双子の誘拐事件と名付けられた今回の一連の事件によって、イタリアン・マフィアのコーサ・ノストラはシマの3割近くを喪失することになった。現ボスのヴェロッキオは全治三か月の重傷を負った上に、母国はパレルモの親分衆からの責任追及を受けることになり、新たにロニーと言う名の幹部が繰り上げで新たなボスに就任することが内部では既定事項となっていた。
常ならば
前回の
この100万ドルのキャッシュは、
バラライカが主導権に固執したのは二度目だった。
珍しいものを見たと感じた者も多かったが、一方で都合片手で足りる席しかない、この街の
「…揺さぶりをかけて見た甲斐があったな」
ホテル・モスクワの勢力圏内にある政庁から一刻も早く離れるべく、体を浮かせるように走らせる車の中で。そんな風にしみじみと呟く男の姿があった。サングラスをかけ、一流のスーツで身を固めたアジア人のこの男の名は張維新である。香港の
「何者なんだ?この、レイジってのは…」
もう一人の男もまた、議員の一人だった。なのだが…張に比べるとどうにも貫禄の無さを感じる風体だ。この男はアブレーゴ。南米に根付く組織の代表者であり、ロアナプラ現地のコロンビア・マフィアのボスも務めている。浅黒い肌に常に冷や汗の雫を浮かべているような男だ。あからさまに中間管理職の悲哀を背負っていると言えば伝わるだろうか。
「さあな…何にもわからん。目撃者も証言者もいるが、アイツの仕事や経歴について知る者は誰一人としていなかった」
さて、そんな二人がどうしてこんな話をしているのかと言えば、今回の双子騒動の裏で糸を引いていたのが、何を隠そうこの二人なのである。具体的にはアブレーゴは追認しただけであり、計画と根回しは張が実行した。全てはエクストラオーダー社がイエローフラッグを更地に変えた夜に、張がバラライカから感じた違和感を確かめる為だった。その為に、バラライカの身辺を探り続けた。そして金と時間と人を注ぎ込んで指に触れたか細い糸を手繰り寄せたのだ。
「まるで亡霊だな…それで?ヴェロッキオのとこの騒ぎもアンタの仕込みか?」
「冗談は止してくれよ。あんなメイドが出るなんざ完全に想定外だったよ」
アブレーゴの言葉に張は首を振った。変な誤解は生みたくない。張の見立ててでは、レイジという得体の知れない男がホテル・モスクワにとって価値のある存在だと言うことだけは今回の騒動と通じて理解できた。だが、それだけだ。寧ろそれしかわからなかった。理由も正体も。何もだ。
「それじゃあ、何処までがアンタの仕込みなんだ?」
「知りたいか?」
「今後も共存していくためにも、是非とも教えて貰いてえ…」
アブレーゴがバツの悪そうな顔で言った。怖いもの見たさもあった。張はそんな頼りない共犯者のことを信頼していないが、信頼していないが故に今はまだ信じさせておくことにした。ある程度は喋ってしまっても、最早過ぎた話だ。
「売春窟のボーイまでだよ。アイツには金を握らせてな、ウチの幹部と挿げ替えさせたんだ…まあ、そもそも幹部殺し云々それ自体が仕込みだったのさ」
「は!?じゃあ、はじめっから双子に殺させるつもりでッ……」
アブレーゴが驚いたように言った。張は煙草を咥えて火を点けた。ヴェロッキオに少し前から三合会系列の組織を使って嫌がらせを仕掛けたりもしていたが、一番は内部に金で靡く若い衆がいた所為だ。若い衆が情報屋のタレコミという名目で、三合会の幹部の来訪を報告させたのだ。偽の予定表とそのためだけに記録して渡した証拠写真まで使って。
無論、不規則に動くレイジの法則性を補足することは簡単ではない。だが、監視さえつければその日の動きの補足自体は難しくない。単独で外出する頻度が増えていると監視から報告されてから、張はすぐさま計画を実行に移した。家を一人で出た瞬間から、客や通行人に扮した監視者に逐一動きを報告させ、そのレポートに基づいて繁華街に集中配置した。
しかし、張の努力は徒労に終わった。
