでも快適に過ごせる自信があった。そこそこ楽しい休日と言った感じで二週間も過ぎた頃、缶のバドワイザーを片手にベッドでくつろぎながらTVをボーっと見ていると、日本語のニュースでルーマニアの話題を取り上げていた。首相だったチャウシェスクとその妻エレナがアサルトライフルで射殺される映像が何度も流された。野蛮な映像だが、因果応報だとも感じられた。

 

革命ね…世界レベルのクソ陽キャ共による狂騒には違いなかったが、結果的に世界は変わっていく。歴史を作るのは一部の狂人であり、歴史を語るのは圧倒的多数の凡人である。狂人と天才は紙一重であり、時として独裁者にも救世主にもなる。イエスキリストはマザコンだし。ラスプーチンはヤリチンだった。悲劇は理不尽だが、喜劇もまた理不尽なのだ。

 

まぁ、国を支配して散々旨味を吸って楽しんだ以上は、その国に暮らす民に殺されるのも本望なんじゃないか?え?違うの?俺なら本望だな。だって、つまりは自国民が自力で独裁者を倒せるほどの気概に目覚めたってことだろう?それって未来を感じられるじゃないか。未来を作る必要が無い、今から死にゆくだけの身分でこれだけ満足度が高いのはお得である。寧ろ都合が良すぎるとも言っていい。死んだ後も人々に記憶してもらえるんだから幸せ者すぎるだろう。潔く、喜んで死刑台に上がれるな。うん。

 

さて歴史の勉強はさておき、俺はニュースを見てピンときた。コレはいい機会だ。ルーマニアにも金をばら撒いちまおう。孤児をさ、ありったけ搔き集めて。一人一人に1万ドルずつ配れば80億ドルなんてすぐになくなるだろう。コイツは好い。ガキどもの面倒はソーフィヤに見させよう。そうしよう。それがいい。チャウシェスクが理不尽な悲劇なら、俺は理不尽な喜劇を起こそう。そうしよう。ガキどもの驚く顔が眼に浮かぶぜ。

 

次の目的地が決まったので三人にも伝えた。孤児に金をばら撒きたい。そう、正直に言ったらレヴィが爆笑した。

 

「あはははははははッ!コイツぁ傑作だ!マルクスも草葉の陰で笑ってるさ!アンタはキチガイだ!最高にクールなキチガイだ!」

 

レヴィは一頻り笑った後、ラッキーストライクの煙をもはりと俺の耳に吹きかけて言った。

 

「アンタの好きにするんだ。この世界で生きてる連中の中で、アンタだけが正しいんだよ」

 

一緒にいるよ。そう言われているように感じた。心強いし、重いと思う。俺は別に正しいからする訳でも、正しくないからしない訳でもない。好きだからするのであって、嫌いだからしないのだ。

 

「そいつが好い。そのまま突っ込みな。あたしが優しく受け止めてやるよ」

 

レヴィは挑発するように煙草を噛んだまま顎をクイっと持ち上げた。剥き出しの歯が白く眩しい。恍惚としたように顔が赤く、目が爛爛としていた。

 

綺麗になったなぁ。けしからん。

 

レヴィをボーっと見つめていると、ロザリタとシェンホアは黙って荷造りを始めた。

 

「なんか言うことはないか?」

 

そう聞くと二人そろって「レヴィに聞いて」と答えた。レヴィの言葉が全てってことか。

 

俺は独りでに納得して荷物をまとめ始めた。穏やかな休日は楽しかったが、俺の衝動は前を向いていた。TUMIの鞄に最低限の私物を詰め終わったところで、部屋のドアがノックされた。出ると先日のスーツの白人が愛想のいい顔で立っていた。

 

「ご所望の品です。ご入用かと思いまして」

 

渡されたのは"DIPLOMAT"が刻印されたショルダーバッグだった。

 

俺が怪訝な顔をしていると、男が袋を開いて中身を示しながら解説してくれた。

 

「外交官が使う封印袋です。外交特権により税関などでも中身を見られることはありませんのでご安心を。貴方には特に外交身分を付与してあります。ごらんの通り、実体のない肩書のようなものにすぎませんが」

 

差し出されたのは色とりどりのパスポートだった。アメリカ合衆国とその同盟国に限り数か国分が四人分用意されてあった。俺のものは外交官が使うものと同様のものが用意されていた。肩書は"アメリカ合衆国特設友好委員会常任理事"という有難いのか迷惑なのかよくわからない肩書だった。職務について尋ねると、男の返答は苦笑だった。なるほど、実体はないと。まぁ、当然だが。

 

アメリカのパスポートを四人で装備してから、俺たちは空港まで送り届けられた。最後まで至れり尽くせりだったが、結局どうしてなのかは分からずじまいだった。鋭い人とか、有能な人とかならここで推理を建てたり、或いは行動の裏を読んで逆に利用したりするんだろうけど…俺にはそんなことできないなぁ。そもそもこれから無一文になる俺に親切にしたところで、利用のされようが無いしなぁ…。ま、いっか!

 

俺たちは時間ギリギリまでラウンジでバイキングを楽しんでから飛行機に飛び乗り、ルーマニアに到着するまでの空の旅をのんびりと過ごした。

 

 

 

 

 

 

 

ルーマニアについてすぐに、俺はここがろくでもない場所だと理解した。正確には碌でも無い奴が統治した結果が残されているだけなのだが。

 

首都に向かってすぐ、クソデカい国会議事堂を見上げて呆れたものだ。ほぇ~独裁者になるレベルのバカってのは会議するにも手間暇を惜しまないもんなんだなぁ…って。机と椅子と鉛筆とノート、足りなきゃパソコンがあれば済む話を、ここまでデカく大げさにできるというのも才能かもしれないな。建築家にでもなればよかったのに。

 

呆れながら市街を巡り、ホテルで一休みしてから俺はTUMIのアタッシェケースの中身を広げた。

 

時価総額80億ドル相当。数万ドルから数億ドルずつに小分けにしたカードと、10万ドル分の現金が俺の持つ全財産だ。貴金属はアメリカにいた彼女に譲ったから、手元にあるのは俺の左腕に巻かれたカルティエのタンクしかない。これだって骨董品みたいなもので、二束三文にしかなりはしないだろう。

 

俺はレヴィ、ロザリタ、シェンホアにそれぞれ一億ドルずつ配った。受け取り方も三者三様。レヴィはピュイっと口笛を一吹きして、イタズラっぽい笑みと共に片手でパシッと軽快に。ロザリタは跪き恭しく戴き。シェンホアはクリスマスプレゼントを貰った時みたいに目をキラキラ、ウキウキしながら両手で受け取った。

 

「好きに使ってくれ。それとは別に、一人頭25億ドルずつ国中の孤児にばら撒いてきてくれない?」

 

俺がやるとたかられて終わりな気がする。ので、そこんところ上手く収められて、尚且つ舐められない三人にお願いした。

 

「残りの二億はどーすんだ?」

 

「使い切るんだろ?」とレヴィに聞かれて、俺は首を傾げた。

 

「三人で考えてよ」

 

俺は疲れたのでそう答えてからベッドに入った。

 

破滅が近い。何時になく、破滅は近かった。俺はTUMIの鞄を開きっぱなしにした。何時もは誰かを誘って川の字で寝るところを、今日は一人でベッドに入った。声を掛けられる前に布団を被り、猫のように丸くなった。俺は頭を抱えた。耳を塞いだ。目を固く瞑り、もう何も見えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シーツの中は静かだった。あのまま眠ってしまった俺は、朝起きて誰もいないことに気が付いた。現金の十万ドルだけがぽつんと残っていた。TUMIの鞄は忽然と消えていて、俺が使ったベッド以外は使われた形跡が無かった。シャワールームにも、トイレにも、キッチンにも人の気配はなかった。

 

「誰かいないのかー?」

 

「おーい」

 

「ねぇ」

 

「ちょっと」

 

クローゼットの中。ベッドの下。キッチンの引き出し。全部確認したが、やはり誰もいない。

 

玄関にも確認したが、なんと靴もなかった。ボロのベルルッティである。ついでにアメリカを出て来た時から着ていた服もなかった。てろんてろんになったブルックスブラザーズの一張羅である。下着もない。履いていた分も脱がされていた。徹底されすぎていて驚いた。スースーするのでアメニティのバスタオルを腰に巻いた。汗をかいた体のまま使うのはもったいないので、シャワーを浴びてからにした。

 

昨日はワイシャツで腕時計を巻いたまま寝たから。ふと思い出して腕を見ると、そこには確かに黒文字盤のカルティエが巻かれていて、今日も正確に時を刻んでいた。下半身は裸だが。

 

「ふぅ」

 