と言うのも…運がいいのか悪いのか、ピンポイントにコーサ・ノストラの内通者が扮したボーイの店に彼は捕まったのだ。本来の計画では、彼を三合会の店舗で確保した上で、コーサ・ノストラの勢力圏内の売春窟で殺害する予定だったのだが…いきなり大本命を引き当てたことで、彼は結果的に命拾いしていた。
ロシア人との折り合いが悪いイタリアン・マフィアと違って、ホテル・モスクワとも比較的共存共栄路線を組んできたチャイニーズ・マフィアは、イタリア人が二の足を踏む中で躊躇せずに一歩を踏み出した。バラライカとCIAの次にロアナプラに参入することが出来たことで、実質的に二番目に広大なシノギを確保できたのだ。
ロシア人は嫌いだが、パイ自体は惜しまずに切り分けるだけの度量を認めていた一方で、貪欲にシノギを広げるばかりのチャイニーズ・マフィアには散々に煮え湯を飲まされてきたのだ。そんなヴェロッキオにとって三合会は目障りな組織の代表格だった。ロアナプラの調停者だと、誰もが暗黙の了解を得ているホテルモスクワに対して噛みつくこととはリスクが違うのだ。
だから三合会の幹部来訪を信じ込むことも、その始末の為に双子を出してくることも容易に想定することが出来た。結果は張の思惑通りに進んだ。金に目がくらんだイタリア人の若い衆はボーイに成りすましてレイジを嵌めた。宿に閉じ込めて逃げられない状態を確保してから、あの双子をけしかけたのだ。気に食わないイタリア人に苦い薬を飲ませ、得体の知れない不気味な男を殺し、そしてロアナプラの
「ふぅ……そのつもりだったんだが…まあ、御覧の通りだ。コーサ・ノストラはメイド一人に壊滅させられた挙句、ヴェロッキオは奴が恐れていた通りにクーポラに呼び出しを食らって早晩カモメのクソに変わる運命だ。これじゃあ奴さんも、メイドに撃たれて死んじまったほうが恰好がついただろうに…最後までしまらない奴だったよ」
「…肝心の男も死なず、双子も五体満足のままだ。ボーイが真っ先にくたばったことだけが不幸中の幸いだな」
実際、アブレーゴの言うとおりだった。だが、片手落ちは疎か、寧ろこの街でのホテル・モスクワの権威を高めたような形になってしまったことが面白くなかった。アブレーゴを誘ったのも、マニサレラ絡みで全体からみると一段下に格落ち感が否めなかったからだ。バランスは均衡しつつも、三合会の利益が最大化することが望ましい張にとって、アブレーゴへの譲歩と両者の協調は、三合会が他勢力にも隠然たる影響力を発揮する上で重要な
張の見立ててでは、ロアナプラの秩序を維持する上で、CIAに配慮しつつもロシア人の力を削ぐことが肝要だと考えられていた。
張の見立てはあながち間違いではなかった。
ただ、一つだけ。一つだけ間違っていることがあった。
それは、ホテル・モスクワとCIAすら隠れ蓑に過ぎず、バラライカとエダという生身の人間が国家権力の化身として、無私かつ強固な連携の元に共存していることである。
アメリカ合衆国と旧ソヴィエト連邦による協調が百年後も継続されている保証はないが、少なくともこの先20年の間だけは両国の国益が対立することは確実に無いと断言できた。この先20年間だけは、たった一人の男の好き嫌いの為だけに国家予算が動く。無力な化け物が不世出の化け物に有り余る力を与えた結果だった。アメリカはロシアの為に、ロシアはアメリカの為に。それが彼にとって都合が好いという理由だけで身銭を切ることを厭わない。そして、そのことに誰も違和感を覚えることも無い。真実は常に闇の中。唯人が神意を理解することは許されないのだ。
そんな裏話はさておき、張とアブレーゴの乗る車がある住宅街の一角で信号に掴まった。ふと外を眺めると、そこには建てられたばかりの公園が広がっていた。高台に面した住宅地の建設予定地が、気が付けば公園になっていた。シシリー島にも似た地中海風の立地だった所為か、土地の購入者はイタリア人だったが、事務所でメイドにかち合って無残な死を遂げたそうだ。気の毒な話だった。