俺は一息ついた。

 

不可解なことは多い。

 

でも、一人きりの事実が堪えた。じんわりと胃液がせり上がってくる感覚。喉が焼けるように酸っぱかった。

 

誰もいない。彼女たちの匂いも、残っていなかった。

 

最初から一人でここまで来たのだろうか。否、そんなはずはない。ならばどうしてフルチンなのだ。

 

俺は寂しかった。これでは外にも出れない。彼女たちを探しに行くこともできなかった。幸い暫くの間は飢え死にはしないだろう。現金の十万ドルがあればこの国なら三年か…いや、二年くらいは持ちそうだ。ホテル暮らしになりそうだが、ボーイと仲良くなったら服を買ってきてもらおう。そうしよう。

 

「はぁ~…」

 

寂しい。寂しい。

 

俺は寂しかった。

 

寂しかった。

 

「あーあ」

 

その一言に尽きる。

 

腹は減っているが、食欲はなかった。

 

胸が痛くて、息苦しくて、眩暈がした。

 

ひんッ…ひんッ…って、子供みたいに嗚咽が漏れた。もう泣くしかなかった。

 

俺は一人じゃ生きられない。そんなの死んだほうがましだ。でも、死ぬ勇気もない。

 

こうやって、死ぬまで生きてるんだろうな。

 

虚しかった。ただ、ただ、虚しくて切なくて寂しくて。

 

悲しくはなかった。悔しくもなかった。腹も立たなかった。

 

ただ寂しかった。

 

自由とは孤独なのだ。俺は自由を求めていたわけではなかったが、独りで立とうと、立ってみたいと思っていたのではなかったのか。

 

だのに、達成感など微塵も湧かないではないか。俺は寂しいことに耐えられない。もっと、自信に満ち溢れて、自分から誰かのことを強く愛せるようになると思っていた。だが、そうではない。そうではなかったのだ。俺は何処まで行っても、矮小で、醜悪で、卑劣で、幼稚で、そして平凡だ。わかり切っていたことを、今更になって理解するとは。群れの中で生かされる。群れの中でしか生きられないのだ。

 

俺はアイヒマンにも成れない。俺は、顔のないヒトラーにしか成れない人間なのだ。いや、もっともっと、俺は外にいるのだ。誰でもない何かなのだ。俺は石を拾い上げることもない。当然投げることも無いだろう。ただ石を投げられる事しか出来ないのだ。

 

情けない。不本意で、悔しい。屈辱的なことだが、現実として俺は家畜にしか成れないのだ。

 

哲学者は俺のような人間のことが大嫌いなのだろうな。一人で立とうともしない人間のことが。自分の弱さを認められない人間が。他人にばかり強さを求める人間が。人に媚びられて、褒められて、そういったことを嬉しいと感じてしまう人間が。

 

だが、どれだけ罵られるよりも、軽蔑されるよりも、俺は寂しいことが耐えられなかった。

 

家畜でもいい。犬でも猫でもいい。奴隷でもいい。俺を独りにしないでくれ。どうしようもない自分のことが、俺はそれでも可愛いよ。

 

認められなくても、惨めでもいいから。

 

人間無気力になれば寝るしかない。もう一度ベッドの上で横になり、腹の上で手を組んだ。プールの底から水面を見上げた時みたいに、視界がぼやけていた。指を噛んでみる。歯形が残った。痛かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気が付いたら朝になっていた。背伸びをして体を起こす。

 

眠れば大抵のことはスッキリするものだ。難しく考えることはよくない。心にも体にも。

 

俺はシャワーを浴びて、それからバスタオルを換えた。まだフルチンのままだった。

 

テレビをつけて、何もせずにボーっとしていた。

 

ルームサービスを呼び、バターをたっぷり使われたパンとサラダ、ポタージュみたいなスープを飲んだ。

 

煙草を買ってくるように言おうとして、銘柄が二つ浮かんだ。

 

「マルボロとラッキーストライクをワンカートンずつ。釣りはとっておいて」

 

二百ドルをポケットにねじ込むと、ボーイはたったか駆けてった。パンツを頼むのを忘れたと後になって気が付いた。

 

届くなり、それぞれに火を点けて交互に吸った。

 

「げほげほ…」

 

慣れないことはするもんじゃない。半分も吸わずに潰してしまった。

 

ワイシャツを脱いで、バスローブを着て、バスタオルを放り投げてやった。ん、解放感。

 

煙草がもったいないな。帰ってきたらあの子に上げよう。僕はそう思った。

 

あぁ、お昼ご飯は何を食べよう。人の体は不思議だ。どれだけ胸が一杯でも、腹が減る。

 

俺は昼ご飯に肉を食べた。薄いステーキだったが、国内製品を対外債務返済の為に輸出に全振りしてるような失敗国家の中では上等な食事だ。酒は飲まず、缶のコーラを貰って飲んだ。

 

もう一度眠ろう。俺は眠いのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俺が一人になって三日が過ぎていた。未だに俺は身動きが取れなかった。近所のパンツが何故か全部品切れだったからだ。三日前に外国人の三人組が買い占めて行ったらしい。相場の値段の三倍で、だ。恐れ入るよ。

 

俺はバスローブで過ごしていた。流石になれたが、俺のような小男には往年のハードボイルド俳優の如き貫禄は出せそうになかった。姿見に移ったのは、猫背気味の、もこもこに包まれたアジア人の青年にしか見えなかった。

 

昼に起きて、夕食を食べたらさっさと寝る生活を送っていた。三日などあっという間だった。もう三日過ぎても俺は変わらずここに居るだろう。同じように過ごしていることだろう。

 

不思議と嫌気がささないのは、心のどこかで期待しているからではなかろうか。帰って来てくれるのではないか。或いは迎えに来てくれるのではないか、と。

 

不摂生が続き、気だるげな眼を擦ってTVをつけた。すると、見覚えのある三人の顔写真がデカデカと報道されていた。

 

報道官が言うには、今まさに新進気鋭の自称投資家三人が、旧国営企業やら工場やらを買い叩き、それだけに飽き足らず孤児を違法に買い集めてロシアに移送しているらしい。俺の感想は「へー」だった。レヴィが似合わないリクルートスーツに身を包んでいたので面白かった。それくらいだ。

 

うーん。少しほっとしてしまった。そうかそうか。俺は安心した。あぁ、よかった。彼女たちが俺の金を使ってくれて。俺の金をもってってくれて。

 

バカは金の使い方が分からない。権力然り、金然り、暴力然りだ。バカに力を持たせると、過信し、勘違いする。新理論を実践したがったり、思想の実現の為に暴れたり。バカはだからバカなのだ。働き者のバカの何と有害なコトか。

 

だから俺は何もするべきではない。だが…

 

あぁ、俺は一つだけ間違ってなかった。なんと素晴らしいことか。

 

金持ちは正しく使えるから金持ちであるべきなのだ。俺には正しく使えない。でも、俺は一度だけ勝った。その一度の何と偉大なことか。

 

俺は漸く自由になれたのだ。破滅するにはいい日和だ。

 

酷くすっきりした俺は、テレビを消した。決心がついたのだ。俺はホテルを出ることにした。

 

全財産は現金で9万5千アメリカドル。一張羅のバスローブ。ホテルのスリッパ。カルティエの黒文字盤のタンク。尚、パンツは履いていない。

 

俺は堂々とした足取りでホテルを出た。世話になったボーイに全財産の9万5千ドルを押し付けて。

 

俺は自由だ。心も体も軽かった。俺の人生には意味があったと知れた。もう満足だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホテルを出た夜。ゴミ捨て場の隅っこで眠っている所を、俺は数人に囲まれ襲われた。彼らの狙いは俺の腕に巻かれたカルティエだった。寄越せというから譲ったら、気を失うまで殴られた。極めつけはナイフだ。撃たれたことしかなかったから、刺されたのは初めてだった。痛いと思った。無理に経験する必要のないことだったに違いない。

 

仰向けに倒れた。生ごみの匂いがした。お腹が痛かった。

 

板垣退助はよくもまぁ刺されてから叫べたものだ。俺は声も出なかった。

 

十分もしてから「ゔーゔー」と捻りだしたけど、そこまでだった。俺は、どうなるのか。

 

いや、どうもならない。

 

悪くない気分だったが…ママとパパにだけ、申し訳ないと思った。おじいちゃんとおばあちゃんにも、申し訳なかった。

 

手が震えた。全身が熱かったり冷たかったりした。ゆっくりと瞼が重くなっていく。お腹が痛かった。時間はゆっくりと感じられ、音は遠ざかっていった。

 