「…にしても、双子があの男に懐くとはな」
アブレーゴの視線の先では、四人の人影があった。メイド姿の女が一人。みすぼらしい男が一人。そしてプラチナブロンドの双子だ。
「全くだよ。まさしく青天の霹靂だ。今や普通の親子みたいに公園で遊んでいやがる。参ったな…」
海が好く見える場所に造営された公園は、遊具はブランコくらいのもので、ベンチや屋根のある休憩所があるだけだった。緑道もあったが、元の敷地が狭いだけに、それほど立派な物でも無かった。だが、景観だけは確保されていて、青い海がくっきりと見えた。ロアナプラは狭い島で、狭い世界だ。ましてここに集まってくる人間に、まともに海を眺めたがる人間がどれだけいると言うのか。気の利いた施設だったが、誰もその気遣いには気づくことが無いように思えて。だから張はこの綺麗なばかりの公園をあまり好まなかった。悪党には眩しすぎる。それこそ純真で悪意を知らない子供を、子供想いの親が遊ばせるための場所だ。日向にしかないような代物は、この世界では不愉快なオブジェに映る。
「楽しそうに遊ぶでもなく、海を眺めてやがるぜ…信じられねえ、アレが噂の双子かよ」
アブレーゴは口をあんぐり開けていた。ベンチに腰掛けた男の手を取って、双子が両脇にお行儀よく座っていた。全員、視線はぼんやりと海の方に向いていた。特等席からは本当によく海が見えた、街を一望できるうえに、その先の海も独り占めできる。眺めを楽しめるだけの余裕があれば、さぞかし素敵な絶景スポットだった。
「メイドの手にゃバスケットと…俺は夢でも見てるのか?どうして手前をオーバードーズで殺しかけたガキとあんなふうに穏やかに過ごせるんだ?正気の沙汰だとは思えねえ…」
張はサングラスを外して目を擦った。こなれて色褪せたアロハを着た男と双子が腰かけるベンチの後ろで、置物かと見間違えるようなメイドが佇んでいた。背後に侍る彼女の手には編まれたバスケットがあった。防弾繊維で編まれた仕込み傘を日傘替わりに携えていなければ、そこからサンドウィッチと紅茶入りの魔法瓶が出てきても不思議じゃなかっただろう。張は眼を擦って二度見するが、やはりそこには穏やかな日常風景があるばかりだった。
「おい張!あの野郎、マトモじゃねえ!」
「アブレーゴ、そんなことは今更だろ?それより…これからだ。今回の結果を踏まえて、今後も揺さぶりをかけ続けるぞ…均衡を取り戻せば俺もアンタんとこも、ロアナプラでの安定した基盤を手に入れられる。アンタもこんな田舎で一生を終えたくはないんだろ?」
張の言葉にアブレーゴが唸った。サングラスを指でかけ直しつつ、ちらちらと張の顔色を窺った。正直なところ、あの男と関わることが不安なのだろう。双子と同じだが、双子以上に厄介な匂いがする。その証拠に、何故だかホテル・モスクワの庇護を手に入れていることが明らかになった。先の事件で連中に護送されて、傘下の病院に担ぎ込まれたことからも、そのことは疑いない。
「あ、ああ…本国でも
「それでいい…次はもう少し慎重にいくとしよう。先ずは何より、あの男とバラライカの関係性を探ってみるさ。あの男の正体を暴いてやる…」
男…レイジ。ただそれだけ。名前以外に明らかなことは、レヴィやシェンホアやバラライカと何らかの関係性があること、おっかないメイドを連れていること。そして厄種の双子を手懐けてしまったことだけだ。
アブレーゴと別れ、自宅に戻った張はソファに腰を沈めてついさっきのことについて考えていた。
レイジと言う男についてだ。最近一番の懸案事項だった。何者なのか…。尻尾も掴めないその正体が不気味だ。月明かりの注ぐ夜の窓辺で、風に揺らぐレースカーテンのように不気味だった。杳として知れない全容が警戒を煽っていた。何か後戻りのできない闇に片足を突っ込んだ気になっていて、実際には半身を到の昔に呑まれていた時のような感覚だ。足元が不確かで、歩いた気になって一歩も進むことなく浮いているようだった。ずっと同じところで足踏みを強いられている気がしてならなかった。