僕を襲った彼らは、貧しい身なりをしていた。彼らなりに、覚悟を決めて行ったのだろう。怖かっただろうに。あのまま何もせずに逃げていれば、きっと後から怖い思いもしなかったのではなかろうか。僕には出来なかったことだ。僕自身は殴る必要も刺す必要もなかったが、世の中にはそういう人もいるのだ。知らなかっただけなのだ。

 

息が細くなっていくと、どうにも心細くなった。僕は、見事に破滅してのけたのだ。自分可愛さに勝ったのだ。憎らしい自分に、ようやく懲罰を与えることが出来たのだ。僕は、自分で自分を罰することもできなかった。だから彼らには感謝していた。

 

声を掛けられた時、僕は運命の時が来たと思った。審判の時が来たのだと。託すつもりで時計を譲った。

 

生まれてきてごめんなさい。金持ちでいてごめんなさい。頭が良くないのにお金をたくさん持っていてごめんなさい。実力も、人望も、何も持っていなかったのにお金だけ持っていてごめんなさい。生まれが良かっただけで、僕よりもたくさん努力してきた人よりも、僕よりも大変な目に遭ってきた人よりも、僕よりも立派な振る舞いをしてきた人たちよりも、彼らよりもお金をたくさん持っていてごめんなさい。

 

僕は物を大事に使いました。僕は悪口をなるべく使いませんでした。僕は悪い人をやっつけました。

 

僕は満足だった。僕の傍には誰もいなくて、ただそのことだけがとても寂しいけれど。それでも僕は、とても清々していたのだ。

 

両親の遺産は、僕に食いつぶされることなく、世界の役に立ったのだ。顔も名も知らない誰かの人生を支える糧となり、未来の種を育む礎として世界に散らばって行った。愛おしい女性たちには一生食うに困らない財産を遺すことが出来た。彼女らは正しく、僕よりもよほど正しく金を使い、幸せに生きていける。飛び立っていった彼女らの幸福を祈ると、僕はとても幸せな気持ちになった。

 

思えば美味しい思いをたくさんさせて貰った。十分すぎるほどに。

 

僕は誰にも記憶されず、誰からも憎まれることも、再び愛されることも無いだろう。だがそれがいい。

 

最後の心残りだった父から贈られたカルティエも、知らない誰かの人生の一部として輝くはずだ。これからもずっと。僕を襲った誰かの糧となり、そして腕時計の持ち主となる誰かとの人生を新たに歩んでいくのだ。

 

レヴィとの出会いから十年弱。僕の破滅願望は遂に成就を果たした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちったぁ気が済んだか?」

 

意識が混濁して、何がどうなっているのかもわからなかった。ただ、声が聞こえた。空の高い所から降ってくるような声だ。

 

目は…何も見えなかった。真っ暗だ。

 

僕はよくわからなかったが、どうしてか懐かしく感じられて。自然と親しげに答えていた。

 

「あぁ…すっきりしたよ」

 

穏やかな声だ。自分のものとは思えない程に。

 

「そりゃ何よりだ…んで?どうすんだよ、これから」

 

どうする、か…。考えたこともなかったなぁ…。

 

「どうするんだろうねぇ…」

 

頭が働かなくて、今ならなんにでも言われた通りに頷いてしまいそうだ。

 

「アンタさ、なんかしたいこととかないのかよ」

 

したいこと?

 

「そうだよ。何が好きなんだ?何が嫌なんだ?」

 

そうだなぁ…。

 

「僕は、寂しいのが嫌だなぁ」

 

「あとは?」

 

あとは…。

 

「一緒に居て欲しいよ」

 

正直な気持ちだった。

 

「…あとは?」

 

それ以上は…何もしたくなかった。僕はバカだから。めんどくさいの嫌いだし。

 

「あとは、何にもしたくないなぁ…」

 

僕の答えに彼女は笑った。

 

「ククク…なんだよ、ソレ。ヒモにでもなりてぇのか?」

 

ヒモ…?なんだそれ。

 

「女を惚れさせて、好き放題するクズ野郎のことだよ」

 

からかうような声音で彼女は言う。

 

僕に惚れてくれるような女の子なんて、そんな子いるのかな。

 

「アンタ、自分のことなのに全然知らねぇんだな」

 

どういうこと?

 

「アンタほどヒモに向いてる奴なんざ見たことねぇよ。天性の才能があるぜ、アンタ」

 

ほ、ほんとにぃ…?

 

「マジだよマジ」

 

それってさ、誰にでも愛してもらえるって訳かな?