情報屋なのか、殺し屋か、人質か…。まさかあの女に限って囲ってる恋人だなんて線はあり得なかった。張は自分のギャグのセンスが酷いことを人に指摘されるたびに疑問に思う。
「だってそうだろう?あのバラライカが得体の知れない男に入れ込んでるだって?」
「アハハハハハハハ!笑えるぜ!こんなに笑えるギャグも無い!流石の俺でもわかるぞ!そいつは酷い冗談だ!もう少しマシなギャグがあるだろう?それこそ、レヴィが囲ってる男ってな線の方があり得そうな話だ。ビジネスライクでドライな女だが、それでも木の股から生まれたって訳じゃない。だがあの
「はぁ……あり得ないな。うん」
張は思った。
「…やっぱり、俺のギャグのセンスは酷いのかもしれない」
プール付きの高層マンションに暮らす張の静かな夜は、こうして愉快なギャグと共に過ぎていった。
「姉様、海だね」
「兄様、海だわ」
二人の前には、海が広がっていた。あまりきれいな海ではなかったが、海には変わりなかった。海は海だった。
「これが海なんだね」
「本物はあんまり青くないのね」
ヘンゼルが納得したように言うと、グレーテルががっかりしたように頬を膨らませた。
「手で掬ってみても青くないね…不思議なの」
「本当に?…まあ、本当だわ!知らなかった…」
ヘンゼルが感心したように言うと、グレーテルもマネするように両手でお椀を作って水を掬い上げた。
「青いインクが溶けて、だから水も青いと思っていたけど…えい!」
「きゃあ!兄様!折角のお洋服が汚れちゃうわ」
ヘンゼルが思いついたように水を掛けた。
「ふふふ、姉様、大丈夫だよ。だってもう僕たちは自由なんだから。お洋服を汚したって、怒られないんだよ」
「あ…うふ、ふふっ…あはは…そうね…そうだった。あ、でもね兄様、あんまり酷いとメイドさんに叱られちゃうわ」
少し深い所まで行くと、スカートを水に漬けながら、グレーテルは言った。ヘンゼルは、グレーテルの手を引いて、浅瀬に戻すと頬を寄せた。
「そうだね。うん、メイドさんは怖いからね。でも、怒られたらお兄さんの後ろに隠れちゃえばいいんだよ」
「まあ、ズルいわ兄様…メイドさんを困らせたらいけないわ」
見つめ合うと、ふわりと笑い合った双子の表情は年相応に幼かった。
「ふふ、うん!…ほら、水遊びをしようよ、海の水は涙よりもしょっぱいんだ」
「本当かしら?…うぇ…しょっぱい!」
グレーテルが顔を顰めて、舌を出した。喉仏が動いたのが見えた。
「あははは!そんな一気に飲んだらいけないよ!」
「げほげほ!も、もう!先に教えてったら!兄様のイジワル!」
「悔しかったら水をかけてごらんよ!水のかけあいっこさ」
咽ながらも駆け出したグレーテルと、水飛沫を背中に浴びながら追われるヘンゼルは浅瀬を踊るように遊びまわる。
自然と彼の方へと体が動いていた。ゆったりとした時間が流れていた。だんだんと彼のいる場所が近づいてくる。
ヘンゼルとグレーテルが海で遊んでいた。水着はまだ買っていなかった。喪服のような黒い服のまま、裸足になって砂浜を駆けまわり、彼の元に戻ってくると、海水の塩辛さを確かめたり、寄せては返す波を足首までの浅瀬に浸かって感じていた。
瞼を閉じた双子が手を繋いで、じっと海と陸の狭間に佇む姿は、沈黙と共に祈る姿のようにも見えた。
けれど、彼らの世界に神はいない。勘違いしないで。誤解しないでくれ。夢を見ないでくれ。別の誰かを重ねないでくれ。
純粋に。誠実に。ただあるがままの水の冷たさを感じているのだ。波の感触。砂に足の指を沈めて、その柔らかさを確かめていたのだ。祈りなど…。例えることも無粋だった。
映画のクライマックスに相応しいのかもしれない。でも、彼女たちにとってはここからが始まりだった。壊れたまま、狂ったまま。二人の本質は何一つ変わっていない。良心も悪意も無しに人を殺してしまえる。命を奪い取れるのだ。老いも若きも。男も女も。
けれど、元を辿れば、男も女も、大人も子供も、同じように二人の世界から全てを奪って行ってしまった。何も残らなかったから、与えられるままに血と闇の世界に沈んだ結果が双子の人生だった。
だから、双子が悪かったとは、間違っていたとは、彼は死んでも思わない。考えられないことだった。
「ヘンゼル。グレーテル。お家に帰ろうよ!そろそろ暗くなっちゃう!夜道は怖いんだよ!主に僕が!」
遊び疲れた様子を見せない、無尽蔵の体力を持つ子供二人。彼は双子に声を掛けた。情けないことこの上ない誘い文句だった。
「ふふ!どうしようか、姉様。お兄さんを守ってあげようか」
「うふふ…兄様、お兄さんは弱いのよ?私たちが守ってあげなくちゃ」
「姉様の言う通りだ。僕たちが守らなくちゃね」
「兄様の言う通りよ。私たちが守ってあげましょう」
「「だからね、もう少しだけ海で遊ばせて!」」
双子のお願いに対して、彼は夜道の恐怖と双子の遊ぶ時間を天秤に載せた。
「あと十分くらい?」
「「お願い!お兄さん!」」
試しに傾けた天秤が双子の想いに沿わなかったので、思い切って片方の皿を力いっぱい手で押し下げた。
「じゃあ一時間だけ」
「「ありがとう!お兄さん、愛してる」」
現金な双子の言葉も、彼にとっては子供らしくて微笑ましかった。頬を掻く時に持ち上げた手を、咄嗟に腰の裏に隠した。手の震えを無視して、彼は双子の後を追った。
「大袈裟だなあ…僕も、その…愛してるよ」
顔が赤くなったが、陳腐でも、言葉に出さなければ。少なくとも、彼は寂しく感じるだろう。愛の言葉は陳腐でも口に出すべきだ。安売りしても尚、愛おしく感じられるまで繰り返したって構わない。出し渋るよりもうんとマシだ。ダイヤモンドのように希少価値を死守するよりも、双子にとってありがたみが無くなるまで普通で自然で当たり前にしてしまいたかった。河原の石を愛でられるように、双子が陳腐な言葉を愛でられるだけの余裕を手に入れられるのならば、それは素敵なことだと彼は思う。嗚呼、頭が痛い。
「クスクスクス…ご覧よ姉様。お兄さんたら照れちゃってる」
「うふふふ…もっと恥ずかしいことだって知っているのに。可愛いお兄さんね?兄様」
「僕も遊ぶ!遊ぶから混ぜてよ!」
彼は上着を着たまま、海に走った。白波と濃い青が溶け合って、透明なガラスみたいに光を反射した。双子に両側から手を引かれて、鈍くさい彼は頭から砂浜に転がった。濡らすのは膝下までの誓いは早速破られてしまった。ロザリタが迎えに来る頃には、きっとすっかりずぶ濡れだ。まあ、双子が楽しそうにしているから別にいいや。
地平線に夕日がゆっくりと沈んでいく。とっぷりと更ければ、きっと今日はよく晴れた夜になる。綺麗な月が見えるだろう。海の見える部屋も考え物だ。二段ベッドがいいだろうか。それとも、一人一部屋がいいのかな。引っ越しも視野に入れつつ、暫く一緒に暮らすんだ。
帰りはイエローフラッグに寄らずにまっすぐ帰ろうか。今日は休みだったから、レヴィに双子のことを紹介しよう。夕飯は帰り道にある屋台でカオマンガイでも買って食べようか。湯舟を張って、この子たちが風邪を引かないようにしないとね。
双子も彼も泳げなかったが、一時間はあっと言う間だった。水を吸った服が重くて、車のシートがずぶ濡れになった。革シートだった所為で双子はロザリタに叱られて、彼は摩擦で燃えるくらい丁寧に全身を拭かれてしまった。風邪を引いたらマズいのだ。彼がロザリタに世話を焼かれたように、彼も双子の世話を焼いた。
最終的に双子に彼が世話を焼かれるようになって落ち着いたが、双子は満足げだった。
いきなり子持ちになったことを食卓で打ち明けられたレヴィだったが、これと言って驚いたりもしなかった。驚いたは驚いたのだが、子持ちになったこと以上に、薬物中毒を患ってしまったことを心配していた様子だった。さもありなん。