 

僕は好奇心の余り声に出していた。

 

「じゃぁ、君は?」

 

「アタシがいいのか?」

 

彼女が息を呑むのがわかった。

 

僕は正直に、素直に言葉を紡いだ。自然と言葉が流れ出て行った。

 

「うん。声、好きなんだ。」

 

鼻がぎゅって摘ままれた。彼女の手は熱かった。

 

「顔見てから言えよ、なぁ」

 

照れたような声…だったらいいな。

 

僕はつい必死になった。

 

「絶対美人に決まってる。僕ね、実は君と同じ声の子を知っているんだ」

 

彼女の声が止まって。息を吸い込んだのが分かった。

 

置いてかないで。そう思って手を伸ばした。闇雲に手を伸ばすと、すぐに誰かが僕の手を取った。

 

一拍置いてから、彼女の声が降ってきた。

 

「美人だったのか?」

 

そりゃぁ、もう!

 

「最高さ」

 

「好きだったのか?」

 

当然だ。

 

「愛してたさ」

 

「なんで抱かなかったんだ?」

 

誰にも渡したくなかったけれど…

 

「契約上の都合だね」

 

僕が言うと、彼女は鼻で笑った。

 

「バカだなぁ…」

 

「知ってる」

 

少し硬い声が出た。恥ずかしかったのかもしれない。顔が熱かった。

 

彼女の手が、僕の手首をなぞった。擽るような手つきは優しい。

 

潜めた声が、耳元で響いた。

 

「…今でも好きか?」

 

「好きだけど?」

 

何故そんなことを聞くのだろう。

 

「抱きたいか?」

 

「抱きたい!」

 

勿体ないことをしたと思ってるよ。

 

そう付け足すと、彼女は声を上げて笑った。噴き出した吐息が耳の奥に跳ね返って、僕の腰が跳ねた。

 

「…クククッ…ふっ…ぶふッ…あはははは!」

 

「ど、どうしたの?いきなり笑いだして…なんか面白いこと言ったかな…」

 

困惑する僕を他所に、彼女は上機嫌で言った。

 

「千ドルだ」

 

「へ?」

 

一体何のことだろう。

 

「月千ドルだ」

 

払うってこと?いや、払いたいのは山々なんだけど…。

 

「えっと…ごめんね?今、無一文でさ」

 

僕の言葉に彼女が激昂した。

 

「バカ!アンタから盗る奴があるか!小遣いの話に決まってんだろ!」

 

心外だという彼女。僕は困惑した。

 

えぇッ!?いきなり何の話?

 

「えぇッ!?お小遣い?な、な、なんで?」

 

「養ってやるっつってんだよ!このレヴィ様のヒモにしてやるっ()ってんだよ!!」

 

「え…」

 

レヴィ…名前まで同じだなんて…。

 

「んだよ…文句あっか!?」

 

「ううん、あるわけないよ…でも、いいの?」

 

ヒモってそんな風になれるものなの?

 

好いに決まってんだろ…この話は終いだ。それよりも、だ…あの腕時計どうしたんだよ。大事にしてただろ?」

 

あぁ、腕時計ね…。

 

「あげちゃったよ」

 

面食らったレヴィちゃんは口ごもってしまった。きっと変だと思われたんだ。どうしよう、ヒモはやっぱりなしとか言われちゃうかな。

 

「あげちゃったよって…じゃあなんで殴られてたんだよ」

 

それは…それは…あー…えっと…

 

「わかんないや」

 

「わかんないやっ…てなぁお前…腹立たねぇのかよ」

 

腹が立つ?

 

…いや、寧ろ…

 

「うん。感謝してる」

 

「…キチガイめ」

 

レヴィちゃんの辛らつな言葉が、僕には心地よかった。

 

すごいすごい!まるで本物のレヴィと一緒に話してるみたいだ!