レヴィの不安は的中し、彼はこの先、薬物中毒と長く付き合っていくことになる。
というのも、何処かの双子が
この先、彼は生来のパラノイアや不安症、躁鬱に加えて軽度の薬物中毒とも戦い続けることになった。幻覚や頭痛や吐き気に体の震えが彼を襲う。双子たちが、ほんの少しだけ、ほんの少しだけ、クスリを使ってまで自分の精神と肉体に、他ならぬ自分たちへの愛情を束縛しようとしたことを彼は甘んじて受け入れた。殺人も、嗜虐も、性愛も。全て。全て。
皮肉か、或いは本望か。彼に受け入れられる全ての行為を通じて、双子は不安や渇きを満たすことが出来るようになった。これにより、双子にとって殺人は生理現象から習慣へと、習慣から趣味趣向へと、優先順位の降下を変遷し続けることになる。それはそのまま、ある意味では多くの人間にとって少しだけマシな人間になったことを意味した。少しだけまともになったことを意味することだった。
だが、転じて双子が固執するようになったのは
ヘンゼルとグレーテルは愛情のアンチエイジングとエンバーミングの為に麻薬に手を出した。自ら使う為ではなかった。悪いことだと理解しつつ、酷いことだと知りつつも。愛情の確認作業の為に、そして快楽への耐性を限りなく低下させて自分たちに依存させるために。彼が狂って泣き叫んで懇願するまで水滴を額に垂らし続けるように、物足りない微量の薬物を彼に投与し続けた。自分が壊れていることも、自分が狂っていることも既知のこと。だから、その上で愛されている実感が欲しい。その為なら何でもしよう。
幻覚に苛まれる彼をお世話しよう。性衝動に狂った彼を受け止めよう。混濁した意識で失禁する彼を浄めよう。泣き叫ぶ彼が現実を視なくても済む様にご奉仕しよう。謝り続ける彼を押し倒して一緒に眠ろう。
私が子守唄を詠ってあげましょう。僕が耳かきをしてあげる。私が貴方の背中を流してあげる。泣いてるお顔を隠せるように、僕のお腹を貸してあげる。
だから僕のことを愛して。だから私のことを愛して。見捨てないで。忘れないで。ギュッと抱きしめて。置いて行かないで。手を握っていて。この手を引いて。優しく頭を撫でて。褒めて欲しいの。優しくしてほしいの。もっと強く抱きしめて。上書きして。貴方に綺麗にして欲しいの。幸せを教えて。平穏を教えて。あったかいを教えて。切ないを教えて。恋を教えて。愛を教えて。弱くても好いんだって思わせて。貴方のことを信じさせて。私たちを信じて。僕のことをずっと大切にしてね。私のことをずっと大事にしてね。くだらないことで笑いたいの。美味しいご飯も食べたいわ。温かいお布団で眠りたい。三人で一緒にいようね。ずっと。ずっと。
双子の愛は純粋で。健気で。澄み切っていて。歪で。そして甘美だった。
双子に向ける男の愛は生臭くて。醜悪で。憐れで。稚くて。そして誠実だった。
双子との共同生活が始まっても、彼は変わらない。いつも通りの平穏な日常と、飛び切り刺激的な日常が、互いに飽きを感じた頃合いを見計らって挿入される。そんな人生がずっとずっと続いていく。でこぼこしていて。彼に完全な平穏は訪れない。彼は一生人並みの幸せを手に入れることはできない。
だが、それが彼の幸せだ。彼に縋って生きている。彼も縋って生きている。人と言う字が言う通り、彼も彼女も寄りかかり合って生き続ける。彼の器が満ちることは無い。底なしの器に厄の種を、深淵の如く吞み込み続ける。死ぬまで生きるさ。
そして死んだら、全てが弾けるのだ。共倒れになって、みんなでせーので死ぬのもいい。憎悪と愛情をばら撒いて。自分の死後のことなど考えるな。死んだら最後だ。遺すものなどなくていい。優雅に生きて、野垂れ死ぬその日まで。精々この世に憚って生きるとしよう。温かくて柔らかい優しいものだけが真実だ。満たされて、満たされないままに。壊れたままで生きていくよ。狂ったままで生きるんだ。弱いままで生きていたいんだ。
幸福に野垂れ死ぬその日まで。