 

「ごめんなさい」

 

「いや…悪い…」

 

「……」

 

「……」

 

夢でも、こんな素敵な体験ができるだなんて。僕はなんて恵まれているんだろう。

 

あぁ、今日は好い日だ。

 

「…レヴィちゃん」

 

「んだよ…」

 

「ありがとう」

 

「黙っとけ…礼を言いてぇのはコッチなんだよ」

 

僕が君に何かしてあげたことがあっただろうか…。

 

「…僕の知り合いに、レヴィって子がいてね」

 

「お、おう…いきなりどうしたんだ?」

 

僕がしみじみと語り始めると、レヴィちゃんは戸惑ったような声を出した。

 

「いや、あまりにも君がレヴィちゃんみたいだったから…」

 

「…ちょっと待ってろ」

 

「え、あぁ、うん」

 

怒ったような声で吐き捨てるように言って、彼女はどこかに行ってしまった。

 

何か悪いことをしてしまったのだろうか…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結論から言って、僕は死んでいなかった。

 

問題はどうやらレヴィちゃんは声が同じ別人ではなく本人で、夢での出来事じゃなくて事実だったってこと。

 

僕は本物のレヴィと一緒に話していたらしい。

 

なんだよ。先に言ってよ。凄い恥ずかしいじゃん。

 

「じゃぁ何か?テメェは自分が死んだって思い込んでたわけだ…幸せな夢を見てましたってか?えぇ?」

 

「どれだけ探したと思ってるんですか?」

 

「勝手に死ぬのは、ナシだよ」

 

順にレヴィ、ロザリタ、シェンホアだ。死んだ魚の眼のような瞳で僕を睨んで離さない。あぁ、君たちはどうして戻ってきてしまったのか。

 

僕は唖然とした。

 

「なんで戻ってきちゃったの!?」

 

僕の声に対して三人は呆れたように息を吐いた。

 

「アンタのとこ以外に何処に帰ればいいんだよ。是非ともご教授願いたいね」

 

「ここまで思いつめられていただなんて…気づくことが出来ず申し訳ありませんでした」

 

「パスポートもパンツも無ければ外に出ないとか、アナタそんな甘い相手じゃなかったよ。反省ね」

 

うーん…にしても、である。置手紙も無しに出て行かれたからてっきり戻らないものと思ったのだが。

 

そんな僕の細やかな疑問が三人を爆発させた。

 

口火を切ったのはレヴィだった。彼女はベッド脇の椅子から立ち上がると拳を顔の前でわなわなとさせながら、涙声で叫んだ。

 

「アンタが使い切って来いって言ったんだろうが。誘ってくれもせずに先に寝ちまうし、捨てられたかと思ったのはこっちの台詞だわッ!!」

 

僕がレヴィの言葉に絶句していると、今度はロザリタが油の切れたブリキ人形のようなぎこちなさで微笑みながら言った。

 

「私もレヴィもシェンホアも、貴方の勘気に触れてしまったのかと気が動転して…捨てられるのかと、そう思ったらもう…とにかくお金を全て使わなくてはと考えて、必死で三人で駆けずり回っておりました…護衛失格です。罰は如何様にも…」

 

犬歯を剥き出しにして、縋りつくような壮絶な表情を浮かべていた。震える体を抑えつけているし、目も血走っていた。

 

え、ごめん。

 

俺の困惑にとどめを刺したのはシェンホアだった。

 

「朝まで駆けまわって気づいたらスッカラカンね。ちゃんと仕事はしてきたよ。信賞必罰よ。ほら、さっさと抱くですだよ」

 

そう言うやペロンとチャイナドレスのスリットを覗かせた。艶めかしさに息を呑む。

 

チッとレヴィの舌打ちが響いた。

 

「病院で盛りやがって…まぁ、そう言うわけだ」

 

それが全てだった。あぁ、なんだぁ…

 

「全部、僕の所為か…」

 

僕は脱力した。涙と鼻水がぼどぼど垂れてきて、止まらなかった。

 

「…アンタ、ホントに何にも理解してねぇんだな」

 

レヴィは俺の鼻を優しく拭いながら説明してくれた。ロザリタの手が俺の背を摩ってくれた。シェンホアは手慰みに俺の頭を撫でてくれた。

 

「アンタが言ったんだろう?飼ってやるって。あたしらは、アンタの犬なんだろ?従順で、アンタのことだけ考えてなきゃダメだって、アンタが教えてくれたんだろ?なぁ、まだ理解できねぇのか?」

 

物わかりの悪い生徒に教えるように、子供を諭すように。レヴィは俺の横顔を神妙な面持ちで見守り、言った。

 

「とっくの昔にアンタしかいないんだよ。あたしにも、ロザリタにも、シェンホアにもな。アンタしか、いないんだ。アンタだけなんだよ」

 

未練も。しがらみも。執着も。懸想も。

 

「その上で確認だぜ?…小遣いは月千ドル。おっと勘違いすんなよ?女一人あたりだ。女一人頭千ドル。な?ボロいだろ?愛人でも何でも作りやがれ。三食昼寝付き。デザートも女の世話もしてやるが…どうする?なるか?あたしの…あたしらのヒモに」

 

僕の顔を両手で優しく包み込むように…。その力は弱弱しくて、穏やかで…なのに、逃げられなかった。

 

真っ黒いレヴィの瞳が収縮した。潤んでいて、今にも涙が零れそうな程だ。真っ黒な瞳と、綺麗な涙が混じり合わずにそこにある。僕を見ていた。そこには僕しか映らない。僕しか見えていなかった。

 

「気持ち好いぞ、きっと。全部アンタの思い通りにしてやるよ。邪魔な奴がいる?あたしが殺してやるよ。気に入った女がいる?女の調教は得意なんだ、アンタには要らねぇかもしれないが…言ってくれればいつでも用意するよ。気が向けば抱いてやれよ。金が欲しい?稼いでくるから女抱いて待ってな。それとも…あたしのことも抱きたいか?」

 

ニヤニヤと笑い。目元が細かく痙攣していた。退廃的な湿った吐息が耳に流れ込んだ。耳に入り込んで、脳髄を伝って、そして背筋を舐る感覚が。

 

「…いいぜ、今ここでヤってやってもいい。あぁ…ホント、トサカにクるぜッ…その顔…」

 

ケタケタと笑ったかと思えば、レヴィと額合わせになっていた。おでこが熱い。まん丸の雫が一粒だけ彼女の瞳から零れて、伝うのではなく、転がり落ちて行った。

 

あぁ、もったいない。どんな宝石よりも綺麗だと思った。

 

「アンタ、可笑ッしいんだよ。アンタの所為だよ。アンタの所為で、皆みんな狂っちまう」

 

口に出ていたみたいだ。レヴィの顔が茹るように赤くなった。耳まで真っ赤になり、歯噛みして、空気が抜けるように腰を落とした。

 

「好き放題しろよ。嫌なことなんか他の奴らにやらせとけ。アンタが頼めば喜んでやってくれる奴を嫌と言うほど知ってるよ。誰もやらなきゃあたしがやる。そこの眼鏡サイボーグとですだよ姉ちゃんも頭数に入るぜ?」

 

自暴自棄になったみたいに…違うね、安心したんだ。そうだ、きっと今の今まで僕はさぞかし酷い顔をしていたに違いなかった。レヴィは優しいから心配して、どうにか解してあげたいと思ったのだ。

 

僕は勝手に解釈して。勝手に優しい気持ちになった。

 

「…で、アンタはどうしたい?アンタは何が好きなんだ?アンタは何が嫌なんだ?」

 

スッキリしたような声でレヴィが問うた。

 

僕が、いままでそうしてきた様に。

 

僕の答えは…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二億ドルの使い道は三人が決めてくれた。

 

彼女たちは二億ドルで僕たちの居場所を手に入れることを選んだ。僕達だけの場所を。

 

選ばれたのはそこそこ大きい島で、そこに小さな街を作るのだという。

 

街と言っても、寄り合い所帯と言うだけ…らしい。難しいことは何もわからなかった。彼女たちはそれで好いと言い、僕も納得した。

 

二億ドルは彼女たちのものだ。僕は文無しで、世界一幸福なヒモになった。

 

僕はようやく安心することが出来た。夜もしっかり眠れる。

 

ここからの僕の人生がどうなるのか…それは彼女たち次第だった。

 

僕は何も持たない。何者でもなくなった。念願は叶ったのだ。

 

破滅願望は、結局のところ僕に最好の結果を招き寄せてくれた。

 

流れに落ちた葉は流されるばかりだ。

 

僕は新居であるロアナプラ一番地一号から絵葉書を送ることにした。宛先は勿論実家だ。

 

最早、僕の帰る場所はレヴィやロザリタやシェンホアがいてくれる場所しかなく。彼女たちが迎えに来てくれる場所こそが、僕がいるべき場所だった。

 

おじいちゃん、おばあちゃん。そして愛しいイディス。

 

アメリカから遠く遥かな、この物騒な島から便りを送ります。

 

きっと最後になると思います。

 

僕は健康でやっています。どうかお元気で。ずっと健康で、不幸は最小限に、幸福は最大限でありますように。

 

『ロアナプラより愛をこめて』

 

 

 

 

 

 

 

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